福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

島津征伐

 天正十四年(一五八六)七月十日(新暦八月二十四日)豊臣秀吉は、島津征伐令を発動、黒田孝高を監察使として、毛利輝元吉川元春小早川隆景ら中国隊に、北九州からの先陣を命じた。

 毛利輝元は十月三日(新暦十一月十三日)豊前の門司に上陸、筑後川を渡って筑前への侵攻をもくろむ島津忠長(義久の従弟)、伊集院忠棟、野村忠敦らの勢を迎え討つべく進撃を開始した。

 十月二十九日(新暦十二月九日)毛利隊は備前香原岳城高橋元種の支城・小倉城を攻略して入城した。高橋元種は早々に降伏したが、まもなく島津軍が大軍をもって豊後に進撃してくるのを知って再び島津軍に寝返った。

 毛利隊は高橋元種討伐の軍勢を起し元種の支城宇留津城を攻め、千人余りの籠城兵を殺戮してその日のうちに陥落させた。

 つづいて、十五日には高橋方の障子ヵ岳城を攻撃した。城兵たちは高橋元種の籠る香原岳城に逃げ込んだ。

 この日,十一月十五日(新暦十二月二十五日)毛利元就の次男として生まれ、三男の小早川隆景とともに毛利宗家を補佐してきた吉川元春が陣中で病没した。五十七歳であった。生涯にわたり幾多の合戦を展開してきたが、一度も負けた事が無く『不敗の将』と呼ばれてきた。

 毛利隊は弔い合戦だとばかりに香原岳城に軍勢を進めた。

 香原岳城には峰続きの二の岳、三の岳に砦があった。いずれも要害で容易には落せそうにない。斥候をだし城の強弱を探った寄せ手は三の岳に攻撃を集中して二十日にはこれを占領した。さらに十二月十五日(新暦一月二十三日)香原岳城を総攻撃、ついに高橋元種を降伏させた。

 ところが、豊後へ直接上陸した仙石秀久を監察使とする長宗我部元親、信親父子、十河存保ら四国勢六千人が、中津の南に流れる戸次川で三万六千の島津軍と戦って大敗した。この戦いで長宗我部元親の嫡男信親は手勢七百余名とともに壮絶な討死をとげ、十河存保も五百の兵と枕を並べて戦死するという甚大な損害をだしていた。

 このため、中国勢も、ひとまず鉾を納めることとした。

 中国勢を追い払った島津家久は、城を捨てて逃走した大友義統の豊後府内城に入った。長年にわたって敵対し凌ぎを削ってきた大友の本拠地を占領したのである。

 島津の兵らは大友義統の重宝を掠奪し、町屋、百姓屋や目だったをし戦利品のに熱中していた。

 分捕った戦利品を持ち帰るため、無断で薩摩へ向う兵が続出した。

 

 天正十五年(一五八七)豊臣秀吉は島津征討のため尾州以西三十七か国に大動員令を発し、秀吉も三月一日(新暦四月八日)大坂を進発した。この時、薩摩、大隅、日向三州の大守島津義久は肥後の八代に、島津家久(末弟)は豊後府内、島津義弘(二弟)は豊後朽綱にいた。

 同月二十五日(新暦五月二日)秀吉が赤間が関(下関)に着陣、二十八日には総勢二十五万の軍勢を引き連れて小倉の東海岸に上陸、二十九日には、長野三郎左衛門の馬野岳城へ入城した。

 秀吉軍本隊は筑前筑後から肥後へと西コースを進撃し、羽柴秀長、秀勝の率いる別働隊は豊後から日向に至る東コースを進むことになった。 

 春昌ら小笠原隊は羽柴秀長の率いる別働隊の吉川勢である。

 秀吉より早く、二月十日(新暦三月十八日)に大坂を出立した羽柴秀長、秀勝には、宇喜多、藤堂、蜂須賀ら大和、阿波、讃岐、美作、但馬、因幡伯耆半国、備中半国の兵が従った。 

