福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

文禄の役

 天正十九年(一五九一) 八月、太閤秀吉は大明国(中国)出兵の準備を全国大名に通達するとともに、九州肥前の国、名護屋大本営を置くこととして築城を命じた。

 名護屋は、東松浦半島の先端にある寒村だった。まったくの僻地で、村といっても数戸の家があるにすぎない。ただ、ここからは、壱岐対馬朝鮮半島と目視航行が可能なため、昔から大陸貿易の根拠地となっていた。また、海岸の入り江が広く、征明軍の一千隻にも及ぶ船が集結できる湊であった。

 同年秋、四ッ地蔵城にめずらしい来客があった、小笠原長旌の家臣高橋籐右衛門尉である。同僚だ。

 久闊の挨拶を交わしたあと、籐右衛門が話し始めた。

「此度、秀吉が唐入りのお触れをだしました」

 籐右衛門は「秀吉」と呼び捨てにした。その言葉のなかに秀吉に対する心のわだかまりを感じ取っていた。太閤といっても、もとは一介の草履取りではなかったか、という意識が捨てきれないのだ。春昌も心の切り替えができない一人だったが…。

「唐入り・・大明(中国)でしょうか」

「そう、高麗(朝鮮)を従えて大明へ討ち入るつもりであるらしい。そのために九州肥前の国では、すでに大阪城に匹敵する城を造っているということです」

― なんとまあ、それでは際限のない戦になるではないか。

 驚くばかりである。秀吉が天下を取って、これで戦がなくなると誰もが思っていた矢先である。外国へ遠征するとなるときりがなくなる。大明国と言われても、それがどんな国なのか春昌には、想像がつかない。つい最近になって『三国志』を読んだばかりだ。大明も日本と同じく武人の支配する国のようだ。日本の武力でたちうちできるものかどうか春昌には判断がつかない。しかも、日本は国家として成り立つ以前で狩猟生活をしていた時代に、中国では大国を成し、文字を書き、武力をもって国と国とが戦っていたという。

― いったい、どこまで進攻するつもりなのか。

「大明といえばわが国とはくらべものにならぬ大国と聞いていますが…・・」

「そう、大明を人間の頭に例えると、わが国は鼻のてっぺんにできたほくろほどしかないらしい…・」

―そんなところを攻めても勝算はないだろう。

 他国を攻めるという魂胆が理解できない。名分はあるのだろかと春昌は思ったが口に出せなかった。戦いを挑むには名分が必要な時代のことである、理由のない戦にはだれもついてこない。

「この度の戦には大義も仁愛もない。たとえ武力で敵地を平定しても人民はなびかないでありましょう。一生涯、武力で抑え込まなければならなくなるでしょう。それに、彼の地は、酷寒だと聞きます。想像を絶する寒さらしい。冬ともなれば自分の髭が凍り、指や鼻はかれて脱落するといいます。おもえば空恐ろしいことです。」

「かれるとは、どおいうことでしょうか」

「我々には想像もつかないことですが、手や足、それに鼻などが凍ってしまうらしいのです。凍ったところは腐って脱落してしまう」

「指や鼻が落ちてしまうということですか」

「そのようです、そのうえ、下手をすると死んでしまう」

 籐右衛門が憎憎しげに言った。

「なにをいまさら、明国、高麗くんだりまで行かなければならんのだ」

 出兵を強要された西国の大名すべてが思っているにちがいないのだが、誰も口にはしないだろう。

「ところで、此度の唐入りに御屋形(小笠原長旌)は病気のため出征されないので、名代として弟君(元枝)のお子長親さまが出征されます。長親さまは、いまだ十八歳の身ながら豪胆な方ですから、小笠原軍団を宰領されることになんの不安もありませんが…・太閤の軍団としては一仕官としてでしか扱われません。小笠原隊として独立した動きはできません。指揮、命令はすべて吉川侍従さまがとられます」

