福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

温湯城開城

 四月二十八日(新暦五月十六日)、吉川元春が益田藤包、佐波秀連、杉原盛重、福屋隆兼ら三千五百余騎で温湯城へ迫ってきた。

 御屋形(小笠原長雄)は、二千余騎を二手に分けて夜襲をすべしと評定したが、異議が多くその夜は徒労に終った。

 このころの軍団は、土着豪族の集まりであり、戦の指揮命令はすべて評定、合議によって進められていた。 主君の命令には絶対服従という軍団を造ったのは織田信長で、それを完成させたのが羽柴秀吉である。小笠原軍団はいまだ土着豪族の集まりにすぎず、御屋形の意のままに進まない戦もめずらしいことではなかった。傘下将兵をいかにして戦いに引き込むのかが将の器量であったのだ。

 四月三十一日(新暦五月十九日)、小笠原長雄は、すべての軍兵を館のなかに集めた。敵を引き付けて館の近辺にて合戦するか、または、日暮れになって敵が引くところを追撃しようと企てたのだ。将兵は幟や旗を一切立てず私語も禁じられていた。

 朝からの生暖かい強風が山の木々を振るわせ、ゴーッと音をたてて通りすぎている。

 明尊は風の音が意外と耳障りだと思った。

 将兵のまわりを砂埃が渦巻いて通りすぎていった。そのとき風とは異なる喧騒を耳にした。

 明尊の顔から血の気がひいた。温湯の在家に火の手があがっている。福屋隆兼、佐波秀連を先に立てて進入してきた吉川元春に放火されてしまったのだ。しかも、風上だ。折り悪く東南のつむじ風が吹き、あちこちに飛び火している。

 将兵らの家が危ない。顔はひきつり、恐怖のまなざしとなっているが、動くことを許されていない。ジッと猛炎の行く手をみつめているだけであった。

 突然、後方で火の手があがった。小笠原館に飛び火してしまったのだ。

 敵が機に乗じて攻めてきた。

 女子供は火がついたように逃げまどい、猛風は、ますます激しく吹いて四方八方が一度に燃えあがってしまった。

 小笠原長雄は、館から出て一合戦する決心をしたが、将兵も浮き立っていたため、統制がとれない。せんかたなく呆然と立っているところへ、

「敵の館に火がついたことこそ天が組したことぞ、今だ、討て」
 吉川元春がまっ先になって攻めてきた。

 我先にと押し寄せてくる敵の総軍に、

「ここで戦っては不利だ」

 小笠原軍は一戦もせずに山上の城内へ逃げ入った。

 攻撃軍はなんの抵抗も受けず、温湯の在所を一軒残らず焼き払って、悠々と引き上げていった。城内の小笠原軍将兵は、声もなくただ呆然とたたずんでいるだけであった。

 

 五月二十四日(新暦六月十日)、毛利元就と嫡男の隆元、二男吉川元春、三男小早川隆景らは、総勢一万二千余騎をもって温湯城に再び迫ってきた。

 五月二十九日(新暦六月十五日)、毛利家嫡男の隆元は、城の喉もとに当たる笠取山へ陣を取った。

 小早川隆景は、西側の小栖山に備後勢を率いて屯営した。その他、宍戸、益田、熊谷、天野、福屋、出羽、佐波らも陣を固め、温湯城の周り四面立錐の地も残さず取り巻いた。

 相対して温湯城の向かいにある青岩城には、尼子晴久より派遣された温湯城の援軍八百余が籠った。

 温湯城から見渡す周辺の山々には、幟や旗がこれ見よがしに並んでいる。

「よくもまー、雲霞の如く集まったものだ」

 明尊は、あきれていた。しかし、緊迫感はない。

 温湯城は、標高三百九十メートルの懸崖な山城である。北側には江川が流れ、東、西、南の三方は深い谷となっている。特に、城への入口にある大門は、いずれも深く狭い谷の奥にあり、その左右の山は堅固な陣地となっているから、大門に来攻する敵を邀撃するのに死角がない。たちまち矢が四方から飛び交い、一点に集中して敵を一歩も寄せ付けない陣地配置となっている。さらに正面の会下谷は急坂であり、

