福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

日和城

 三月二十四日(新暦四月十二日)、日和城へ芸州の杉原盛重が五百人ばかりで押し寄せてきた。

 城下の村に放火して日和城に拠っている寺本伊賀守らを挑発している。

 城中よりこれを見た寺本玄蕃允が二百人ばかりで追いまくり日暮まで戦った。

 この争いのなか、杉原盛重の家臣で一番の槍巧者といわれる福田監物は、寺本玄蕃允が槍の名手と聞いていずれが強いか決着をつけようと相対したが、

「すでにお味方は引き上げてしまって証人がいないではないか、明日また立ち会え」

 寺本玄蕃允は笑っているだけで相手にしない。 

 翌日、福田監物は大将の言葉戦に続いて、

「いかに寺本玄蕃允殿、昨日一戦のとき福田監物と名乗って槍を合わせようとしたが、貴殿は笑っているだけだったではないか。乱戦の中だったので敵味方をさえ見分けがつかないと覚えた。いうまでもなくこのままではどちらが一番なのか見分けがつかない。尋常に勝負しろ、それとも気後れでもしたのか、恥であろう」

 と言って一騎討ちにもちこもうとしたが、

「寺本玄蕃允ほどの武士が敵の一、二番を知らないことがあろうか。惜むべく士を第二に落とすことが無念であると思ってこそ相手にしなかったのであろう、まことにもって情深い武士だ」 

 杉原盛重は一騎討を制して寺本玄蕃允を深く稱えた。

 それから数日後、吉川元春が日和城を「近日中に攻略する」と軍議したとき杉原盛重は、

「寺本父子は、みどころのある兵であります、味方に引き込めば、きっと役立つこととおもいます」

 と願い、許しを乞うた。そして寺本伊賀守と河邊讃岐守には、

「頭を下げて降参してくるならば、本領をそのまま安堵する」

元就の意向を言い送った。寺本、河邊は、従来から望んでいたことなので、すぐにその意に従った。

「憎き寺本、河邊の振るまいなり、急ぎ討ち取れや」

 四月一日の朝、御屋形(小笠原長雄)の命を受けた従弟小笠原長智と大島和泉守、市川三郎丞等一千余人が日和城に押し寄せた。

 当然のことながら、大島和泉守麾下となっている明尊もこの攻め手のなかにいた。

が、しかし、

―なんとも意気のあがらない。

 戦なのだ。

― ほんのひと月前、二月十七日の出羽合戦までは、味方だったではないか。

 明尊は、同士討ちの慙愧(ざんき)をどうしても捨てきれないでいた。一方、智略をもって義をいとも簡単に崩してくる毛利の戦略に畏怖を覚えざるをえなかった。

 攻め手は喚声をあげて城に迫っていった。寺本伊賀守は城中からこれを見て、

「小笠原長智の武勇は兼ねてからよく知っている、うかうかと打ち出て戦うな、できるだけ間近く引きつけてから一気に追いたてよ」

 と静まりかえっている。

 寄せ手が、ひたひたと城壁に近づいたとき、突然、弩窓を開けて激しく射たてた。

 大力の小笠原は、馬上からを散り散りに射っていたが、逆に深手を負ってしまった。そこに河邊讃岐守が真っ先に押し出して、小笠原隊の数人を討ち取ったので、小笠原勢は温湯に向けて退いた。