福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

安濃津城(津城)

 

 慶長五年(一六〇〇)七月、吉川広家の使者として岸善右衛門尉が訪れてきた。

 高麗出陣以来の再会であった。

 挨拶もほどほどに、

「いい話は、早いほうがいいですから」

 岸善右衛門尉が本題だと言わんばかりにきりだした。

「福冨氏は代々武功も多く武門の誉高い家柄であるほどに、侍従様も福冨氏の行末に気をかけておいでです」

 吉川家が受け入れてくれるといことらしかった。

「吉川さまのお心遣いありがたく身にしみてございます」

 小笠原家を致仕した春昌にとって、吉川家に仕官できるということは願っても無い光明なのだ。

 春昌が礼を言ったが、それ以上の具体的な話にはならなかった。

 

「いまひとつ、高麗出陣のお疲れも取れないなか恐縮ですが、徳川家康どのと石田三成さまが手切れ、矢合わせとなりました。石田さまには西国大名の大半が味方されるようです。さしずめ西軍と言うべきでしょうか、それに対して徳川家康方は東軍。さらに、御宗家(毛利輝元)が西軍の御大将として大阪城で指揮を取られるということです。『ぜひにも、福冨氏にも出陣願いたい』との仰せにございます。ただ、今回は、太閤も亡くなったことですので、徴兵ということではありません。足軽らは、今までどおり徴兵しますが……」

「いつもながら侍従さまのお心づかいありがたく…戦となれば早速にも馳せ参じます。侍従さまによしなにお伝え下さい」

「主(吉川広家)もお喜びでしょう。なにしろ福冨氏は歴代にわたって武勇の誉れ高い家柄であられるほどに、蔚山の合戦を思い出しますな、徒歩で敵の騎兵隊を迎え討ったときの勇姿、あのとき福冨党の面々は馬に潰されたと思いました。それが全員シレッとしている。びっくりしましたよ。思い出しますな…」

「そうですな…それにしても、さすがに明国は三国志以来の武力国、軍隊としての行動は我々より統制がとれて結集する力は、はるかに強い」

「日本は鎌倉時代からの『やーやー我こそは、』ですからな…単騎で敵の集団に飛び込んで、めった突きにされる。それがしもそのうちのひとりだったが…」

 さも面白そうに話をする岸善右衛門尉は、ふと自分の後頭部を手でなでて反省している素振りをみせた。

「小笠原家に永のお暇をされた今、名はなんと言われますか」

「七右衛門は小笠原家からいただいたものですから、お暇をいただいま今、そのまま使うことはできませんので、與右衛門を名のっております」

「高麗の戦では與右衛門の名をとどろかせましたな」

「いや、とんでもない。……あれは悲惨だった…無意味な戦をしたものだ」

「この度は申し訳ありませんが…與右衛門は斎加與右衛門殿がおられますし、七左衛門は山縣氏が名乗っておられますので…又右衛門尉を名乗っていただきたいのですが…」

「福冨又右衛門…・いい名ですな」

「恐縮です、福冨又右衛門尉として記録させていただきます」

「ところで高麗の役で加藤清正さまや福島正則さまは石田三成さまに不満、いや敵愾心を持っておられたはず、お二人はどちらへ付かれますか」

 石田三成は、高麗の役で奉行として現地遠征軍の加藤清正福島正則に命令をだした。 加藤清正福島正則にとっての石田三成茶坊主の成りあがり者でしかない。その者が太閤の寵任を笠に偉そうにした。許すことは出来ない。さらに、高麗遠征の勲功が認められないのは、三成が阻害したからだと秀吉死去の後、三成誅戮を企てたが、三成は徳川家康のもとに逃げ込んで難を逃れた。加藤清正福島正則石田三成に加担するはずはないのだ。

毛利輝元さまとて高麗では石田三成に少なからず反感をお持ちのはず…」

「お二人は徳川家康に隋くようです。主(吉川広家)も徳川どのに隋くべしと強く諌言をされたようですが、なにぶんにも輝元さまが西軍の御大将になられたあとだったので…」

 

 七月十五日(新暦八月二十三日)、石田三成から西軍の総大将として招聘された毛利輝元は舟で広島を立ち十七日には大阪城に入った。吉川広家は輝元に「徳川家康に合力すべきである」と進言してきたが、輝元は安国寺恵瓊のくちぐるまに乗せられて西軍の総大将になってしまった。

 同日、前田玄以増田長盛長束正家の三奉行の名によって、家康が秀吉の遺命に背いたという『内府(家康)ちかい(違い)の条々』を諸大名に送付した。家康に対する宣戦布告である。

 これを受けて、大阪に次々と諸将が集まり十万を越す軍勢となった。

 七月二十一日、徳川家康会津征伐のため江戸を出発した。

 二十三日、下総の古河まで進出していた家康は、三成挙兵が確実なったことを受けて会津征伐の中止を指令した。

 二十四日、家康は下野小山まで引き返した。

 二十五日、家康は小山において会津征伐に向っていた諸将を集めて軍議を開いた。

 二十六日、「家康とともに三成を討ち果たす」という確約をとった家康は、小山の陣を撤収して江戸城に向った。

 八月一日、西軍主力をもって七月十九日から猛攻を加えていた伏見城が陥落、城将鳥居元忠以下千名を超す将兵が討死した。

 五日、家康が江戸城に帰着した。

 九日、三成が美濃垂井に出陣、十一日、大垣城に入城した。

 十四日、東軍先発隊・福島正則池田輝政浅野幸長黒田長政加藤嘉明細川忠興藤堂高虎山内一豊らが福島正則の居城・清州城に入った。

 十五日、西軍にとって致命的なできごとが起きていた。豊臣家に対して「天下無事の議」を計る勅命が下されたのである。このことにより、この戦は豊臣家の重臣間による内紛であり、豊臣家は中立の立場をとるというものであった。豊臣家は石田三成ら西軍を見捨てたのである。

 二十三日、福島正則ら東軍先鋒隊三万五千が岐阜城を攻略した。

 同日、伏見城を落した毛利秀元吉川広家鍋島勝茂、竜造寺高房、長宗我部盛親安国寺恵瓊長束正家ら三万の大軍は伊勢に入って、八月二十三日(新暦九月三十日)には、東軍富田信高の拠る安濃津城(津城)を包囲した。

 福冨又右衛門尉春昌は吉川広家軍に加わっている。

 このとき、吉川広家に随った士は次のとおりである。『吉川家古文書』

 前原孫兵衛尉、中井新右衛門尉、安邊太郎左衛門尉、簗川次郎左衛門尉、松田釆女允、野上與吉、井下又七、山縣七左衛門尉、森脇彦左衛門尉、二宮六右衛門尉、米原與一兵衛尉、井下新兵衛尉、井下三右衛門尉、井上宗右衛門尉、福村七郎兵衛尉、原田九兵衛尉、加藤勝右衛門尉、眞木四兵衛尉、富嶋與左衛門尉、服部冶兵衛尉、齋加與右衛門尉、阿野籐左衛門尉、綿貫作左衛門尉、中原作兵衛尉、福冨又右衛門尉、品川助兵衛尉、畑野彌兵衛尉、安村忠左衛門尉、松浦弥兵衛尉、小野籐兵衛尉、田坂二右衛門尉、福原源兵衛尉、白石九郎兵衛尉、栗栖四兵衛尉、

山縣孫次郎、牛尾彦三郎、服部少三郎、恩田彌太郎、江田孫次郎、太守孫次郎、森脇源四郎、二山源五郎、森田宗十郎、熊野兵庫、利松與次、花安神介、小寺清七、秋里與三、川上長作、佐伯彌三、川村主馬允、朝枝又六、下 二介、石川新三、青砥自然介、静間彌三、川邊小六、栗栖宗吉、安田助八、

 尾高ノ善右衛門、尾高ノ矢助、中岡ノ次郎兵衛、山下ノ次郎右衛門、高野ノ助兵衛、大田ノ三郎左衛門、末原ノ與三右衛門、大田ノ十兵衛、大田ノ助太郎、川戸ノ彦十郎、安木ノ彌三郎、新庄ノ彌次郎、福屋ノ小十郎、大田ノ九兵衛、新庄ノ二六、大田ノ次郎四郎、福屋ノ次郎三郎、境の宗次郎、大田ノ籐左衛門らである。

 富田信濃守信高を城主とする城方は、わずか千七百人である。

「こんな小城、一刻もあれば落ちるさ」

 攻城軍三万をもってすれば、ひとたまりもなく落城すると誰もが思っていた。

 だが、城の周りは湿地帯となっていて、騎馬が使えない。ただ、ひたすらに、遠くから矢を射かけるのみで城へ取り付くことができない。

なんの進展もないうちにその日は終った。

 

 ぴたりと風が途絶えている。夜のとばりが消え行くのと交代に深い霧が少しずつ白さを増していく。あちこちで始まった炊飯の匂いが霧とともにながれ、将兵の空腹を誘っていた。

 春昌は寝起きのものうい体をほぐすため、両手をいっぱい空に突だしてあくびをした。

 ふと、騎馬の足音を聞いた。一頭や二頭ではない。かなりの数が近づいている。

―攻城軍に加わるため、どこかの隊がやってきたのだろう。

 春昌がなにげなく城を振り返った。そのとき、数百の軍団が霧に紛れて騎馬ごと湿地帯に踏み込み城内へ入った。

 なんと、湿地帯のなかに、城へ通じる路があったのだ。しかも、吉川隊の設営している陣に最も近いではないか。水面全体に密集する水草の下は、深い濠だと思っていたが、一ヵ所だけ水面下に隠し道があったのだ。そこは、人の膝までしか水に浸からない。