「攻められても絶対に落ちる城ではない」

 という余裕があった。さらに小笠原には尼子氏がついている。

「籠城して尼子殿の応援を待てばいい」

 誰もが思っていた。

 温湯城の北一里のところに構えた赤城を芸州勢が攻めはじめた。ここには、小笠原軍が五百人ばかりで立て籠もっている。

「赤城を取られるな」

 明尊は福冨党を引き連れ、打って出ることとした。籠城戦は城に閉じこもるだけであってはならない。城の防禦性を利用しながら打って出て敵をかく乱しながら戦うものであると考えていた。

「この突撃は敵をかく乱することにあるぞ。首級は取る必要なし、討ち捨てろ。城内の味方衆にぶざまな振舞いを見せるな」

 大身の十文字槍を高だかとかかげた。

 青木五郎丞率いる青木党も集まり、たちまち、三百余人となって、手ごとに槍、長刀を引っさげて旗谷へ打って出た。

 これに対して吉川勢では粟屋源蔵、森脇市郎右衛門ら四百人ばかりが切り掛かってきた。 

「絶対に止まるな、止まれば死ぞ。死ぬまで走れ」

 明尊が敵軍団のなかを走りまわって撹乱しながら、手当たりしだいに槍を奮い、敵兵を地獄に蹴落していく。しかし、敵軍の動きもすばやかった。あっというまに、明尊らを重囲のなかに押し包んできた。

「儂に続け」

 明尊が備えのもっとも厚い敵軍にむかって突っ込んだ。福冨党らの将兵が一塊となって続いている。

 明尊らは、そのまま会下谷へ走り込んだ。備えの厚い方を崩された敵軍は、追撃をあきらめざるを得なかった。河邊八郎左衛門が毛利方の森脇市郎右衛門に討ち取られてしまったが、斃した敵の兵も多く、温湯城に籠る味方の士気を大いに奮い立たせた。

 この戦いにより、明尊は戦国の武将としての福冨七郎左衛門の名声を高めることとなった。

 しかし、六月一日夜半、赤城守備隊は城を捨てて温湯城へ逃げてきたので、吉川元春に陣を取られた。

 これにより青岩城の尼子勢も退いて大田まで退いた。

 温湯城だけが孤立してしまった。

 小早川隆景が、温湯城近くに馬を寄せた。大将の言葉戦がはじまろうとしているのだ。両軍の将兵が静まりかえった。

「この度、毛利元就公は、石見国に討ち入り、福屋、益田ともに降参した、しかるに小笠原は真っ先に馳せ参ずべきところを退けて籠城している。すみやかに城を明渡せよ」

 隆景の大音声が響いた。弁舌では吉川元春といえども隆景には一目置いている。毛利三家が合体しての戦にはいつも隆景が大将の言葉戦を受け持っていた。

「福屋、益田は降参しても当家は、尼子の重臣である。小笠原弾正少弼(長雄)は元就殿の孫婿である。この元枝は吉川殿の孫である。隆元殿は契約親となる。しかるに、この度の振舞いは他人よりもなお恥じる行いである。元枝の弓を受けてみろ。」

 長雄の三男元枝が矢倉から応答し、五人張り大弓で矢を射った。寺谷らも四人張りで鋭く射った。引き下がる隆景を追うように、温湯城の中から喚声があがった。

「この城の寄せ口は五ヵ所にある。合図をもって一度に押し寄せ攻め落せよ」

 隆景の下知に、数万の将兵が鉦や太鼓、旗竿を叩き、喚声を挙げながら総攻撃してきた。

 城内は静まりかえっている。

 攻城軍が城壁に取り付いた。そのとき、けたたましく叩く木鐘が攻城軍の頭上に轟きわたった。それを合図に、城内に仕掛けてあった数万個の大石が、轟音と土煙をあげて落下した。

 攻城勢は、一瞬のうちに数千人が斃れ、もがき苦しみ阿鼻叫喚のちまたと化している。あまりの凄絶さに、両軍の喚声が途絶えていた。

 毛利軍の攻撃が止まった。

 その後は、膠着状態がつづいた。

 

「攻城をはじめてから、いまだに、敵を一人も討ち取っていない。にもかかわらず、味方は数多くが斃れてしまった。五ヵ所の大門入口は、いずれも深い谷に掛け渡し、左右の峰は、出城で固め、堀や塀、矢倉は幾重とも知れず、数万騎で攻めても容易くは落とすことのできない城である。このうえは、強襲を止めて敵の兵糧が途絶えるのを待つべきである。」

