福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

忍山(おしやま)の城

 天正七年(一五八〇)二月、毛利麾下の有力武将備前岡山城宇喜多直家が離反し、織田信長についたことが確実となった。 

 宇喜多直家備前、備中と美作の一部を支配する大名であり、毛利にとっては重大な損失となる。

 毛利輝元は宇喜多の領国を攻略するため、吉川元春と元長(嫡子)、経言(三男)小早川隆景ら四万騎でもって美作に出陣した。

 毛利軍は芦田太郎の守る小寺畑城(真庭郡久世町)へ押し寄せ、二月十二日に強襲で攻略した。

 強襲は力と力の正面衝突である。それだけに攻撃側の被害も大きい。それをあえて決行した輝元の凄まじい闘志に、随従する諸将らも命をすてる覚悟を決めざるを得なくなった。

 小寺畑城を一蹴した毛利勢は、その勢いにのって十六日には大寺畑城(真庭郡久世町)を取り囲んだ。この城には、宇喜多直家の婿江原兵庫助親次と羽柴秀吉から派遣された兵らが籠っている。

 毛利勢は高田城(岡山県真庭郡勝山)に本拠を置き、毛利家の旗本衆と小早川勢で一隊を組み、もう一隊を吉川勢として左右二手に分れて布陣した。

 明尊ら小笠原隊は砥石山の尾根に広がる城をめざして進撃していた。

 そのとき、城を捨てて逃げようとする兵がバラバラになって下りてきた。

「敵は逃げる気だ、一人も逃がすな。」

 吉川勢が敵兵を追い詰めて討ち取っていく。たちまち数十人を討ち取った。

「さいさきいいぞ、敵を軍神の血祭りにあげろ」

 明尊らは勇躍している。城からでてきた敵兵は、あわてて城内へ引き返している。

 明尊は敵兵にまぎれて城内へ侵入しようとしたが、いま一歩のところで間に合わなかった。

 城門が閉められ、至近距離から狙い射ちする敵の矢に味方が次々と斃れた。

「退け退け」

 あわてた攻城軍が矢の射程距離外に退いた。

 その夜半、籠城していた楢崎弾正が毛利軍に内通し、城内の家屋に火をかけて攻城軍を城内に引き入れた。

 このため、毛利勢の猛攻に耐えられなくなった江原兵庫助らが篠葺の城(真庭郡久世町)へ逃げたため、大寺畑城は毛利のものとなった。二月十七日のことである。

 篠葺城の宇喜多勢は寄せてくる毛利勢を見ると、一戦もせずに備前めざして逃げ去った。

 これをみた岩屋城の連中も高田川対岸の宮山城へ逃げ去った.