「時代が変わったということですかな」

「そういうことでしょうな」

 籐右衛門の口から大きな嘆息がもれた。

 御屋形が出征されないということは聞いていないが、病臥中の身であることは事実だった。

「…・・」

「もう一つ、このたび太閤は、『徴兵』というあらたな令をだされた。徴発ですよ。小笠原家中の兵を吉川が独断で集めるということが可能になったのです」

 徴兵は、秀吉が新しく導入した制度であり、これまでの主従関係を無視した兵隊の編成を行ったものだった。すなわち、主君―家臣といった従来の武士団を無視して徴兵による兵団を編成したのである。これまでは、国人としての自立性を維持しつつ毛利の麾下に入っていたのであるが、今では用兵の指揮権さえも取り上げられていた。

「そう言うことであれば、…」

 と言いながら、

ー 行かざるを得まい。

 と思った。

 ところが、御屋形は、同年(天正十九年)九月二十三日に、毛利輝元から雲州神西への国替えを命じられていた。そうなれば石見に領地を持つ家臣は小笠原家を致仕することになる、当然のことながら福冨家もその運命にあった。

 ただし、小笠原長旌は、国替えを不服としている。

 『一戦も辞さない』との意思を鮮明にしている。このことにより戦になれば春昌も『御屋形と命運を同じくする』覚悟であった。御屋形(小笠原長旌)を今の境遇に落した要因の一つは、累代庇護されてきた家臣である春昌ら豪士たちの、責任であることを自覚していた。

毛利輝元さまは、出征されますでしょうか」

「もちろん毛利隊総大将として三万の兵を率いて行かれます、小早川隆景さまも出征されます」

― そういうことか。それなら高麗へ従軍中は、毛利が小笠原家に対して戦を仕掛けることなどありえないではないか。

 春昌の心は決った。他の小笠原家臣はどうするのか気になったが、吉川隊として従軍することとした。

「毛利家の宰領が出征するというのであれば広島は空になりますな」

「広島は佐波どのが留守居を務められます」

「佐波どのが…・・出世なさったものだ。小笠原家は佐波氏に負けることなんかなかった、いくら攻めて来ても、いつも余裕をもって追い返えしていた。…・」

「そうですの、佐波氏は世渡りが上手(うま)いということだ。それに引きかえ御屋形さまは、病弱とはいえ毛利家に対して満足な務めが果たせない」

「くやしいですな、さらに佐波氏は広島留守居の功により五百石の加増を受けるらしい」

「ところで、この度の唐入りは太閤の意思をくんで、旗指物から甲冑まで赤備えとすることと侍従さまの仰せでございます」

 籐右衛門がふところから朱に近い赤色をした布切れを差し出した。

 この色に合わせて作れということである。

「ほかの大名家も競って派手な衣装を用意されることでしよう。卑しき成り上がり者に限って金ぴかを好みますからな」 

 籐右衛門が声を細めた。

 その夜、春昌は籐右衛門の言葉を思い出していた。

― 御屋形は、病気のため出征しないという。太閤が許すだろうか。かって羽柴秀吉のとき病気のため出陣できなかった家臣を『主の命をやりとりする戦に駆けつけないやつは家臣ではない』と所領を没収し、追放したという話を思い出していた。

― お家断絶は避けたい.

  春昌は思った。

 

 天正二十年(=文禄元年・一五九二) 正月五日(新暦二月十七日)、大明国(中国)出兵の軍令が発令された。

 高麗(朝鮮)を通過し、大明国から南蛮国(ルソン)までも征服しようとする秀吉の野望により、総計十六万人にも及ぶ日本軍が朝鮮へ進攻することとなった。

 出征を命じられた諸将には、 高麗(朝鮮)国内八道を五色で塗りわけた地図を配り、慶尚道キョンサンド)を白国、全羅道(チョンラド)を赤国、忠清(チュンチョド)・京畿道(キョンギド)を青国、江原(ガンウオンド)・平安道(ピョンアンド)を黄国、咸鏡道(ハムギョンド)を黒国、黄海道(ファンヘド)を緑国と呼ぶこととした。