 二月二十五日(新暦四月二日)、豊前築城原に着陣、翌日、同国秋吉、二十七日、豊後湯の岳に着いた。

 ここで、毛利三家率いる三万騎が揃って羽柴秀長に合流した。これにより、別働隊は九万騎となった。

 怒涛のごとく押し寄せる上方勢に怖れをなした地元の兵らは、次々と恭順してきた。

 三月十一日(新暦四月十八日)島津義久もついに退却を始めた。

 退却となると昨日まで味方だった国衆や一揆が次々と襲ってくる。島津軍は凄惨な退却をつづけた。この逃避行で伊集院美作守、白浜周防介父子、平田新左衛門尉、長谷場出雲守ら数百人が戦死した。

 上方勢は島津軍を追撃して日向に入り、まず、県城(延岡)を落し、さらに南下して耳川周辺に陣を張った。

 対岸には島津家久がわずか一万で九万騎にもおよぶ上方勢に臆することもなく挑発している。

 これほど差があれば、平場での野戦は数がものをいう。

「いっきに蹴散らせ」

 春昌らの血がたぎる。

 ところが、総大将羽柴秀長の命がおりない。

「これほど小さい川を、なぜ渡れないのか」

 島津の兵が河岸まで出て、あざ笑う。

「これほどまでに馬鹿にされては武士のめんぼくがたたん、行くぞ」

 吉川元長の下知をうけて、吉川隊五千騎の士気が一気に沸騰する。

「川底の石に気をつけろ、つまずくな」

 春昌らは、つぎつぎと指令を兵に伝えている。

 そのとき、

「今しばらく待て、と大将の仰せであります」

 小早川隆景の軍使が飛び込んで来た。それでも、すでに動きだした兵には通じない。

「待たれよ、秀長卿の御下知であるぞ」

 まさに川に入ろうとしている吉川隊将兵の前に、ただ一騎で駆けつけた小早川隆景が立ちはだかる。

「この川の深さも知らずして、渡ろうとすること浅はかでであろう」

「このような小川のこと、たとえ、川の様子がわからなくとも、浅瀬は、ひとめ見てもわかります。ましてや昨夜、家人どもに下知して浅瀬をさぐらせております」

 吉川元長は昨夜のうちに千代延早介、恋塚三郎兵衛に命じてをさせていたのだ。

 元長が隆景の制止を振り切って動こうとする。

「なにを言うか、これほどの大河に、しかも水底には大石、小石が多くて、馬の足もとも悪く、いたずらに溺死者をだすことになろう。ことに御大将の下知であるぞ。下知を破るとは由々しきことぞ」

「敵も、ここが渡れると知っているからこそ、昨日も出てきて備えを固めたのでありましょう、されども、あるいは、我々を謀って言っているのかも知れないと思い、昨夜、瀬踏みさせて調べたところ、深いところでも胸肩の間を超えるところは無く、真中のほうで七、八間ほどは人が立てないところはあるものの渡れないものではありません。大友義統ごときの弱敵に勝って、我々をも豊後勢と等しく思い侮り、おのれの勇を誇示していることが憎いことです。

 それがしが一番に打ち渡り、敵を城中へ追い込めて城を柵で取り囲み、一人も漏らさず討ち果たしたならば、薩摩、大隅の両州は武力によらずとも靡き従うでありましょう」

 吉川元長には、これほどに優勢な軍隊をもちながら、慎重な態度を崩さない総大将の指揮に納得がいかない。粘り強く叔父である小早川隆景に同意を求めている。

 春昌ら小笠原隊は、すでに戦闘隊形を組んで突撃命令を待っている。

 総大将羽柴秀長の軍使が到着した。

「今日は川を渡るべからず。本陣へ集合せよ、申し渡すことあり。と、総大将の御下知でございます」

 小早川隆景と吉川元長、経言兄弟が、連れ立って本陣へ向った。

 小笠原隊も戦闘態勢を解いた。

「今日の一戦を止め、明日、総軍いちどに渡河する。士卒らに柵の木一本づつ持たせよ、城の喉元を遮断する」 

 総大将の下知がおりた。

 ところがその日深更、島津勢が退却を始めた。

 これを察知した春昌らは、七里(二十八キロメートル)ほど南の佐土原まで追撃して首級を取りまくった。

 