「次ぎは、宮山城だ」

 毛利勢は破竹の勢いで旭川を渡って宮山城(落合町高田)を包囲した。

 宮山城には市三郎兵衛とその嫡子・五郎兵衛、葦田太郎ら三千人が籠って、激しく抵抗してきた。数日間の小競り合いのあと、こう着状態になった。

 そんなある日、毛利勢は宮山の里にある温泉で湯浴みの毎日を送っていた。ところが入浴中の者を討ち取ろうと城方がでてきた。

 毛利勢も江田新右衛門、山県源右衛門らが鉄砲を持って助けにでた。

 城方は、さっと退いて竹林の中の民家に籠り毛利勢を待ちうけた。

 さらに、城から応援が出て七、八百人ほどになった。

毛利勢は吉川元長自らが一千騎を率いて、民家に籠っている城方を攻撃した。

城方は散り散りになって城に逃げ入ろうとする。毛利勢が追撃して城門の前まで押し詰め柵を切り破った。城中から厳しく矢で反撃してくる。

 至近距離での狙い撃ちに、明尊らはうつ伏せになって矢を避けるのが精一杯となっていた。

もはや、退くこともできない、矢の間隙を衝いて突入するしかない。

 矢がバシッバシッと甲冑に突き刺さる。あちこちで悲鳴があがる。

「井下左馬允さまがやられた」

「森脇弥五郎さまをお退げしろ」

 すぐ近くで、続々と負傷者が出る。

―なんとかしなければ。

 明尊は這いながら徐々に登っている。周りの将兵も必死の形相で城をめざしている。

―一番乗りは、儂がとる。

 明尊が気を奮い立たせて、突入しようとした、そのとき、

「小笠原次郎右衛門さまがやられた」

 明尊のすぐ横で、悲壮な声があがった。ギクッとして振り返ると、小笠原隊の将兵

 次郎右衛門を中に円陣を組むところであった。

―命には別状なさそうだ。

 明尊はホッとして円陣に加わった。

「伏せろ」

「伏せろ」

 下から吉川元長の大音声が響き渡った。

 明尊らが地に伏せると同時だった。

 ドドドンと鉄砲の轟音が山を揺るがした。後方から城をめがけての一斉射撃であった。

 明尊は、頭を地につけて目をつむった。

「儂らの後ろから撃つなんて殺生だぜ」

 小笠原隊は、しきりにぼやきながらも這いつくばっている。

 頭上を通過していく玉の音がピュウと耳に入ってくる。

 連続しての射撃に、敵が総崩れとなって逃げ始めた。

明尊らは、やっと敵の矢から開放された。

それーとばかりに城内へなだれこんだ。

宮山城もついに落とした。

 ここで、毛利軍はひとまず解散して、明尊ら小笠原隊も石見へ帰ってきた。

 

 十月下旬、吉川元春小早川隆景の連絡を断つ作戦にでた宇喜多直家は、さきに毛利軍が占領していた大寺畑城と小寺畑城を奪還した。

 さらに、伯耆羽衣石山城主の南条元継と連係しながら備中の忍山城を宇喜多信濃守らが占拠した。同時に祝山城をも包囲した。このため、毛利方の祝山城は孤立した。

吉川元春は毛利軍山陰道の主将として羽衣石山城に迫り長郷田合戦の末、南条兄弟を追い払った。

 

 十一月中旬、毛利軍は、これまでのやり方を変え、吉川、小早川軍を加え、毛利三家を一本に結集して、備中忍山城奪回戦を展開することとなった。

 毛利輝元吉川元春小早川隆景ら三万騎が備中へ進攻した。吉川元春は、元長、元氏、経言三兄弟を連れての出陣である。

 明尊ら小笠原隊は、経言の配下となった。

 明尊は、吉川元春のことを「文武ともに優れ、常に的確な即断をもとにした勇猛果敢な将」と畏敬している。陣中において、『太平記』や『三国志』等の書写をしている姿を幾度も目撃していた。一方、経言のことは、父元春の性格をもっともよく引き継いでいると思っている。ただ、猪突猛進が前面にでてしまう怖さはあったが…・。

 

 忍山の城では、宇喜多信濃守の兵一千が「毛利の兵なにするものぞ」と待ちうけている。

 吉川元春は経言に二千騎を差し添えて、備前から来つつあるという敵方援軍の偵察を命じた。

 経言は、あちらこちらと偵察を重ねながら忍山城近くまで押し寄せて、城の強弱を窺っているところに、

「忍山の城救援のため、岡越前守、長船紀伊守ら五千騎が今日、当地へ着陣する」という情報をえた。

 それなら、ということで経言隊は、岡、長船隊と決戦すべく引き返そうとした。これを見た城方一千騎が追撃してきた。

「待ってた」とばかりに、経言隊が鉄砲の雪崩撃ちで、敵の足軽隊を撃破し、騎馬隊を宇喜多、岡めがけて突入させた。宇喜多勢の先陣が崩れて引くと、岡隊が押し返して戦ったが、後陣から崩れて城中へ逃げいった。吉川経言隊は追撃して城山の下を焼き払って引き揚げた。

