福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

風雲温湯城(ふううんぬくゆじょう)

 石州出羽(いずは)合戦 

 

 永禄元年(一五五八)春、山椿が冬の終りを告げるかのように群生している。木々の若芽がふくらみ桜もつぼみが大きくなってきた。そろそろ本格的な春を迎えようとしている。

 このころ、福屋、周布(すふ)、吉見、三隅、益田は毛利の軍門に降り、小笠原長雄(ながかつ)が尼子方として毛利と対陣していた。

 二月の初め、小笠原家臣団に緊急の出陣命令がでた。芸州日山城(ほのやまじょう)の吉川元春が一千余騎の軍勢を率いて石見国へ侵入し出羽へ屯営しているという。まもなく温湯城に攻め寄せてくるらしいのだ。

「小笠原長雄は、その父長徳の代から長年にわたって吉川家に親昵を尽くされていたのに、いつしかその義を忘れ、尼子晴久に一味しているのでこれを退治するため」

 という名分を掲げ、芸州郡山城の父元就にさきだって出発したものだという。

 元就は、石見国征服にあたり、毛利家と姻戚になる小笠原長雄は、まっさきに講和に応じるものと確信していた。ところが益田、福屋とも毛利の軍門に下ってきたにもかかわらず、依然として刃向かってくる。ついに小笠原攻略を決めた。

 

「出羽元實が三百余騎で一番に駆けつけ、福屋隆兼も一千五百余騎を引き連れて合流した」

 温湯城へ物見の報告が次々とはいってくる。

 時を同じくして、雲州須佐高矢倉城の本城常光からの軍使が温湯城に来た。

「元就数万騎にて近日当国へ出兵し、まず、温湯城を攻め、その次は、わが城を攻めようとしているよし聞こえている。そのために、元春は、わずかの軍勢で上出羽に屯営している。今、貴方と私が一手になって合戦すればたやすく切り崩すことができるであろう。といえども互角の勢では、勝利危いこともあろうかと思われるので、『多勢をもってやすやすと追い崩そうと思う』と、早打ちをもって尼子修理太夫(晴久)殿へ注進したところ、牛尾遠江守、湯信濃守に五千余人を相添えて当地へ差し出すとの返事があった。小笠原殿もその節には上出羽へ御出兵されたい、両方より挟んで元春を討ち取ろう」

 軍使から渡された手紙を読んで、

「その約が成るのを待っていた」

 小笠原長雄は、おおいに喜んだ。

 二月十七日(新暦三月七日)、小笠原・本城隊と牛尾、湯隊は、合わせて八千余騎の勢を二隊に分けて、本城、小笠原隊が三千余騎で一番に、二陣は牛尾、卯山、湯隊の雲州勢五千余騎という陣立で、上出羽に向け進発した。

 吉川元春率いる芸州勢も福屋隊が一千五百で先陣を取り、二陣は、吉川元春が一千余騎、出羽元實は三百人ばかりで、一陣もしくは二陣の劣勢となった部隊を救うため遊撃隊となって控えた。

 福屋隆兼の子、彦太郎は寡勢なので木の柵を結ばせ、これを盾として待ち構えた。

― 福屋隊が先鋒か。

 この年、二十五歳になった福冨七郎左衛門尉明尊は、前方のススキ原に対峙する隊列を見ていた。

―少ない、こちらの半分ほどでしかない。

 明尊の四ッ地蔵城は、福屋領との国境にあって四代にわたり侵攻を阻止してきた自負がある。

―福屋の戦法を知り尽くしている。

「福屋は、それがしが討ち取る」

 明尊の血がたぎる。

 悍馬にまたがった明尊の両眼が炯々と光ってきた。

 小笠原、本城隊が喚声を挙げて突撃した。

 福冨党を率いた明尊が福屋彦太郎隊めがけて真っ先に突き進んだ。

 福屋彦太郎隊が木柵の内側から矢先を揃えて応戦する。木柵は意外に堅固だった。馬で飛び越えることができない。木柵を挟んでの突き合いとなっている。

「柵を倒せ」

 明尊が馬上から下知する。足軽が縄を木柵に掛けようとしているが、福屋隊の反撃にあってうまくいかない。

 そのとき、福屋隊の福屋越後守、小林大和守らが本城隊の横から矢先を揃えて激しく突き入れ、本城隊が浮足だつのを見て、まっしぐらに掛かってきた。

 本城隊はたまらず後退しはじめた。小笠原隊も後退せざるをえない。

「退け」

 明尊が福冨党をひとまず退かせた。すかさず雲州勢の牛尾遠江守一千余騎が本城、小笠原隊と入れ替わったので福屋隊が劣勢となった。ここで、芸州勢は出羽元實三百余騎が助けに入って両軍入り乱れて激しい戦いとなった。

