弘治元年(一五五五)四月十六日(新暦五月六日)払暁、河上(かわのぼり)村の渡しを軍勢がぞくぞくと渡っているという知らせが入った、三千人余いるという。
「そのなかには福屋氏の幟があります」
「福屋どのじきじきのお出ましか」
「間違いありません」
福屋氏の当主隆兼が陣頭に立って小笠原領に侵入したとなると、これは容易なことではない、これまでのような国境の小競り合いとは違う。一国一城の生死を問われるほどの戦いを覚悟していることとなる。福屋氏も、本腰をいれて戦うつもりのようだ。
明尊の指示を受けた伝令の士が御屋形のもとへと走った。
さらに明尊は三人を一組とした物見(斥候)を二組出した。一組は敵の本隊追尾用であり、一組は四ッ地蔵城に向かって来つつある別働隊に密着して情報を集める為である。三人のうちの一人が敵に密着しながら張り込みを行って、敵の行動パターンを探り、あとの二人が伝令として走る役目をもっていた。
同じ頃、緊急の招集を受けて四ッ地蔵城にも軍勢が飛びこんでいる。
城内が慌しくごった返してきた。
本丸では甲冑すがたの明尊が、おもだった郷士らと軍議を開いていた。
長良村に上陸した敵は、その勢を二手に分けて三百ほどが四ッ地蔵城に向かっている。
すでに市村辺りまで来ているという…一里ほどの近距離だ。四ッ地蔵城が標的にされたことは未曾有の危機である。
「三百か…三百では、この城はとれまい。抑えとして残したのだ。儂を城に閉じこめて他の小笠原方武将が拠る城に本隊を進めたにちがいない。ならば、この城を潰すという気迫はないだろう、橋は落すな」
圧倒的優勢な敵に攻められて濠にかかる橋を落すことは「籠城して徹底交戦をする」という意志表示を内外の将兵に知らしめる手段でもある。
「三百ぐらい、なにほどもあろう。殿、ただちに出陣して蹴散らしましょうぞ」
重臣の山田重兵衛が口角泡を飛ばして息巻いている。日焼けした赤ら顔が黒ずんで見えた。今は年をとってしまったが若い頃の彼は、戦で常に先頭に立って働いていた。
その姿は実にみごとだった。泰然と死地に飛び込める男である。
「いや、わが領内での戦は極力、局地戦でいくべきだ、この城に引きつけて城の攻防に導く、領内の田畑を戦で蹂躙してはならない」
だが三千人の福屋勢が一気に攻めて来たならば、わずか百名余りしかいない四ッ地蔵城は苦戦を強いられる。そのときは三の丸をすて、本丸と二の丸で戦うことになる。
三の丸に敵を誘い込む。
本丸、二の丸へは急峻な崖となっているから、敵は、右往左往する。
そこへ、本丸、二の丸、見張台、大門等から逆落としの反撃を食わせて撃滅する。初代治堅が精魂を込めて築いた堅城である。敵が三百しかいないのなら、その必要もない。
城内は生気がみなぎり、闘志が湧きあがってきた。
「いや、本隊が何処へいくのか見極めてからだ」
明尊は悠然とかまえて動こうとしない。
物見からの伝令が次々と入ってくる。
「敵の本隊は江川北岸を遡上し、田窪村の寺本伊賀守さまと対峙して川岸に陣を張っています」
伊賀守も小笠原家臣である。
「敵は、この城と日和城を一気に潰すつもりでしょうな」
「いや、儂を封じ込めておいて日和城を潰すつもりだろう。それから御屋形さまを攻めるつもりだろう」
道順からいえば、まず、四ッ地蔵城を潰してから日和城にいくのが筋なのだろうが、日和城を攻めたとなると福冨七郎左衛門の力をみくびったということだ。
忠左衛門が小癪なといわんばかりに肩を怒らしている。
「三郎左衛門どのはどうしている」
明尊が日和城へ馳せ参じるとなると、都治村の佐々木三河守と田中三郎左衛門が気になる。二人とも福屋方の有力武将である。明尊がうかつに動くとたちまち背後を突かれる。
小笠原氏と福屋氏とは姻戚関係にあり、これまでは諍いが起きることなど一度も無かった。あくまで親和と共生にある。とはいえ、今度のように小笠原、福屋両家が相争うことになると、三河守と三郎左衛門も過去の友好に蓋をして戦わなければならないだろう。
「いまのところ静観していますが、やがては福屋氏に味方するでしょう」
「日和城の会戦は明日の朝になるものと思われます」
「こちらへ向かってくる敵は、物見も出さず、ただ、ぞろぞろと歩いているだけです」
敵は、われわれを牽制するだけの示威行動だけで済ますつもりらしい。
「よし、兵たちの腹ごしらえを済ませておこう」
物見の報告を分析していた明尊が立ちあがった。
三の丸を開放して兵らの飲み食いがはじまった。戦いを前にして気も高ぶっているのであろう、ワイワイガヤガヤとなかなか賑やかだ。
明尊には、ひとつだけ気になることがあった。都野駿河守の動向である。四ッ地蔵城の南方一里のところにある仙本崎城の城主である。都野氏は鎌倉時代末の嘉元二年頃、石見に入部したといわれている。南北朝の争乱では福冨七郎判官とともに南朝方として働き、後に都野氏は北朝方に付いたが、福冨七郎判官は南朝方として壮絶な最後を遂げた。
都野氏が北朝方に付いたときには、すでに石見諸士のほとんどは北朝方に付いたあとであり、その時期を失していたたため、室町時代には小笠原氏や福屋氏のような大名にはなれなかった。だが、戦国時代になって盛り返し、川上、田野、多田、大島、小林、月森、横田、山藤と都濃郷に所領をもっている。
一時期、小笠原氏の傘下に組み込まれていたこともあったが、今では小笠原氏や福屋氏とも一線を隔して、その地位を保っている。
都野氏は福冨に対して、常に親昵の間柄を崩さなかった。そんな都野氏のことを明尊は、畏敬をもって接してきた。
都野氏が、こたびの戦でどちらに加勢するか気になるところだが、
―ここは、どちらにも付かず、静観してほしい。
明尊の願いであった。
濠の外側に敵勢が粛々と集まっている、いやに静かだ。
わずか三百余とはいえ、城前面の狭い谷は敵の将兵で立錐の余地もない。
敵ながら林立している旗指物が壮観だ。
その夜、重兵衛と喜兵衛の指揮する二十人が城の西側掘割に出る間道を抜け出て、敵の側面にまわった。四ッ地蔵城へ来てからは、明尊の剣術指南に専念し、戦場へ出なくなった重兵衛にとっては久しぶりの出陣である。重兵衛は、いちど被った兜を脱いで白髪の目立ち始めた頭に赤い布の鉢巻をした、凄まじい気迫がみなