福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

月山(がっさん)富田城(とだじょう)

 

 永禄五年(一五六二)七月、毛利元就は尼子氏攻略のため一万五千の兵を率いて吉田郡山城を出発、二十八日(新暦八月二十七日)には出雲の赤穴郷に着いた。ここで、三沢郷の三沢為清、三刀屋郷の三刀屋久扶、高瀬郷の米原綱寛、阿用の桜井入道、大東童山の馬田入道、牛尾の牛尾信濃守、白鹿の松田誠保ら出雲の国人衆が毛利に随いた。

 

 同年(一五六二)八月六日(新暦九月四日)、毛利輝元が備中、備後の守護に任命された。

 十一月五日、  尼子の驍将本城常光が毛利に寝返って大森銀山は毛利に渡った。 

 毛利元就は平賀山城守、高畑源四郎の二人を山吹城に置いて銀山奉行とした。

 石見全域が毛利に属した。

 これまで石見の国人衆は、それぞれが独立した領国を持ち、大内、毛利、尼子の勢力争いでは、そのときの有利な方に合力してきたが、毛利の家臣団に組み込まれてからは独立性は否定され、臣従することとなった。

 

 石見国内での戦がなくなり、四ッ地蔵城も戦略的価値がなくなった。

  

 永禄四年から五年にかけて出雲の大半が尼子を見限り毛利に随いた。

 毛利元就宍道湖北岸に洗合城を築いて攻撃の拠点とした。洗合城から月山富田城までは六里(二十四キロ)ほどである。

 

 永禄六年(一五六三)五月十八日(新暦六月八日)、毛利隆元が周防、長門の守護に任命された。

 毛利軍は月山富田城の防衛網尼子十旗のうちでも、第一といわれる白鹿城に対し永禄六年八月から攻撃にはいり七十余日かかって陥とした。白鹿城主松田誠保は晴久の姉の子である。尼子家第一の勇将といわれている。抵抗も強く毛利方も数百人の死傷者をだした。

 八月四日、豊後に出征中の毛利隆元が大友氏との講和を結んで出雲に転進の途上、備後の和智城主、和智誠春の饗応を受け、宿所の佐々部蓮華寺で急逝(享年四十一歳)した。隆元と誠春の夫人同士がともに内藤興盛の娘で姉妹であったことから、受けた饗応であった。元就は見るも無残に落胆していた。元就を取り巻く重役連中は、元就が絶望のあまり自分で相果てるのではないかと恐れていた。

白鹿城を弔い合戦と位置づけた毛利軍はすさまじい猛攻を重ね、ついに、十月十三日、要害堅固な白鹿城を陥落させた。

 輝元が十三歳で家督を継承した。

 永禄七年(一五六四)七月二十五日(新暦八月三十一日)、毛利元就大友宗麟と講和、誓約書を交換した。

 永禄八年四月、月山富田城の北西一里(四キロ)余りの星上山(四五四メートル)に本陣を進めた。

 四月十七日(新暦五月二十七日)から三万五千で月山富田城攻撃を開始した。

 城正面の御子守口には先鋒隊に横見、児玉、井上、粟屋、香川、木原隊五百人が陣を取り、その後方に庄原兵部、渡辺左衛門大夫、坂就清、粟屋元真、児玉就方、児玉就忠、口羽通好、志道元保、桂元澄、福原貞俊を前衛として粟屋元好、国司元助、内藤六郎右衛門、児玉四郎右衛門、天野元明、天野隆重、天野元定ら旗本勢一万五千に囲まれて毛利輝元毛利元就が全軍を睥睨している。

 これには、渡利元枝、飛落元吉らの指揮する鉄砲二百挺が、三段の構えで控えている。

毛利輝元はこのとき十三歳で初陣である。また、吉川元春の嫡子元長も初陣となる。

 対して御子守口を守る尼子軍は、細矢、河本隊二百人が前衛、中井駿河守、三刀屋蔵人、牛尾弾正忠、福山肥後守、吉田八郎左衛門ら一千人を第二陣とし、その後方に、熊野兵庫、吉田三郎左衛門、川副二郎左衛門、川副右京亮、黒田右京亮、馬田尾張守、津森四郎次郎、力石兵庫、平野賀兵衛、横道兵庫助、桜井入道仁斎、高尾右馬允、神西三郎左衛門、牛尾豊前守に囲まれた尼子義久が控えている。

 城の南入口にあたる塩谷口には、細迫、朝枝、森脇、須子、二宮、香川、笠間ら五百が先鋒隊、第二陣には山県、森脇、吉川、二宮、小笠原ら五千人、阿曾沼元景、熊谷高直、熊谷信直ら旗本衆を引き連れて吉川元春、吉川元長父子が采配をとっている。

 西の入口である菅谷口では毛利勢に米原綱寛、三沢為清、三刀屋久裕ら出雲国人衆が先陣をとった。彼らは、尼子十旗の一員であったが、すでに毛利方の主要戦力となっていた。尼子十旗も、三沢、三刀屋、赤穴、高瀬は、毛利の軍門に落ちたことになる。