 毛利軍は、小早川隆景の意見をとって、温湯城を二重、三重に囲み、長期戦に切り替えてきた。

 六月(新暦の七月中旬)になった。いまだ梅雨が明けない。毎日、雨の降り続くうっとうしい日が続いている。

「浅利のお城や福光の知行地は大丈夫でしょうか」

 僕従の久作が聞いた。

 明尊は、戦が始まると四ッ地蔵城へは、山田重兵衛ら十人ほどを残しただけで温湯城へ入った。

 村の若者は足軽にとられた。

 明尊の率いる足軽も全員が百姓だ。百姓が本業なのだ。

 五月になると田植えをしなければならない。籠城中の足軽らは、戦どころではない。

 今、稲を植えなければ来年まで生きていけない。だから、だれもがいらいらとした日を送っていたのである。

 温湯城に詰めている明尊には浅利村に四ッ地蔵城があり、福光郷には知行地がある。四ッ地蔵城は福屋隆兼領に、福光の知行地は吉川経康領に隣接しているがいずれも敵方として攻城軍に加わっている。

「四ッ地蔵城も知行地も危ない」

 久作が言った。

「大事ない。吉川経康も福屋隆兼も己の全兵力をもって駆けつけているはずであり、自領でいざこざを起す兵力は残っていないはずだ。己の領で戦を起すということは全面的に毛利家へ協力していることにはならない」

 平然としている明尊の顔をみて久作は安心したようであったが、

「一度、見て来ましょうか」

 久作の言葉に明尊が驚いた。

「この城を抜けでることがでるのか」

「南門から笠取山の間道は、敵方に見つかっていないようです。皆が利用しています」

 南門は、城から後方の山に向って二股に分かれる尾根の内側にある谷に通じている。

 したがって、攻城軍からは、たとえこのいずれかの尾根に上ったとしても谷を覆う木々に隠されて見えないのである。  

 築城のときに抜け道として造ったものが、みごとに機能していたのだ。

笠取山は、敵の毛利隆元陣ではないか。」

「敵勢兵卒の話声まで聞えるほど近くを通ります。でも間道は、みごとな死角になっていますから、敵からは見えません。」

「見つかるな。雨の夜にせよ。」

 明尊の許しを得た久作が、ふたたび明尊の前に現れたのは、その八日後だった。

「お城も、福光も平穏でした。お屋敷に異常もなく、村もそのままです。すべての田んぼに稲が威勢よく育っています。若者を戦にとられた家の田んぼは、村が総出で田植えをしたそうです。」

 久作の顔にも安堵が広がっていた。

「そうか、それはよかった。皆に知らせてやれ」

 明尊もホッと気が緩むのを感じていた。

 

一年が過ぎた。城内では、なにごともなくたいくつな日々を送っている。

 風のない穏やかな日だった。雨水を貯める為にあちこちに置いてある甕(かめ)の中の水が揺れていることに、兵が気付いた。ところが、たくさん置いてある壷や甕のなかでもさざ波だっているのは数個の甕だけだった。

「不気味な現象だ」

「なにか異変が起きるにちがいない」

 怖れる兵は、その甕に近寄らなくなった。そのうち、

「空の瓶から音がする」

 兵が騒ぎだしたので明尊も、その甕に頭を突っ込んでみた。かすかな音が甕のなかで反響している。不思議だと思ったが原因はわからなかった。日ごとに、それらの現象が大きくなってくる。なにか得体の知れないものが襲ってくる不安に、将兵はおののき、いら立ち始めていた。

 ある朝、いつものように音のする甕に顔を突っ込んでいた兵が、冗談まじりに呟いた。

「芸州勢が地下に穴を掘って、城内へ侵入しようとしているのではないだろうか」

「そうだ。そうだったのか」

 城内がてんやわんやの大騒ぎとなった。

 銀山から呼び寄せた堀子に、城内侵入用の穴を掘らせていたのだ。

 不気味な現象に慄(おのの)いていた将兵の気持ちが一気に晴れた。

 小笠原軍は、甕の響音により穴の位置を確認しながら、城内からも穴を掘り進んでいった。少しずつ近づいてくる敵の音を確かめながら掘っていた穴の土が、突如崩れた、双方の間の土が崩れて穴がつながったのだ。鉢合わせとなった両軍の壮烈な地下戦となった。だが、小笠原軍は下向きに戦わなければならず、不利であったため、穴のうえから大石を投げ込んで防いでいた。

