福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

山崎屋敷 

 

 石見の国人衆すべてが毛利氏に臣下してからは石見国内での戦はなくなった。

 もはや、四ッ地蔵城も要害としての役目を終わり居館の機能しか果していない。

 しかし、小笠原軍団としての四ッ地蔵城だ、独断で取り潰すことはできない。

 明尊は四ッ地蔵城を嫡男昌康にまかせ、福光下村(しもむら)の所領に隠棲することとした。

 福光湊から福光川沿いに東へ十町(約一キロ)ほど入った地の、低い山の麓に屋敷を建てた。妙見山と呼ばれるこの山は、お椀を伏せたように南へ突きだしており、日本海から侵入する外敵の一次防禦線として構えた城(妙見山城)がある。しかしここも、閉められたままである。

 妙見山の南麓に広がる屋敷を凹字型の濠で囲み土居を築いた。(この濠は、徳川時代なってから灌漑用の溜池となる)

 福光下村のほぼ全域を領する福冨七郎左衛門にふさわしい壮大な屋敷となった。

「福光は良い、朝から晩まで日が当たる。」

 明尊が気にいっているように、南向きに建てた山崎屋敷の前を、左から右手へと太陽が通りすぎる。一日中さんさんと照りつける太陽の恵みを受けて稲穂はふくらみ旨味を増す。

 狭い谷間で日差しがあっという間に通りすぎる浅利村の稲とは各段の差がある。

 家督を昌康に譲ったあとは、この地で隠棲したいと、常々思っていた。

 下村は福光のほぼ中央を東から西に流れる福光川右岸全域にあたる。現在の市地区から森分地区、そして釜野地区にいたる広範囲であった。

 現在、森分地区と市地区の境目に日露戦争以来の戦没者を追悼する忠魂碑が建っている。この前方に広がる荒地が山崎屋敷跡である。

 現在、濠や土塁といったものは何も残っていないが、昭和四十年代はじめのころまでは、屋敷の東端に濠の一角が一畝(三十坪)ほどの畑となって残っていた。畑から見上げると石垣が二メートルほど築かれ、そのうえに土盛の屋敷跡があった。

 屋敷跡一帯の地名を土居といい、屋敷跡を山崎土手という。わずかに、残った地名が当時の隆盛を偲ばせるのみである。

 

福冨七郎左衛門(七右衛門)尉藤原明尊

元和七年(一六二二)六月二十九日(新暦八月六日)卒

戒名松翁道林居士