 島津本隊を蹴散らした上方勢は、島津氏の本拠である鶴丸城(鹿児島)を核とした百十三外城のひとつである高城(宮崎県児湯郡木城町高城)の周辺に三十四ヵ所の陣を敷いた。

 高城を直接包囲するのは羽柴秀長を総大将として毛利輝元小早川隆景、吉川元長、宇喜多秀家、大友、筒井らである。毛利輝元は備中、備後、安芸、周防、長門の兵を率いて城の喉元にあたる尾根に陣を構え、つづいて小早川隆景が伊予、備後、備中勢を加えて陣を張った。毛利、小早川、吉川軍総勢二万五千名の陣容である。 

 そこから西の端に吉川元長、経言(つねとき)が石見、出雲、隠岐伯耆将兵一万名で固めている。東の山には一万五千人を率いた羽柴秀長の本陣がある。南の山には宇喜多秀家が一万五千で陣を張った。これに対する高城の守備部隊は一千三百名であった。

 吉川勢の陣は高城の塀の手へ六、七間までに接近している。必ず他勢より敵の近くに陣を取ることが吉川元春から引き継がれている作戦であった。

「火矢を放せ」

 吉川勢が集中して火矢を放し、たちまち高城三の郭を炎上させた。

「ウオー」

 吉川勢が、鬨の声をあげて士気を鼓舞する。

 上方勢に戦う気概があふれてくる。

 

 高城の前面を流れている小丸川の対岸、五十町(五千四百メートル)のところに位置する根白坂には、黒田孝高と宮部継潤、尾藤知定ら因幡勢が砦を築いていた。高城救援のため来攻する島津勢はここを突破しなければ高城へ行けない。

 四月十六日、宮部隊の陣近くに大札が立てられていた。

「来る十七日(新暦五月二十三日)寅刻、この表へ罷り出、一戦を遂げ候(そうろう) 島津中務」

 豪胆にも事前通知だった。

 宮部らは濠を堀り、土手を高く築いて塀や柵を厳重に構えた。特に、敵に最も近い宮部の陣は一番先にかかってくるだろうと塀柱を大きくし、五尺(百五十センチメートル)間隔で補柱を立てた。さらに塀の外には、枝をつけたままの大木で逆母木を設えた。

 逆母木とは、枝のついた木を外に向けて柵をつくり敵の侵入を防ぐものである。

 翌十七日夜、島津勢が根白坂に押し寄せてきた。

 島津家久を大将とする島津勢二万騎は一陣も二陣も破らずば再び帰らず、と書いた符を髻に結び、その隊列も堂々として宮部隊と南条隊の陣へ太鼓を打ちながら寄せてくる。島津の先鋒は左翼が北郷一雲、右翼が伊集院忠棟であった。

 南条隊は前面に深さ二間、幅三間の空濠を堀り、濠ぎわには土居を築き、塀や柵をめぐらせ、三千人を六組に分けて、それぞれの持ち場を固めていた。

 高い場所に櫓を上げて、その上には鉄砲の上手な兵を選抜して配置した。

 島津勢は、先端に鹿の角を付けた青竹を夫々が手に持って寄せてきた。

 やがて、先陣の大将と思われる人物が、塀から五、六間前で床几に腰を掛けて振る采配に合わせ、皆がいっせいに塀に取り付き、鹿の角を引っ掛けて倒そうとする。

 南条隊は陣中から松明を投げ出し、敵を浮かびあがらせて鉄砲を撃ちかける。

 島津勢は集中射撃の的になって次々と倒れていく。床几に腰を掛けて采配を振る武将は格好の餌食だ、たちまち狙い撃ちされて床几から転がり落ちた。次の武将が交代して采配を振る。次から次へと代わってくる。

「あれでは命を捨てにくるようなものだ。」

 上方勢には死者をかえりみず、屍をふみ進んでくる島津勢の姿は奇異としか映らない。

 

 島津勢は砦の正面左右から激しく攻め込んできた。黒田隊と因幡勢が鉄砲で迎撃して三百ほどを倒したが島津勢の迫撃は止まらない。

「なんと、ものすごい迫力だ」

 高城包囲を続けている吉川隊の春昌らは、後方の小丸川を隔て聞こえてくる斬撃に耳をそばだて、戦のなりゆきを見守っているだけである。もし、南条隊が破られると春昌らは城方と島津勢との挟み撃ちにあう。