『濠は深いもの』という常識を覆した隠し道なのだ。

 毛利秀元吉川広家らの軍勢三万の猛攻が始まった。湿地帯に隠れた狭い路を、吉川軍が先頭を切った。城内から鉄砲を揃えての反撃のなか、先を競って突破しようとしている。

 鉄砲の轟音と煙硝のなかを走っていた春昌が、突然衝撃を受けもんどりうって倒れた。敵の弾が甲冑を掠めたのだ。幸い怪我は負っていない。

「このやろう」

 おのれを叱咤するように叫んで起き上がった。すぐ前で奮戦している若武者の甲冑に弾が当たり火花が飛び散った。若武者は弾に跳ね飛ばされていた。福光物不言城主吉川勘左衛門尉経実だ。鳥取城で羽柴秀吉と戦い敗れ自刃した吉川経家の嫡男である。父経家亡きあと、毛利家の手厚い庇護を受けて成長しつつある。祖父経安、父経家と世に名をとどろかす豪将の血をそのまま引き継ぎ気性も激しい。

 このとき、経実は五ヵ所に槍鉄砲傷を受けていた。

「勘左衛門尉さま、大事ありませぬか」

 春昌の声は銃声に消されてとどかない。

 周辺を郎党が固めて勘左衛門尉を引き下げようとした。

「大事無い、行け、突っ込め」

 勘左衛門尉の叱咤に、郎党が城に取り付いていく。城の外構えに吉川経実隊南方弥兵衛が一番に取り付いた。次々と柵に到達し、切り倒そうとしている。柵の内からは長槍で反撃してくる。 

 ついに、松浦弥兵衛尉が柵木を引き抜き堀へ放り投げた。すかさず飛び込み柵木を脇に挟んで浮きがわりに堀を渡った。つづいて勘左衛門尉の小者作二郎が渡る。細屋射延、安本籐兵衛が塀の内から突き出した槍をもぎとった。勘左衛門尉家人長野清介が弩窓から敵の鉄砲を素手で取った。朝枝惣太夫、中畑源太兵衛、佐伯彦一ら物不言城隊将士の働きがめざましい。

 攻撃隊から喚声があがった。

「一番乗りだ」

 春昌が喚声の方角に目を向けると、中畑源太兵衛が塀を越え、一番に討ち入ったところであった。つづいて岡本弥三、朝枝惣太夫、粟屋市郎左衛門がつづく。

 他の部隊より単独で出過ぎてしまった吉川隊は、寡兵でもって群る城方の兵と個々の格闘を展開している。

「吉川勘左衛門尉さま家人山縣兵右衛門尉なり、敵方武将首を討ち取ったりー」

一番首だ。攻撃隊が鬨の声で祝福する。

 攻撃隊が二の丸門前まで到達した。敵の迎撃隊が門を明けて飛び出してきた。

前原備前守、細屋射延、高屋助内らが先頭きって切り結んでいる。いずれも、物不言城の士だ。

朝枝惣太夫、内藤兵左衛門、ニ宮兵左衛門、中畑源太兵衛、佐伯彦一、細屋射延、井上清三ら吉川隊が飛び込むことにより、一気に攻撃隊が優勢になった。城方が、城内へ逃げ込んだ。攻撃隊は、敵味方だんごになって城内へ突入しようとしたが、あと少しのところでニの丸内へ突入ができなかった。

 この日の戦闘で、先鋒隊となった吉川隊は、戦死者七十五、負傷者二百二十七と甚大な犠牲者をだした。吉川勘左衛門尉も満身創痍となっていた。

 以後、城方は門を閉ざして出てこない。

 攻撃隊の猛攻にもかかわらず、城方は、三日間持ち耐えた。

 そして、二十五日(新暦十月二日)、講和によって城を開けわたすこととなった。

 

 

蔚山城(うるさんじょう)

 

 釜山から十二里(五十キロ)ばかり北東にあたる慶尚道沿海部の蔚山(ウルサン)に、慶長二年(一五九七)十一月から、奉行浅野幸長及び毛利秀元の武将宍戸元続と加藤清正の兵らによって築城工事が進められ、十二月二十二日には、在番の加藤清正に引き継ぐ予定となった。その二十二日未明、城外の営舎に分宿していた築城部隊に、明・朝鮮連合軍が突如として襲いかかってきた。

 明兵に朝鮮兵が加わった軍勢は五万騎ほどであったが、日本軍の目には百二十万騎にも見え度肝を抜かれた。

 明、朝鮮軍は、まず毛利の武将冷泉元満隊の営舎に火矢を射掛けてきた。営舎はたちまち火に包まれた。

 暁方の思いもかけぬ襲撃に日本軍は狼狽し、城への退路を遮断される前に城内へ入ろうとして闘う者もいない状態となった。そんななかで冷泉元満は、鎧を着て討ってでた。

 冷泉隊の阿曾根元秀、都野家頼も、得武具をひっさげて切りかかっていった。

 冷泉元満は城へ入らずただ一文字に切って掛かり、奮戦して城から二、三町(二、三百メートル)ばかり外で討死した。 

 夜が明けて討死した場所を見ると、元満の討った敵兵が人塚を築いて積累していた。      

 冷泉元満の父隆豊は長州大寧寺大内義隆に忠死し、兄元豊も豊前柳の浦において戦死した無双の勇士といわれていた。親兄弟ともに死をもって名を残したのだった。

 阿曾根元秀、都野三左衛門就勝も切り払い切り払いして城の近くまで退いたが、切っても突いても敵はひるまず遮られついに両名とも討たれてしまった。

 日本隊は敵の囲みを解いて城中へ逃げ入るため、突きのけ、切り払い、やっとのことで城中へ入った。

 別棟にいた浅野幸長の家人浅野左衛門佐、亀田大隅、岡野彌右衛門、森島新吾、太駄源左衛門らも敢然と防戦したが、岡野、森島、太駄は大軍に包まれて討死した。

浅野左衛門佐は敵将の首を取って、高々と頭上に上げながら城内へ入ることを得た。

奉行太田飛騨守の家臣、安原彦左衛門、田井庄十郎、杉三郎兵衛、加藤平兵衛らも抜群の功をあげて入城した。

 しかし、日本軍も宍戸元続隊の深瀬次郎兵衛をはじめとして末兼土佐守、渡邊壱岐守ら百余人が討死した。

 城を受け取る予定であった加藤清正は、このとき、六里(二十四キロ)手前の西生浦城にいた。「蔚山危うし」

 次々と注進が到着した。加藤清正は、ここから隊列を組んで威風堂々と、新築なった蔚山城に入城し、受け取りの儀式を行う予定だった。だからこそ、西生浦に待機し、築城部隊は城の外に小屋を建てて生活していたのである。

「我が籠るべき城を敵に乗っ取られては年来の武功も水の泡になる。この口惜しさを思えば、命ながらえてもなんの益にもならん。ただ、しゃにむに切り払って城へ入るよりほかの手段はない」

 加藤清正の決断は早かった。八千の兵を引きつれて百二十万ともいう敵大軍のなかを突ききるのは不可能だと、わずか百人ほどの軍勢のみを連れて船で夜半に蔚山に着いた。そして上陸するやいなや百人の兵が一丸となって大軍のなかに突入し、わき目も振らずに十重二十重の敵軍を切り破って城内に駆け込んだ。

 城内の将兵は何百倍にもみえる敵軍が襲いかかってきたらひとたまりもあるまい。と絶望感に駆られ、捨石となることを覚悟していたところに、味方の大将が援軍を連れて駆けつけたのである。

 皆が涙を流し泣いて喜びあった。

 加藤清正が入城したことで軍隊が一気に生きかえった。士気がよみがえり闘う気概が溢れてきた。

 もはや城が落ちることはない。と誰もが思った。

 城内では、さっそく浅野幸長加藤清正ら諸将が軍議を行って、それぞれの持ち場を定め堅固な防禦態勢に入った。

 敵の総軍が喚声をあげて攻めてきた。数にものいわせて平攻めで昼夜の別なく強襲してくる。

一晩中くりかえし来攻していた敵が朝八時ごろ鐘を合図に引いて行く。それまでの斬撃がうそのように静かになった。

 入れ代わりに淡黄色と黒色の指物を付けた大将らしき武者二騎が先頭に出てきた。その後方には新たな軍勢が城を睨んでいる。昼攻めの軍勢が出てきて、夜間に攻めていた軍勢は入れ代わって退いたのだ。  

 大将らしき武者が総軍の攻撃を命じた。太鼓を合図にひたひたと押し寄せてくる。

 つかの間の静寂が破れた。先頭の兵は鉄砲玉を防ぐ盾板を背負って後向きに歩いてくる。その後には半弓を持った兵が指を曲げて吹き鳴らしながら攻めてくる。

 日本軍は甲冑を着ける余裕もなく応戦していた。敵を十分に引きつけてから一斉射撃で狙い撃ちする。敵は盾板を捨てて逃げたが、しばらくすると盾を取りに来た。書き付けてある名前を見て自分のを持って行く。

 塀に大きな鉤を引っ掛けて百人もの兵が、その綱に取り付き引っ張って倒そうとする。

 日本軍が鉄砲で狙い撃ちして片端から殺して行く。敵は四、五人になってもまだ、綱に取り付いている。さすがの日本兵もこれには瞠目した。 

 ついに、西の門が危うくなってきた。そこで日本軍は門を放棄して城内に退いた。

 かくて、本丸は奉行の浅野行長、二の丸は加藤清正、宍戸元継らが守って、三の丸へは宍戸隊の一部を守らせようとしたが、この城はまだ塀格子も完成していない状態だったので、誰も進んで行こうとする者がいなかった。

「なぜ、おまえらは三の丸に篭ろうとしないのか、平生蒙っている君恩に対しこんなときにこそ命を投げ捨てて報謝すべきではないのか、口惜しい限りだ」

 宍戸元継が残念に思って言ったので、口羽十郎兵衛、和智庄兵衛の二人が進みでて、

「それがしらふたり罷り通り戦死つかまります」

 と言って三の丸へ下りて行った。

「されば、それがしも」

 日野就柾がつづいて下りて行った。そのとき、

「吉見大蔵大輔ただいま三の丸へ立て篭もられた。後日の為に申し上げる。よく聞きおかれよ」

 三の丸から吉見の郎党が走り寄って大音声で言い捨てると、また、三の丸に引き返して行った。

 さらに、三刀屋監物も進んで三の丸へ下りたので、三の丸の防禦は堅固になった。

 三の丸の門はいまだ完成していなかったので、口羽十郎兵衛が下知して細木や竹の束を門に立て掛け、その後ろに鉄砲隊を配備した。日野や和智らも各々の持ち場を固めて控えた。

 敵が、つぎつぎと猛攻をかけてきた。一斉に石垣によじ登ってくる。

 日本軍も鉄砲で討ち落し槍長刀で突き落とす。敵は続々と攻め上がって来る。上がれば切り落とす。落とせばまた上がる。少しも死を恐れず、太鼓を打って、一刻(二時間)ほどは息もつかせないほどに攻めてきた。このまま半日も攻められれば小勢の日本軍は精根尽きはてて防ぎきれないところだったが、敵は鐘を合図に引き退いていった。

 敵軍はこのように時々休んでいたので、日本軍もその間に兵糧を遣い水を飲んで休息することができた。おかげで小勢の日本軍も城を持ちこたえることができたのである。

 しかし、日夜の区別無く攻めてくる敵を切り伏せ突き倒していくので、槍刀も鋸のようになり鉄砲の弾薬も乏しくなってきた。石垣を築くために集めていた石を投げ落し、あるいは砂を煎って石垣をよじ登る敵兵にまきかけた。

 十二月二十四日(新暦一月三十一日)、宍戸隊の渡邊壱岐守、難波信濃守が歩兵五百人を率いて敵陣へ夜討をかけ多大の戦功をあげた。

 城内には兵糧が二日分ほどしかなく、二十四日には水も食糧も途絶えてしまった。

 このため城兵は壁土を食べ、自分の尿を飲むという飢餓に陥った。 

 蔚山城の危急は次々と日本軍の諸城に知らされた。

 そのころ、吉川広家隊は釜山からおよそ西十二里(五十キロ)地点の固城で日本式新城を築城中だった。

 蔚山が大明勢百二十万騎に攻められて危ない。という注進が次々とくる。

 固城から蔚山までは約二十五里(百キロ)も離れている。

― なぜだ、物見を出していなかったのか。

 百二十万もの大軍に寝込みを襲われるまで気付かなかったということが春昌には理解できなかった。

― 物見の必要性は、日本軍にとって常識となっているではないか。

 春昌には、碧蹄の戦闘で物見として活躍し、日本軍勝利の一端を担ったという自負がある。

 蔚山築城衆の怠慢にただ呆れるばかりだった。もとより、浅野幸長らは、数組の斥候をだしていたのだが、それらは敵軍にことごとく討ち取られていたのである。 

 蔚山城救援のため、小早川秀秋の老臣山口宗永と毛利吉成隊が二十六日に西生浦城に入った。 

 この隊は翌日には数十人の兵を連れて小船で太和江をさかのぼり馬標を振って城中に援軍が着いたことを知らせた。

 二十七日(新暦二月三日)に、黒田長政安国寺恵瓊、竹中重利が、二十八日には毛利秀元が西生浦城に到着した。二十九日、援軍は、蔚山城対岸の小丘に登って城中に馬標を見せた。城中からも馬標が振られてきた。同日、鍋島直茂父子、加藤嘉明脇坂安治蜂須賀家政、長曾我部元親、中川秀成、池田秀氏、毛利勝永、秋月種長、高橋元種、伊東祐兵、相良頼房らも到着した。これにより援軍は一万三千人となった。

 救援軍は蔚山城の手前二里半(十キロ)にある西生浦城に集結し、慶長三年(一五九八)正月二日、西生浦城を出発して翌三日には、蔚山郊外一里(四キロ)地点にある高地に先鋒部隊が布陣した。援軍は小丘陵に旗を揚げて、援軍の到着を籠城軍に知らせ、士気を鼓舞した。

 蔚山城の危急を聞いた吉川広家は急いで兵を進め、正月一日にはカトガイという渡しまで着いた。

 しかし、この河は凍結していて一艘の船がやっと往来できる状況だった。

 このため多勢がいちどに越すことはできない。

 吉川広家は、馬一匹に旗本の兵千人ばかりを選抜して舟に乗った。

 舟の上には、吉川肥前守、松岡安右衛門尉、二宮兵介、福冨與右衛門尉春昌、森脇作右衛門尉、綿貫理右衛門尉、三浦傳右衛門尉、垣田加兵衛尉、長新右衛門尉、二宮六右衛門尉、松浦隠岐守、井上六左衛門尉、森脇又右衛門尉、松井出左衛門尉らが揃っている。

 いずれも、馬を残し、徒歩戦を覚悟して若手の将士ばかり集めた。

 春昌も選抜されていた。このことは吉川広家が春昌の武功を認めてくれていることの証しにほかならない。

― やるぞ。

 冬の木枯が吹きすさぶ船上で、かじかむ手を両脇のなかに隠しながら沸き立つ戦意に心を熱くしていた。

 その夜、丑の刻(午前二時)ごろ釜山浦に着き、二日には西生浦に到り、三日には蔚山へ着陣した。

 日本軍の援軍が次々と到着するのをみた明、朝鮮軍は、一気に蔚山城を落すべく、四日の子の刻(午前零時)を期して猛攻をかけてきた。卯の下刻(午前七時)ごろまで闘って籠城軍は、からくも撃退した。

 吉川広家は直ちに毛利秀元へ到着の挨拶に赴いたところ、陣所では毛利秀元重臣らにる軍評定の最中だった。春昌ら吉川隊の将官は、毛利秀元の姿を見つけるとあわてて入口に平伏したが、広家はドカドカと前に進み、評定中にもかかわらず、立ったまま毛利秀元重臣らに向って、

「その方らの陣の取りざまは納得いかん。敵陣までわずか三町(三百メートル強)ほどとはいえども、一戦に及ばんとするときに、河の渡し口から遠く離れていたのでは、他人に遅れを取ってしまうではないか。渡し口ちかくに陣を取り替えるべきだ。陣はひとえに敵陣近くへ取るということを常に心得るべきであろう」

 将兵の面前においての暴言だった。吉川広家毛利秀元重臣らに言っているが、それは毛利秀元へのあてつけにほかならない。秀元は毛利宗家の跡取として養子に入ったものの、もとは元就の四男稲田元清 の子であり、広家にとっては従兄弟になる。しかし、このとき秀元は若干十八歳であるが広家は三十六歳である。毛利宗家の継承順位は、広家が先だとでも思っているのか、秀元に対しては尊大な態度を崩さなかった。ちなみに、その後輝元に実子秀就が生まれたことから、秀元は別家をたてられて長府毛利氏となった。

 これまで毛利元就の説いてきた、『三本矢の精神』により毛利、吉川、小早川が一本の矢となって力を合わせ毛利家をささえてきたのだが、吉川広家の振舞いは、それらをまったく無視する行為なのだ。主家に対する畏敬がなくなっていることに春昌は気付いていた。

「それがしも、その議をさきほどから申していたのでございます。それがしは、いまだ高名は取っていないといえども先祖直実いらい数代にわたって勇名を顕わしていることは人の知るところでござる。それがしも元春さま、元長さま、広家さま三代の先を駆け武芸の法は見習い、聞き習いしている。評定の面々にも仰せのごとく申してきたが、それがしの言うことは受け入れられなかったのでございます」

 声を荒げて言う熊谷直実の言動も主君をないがしろにしている。

 毛利秀元は、座を荒らされながらも黙っていた。 

― 三本の矢が緩んでいる。

 春昌は毛利体制の固縛が緩んで歪が生じていることを感じていた。毛利三家の行く末をみたような気がしていた。

 つづいて、吉川広家黒田長政蜂須賀家政の陣へ赴いたところ、両人は軍議の最中であり、広家に向って黒田長政が言った。

「このように敵を討たずにいたずらに守ってばかりいて、もし、その間に城が落ちてしまっては取り返しがつかないと思うので、明日、河を渡って決戦すると定めてございます。

 明日の一番は黒田長政、二番は鍋島加賀守、山口玄蕃允、脇坂中書、三番は毛利秀元と評定一決してござります。侍従殿も良き折に御着陣なされたので御意見を賜りたい」

「受けたまわるところの評議にいささかの異論もござりません。それがしの手勢も今日中には到着いたしますが、たとえ間に合わなくとも、ただ一騎にても討ち入り太閤公へ身命を奉って忠戦をする覚悟でございます」

 対岸の蔚山城を取り囲む敵勢を見ていた黒田長政吉川広家を振りかえった。

「それにしてもおびただしい敵勢ですな、先年高陽へ出張ってきた唐勢よりはるかに多いように見える、日本兵の押さえとみえて河の渡し口に陣取っている赤いは、まさしく朝鮮人とみえるがこれも二十万人はいる。この勢だけでも、先年小田原城を取り囲んだ勢よりもさらに多くいるでありましょう。日本人が一人で敵を十人づつ切り捨ててもなおあまりあると思えます」

「おおせのごとく眼にあまる大軍のようです。さりながら敵があまりにも大軍だということは、敗亡の端にこそ見えます。あの大軍では、いかなる将であっても意のままに動かすことはできないでありましょう。今、見る限りでもバラバラになっております。ごらんなされ陣中に火事でも起きたのでしょうか、あるいは何かに怯えているのか皆が騒いで静まるようすもありません。今、手先の陣へ夜襲でもしたら、もろく崩れて、それが全軍の大崩を引き起こすでしょう。敵勢が三十万ぐらいだったらかえって味方にとって由々しき大事であったでしょうが、百万にあまる軍勢こそかえって潰しやすいと存じます」

「まことにもって、そのように思いますな―」

 広家の意見に黒田、蜂須賀の両名があいずちを打った。三人の周りでは足軽が馬の行き脚を止めるために、枝の張った松を三尺あまりに切って用意している。これは唐勢らは弓馬がうまく、これまでにいくども辛酸をなめさせられていることから、その防御柵とするのだ。日本軍の弱点を衝かれれば、ただちにその対策を考え実行する。鉄菱を撒かれれば板を渡し、兵が高ければ土手を築いてその上に櫓を組む。これが日本軍の強みであった。

 広家は河ちかくに陣を構えるつもりで、小高い丘の上で馬をおりた。ここからは、敵陣のようすが遠望できる。

―高陽で見た明、朝鮮連合軍より、はるかに多い。

 春昌は碧蹄館の戦闘のとき偵察隊として、高陽で集結している明、朝鮮連合軍を五十万騎とみた。今回は、それよりはるかに多い。

 敵を窺っていた広家が、突然、春昌ら将官を集めた。

「敵陣をみよ、何やらもの騒がしくみえるではないか、もしかしたら退却するつもりではなかろうか。大軍が退却するとなると必ず総崩れとなってしまうものぞ、敵の後陣をよく見てみろ」

 広家の眼は遠くの敵陣を見つめたままである。春昌らも言われるままに目をこらした。

 なるほど、敵は、小荷駄に物を負わせて移動の用意をしている。

「そのようでございます」

 二宮兵介が答えた。

「よし、一番に追撃して討ち取ってやる」

 春昌ら将官がサッと散って自分の指揮する分隊へ走り寄って行った。

 広家の旗本衆による本隊を中心にして、その両翼に各分隊が広がっている。鶴翼の陣と呼ばれる戦闘隊形である。

 吉川隊将兵に緊張が走った。

 あと数刻もすれば陸路を通ってこちらへ向っている残りの兵二千が到着する予定である。それらが到着すれば、将官の軍馬も揃う。なのに広家は今、手持ちの一千名で直ちに追撃すると言った。

 広家が馬に飛び乗った。

「いくぞ、思う存分にやっつけろ」

 決然として命を下した。

 広家の下知に将兵が騒然となっているところに、安国寺恵瓊が現れて広家の前に立ちはだかった。

「侍従殿には、物がついて狂われたのかな、総攻撃は明日と定められておりますぞ。軍法を破るということは、はなはだ由々しきこと。 その上、百万の大敵に五百騎や千騎で仕掛けては、いたずらに犬死して敵に利を付けるばかりか永代の恥辱になりますぞ」

「いかに安国寺、それがしへの軍だては控えろ。施餓鬼の仕様、行道の折りようなどこそ知るべきであろう。弓矢を取る術は武士が知るものぞ」

 安国寺恵瓊にしたたかな罵言を浴びせると、馬を敵陣にむけ駆け下って行った。坊主は、戦に口出しするな、御経を唱えておればよい、戦は武士がするものだ。と言ったのだ。安国寺恵瓊毛利元就に滅ぼされた安芸の守護武田氏の一族といわれている。 足利尊氏が建立した安芸国安国寺の住職で外交僧として毛利の禄を食む身分でありながら、いつの間にか秀吉に大名として遇されている。広家にとっては許すことのできないことだった。

 しかしながら、いまや小早川隆景にも対等の立場で話しあえる人物である。それをまったく無視した広家の言動だった。

― それにしても、言いすぎではないか。

 春昌は思った。

 一千人の吉川隊は騎乗の広家を中心にして、全軍がダッダッダと足踏みを揃え、力強く水しぶきを跳ね上げている。敵軍と渡り合う体力を維持するために全速での突撃を避けて小走りに河を渡っているのだ。百二十万騎にもみえる敵の大軍にわずかな軍勢で突入してもたちまち踏み潰されてしまうかもしれない。しかし、吉川隊は、まるで巨大な一匹の生き物のようになっていた。

 春昌も福冨隊として九十名の兵を率いている。春昌の愛馬は、まだ着陣していない。

徒歩で先頭を走りながら、敵陣をみると大軍のなかに戦慄が走っているのがよく見える。敵もあわてふためいている。今なら、組織的な防禦戦闘はできないだろう。敵の態勢が整うまでに一時も早く到達しなければならない。

― 馬が欲しい。今、騎馬隊が突っ込んだらおそらく敵はたちまち崩れるであろう。

 吉川隊は猛然と敵大軍の前衛に突入した。

 福冨隊九十人は、春昌を先頭に一個の集団となって敵の大軍に突入している。

「単騎決戦に挑むな、密集隊形を崩すな。」

 春昌は凛と響く大音声で兵を励ましながら戦っている

 敵は日本人ではない。日本国内のような単騎決戦型の戦い方では通用しないということを、これまでの朝鮮在陣で会得している。日本軍は足軽の槍が敵のものよりはるかに長いので密集隊形を崩さない限り敵には負けない自信があった。

 ワーッと敵軍が割れて逃げようとする。その先から呉惟忠、茅國器の兵が鉾先を並べて反撃し、激しく切りむすび突きあっていたが、敵はたちまち突きたてられて一気に崩れ去った。このとき黄幟を持った漢南勢も後方から引き返してきて立ちはだかった。広家は、士卒を叱咤してわき目も振らずに敵の真中に切り込んだ。

 敵軍のなかから一人の騎士が、広家だけを狙って槍を突出してきたが広家はこれをものともせず、たちまち敵を馬から落して首をかき切った。

 福冨隊の前に敵の騎馬隊が足並みを揃えて疾走してきた。

「集まれ、穂先を揃えろ石突を地につけよ。」

 春昌の号令に福冨隊将兵が密集隊形をとって、片膝立ちになり槍襖をつくった。槍尻を地につけている。

「馬の胸元を刺せ」

 昔から武士の戦いに敵の馬を射ることなどもっての外とされてきた。

『武士にあるまじき卑怯』なのだ。ところが、明軍は『将を射んと欲すれば馬を射よ』である。さきの文禄の役では春昌もいやというほど見せつけられてきた。

「目には目を歯には歯を」だ。

 ドドドッと勢いをつけて飛び込んで来た先頭の騎馬が次々と胸元に槍を受けて宙を飛ぶようにもんどりうった。地についた槍の石突が支点となって馬を跳ね飛ばしたのだ。

 騎馬の背から落ちてきた敵兵を日本軍が次々と殺していく。

 春昌の編み出した戦法である。

 つづいて、吉川肥前守、森脇作右衛門尉、松岡安右衛門尉、二宮兵介らが敵の将官らしき人物を討ち取った。このため敵は逃げようとする兵が大軍を揺るがし、混乱がたちまち全軍に広がって我さきにと逃走して行った。

「ウワーッ」と喜びの嬌声をあげながら籠城軍が城からでてきた。みなが痩せこけてあわれな姿である。もはや病人でしかない。這うように川岸に群がり水を飲んでいる。このような状態で大敵を迎え撃ち撃退してきたのかと思うと、春昌には、驚異でしかなかった。

 そこへ、攻撃は明日だとのんびりしていた日本軍の他隊も、突然寡勢でもって百二十万の敵軍に突撃して行った吉川隊をみて、あわてて追ってきた。

 広家の前に垣見和泉守がやってきた。

「垣見どの見てくれましたか」

「いちだんと見事にござります」

 垣見和泉守が馬上から叫ぶように言いながら、退却する敵を追って馬を走らせた。

 早川主馬が馬を寄せてきて、

「一番で突入されたこと、一番高名比類なき御こと、つぶさに見届けてございますので、太閤公へ披露仕ります」

 よくとおる声で祝辞を述べた。

「ありがとうござります」

 広家が丁寧に礼を言う。

 黒田長政ら日本軍も追撃して四百五十に及ぶ首級を取った。

 救援軍の諸将は、その夜のうちに蔚山新城に入って籠城軍と劇的な再会を果たした。

 広家のもとに諸将が集まってきて、祝ってくれている。

「さてさて、吉川侍従どのは、なんと見極めて一番に掛かっていかれたのか。そのおかげで、敵は敗退し、味方が大勝利を得たこと、侍従どのの武功によるものでござりますぞ」

「敵軍のようすを窺っていますと、退却の用意をしていたように見えましてござります。そのことは、百二十万の勢すべてが、すでに闘う気力を無くしていることでござります」

 広家の説明に、

「なるほど、良いところに目をつけられた」

 諸将が感心している。

 蔚山城は半月に及ぶ籠城に持ちこたえ九死に一生を得た。

「唐勢は、まだ遠くへは逃げていまい。追撃して敵をことごとく討ち取ろうぞ」

 熊谷内蔵允らが主張した。

「このような大軍は、引いて行っただけで味方の大勝利であり、このうえわずかの勢で追いかけてもせんのないことでござる。」

 垣見和泉守が制している。

 諸将の意見が食い違ってまとまらない。熊谷内蔵允は、我一人でも追撃して行くと気色ばむ事態となった。

「勝ちて兜の緒を締めよとは、このときのことを言うものでしょうぞ。侍従どのはどう思われますか。」

 黒田長政が皆を押し静めて、広家の意見を求めた。

甲州(黒田)どのの言われること尤もと考えます。皆さんも甲州どのの意見に任せられてはいかがでしょうか」

 今日の軍功は侍従どのが第一なのだから、侍従どのの意見に従う。と諸将が納得した。  

 日本軍は一騎がけで救援にきたため、食糧も乏しく、兵も少なく、これ以上の戦をする余裕がなかったのだ。

 蔚山救援軍は、いまだ敵が近辺に残っているかも知れない。臆病神が抜けきれないうちに討ち取れと、二、三千単位の威力偵察隊をだしたが、蔚山城の一、二日行程の地には人影もみえなかった。それもそのはずである。このとき明軍は、「士卒死亡二万」と「明史」に記録されるほどの損害を受け、日本軍の追撃を恐れて漢城まで逃げ去っていたのである。

