福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

5代・福冨七右衛門尉藤原春昌

小笠原家臣団

 

 天正十二年(一五八四)春、毛利氏と羽柴秀吉の講和がなり、毛利軍諸将は鉾を収めてそれぞれの自領に帰っていった。

 秋、四ッ地蔵城にも、つかの間の平穏がもたらされていた。

 明尊から御屋形(小笠原長旌)に願い出ていた嫡男春昌への家督継承が認められた。

 春昌が福冨七右衛門尉を拝命し、仕官することとなった。

 この時期、小笠原長旌の家臣団は、次ぎのとおりだった。『大丸山伝記』

小笠原兵庫頭源長秀(長旌の弟・次男)、小笠原掃部介源元枝(長旌の弟・三男)、小笠原都冶少将源元長(元枝の長男)、小笠原駿河守源元春(元枝の次男)飯田白翁院、

寺本土佐守、坂根筑前守、平田丹後守、平田加賀守、平田若狭守、井原丹後守、井原長門守、尾崎佐渡守、尾崎但馬守、窪田但馬守、原但馬守、小田對馬守、大谷遠江守、田儀遠江守、大久保備前守、金田越前守、山縣備後守、羽隅豊後守、福原山城守、大島和泉守、吉田阿波守、横道石見守、金子修理太夫、三浦善太夫、松田主膳、丘主膳、長道外記、鳥井式部、横道帯刀、

山下彦右衛門尉、福井杢衛門尉、福冨七右衛門尉、福田亀右衛門尉、高橋籐右衛門尉、鎌倉宇右衛門尉、仲間久右衛門尉、丘田勘解由兵衛尉、波多野十郎兵衛尉、小原十郎兵衛尉、三上重兵衛尉、野田三郎兵衛尉、赤田権太左衛門尉

山田彦太郎、安邊孫次郎、井原孫三郎、坂根小三郎、立野彦三郎、山田新四郎、志谷源四郎、松本彌四郎、松島助四郎、羽根善四郎、松前源五郎、福原源五郎、有山源八郎、田原八郎、浦島九郎、田原重郎、武田十郎、塩田十五郎、高井又次郎、川上又五郎、馬場又八郎、

塩田又十郎、馬木彦七、樋口源内、尾崎源次、仲間籐次、本田兵衛、本田兵六、安田兵六、

佐々木源蔵、丘本大蔵、有馬兵蔵、今井平蔵、野瀬半蔵、福屋縫殿之介、金坂掃部之介、

山崎左京之介、原釜左京之介、熊谷木工之介、松井辧之介、丘兵部之介、渡邊能登之丞、

兼富次郎之丞、市川三郎之丞、小畑四郎之丞、青木五郎之丞、窪田市之丞、

樋口次郎丸、三宅六郎丸、和田七郎丸、三田七郎丸、平井九郎丸、金田宋彌、

 以上のとおり、小笠原家臣団の勇将は約百名であり、各々の郎党を加え、戦のときに臨時に集める足軽を加えると一千五百から二千名ほどの兵団となる。

 当時、群雄割拠する石見の豪族らも、ほぼ互角の勢力であった。