 島津勢は数百挺の鉄砲に撃たれて累々と築く味方の屍を乗り越え、奇声に近い気合を発し、白刃をかざして突撃を繰り返す。島津軍得意の抜刀戦に南条隊の被害が続出している。

 ついに、濠を越えて侵入してきた。

 高城を包囲していた秀長の家老藤堂隆虎、小早川隆景らの軍が救援のため動きだした。

 そのため高城の攻城戦は一時中断した。

 援軍合流して数千挺の鉄砲を撃ちかけた。

 島津勢が撃ち伏せられ、身動きもできないまま死傷者を重ねていく。

 藤堂隆虎、小早川隆景隊の騎馬武者が戦闘に入った。

 島津勢の島津忠長、北郷忠虎らが、踏みとどまって戦う。

 島津勢の白兵戦は損害をかえりみない力攻めだ。聞きしにまさる猛烈さである。

 藤堂、小早川隊にも損害が続出している。

 春昌はいずれが優勢なのか判断がつかない。ただ、はらはらして見守るばかりである。

 吉川元長が援軍に加わろうとするが、総大将羽柴秀長の下知がでない。

「まだか、まだか」

 馬上の吉川元長が歯ぎしりしてくやしがっている。

「夜が明ければ敵は退くであろう、我が軍勢で敵の左右から挟撃すれば、敵に損害を与えること必定だ、ここにて一塩つければたちまち敵を潰せるものを、役にもたたない詮議ばかりして、敵に手もつけることができずに逃がすことこそ無念だ。強敵と人が恐怖する薩摩勢と一合戦して、どちらが強いか試すこともできるものを」

 馬から飛び降りた元長が地団太を踏んでドカッと座りこんだ。

 

 ついに双方ともに大きな損害をだして引いた。闘争は互角であった。しかし、島津勢にとっては大軍を擁する上方勢に対して、将兵の損耗をかえりみない力押しでは勝ち目がない。

 夜明とともに島津勢がいちどに一町ばかりサッと引いて、態勢を整えると全軍がまん丸になって退いて行く。まったく隙をみせない、いつでも反撃できる態勢だ。あまりにもみごとな退却に羽柴秀長は追撃を止めた。

 それでも、敵の退却を追撃することは戦の鉄則であることを熟知している将兵の中に、自制のきかない諸将が続出する。

 南条隊の近藤七郎兵衛が一番になって追い、傷を負って動けない敵兵の首を取った。

 このとき上方勢が討った島津勢の首は、島津歳久の子三郎兵衛忠親を始めとして五百ほどもあったが、皆が二の腕に『氏名、行年何十歳、何月何日討死』と刺青してあった。

「我らは、死人と戦っているのか」

南条隊の将兵はお互いに顔を見合わせた。

 敵勢は四、五町ばかり引いていたが、黒田の陣へ向って来る気配があったので、吉川元長は都野三左衛門に鉄砲六十挺を添えて加勢にだした。

 黒田も今日を討死の日と覚悟して待ち構えていた。

 敵は一町ばかり向いの小松山の木陰に休み、扇で仰ぎ涼をとりながら黒田の陣を窺っているようであったが、そのまま引き退いて行った。その跡には手負いの者らの始末をしてことごとくを路傍に埋めていた。あまりにも冷酷無慈悲なふるまいに上方勢は言葉を失っている。

 島津勢の強さの本質を見せつけられた思いで、諸将はそれぞれの陣を固めた。

 高城は徹底交戦を続けていたが、島津義久の説得によりまもなく開城した。

 

 この合戦の後、島津家久(四男)が当主義久の承諾のないいまま、独断で秀長に降伏した。

 上方勢の一部は佐土原、都於郡(西都市)に前進した。

 

 

 一方、秀吉本隊は秋月種実攻略に向っていた。

 馬野岳城の西南六里(二十四キロメートル)地点に岩石城がある。ここで秋月種実の侍大将熊見越中守、芥田悪六兵衛が立て籠って進撃の阻害をしようとしている。この辺りは山岳地で平地が狭く大軍を投入する戦には不利だ。さらに熊見越中守らは猛将で知られている。強襲では損害が大きくなるとみた秀吉は攻撃を避けて蒲生氏郷を備えとして残した。

