福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

伊予・大洲城(大津城)

 永禄十一年(一五六八)三月四日(新暦四月一日)、吉川元春小早川隆景らは伊予大津の宇都宮豊綱に攻められている湯月城河野道直を救援のため伊予に出陣した。

 河野道直は十二年前の厳島の戦いに毛利のために働いた伊予水軍の一族である。水軍は強力であるが陸上での軍は苦手であった。宇都宮豊綱には、四国統一を狙う長宗我部が後押しをしている。毛利としては、なんとしても救援する必要があった。

 毛利軍は福原貞俊を名代とし、吉川元春小早川隆景宍戸隆家らが四月二十二日(新暦五月十八日)に、伊予の道後に上陸した。石見勢の小笠原、吉見隊は隆景配下に、佐波、益田、波根、出羽らは元春配下となっていた。

 毛利軍の援護を得た河野道直は父河野道宣とともに宇都宮の支城を次々と攻略し、たちまち大津城を包囲した。

 このとき、宇都宮の援軍として西園寺公広が出陣してきたが、毛利軍は、難なく撃退した。

 いよいよ大津城攻略の戦端が開かれようとしている。

 小早川勢が大手門から、吉川勢が搦め手から攻撃することとして布陣した。ところが、勝ち目のないことを悟った宇都宮豊綱が降伏・開城し、西園寺公広も和平を求めてきた。

 伊予を平定した毛利軍は、河野道直による伊予の支配体制を整えたあと安芸に凱旋した。

 

 明尊が四ッ地蔵城に帰り着いたのは五月下旬であった。

 庭の池で鳴くかえるの声がなつかしい。座敷に大の字になって寝ころぶ明尊の体から緊張がほぐれていく。

 すでに三十五歳を越えている明尊にとって、遠征につぐ長陣は体に堪える。

― 温泉津の湯に行って、しばらくのんびりとしようか。

 久しぶりにゆったりとした気持ちになっていた。