福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

慶長の役

 

 慶長二年(一五九七)七月、十四万余の大軍勢による日本軍の再征が始まった。

 文禄三年から行(おこな)ってきた明国との講和が、破れてしまったということだった。

 特に、秀吉が講和の条件としている『朝鮮王自身が秀吉の前に伺候すること』が無視された怒りから、

「朝鮮征伐だ、二王子を捕らえよ」

 太閤の下知が下りた。

 こんどは、文禄の出兵とは違う。

「老若男女も僧侶も身分の低い者も、皆殺しにせよ」というのが太閤の命である。

 文禄の役では、住民はできるだけ殺さず支配して年貢を取ることを目的とした出兵であった。治世、経営を目指したのだ。その結果、民衆の頑強な抵抗にあった。

 今度は征伐だ。特に、赤国(全羅道)は一揆により征服できなかった地である。太閤は「赤国残らずことごとく一篇に成敗」と全羅道の殲滅・攻略に重点をおいた。

一揆」に対しては、容赦なく全住民の虐殺を行なうことが、織田信長いらい繰り返されてきたことなのだ。

 戦場での手柄の証しには首級に代えて、鼻を秀吉のもとに送らなければならない。

 日本軍は、はやり立って出発した。

 

 その部隊編成は、一番隊・加藤清正(一万人)、二番隊・小西行長、宗 義智、松浦鎮信有馬晴信、大村喜前、五島玄稚(一万四千七百人)、三番隊・黒田長政、毛利吉成、毛利勝永、島津忠豊、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、相良頼房、(一万人)、四番隊・鍋島直茂、勝茂父子(一万二千人)、五番隊・島津義弘(一万人)、六番隊・長曾我部元親、籐堂高虎、池田秀氏、加藤嘉明来島通総、中川秀成、(一万三千二百人)、七番隊・蜂須賀家政、生駒一正、脇坂安治、(一万一千一百人)、八番隊・毛利秀元宇喜多秀家(四万人)となった。その他、小早川秀秋、立花宗虎、高橋統増、筑紫広門、小早川秀包、浅野長慶らが朝鮮在城の守備隊として、二万三百九十人が配された。総勢十四万一千四百九十人という陣立となった。

 今回は全軍が足並みを揃えて、全羅、忠清の二道攻略を目標と定められ、一番隊と二番隊が二日交代で先鋒を務めることとなった。

 吉川広家隊も再征の徒についた。

 九州の名護屋に通じる西国街道には、暗い顔をして鎧櫃を背負い、槍をかついで黙々と歩いている人の列がつづいている。

 春昌は三年半にしてまたもや朝鮮出兵に従軍しなければならなかった。すでに二十九歳になっている。

―こんどは、戻れないかも知れぬ。

 不吉な予感が、ふっと脳裏を掠めた。暗澹として重苦しく胸を締め付けられた。ふたたび帰ることのない出征と諦めた、生き抜こうとすれば気は重く苦しい。死を決してしまえば気が楽だ。とはいうものの、死ぬとは思わなかった。おのれの周りの者、皆が死んでも、自分は生きて帰れると思った。

 春昌の所領福光下村に近い井田村で出征を拒否した地侍がでた。文禄の遠征で高麗の凄まじい寒さと飢えに耐えられなかった気持ちは分り過ぎるほど分る、また、日本国内であったなら敗戦しても退却するところがいくらでもあるが、外地では逃げるところもなく、日本へ帰ってくることも困難だろう。しかし、徴兵を拒否すれば抹殺される。井田村を支配する岩城の下井田兵庫介は、この地侍一族郎党ことごとく成敗したという。他人事とはいえ、春昌も暗澹として重苦しく胸を締め付けられた。

 かって、戦といえば、おのれの所領を増やす千載一隅の好機と勇躍、出征していたものだった…

この度は、春昌も、すでに逸る気を失い諦めの出征であることに気づいていた。

 

 この戦では毛利輝元の代わりに甥の秀元が出征し、小早川隆景には小早川秀秋が代わって出征した。

 小早川秀秋は太閤秀吉の甥である。太閤が木下秀秋を毛利輝元の養子とするよう申し入れてきたとき、名家毛利の血統を守るため、小早川隆景の養子として秀秋を迎えたもので文禄三年(一五九四)のことであった。当時、秀秋は十三歳である。

 小早川家重臣小早川秀秋を「金吾」と呼んでいた。若輩とはいえ左衛門督の官名をもち筑前五十二万石の当主である。にもかかわらず「金吾」と呼ぶことについて、春昌は、不思議だと思っていた。後になって分かったことだが、金吾とは左衛門督を唐名で呼んだものらしかった。

