福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

山吹城

 

 永禄三年(一五六〇)七月、きびしい暑さがつづいていた。いつまでも続く暑さに人々は閉口していたが、幸いにも午後には決ったように夕立が降っていたので、渇水の心配はない。田んぼの稲には、すでに穂がつきはじめている。

 七月初旬、毛利元就は安芸、備後、石見の国衆一万四千余を率いて山吹城へ攻め寄せ、銀山の仙ノ山に本陣を置いた。

 山吹城に籠る本城常光は尼子方武将である。永禄元年の温湯城取り合いでは小笠原長雄に味方し毛利元就を攻撃した。

 仙ノ山(五三〇メートル)からは、要害山頂(四二〇メートル)の山吹城が低く見える。 

 城内に立ち並ぶ幟や旗が風に吹かれて元気よくたなびいていた。周辺の山や峰は毛利方として馳せ参じた石見勢が陣を構えている。

 攻撃隊は三方から同時に攻め登ることとなった。

 今回も小笠原長雄隊が先陣となっている。

 山吹城の正面は吉川元春隊が受け持ち、天文九年(一五四〇)九月から弘治二年(一五五六)までの十六年間にわたって銀山を領有し、城を熟知している小笠原隊は攻めるに最も困難な左翼を受け持った。

 毛利家に刃向い、降参していながら家名存続という寛大な扱いを受けた小笠原家である。御屋形自らが毛利家の魁(さきがけ)となって遮二無二に戦わなければならない。

 小笠原隊は攻城軍総大将毛利元就の突撃命令を待っていた。仙ノ山頂上から立ち昇る狼煙を合図とされている。身を焼く太陽を背に静まり返っている将兵を、あざわらうかのように蝉しぐれが辺りを覆っている。

「合図を見落とすな」

 小笠原隊将兵が本陣の仙ノ山をみつめている。

「己のつくった城を攻めるとは、気のあがらないことですなー、それに、対手(あいて)の本城勢は、ほんの一ヵ月前までは味方だった」

 忠左衛門が独り言のように呟いた。

「小笠原隊皆が思っていることだ。己が仕組んだ仕掛(防禦装置)の洗礼を受ける。…情けないことよのう。それだけに恐さも分かっている」

「絶対に、落とされない要害として自負をもっていましたよなー。それを落とそうとしている。皮肉ですなー」

 三年前までは、山吹城も小笠原氏のものだった。何回も行き来した城への路も、今では上ることも許されない。本陣の方角に目を据えている明尊の顔には、戦うという気迫が消えている。己のおかれた境遇に困惑している顔だった。

 突然、天地を揺るがす轟音が殷殷と山野にこだました。毛利軍の鉄砲隊による一斉射撃がはじまったのだ。これが、石見において歴史上に登場した最初の鉄砲隊となった。

喚声があがった。だが、山吹城のような山城を攻めるためには、あまり鉄砲の効果はない。

野戦においてこそ威力を発揮できるのだ。元就とて十分承知のうえで鉄砲隊を使ったのであろう。すぐに鉄砲の音は消えた。威嚇のための射撃であっても籠城中の将兵を脅す効果は絶大であった。それまで威勢よくあげていた喚声がぴたりと止(や)んだ。

 吉川勢山縣四郎右衛門、井上又左衛門、山縣助十郎、鉄砲足軽の小頭溝挟次郎兵衛らが先を争って突撃していた。

「吉川勢の抜け駆けだ」

 抜け駆けは、大軍の統制を乱すものとして厳しく諌められている。さらに、先陣を受けた小笠原隊への侮辱だ。戦場において、先陣は名誉とされており、先陣をめぐっての同士討ちになることもめずらしくない。 

 それを、こともあろうに毛利一族が破ってしまった。

「先陣は我らぞ。武士の意地にかけても後続部隊の後塵を被るような恥辱は受けるな」

 御屋形があわてて突撃に移った。飛来する矢を避けるために竹の束を盾とし、逆茂木をつぎつぎと抜き捨てながら一歩づつよじ登っている。

 山吹城には、小笠原が籠っていた十六年の間に銀山の穿通子(ほりこ)を使って設えた秘密の抜け道が掘ってある。城内から縦の斜坑を掘り下げ、岩陰や茂みの中に出口をつくって、よじ登った敵の背後を狙うためのものである。