 総大将毛利元就は総軍に、下知もなく、抜けがけした者は、かりに一番の功名があったとしても首を刎ねる、と堅く制法をだした。

 それでも、いきり立つ将には制止が効かない。あちこちから抜けがけがでた。

 御子守口では木原、香川、粟屋、児玉、横見など五百余騎が下知を待たずに突撃した。尼子方の細矢、河本が二百ばかりで迎撃に出て激しく戦った。

 寄せ手は多勢にものを言わせて強襲したから、尼子方は一気に潰れて城へ退いていく。力を得た毛利勢が追撃して行く。逃げる敵を追いかけ御子守口の坂にかかったとき、城の兵吉田、福山、牛尾、三刀屋、中井らが坂を挟む両側の山に鉄砲を揃えて一斉に撃ってきた。たちまち形勢が逆転した。横見、桜井が倒れ、香川の郎党四人、三須の若党三人が撃ち殺された。

「後陣の味方は続かず、今、ここに進んでいる兵には鉄砲の一挺もなく、ただ敵の的になって射られているばかりだ、一緒に連れてきた若い衆に手負いなどさせてしまっては、我一人の不覚だ。皆は、先に退きたまえ」

 木原が後に残って、皆の退却を援護しようとした。

「それなら木原どのが先にお退きください」

「いやいや、あなたこそ」

 香川、粟屋の二人が、自分が殿(しんがり)を受け持つから先に退いてくれと、お互いが譲りあってきかない。

 木原も再三辞したが埒(らち)があかない。

「お互いが譲り合ってばかりいても大人気ない、それなら我が先に退きましょう。しかし、おめおめと逃げるのも口惜しい」

 木原が近くの岩に走り上がって、やあやあ、我と一騎打ちをする自信のあるやつは、坂を下ってここへ来い。と呼んだが、敵からは、ただ、一本の矢が飛んできただけだった。

「臆したか、みぐるしいぞ、我とおもわんものは、ここへでてきて相手をしろと招いたが、ただ、遠くから矢を射るだけとは、我らの武威に怖れをなしたのであろう、見苦しいぞ、儂の言うことに口惜しいと思うなら、ここへきて手並のほどを見せたらどうだ」

これほどまでに侮辱しても、尼子方からは激しく矢が飛んでくるだけである。

「まだ出てこないか、尼子の臆病者どもこれでも食え」

 木原が、尼子方にむかって尻をめくり、二つ三つ叩いて見せた。

 尼子方も頭にきたのであろう、鉄砲を集中して撃ってきた。ところが、玉(弾)は当たらない。

「おまえらの鉄砲は、尻にさえ当たらないのか」

 木原は気が済んだのか、皆を連れて退き下がろうとした。

 尼子方からは、岩陰に見えなくなった木原が放尿でもしているのだろう、今のうちに近づいて討ち取れと追いかけてきた。

 木原が、岩陰から飛び出して一人を切り伏せた。ところが、敵は、どんどん集まり多勢になって追いかけてくる。

 これを見て、福原貞俊、桂元澄、桂元忠、志道広好、口羽通好、口羽春好、児玉就忠、児玉就方、坂就清、渡辺左衛門太夫、渡辺肥後守、粟屋縫殿助、粟屋内蔵允、庄原兵部ら三千余が斬りかかったので、先に退いた香川広景、三須隆経、粟屋彦右衛門、南方宮内少輔、木原兵部少輔、木原次郎兵衛、井上宗右衛門、蔵田市助、粟屋右京、児玉四郎兵衛らも引きかえし入り乱れて戦った。 

 尼子方総大将義久自らが打って出て、牛尾豊前守、神西三郎左衛門、高尾右馬允、桜井入道仁斎、横道兵庫助、平野賀兵衛、力石兵庫、津森四郎次郎、馬田尾張守、里田右京亮、川副右京亮、川副次郎左衛門、吉田三郎左衛門、熊野兵庫らを御子守口の谷口から出した。

 この戦で、毛利元就の孫輝元が初陣をはたした。元就の嫡男・隆元亡きあと、毛利家の頭領とした輝元を見つめながらも、

「隆元が生きていてくれたなら…・」

 元就の心は暗くなるばかりである。隆元の勇姿に比して輝元は、あまりにも脆弱であった。

 

 両軍は、四月十八日(新暦五月二十八日)、十九日の両日にわたって、攻防戦を展開した。これが、富田城下三箇所合戦とよばれるもので、双方千名近い死傷者をだした。

 その後は、毛利軍が強襲を避けて兵糧攻めによる持久戦法に切り替えた。

 毛利軍は、京羅木山(四七三)、石原山、滝山に向城を築いて包囲網を厳重にした。

 城の入口に、高札を立て城兵の降伏や脱走を許さなかった。兵糧攻めの効果を早めるためである。

 永禄二年から始まった富田城攻防戦はすでに六年を経過している。その間、周辺の郷民らによる妨害戦は数回あったが、いずれも小競り合い程度に終った。

 城内の兵糧もつき、餓死もでる状態になってきた。折はよしと、高札を取り除いた。

 将兵が城内から続々と退出してくる。尼子の有力武将牛尾豊前守、亀井秀綱、河本隆任、佐世清宗、湯惟宗ら重臣さえも尼子を見すてて出てきた。

 

 永禄九年(一五六六)十一月二十八日(新暦一月八日)ついに、尼子義久が降伏し、 月山富田城が開城した。

 最後まで籠城したのは、山中鹿介幸盛ら武人百十三名、僧衆二十数名、総計でも百四十人弱しかいなかった。