 日本軍は西生浦の兵と蔚山篭城軍とを交代させて休養をとらせるとともに、蔚山城の完成を急ぐこととして救援軍はそれぞれの守備地に引き揚げて行った。

 この戦で討死した都野三左衛門就勝は、江津千金(ちがね)の月出城主である。父明尊の代に津野家重臣、島田麻呂を福冨の分家である山根儀右衛門の養子に迎えたこともあり、爾来、親交を重ねている。外征の徒で殪れてしまった就勝の無念を思い、春昌の落涙はとどまることを知らない。

 慶長三年五月、蔚山城の普請が成就した。

 小早川秀秋宇喜多秀家毛利秀元、浅野長慶ら七万余人に太閤秀吉から帰国命令がでた。

 これにより、朝鮮に残ったのは蔚山城の加藤清正、西生浦城に黒田長政、釜山城に毛利吉茂、竹島城・昌原城鍋島直茂父子、古泉(固城)に立花親成(統虎)、泗川城を島津義弘、南海城に宗義智、順天城に小西行長らが守備隊として残り、その勢も六万四千人のみとなった。

 六月、春昌も一年ぶりに福光下村の山崎屋敷に帰国した。

― この度も無事に帰り着くことができた。

 高麗出征日本軍は、個々の戦闘では勝っていた。だが、全体では負けたと春昌は思っている。 

 高麗に渡った将兵二十八万人の三分の一が死亡した。

 敵によって殺された者はわずかだった。その一番の要因は、朝鮮半島の冬と食糧不足そして病魔であった。日本軍は想像を絶する酷寒を経験した。雪灼け(凍傷)で手足が腐り鼻の落ちた兵が続出した。まさに地獄であった。

 日本に帰りついた吉川広家隊もずいぶん少なくなっていた。みんな痩せこけて哀れな姿をさらしている。凱旋なんてとんでもない、まさに敗残兵だった。

―疲れた。

 春昌の本音だった。三十歳の心身は芯の底まで疲れ切った。

 それにしても、太閤は、空虚な戦をしかけたものだ。

 あしかけ七年にもおよぶ無意味な戦をしかけて、結局得るものもなく撤退した今回の出征に、深い失望感を抱いていた。

 武士にとっての使命は戦うことである。春昌は死力を尽くして戦った。そして生き残った。しかし、春昌の脳裏には朝鮮で戦死、病死した同僚らの顔が焼き付いている。

戦で死ぬことには諦めもつく。だが、あまりにも病死が多すぎた。

内藤平左衛門尉、杉谷彌右衛門尉、森脇助兵衛尉、高橋彌左衛門尉、河口刑部少輔、長和三郎右衛門尉、栗栖理兵衛尉、朝枝二郎右衛門尉、柏村二兵衛尉ら朝鮮在陣で病死した同僚の顔が去来する。

― 多くが無駄に死んでいった。

 心が痛む。春昌の頬を涙が伝って落ちた。対外戦争の苛酷さ無惨さが身にしみた。

 ただひとつ、春昌にも得るものがあった。綿花から糸を紡ぎ、布を織るという工程を知ったことである。当時、綿布は朝鮮から輸入していたものであり、高価で量も少なかった。麻布が、日本人の衣生活そのものであった。

 綿布は、柔らかくて肌ざわりがいい。それに温かい。さらに中綿として綿花を入れるとどんな酷寒でも耐えることができるのだ。

 春昌は、持ち帰った、ひと袋の綿実を、

― うまく育ってくれよ。

 いちいち念じながら屋敷周辺の空き地に植えた。

 

 綿花の紡織法は、遠征した将兵たちにより、たちまち日本国内に広まり、それまで麻によっていた衣生活を革新した。

 

 吉川広家は諸将とともに伏見へ上り、太閤に謁見した。このとき、早川主馬、垣見和泉守が太閤の前において言上した。

蔚山の合戦において、加藤主計頭どのが無二の覚悟にて城中に入らなかったら、城は三日ももたずに落城してしまったでしょう。加藤どのの武威は人間の業とも思えず、また、合戦は明日と定めていたにもかかわらず、敵の様子を見極め、わずかの勢で一番に駆け行った吉川侍従どのの戦功もまた他にぬきんでております。このことは安国寺どのもよくご存知のことでございましょう」

「言上のごとく、ご両人の比類なき働き加藤どの吉川どのとも同等でございます」

 安国寺恵瓊が太閤に折り伏して賛同した。これにより、太閤は吉川広家伯耆半国、出雲三郡、隠岐一国を与え、その後も闕国があれば遣わす。と黒田如水を通じて吉川広家に内示があった。さらに東伯耆三郡、因州の蔵納その外本領と合わせ三十万石余を与えてはどうかと言った。石田、安国寺は、「仰せのとおりでございます。」

 といって退出したが、やがて二人は、示し合わせて太閤のもとに行き、

「吉川の朝鮮における数回におよぶ戦功により伯耆一国ならびに因州の御蔵所を与えなさるのはごもっともと思います。さりながら、今すこし御思惟くださるべきかと思います。かの者、戦功は大変なものでございますが、元来、大機な者であり、このたび蔚山においてもわずか千騎で大敵百二十万騎のなかへ、諸将と協力することもなく一番に突入するほどの大胆不敵な仁でございます。また、明日と定められた軍法を破ったこともいかがかと思います。この者が手勢を二万も持ったならば、この後に天下に対していかなる企てを起すやも分かりません。この度は、まず金銀珍宝等のご褒美で済まして加増の議はご思案くださるのがよろしいかと存じます」

と告げ口した。

 石田三成は、もともと吉川広家と仲が悪く、安国寺恵瓊蔚山で広家に浴びせられた罵声に立腹しての仕業であったのだった。太閤は三成に任す旨を言っただけだった。

 このことを伝え聞いた吉川広家が激怒、やがて起きる関が原の戦いにおいて西軍に属しながら石田三成を見捨てる因になったのである。

 

 

慶長の役

 

 慶長二年(一五九七)七月、十四万余の大軍勢による日本軍の再征が始まった。

 文禄三年から行(おこな)ってきた明国との講和が、破れてしまったということだった。

 特に、秀吉が講和の条件としている『朝鮮王自身が秀吉の前に伺候すること』が無視された怒りから、

「朝鮮征伐だ、二王子を捕らえよ」

 太閤の下知が下りた。

 こんどは、文禄の出兵とは違う。

「老若男女も僧侶も身分の低い者も、皆殺しにせよ」というのが太閤の命である。

 文禄の役では、住民はできるだけ殺さず支配して年貢を取ることを目的とした出兵であった。治世、経営を目指したのだ。その結果、民衆の頑強な抵抗にあった。

 今度は征伐だ。特に、赤国(全羅道)は一揆により征服できなかった地である。太閤は「赤国残らずことごとく一篇に成敗」と全羅道の殲滅・攻略に重点をおいた。

一揆」に対しては、容赦なく全住民の虐殺を行なうことが、織田信長いらい繰り返されてきたことなのだ。

 戦場での手柄の証しには首級に代えて、鼻を秀吉のもとに送らなければならない。

 日本軍は、はやり立って出発した。

 

 その部隊編成は、一番隊・加藤清正(一万人)、二番隊・小西行長、宗 義智、松浦鎮信有馬晴信、大村喜前、五島玄稚(一万四千七百人)、三番隊・黒田長政、毛利吉成、毛利勝永、島津忠豊、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、相良頼房、(一万人)、四番隊・鍋島直茂、勝茂父子(一万二千人)、五番隊・島津義弘(一万人)、六番隊・長曾我部元親、籐堂高虎、池田秀氏、加藤嘉明来島通総、中川秀成、(一万三千二百人)、七番隊・蜂須賀家政、生駒一正、脇坂安治、(一万一千一百人)、八番隊・毛利秀元宇喜多秀家(四万人)となった。その他、小早川秀秋、立花宗虎、高橋統増、筑紫広門、小早川秀包、浅野長慶らが朝鮮在城の守備隊として、二万三百九十人が配された。総勢十四万一千四百九十人という陣立となった。

 今回は全軍が足並みを揃えて、全羅、忠清の二道攻略を目標と定められ、一番隊と二番隊が二日交代で先鋒を務めることとなった。

 吉川広家隊も再征の徒についた。

 九州の名護屋に通じる西国街道には、暗い顔をして鎧櫃を背負い、槍をかついで黙々と歩いている人の列がつづいている。

 春昌は三年半にしてまたもや朝鮮出兵に従軍しなければならなかった。すでに二十九歳になっている。

―こんどは、戻れないかも知れぬ。

 不吉な予感が、ふっと脳裏を掠めた。暗澹として重苦しく胸を締め付けられた。ふたたび帰ることのない出征と諦めた、生き抜こうとすれば気は重く苦しい。死を決してしまえば気が楽だ。とはいうものの、死ぬとは思わなかった。おのれの周りの者、皆が死んでも、自分は生きて帰れると思った。

 春昌の所領福光下村に近い井田村で出征を拒否した地侍がでた。文禄の遠征で高麗の凄まじい寒さと飢えに耐えられなかった気持ちは分り過ぎるほど分る、また、日本国内であったなら敗戦しても退却するところがいくらでもあるが、外地では逃げるところもなく、日本へ帰ってくることも困難だろう。しかし、徴兵を拒否すれば抹殺される。井田村を支配する岩城の下井田兵庫介は、この地侍一族郎党ことごとく成敗したという。他人事とはいえ、春昌も暗澹として重苦しく胸を締め付けられた。

