福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

物不言城(ものいわずじょう)

 永禄四年(一五六一)七月、元春から、福屋隆兼に次男の二郎を孝鶴丸(輝元)の近習に差し出すよう督促された。人質要求であった。

隆兼は、これを拒否した。

 

 同年九月、福屋隆兼が家老の重富民部大輔兼雄一族を抹殺したという、まさに驚愕すべき事件が勃発していた。小笠原家臣亀山平四郎が知らせてきたものである。

 重富兼雄は、福屋氏のなかでも最強の兵力を誇り、福屋本城乙明城の東南の守りを固めている。重富を討てば福屋の勢力は半減する。それを、あえて断行した理由はなにだったのか。

重富が毛利氏と謀って福屋隆兼を攻めようとしていたらしゅうございます。それを察知した福屋氏が誅殺したという噂にございます。」

「誅殺か…」

吉川元春さまの命により、検使として派遣された、二宮木工助ら吉川の将兵六十人が、重富城へ到着するまでに始末したらしゅうございます」

「それにしても、重富は福屋勢のなかでも豪勇で知られた士だ」

「戦いは凄惨を極めた由にございます。ですが、重富が最後に残した言葉が気になるところでございます」

「なんと言ったのか」

「愚かなり御屋形(福屋隆兼)、根も葉もなき謀略に惑わされるとは。御屋形といえども理不尽な戦いを挑まれる以上、我も、武門の意地を守り、受けて立つだけにございます」

「そう言ったのか。…それで、検使として派遣されていた二宮勢は、いかがしたのだ」

「日和まで到着したところで事が発生しましたので、ただちに引き返しました」

 ことの起こりは九月二十三日早朝であった。福屋隆兼が三千人を引き連れて重富城を包囲した。福屋勢は火矢をもって城を焼き、場内の混乱に乗じて強襲した。

 寡勢の重富方は、たちまち一族の重富兼時、兼光、兼輝以下四十八人が討死、重富兼雄は腹を掻き切って死んだ。兼雄の妻は福屋隆兼の臣福原兼教の姉であったが、薙刀をもって勇戦し、最後には火中に入ったという。

 福屋方も福屋兼久ら七十四人が討死、江田基勝ら数百人が負傷した。

「福屋どのは、姦計に堕ちたのではなかろうか・・・・」

「福冨どのも、そう思われますか・・・実は、御屋形(小笠原長雄)さまの、お考えでは…」

 平三郎が声を落とし、周囲に目を配った。

「この戦は元就が謀略をもって福屋勢の弱体化を図るべく起したものであろう。とのことでした。その理由として、日和から重富城までは数里しかない。毛利勢が重富の救援に駆けつけようと思えば、いくらでも間に合ったはず、はじめから助ける意思なんてもっていなかった」

「そうであろうの、策謀を得意とする毛利さまならできることだ」

重富の郎従らの中には、御屋形である福屋氏の軍勢に刃向うことをせずに討ち取られた者も多かったということです」

「残酷だの」

 この時代には、調略、欺瞞、陰謀、誘降といった謀略を盛んに用いていた。孫子兵法に曰く『兵は詭道なり』味方の戦力を消耗させずに戦いに勝つ、最善の策だ。さらに、曰く『上兵は謀を伐つ』、敵の意図を見抜いてこれを未然に封じる。これが最高の戦い方だ。

「隆兼ともあろう武将が忘れたわけでもあるまいに、元就の策にまんまと嵌められるとは。それにしても隆兼は愚かな戦をしたものだ。敵より圧倒的な兵力があったとしても、いきなり城を強襲するとは多大な犠牲を強いられるものを」

「隆兼は最も頼りとしてきた重富が裏切ったと思い込み、頭に血が上ったのであろう」

 それにしても、元就の謀略恐るべしだ。

 

