福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

蔚山城(うるさんじょう)

釜山から十二里(五十キロ)ばかり北東にあたる慶尚道沿海部の蔚山(ウルサン)に、慶長二年(一五九七)十一月から、奉行浅野幸長及び毛利秀元の武将宍戸元続と加藤清正の兵らによって築城工事が進められ、十二月二十二日には、在番の加藤清正に引き継ぐ予…

慶長の役

慶長二年(一五九七)七月、十四万余の大軍勢による日本軍の再征が始まった。 文禄三年から行(おこな)ってきた明国との講和が、破れてしまったということだった。 特に、秀吉が講和の条件としている『朝鮮王自身が秀吉の前に伺候すること』が無視された怒り…

落陽

文禄四年(一五九三)十二月、春昌も一ヵ月余りの養生で健康を回復していた。 徴用されていた内田屋の船が帰ってきた。さっそく石見国へ玉鋼の仕入れに行くというので春昌も乗せてもらった。 博多を出た船は、冬の西風に押されて、それこそ、あっという間に…

帰国

文禄四年(一五九三)閏の九月、吉川広家は太閤秀吉の命により諸将とともに帰国することとなった。 このとき春昌も帰国した。 朝鮮釜山浦上陸以来三年半にも及ぶ朝鮮進駐であった。 これにより、守備隊として朝鮮に残留したのは釜山城に宗義智、有馬晴信、松…

東莱城 

日本軍は太閤秀吉の命により釜山周辺まで退いて、沿海地域十八ヵ所に長期駐屯のための築城を始めた。 吉川広家隊には東莱城を割り当てられた。 東莱城は釜山城の北東二里ほどのところに位置して、朝鮮では甑山城(そうざんじょう)と称していたが、文禄元年四…

晋州城

五月、太閤秀吉は、朝鮮南部(慶尚、全羅、忠清)だけでも確保するため、晋州城攻略を命令した。晋州城は昨年(文禄元年)十月、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲らが二万人の兵を投入して陥とすことができず無数の死者をだして退却した、いわゆる唯一日本側…

幸州山城

寒さが緩むのを待っていたかのように、明国軍が再び漢城へ攻めてくる気配を見せた。 これに呼応するように朝鮮軍が、漢城の西三里ほどのところにある幸州山城に集まっている。 明国軍と連携させてはならない、幸州山城を蹴散らす必要がある。 日本軍は二月十…

碧蹄館 

日本軍は、明国軍との迎撃戦を控えて先鋒一番手立花宗虎隊三千、二番手小早川隆景隊八千、三番毛利秀包、筑紫広門隊五千、四番吉川広家隊四千、本隊として五番手黒田長政隊五千、六番奉行衆の石田三成、増田長盛、大谷吉継隊五千、七番手、同じく奉行衆加藤…

昌原城

九月二十四日(新暦十月二十九日)、秀吉は毛利輝元の病気を聞き、医師を朝鮮に派遣して輝元と羽柴秀勝を診察させた。 十月四日(新暦十一月七日)から十日にかけて、細川忠興ら日本軍二万の兵は、朝鮮軍がわずか三千八百人で籠る晋州城を攻撃したが、官兵、…

釜山浦

四月十四日(新暦五月二十五日)早朝、小西行長率いる一番隊は釜山城攻撃を開始した。城内から撃つ半弓の矢衾を日本軍の鉄砲隊が壊滅させると、われ先にと石垣を攻め登って城内になだれ込んだ。濠は背丈ほどの深さがあり、城内には鉄刺が一面にばらまいてあ…

文禄の役

天正十九年(一五九一) 八月、太閤秀吉は大明国(中国)出兵の準備を全国大名に通達するとともに、九州肥前の国、名護屋に大本営を置くこととして築城を命じた。 名護屋は、東松浦半島の先端にある寒村だった。まったくの僻地で、村といっても数戸の家があ…

小田原城

天正十七年(一五八九)十一月、太閤秀吉は北条討伐の軍令を発した。 天正十八年(一五九〇)正月、討伐軍先鋒徳川となった家康が出陣し、街道の整備を行なった。 二月、小早川隆景、吉川広家が領国の軍勢を率いて上洛し、秀吉に面謁のうえ尾張に進んだ。小…

小田原城

天正十七年(一五八九)十一月、太閤秀吉は北条討伐の軍令を発した。 天正十八年(一五九〇)正月、討伐軍先鋒・徳川家康が出陣し、街道の整備を行なった。 二月、小早川隆景、吉川広家が軍勢を率いて上洛し、秀吉に面謁のうえ尾張に進んだ。小早川隆景は清…

島津征伐

天正十四年(一五八六)七月十日(新暦八月二十四日)豊臣秀吉は、島津征伐令を発動、黒田孝高を監察使として、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら中国隊に、北九州からの先陣を命じた。 毛利輝元は十月三日(新暦十一月十三日)豊前の門司に上陸、筑後川を渡…

丸山城

天文十二年(一五四三)に種子島へ上陸した鉄砲も天正のころになると、戦場での重要な兵器となっていた。 御屋形(小笠原長旌(ながはた))の居城彌山城では、鉄砲に対する防禦に不安がでてきた。 天正十年(一五八二)初春から天正十三年(一五八五)七月ま…

