福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

蔚山城(うるさんじょう)

 

 釜山から十二里(五十キロ)ばかり北東にあたる慶尚道沿海部の蔚山(ウルサン)に、慶長二年(一五九七)十一月から、奉行浅野幸長及び毛利秀元の武将宍戸元続と加藤清正の兵らによって築城工事が進められ、十二月二十二日には、在番の加藤清正に引き継ぐ予定となった。その二十二日未明、城外の営舎に分宿していた築城部隊に、明・朝鮮連合軍が突如として襲いかかってきた。

 明兵に朝鮮兵が加わった軍勢は五万騎ほどであったが、日本軍の目には百二十万騎にも見え度肝を抜かれた。

 明、朝鮮軍は、まず毛利の武将冷泉元満隊の営舎に火矢を射掛けてきた。営舎はたちまち火に包まれた。

 暁方の思いもかけぬ襲撃に日本軍は狼狽し、城への退路を遮断される前に城内へ入ろうとして闘う者もいない状態となった。そんななかで冷泉元満は、鎧を着て討ってでた。

 冷泉隊の阿曾根元秀、都野家頼も、得武具をひっさげて切りかかっていった。

 冷泉元満は城へ入らずただ一文字に切って掛かり、奮戦して城から二、三町(二、三百メートル)ばかり外で討死した。 

 夜が明けて討死した場所を見ると、元満の討った敵兵が人塚を築いて積累していた。      

 冷泉元満の父隆豊は長州大寧寺大内義隆に忠死し、兄元豊も豊前柳の浦において戦死した無双の勇士といわれていた。親兄弟ともに死をもって名を残したのだった。

 阿曾根元秀、都野三左衛門就勝も切り払い切り払いして城の近くまで退いたが、切っても突いても敵はひるまず遮られついに両名とも討たれてしまった。

 日本隊は敵の囲みを解いて城中へ逃げ入るため、突きのけ、切り払い、やっとのことで城中へ入った。

 別棟にいた浅野幸長の家人浅野左衛門佐、亀田大隅、岡野彌右衛門、森島新吾、太駄源左衛門らも敢然と防戦したが、岡野、森島、太駄は大軍に包まれて討死した。

浅野左衛門佐は敵将の首を取って、高々と頭上に上げながら城内へ入ることを得た。

奉行太田飛騨守の家臣、安原彦左衛門、田井庄十郎、杉三郎兵衛、加藤平兵衛らも抜群の功をあげて入城した。

 しかし、日本軍も宍戸元続隊の深瀬次郎兵衛をはじめとして末兼土佐守、渡邊壱岐守ら百余人が討死した。

 城を受け取る予定であった加藤清正は、このとき、六里(二十四キロ)手前の西生浦城にいた。「蔚山危うし」

 次々と注進が到着した。加藤清正は、ここから隊列を組んで威風堂々と、新築なった蔚山城に入城し、受け取りの儀式を行う予定だった。だからこそ、西生浦に待機し、築城部隊は城の外に小屋を建てて生活していたのである。

「我が籠るべき城を敵に乗っ取られては年来の武功も水の泡になる。この口惜しさを思えば、命ながらえてもなんの益にもならん。ただ、しゃにむに切り払って城へ入るよりほかの手段はない」

 加藤清正の決断は早かった。八千の兵を引きつれて百二十万ともいう敵大軍のなかを突ききるのは不可能だと、わずか百人ほどの軍勢のみを連れて船で夜半に蔚山に着いた。そして上陸するやいなや百人の兵が一丸となって大軍のなかに突入し、わき目も振らずに十重二十重の敵軍を切り破って城内に駆け込んだ。

 城内の将兵は何百倍にもみえる敵軍が襲いかかってきたらひとたまりもあるまい。と絶望感に駆られ、捨石となることを覚悟していたところに、味方の大将が援軍を連れて駆けつけたのである。