 その年の十一月(一五六一)は寒い日が続いていた。空はどんよりと曇り、みぞれが降ったり止んだり、陽が照ったりとめまぐるしく変わっている。

「江川の対岸におびただしい兵が終結しているそうです」

伝令の者が息せき切って走り込んできた。

「福屋どのか」

「そうでございます。兵は、川平から渡って松山城(福屋の支城)に入っています」

松山城と四ッ地蔵城とは一里(四キロメートル)ほどしか離れていない。

 明尊は、直ちに物見を出し、忠左衛門を呼び寄せた。領内の将兵を召集する木鐘がけたたましく叩かれている。

「やつらは、この城を潰すつもりだろうか」

 ひとりごとのようにつぶやく忠左衛門の顔に緊張が走っていた。

 突然湧きあがった戦の予感に闘争心が漲ってくる。

「わからん、やつらは温湯城取り合い(永禄元年)のあと、井田、波積の領地を受取りに行った小笠原さまと小早川さまの家臣に兵を向けて、馬物具を剥ぎ取り、追い返すという暴挙にでたばかりだ。御屋形(小笠原長雄)さまに兵を向けることもありえる」

「まずいですな、今、御屋形さまは、甘南備寺におられる」

 防禦の弱い甘南備寺を攻められたならひとたまりもない。

 温湯城取り合いで毛利に降伏した御屋形は、甘南備寺で謹慎中の身である。

「御屋形さまを攻めるとなると、その前にこの城を攻めるでしょうな」

「そうだ、やつらにすれば、ここを潰さなければ挟みうちにされる」

 松山城から押し寄せてくるなら判刻(一時間)もかからず到達する。はやく防禦を固めなければならない。

 明尊は兵を城内に入れて、要所に兵を配置、迎撃態勢を敷いた。

 明尊の将兵は八十名ほどである。三千を超す福屋の軍勢を迎え討つには籠城しかない。

「ひとまず籠城して、時間をかせぐことだ。その間に御屋形さまも戦支度ができる」

 四ッ地蔵城内に、つぎつぎと幟が立ち並び、兵が溢れてきた。物見がせわしなく城から走りでる。

 江川を渡った福屋の軍勢が、ぞくぞくと松山城終結し、すでに一部の兵は都治方面へ進んでいる。四ッ地蔵城の裏側、十町(一キロメートル)ほどしか離れていない道を通り過ぎて行く。

「どういうことだ。やつらは、我々を無視している」

「いや、無視しているのではなく、別に狙いがあるようです。……御屋形さまを狙っているのでは無さそうだが……」

「この四ッ地蔵城に兵をまわさないということは、小笠原家を狙ってのことではない……物不言城だ」

 温湯城取り合いでは、福屋隆兼が吉川元春の先鋒として攻めてきた。まさに獅子奮迅の戦いをしたにもかかわらず、毛利元就は福屋の所領を削って御屋形に与えた。さらに、追い討ちを掛けるように人質を要求した。

 福屋には、別の地をもって倍増して与えると言ったにもかかわらず、隆兼は、それを不満だとして、土地を受取りに行った小早川と小笠原の使者に暴行を加え追い返した。

 毛利に叛意を抱いた隆兼が、まっさきに狙うのが吉川元春の分家にあたる吉川和泉守経康としても不思議ではない。

 物不言城の吉川経康は無勢で、古老の兵が多く、攻めればたやすく潰せると隆兼は見たのであろう。使者を経康のもとに遣わして尼子への鞍替えをうながしたが、経康は、使者の首を刎ねて隆兼の書状とともに元春のもとに送り届けた。