 軍令とともに、秀吉の大本営となった肥前名護屋には、全国諸大名が続々と集結している。

 同年正月二十八日(新暦三月十一日)、毛利輝元広島城を出発して肥前名護屋に向った。

 同日早朝、出雲富田城大手門の前を流れる富田川土堤に正装した村人が集まっている。

 城内から法螺貝が鳴り響いた。

 大手門が開かれ軍列が出てきた。鉄砲隊、弓隊、槍隊が先導し、赤糸おどしの甲冑に金刺繍陣羽織の若武者が、馬上姿も凛々しく行進してきた。高々と掲げられた「蒲槌紋」の大将旗が寄り添うように従っている。

 富田城主吉川侍従広家の出陣である。木橋を渡る蹄の音が、草鞋を通してザッ、ザッ、ザッ、と快よく響いてきた。

 続いて、吉川勘左衛門尉経実、吉川備前守、森脇加賀守、加藤佐渡守、安立雲内、境與三右衛門尉、福冨與右衛門尉、岸善右衛門尉、児玉助左衛門尉、石川又兵衛尉、松井出左衛門尉、鈴川三右衛門尉、森脇喜三右衛門尉、三浦傳右衛門尉、藤井六左衛門尉、河邊八郎左衛門尉、東城新右衛門尉、渡邊作兵衛尉等を士官とする総勢六千余の隊列が行進してくる。吉川広家のすぐ後に続く若侍は、鳥取城において秀吉と戦い破れて自刃した吉川経家の嫡男吉川勘左衛門尉経実である。祖父経安および父に劣らず勇猛な将として成長した姿であった。

 将官から兵にいたるまで赤で統一した新しい甲冑がきらめき、騎馬武者の背で旗指物が風にたなびいている。福冨與右衛門尉春昌も赤糸おどしの鎧を着け、兜からは隅立四ッ目結の立物が白銀の輝きを放っている。面頬の鼻は高く白い鼻ひげが厳しさを演出し、背中の旗指物から赤地に隅立四ッ目紋が翩翻と風になびいている。

 その美しさと壮観さに村人から感嘆の声があがった。

「日出る国の軍隊が征明に出発するのだ、きらびやかにせよ」

 太閤秀吉の趣を考えての演出だった。

 諸将は競って華麗な甲冑を着用した。精巧を極め美術の粋を集めた日本の甲冑は、美しさと不気味さでおおいに明、朝鮮軍を驚かせ、かつ、怖れさすこととなる。

 春昌は吉川広家に従軍し、與右衛門尉を拝命しての出征となった。富田城出陣の五日前に四ッ地蔵城を出発して今日の出陣式に臨んだのだった。

 このとき春昌は齢二十四であった。

 この時期、武士階級の名前は、姓、武位、実名からなっていた。『福冨七右衛門尉春昌』の福冨は姓、七右衛門尉は武位、春昌が実名である。自分から名乗る時は実名を称し、他人を呼ぶには姓と武位を呼ぶことを礼儀とした。ちなみに、七右衛門尉は小笠原家臣としての武位(階級地位)である。

 今回の出征は、小笠原家臣団としてでなく、吉川広家に従っての出征であるから與右衛門尉の武位を得たのである。

 武士以外の者も『與兵衛』『與右衛門』等の名を使っており、この場合は、通称といっていた。当然のことながら実名をもっていたが、他人を呼ぶには、姓と通称名を呼ぶことを礼儀としていた。

 春昌の主君小笠原長旌は、毛利輝元から朝鮮への出兵要請を受けたとき、病臥中であり出陣できなかった。このことは結果的には「拒否した」ということになる。太閤秀吉の命に背いたのだ。