 皆が涙を流し泣いて喜びあった。

 加藤清正が入城したことで軍隊が一気に生きかえった。士気がよみがえり闘う気概が溢れてきた。

 もはや城が落ちることはない。と誰もが思った。

 城内では、さっそく浅野幸長加藤清正ら諸将が軍議を行って、それぞれの持ち場を定め堅固な防禦態勢に入った。

 敵の総軍が喚声をあげて攻めてきた。数にものいわせて平攻めで昼夜の別なく強襲してくる。

一晩中くりかえし来攻していた敵が朝八時ごろ鐘を合図に引いて行く。それまでの斬撃がうそのように静かになった。

 入れ代わりに淡黄色と黒色の指物を付けた大将らしき武者二騎が先頭に出てきた。その後方には新たな軍勢が城を睨んでいる。昼攻めの軍勢が出てきて、夜間に攻めていた軍勢は入れ代わって退いたのだ。  

 大将らしき武者が総軍の攻撃を命じた。太鼓を合図にひたひたと押し寄せてくる。

 つかの間の静寂が破れた。先頭の兵は鉄砲玉を防ぐ盾板を背負って後向きに歩いてくる。その後には半弓を持った兵が指を曲げて吹き鳴らしながら攻めてくる。

 日本軍は甲冑を着ける余裕もなく応戦していた。敵を十分に引きつけてから一斉射撃で狙い撃ちする。敵は盾板を捨てて逃げたが、しばらくすると盾を取りに来た。書き付けてある名前を見て自分のを持って行く。

 塀に大きな鉤を引っ掛けて百人もの兵が、その綱に取り付き引っ張って倒そうとする。

 日本軍が鉄砲で狙い撃ちして片端から殺して行く。敵は四、五人になってもまだ、綱に取り付いている。さすがの日本兵もこれには瞠目した。 

 ついに、西の門が危うくなってきた。そこで日本軍は門を放棄して城内に退いた。

 かくて、本丸は奉行の浅野行長、二の丸は加藤清正、宍戸元継らが守って、三の丸へは宍戸隊の一部を守らせようとしたが、この城はまだ塀格子も完成していない状態だったので、誰も進んで行こうとする者がいなかった。

「なぜ、おまえらは三の丸に篭ろうとしないのか、平生蒙っている君恩に対しこんなときにこそ命を投げ捨てて報謝すべきではないのか、口惜しい限りだ」

 宍戸元継が残念に思って言ったので、口羽十郎兵衛、和智庄兵衛の二人が進みでて、

「それがしらふたり罷り通り戦死つかまります」

 と言って三の丸へ下りて行った。

「されば、それがしも」

 日野就柾がつづいて下りて行った。そのとき、

「吉見大蔵大輔ただいま三の丸へ立て篭もられた。後日の為に申し上げる。よく聞きおかれよ」

 三の丸から吉見の郎党が走り寄って大音声で言い捨てると、また、三の丸に引き返して行った。

 さらに、三刀屋監物も進んで三の丸へ下りたので、三の丸の防禦は堅固になった。

 三の丸の門はいまだ完成していなかったので、口羽十郎兵衛が下知して細木や竹の束を門に立て掛け、その後ろに鉄砲隊を配備した。日野や和智らも各々の持ち場を固めて控えた。

 敵が、つぎつぎと猛攻をかけてきた。一斉に石垣によじ登ってくる。

 日本軍も鉄砲で討ち落し槍長刀で突き落とす。敵は続々と攻め上がって来る。上がれば切り落とす。落とせばまた上がる。少しも死を恐れず、太鼓を打って、一刻(二時間)ほどは息もつかせないほどに攻めてきた。このまま半日も攻められれば小勢の日本軍は精根尽きはてて防ぎきれないところだったが、敵は鐘を合図に引き退いていった。

 敵軍はこのように時々休んでいたので、日本軍もその間に兵糧を遣い水を飲んで休息することができた。おかげで小勢の日本軍も城を持ちこたえることができたのである。

 しかし、日夜の区別無く攻めてくる敵を切り伏せ突き倒していくので、槍刀も鋸のようになり鉄砲の弾薬も乏しくなってきた。石垣を築くために集めていた石を投げ落し、あるいは砂を煎って石垣をよじ登る敵兵にまきかけた。

