福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

小田原城

 天正十七年(一五八九)十一月、太閤秀吉は北条討伐の軍令を発した。

 天正十八年(一五九〇)正月、討伐軍先鋒・徳川家康が出陣し、街道の整備を行なった。

 二月、小早川隆景吉川広家が軍勢を率いて上洛し、秀吉に面謁のうえ尾張に進んだ。小早川隆景清洲城吉川広家は星崎城に在番した。

 三月一日(新暦四月五日)、秀吉が聚楽第を出発、十九日(新暦四月二十三日)、吉川広家三河岡崎城に移り、秀吉は駿府に入った。

 二十八日(新暦五月二日)、秀吉、家康連合軍が韮山山中城を攻略した。

 四月、秀吉は箱根に陣をとり、一軍を十国峠、一軍を仙石原から小田原へ進ませた。

 秀吉は湯本から小田原の早雲寺に移り、長期包囲戦の策をとるとともに周辺の城を攻めて小田原城を孤立させていった。

 五月、秀吉は小早川隆景吉川広家を小田原に呼び寄せ北条攻略の策を問うた。隆景は富田城包囲戦のとき父毛利元就の執った経験から『将士の倦怠を警戒し、陣中慰安の策を講じること』を進言した。

 秀吉は、さっそく京堺の商人を出入りさせ、酒宴遊興を許し、諸大名の女房を迎えさせた。秀吉も淀君を呼び寄せた。

 小早川隆景吉川広家は下田城攻略を命じられ、吉見、益田、小笠原以下将兵一万をもってこれを攻略した。

 六月に入ると関東に散在する北条方諸城も次々と降伏してきた。

 七月五日(新暦八月四日)、ついに北条氏が降伏した。

 七月十二日、秀吉は奥州平定のため小田原を出発し、八月九日、会津の芦名氏館である黒川城に入り、奥州の押さえとして蒲生氏郷会津に置いた。

 八月十二日、秀吉は会津を発し、九月一日京都に帰った。

 

 天正十九年(一五九一) 三月、吉川広家は出雲、隠岐など十二万石を秀吉から与えられ、月山富田城に入城した。

 

 吉川広家は、軍団の編成替えを行った。これまでは、傘下国人衆の自立性を維持しつつ指揮下にいれていたのだが、広家は用兵の指揮権さえ取り上げた。これにより、小笠原軍団も御屋形に指揮権はなく一介の戦闘員になりさがってしまった。

 春昌も広家から直接下知を受けることとなったのである。御屋形の気持ちを思うと察しあまるところであるが如何ともしがたい。主従関係の形が合議制から絶対服従へと確実に移行しつつあったのである。