 かって、戦といえば、おのれの所領を増やす千載一隅の好機と勇躍、出征していたものだった…

この度は、春昌も、すでに逸る気を失い諦めの出征であることに気づいていた。

 

 この戦では毛利輝元の代わりに甥の秀元が出征し、小早川隆景には小早川秀秋が代わって出征した。

 小早川秀秋は太閤秀吉の甥である。太閤が木下秀秋を毛利輝元の養子とするよう申し入れてきたとき、名家毛利の血統を守るため、小早川隆景の養子として秀秋を迎えたもので文禄三年(一五九四)のことであった。当時、秀秋は十三歳である。

 小早川家重臣小早川秀秋を「金吾」と呼んでいた。若輩とはいえ左衛門督の官名をもち筑前五十二万石の当主である。にもかかわらず「金吾」と呼ぶことについて、春昌は、不思議だと思っていた。後になって分かったことだが、金吾とは左衛門督を唐名で呼んだものらしかった。

 それにしても、戦の仕様も知らない若輩を殿と崇めなければならない小早川家重臣らの気持ちを思うとき、左衛門督と呼ばないで金吾と呼ぶ気持ちは春昌にも理解できた。

 秀秋は蔚山城の守備を命じられ、五月二十二日に大坂を発った。六月二十二日に名護屋を出帆して七月二日に釜山に着いた。だが、秀秋の義父小早川隆景は秀秋が出帆したその日に六十五歳で急逝した。

 再征軍は太閤秀吉の命令により、まず全羅道、続いて忠清道を攻略することに目標が置かれた。この二州は朝鮮半島のなかでも最もいい穀倉地帯である。

 

 八月十二日(新暦九月二十三日)、宇喜多秀家を大将として島津義弘小西行長宗義智蜂須賀家政ら五万六千八百余の軍勢が、左コースをとって釜山の西三十七里(約百五十キロ)にある南原城を攻め、四日後に陥落させた。同城は文禄の役で侵攻できなかった全羅道の要衝で明、朝鮮連合軍四千人が防衛していたものである。

 

 吉川隊の属する毛利秀元を総大将とする加藤清正黒田長政鍋島直茂長宗我部元親らの兵六万四千三百人は、釜山から右コースを進んで八月十六日には黄石山城を落とし、続いて全羅道の道都である全州を占領、ここで左右両軍が合流した。

 右翼軍は、さらに忠清道へと向った。

 

 

 

 日本軍の食料事情は、ますます悪くなってきた。搬送が間に合わないのだ。

 特に、生野菜の欠乏は身体に影響がでてきた。体がだるくなり顔色も土気色をしてきた。周辺の田畑は雑草ばかりで、野山にも食べられる野草は少なかった。タンポポ、野蒜(のびる)はあったがこれも季節限定のものだ。

 日本兵は必然的に現地調達を行うようになっていた。日本軍が行く先々の村は日本軍の虐殺を怖れて逃げ去っていたから、どこへいっても無人となっていた。

静寂に包まれた小邑はたちまち絶好の略奪対象となり、兵らは目の色を変えて物色していった。家から出てきた兵は持ちきれないほどの略奪品を背に括り付けていた。

 どの家でも、食料品は発見できないらしく、皆が衣類を多く持っていた。これら衣類は、これから迎える酷寒に向けて、日本人に合うよう加工するのだ。

 だが、肝心の食料は発見できなかった。

 ある日、春昌も無人の家屋に侵入した。村では裕福な家だったらしく、家具や調度品が整然と据えられていた。その引き出しや扉がすべて開いたままで中には何も残っていなかった。足の踏み場もないほど荒らされていた。すでに、日本兵が物色したようだ。

「変だな。日本兵がこの村に入るのに時間はかかっていない。食料はどこへ隠したのかの」

 平助がつぶやいた。

「そうか」

 春昌が突拍子もない声をあげた。

「なんです、殿」

「わかったぞ、平助。おまえならどうする」

「・・・・」

「どこへ隠すのかということだ」

「そうですの、裏山があれば隠すところはいくらでもあるのですが、ここから山は遠いし、そんなところへ隠しても日常の生活が大変だ。・・・というと、この家に有るということですか」

「そうだ。ここにある。・・・・はずだ」

 春昌の顔は自身に満ちていた。

左兵衛らは天井を見た。天井には隠匿できるような場所はなかった。

座敷の床板を荒々しく剥いでいったが何もなかった。

「あそこを掘ってみよ」

 暗い土間を透かし見ていた春昌が、入り口を入ったすぐ右手奥の壁際を指差した。

 暗さに目を慣らしてから凝視すると、土間の土は踏み固められて艶がでていたが、そこだけ土の色に艶がなかった。

 弥助と平助が手で土を掘っていった。

「あった」

 穀物を入れてある袋が六つ積み重ねられていた。

「よし、全部を儂の馬に載せろ」

 春昌は、自分の騎乗する馬に穀物袋を負わせた。ふしぎに罪悪感は生じなかった。敵地で命のやりとりをしているということが、善悪を判断する心を麻痺させていた。

 

 黒田隊が九月八日(新暦十月十八日)、稷山で明軍の騎兵部隊と会戦し、苦戦していたところに毛利隊が横から襲撃して明軍を撃退した。黒田隊の戦死者二十九名、明軍の死者二百余となった。

 緒戦で大勝利をおさめていた日本軍も、明軍が現れると次第に旗色が悪くなっていった。

 慶長二年(一五九七)九月半ばになると、日本軍はそれまでに占領した地を放棄して釜山方面に向かって撤退した。明軍の圧迫に耐えられなくなったのである。これから迎える酷寒を日本からの補給容易な南岸地帯で越し、翌年の雪解けを待って一気に侵攻することとした。

 

落陽

 

 文禄四年(一五九三)十二月、春昌も一ヵ月余りの養生で健康を回復していた。

徴用されていた内田屋の船が帰ってきた。さっそく石見国へ玉鋼の仕入れに行くというので春昌も乗せてもらった。

博多を出た船は、冬の西風に押されて、それこそ、あっという間に八神屋に着いた。

 

福光に帰り着いた。

数日前に降った雪が、わずかに草の葉に残っている。

 柿木の枝先にただひとつ残る熟柿を、数羽の小鳥がせわしなく食べていた。

― やっと帰れた。

 安堵が春昌の心を覆った。今、久しぶりに福光の大地を踏みしめる喜びと有難さに感謝した。

 じつに三年半もの間、朝鮮に在陣していたことになる。

 だが、春昌の帰国を待っていたものは小笠原家臣団の崩壊と四ッ地蔵城廃城であった。

 父明尊は幾多の武功に輝く七郎左衛門の名を與兵衛と改めていた。

「四ッ地蔵城の始末は当主である春昌の手に委ねたかったが、なにぶんにも太閤の命は性急だった。『ただちに取り潰せ』ということであった」

 與兵衛明尊が申し訳なさそうに言った。

 明尊は、すでに齢六十三になっている。二間(三・六メートル)もある赤柄の十文字槍を小脇にかかえ、さっそうと悍馬にまがっている勇姿は過去のものになっていた。凛とした威厳にひとかけらのゆるぎもなかったが、春昌は父がずいぶん小さくなったと思った。

「ひどい戦でした」 

 春昌がポツリと言った。

 

「そうか、夕は元気であったか年はとっても美人であろうの、若い時は美人だったからの…そうだの、いちど行ってみるか」

『博多にお出でください』との、お夕のことづけを聞いた明尊が、いとも簡単に言ったものである。

 明尊も永禄年間に筑前と日向へ出征したことがある。このときは小笠原軍団の一員であったため内田屋に寄る自由がなかった。

 今は違う、隠居の身だ。しかも小笠原家を致仕し百姓となった気安さから旅にでる気になったらしい。

 半月後、明尊はひとりだけで博多へ向けて出発した。単身で旅をすることなどは、城持ちのときのような威儀をただす必要がない、気楽な隠居の身だからできることであった。

 あちらこちらを見物しながら、のんびり旅をしたいと陸行にした。

「太閤の造った名護屋街道を見たい」

 秀吉は、征明のため諸国に命じて、大坂から名護屋間の道路や橋を架けさせ、一里ごとに二人ずつの飛脚をおいた。街道は整備され賑わっているという。

 これまでは、旅をするには全行程分の食糧や鍋を持参し、自炊しながら進行するのが常であった。秀吉はその不便を取り除いた。わが身ひとつ、手ぶらでの旅を可能にしたのであった。

「できれば、名護屋まで足を延ばされたらいかがでしょう、五層の天主閣をもつ太閤の城は、実に壮大です」

「信長の草履取りからなり上がった秀吉の城か」

「その草履取りに全国の将が平伏しています。武家の家柄なんてかなぐり捨て、屈辱に身を震わせながらも、笑顔を繕って秀吉に媚ている。九州のさる大名などは、我が正室を秀吉にさしだしたという噂もあります。もはや、秀吉に敵うものはおりません。名護屋城は西国大名がわずか三年で建てたものですが、その規模といい、美しさといい、並のものではありません」

「情けないことよの、武士の矜持も捨てたのか、…一度、行ってみるか」

 明尊は山陽道経由で博多へ向った。

 

 

帰国

 

 文禄四年(一五九三)閏の九月、吉川広家は太閤秀吉の命により諸将とともに帰国することとなった。

 このとき春昌も帰国した。

 朝鮮釜山浦上陸以来三年半にも及ぶ朝鮮進駐であった。

 これにより、守備隊として朝鮮に残留したのは釜山城に宗義智有馬晴信松浦鎮信、大村純宣、加徳城に島津義弘の子忠恒のみとなった。

 

 春昌は釜山を出航してまもなく病み臥せった。舟酔いのせいだろうと思っていたが、どうにもいけないのだ。体がだるくて起きあがる気が湧かない。痛さはない、ただ、しんどいのだ。