「おい、肥溜めをどんどん持って来い」

 一人の武士が近くにいた兵を走らせた。

「ぜんぶ持って来い、いい捨て場が出来た」

 それまで溜まっていた数十個の肥溜めの糞尿を穴に放り込んだ。これには敵も敵わないと逃げて行った。

 直ちに穴を埋めた。

 同じころ、温湯城南大門の下にある廣汲寺門前に遊女町が出現していた。

 廣汲寺は小笠原家菩提寺である。にもかかわらず元就は、この寺を潰さなかった。

 温湯城攻防戦により小笠原軍が籠城したため、毛利の勢力圏内に入るとき、『元就は、寺社を尊重し、たとえ敵方の菩提寺であっても潰すということをしない』ということを知っていた住持は、毎月大般若経法会を催し、敵味方の区別なく参詣を促した。元就は、これを許した。さらに、遊女町ができていた。このころ、長期にわたる攻城には遊女が集まってきた。天文九年の尼子による毛利攻めのときも遊女町が出現していた。このときは、毛利勢によって焼き払われてしまっていたが…。

 なにか悪い魂胆があるのだろう。と警戒して近寄らなかった籠城兵も、いつしか誘惑に負けて遊女町に立ち入るようになってきた。ろう城兵の懸念をよそに何も起こらなかった。攻城軍も出入りしている。

 定められた日には、敵味方の若武者が多勢で城や陣地をでて廣汲寺に参詣し、遊女町で思い思いに過ごすという珍妙な光景が出現した。その日は、さすがに敵方の将兵は陣をでてこなかったが、お互いに相手の存在を無視して参詣し、遊女町で遊んでいた。ここには、戦というものが存在しない、いわゆる中立地帯となっていた。

 

「一年を超す籠城にもかかわらず諸兵に困窮の状はない。これは皆が一致協力してきた力である」

 御屋形は豪語していたが、尼子に属する周辺の武将は、

「温湯城危うし、このままでは、開城におよぶこともありえる」

 との羽書(急使)を尼子晴久に届けていた。

「今これを助けなければ石州はすべて敵に降参する」

 尼子晴久は、傘下武将の兵を集め雲州富田月山城を出発した。

 随従する兵には、まず、

 出雲の国から三澤三郎左衛門、三刀屋彈正左衛門、広田入道、馬場尾張守、

 伯耆の国に小鴨掃部助、小引彈正少弼、福頼治部太輔、同彌四郎、

 美作に兩齊籐、葦田民部太輔、市五郎兵衛、玉串監物、

 石見の本城越中守常光、同太郎兵衛、

 尼子譜代の亀井能登守、佐世伊豆守、河本彌兵衛、牛尾遠江守、同太郎左衛門、同三河守、同豊前守、同彈正忠、屋葦右兵衛、河副美作守、黒正甚兵衛、卯山飛騨守、森脇長門守、横道石見守、同兵庫助、同源介、高尾縫殿允、同右馬允、立原備前守、同源太兵衛、秋山三郎左衛門、同伊織助、熊野備前守、同兵庫助、多胡左衛門尉、同兵庫助、湯信濃守、同佐渡守、平野又右衛門、眞木宗右衛門、中井駿河守、同平蔵兵衛、三刀屋蔵人、大西十兵衛、本田豊前守、飽浦伊豆守、赤穴右京亮、その総計一万八千余騎となった。

 尼子晴久を大将とする温湯城救援隊は、六月二十三日(新暦七月八日)に先陣が出発し、後陣は順次追及していった。

 七月五日(新暦八月十八日)、救援隊は、江川を隔てて陣を張った。

 尼子家四ッ目結の旗三十流が本陣に翩翻としている。違鷹羽、流車、片輪車、一頭ノ右巴、三頭左巴、竹に雪、小篠の雹、輸違、杏葉、酢漿、二本杉、中黒、中白、菊水、三本笠等諸家家紋の旗が次々と到着し、周辺の山を埋めて行く。

 温湯城に籠る将兵と周辺の援軍が掛け合う鬨の声が

「エイエイ」

「オーッ」

「エイエイ」

「オーッ」

 鯨波となって地を揺るがす。

 尼子勢は、琵琶頸山に陣を置くと定めた。しかし、この山は「四方嶮難にして地の利がはなはだよい、敵が陣を置けば容易に切り崩し難くなる」と考えた元就が、すでに城郭を構えていた。