 それにしても、戦の仕様も知らない若輩を殿と崇めなければならない小早川家重臣らの気持ちを思うとき、左衛門督と呼ばないで金吾と呼ぶ気持ちは春昌にも理解できた。

 秀秋は蔚山城の守備を命じられ、五月二十二日に大坂を発った。六月二十二日に名護屋を出帆して七月二日に釜山に着いた。だが、秀秋の義父小早川隆景は秀秋が出帆したその日に六十五歳で急逝した。

 再征軍は太閤秀吉の命令により、まず全羅道、続いて忠清道を攻略することに目標が置かれた。この二州は朝鮮半島のなかでも最もいい穀倉地帯である。

 

 八月十二日(新暦九月二十三日)、宇喜多秀家を大将として島津義弘小西行長宗義智蜂須賀家政ら五万六千八百余の軍勢が、左コースをとって釜山の西三十七里(約百五十キロ)にある南原城を攻め、四日後に陥落させた。同城は文禄の役で侵攻できなかった全羅道の要衝で明、朝鮮連合軍四千人が防衛していたものである。

 

 吉川隊の属する毛利秀元を総大将とする加藤清正黒田長政鍋島直茂長宗我部元親らの兵六万四千三百人は、釜山から右コースを進んで八月十六日には黄石山城を落とし、続いて全羅道の道都である全州を占領、ここで左右両軍が合流した。

 右翼軍は、さらに忠清道へと向った。

 

 

 

 日本軍の食料事情は、ますます悪くなってきた。搬送が間に合わないのだ。

 特に、生野菜の欠乏は身体に影響がでてきた。体がだるくなり顔色も土気色をしてきた。周辺の田畑は雑草ばかりで、野山にも食べられる野草は少なかった。タンポポ、野蒜(のびる)はあったがこれも季節限定のものだ。

 日本兵は必然的に現地調達を行うようになっていた。日本軍が行く先々の村は日本軍の虐殺を怖れて逃げ去っていたから、どこへいっても無人となっていた。

静寂に包まれた小邑はたちまち絶好の略奪対象となり、兵らは目の色を変えて物色していった。家から出てきた兵は持ちきれないほどの略奪品を背に括り付けていた。

 どの家でも、食料品は発見できないらしく、皆が衣類を多く持っていた。これら衣類は、これから迎える酷寒に向けて、日本人に合うよう加工するのだ。

 だが、肝心の食料は発見できなかった。

 ある日、春昌も無人の家屋に侵入した。村では裕福な家だったらしく、家具や調度品が整然と据えられていた。その引き出しや扉がすべて開いたままで中には何も残っていなかった。足の踏み場もないほど荒らされていた。すでに、日本兵が物色したようだ。

「変だな。日本兵がこの村に入るのに時間はかかっていない。食料はどこへ隠したのかの」

 平助がつぶやいた。

「そうか」

 春昌が突拍子もない声をあげた。

「なんです、殿」

「わかったぞ、平助。おまえならどうする」

「・・・・」

「どこへ隠すのかということだ」

「そうですの、裏山があれば隠すところはいくらでもあるのですが、ここから山は遠いし、そんなところへ隠しても日常の生活が大変だ。・・・というと、この家に有るということですか」

「そうだ。ここにある。・・・・はずだ」

 春昌の顔は自身に満ちていた。

左兵衛らは天井を見た。天井には隠匿できるような場所はなかった。

座敷の床板を荒々しく剥いでいったが何もなかった。

「あそこを掘ってみよ」

 暗い土間を透かし見ていた春昌が、入り口を入ったすぐ右手奥の壁際を指差した。

 暗さに目を慣らしてから凝視すると、土間の土は踏み固められて艶がでていたが、そこだけ土の色に艶がなかった。

 弥助と平助が手で土を掘っていった。

「あった」

 穀物を入れてある袋が六つ積み重ねられていた。

「よし、全部を儂の馬に載せろ」

 春昌は、自分の騎乗する馬に穀物袋を負わせた。ふしぎに罪悪感は生じなかった。敵地で命のやりとりをしているということが、善悪を判断する心を麻痺させていた。

 

 黒田隊が九月八日(新暦十月十八日)、稷山で明軍の騎兵部隊と会戦し、苦戦していたところに毛利隊が横から襲撃して明軍を撃退した。黒田隊の戦死者二十九名、明軍の死者二百余となった。

 緒戦で大勝利をおさめていた日本軍も、明軍が現れると次第に旗色が悪くなっていった。

 慶長二年(一五九七)九月半ばになると、日本軍はそれまでに占領した地を放棄して釜山方面に向かって撤退した。明軍の圧迫に耐えられなくなったのである。これから迎える酷寒を日本からの補給容易な南岸地帯で越し、翌年の雪解けを待って一気に侵攻することとした。