福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

長宗我部(ちょうそかべ)征伐 

 天正十二年(一五八四)四月、羽柴秀吉徳川家康による小牧長久手合戦のさなか、徳川家康長宗我部元親が同盟を結んだ。

 同年九月、長宗我部元親が伊予に侵入してきたため伊予の河野通直と毛利連合軍が圧迫されてきた。

 この結果、河野通直が確保するのは湯築城のみであり、実質的には元親が四国全土を平定したのである。

 

 十一月十五日(新暦十二月十六日)、羽柴秀吉織田信雄の間で和睦がなり、小牧長久手合戦が終了した。

 秀吉は小牧長久手合戦で家康に加担した紀州根来寺、太田党、雑賀党と四国元親征伐に着手した。

 

 天正十三年(一五八五)三月、根来寺を焼き払い、四月には太田党、雑賀党を滅亡させた。この紀州攻めには毛利水軍も参加したが春昌は出陣しなかった。

 

 五月初旬、吉川元春、元長父子連盟による出陣命令が小笠原長旌のもとに届いた。四国遠征である。

 四ッ地蔵城の厩で轡(くつわ)取りの弥助が軍馬の蹄(ひづめ)を削っている。馬が暴れないように一頭づつ畳一枚ほどの木枠の中に入れて片足ずつ手際よく削っていく。

「殿の馬は気が強いから蹄を削るのも大変です。これをしないで遠距離を歩けば蹄が割れて、苦しむのは己なのに」

 弥助の顔から汗が玉になって流れていた。

 隣の納屋では、女らが「キャッキャッ」と騒ぎながら藁で草鞋を作っていた。

 その後方には大小さまざまなが無造作に積み重ねられている。

 草鞋は人間だけのものではない、馬による長距離の遠征には、蹄を保護するため馬の草鞋も必要なのだ。

 家士の山下重郎左衛門が郎従を使って弓の弦を張り替え、鉄砲の玉薬を調合しやすいよう分別袋詰め作業を行なっている。

「湿気にやられないようにしろよ」

 こまかく作業の指示をだしている重郎左衛門が、ふと振り向いたところに春昌がいた。

「殿、初陣ですなー」

「なにを言うか、初陣は、とっくの昔に済んでるぞ」

「今までは、大殿と一緒でしたから、実質の初陣は大殿が出征されないこの度の戦でしょう」

「そうだ、父上は今まで幾多の戦に出られたが、その剣技に敵う者はいなかった。強かった」

「そうですなー、剣士である大殿には、対手も子供のようにあしらわれていた」

「殿も大殿の技量を受け継いでおられますから、心配はしていません。それにしても、四国とは、遠いですなー」

「そーだの」

「それにしても…・紀伊根来衆や四国の長宗我部にしても、徳川家康に加担したから秀吉に攻められることになった。家康が情ある武将なら、当然、根来衆や長宗我部を助けるはず…」

「でも、根来衆は見捨てられた。長宗我部もそうなるのでしょうか」

「いや、家康は恩義を感じていないだろう、家康は織田信雄の手伝いをしたにすぎない。秀吉と戦ったのはあくまで織田信雄だ。だから信雄が秀吉と講和してしまったとき、さっさと手を引いたのだ」

「家康は根来衆や長宗我部を助ける義理がないということですか」

「名目はそうだろうよ。実態は家康と秀吉の戦いだ」

「そうですの、家康としても、もはや秀吉に敵わない。己を犠牲にしてまで助けようとはしないでしょうの」

 

 六月十六日(新暦七月十三日)、長宗我部元親征伐のため、羽柴秀長を総大将とする大坂の軍勢三万が堺の湊から出陣し、淡路の洲本に上陸した。秀吉の甥羽柴秀次率いる近江、丹波勢三万は明石から淡路の福良に着いた。ここから両軍合わせて六万が八百艘の船で鳴門海峡を渡り、阿波の土佐泊(鳴門港)に上陸した。これに合わせて、播磨からは宇喜多秀家蜂須賀正勝黒田孝高ら二万三千人の軍勢が讃岐の屋敷(屋島)に上陸した。