 ひとり残された氏郷は無念でたまらない。家臣の吉田兵部を呼んで岩石城下に物見をだすと、人っこひとりとして見あたらない。再度、布瀬次郎右衛門、土田久助に様子を探らせると、住民は、すでに立ち退いている。秀吉に、この様子を知らせるとともに攻撃したいと申しでたが、

「岩石城は地形堅固で籠っている将も勇烈だ、そんなところに攻めかかって、もし攻め倦むようなことにでもなれば、島津をはじめ他の敵どもに機をつけることになる、そのままでいよ」

 秀吉の許可はでない。それでも氏郷の再三にわたる願いが通って、攻撃となった。

氏郷の軍勢だけでは人数が少ないので、秀吉軍本隊から丹羽秀勝を将として羽柴肥前守利長(前田利長)、脇坂中務少輔安治、石川伯耆守を加勢とし検使に谷大膳大夫、小野木縫殿助をだした。

 四月一日新暦五月八日)払暁、氏郷は、本道から進撃し、秀勝は搦手から攻め登った。その外、諸勢は大手、搦手と分かれて押し寄せた。

 秀吉も杉原山へ陣を寄せ、瓢箪の馬幟を押し立てて総軍の士気を鼓舞する。

 城中から激しく撃ってくる鉄砲をものともせず、氏郷が配下の蒲生源左衛門、寺村半左衛門、蒲生四郎兵衛、栗生美濃守、高木助六郎、神田清右衛門らと先を争い、攻め込んで郭一つを攻め取った。これを見ていた秀吉は、自分の着ていたの羽織を脱いで氏郷に与えた。

 氏郷は感泣し、これを着て大いに勇み一番になって本丸へ攻め入った。利長も手傷を負いながらも奮戦し、郎党の河原兵庫、太平左馬允、坪内次左衛門らも高名をとった。

 丹羽長秀の臣上田主水重安も、名のある武将を討ち取った。

 脇坂も一方の櫓を攻め取ったので、ついに岩石城は落城した。

 その後、秀吉軍は阿蘇大宮寺惟谷の館へ軍勢をだして降伏させた。

 秀吉は惟谷の領地二十四万石をとりあげ、三百町の御朱印をだした。

 三百町の取り米は約千二百石である。二十四万石が千二百石になったのでは馬の飼料もないと惟谷は朱印を返上した。惟谷の気持ちは納まらない。後年、佐々成政が肥後に封じられたとき、度々、反抗することになる。

 さらに、秀吉本隊は秋月種実、種長父子を降伏させた。秋月種実は居城を浅野長政、毛利吉成に明渡し、頭を剃って秀吉のもとに出頭、人質として十六歳になる息女を差し出し、金二十枚、米二千石のほか天下にかくれなき名物といわれた「楢柴」の肩衝(茶釜)を献上して許しを求めた。

 杉野、城井、安心院、筑紫、草野、宗像、原田、彦山らも続々と降参した

 四月五日、秀吉が秋月城に入った。ここで、立花統虎が秀吉に謁見した。

「父紹雲天下に心を通じ、ついに島津に降りず多勢を引き受け切腹のこと、その功、はなはだもって高し、父の討死後、敵が押し寄せて来た時には、統虎が城を守り抜き、敵を追い散らすのみならず、高鳥居城の星野兄弟を討ち取り、さらには、岩屋、宝満の二城をも奪還した。まことにもって父のために孝であり、天下に対して忠である」