 十二月二十四日(新暦一月三十一日)、宍戸隊の渡邊壱岐守、難波信濃守が歩兵五百人を率いて敵陣へ夜討をかけ多大の戦功をあげた。

 城内には兵糧が二日分ほどしかなく、二十四日には水も食糧も途絶えてしまった。

 このため城兵は壁土を食べ、自分の尿を飲むという飢餓に陥った。 

 蔚山城の危急は次々と日本軍の諸城に知らされた。

 そのころ、吉川広家隊は釜山からおよそ西十二里(五十キロ)地点の固城で日本式新城を築城中だった。

 蔚山が大明勢百二十万騎に攻められて危ない。という注進が次々とくる。

 固城から蔚山までは約二十五里(百キロ)も離れている。

― なぜだ、物見を出していなかったのか。

 百二十万もの大軍に寝込みを襲われるまで気付かなかったということが春昌には理解できなかった。

― 物見の必要性は、日本軍にとって常識となっているではないか。

 春昌には、碧蹄の戦闘で物見として活躍し、日本軍勝利の一端を担ったという自負がある。

 蔚山築城衆の怠慢にただ呆れるばかりだった。もとより、浅野幸長らは、数組の斥候をだしていたのだが、それらは敵軍にことごとく討ち取られていたのである。 

 蔚山城救援のため、小早川秀秋の老臣山口宗永と毛利吉成隊が二十六日に西生浦城に入った。 

 この隊は翌日には数十人の兵を連れて小船で太和江をさかのぼり馬標を振って城中に援軍が着いたことを知らせた。

 二十七日(新暦二月三日)に、黒田長政安国寺恵瓊、竹中重利が、二十八日には毛利秀元が西生浦城に到着した。二十九日、援軍は、蔚山城対岸の小丘に登って城中に馬標を見せた。城中からも馬標が振られてきた。同日、鍋島直茂父子、加藤嘉明脇坂安治蜂須賀家政、長曾我部元親、中川秀成、池田秀氏、毛利勝永、秋月種長、高橋元種、伊東祐兵、相良頼房らも到着した。これにより援軍は一万三千人となった。

 救援軍は蔚山城の手前二里半(十キロ)にある西生浦城に集結し、慶長三年(一五九八)正月二日、西生浦城を出発して翌三日には、蔚山郊外一里(四キロ)地点にある高地に先鋒部隊が布陣した。援軍は小丘陵に旗を揚げて、援軍の到着を籠城軍に知らせ、士気を鼓舞した。

 蔚山城の危急を聞いた吉川広家は急いで兵を進め、正月一日にはカトガイという渡しまで着いた。

 しかし、この河は凍結していて一艘の船がやっと往来できる状況だった。

 このため多勢がいちどに越すことはできない。

 吉川広家は、馬一匹に旗本の兵千人ばかりを選抜して舟に乗った。

 舟の上には、吉川肥前守、松岡安右衛門尉、二宮兵介、福冨與右衛門尉春昌、森脇作右衛門尉、綿貫理右衛門尉、三浦傳右衛門尉、垣田加兵衛尉、長新右衛門尉、二宮六右衛門尉、松浦隠岐守、井上六左衛門尉、森脇又右衛門尉、松井出左衛門尉らが揃っている。

 いずれも、馬を残し、徒歩戦を覚悟して若手の将士ばかり集めた。

 春昌も選抜されていた。このことは吉川広家が春昌の武功を認めてくれていることの証しにほかならない。

― やるぞ。

 冬の木枯が吹きすさぶ船上で、かじかむ手を両脇のなかに隠しながら沸き立つ戦意に心を熱くしていた。

 その夜、丑の刻(午前二時)ごろ釜山浦に着き、二日には西生浦に到り、三日には蔚山へ着陣した。

 日本軍の援軍が次々と到着するのをみた明、朝鮮軍は、一気に蔚山城を落すべく、四日の子の刻(午前零時)を期して猛攻をかけてきた。卯の下刻(午前七時)ごろまで闘って籠城軍は、からくも撃退した。

