福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

落陽

 

 文禄四年(一五九三)十二月、春昌も一ヵ月余りの養生で健康を回復していた。

徴用されていた内田屋の船が帰ってきた。さっそく石見国へ玉鋼の仕入れに行くというので春昌も乗せてもらった。

博多を出た船は、冬の西風に押されて、それこそ、あっという間に八神屋に着いた。

 

福光に帰り着いた。

数日前に降った雪が、わずかに草の葉に残っている。

 柿木の枝先にただひとつ残る熟柿を、数羽の小鳥がせわしなく食べていた。

― やっと帰れた。

 安堵が春昌の心を覆った。今、久しぶりに福光の大地を踏みしめる喜びと有難さに感謝した。

 じつに三年半もの間、朝鮮に在陣していたことになる。

 だが、春昌の帰国を待っていたものは小笠原家臣団の崩壊と四ッ地蔵城廃城であった。

 父明尊は幾多の武功に輝く七郎左衛門の名を與兵衛と改めていた。

「四ッ地蔵城の始末は当主である春昌の手に委ねたかったが、なにぶんにも太閤の命は性急だった。『ただちに取り潰せ』ということであった」

 與兵衛明尊が申し訳なさそうに言った。

 明尊は、すでに齢六十三になっている。二間(三・六メートル)もある赤柄の十文字槍を小脇にかかえ、さっそうと悍馬にまがっている勇姿は過去のものになっていた。凛とした威厳にひとかけらのゆるぎもなかったが、春昌は父がずいぶん小さくなったと思った。

「ひどい戦でした」 

 春昌がポツリと言った。

 

「そうか、夕は元気であったか年はとっても美人であろうの、若い時は美人だったからの…そうだの、いちど行ってみるか」

『博多にお出でください』との、お夕のことづけを聞いた明尊が、いとも簡単に言ったものである。

 明尊も永禄年間に筑前と日向へ出征したことがある。このときは小笠原軍団の一員であったため内田屋に寄る自由がなかった。

 今は違う、隠居の身だ。しかも小笠原家を致仕し百姓となった気安さから旅にでる気になったらしい。

 半月後、明尊はひとりだけで博多へ向けて出発した。単身で旅をすることなどは、城持ちのときのような威儀をただす必要がない、気楽な隠居の身だからできることであった。

 あちらこちらを見物しながら、のんびり旅をしたいと陸行にした。

「太閤の造った名護屋街道を見たい」

 秀吉は、征明のため諸国に命じて、大坂から名護屋間の道路や橋を架けさせ、一里ごとに二人ずつの飛脚をおいた。街道は整備され賑わっているという。

 これまでは、旅をするには全行程分の食糧や鍋を持参し、自炊しながら進行するのが常であった。秀吉はその不便を取り除いた。わが身ひとつ、手ぶらでの旅を可能にしたのであった。

「できれば、名護屋まで足を延ばされたらいかがでしょう、五層の天主閣をもつ太閤の城は、実に壮大です」

「信長の草履取りからなり上がった秀吉の城か」

「その草履取りに全国の将が平伏しています。武家の家柄なんてかなぐり捨て、屈辱に身を震わせながらも、笑顔を繕って秀吉に媚ている。九州のさる大名などは、我が正室を秀吉にさしだしたという噂もあります。もはや、秀吉に敵うものはおりません。名護屋城は西国大名がわずか三年で建てたものですが、その規模といい、美しさといい、並のものではありません」

「情けないことよの、武士の矜持も捨てたのか、…一度、行ってみるか」

 明尊は山陽道経由で博多へ向った。