「最も忠勤の至りなり」

 元春は大いに感じ入った。

 家臣の首を取られ激怒した隆兼は、

「経康を退治する」

 隆兼は尼子に加勢を要請した。ところが、尼子義久は将軍足利義輝の仲介により毛利氏との講和交渉を続けている最中であり、応援は出せない。

 結局のところ、湯惟宗、牛尾久清ら三千騎が独自の判断により、ということにして応援にでた。

 そうなると、同じ福光郷にある福冨陣屋も危ない。

「忠左衛門、『門を固く閉ざして籠れ』とだれかを福光へ走らせてくれ」

 屋敷の裏山(妙見山)には、物不言城の出城がある。福屋勢がこれを攻撃したなら福冨陣屋も無傷では済まないだろう。

 福屋が吉川を攻めれば、小笠原としても毛利に従って出兵しなければならない。明尊にも出陣命令がでるだろう。陣屋の救援に行くことは出来ない。

 

  

 明尊は、ひとまず戦闘態勢を解いて、御屋形の出陣命令がでるまで待機することとした。

 湯信濃守の居城は、湯里にある。

 物不言城まで一刻(二時間)もかからない。

 それだけに、吉川和泉守は不意を衝かれた。北から湯隊が、南からは福屋隊が怒涛のごとく押し寄せてきて初めて気がついたのである。あっというまに五千の敵勢に囲まれてしまった。  

 物不言城は、福光の市、箱坂、林地区に囲まれた百メートル弱の山頂に本丸(東西二十間、南北九間)、二の丸(東西十一間、南北八間)、三の丸(東西十間、南北六間)を構え、山麓に御屋敷(東西三十間、南北三十間)、東段屋敷(東西三十間、南北三十間)等がある。

 城の南方は本陣山から連山に続き、城山は急峻で断がいが多く、前面からの登攀は不可能だ。強襲はむずかしい。

 物不言城のいわれについて、「楞巌寺(りょうごんじ)記」によれば「暦応年中、楠判官開城峙庶民挙而称物不言城」とある。楠判官は福冨七郎のことである。

 吉川和泉守経康が物不言城へ入城したのは、毛利元就から福光郷を知行地として与えられたのを機に、本拠を福光に移した永禄二年(一五五九)のことである。

 入城と同時に城の拡張、補強を行ない、やっと終ったばかりだった。

 

 物不言城を包囲した福屋勢は、長期戦の構えを見せていたが、『吉川和泉守は、家人らを休息のため山下へ下ろしており、城にはわずかの人数しか残っていない』ということを福屋に密告する内訌者があった。

 福屋勢の足軽大将が、二百人ばかりを率いて尾根づたいに急迫した。

 城中には、わずか数十人しかいない。経康は、あわてふためき右往左往する家臣を叱咤し、城にただ一挺しかない鉄砲を持ち出して、城門の外に仁王立ちに立ちはだかった。

「しめた、敵将だ!」

 吉川和泉守経康を目前にして敵は勇躍した。

 敵将の首をとれば、一番の高名だ。

 千載一隅の好機とばかりに福屋勢が殺到してくる。

 

 二百人の敵兵が挙げる喚声にも、経康は臆する気配もなく平然として鉄砲を構えている。

 福屋勢の足軽大将が七、八間に迫ってきたときドッと撃ち放った。至近距離から心臓を撃ち抜かれた足軽大将は、もんどりうって倒れ絶命した。

「見たか!」

 肝を冷やして呆然とする敵勢のなかに、槍を引っさげた経康が、わずか十四人を前後に立てて斬り込んだ。

 敵は、ひとたまりもなく逃げて行った。

 その後、物不言城には、「鉄砲の名手がいる」と言って近づく者はいなかった。

 

 福屋勢が福冨陣屋の前を怒涛のごとく行き来している。

 陣屋では、明尊の指示により、前濠にかかる橋を落して門を閉ざした。

 突然、濠の外側から、無数の火矢が飛来して屋根に突き刺さった。陣屋は、たちまち炎に包まれた。屋敷内の家屋は、米倉となっている土蔵を残してことごとくが消滅した。

 村のあちこちで煙が上がっている。敵が周辺民家の焼き討ちをしているのだ。

 陣屋には、五名ほどの士がいるだけである。敵兵が、侵入してくれば殺戮されるしかない。五人の士は、死を覚悟した。

 だが、敵は陣屋を焼き討ちにしただけで侵入してこなかった。

 