 吉川広家は直ちに毛利秀元へ到着の挨拶に赴いたところ、陣所では毛利秀元重臣らにる軍評定の最中だった。春昌ら吉川隊の将官は、毛利秀元の姿を見つけるとあわてて入口に平伏したが、広家はドカドカと前に進み、評定中にもかかわらず、立ったまま毛利秀元重臣らに向って、

「その方らの陣の取りざまは納得いかん。敵陣までわずか三町(三百メートル強)ほどとはいえども、一戦に及ばんとするときに、河の渡し口から遠く離れていたのでは、他人に遅れを取ってしまうではないか。渡し口ちかくに陣を取り替えるべきだ。陣はひとえに敵陣近くへ取るということを常に心得るべきであろう」

 将兵の面前においての暴言だった。吉川広家毛利秀元重臣らに言っているが、それは毛利秀元へのあてつけにほかならない。秀元は毛利宗家の跡取として養子に入ったものの、もとは元就の四男稲田元清 の子であり、広家にとっては従兄弟になる。しかし、このとき秀元は若干十八歳であるが広家は三十六歳である。毛利宗家の継承順位は、広家が先だとでも思っているのか、秀元に対しては尊大な態度を崩さなかった。ちなみに、その後輝元に実子秀就が生まれたことから、秀元は別家をたてられて長府毛利氏となった。

 これまで毛利元就の説いてきた、『三本矢の精神』により毛利、吉川、小早川が一本の矢となって力を合わせ毛利家をささえてきたのだが、吉川広家の振舞いは、それらをまったく無視する行為なのだ。主家に対する畏敬がなくなっていることに春昌は気付いていた。

「それがしも、その議をさきほどから申していたのでございます。それがしは、いまだ高名は取っていないといえども先祖直実いらい数代にわたって勇名を顕わしていることは人の知るところでござる。それがしも元春さま、元長さま、広家さま三代の先を駆け武芸の法は見習い、聞き習いしている。評定の面々にも仰せのごとく申してきたが、それがしの言うことは受け入れられなかったのでございます」

 声を荒げて言う熊谷直実の言動も主君をないがしろにしている。

 毛利秀元は、座を荒らされながらも黙っていた。 

― 三本の矢が緩んでいる。

 春昌は毛利体制の固縛が緩んで歪が生じていることを感じていた。毛利三家の行く末をみたような気がしていた。

 つづいて、吉川広家黒田長政蜂須賀家政の陣へ赴いたところ、両人は軍議の最中であり、広家に向って黒田長政が言った。

「このように敵を討たずにいたずらに守ってばかりいて、もし、その間に城が落ちてしまっては取り返しがつかないと思うので、明日、河を渡って決戦すると定めてございます。

 明日の一番は黒田長政、二番は鍋島加賀守、山口玄蕃允、脇坂中書、三番は毛利秀元と評定一決してござります。侍従殿も良き折に御着陣なされたので御意見を賜りたい」

「受けたまわるところの評議にいささかの異論もござりません。それがしの手勢も今日中には到着いたしますが、たとえ間に合わなくとも、ただ一騎にても討ち入り太閤公へ身命を奉って忠戦をする覚悟でございます」

 対岸の蔚山城を取り囲む敵勢を見ていた黒田長政吉川広家を振りかえった。

「それにしてもおびただしい敵勢ですな、先年高陽へ出張ってきた唐勢よりはるかに多いように見える、日本兵の押さえとみえて河の渡し口に陣取っている赤いは、まさしく朝鮮人とみえるがこれも二十万人はいる。この勢だけでも、先年小田原城を取り囲んだ勢よりもさらに多くいるでありましょう。日本人が一人で敵を十人づつ切り捨ててもなおあまりあると思えます」

「おおせのごとく眼にあまる大軍のようです。さりながら敵があまりにも大軍だということは、敗亡の端にこそ見えます。あの大軍では、いかなる将であっても意のままに動かすことはできないでありましょう。今、見る限りでもバラバラになっております。ごらんなされ陣中に火事でも起きたのでしょうか、あるいは何かに怯えているのか皆が騒いで静まるようすもありません。今、手先の陣へ夜襲でもしたら、もろく崩れて、それが全軍の大崩を引き起こすでしょう。敵勢が三十万ぐらいだったらかえって味方にとって由々しき大事であったでしょうが、百万にあまる軍勢こそかえって潰しやすいと存じます」