 その夜、吉川経言の命令を受けた下清左衛門が城内へ潜入して建物に火を付けた。

 火の手が上がったのを合図に、吉川経言が先頭をきって城に突入していった。

 明尊が城内に駆け込んだときには、すでに白兵戦がはじまっていた。

 火は風を呼び、次々と建物に火が燃え移った。あちこちで凄絶な闘いを繰り広げている敵味方の顔を照らし出している。

 そのとき、明尊は、ひときわ大きい闘争集団を見つけた。敵の守将宇喜多信濃守に群がる吉川勢である。剛勇で有名を馳せた宇喜多信濃守は、高名を狙って群がる吉川勢に一歩も退かずに奮戦していた。すでに脱出をあきらめ、死を覚悟した姿であった。信濃守のまわりには、もはや、旗本の兵もいない。足元には彼の犠牲となった多くの兵が倒れている。

―しめた。

 明尊の心が踊った。千載一遇の好機である。

「宇喜多信濃守さまと覚える、石州住人、福冨七郎左衛門見参、尋常に相手願いたい。」

 明尊が、大音声で将兵を蹴散らした。

「オー」

 信濃守が槍を捨て、刀を手にした。

 明尊も得物を刀に替えた。

 信濃守の剛刀が振り下ろされてきた。

 信濃守の打ち込みを、明尊が入り身になって腰を落とし、くるりくるりと廻りながら払い捨てている。一刀斎流払捨刀であった。周りの将兵には、蝶が舞っているように軽やかにみえているが、その実は、信濃守の小手を払い、胴を払いながら少しずつ傷つけていた。

 明尊が、裂ぱくの気合とともに鋭い剣先を敵の右眼に送った。信濃守が顔面を両手で覆いながら、非常にゆっくりと倒れていった。

 秘剣『稲妻』の突きは、確実に信濃守の眼を貫いていた。

 二人を取巻く敵味方軍勢のなかで、誰ひとりとして明尊の動きを見極めた者はいなかった。

 すかさずとびかかって組みつき、信濃守の首根に刀をくい込ませた。

「小笠原隊福冨七郎左衛門なり、敵方守将宇喜多信濃守を討ち取ったりー」

 明尊は信濃守の首級を左手で高々と上げた。頭内に圧迫されていた血塊がドッと噴出し明尊の顔面を覆っていた。

「おのれ」

 横合いから明尊めがけて突きだされた槍を皮一重のところで躱(かわ)した。

「卑怯であろう、尋常に立ち会え」

 体勢をたてなおした明尊の面前に立っているのは、なんと…敵の副将岡剛介であった。

「岡剛介」

 面前の武将が叫んだ。目の前で宇喜多信濃守を討ち取られ逆上しての反撃であったのだ。

「石州住人、小笠原隊福冨七郎左衛門なり、御首頂戴つかまつる」

「小癪な、来い」

 岡剛介の槍がするどく肉薄してきた。

 体を躱すゆとりもなく刀で刎ねのけ、攻撃を凌いでいた明尊が、一瞬の隙をつかんで飛び込んで体当たりした。固唾をのみ、勝敗をみつめる敵味方将兵が二人を囲んでいる。

 ついに、明尊が組討ちにより剛介を仕留めた。

 ウオーというどよめきが周辺に響いた。

「殿、勝ち名乗りを」

 喜兵衛に促されて、立ちあがった明尊の大音声が辺りに響き渡った。

「おみごと!」

「おみごとでござります!」

「おめでとうございます」

 明尊は次々と飛び込む祝辞も耳に入らないほど喜悦に酔っていた。

 郎従の喜兵衛が、二つの大将首を丁寧に持ち上げ、明尊に捧げた。

 たちまち城方は崩れ、夜陰にまぎれた者は落ちのび、見つかった者は首を取られていった。

 吉川隊の挙げた首級は、敵将宇喜多信濃守以下五百三十人余と「陰徳太平記」に記されている。

「大丸山伝記」にいう。

天正七年(一五七九)十一月 備前の国加茂府にて合戦があり、福冨七郎左衛門尉敵方の座首二人を討ち取り無比類の高名となる。その他の諸侍も名誉の手柄をたてて無事に帰軍した』

