福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

鳥取城

 天正九年(一五八一)二月二十六日(新暦の三月三十日)、村のあちこちに咲き始めた桜が、うららかな春びよりを喜ぶように美しさを誇示している。

 この日、羽柴秀吉因幡侵入を阻止するため鳥取城督となった福光物不言城主吉川式部少輔経家は、朝枝加賀守、山縣筑後守、森脇内蔵大夫、野田左衛門尉、今田孫十郎、ら軍勢四百人とともに鳥取へ向った。

 村の中は出征する将兵や見送る村人でごったがえしている。

 歓声をあげ、兵らを激励していた村人は突然、言葉を失った。颯爽とした笑顔で馬上に跨る若殿の後ろから追従する小者が首桶を奉げ持っている。

 わずか三十五歳でありながら家督を嫡男に譲り、自分の首桶を持参しての出征である。

 村人の顔から笑顔が消え、道端に土下座して無言で見送るばかりとなった。

 

 天正九年(一五八一)三月十八日(新暦四月二十一日)、鳥取城に入城した経家は、あまりにも少ない兵糧に愕然とした。城兵千四百人余りに対して二、三ヵ月分しかない。

 吉川元春に糧米の補給を要請するとともに、海からの食糧確保のため、城と加露港との中間に丸山城を築いた。ここには、塩冶周防、佐々木三郎左衛門、奈佐日本助、山縣左京と吉川元春から派遣された堺與三右衛門らを詰めた。

 しかし、秀吉の戦法は経家のそれをを上まわるものがあった。経家は鳥取城に入城したとき戦の出発点であったが、秀吉はそれよりはるか以前から鳥取周辺の米を高値で買いあさった。さらに戦が始まると周辺の住民に危害を加え城内に追い込んだ。長期包囲戦を着々と進めていたのである。

 

 七月五日(新暦八月四日)、羽柴秀長藤堂高虎以下三万の先鋒隊が丸山東方の吹上浜へ上陸、丸山城と対峙した。

 七月十二日(新暦八月十一日)未明、羽柴秀吉鳥取東北の高山(二五二メートル・現在の太閤ヶ原)に本陣を置き、鳥取城の前面を流れ外堀の役割りをなしている袋川筋に浅野矢兵衛、中村孫平次、蜂須賀家政、小寺官兵衛らを配し、雁金山には、宮部善乗坊、垣屋駿河守らが陣を敷いた。また、海上は、荒木平太夫らが数百艘の舟で固めるという徹底した包囲網となった.

 秀吉軍は城の周囲三里四方に尺搆を結び、河岸には乱杭を打ち、逆茂木をひき、水底には縄網を張って鳴子をつけるという徹底した包囲網を敷いた。

 城外へ出そうとした伝令は、ことごとく捕まって殺された。

 兵糧補給もかなわず、城内の食糧は欠乏してきた。 

 

 鳥取城の惨状は、明尊にも密偵により刻々と知らされてくる。想像を絶する飢餓に襲われているらしい。

「城は、二重、三重に包囲され、城を取巻く敵の陣は篝火を煌煌と燃やし、まるで夜がないようでございます。その為、儂らは城に近づくことができませなんだ。包囲勢に紛れて城内を覗いますと…。食べ物もないようで、飢えから柵の近くに出た者は、包囲勢から狙い撃ちされて…・斃れた者を、他の者がむしゃぶり食うという惨状でございます」