 混戦となれば多勢が寡勢を圧する。徐々に雲州勢が優勢となってきた。

 その勢いに乗り、卯山、湯隊四千余騎が吉川元春の本陣へ切りかかった。

「突っ込むぞ」

 ひと息いれた明尊ら福冨党も激闘のなかに突入した。

 辰の刻(午前八時)ごろから午の刻(十二時)ごろまで熾烈な戦いを展開したが敵は崩れない。

「味方は敵の三倍ぞ、一気に押し込め」

 明尊の声もかすれてきている。敵も味方も疲れ果てている。

 そのとき、吉川隊の後方から喚声が挙がり、新たな軍勢が突入してくるのが見えた。

「敵か、味方か」

 両軍が注目した。

 明尊は、押し寄せて来る軍勢の旗をみた。三巴の紋だった。

―味方ではない・・・敵だ。

 小笠原、本城隊の失望に反して、芸州勢は、三巴の紋なら小早川隆景か杉原盛重だということを確信しておおいに喜び勇んだ。

「ウオーッ」

 芸州勢の喚声が力を盛り返している。

 杉原盛重隊だった。盛重は去る正月に毛利家の後押しにより家督相続したばかりで、吉川元春の魁となるべく備後国から八百余騎を引き連れて出発していた。その道中で多くの出雲勢が本城の館へ着いたことを聞いて、合戦がはじまる前に馳けつけようと、終夜急いで馳け、出羽表に着いて見ればすでに合戦がはじまっていたのだ。

「吉川の陣へは吉田から加勢が来た」

 雲州勢が逃げ腰になってきた。すかさず、元春が采配を打ち振って先頭に立って攻めてきた。

 雲州勢は耐えられず引き下がったが、小笠原、本城隊はなおも踏みとどまっているところに杉原隊が横合いに殺到してきたので、たまらず押し崩されて引いていく。

 追撃する吉川、杉原隊に小笠原、本城、雲州勢は百五十人余が討ち取られた。

 吉川、杉原隊は、四、五町(四、五百メートル)まで追いたてたが雲州勢が多勢なので深追いを避けて引き返し反撃に備えた。

―敵は、味方の半分もいないではないか。それに負けるとは、あまりにも不甲斐ない。

 明尊の慙愧は、そのまま小笠原隊全体のものだ。

「反撃するぞ」

 小笠原隊が態勢を整えたが、数十町(数キロ)も退いた雲州勢は、敵には吉田から続々と応援が駆けつけていると聞いて、その後は、戦おうともしなかった。

 吉田へも雲州勢が石州へ打ち出したと注進がきたので毛利元就は熊谷伊豆守、熊谷兵庫助、三須筑前守、天野民部太輔、山縣筑後守ら三千余騎を加勢として急遽出発させた。益田越中守、佐波常陸介等も二千余騎で馳けつけた。

 牛尾、卯山、湯隊は大田まで退いて、本城は自城に入って地の利を活かして敵を防ぐこととした。こうなれば、小笠原隊独自ではいかんともしがたい。温湯城に籠らざるを得なかった。

 その後は、両軍とも攻勢にでなかったので戦にはならなかった。

 まもなく吉川元春ら芸州勢は引き上げていった。

 毛利の小笠原攻略は失敗に終った。しかし、小笠原家にとっても、大敗を蒙った戦であり、毛利一族の力をまざまざとみせつけられた戦だった。

 

 三月七日、小笠原方の寺本伊賀守、寺本玄蕃允、河邊讃岐守ら四百余人が籠っている日和城に、『敵方の山縣小七郎が三百余騎で山吹城を出て、周辺の民家に放火している』との注進がはいった。大森銀山の山吹城には、毛利元就の家臣束賀山城守高畠源四郎の両人と検使役として吉川元春から遣わされた山縣小七郎が籠っていたのである。

「こしゃくな、山縣め」

 寺本伊賀守は、山縣小七郎を討ち取るべく軍勢を繰りだした。山縣小七郎の帰路を塞ぐように山陰、薮原に兵を隠し、二百人ばかりを率いて、山縣小七郎の後を追った。

 日暮れになって引き返そうとした山縣小七郎が、追跡してくる寺本隊に気づいて防戦しようとするところに、山陰、薮原の伏兵が五十騎、三十騎と喚声を挙げて挟撃した。

 四方八方から攻撃を受け、思いもかけぬ奇襲に狼狽した山縣小七郎の兵は、いたずらに騒ぎ立てるばかりで堪えられず逃げていった。山縣小七郎も四、五町(四、五百メートル強)まで逃げたが寺本隊の追撃が激しく、味方の兵が多人数討たれているので、ただひとりひき返して数百人の寺本隊を相手に激しく戦った。けれども、援護する味方は無く、多勢のなかに取り囲まれ傷つき力を失ってきた。

「あっぱれなる武者よ。それがしが相手になろう」

 寺本伊賀守は、山縣小七郎を雑兵に首を取られるという武士の恥辱から救ったのである。

「ありがたき、武士のなさけ、いざ尋常に…」

 山縣小七郎は、最後の力を振り絞って槍を繰りだしたが、たちまち寺本伊賀守に突き伏され首を取られた。

 山縣小七郎の兵も四つの首を討ちとっていたが、大将が討たれたので我先にと逃げていった。