 三年半にわたる朝鮮在陣のあいだに積った病魔が一気に活動をはじめたようだ。

 ただ、じっと横になって回復を待つしかない。

 船内でたむろしている兵の顔が暗い。待ちに待った帰国だ、もっと明るい顔を見せてもよかろうに、ただ、黙って横臥している。緊張が緩んで気抜けしているのであろうか。

 静まりかえった船内に舵柄の軋みが響いていた。

「帆に西風をはらんで、舟はすばらしい速さで名護屋に向かっています。対馬も通過しました、壱岐も立ち寄らないようです」

 弥助がいきいきと目を輝かせて報告にくる。

 やっとのことで日本へ帰ることができる喜びとは裏腹に身体が動かない。

 

 名護屋に着いた、夢にもみた日本である。

 意気揚揚と四ッ地蔵城に帰りたい。だが春昌は臥せたままである。ときどき上半身を起してみるが、なんとなくもの倦げで動く気が起きない、大きななため息だけがとめどもなく出る。

 吉川広家名護屋で解散して旗本衆とともに石見に向かった。

 あとの将兵は、三々五々自領に帰っている。

「さて、どうするか。しばらくは名護屋に留まって身体の回復を待つしかあるまい」

 体の自由が利かないせいであろう、旅をする気が起きない。

 陣屋には、かなりの人数が残っている。春昌と同じように病を持っているため動けないらしい。

 春昌は暗い室内に横たわった。

 屋根を鳴らしていた雨音に庭の土を叩く音が加わった、豪雨になったようだ。 

 翌日早朝のことだった。弥助がひとりの男を連れて来た。

「内田屋の手代総兵衛でございます。名護屋で解散なさると聞いて、ぜひともお連れしろとの旦那さまからの命を受けて参りました。名護屋に着いたものの何処に居られるのかと心配しておりましたが幸にもお会いできました」

「手代どの直々の出迎えか、ありがたい。このとおり病にかかり、どうしたものかと思案していたところでござる」

「お身体の具合はいかがでございましょう。痛みは、ございませんか」

「痛みは無いが、とにかくだるくて動けない」

「わかりました、医者に診てもらいましょう。」

 その日、総兵衛は一日中走りまわって医師をさがしたが見つからなかった。

「ひとまず博多へお越しください」

 総兵衛は博多行きの舟を手配していた。内田屋と商売仲間の舟を見つけて、話をつけたようなのだ。

「さすがに手代どのの気配りはゆきとどいているの」

 春昌が感嘆するほど、総兵衛の動きは如才ない。

 左兵衛と弥助は馬を連れて陸路を博多へむかった。

 

 内田屋の前で千太郎と夕が出迎えている。千太郎は、先年父が死去したあと家督を相続し孫兵衛を襲名したばかりである。

 春昌にとって夕に逢うのは初めてである。父明尊からは、「博多に八神屋の娘が嫁いでいる」といった程度しか知らされていなかった。

 夕は五十五歳になっていた。天正十三年に博多へ引き取られた夕の母さちは六年前七十三歳で死去していた。

「お帰りなさいませ、ご苦労さまでございました」

「お世話をかけます。父明尊が『もし余裕があるなら夕どのにお逢いして来てくれ』と言ってたものですから、お迎えの方についてきました」

 千太郎と夕が走り寄って、春昌の両脇を抱えた。夕は父明尊の名を聞くと泣いていた。陸路を急行した弥助の知らせを受けて、医師も待っているという。

名護屋では病気の方々が多く、医師はてんてこ舞いでございます。診察は十日後になると言われましたので、博多までお連れしました」

 総兵衛が恐縮しながら千太郎に説明している。

「今回の朝鮮出兵では、そなたらも大変だの」

「朝鮮との交易も軌道に乗り、うまくいっていたのですが、すべてが消えてしまいました。八神屋さんも難儀をなさっておられることでしょう」

 内田屋も三艘の大船を持っているが、朝鮮への軍需物資運搬のため徴用されている。八神屋の持ち船も、すべてが徴用されていた。海商である内田屋や八神屋にとっては、朝鮮との交易も途絶え、持ち船も取り上げられている。そのうえ、日本の海軍は朝鮮の李舜臣率いる朝鮮海軍に完膚なきまでに叩きつぶされ、多くの日本船が海の藻屑と消えている。

「八神屋さんも、私も、玉鋼を主な商売としております、重量物ですので船がなければ仕入れも思うようにいきません。今は漁船のような小さい船で細々と仕入れております。ですが売りの方は引っ張りだこで、今までより数倍の値で売れております」

「まさに、丘に上がった河童です」

 内田屋は磊落に笑いとばしたが、日本の海運業界は、まさに存亡の秋に直面していた。

 内田屋の離れ座敷に落ち着くのを待って医師が診察を始めた。

「これは、腫気という病(脚気)でして船乗りに多い病気です。身体が必要とする滋養が長いあいだの戦陣で欠乏したために発症するもののようです。非常に怖い病気でして、ほっておくと生命を失うほどの病です。こたびの高麗出征でも、ずいぶんたくさんの方が亡くなられたようです。でもご心配にはおよびません。病といっても身体が壊れているわけではないので、滋養をつければなおります。魚では、ウナギが良いです。豆類も多く摂ることです。それに鳥目(夜盲症)になっているようです。これには、いい薬があります。これは鯨の肝油といいまして、鳥目の特効薬でございます。腫気にも効き目があります。」

「鯨…」

「鯨は薩州から紀州にかけての太平洋にしかいない魚、いや海に生息していて魚の形をしているが魚ではなく動物に部類される生き物です。人間と同じように子供を産んで乳で育てます。体は、とてつもなく大きく十間(十八メートル)を越えるものもいるようです」

「そんなに大きなものをどうやってとるのでしょうか」

毛利水軍熊野水軍で小早という舟がありますね、あれと同じような舟に十人ほどが乗って、何艘もが連携をとりながら鯨に銛を投げつけて仕留めるのです。なにしろ得物が大きいですから何刻も追跡しなければなりません」

「一日中、追いかけまわすことも、めずらしくないそうです」

「危険も多いのでしょうな」

「そりゃーもう大変らしいです。ですが鯨は図体は大きいですが人間を食べませんので、食べられてしまうことはなく、尻尾で舟を叩き壊されたり、ひっくり返されたりして犠牲がでるようです」

「そのように苦労して捕るということは、この薬も高価なものなのでしょうの」

「鯨油は体の脂肪を搾ったもので大量に取れます。肝油は肝からしか取れませんので量も少なく高価です。でも、効き目は驚愕に値します」

「ま、ひとつ呑んでみてください」

 医師にすすめられて、小さな杯八分目に入れられた肝油を口にした。

「う…」

 目を白黒させてゲボッとえずいた。

「呑みにくいものだの」

「『良薬は口に苦し』といいます。わたしも飲んだことがありますが、鼻をつまんで、呼吸を止めて一気に飲みました。でも、効き目は絶大です」

 孫兵衛が笑っている。

 夕からすすめられた口直しの菓子を、ほおばって春昌が一息ついた。

「一日一杯ずつ飲めば五日ほどで回復に向かうでしょう。あとは、のんびりと休養しながら滋養をつけていけば元気になります。何回も申し上げるようですが、お身体そのものに傷があるわけではありませんので、滋養をつければ完治します」

 腫気の怖さは春昌も知っている。高麗では腫気を患うもののうち十人に八人は相果てると怖れられてきた。

―ついに儂もかかってしまったか。

 絶望感が春昌を襲う。それにしても、帰国してから発症するとは運がいい。

 

 春昌は、内田屋で養生することとなった。

 左兵衛と弥助を石見へ帰した。

「ひとまず帰ってきます。殿さまのことなどを報告し、直ちに、こちらへ引き返してきます」

 内田屋から存分の旅費をもらい、二人がうきうきとした顔で出発した。

 

 夕が親身になって世話してくれる。

「母とわたしは大殿さまに助けられました。こうして今のわたしがあるのもすべて大殿さまのお陰です」

 夕が山中の炭焼き小屋から、八神屋へ引き取られ、與次郎兵衛の娘として内田屋に嫁いだことを話した。

「なんと、そういうことでしたか、父は何も言いませんでした。儂には恐いだけの父でしたのに、そんな優しいところもあったのですか」

 春昌が快活に笑った。久しぶりに話す日本女性の声は荒みきった心を和ませてくれる。

「ぜひ、大殿さまに博多へおいで頂きたいところですが、わたしどもからお願いするのは僭越すぎると思い、どうしたものかと悩みながら今にいたっております」

 夕が口癖のように言い、そのつど涙ぐむ。

「父は六十三歳になりましたが、とても元気です。怪物ですので、まだまだ彼岸へは行かないでしょう、儂からも言ってみましょう」

 人生五十年と言われていた時代のことである、四十歳を過ぎると老人と見られていた。

 春昌は、もはや高齢の域に達していたのである。

「ありがとうございます。そうしていただければ、どんなに嬉しいことでしょう。江津の八神屋さんへはしょっちゅう船をだしておりますので、船旅をお楽しみいただきとうございます」