長宗我部(ちょうそかべ)征伐 

天正十二年(一五八四)四月、羽柴秀吉と徳川家康による小牧長久手合戦のさなか、徳川家康と長宗我部元親が同盟を結んだ。 同年九月、長宗我部元親が伊予に侵入してきたため伊予の河野通直と毛利連合軍が圧迫されてきた。 この結果、河野通直が確保するのは…

5代・福冨七右衛門尉藤原春昌

小笠原家臣団 天正十二年(一五八四)春、毛利氏と羽柴秀吉の講和がなり、毛利軍諸将は鉾を収めてそれぞれの自領に帰っていった。 秋、四ッ地蔵城にも、つかの間の平穏がもたらされていた。 明尊から御屋形(小笠原長旌)に願い出ていた嫡男春昌への家督継承…

山崎屋敷 

石見の国人衆すべてが毛利氏に臣下してからは石見国内での戦はなくなった。 もはや、四ッ地蔵城も要害としての役目を終わり居館の機能しか果していない。 しかし、小笠原軍団としての四ッ地蔵城だ、独断で取り潰すことはできない。 明尊は四ッ地蔵城を嫡男昌…

鳥取城

天正九年(一五八一)二月二十六日(新暦の三月三十日)、村のあちこちに咲き始めた桜が、うららかな春びよりを喜ぶように美しさを誇示している。 この日、羽柴秀吉の因幡侵入を阻止するため鳥取城督となった福光物不言城主吉川式部少輔経家は、朝枝加賀守、…

忍山(おしやま)の城

天正七年(一五八〇)二月、毛利麾下の有力武将備前岡山城主宇喜多直家が離反し、織田信長についたことが確実となった。 宇喜多直家は備前、備中と美作の一部を支配する大名であり、毛利にとっては重大な損失となる。 毛利輝元は宇喜多の領国を攻略するため…

筑前立花城

永禄十一年(一五六八)七月中旬、またしても出陣命令がきた。 筑前立花城主立花鑑載が大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻し、毛利家に庇護を求めてきたためである。毛利元就は伊予から帰ったばかりの小早川隆景、吉川元春に出陣を命じた。 これに呼応して古処山城…

伊予・大洲城(大津城)

永禄十一年(一五六八)三月四日(新暦四月一日)、吉川元春、小早川隆景らは伊予大津の宇都宮豊綱に攻められている湯月城河野道直を救援のため伊予に出陣した。 河野道直は十二年前の厳島の戦いに毛利のために働いた伊予水軍の一族である。水軍は強力である…

月山(がっさん)富田城(とだじょう)

永禄五年(一五六二)七月、毛利元就は尼子氏攻略のため一万五千の兵を率いて吉田郡山城を出発、二十八日(新暦八月二十七日)には出雲の赤穴郷に着いた。ここで、三沢郷の三沢為清、三刀屋郷の三刀屋久扶、高瀬郷の米原綱寛、阿用の桜井入道、大東童山の馬…

物不言城(ものいわずじょう)

永禄四年(一五六一)七月、元春から、福屋隆兼に次男の二郎を孝鶴丸(輝元)の近習に差し出すよう督促された。人質要求であった。 隆兼は、これを拒否した。 同年九月、福屋隆兼が家老の重富民部大輔兼雄一族を抹殺したという、まさに驚愕すべき事件が勃発…

山吹城

永禄三年(一五六〇)七月、きびしい暑さがつづいていた。いつまでも続く暑さに人々は閉口していたが、幸いにも午後には決ったように夕立が降っていたので、渇水の心配はない。田んぼの稲には、すでに穂がつきはじめている。 七月初旬、毛利元就は安芸、備後…

種子島銃

永禄二年(一五五九)初冬、戦に明け暮れる明尊の四ッ地蔵城在城を待っていたかのように、八神屋與次郎兵衛がやってきた。雪が降ったのかと見間違うほどの霜が立っている寒い朝だった。 與次郎兵衛は、家督を受け継いで十年になる。すでに齢四十を越え、玉鋼…

温湯城開城

四月二十八日(新暦五月十六日)、吉川元春が益田藤包、佐波秀連、杉原盛重、福屋隆兼ら三千五百余騎で温湯城へ迫ってきた。 御屋形(小笠原長雄)は、二千余騎を二手に分けて夜襲をすべしと評定したが、異議が多くその夜は徒労に終った。 このころの軍団は…

日和城

三月二十四日(新暦四月十二日)、日和城へ芸州の杉原盛重が五百人ばかりで押し寄せてきた。 城下の村に放火して日和城に拠っている寺本伊賀守らを挑発している。 城中よりこれを見た寺本玄蕃允が二百人ばかりで追いまくり日暮まで戦った。 この争いのなか、…

風雲温湯城(ふううんぬくゆじょう)

石州出羽(いずは)合戦 永禄元年(一五五八)春、山椿が冬の終りを告げるかのように群生している。木々の若芽がふくらみ桜もつぼみが大きくなってきた。そろそろ本格的な春を迎えようとしている。 このころ、福屋、周布(すふ)、吉見、三隅、益田は毛利の軍門…

お夕の結婚

弘治三年(一五五七)春、室神山に霞みがかかっていた。 小笠原氏と佐波、福屋勢との熾烈な戦いは続いている。 緊迫した毎日が続いていた。 刀の手入れをしている本丸館の庭木に小鳥が集って、せわしなく動き回っている。 春日和が戦いに明け暮れる明尊の心…