「福屋勢、福光の城を取り囲こむ」

 注進を受けた毛利の行動は素早かった。吉川元春を先陣の大将として宍戸隆家熊谷信直ら二千騎で駆けつけ、井田城、三つ子山城、大家城を攻略、毛利元就は、嫡男隆元、小早川隆景とともに六千騎で河下郷の渡り口に出張ってきた。

 御屋形小笠原長雄は、甘南備寺から出陣した。

 明尊の率いる福冨党も直ちに出陣し、小笠原隊に合流した。

 今回の紛争を引き起こす因の一端を持つ形となった小笠原隊に与えられた使命は、毛利軍の魁となって、まっさきに敵に突っ込むことである。小笠原隊は、まなじりを決して先発した。

 福屋隆兼は、松山城に退き、湯信濃守は湯里の居城に逃げ帰った。

 

 十二月初旬、元就父子は、川本の温湯城に集合して軍議したあと中之村城(中野)を取り巻いた。

 攻撃軍に加わった小笠原隊の闘志はものすごい。温湯城取り合いでは、福屋が敵の手先となって襲ってきた。今回は、攻守逆転だ。温湯城の仇とばかりに奮い立っている。

 吹きすさぶ寒波のなか攻撃が始まった。

 横なぐりの雪や霙に将兵の身は凍え、弓を引くにも指は萎え、刀槍を握るにも力がでない。

 それでも、小笠原隊が吉川勢の魁として突進していく。

 城内から射る弓矢に将兵がバタバタと倒れる。

「かかれ!かかれ!」

 すぐ後で下知を発する元就の大音声に、気を奮い立たせて突進する。

 ついに、二重に構えた柵木を乗り越えた。

 吉川勢の綿貫時勝が、二十貫目(七十五キログラム)もある鉄の大槌を軽々と持って追手門に一番に取り付いた。

「吉川隊綿貫左馬助時勝、大門を打ち破って、城への一番乗りを果たして見せようぞ。敵も味方もとくと御覧あれ」

 鉄槌を振り上げ、二打、三打と打って門の扉を微塵に砕いた。城の兵は、これを見て「大門が破られるとは」と驚愕したものの、槍数十本の穂先を揃えて綿貫時勝に突きかかった。

綿貫時勝は眉間に槍を受けて絶命した。

 吉川勢の今田経忠らが、大門から一番に乱入した。吉田の毛利勢並びに、宍戸、熊谷以下もぞくぞくと押し入った。

 城主の中村康之は少しもあわてず防戦し、宍戸の家臣末兼彌次郎を討ち取り、庄原豊後守に傷を負わせた。

 ここで、城の諸手が一度に破られたのを見た中村康之は、三百余人が円陣を組んで搦手から斬り抜け、矢上の城へ入って矢上勝平と合流した。

 攻城軍は中村康之を討ち洩らしたものの、残る兵らを追い詰めて討ち取り、首級八百五十余を挙げた。

 攻城軍は、つづいて矢上城を落すべく陣を進めた。

 ところが、矢上城の矢上勝平、中村康之らは城を明けて逃げ去った。

 

 中国山地にとどろく雷鳴とともに、せわしなく通りすぎていた雲の動きがとまった。

地上に重くのしかかった黒雲から、大粒の雪がしずかに降り出した。大雪の気配である。

 一晩のうちに積雪が一・五尺(五十センチメートル)を超えた。この地方としては大雪である。

 藁の雪靴も、湿気が多い山陰の雪には用をなさない。容赦なく沁み込んだ水気が将兵の足に凍みる。

 攻城軍も動きが困難になってきた。

 毛利元就が矢上城で、吉川元春は日和城にて越年、雪解けを待つこととした。

 福屋の郎党井下新兵衛、井下三郎兵衛、井下加賀守、河邊美作守、門田民部少輔らがあいついで元春に降伏して来た。彼らの武勇をかねてより知っている元春は、家人として召抱えた。