―早く、救援隊を出さなければ…。

 明尊らに転進の命令が来ない。

―毛利さまや吉川(元春)さまは何を考えているのか。

 こうしてもたもたしている間に手遅れになってしまう。

 明尊と吉川経家とは所領が同じ福光郷にある。

 だから、人ごととは思えない。

「何をしているのだ」

 明尊には理解できない。はがゆさで奥歯がきしむ。

 だが、毛利、小早川は、東から宇喜多秀家、西から九州の大友宗麟に隙を狙われて動けない。

 鳥取城は全員が飢え死にする様相を呈しているという。

 柵近くへ出て秀吉軍に狙い撃ちされた兵を、他の兵らが群って食べている。

 ついに、吉川元春鳥取城救援に踏み切った。

 明尊ら小笠原隊も出陣である。

「秀吉五万の兵に、わずか六千で何ができるというのか」

輝元、隆景が制止した。

「剛直な性格をもつ経家は、敗け戦となれば自殺をもって責任を取るであろう、死なせてはならない」

 元春は輝元、隆景の制止を無視して出発した。

 明尊らは今まで救援に駆けつけなかった己を恥じるように道を急いだ。

 十月二十五日(新暦十一月二十一日)、伯耆因幡の国境に近い馬野山に陣を構えた。

 明日には鳥取城を囲む秀吉軍と決戦になるだろう。明尊らは、敵の十分の一しかいない軍勢で決戦を挑まなければならない。兵らは、どことなく無口である。明日の苦戦を想定してのことだろう。

―ものごとを想像によりくよくよするのはやめよ。

 明尊は兵らに言いたかったが、兵らも声に出しているわけではないと口をつぐんだ。

 

 その夜、骸骨のごとく痩せた難民が、ぞろぞろと這うように歩いてきた。

 木の枝や竹を杖に、歩くのがやっとという体である。

 よく見ると、見覚えのある顔が多い。それにしても、哀れな姿に変わり果てていた。肉は削げ落ち骨に皮が張りついているだけだ。頭髪はほとんどが抜け落ち、皮膚はかさかさに乾いて皺だけとなり、まるで老人になってしまっている。

―物不言城の衆だ。

 なんということだ、鳥取城は落城したという。

 吉川経家は人肉までも食うという目も当てられぬ城内の惨状に、自分の命を犠牲にして兵を助ける決意をした。

 十月二十五日(新暦十一月二十一日)寅刻(午前四時)、経家は静間源兵衛の介錯により自刃した。

 

 籠城の兵らは、経家の仁愛に泣き、

「申し訳ありません、申し訳ありません」

 呪文のように繰り返している。

 明尊は経家が物不言城を出陣したとき、追従する兵に持たせていた首桶を思い出していた。そのとき経家の覚悟のほどを知らされた明尊であったが…・・

「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」

 御大将の冥福を祈る唱和が周辺に広がって行く。

 明尊も脳裏に去来する経家の勇姿に頭を垂れ、粛然と合掌した。

 経家は、ほとんど戦らしい戦をせずに破れた。しかし、経家の、あまりにも武士らし  、いさぎよい最後に、敵味方一同が感泣した。

 