 孫兵衛と夕が、手をとりあわんばかりに喜んでいる。

 春昌は毎日一回飲まなければならない肝油に閉口していたが、効き目はまさに驚嘆に値した。

「日ごとに目が見え、元気が湧いてくる」

 確かな手応えを感じていた。

 帰国後、寝てばかりいた春昌も十日目頃からは少しずつ外に出るようになってきた。博多の湊に行き忙しく動き回る大小さまざまな舟をあくことなく見ていた。

 春昌は、ごちそう攻めにあっている。毎日わずかばかりの米に雑草をいれた雑炊で食いつないできた高麗在陣中のことを思うと、まるで夢のような毎日である。

 今日は、どこどこに美味しい菓子があったからと買ってくる。

 春昌もめずらしい菓子をみると「これは、どこの菓子か」と聞きながら、つい、手をだしてしまう。

「山の家にいたころのことは、ほとんど覚えていませんが、大殿さまに頂いたお菓子の甘さが強烈な印象として残っております。…今でも甘いものが好きなんです。」

 五十五歳とは、思えぬほどの若さを保った夕が、ふと、はずかしそうに微笑んだ。

「ただひとつ、あのころの記憶のなかに、夢であったのか現実だったのか、はっきりしないのですが、冬の暖かい日でした。母は、夜まで帰ってこないので、ひとりで遊んでいたのです。いつもは家の前で遊ぶのですが、家の近くに、下の村が見える場所があったのです。そこは、日当たりも良いから、よく行きました。ひとりで遊んでいるうちに寝ていたのです。ふと、目が覚めたら私の横で大きな熊が寝ていたのです。怖くはありませんでした。大きな熊の腹に寄り添って寝ていました。私が目を覚ましたら熊は立ち上がって山の中に入って行きました。あれは、きっと私を守ってくれていたのだと思うのです。狼や山犬や狐の多い所でしたから、私が起きるまで熊のふところに抱いて守っていてくれた。そう思うのです。夢だったのかもしれませんが。」

「獣といえども、我に危害を加えない者には攻撃しないという。本当のことかもしれないの」

「でも、そのことを、母に言ったら、その後は家から出ることを固く禁じられました」

 だから、本当のことだったのかもしれない。と、夕が自分に言い聞かせるように言った。

「本当に私は大殿さまに、いい人生をいただきました」

 つと、我に返った夕が、「あ、そうそう」と言いながら奥の座敷から懐剣と小さな布袋を持ってきた。

「これは、大殿さまのお母様にいただいたものなのです。博多へ嫁いでくるときに、お母さまは「母の形見です」と、私にくださったのです。…大切なものをいただき、…ただただ…恐縮するばかりでした」

 懐剣を帯にはさみ、布袋から木の切れ端を取り出した。よく見ると、木彫りの仏像のような形をした一刀彫人形だった。脇差の刃先で彫ったらしい目鼻と口が人形であることの証だ。

 夕の瞳が焦点を失っていた、かすかに残る記憶のなかを覗いていたのである。

「五十年前、大殿様が私のために作ってくださったのです、一生大切な宝物です」

愛しそうに、人形をなでる手がわずかに震えていた。おおつぶの涙が頬を伝わった。

 

 

東莱城 

 日本軍は太閤秀吉の命により釜山周辺まで退いて、沿海地域十八ヵ所に長期駐屯のための築城を始めた。

 吉川広家隊には東莱城を割り当てられた。

 東莱城は釜山城の北東二里ほどのところに位置して、朝鮮では甑山城(そうざんじょう)と称していたが、文禄元年四月十四日、小西行長隊らが二時間で陥落させた城である。元来、朝鮮の城はそのほとんどが邑城と呼ばれるもので、村落全体を高い城壁で囲っただけのものだった。

 城壁は、土や石で堅固に造られていたが、突破されれば後は本城まで何の障害物もなく、防禦的には日本の城よりはるかに劣っていた。

 吉川広家は朝鮮式城郭では役にたたないとして、城後方の山に準日本式の高い石垣を築いて本丸とした。その周辺に段々畑のような曲輪をたくさん造って二の丸、三の丸館を建て、城の周りは竪堀や空堀で二重、三重に防禦線を築いた。

 東莱城は橋頭堡的な性格をもつ日本独特の堅固な平山城となった。このような日本式の城を明、朝鮮人は、倭城とよんでいた。『倭』とは、中国、朝鮮で用いた日本の蔑称である。この漢字のもつ意味は隷属である。古代から、中国は強大な力を誇っており、周辺諸国は中国を尊崇し臣下の礼をとって朝貢する藩属国とみなしていた。さらに、日本を中国、朝鮮より劣った野蛮な国であると侮蔑した呼称なのだ。

 

 七月二十七日(新暦・八月二十三日)、太閤秀吉から東莱城の守備兵を三千人と定められた。三千人という数は、吉川広家隊にとってほぼ全員に近いものとなっていた。

広家は、傷病者のみを帰国させて残りの全員が守備隊となった。

 

 

 文禄三年(一五九二)に入ると休戦状態に入ったため、戦はなくなった。春昌らは、城の拡充に追われていた。

 しかし、そのころ朝鮮在陣将兵の間では、

「太閤秀吉自らが高麗から大明へ攻め入って、後陽成院を大明の帝王、豊臣秀次をの関白職、毛利輝元宇喜多秀家を左右の大臣、そのほか西国の大名衆をことごとく大明へ渡し、その領している日本国内の国々には、わが旗本の武士を据える」

 ということを考えているらしいと伝え聞いて、

「それでは戦功を賞せられることではなく、いまだ見た事もない異国の地に遠流の身となることでしかない」

 西国大名諸士が嘆き落胆した。

 

 

 

晋州城

 五月、太閤秀吉は、朝鮮南部(慶尚、全羅、忠清)だけでも確保するため、晋州城攻略を命令した。晋州城は昨年(文禄元年)十月、細川忠興、長谷川秀一、木村重茲らが二万人の兵を投入して陥とすことができず無数の死者をだして退却した、いわゆる唯一日本側の敗戦だったといわれる城である。このとき朝鮮軍を指揮したのは金時敏という牧使(市長)であったことから日本軍はモクソ城と呼んだ。 

 漢城から慶尚道に退却していた日本軍は金海、昌原に集結して晋州城攻略に踏み出した。これには新たに毛利秀元伊達政宗浅野長政の隊が九州名護屋から渡海、増派された。

 六月二十一日、晋州城攻撃隊は第一隊が加藤清正黒田長政鍋島直茂、毛利吉成、島津義弘ら二万五千六百人、第二隊、小西行長宗義智、長谷川秀一、細川忠興浅野長政伊達政宗黒田如水ら二万六千人、第三隊、宇喜多秀家石田三成大谷吉継、木村重茲ら一万八千人、第四隊、毛利秀元の一万三千人、第五隊、小早川隆景、立花宗虎ら八千七百人が城を包囲し、大土木工事により水濠の水を城の後方に流れる南江に落した。

 春昌の属する吉川広家隊は、南江を隔てた対岸の望晋山に陣をおいて明国軍の来襲に備えることとなった。そこは、ちょうどU字形に蛇行している南江の内側となっており扇の要に位置する。日本軍の主力からも完全に孤立していたが、明国軍が来襲してこないかぎり戦にはならない。

「幟や旗をにぎにぎしく立てよ」

 吉川広家が下知した。それが全てである。あとはなにもすることがない。

 おのれに危険がない戦ほど面白いものはない。

 春昌は高見の見物とばかりに晋州城を俯瞰できる場所に陣取った。

 夏の陽を照り返す川面が光輝いていた。

 三方を包囲された城の周りには日本軍の幟や旗がひしめいている。

「豪勢だ」

 感嘆のことばが飛び交う。

 それもそうだ、加藤清正黒田長政鍋島直茂島津義弘伊達政宗黒田如水と日本国内で勇猛を誇っている戦国武将をほぼ網羅した文禄の役最大の大軍団となっている。

 その勢、九万二千九百七十二名、数百年にわたって戦うことに熟練した軍団である。これだけ猛将を揃えればいかなる敵もひとたまりもないだろう。

 翌二十二日(新暦・七月二十日)早朝から総攻撃が開始された。城壁に向けて三方を厚板で囲った大高櫓を並べて組み、その中から城内へ鉄砲を撃ち放す。大高櫓の厚板に開けてある穴から突き出した無数の銃身が轟音と火を噴出す。城内で兵があわただしく動き回っている。

 城内からは、朝鮮軍が火砲、矢、石つぶて等あらゆるものを使い、城壁にとりつく日本兵には、石や熱湯をかけ、大木を落して阻止する。

 大高櫓が敵火砲の直撃を受けて転倒し、中に詰めていた日本兵二十人ばかりがドッと転がり落ちる。

 日本兵の入った無数の箱が城壁に向かって動いている。城壁の上からの攻撃を防ぐために考え出したものであるが、敵は火のついた油を掛けてきた。箱が燃え上がり動かなくなった。春昌は歯軋りして見ていたがどうしょうもない。城壁に取り付いた日本軍は全滅したようだ。二十三日、二十四日、二十五日と、日本軍の精鋭をもっての攻撃にも城は落ちない。

 日本軍は城壁の前に五つの土山を築き、その上に大高櫓を建てた。これなら城内が下に見える。日本兵が城内の敵軍を狙い撃ちで殪していく。城内の動揺が目にみえる。

 二十九日になって、やっと日本兵が城壁を登り始めた。

 そのとき、ひとりの武士が城壁の上に躍り上がって突入した。

「一番乗りだ」

 日本軍の勝ち鬨が辺りを震わす。

「あの旗指物は、黒田衆の後藤又兵衛どのだ」

 日本軍の中から感嘆の声があがった。

 続々と日本兵が城内を埋めてきた。逃げまどう敵兵や農民を容赦なく切り捨てている。

 逃げようとして南江に身を投じた者も、ほとんどは着ている甲冑が重りとなって川に沈んでいく。そのなかでもようやくのことで対岸に辿り着いた者は、吉川隊の兵が待ちうけて斬っていく。

 最早、戦いではなく虐殺だ。

「軍民死するもの六万人…」

 朝鮮の記録にいう。城内にいた兵士、民衆すべてが殺され、馬、牛、鶏や猫まで抹殺した。

「終ったな」

 吉川広家が一言呟くと、幸州山城撃滅戦で負傷した足をかばうように、静かに立ち上がって床几を離れた。