 さらに、毛利輝元小早川隆景、吉川元長ら三万余を率いて伊予への侵攻を開始した。

 全軍あわせて十二万の大軍が、阿波、讃岐、伊予の三方から長宗我部元親に襲いかかったのである。

 これを迎え撃つ元親の軍勢は約四万しかいない。

 東伊予の宇摩、新居二郡の平定を担当することとなった毛利勢が、上陸地とした東伊予は金子、高尾両城を支配する金子元宅が海岸に逆茂木、乱杭を備え上陸を阻止していた。

 毛利勢は新間(新居浜)沖に軍船を碇泊させ、敵方を圧迫しながら上陸を窺っていたが、七月二日(新暦七月二十八日)と三日にかけて一気に上陸した。

 ただちに二隊に別れ、毛利隊は西進して岡崎城を攻略し、高木を通って松本に入った。

 小早川、吉川隊は海岸を東進してその日(七月二日)のうちに、黒川広隆の丸山城を潰し、磯浦の名古城、御代島を制圧したあと毛利勢と合流して金子城を二重、三重に囲んだ。

 毛利勢らは戦闘開始の法螺貝、陣太鼓を合図に鉄砲、弓矢の一斉射撃で戦端を開いた。

続いて将兵が槍や白刃をかざして突撃した。

 城将金子元春は、兄の金子元宅とともに剛将の名をとどろかしている。

 その家臣も命より義を重んじ、名を大切にする士ばかりであった。数十倍もいる寄せ手をものともせず鉄砲で反撃してくる。さらに、凄まじい闘争心をあらわに城外へでて死ぬまで戦う。

「ものすごいのー、死を覚悟した兵ほど強いものはない」

 毛利勢は敵兵の熾烈な反撃に舌をまきながらも、圧倒的多数の強みで次ぎから次ぎへと新手を繰り出し徐々に追い詰めていく。

 七月十四日(新暦八月九日)、ついに、金子元春を討ちとって落城させた。

 金子城を陥落させた毛利勢は、その勢いをもって金子元宅の高尾城に押し寄せた。

 七月十七日、早朝から両軍の凄絶な戦いが繰り返され、籠城将兵の一族郎党全員が討死した。

 金子元宅は十数名だけ残った将兵とともに、小早川勢のまっただなかに切り込んで修羅のごとく戦い、力尽きて動けなくなると自刃した。

 金子元宅の戦死により土佐方に与していた諸城は次々と毛利の軍門に下った。

 いよいよ、阿波白地城に籠る長宗我部元親との直接決戦である。毛利勢は怒涛の勢いで阿波に詰め寄った。

 一方、四国攻略軍総大将羽柴秀長と秀次勢六万は播磨から讃岐の屋敷(屋島)に渡り高松城をあっという間に潰した。

 その後、宇喜多勢二万三千と合流して阿波の木津城を攻略した。

 七月十五日(新暦八月九日)、攻略軍は三隊に別れて秀長は一宮城を、秀次隊は岩倉城、宇喜多隊は、海部城を包囲した。いずれも白地城の防禦線に構えた城である。

 秀長は本陣を辰ノ山に置き鮎喰川を挟んで一宮城攻略にかかった。一宮城には、元親の重臣谷忠澄と江村親俊が五千の兵で籠り、五万の攻城軍をはねのけていたが、水路を断たれたため降伏した。

 長宗我部元親の白地城へ東からは羽柴、宇喜多軍が吉野川を伝って迫り、西からは毛利両川軍が長宗我部方諸城を蹴散らしながら切迫している。 

 徳川家康は長宗我部を助けようとしなかった。

 八月六日、ついに谷忠澄の仲介により長宗我部元親が降伏した。

元親は伊予、讃岐、阿波の三ヵ国を没収された。そのうち、伊予(三十五万石)は、小早川隆景が拝領した。

 四国征伐のさなかの七月十一日(新暦八月六日)、羽柴秀吉が関白に就任し、さらに九月九日(新暦十月三十一日)には豊臣姓を勅許された。

 十月二日(新暦十一月二十三日)、秀吉は、島津氏の圧迫に耐えられなくなった大友宗麟の哀願を受け、島津氏に大友氏との講和を命じた。島津氏は、これを一蹴し九州制覇の北上を続けていた。