 秀吉は西国一の剛将と褒め称え、太刀、馬を贈った。

 立花統虎に秋月、原田、筑紫、蒲池、麻生ら筑前の大名をつけ、浅野長政を与頭として薩摩への先手を命じた。

 秀吉軍の南下は加速している。

 四月十日(新暦五月十七日)、筑後高良山久留米市

 十六日、肥後隈本

 十八日、隈庄(城南市

 十九日、八代と進み、ここで五日間の休養をとり、

 二十四日、田の浦

 二十五日、佐敷

 二十六日、水俣

 二十七日、ついに、島津領に侵入し出水を占領した。

 五月三日(新暦六月八日)、秀吉は川内、出水の泰平寺に本陣を置いた。

 五月八日、島津の当主・義久が、川内の泰平寺に出頭し降伏した。

 秀吉が義久へ与えたのは薩摩一国だけであった。島津領であった日向国大隅国は取り上げられた。

 五月十四日、都於郡に在陣していた羽柴秀長島津家久を同道して鹿児島へ向った。

 五月十九日(新暦六月二十四日)、最後まで抵抗していた島津義弘が降伏した。島津義弘には大隅国一国が与えられた。ただし、島津義久の領土保全工作も粘り強く、五月二十五日(新暦六月三十日)になって義弘に大隅一国、二十六日には義久以下北郷時久らの所領が安堵され、義弘の子久保に日向の一部、翌年の八月四日、義弘に日向国の残りに相当する地域が許されて、これにより、元の領地を保持したことになる。

 島津家久が佐土原で急死した。島津家当主である義久の許しを得ずに降伏したため家久に毒殺されたというもっぱらの噂となった。

 

 風邪をこじらせて日向国都於郡で病臥していた吉川元長もまた六月五日に逝去した。

 享年四十歳であった。

 吉川経言が吉川本家十七代を相続し、同年九月広家と改称した。

 中国の覇者として君臨していた毛利家も秀吉に屈して後、島津征討戦では先鋒として先駆け、病弱の身を挺して出陣した吉川元春天正十四年(一五八七)十一月十五日に小倉城で没し、嫡男・元長もまた逝去した。

 元春、元長にも劣らぬ知勇を持った広家を当主として仰ぎ、隆盛にいささかの揺るぎもない吉川勢であったが、将兵みなが落胆している。春昌ら吉川勢の嘆きは大きい。

 六月七日(新暦七月十二日)、秀吉は筑前箱崎に凱旋し、ここで次のとおり九州の国分けを行った。

 小早川隆景筑前一国と筑後肥前のうち各二郡(旧領安堵)

 毛利秀包筑後の上三郡

 佐々成政―肥後一国

 黒田孝高豊前六郡

 龍造寺政家肥前四郡(旧領安堵)

 毛利勝信筑前二郡

 立花統虎―筑後の下三郡(旧領安堵)

 筑紫広門―筑後一郡

 高橋元種―日向一郡

 秋月種実―日向二郡

 九ヵ月におよぶ島津征討戦は終った。島津の無条件降伏という結果に嬉々として沸き立ってる上方勢のなかにあって、当主を二人も失った吉川隊の失望は大きく、あたかも敗戦のように打ち沈んでいた。

 

 肥後の国を拝領した佐々成政天正十五年六月下旬に熊本城へ入城した。

 成政は直ちに国中の制法等を定め、その一つとして田畑面積の書付を提出するよう、国侍(地元豪族)五十余人に申し渡した。検地を急いだのである。ところが、国侍は激怒した。島津氏は国侍の領地経営を国侍自身が行うことを認めていた。従って、領地内での田地面積、収穫量等はいちいち報告する必要がなかった。島津氏と国侍たちとの関係は一種の連合であった。秀吉は、それらを全て払拭し中央集中型に変えたのだ。国侍たちの土地は、おのれのものではなくなり、秀吉から借りたものになるという解釈をした。彼らにとっては、納得のできるものではない。しかし、大半の国侍は「仕方なし」として田畑面積の書付を提出した。

 菊池の郡主隈部但馬守入道だけが、これを拒んで、隈府城にたて籠った。八月一日(新暦九月三日)、成政は一万の軍勢でもって攻撃したものの、当城は懸崖、堅固で容易には落せない。それでも大軍を擁する佐々軍は強襲を繰り返し、徐々に圧迫していった。

 八月四日(新暦九月六日)、攻城軍が総攻撃をかけ、これに隈府城内からも内応者がでたため城中の兵らはドッと崩れた。隈部但馬守とその一族、重臣らが斬り死、あるいは自決した。

