福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

東莱城 

 日本軍は太閤秀吉の命により釜山周辺まで退いて、沿海地域十八ヵ所に長期駐屯のための築城を始めた。

 吉川広家隊には東莱城を割り当てられた。

 東莱城は釜山城の北東二里ほどのところに位置して、朝鮮では甑山城(そうざんじょう)と称していたが、文禄元年四月十四日、小西行長隊らが二時間で陥落させた城である。元来、朝鮮の城はそのほとんどが邑城と呼ばれるもので、村落全体を高い城壁で囲っただけのものだった。

 城壁は、土や石で堅固に造られていたが、突破されれば後は本城まで何の障害物もなく、防禦的には日本の城よりはるかに劣っていた。

 吉川広家は朝鮮式城郭では役にたたないとして、城後方の山に準日本式の高い石垣を築いて本丸とした。その周辺に段々畑のような曲輪をたくさん造って二の丸、三の丸館を建て、城の周りは竪堀や空堀で二重、三重に防禦線を築いた。

 東莱城は橋頭堡的な性格をもつ日本独特の堅固な平山城となった。このような日本式の城を明、朝鮮人は、倭城とよんでいた。『倭』とは、中国、朝鮮で用いた日本の蔑称である。この漢字のもつ意味は隷属である。古代から、中国は強大な力を誇っており、周辺諸国は中国を尊崇し臣下の礼をとって朝貢する藩属国とみなしていた。さらに、日本を中国、朝鮮より劣った野蛮な国であると侮蔑した呼称なのだ。

 

 七月二十七日(新暦・八月二十三日)、太閤秀吉から東莱城の守備兵を三千人と定められた。三千人という数は、吉川広家隊にとってほぼ全員に近いものとなっていた。

広家は、傷病者のみを帰国させて残りの全員が守備隊となった。

 

 

 文禄三年(一五九二)に入ると休戦状態に入ったため、戦はなくなった。春昌らは、城の拡充に追われていた。

 しかし、そのころ朝鮮在陣将兵の間では、

「太閤秀吉自らが高麗から大明へ攻め入って、後陽成院を大明の帝王、豊臣秀次をの関白職、毛利輝元宇喜多秀家を左右の大臣、そのほか西国の大名衆をことごとく大明へ渡し、その領している日本国内の国々には、わが旗本の武士を据える」

 ということを考えているらしいと伝え聞いて、

「それでは戦功を賞せられることではなく、いまだ見た事もない異国の地に遠流の身となることでしかない」

 西国大名諸士が嘆き落胆した。