 明尊は、このときの手柄により、小笠原長旌より感状を受け福光に十貫文の地を給わった(感状筆者 大島和泉守)明尊四十六歳にして掴んだ高名であった。

 これにより、明尊は福光下村十五貫文の地(約百八十石)を領したことになる。

 江戸時代に石見銀山領となった福光地区の村高をみると、福光下村は百八十四石、湊は二百八十石、林村百六十七石、本領(湊地区の一部と白谷地区)百七十石となっている。

 このことから考察して、福冨七郎左衛門が福光下村のほぼ全域を領したことになる。

 ちなみに、このころ、物不言城の吉川経家領千六百五十六石のうち、福光郷内は、本領二十貫、湊村二十五貫(合わせて四百五十石)となっている。

 福光は福光川を境として左岸(南側)を吉川家が、右岸(北側)を福冨家が領することとなったのである。

 

 宇喜多から取り戻した忍山城へは、毛利家から桂左衛門大夫、岡宗左衛門を入れて守らせ、毛利、吉川、小早川隊は伊賀久隆の籠る虎倉城を包囲した。

 これに対抗すべく宇喜多直家は、秀吉の援軍を得て美作、祝山城を孤立させた。

 この戦の最中、天正八年一月(一五八〇)播磨三木城を織田信長の武将羽柴秀吉に取られた。

 織田信長の容赦ない侵攻に、毛利領は、波打ち際に築いた砂の城さながら次々と削り取られていく。

 

 同年二月、 小早川隆景は虎倉城の包囲を固めたまま吉川元春とともに北上、宇喜多方の大寺畑城を攻略、つづいて祝山城の救援に向うつもりだったが、備中南部の情勢が悪くなったため元春だけが祝山城救援に向った。

 宇喜多が虎倉城救援隊を派遣したことから、吉川元春も途中から退き返し、毛利対宇喜多、織田連合軍と熾烈な戦いを展開していった。

 この間に、毛利軍の救援がおよばなかった祝山城は陥落してしまった。

 

 小笠原家は吉川元春の三男経言を養子として迎えたいと願い、長旌の娘を新庄へ送った。名を千代姫という。小笠原家中でも屈指の美女であり、気立ての優しい娘であった。経言と仲むつまじく、似合いの夫婦になるはずであった。ところが、小早川隆景は、小笠原家人のなかで経言養子に反対勢力のあることを理由に反対した。

「小笠原家中で、儂に刃むかうやつは、粛清すればよい」

 御祖父(元就)も、父(元春)を吉川家へ入れてから、吉川家当主であった興経を殺害した経緯がある。

 経言には、その自信があった。

「千代姫と夫婦となる」

 千代姫に約束したばかりである。父元春も了承している。にもかかわらず、小早川 隆景は、毛利輝元を引っ張り出してきた。宗家の命となれば従わざるを得ない。

 経言は諦めざるを得なかった。

 泣く泣く新庄から立ち退く千代姫の輿を見送る経言もまた、心を押し潰されるような暗澹たる気持ちに涙していた。

 このことにより、経言の心に叔父小早川隆景に対する心の隔てが生じてきていた。

―叔父御は、儂に冷たい。

 経言の一生にわたってつきまとう、わだかまりとなった。

 小笠原家としては、吉川から養子を迎えて毛利三家(毛利、小早川、吉川)と同様の絆を得ようとしたのであるが、仮に経言を小笠原家当主として迎えることができたとしても、その五年後には、吉川本家の嫡男が死亡したため、経言は小笠原を捨てて吉川本家を継いだであろうことは明白である。

 

 

 

 元亀元年(一五七〇)以来続いていた石山本願寺織田信長との抗争が天正八年(一五八〇)三月に講和という形で終了した。実質的には本願寺の敗北である。

これまで、本願寺に肩入れしてきた毛利に対して、信長による攻勢は必至となった。

 

 この年、小笠原長旌により小笠原軍団の再編が行われ、明尊は、名を七右衛門と改めた。