「それなら、河上(かわのぼり)の松山城を切り崩し、彼の地を本陣と定め、その後、舟を並べて筏を組んで江の川を渡り一戦する」と決定した。

 

 七月十四日(新暦八月二十七日)、中国山地の山なみを縫うように白龍が臥している。江川特有の雲海である。

 その霧の中を無数の幟が動き出した。目標を変更した総軍一万八千人が鬨(とき)を作って松山城へ切りかかった。この城には福屋隆兼の選兵六百余がいて、尼子勢を真近く引きつけ、はげしく射立てた。さらに、寄せ手が怯むところを得たりと突いてでたため、尼子勢数人が討ち取られた。尼子勢も福屋方の森脇右馬ノ允、多喜九十郎、志和大和守をはじめ数多く討ちとった。

 攻めればこの城たやすく落とせると見えていたが案に相違して堅固であり、びくともしない。

 尼子勢は攻略をあきらめて鷹取山へ引き上げた。櫓をあちこちに構え、かがり火を隙間なく焼かせて陣を固めてから、いかにして小笠原を助けるかを議論したがなかなか結論がでない。ともかく、江川を渡って一戦すべきと一決したときには、いたずらに五日がすぎていた。

この日、江川は降り続く集中豪雨のため水かさが増し濁流となっていた。

 尼子勢は渡河できず、無為に日数を過ごさざるをえない。

 これを見た芸州勢の若武者が対岸で、扇を上げて招き、

「小笠原後詰のため遠くから御出張していながら戦を一戦もせず見物しておられる。ここを渡りたまえ」

「止々と日数を送っておられる」

 などと、大声でからかう。

「日本第四の河だ。舟がなくてはいかにして渡ることができよう、浪の浮沓も持っていないので、寄せることができないではないか」

 雲州勢が答える浪の浮沓とは、馬で川を渡るときに、馬の横腹に取り付けた浮き輪のことである。

南北朝争乱で足利直冬の下知に従って佐波善四郎の籠っている三高城を攻めたとき、毛利小太郎、高橋九郎左衛門らが渡った話を知らないか」

太平記の件まで引き合いにだしている。

「渡れるものなら渡ってみろ。ただ、手綱さばきのうまい人々を渡してくれ」

芸州勢がからかって手招きをする。

 雲州勢は、言葉戦に負けて口惜しがっていたので、

「敵の言うとおり毛利、高橋も渡れるものならば渡ろう」

 本城太郎兵衛、牛尾太郎左衛門が、川に入ろうとしているところを、卯山飛騨守、河副美作守の二人が、

「あの濁流とど巻く大河を舟で渡ろうとしても危ないのに、馬にて渡ろうとすること、まことに石を抱えて淵に入るようなものです」

 しきりに制し止めたので、二人の者も怒りを押さえてとどまった。

 

 七月十九日(新暦九月一日)、尼子晴久はいたずらに河を隔てて対陣していても手立てがないと、鷹取山を引き払い、大田まで引き下がった。

「江川の濁流は、四、五日もすれば普通の流れに戻る。それを待つこともなく退いてしまった。もはや、小笠原を見限ったのだ」

 御屋形は、もってのほか弱り、はげしく落胆した。

 頼みにしていた尼子が(救援)に来てくれたけれども何もせずにいてしまって、それ以後は、救援に来てくれない。

―なぜ。

 明尊には理解できない。尼子が手を引けば小笠原は、毛利に屈すること明白だ。そうなれば、他の国も次々と毛利に侵食される。

 最早、尼子は、小笠原を捨てたのだ。

 さすがに剛勇の御屋形も抵抗する力を失っていた。

 戦局は窮迫している。前途は暗い。

「大変なことになった。小笠原勢は抹殺される」

 城内が恟々とした有様となり、足軽らの脱走が増えている。

 元就は血の粛清で毛利を統率してきた。大永四年(一五二四)に尼子氏重臣の口車にのって元就を排除しようとした異母弟相合元綱を誅殺したことや、三十年にわたって忠を尽くしてきた重臣の井上元有一族三十名を血祭りにあげたことなどからも分かるように、元就のやりかたは冷酷無情だ。将兵の顔から生気が消え、暗く不安な様子となっている。