 山を熟知している小笠原隊は、一つずつ抜け道の出口を塞ぎながら登って行く。

 正面の攻撃をかけた吉川隊は、城内から打って出た本城勢に対し、溝挟次郎兵衛の鉄砲隊で一斉射撃をかけ、敵兵が浮きあし立ったところを槍隊が代わって攻戦する。

 城内からは、正面の路を登ってくる吉川隊がまる見えだ。ひとりづつ狙いを定めて射ってくる。兵が矢に当たりバタバタと倒れている。

 攻撃隊は、いかにしても城内へ突入できない、被害は増えていくばかりである。

 側面からの攻撃隊は、城内から投げ落とされる大石小石や丸太に跳ね飛ばされて転がり落ちて行く。

 小笠原隊も竹束を盾にして石を避けようとするが、大石や丸太が落下してくればひとたまりもない。己が作った防禦装置に襲われ、バタバタと倒れていく。

 さらに、敵は矢穴(狭間)を開け、弓ではげしく狙い撃ちしてくる。

 攻城軍は三日間攻め立てたが落とすことができない。五千人を超す死傷者をだしているのに城はびくともしない。

「強襲では被害が多すぎる、ひとまず撤退する」

 毛利元就はついに撤退を決めた。

「あと、二、三日もすれば、この城は落とせます。このまま攻城を続けさせてください」

 毛利隆元吉川元春小早川隆景ら三人の息子が口を揃えて懇願した。

「いや、敵の籠っている山吹城をみよ、鶴が上空を舞っているではないか、敵陣の糧食が豊富にある証拠だ、一旦、引き退いて謀をもって本城を味方にする方策を考える」

 元就の決断は早い。

 撤退と決った。

 撤退すれば本城勢の追撃を受ける。殿(しんがり)は吉川元春率いる石見勢と決った。

 さらに周辺の地理にくわしい小笠原隊は殿軍の最後尾を受け持った。

 小笠原隊は谷底を通る路を挟むように両側の峰をかためて敵の追撃に備えた。

 吉川元春は一千八百余騎を連れて退却軍の後方に位置をとり、ことさらにゆっくりと退却していく。

 本城勢の兵二千が追いついてきた。足軽を先に立てて元春めがけて切りかかった。吉川勢が踵を反して反撃すれば追撃の足軽らは逃げ散り、退却に移れば、蝿のごとく集まって鉄砲を射掛けてくる。

 吉川勢が谷間の隘路で詰まり、身動きできなくなった。

吉川元春の旗本へ突きかかれ」

 本城の采配に二千騎が一手になってかかって行った。

「ウオー」

 喚声を挙げ、元春めがけて突撃していた本城勢が、突然、立ち止まった。

 前方の小高い場所に、元春が馬を止めて凛とした姿で本城勢を睥睨している。その前後を固めている一千八百余の兵は突撃態勢だ。バラバラなって逃げていると思っていた吉川勢が、いつのまにか態勢を組んでいたのだ。

 

 本城勢は、備え万全の吉川軍をみて動けなくなった。

 両軍がにらみ合い、対峙したまま鬨を挙げている。

 吉川元春の旗本森脇若狭守が本城勢のなかに切り込んだ。これを発端に敵味方数千の将兵が入り乱れた。

「今だ、本城勢を包み込め」

 峰々をかためていた小笠原隊ら石見勢が喚声を挙げて山を走り下った。

 三方から挟撃された本城勢がバラバラになって引いた。

 殿軍が合戦中であるとの注進を受けた元就の下知により、福原、桂らが駆けつけたときには、すでに戦いは終っていた。

 小笠原隊ら石見勢は、再度、峰に上がり備えをかためた。

 周辺の峰々には、小笠原、佐波、益田等の幟が立ちならび、救援にきた福原、桂らの兵とともに吉川元春が引いて行くのを見送っている。

― みごとな退却だ。あれでは本城勢も追撃できまい。

 明尊は、殿(しんがり)軍のありかたを教えられた思いで、吉川勢の姿が見えなくなった路をいつまでも見つめていた。

 この戦が、石見において鉄砲を組織的に使用した最初の戦となった。鉄砲が種子島に伝来して十年が経っていた。

 以後、鉄砲は武器として急速に広まっていった。

 鉄砲の威力をまざまざと見せ付けられた明尊らは、ただ、愕然としているだけであった。

 

 永禄三年(一五六〇)十二月二十四日(新暦一月九日)、尼子晴久が四十七歳で死去した。

 嫡男の義久が跡目を継いだ。