福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

筑前立花城

 永禄十一年(一五六八)七月中旬、またしても出陣命令がきた。

 筑前立花城主立花鑑載が大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻し、毛利家に庇護を求めてきたためである。毛利元就は伊予から帰ったばかりの小早川隆景吉川元春に出陣を命じた。

 これに呼応して古処山城主秋月種実や宗像神社大宮司宗像氏貞肥前五ヵ山城主筑紫広門、佐賀城主・龍造寺隆信らも毛利方についた。

「こんどは、九州だ」

 四国から帰ったばかりというのに次は九州だ。

「戦場が遠いのー」

 明尊のため息はとどまることを知らない。武将たる者にとって合戦は家禄を上げる絶好の機会である,喜ぶべきなのだ。にもかかわらず、霧のように湧き立つ物憂いさはどうしょうもない。

 

 毛利軍が九州に出兵した。新兵器の鉄砲を巧みに使った毛利軍は破竹の勢いをみせつけたが、間に合わなかった。七月二十三日(新暦八月十六日)、立花鑑載が大友義鎮によって攻め滅ぼされたのである。

 立花城を救援できなかった毛利軍は、豊前の三岳城に猛攻を加えて陥落させた。

三岳城主長野弘勝は毛利方から大友に寝返り、毛利軍と立花城との連絡、補給を断ち切り、それがために立花城が落ちたのである。毛利軍は長野弘勝を自刃させた。 

 毛利軍は永禄十二年(一五六九)五月三日(新暦五月十八日)、筑前立花城を攻め、一ヶ月に及ぶ激戦の末攻略、奪還した。

 ところが同年八月、出雲で尼子勝久を擁立した山中鹿之助が挙兵した。織田信長の後押しを受けての蜂起だった。

 さらに、大友義鎮の女婿大内輝弘が、毛利の新領山口を衝いた。

 これでは、遠征どころではない、自国を固めなければならない。

 十月十五日(新暦十一月二十三日)の深夜、毛利軍は北九州から撤退した。

 撤退となれば敵軍は追撃してくる。殿軍(しんがりぐん)は、吉川元春が受け持った。

 

 吉川隊は、いつでも敵に向って攻撃できるよう戦闘隊形をとったままの陣形で、一糸乱れず粛々と退いて行く。

 あまりにもみごとな退却に、敵は追撃することさえできなかった。

 

 十月二十一日(新暦十一月二十九日)、吉川元春は大内輝弘を討つため山口へ出陣、二十五日に浮野峠で大内軍を破った。輝弘は自殺した。

 

 永禄十二年(一五六九)十二月九日(新暦一月十五日)、小笠原十四代当主長雄が死亡した。嫡男長旌が十五代を継いだ。

 

 元亀元年(一五七〇)、毛利輝元を大将として吉川元春小早川隆景らが出雲に出陣、挙兵した尼子勢を攻撃し壊走させた。

 この戦いに明尊は十三歳になった嫡男昌康を初陣させた。

 

 畿内では、織田信長朝倉義景を攻めていた。

 

 同年二月十四日(新暦三月二十日)、布部合戦で尼子勢を撃退。十五日輝元が富田城へ入城した。

 

 九月五日、毛利輝元小早川隆景、出雲より帰陣し病床についた父元就を見舞った。

 

 元亀二年(一五七一)、六月十四日(新暦七月六日)毛利元就が没した。

 

 東では、天正元年(一五七四)四月十二日、信州駒場において信濃の猛将武田信玄が五十三歳の生涯を閉じた。

 

 天正二年(一五七五)備前守護代浦上宗景織田信長の後援を受け、毛利氏と戦った。浦上家臣の宇喜多直家は毛利についた。織田と毛利の代理戦争といわれる。

 

 天正三年(一五七六)五月、三河国長篠の合戦があった。天下無敵といわれた武田騎馬軍団が壊滅したという。織田信長が発案した鉄砲の三段構え速射に潰されたという。