 二十七日(新暦七月二十三日)、吉川元春が陣を敷いている馬野山の、すぐ目前にある御冠山から羽衣石山城にかけて秀吉軍三万が進出してきた。

「速い」

 ぞくぞくと集結している秀吉軍の動きは素早く、統一がとれている。たちまち攻撃態勢に入った。最前線に展開する鉄砲隊だけでも三百人はいる。

 秀吉軍からみれば、六千の吉川勢なんて、たちまち潰せると思っているだろう。

馬野山は低く、山というより丘である。北には日本海が迫り、南は東郷池、背には橋津川が流れている。

「こんな所で、三万対六千の軍勢では勝負にならん、たちまち吉川勢が壊走してしまう」

 吉川勢に動揺が、いる。

「橋板を外せ、橋板を外せ」

 吉川元春の伝令が走ってきた。

「なんだと、橋板を外せだと」

「逃げ場が無くなるではないか」

 三万の敵が一気に攻めて来たなら、川に追い落とされてしまう。古今来の兵法では最も危険とされている。

東郷池の舟もことごとく放り離したらしい」

日本海の橋津に停泊している舟も陸に上げたぞ」

「なに、われわれの警護のため来た舟をか」

「そればかりではない、それらの舟の櫓や櫂をことごとく壊したらしい」

 吉川勢がざわめいている。

 背水の陣を敷いたのだ。

 秀吉軍が動き出した。

吉川勢めがけて進んでくる。

「急げ!橋板を外せ」

「前面に立てて、玉避(よ)けとせよ」

 伝令が走る

 吉川隊将兵に動揺が奔っている。

 後退する道も無く左右逃れる方法も無い。そのうえ、海上に出る術も絶たれている。

―もはや、命を限りに戦うしかない。

 退路を断った吉川勢が、まなじりを決して迎撃態勢を組む。

「式部少輔経家さまの弔い合戦ぞ」

 逃げられないのがわかると、ふしぎと気が落ち着いてきた。六千の兵が一丸となって秀吉軍と戦うしか活路はない。

 吉川勢に気迫が満ちてくる。

 秀吉軍の動きが止まった。 

「さあ来るぞ」

 明尊らは白刃をかざして待ち構えた。

 ところが、対峙したまま止まっていた秀吉軍が引き上げていった。

 経家の弔い合戦に命を賭けている吉川勢と戦っては、味方の被害も大きくなる。

 すでに鳥取城を手に入れている秀吉は、これ以上の戦いをする必要もなかったのだ。

 元春が執った背水の陣は、元春の武名とともにとどろきわたった。

 京、大坂では、囲碁や将棋で、思い切った覚悟をすることを「吉川、橋を引きたる所業をなせり」と言う流行語となった。

 吉川経家の最後については、経家が残した五通の遺書及び経家の小姓として籠城した山縣源右衛門尉長茂の手紙によって明らかにされている。(石見吉川家文書)

 

 織田信長の毛利領侵食に容赦はない。

 

 天正十年(一五八二)三月、甲斐国では、織田軍の滝川一益に包囲された武田勝頼が甲斐天目山のふもと田野において自殺した。鎌倉以来の名門武田氏も滅亡した。

 

 五月七日(新暦五月二十八日)、備中高松城が秀吉に包囲された。

 高松城は岡山平野の真中に位置する平城である。足守川と沼沢池に囲まれ、いざというときには城に通じる橋を落とせば、城は浮島となって攻めることができない堅城である。

 高松城を守る清水宗冶も吉川経家に劣らぬ猛将である。

 死守する覚悟で籠城に入った。

 石見、出雲の兵からなる吉川軍一万二千も、ただちに高松城救援に向った。

 五月二十五日(新暦六月十五日)、織田軍先鋒・宇喜多勢二万により攻撃を開始したが、数百の犠牲を払って後退した。

 高松城を攻めあぐねた秀吉は水攻めに切り替えた。

 五月八日から足守川の堰止め工事を開始し、わずか十九日間で幅十間、高さ四間、長さ二十六町(約二・八キロメートル)におよぶ大堤防を完成させた。

 梅雨の時期とあいまって、堰止められた水はたちまち高松城を孤立させた。

「なんと、沼のなかに水浸しの城がある。」

 応援に駆けつけてきた毛利軍は愕然とした。

 水びたしの城ではどうすることもできない。

 吉川元春は寺山に、小早川隆景は日差山に陣を敷いて秀吉軍と対峙したものの、無策な日ばかりが過ぎていった。

 そんなさなかの六月二日(新暦六月二十一日)、京都の本能寺で織田信長明智光秀に攻められて自刃した。ところが、毛利軍は、これを知らぬまま秀吉との講和交渉を続けていた。

 六月四日、羽柴秀吉毛利輝元との講和により清水宗治は自刃し、高松城が開城した。

 六月六日、秀吉は毛利軍の陣払いを待って、畿内への引きあげを開始した。

 まさにそのとき、毛利軍も織田信長が死んだという情報をつかんだ。

「だまされた。ただちに追撃して秀吉を討て」

 毛利軍がいろめきたった。

「待て、追撃はならん、武士が誓いを破ってなんとする。だまされたとあっても、誓いは守らねばならない」

 小早川隆景が追撃を止めた。

「ものすごい速度で、走っています。あれでは、まさしく敗走です」

「敗走…・」

 三万の秀吉軍が全速で走り去った。

「あれだけ素早く逃げ去っては、たとえ、追撃していても追いつけなかったでしょう」

「小早川さまの判断が正しかったということか」

「それにしても、秀吉のやることは凄い」

 毛利軍は、ただ舌をまくばかりである。

 

 天正十年(一五八二)六月十三日(新暦七月二日)、山崎合戦により羽柴秀吉明智光秀を破った。

さらに、翌年四月には賤ヶ岳で柴田勝家を破った。勝家は北庄で自殺した。

 七月、羽柴、毛利間の講和交渉が持たれた。

 十一月、小早川元総(秀包)と吉川経言の二人が、人質として羽柴秀吉のもとへ行くこととなった。

「これでは、敗北だ」

「秀吉との講和交渉にあたった安国寺恵瓊は、毛利元就さまに潰された安芸武田の子孫ではないか、毛利に恨みを持っているから、人質を出さなければならないようなことをしたのだ」