「まことにもって、そのように思いますな―」

 広家の意見に黒田、蜂須賀の両名があいずちを打った。三人の周りでは足軽が馬の行き脚を止めるために、枝の張った松を三尺あまりに切って用意している。これは唐勢らは弓馬がうまく、これまでにいくども辛酸をなめさせられていることから、その防御柵とするのだ。日本軍の弱点を衝かれれば、ただちにその対策を考え実行する。鉄菱を撒かれれば板を渡し、兵が高ければ土手を築いてその上に櫓を組む。これが日本軍の強みであった。

 広家は河ちかくに陣を構えるつもりで、小高い丘の上で馬をおりた。ここからは、敵陣のようすが遠望できる。

―高陽で見た明、朝鮮連合軍より、はるかに多い。

 春昌は碧蹄館の戦闘のとき偵察隊として、高陽で集結している明、朝鮮連合軍を五十万騎とみた。今回は、それよりはるかに多い。

 敵を窺っていた広家が、突然、春昌ら将官を集めた。

「敵陣をみよ、何やらもの騒がしくみえるではないか、もしかしたら退却するつもりではなかろうか。大軍が退却するとなると必ず総崩れとなってしまうものぞ、敵の後陣をよく見てみろ」

 広家の眼は遠くの敵陣を見つめたままである。春昌らも言われるままに目をこらした。

 なるほど、敵は、小荷駄に物を負わせて移動の用意をしている。

「そのようでございます」

 二宮兵介が答えた。

「よし、一番に追撃して討ち取ってやる」

 春昌ら将官がサッと散って自分の指揮する分隊へ走り寄って行った。

 広家の旗本衆による本隊を中心にして、その両翼に各分隊が広がっている。鶴翼の陣と呼ばれる戦闘隊形である。

 吉川隊将兵に緊張が走った。

 あと数刻もすれば陸路を通ってこちらへ向っている残りの兵二千が到着する予定である。それらが到着すれば、将官の軍馬も揃う。なのに広家は今、手持ちの一千名で直ちに追撃すると言った。

 広家が馬に飛び乗った。

「いくぞ、思う存分にやっつけろ」

 決然として命を下した。

 広家の下知に将兵が騒然となっているところに、安国寺恵瓊が現れて広家の前に立ちはだかった。

「侍従殿には、物がついて狂われたのかな、総攻撃は明日と定められておりますぞ。軍法を破るということは、はなはだ由々しきこと。 その上、百万の大敵に五百騎や千騎で仕掛けては、いたずらに犬死して敵に利を付けるばかりか永代の恥辱になりますぞ」

「いかに安国寺、それがしへの軍だては控えろ。施餓鬼の仕様、行道の折りようなどこそ知るべきであろう。弓矢を取る術は武士が知るものぞ」

 安国寺恵瓊にしたたかな罵言を浴びせると、馬を敵陣にむけ駆け下って行った。坊主は、戦に口出しするな、御経を唱えておればよい、戦は武士がするものだ。と言ったのだ。安国寺恵瓊毛利元就に滅ぼされた安芸の守護武田氏の一族といわれている。 足利尊氏が建立した安芸国安国寺の住職で外交僧として毛利の禄を食む身分でありながら、いつの間にか秀吉に大名として遇されている。広家にとっては許すことのできないことだった。

 しかしながら、いまや小早川隆景にも対等の立場で話しあえる人物である。それをまったく無視した広家の言動だった。

― それにしても、言いすぎではないか。

 春昌は思った。

 一千人の吉川隊は騎乗の広家を中心にして、全軍がダッダッダと足踏みを揃え、力強く水しぶきを跳ね上げている。敵軍と渡り合う体力を維持するために全速での突撃を避けて小走りに河を渡っているのだ。百二十万騎にもみえる敵の大軍にわずかな軍勢で突入してもたちまち踏み潰されてしまうかもしれない。しかし、吉川隊は、まるで巨大な一匹の生き物のようになっていた。