 八月六日、隈部から五里地点の山鹿城を取り囲んだ。ここには隈部但馬守の子山鹿郡主隈部式部少輔親安が籠っている。親安は但馬守の子でありながら親子の仲が悪く、佐々成政が但馬守の隈府城を包囲したとき、佐々成政に味方して、佐々軍の後方に陣を張った。ところが、但馬守の懇請を受けるうちに、親子の絆が蘇ったのであろう、親子が協力して佐々軍を挟撃する約束をした。これは、直ちに佐々成政の知ることとなり、逆に攻撃されて山鹿城に逃げ帰っていたのである。

 山鹿城には軍兵一万八千人、その外、男女合わせて三万人がいる。

 八月七日、城の大手口で鉄砲の撃ち合いがあったが大きな戦にはならなかった。

 翌八日、攻城軍は城から五町ばかり離れたところに付城二ヵ所を築いて軍兵をいれた。

 十三日早朝、円通寺口から攻め上ったが成政股肱の臣佐々右馬助、赤沢右近、高井左文ら八十余人が戦死した。

 その日夕方、さきに攻略したばかりの隈府城が数万人の一揆勢に取り巻かれた。成政に付き従っていた国侍らがこのことを聞いて逃げ帰り、残ったのは上方勢わずか三千人だけとなってしまった。

 成政は隈府城救援のため二ヵ所の付城に、それぞれ三百ばかりを籠め置き、十四日の晩になって、熊本の一里ほど郊外にあたる鳶の巣というところに陣を移した。

 翌十五日朝から、一揆の大将が陣取っている茶磨山を後方から攻め上り激戦の末、切り崩した。

 この間に、成政本隊は、敵の一角を打ち破り城内へ入った。しかし、隈府城を包囲している敵は退かない。

 数日後、寄せ手の小代下総守らが、寄せ手を裏切るむね城中へ内通してきた。成政がこれに答えて打ってでた。小代も成政に合力して戦ったので、一揆勢は逃げ去った。

 機を逃さず、成政は一揆首謀者の一人である甲斐相模守親秀を御舟城へ攻めて自害させた。

 この外、次々と一揆勢を制圧していったので国内の大半は平治した。

 ところが、山鹿城を包囲している上方勢付城の兵糧が欠乏してきた。しきりに届く救援要請に成政は、立花親成(統虎)に兵糧の搬入を依頼した。立花親成(統虎)は、ただちに三千余騎をもって進軍し、九月下旬、山鹿城から狙い撃ちする敵弾のなかを掻い潜って、二ヶ所の味方付城に兵糧を放り込みながら引いて行った。山鹿城からは、敵兵一千ばかりが出てきて引いて行く立花隊を追撃してきた。

 立花隊はただちに、全軍で反撃に移り、敵兵三百余を討ち取って蹴散らした。

 しかしながら山鹿城を包囲している上方勢付城の兵糧事情が、ますます緊迫してきた。

 太閤秀吉は、黒田孝高筑前筑後からの兵糧搬入を命じた。

 黒田孝高は近従衆のみを連れただけで、筑後小早川隆景のもとに急行した。

 両者が兵糧運送の評定を行なっているさなかの十月一日、豊前国のあちこちで一揆が蜂起した。

 馬之岳城にいた黒田長政は孝高のもとに羽書をもって注進するとともに、馬之岳城にいる手勢をもって、その夜亥の刻(十時)に進発して六里ばかり進んだところで夜が明けてきた。