 明尊らは、切歯扼腕したが、如何ともしがたい。

 この悲憤は、経言自身も胸の内に秘めていることであった。二人は、秀吉から優遇され、元総は、秀吉から一字を与えられて秀包と改め、経言は、蔵人に任じられた。十一月、秀包を大坂に留め、経言の帰国を許したが、恵瓊に対する遺恨は消えることなく、やがて慶長の役関ヶ原の戦いへと尾を引くことになるのである。

 吉川経言の配下となって数々の戦場を走りまわった明尊らは、己の大将をとられる慙愧に苛まれている。

 平然とした態度で旅立つ経言を、明尊らは土下座号泣して見送った。

 経言には、小坂春信、二宮俊実が、元総には、桂広繋と浦兵部丞が随行して、案内の恵瓊とともに出立したのであった。

 

 そして、翌年(天正十二年)春、羽柴氏と毛利氏の講和が整った。

 

 天正十二年七月(一五八四) 主君小笠原長旌から嫡男昌康との面談が通知されてきた。

 かねてから小笠原長旌に申し出ていた昌康への家督相続願いの件である。

 昌康にとっては、初めての「お目見え」である。

「七右衛門の嫡男か、何歳になるか」

「二十七歳になりましてございます」

 昌康は、緊張で顔がやや青くなっているが慄然と答えた。

「七右衛門よ、槍の伝授は順調か。」

 小笠原長旌の質問に、

「それがしが、相手しましょう」

 応じたのは小笠原軍団戦(いくさ)奉行の大島和泉守である。彼もまた、『槍を持つと敵なし』といわれるほどの剛勇者である。

「ありがたきお心づかい」 

 明尊が礼を言ったので、昌康は父に合わせて平伏した。

 庭に下りると、和泉守は、

「よい」

 と言って、若者が用意した木槍を取らずに真剣を手にした。

 昌康も真剣を持って一礼すると槍を正眼に構えた。和泉守は、ゆったりと槍を構えているがその矛先は昌康の目を据射えている。

 静かに構えている槍の穂先に『大島さまの身体が隠れていく。』と、昌康は思った。それは、剣士重兵衛と毎朝行っている訓練のときにいつも経験していることである。同時に硬くなった心身から柔らかさが蘇ってきた。それを待っていたかのように和泉守の穂先が昌康の穂先を軽く二・三度突いた。

「さすが七右衛門殿、よくもここまで伝えられた」

 昌康から目を離さない姿勢のまま、和泉守が槍を収めた。昌康も正眼のまま数歩引き下がって丁寧に礼をした。

 明尊が笑みを浮かべて和泉守に目礼をしている。

「七右衛門よ、昌康への相続を許すぞ」

「ありがたきお心づかい」

「昌康、今日の対戦は、どう思うか」

弥山城からの帰途、明尊が言った。

「大島さまの姿が、師重兵衛どのと代わりましてございます。すると、気も落ち着いてきました」

「鍛錬の成果が出たということよ」

 明尊は、さりげなく言ったが、

―槍の穂先を数度合わせたのみで敵の技量が判るようになるには、幾度も戦場を経験せねばならない。

「大島さまともなれば、穂先を合わせただけで敵の技量は判るものよ。だがの、それも敵に殺意がある場合のことよ」

 敵に殺意がなければ技量なんて判るものではないが、大島さまは、それを承知のうえで、昌康を御屋形に推挙してくれたのだと、明尊は気づいていた。

「昌康、今後、真剣で立ち会ったら、対手か、己かいづれかが倒れるまで闘わなければならないということを肝に命じておけ。武士というものは滅多なことで他人に真剣を向けてはならないが、一度刀を抜いたら対手か己か、いずれかが死ぬまで闘わなければならぬぞ」

 いつになく厳しく言った。

 

 翌日、明尊は山田重兵衛に言ったものである。

「昌康を頼むぞ、こいつはものごとに熱中すると見境がなくなるからの、しっかりと駆け引きを教えてくれよ」

「それは、無理というものでござりましょう、殿のお子ですから」

「血は争えぬということか」

 重兵衛は口をとじたまま愛想をくずした。

 重兵衛の歯は、すでに抜け落ち、口元が大きく窪んでいた。