 春昌も福冨隊として九十名の兵を率いている。春昌の愛馬は、まだ着陣していない。

徒歩で先頭を走りながら、敵陣をみると大軍のなかに戦慄が走っているのがよく見える。敵もあわてふためいている。今なら、組織的な防禦戦闘はできないだろう。敵の態勢が整うまでに一時も早く到達しなければならない。

― 馬が欲しい。今、騎馬隊が突っ込んだらおそらく敵はたちまち崩れるであろう。

 吉川隊は猛然と敵大軍の前衛に突入した。

 福冨隊九十人は、春昌を先頭に一個の集団となって敵の大軍に突入している。

「単騎決戦に挑むな、密集隊形を崩すな。」

 春昌は凛と響く大音声で兵を励ましながら戦っている

 敵は日本人ではない。日本国内のような単騎決戦型の戦い方では通用しないということを、これまでの朝鮮在陣で会得している。日本軍は足軽の槍が敵のものよりはるかに長いので密集隊形を崩さない限り敵には負けない自信があった。

 ワーッと敵軍が割れて逃げようとする。その先から呉惟忠、茅國器の兵が鉾先を並べて反撃し、激しく切りむすび突きあっていたが、敵はたちまち突きたてられて一気に崩れ去った。このとき黄幟を持った漢南勢も後方から引き返してきて立ちはだかった。広家は、士卒を叱咤してわき目も振らずに敵の真中に切り込んだ。

 敵軍のなかから一人の騎士が、広家だけを狙って槍を突出してきたが広家はこれをものともせず、たちまち敵を馬から落して首をかき切った。

 福冨隊の前に敵の騎馬隊が足並みを揃えて疾走してきた。

「集まれ、穂先を揃えろ石突を地につけよ。」

 春昌の号令に福冨隊将兵が密集隊形をとって、片膝立ちになり槍襖をつくった。槍尻を地につけている。

「馬の胸元を刺せ」

 昔から武士の戦いに敵の馬を射ることなどもっての外とされてきた。

『武士にあるまじき卑怯』なのだ。ところが、明軍は『将を射んと欲すれば馬を射よ』である。さきの文禄の役では春昌もいやというほど見せつけられてきた。

「目には目を歯には歯を」だ。

 ドドドッと勢いをつけて飛び込んで来た先頭の騎馬が次々と胸元に槍を受けて宙を飛ぶようにもんどりうった。地についた槍の石突が支点となって馬を跳ね飛ばしたのだ。

 騎馬の背から落ちてきた敵兵を日本軍が次々と殺していく。

 春昌の編み出した戦法である。

 つづいて、吉川肥前守、森脇作右衛門尉、松岡安右衛門尉、二宮兵介らが敵の将官らしき人物を討ち取った。このため敵は逃げようとする兵が大軍を揺るがし、混乱がたちまち全軍に広がって我さきにと逃走して行った。

「ウワーッ」と喜びの嬌声をあげながら籠城軍が城からでてきた。みなが痩せこけてあわれな姿である。もはや病人でしかない。這うように川岸に群がり水を飲んでいる。このような状態で大敵を迎え撃ち撃退してきたのかと思うと、春昌には、驚異でしかなかった。