 もはや、武力でもって敵を退けることは不可能だ。

 雑兵らは、他人の面前でも沈痛な面持ちを隠そうとしない。

―今は、死にたくない。

 明尊は、生まれたばかりの嫡男とさよのためにも生きたいと思っている。

―このうえは、降人となって小笠原家の存続を図るべき。

 小笠原長雄は、考えた。

「当城を明渡し、石州攻略の魁を勤めますので所領は安堵していただきたい」

 旨を小早川隆景に伝えた。

「これほどに取り詰め、そのうえに小笠原の援軍尼子勢は、既に退いている。あと三、四十日攻めれば落城する。石見退治の見せしめにすべきである」

 吉川元春は、降伏の申し入れを拒否するよう主張した。これは、温湯城に籠城している小笠原軍団の殲滅すなわち、皆殺しにすべきであると言っているのである。当時、一族郎党すべてを殲滅するということはめずらしいことではなかった。大永元年九月(一五二一)に尼子経久が今井城で都治氏を滅ぼしたのも殲滅戦であった。今井城に籠城していた将兵百九十八名が死んでいる。五十六年前の明応三年(一四九四)に福冨治堅死去の虚をついて、今井に寝返った福冨の旧臣雀部重郎左衛門ら六人の一族もこのとき絶えた。以後、尼子経久に敵対する者はいなくなった。

「先年、尼子を富田月山城に攻めて大敗し、吉田へ引くとき、小笠原長雄の助力があったからこそ無事に帰りつくことができた。弾正(小笠原長雄)の武勇にかなう者はいない。味方にすべし」

 元就は、御屋形の一命を助けた。

 永禄二年(一五五九)八月、ついに、温湯城を開城した。

 所領については、

「江川以南を没収し、その代わり福屋隆兼の領のうち井田、波積の領地を割いて小笠原長雄に与える」

 旨の返答があった。

 御屋形は非常に喜び、八月九日に城を退去、甘南備寺に入って謹慎した。

福屋隆兼には、「邇摩郡のなかから倍に加増して与える」としたが、福屋隆兼はこれを不服とし、毛利に叛旗を翻すこととなる。

 

 同じ頃、尼子方須佐高屋倉城の本城越中守が五千余騎を率いて芸石の通路を塞いだ。 このため銀山は孤立し、糧食も乏絶した。元春の命により麾下の武将二宮杢助俊実に率いられた十八名が、城内への糧食搬入を成功させたが『焼け石に水』程度のものでしかなかった。

 小笠原救援に失敗した尼子晴久が大田に転戦して、先遣隊を川合に送り銀山の兵糧攻めを強化した。このため、山吹城はますます飢餓に陥った。

 毛利元就は、事態を重視して自ら北池田まで出陣し宍戸隆家、山内隆通、佐波隆秀ら一万の兵力で尼子勢の撃退と城内への糧食搬入を図った。

 両軍は九月に忍原で激突したが毛利軍中堅を務めた備後勢が尼子方の側面攻撃を受けて退散したため、毛利方の先鋒石見勢が死傷者数百人を出して退却した。これを毛利の忍原崩れといわれる大敗であった。

 救援軍失敗により山吹城将刺賀長信と高畠遠言は尼子方温泉津城主湯惟宗を介し自分たちの自刃を条件に和議を申し入れた。

 二人は、温泉津海蔵寺において壮烈な自決を遂げた。

 当時の切腹には介錯人がつかない。刺賀長信らは割腹して手で取り出した内臓を天井に叩きつけて絶命した。

 毛利方の大敗により、尼子晴久が銀山を領し、本城越中守に山吹城を守らせた。

 尼子晴久は小笠原は失ったが、待望の銀山を手に入れたのである。一応の成果はあったとして、引き上げて行った。

 

 九月、明尊は一年半ぶりに四ッ地蔵城に帰ってきた。

 城も知行地も無事だった。

 すでに秋になろうとしている。田んぼの稲は黄金の輝きを増しつつある。

 すべてが、なにごともなく平穏であった。

「吉川さまには、挨拶にいかねばなるまい」

 吉川和泉守経康は殿村から福光村へ城を移したばかりである。

 明尊は、さっそくに物不言城(ものいわずじょう)に出向いて、お礼を言上することとした。

「福屋隆兼は、井田、波積の領地を受け取りに来た小笠原と小早川の家臣に兵を向けて馬物具を剥ぎ取り追い返すという暴挙にでた」

 ということを聞いて、福屋氏への挨拶は止めた。

― 福屋氏も短慮なことよ。

 明尊がつぶやいた。