「御屋形(小笠原長旌)が大明(中国)へ出陣しないのは『病弱のため』ということは通用しまい。毛利家への叛旗としてとられかねない。」

 たとえ板輿の上に横臥してでも輝元の前に伺候して、病の身を見せるべきであったと春昌は思った。

― なんとしても、御家断絶は避けたい。

 不安に襲われていた。

 出兵を拒否した丸山城の小笠原長旌は、四月十六日(新暦五月二十七日)、輝元の最後通告に追われるように出雲に移って行った。

 太閤秀吉の山城禁止令を無視して丸山城を立ち退かず、朝鮮出兵にも応じなかったことが怒りをかったのである。

「小笠原家人毛利家へ意趣ありて随わざるに輝元、立腹」

 と『小笠原十五代伝記』にいう。

 小笠原長旌は、わずかの人数で悄然と丸山城を退去した。

 家臣団は長旌に随うことを許されず、それぞれの自領で百姓となった。

 福冨家も福光下村の山崎に屋敷を構えて百姓となった。当然のことながら、福冨七右衛門尉春昌の「七右衛門尉」は小笠原軍団での武位なのだから小笠原家を致仕したことにより消滅し、四ッ地蔵城もまた廃城となった。

 この時期、太閤秀吉の天下統一、一国一城令により全国に群雄割拠していた武士団の拠点集中化が進み、武士から百姓への土着が増えていったのだ。

 ちなみに福光物不言城も翌年(文禄二年)に廃城となっている。

 同年三月、名護屋城において出兵部隊の陣立(編成)が定められた。(『旧参謀本部・日本の戦史』)

 一番隊         一万八千七百人 小西行長(肥後宇土)  七千人

  宗 義智(対馬府中)  五千人    松浦鎮信肥前平戸)  三千人

  有馬晴信肥前日野江) 三千人    大村喜前(肥前大村)  一千人

  五島純玄(肥前五島   七百人

 二番隊         二万二千八百人

  加藤清正(肥後熊本)  一万人    鍋島直茂肥前佐賀) 一万二千人

  相良頼房(肥後人吉   八百人

 三番隊         一万一千人

  黒田長政豊前中津)  五千人    大友義統(豊後府内)  六千人

 四番隊         一万四千人

  島津義弘大隅粟野)  一万人     毛利吉成(豊前小倉)  四千人

  

  高橋元種(日向高鍋) 秋月種長(日向財部)伊東祐兵(日向飫肥)島津忠豊 (日向高城)

 五番隊         二万五千人

  福島正則(伊予今治)  四千八百人   戸田勝隆(伊予板島)  三千九百人

  長宗我部元親(土佐)  三千人     蜂須賀家政(阿波徳島) 七千人  

  生駒親正 (讃岐高松) 五千五百人   来島通総 (伊予風早) 七百人

 六番隊          一万五千七百人

  小早川隆景筑前名島) 一万人     毛利秀包筑後久留米) 一千五百人

  立花親成(統虎)(筑後柳川)   二千五百人  高橋直次(筑後三池)   八百人

  筑紫広門(筑後山下)   九百人

 七番隊          三万人

  毛利輝元(安芸広島)   三万人

 八番隊          一万人

  宇喜多秀家備前岡山)  一万人

 九番隊          一万一千五百人

  細川忠興(丹後宮津)   三千五百人  羽柴秀勝(肥後宇土)   八千人

 諸隊           一万二千人

  中川秀政(播磨三木)   三千人    宮部長熙(因幡鳥取)   二千人

  南城元清(伯耆岩倉)  一千五百人  稲葉貞通(美濃郡上)  一千四百人

  亀井茲矩因幡鹿野)  一千人    木下重賢(因幡若桜)   八百五十人

  斎村広英(但馬竹田)  八百人    明石則実(播磨明石)   八百人

  別所吉治(丹波園部)  五百人    垣屋恒総(因幡)     四百人

 水軍          九千二百人

  九鬼嘉隆(志摩鳥羽)籐堂高虎(紀伊粉河) 脇坂安治(淡路洲本)加藤嘉明(伊予松崎)

 奉行          七千二百人

  石田三成(近江佐和山) 二千人    大谷吉継(越前府中)  一千二百人

  増田長盛(近江水口)  一千人    加藤光泰(甲斐甲府)  一千人

  前野長康(但馬出石)  二千人

 総計十五万一千八百四十人という大軍勢である。

 さらに徳川家康前田利家伊達政宗上杉景勝らは、その兵十万余とともに後詰として名護屋に在陣した。すべてを合わせると二十五万人をえる大軍勢となった。