 そこへ、攻撃は明日だとのんびりしていた日本軍の他隊も、突然寡勢でもって百二十万の敵軍に突撃して行った吉川隊をみて、あわてて追ってきた。

 広家の前に垣見和泉守がやってきた。

「垣見どの見てくれましたか」

「いちだんと見事にござります」

 垣見和泉守が馬上から叫ぶように言いながら、退却する敵を追って馬を走らせた。

 早川主馬が馬を寄せてきて、

「一番で突入されたこと、一番高名比類なき御こと、つぶさに見届けてございますので、太閤公へ披露仕ります」

 よくとおる声で祝辞を述べた。

「ありがとうござります」

 広家が丁寧に礼を言う。

 黒田長政ら日本軍も追撃して四百五十に及ぶ首級を取った。

 救援軍の諸将は、その夜のうちに蔚山新城に入って籠城軍と劇的な再会を果たした。

 広家のもとに諸将が集まってきて、祝ってくれている。

「さてさて、吉川侍従どのは、なんと見極めて一番に掛かっていかれたのか。そのおかげで、敵は敗退し、味方が大勝利を得たこと、侍従どのの武功によるものでござりますぞ」

「敵軍のようすを窺っていますと、退却の用意をしていたように見えましてござります。そのことは、百二十万の勢すべてが、すでに闘う気力を無くしていることでござります」

 広家の説明に、

「なるほど、良いところに目をつけられた」

 諸将が感心している。

 蔚山城は半月に及ぶ籠城に持ちこたえ九死に一生を得た。

「唐勢は、まだ遠くへは逃げていまい。追撃して敵をことごとく討ち取ろうぞ」

 熊谷内蔵允らが主張した。

「このような大軍は、引いて行っただけで味方の大勝利であり、このうえわずかの勢で追いかけてもせんのないことでござる。」

 垣見和泉守が制している。

 諸将の意見が食い違ってまとまらない。熊谷内蔵允は、我一人でも追撃して行くと気色ばむ事態となった。

「勝ちて兜の緒を締めよとは、このときのことを言うものでしょうぞ。侍従どのはどう思われますか。」

 黒田長政が皆を押し静めて、広家の意見を求めた。

甲州(黒田)どのの言われること尤もと考えます。皆さんも甲州どのの意見に任せられてはいかがでしょうか」

 今日の軍功は侍従どのが第一なのだから、侍従どのの意見に従う。と諸将が納得した。  

 日本軍は一騎がけで救援にきたため、食糧も乏しく、兵も少なく、これ以上の戦をする余裕がなかったのだ。

 蔚山救援軍は、いまだ敵が近辺に残っているかも知れない。臆病神が抜けきれないうちに討ち取れと、二、三千単位の威力偵察隊をだしたが、蔚山城の一、二日行程の地には人影もみえなかった。それもそのはずである。このとき明軍は、「士卒死亡二万」と「明史」に記録されるほどの損害を受け、日本軍の追撃を恐れて漢城まで逃げ去っていたのである。

 日本軍は西生浦の兵と蔚山篭城軍とを交代させて休養をとらせるとともに、蔚山城の完成を急ぐこととして救援軍はそれぞれの守備地に引き揚げて行った。

 この戦で討死した都野三左衛門就勝は、江津千金(ちがね)の月出城主である。父明尊の代に津野家重臣、島田麻呂を福冨の分家である山根儀右衛門の養子に迎えたこともあり、爾来、親交を重ねている。外征の徒で殪れてしまった就勝の無念を思い、春昌の落涙はとどまることを知らない。

 慶長三年五月、蔚山城の普請が成就した。

 小早川秀秋宇喜多秀家毛利秀元、浅野長慶ら七万余人に太閤秀吉から帰国命令がでた。

 これにより、朝鮮に残ったのは蔚山城の加藤清正、西生浦城に黒田長政、釜山城に毛利吉茂、竹島城・昌原城鍋島直茂父子、古泉(固城)に立花親成(統虎)、泗川城を島津義弘、南海城に宗義智、順天城に小西行長らが守備隊として残り、その勢も六万四千人のみとなった。

 六月、春昌も一年ぶりに福光下村の山崎屋敷に帰国した。

― この度も無事に帰り着くことができた。

 高麗出征日本軍は、個々の戦闘では勝っていた。だが、全体では負けたと春昌は思っている。 

 高麗に渡った将兵二十八万人の三分の一が死亡した。

 敵によって殺された者はわずかだった。その一番の要因は、朝鮮半島の冬と食糧不足そして病魔であった。日本軍は想像を絶する酷寒を経験した。雪灼け(凍傷)で手足が腐り鼻の落ちた兵が続出した。まさに地獄であった。