 永禄五年(一五六二)二月、雪どけとともに攻城軍は、福屋隆兼の子隆任らが拠る河上松山城を包囲した。

 四ッ地蔵城からは一里ほどしか離れていない。

 御屋形が四ッ地蔵城を前線基地とした。城内に幟が林立し、将兵が溢れた。

 ぴんと張りつめた空気が漂っている。

 いつもは閑散としている城内が賑やかだ。

 四日(新暦三月八日)、総攻撃がはじまった。

 六日、先鋒・小笠原隊が積年の恨みを晴らすべく、死傷者を乗り越え遮二無二突撃していった。そして、左近大夫が一番乗りの高名を挙げ、敵将・福屋隆任の首級を取った。

 諸隊に勝る高名をとった小笠原隊は、面目を施した。

 

 元就は、隆任の首を福屋隆兼に送り、翌日(七日)元春率いる先鋒隊が、隆兼の本城(乙明城)攻略のため進発した

 その夜、隆兼は、ひそかに城を脱出、浜田から小舟に乗って出雲に遁れ、尼子を頼ったが、昨年の十二月に将軍足利義輝の斡旋により毛利と講和したばかりの尼子義久は、福屋を受け入れなかった。

 隆兼は、大和に移ったというが、その後の消息については定かでない。

 

 永禄五年(一五六二)三月二十六日(新暦四月二十九日)、吉川経安は毛利元就毛利隆元吉川元春連署により邇摩郡福光郷のうち本領二十貫、湊二十五貫、同郡西郷のうち井尻村十五貫文の地と邑智郡日和のうち十五貫文の地を与えられた。福光の役による軍功を認められたものである。これにより、吉川経安の所領は千三百石余りとなった。

 福光郷では、吉川経安が五百四十石、福冨明尊が六十石を領していた。

「儂の所領は、吉川殿に保護されているようなもんだ」

 明尊が、哄笑している。明尊の所領・福光下村をとりまく田地のほとんどが吉川経安の領地なのだ。

 現在、国立歴史民族博物館に残されている『石見国福光下村福富家文書』の永禄五年(一五六二)三月二十五日付福光郷森村検地帳では、福冨七郎左衛門の所領を次のように記している。

屋敷

 二ヶ所四百文前

田地

 谷合七百前

 せと五百前

 南かわほり百五十前

 道下なかれ田五百前

 八幡御神田五百前

 権のかみ田五百前

 大境六百前

 落合三百前

 すけとこ三百前

 みつほ田五百前

 みつほ田上の切れ百五十前

以上十一か所計四貫七百文前

 天神迫五十文前

合わせて五貫百十五文前(約六十石)となる。

 前とは、この地方独特の地積表示方法で、耕地面積を示さず田地及び屋敷を分銭高で示したものである。例えば、四百前とは、四百文の収入に相当する土地ということである。

 このなかには、濠や土塁もあり、防禦性を兼ね備えた灌漑用の溜池も含んでいる。

 ここで注目することがある。

「前」という小笠原家独特の方法である。一般的に、百石の加増というのは百石採れる田畑を知行地として与えるということである。したがって、この中から武家の収入となるのは、五公五民とすれば五十石になる。後年、江戸時代になると知行地ではなく禄米としてお米蔵から受け取る武家ができたが、これは、「このたびの功績により、百石の加増を下しおかれる。ただし、玄米として五十石を支給するものとする」といった方法である。

これに対して、「百前」といえば百石の租税が取れる田畑を与えられたのである。 

 

 御屋形小笠原長雄は、福屋攻略戦の戦功により、住郷、川上、日和その他を加増された。さらに、甘南備寺閉居を許され、湯谷弥山城に移った。