 長政は近辺の国士らの人質を取りながら諸方の城を抑えていった。

 上毛郡一揆勢は、日隈、高田の両所に城を構えて立て籠った。そのあいだは、わずか五町(五百メートル強)ほどしか離れていない。 

 九月二日、黒田長政は日隈の城を落すべく、城戸口まで攻め寄せたところで城内から多勢が押し出してきた。寄せ手は一度に崩れて引いていった。

「戦いもせずに逃げるとはなにごとか」

 衣笠因幡守と長政の臣、栗山備後守、黒田三左衛門の三人が城戸脇で槍を構えて立ちはだかった。

 城戸を開けてでてきた敵も、三人の気迫に恐れをなし城内へ入って門を閉ざした。

 長政は旗本の兵一千騎を黒田三左衛門に預け置いて、自身は周辺の偵察に廻った。

 このとき、山内村、川底の城主如法寺孫四郎が二千騎を引き連れて、日隈城救援に寄せてきた。

 急を聞いて帰ってきた長政は、味方となっている国侍衆には動くことを禁じたうえで、長政の旗本勢だけで如法寺孫四郎勢に打ちかかって孫四郎を討ち取った。

 これにより日隈、高田ともに人質をだして退城していった。

 黒田長政、孝高父子は、自国の安定が先であるとして、馬之岳へ帰城し、ただちに、長岩城と雁俣岳城に籠っている一揆勢を平定した。

 ところが、豊前国の住人宇都宮中務少輔鎮房は、城井谷(きいだに)に籠って黒田に従わなかった。

 黒田長政は自らが大将となって、毛利の応援部隊を含めた三千騎で城井谷を攻めた。

 宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人宇都宮信房の子孫である。鎌倉時代から四百年ちかく豊前城井谷を本拠地としていた。城井谷は細長い谷で、その最も狭いところに一の戸、二の戸という城門を構えている。

 ニの戸を通過すると宇都宮氏の本城大平城がある。

 二つの木戸は両側から山が迫る要害で容易には陥れることができない。

 一の戸を避けて尾根越えで城井谷へ侵入しようとした黒田勢は、峻険な山中で宇都宮勢に急襲されて壊滅した。

 秀吉の命を受けた毛利輝元は直ちに吉川広家を九州へ進軍させた。

 黒田と吉川連合軍は、正面から攻撃して激戦のすえ一の戸を突破した。

 ついに城井谷へ侵入したのである。細い谷だが水田や畑が広がっている。入ってしまえばなんの変てつもない普通の風景であった。

「次は二の戸だ。」

 春昌らの前は、両側から迫る山が路を塞いでいる。

 ひょうたん型にくびれた谷の最も狭いところが二の戸である。

 谷は、さながら敵をおびき寄せる魔城の入り口のように細くなりながら奥へ奥へと延びている。その奥が宇都宮の本城大平城だ。

「行くぞ」

「われわれが来たからには、敵は、ひとたまりもない」

 吉川勢には過去に敗戦の記憶がない、向うところ敵なしである。それだけに将兵の意気は天を突くばかりだ。

 ところが、広家の下知がでない。

 黒田、吉川勢は二の戸を前にして動きを止めていた。

「宇都宮は大平城が落ちた場合に備えて背後の求菩提山に、最後の戦いを挑むための城がある。城井ノ上城(きいのこうじょう)と呼ばれているその城は、絶対に攻め落とせない城だ」

 地元の国侍らが話している。

「どういうことだ。強襲がだめなら兵糧攻めがあるではないか」

「後方の山を見ろ、英彦山求菩提山がそそりたっているではないか、あれだけの大山は地元の者でも入ることができない。それにいずれも修験の霊場で、多くの山伏らが住んでいる。やつらが宇都宮の味方であるかぎりは攻めようもないさ」

兵糧攻めにならないというのか」

「そうだ、城の前面を遮断しても、背後は、じゃじゃ漏れさ。それに、城井ノ上城と呼ばれる詰めの城は険阻な岩山に囲まれている。表門は両側から巨岩が迫る岩門であり、裏門も天然の岩穴を巧みにつかった岩門となっている。さらに裏門への道は、切り立った絶壁を削りとってつくられ、道に渡した鎖をつたって行かなければならない。あれは、人間の住む城ではないさ、鬼の城だよ」

「鬼の城か・・・それで、軍を進めないのか」

それにしても鬼の城を、一度、見たいものだ。

 だが、進軍を止めた理由は他にあった。

 和議が成立していたのだ。

 和議により宇都宮当主鎮房の娘が黒田長政に嫁ぐことになった。

 しかし、その祝賀に中津城を訪れた鎮房と娘が暗殺され、城下の合元寺に控えていた家臣らも惨殺された。豊臣秀吉の参謀といわれる黒田長政の陰謀だったのだ。

―そういうことか。

 一の戸を突破したところで進軍を止めた理由がわかった。

― それにしても、騙して皆殺しとは…

『恨みを残す』として、誰もが避けてきたやりかたである。

 ついに九州が制圧された。

 天正十七年(一五八九)閏五月、肥後国を治め切れなかった佐々成政は改易され切腹して果てた。