 日本に帰りついた吉川広家隊もずいぶん少なくなっていた。みんな痩せこけて哀れな姿をさらしている。凱旋なんてとんでもない、まさに敗残兵だった。

―疲れた。

 春昌の本音だった。三十歳の心身は芯の底まで疲れ切った。

 それにしても、太閤は、空虚な戦をしかけたものだ。

 あしかけ七年にもおよぶ無意味な戦をしかけて、結局得るものもなく撤退した今回の出征に、深い失望感を抱いていた。

 武士にとっての使命は戦うことである。春昌は死力を尽くして戦った。そして生き残った。しかし、春昌の脳裏には朝鮮で戦死、病死した同僚らの顔が焼き付いている。

戦で死ぬことには諦めもつく。だが、あまりにも病死が多すぎた。

内藤平左衛門尉、杉谷彌右衛門尉、森脇助兵衛尉、高橋彌左衛門尉、河口刑部少輔、長和三郎右衛門尉、栗栖理兵衛尉、朝枝二郎右衛門尉、柏村二兵衛尉ら朝鮮在陣で病死した同僚の顔が去来する。

― 多くが無駄に死んでいった。

 心が痛む。春昌の頬を涙が伝って落ちた。対外戦争の苛酷さ無惨さが身にしみた。

 ただひとつ、春昌にも得るものがあった。綿花から糸を紡ぎ、布を織るという工程を知ったことである。当時、綿布は朝鮮から輸入していたものであり、高価で量も少なかった。麻布が、日本人の衣生活そのものであった。

 綿布は、柔らかくて肌ざわりがいい。それに温かい。さらに中綿として綿花を入れるとどんな酷寒でも耐えることができるのだ。

 春昌は、持ち帰った、ひと袋の綿実を、

― うまく育ってくれよ。

 いちいち念じながら屋敷周辺の空き地に植えた。

 

 綿花の紡織法は、遠征した将兵たちにより、たちまち日本国内に広まり、それまで麻によっていた衣生活を革新した。

 

 吉川広家は諸将とともに伏見へ上り、太閤に謁見した。このとき、早川主馬、垣見和泉守が太閤の前において言上した。

蔚山の合戦において、加藤主計頭どのが無二の覚悟にて城中に入らなかったら、城は三日ももたずに落城してしまったでしょう。加藤どのの武威は人間の業とも思えず、また、合戦は明日と定めていたにもかかわらず、敵の様子を見極め、わずかの勢で一番に駆け行った吉川侍従どのの戦功もまた他にぬきんでております。このことは安国寺どのもよくご存知のことでございましょう」

「言上のごとく、ご両人の比類なき働き加藤どの吉川どのとも同等でございます」

 安国寺恵瓊が太閤に折り伏して賛同した。これにより、太閤は吉川広家伯耆半国、出雲三郡、隠岐一国を与え、その後も闕国があれば遣わす。と黒田如水を通じて吉川広家に内示があった。さらに東伯耆三郡、因州の蔵納その外本領と合わせ三十万石余を与えてはどうかと言った。石田、安国寺は、「仰せのとおりでございます。」

 といって退出したが、やがて二人は、示し合わせて太閤のもとに行き、

「吉川の朝鮮における数回におよぶ戦功により伯耆一国ならびに因州の御蔵所を与えなさるのはごもっともと思います。さりながら、今すこし御思惟くださるべきかと思います。かの者、戦功は大変なものでございますが、元来、大機な者であり、このたび蔚山においてもわずか千騎で大敵百二十万騎のなかへ、諸将と協力することもなく一番に突入するほどの大胆不敵な仁でございます。また、明日と定められた軍法を破ったこともいかがかと思います。この者が手勢を二万も持ったならば、この後に天下に対していかなる企てを起すやも分かりません。この度は、まず金銀珍宝等のご褒美で済まして加増の議はご思案くださるのがよろしいかと存じます」

と告げ口した。

 石田三成は、もともと吉川広家と仲が悪く、安国寺恵瓊蔚山で広家に浴びせられた罵声に立腹しての仕業であったのだった。太閤は三成に任す旨を言っただけだった。

 このことを伝え聞いた吉川広家が激怒、やがて起きる関が原の戦いにおいて西軍に属しながら石田三成を見捨てる因になったのである。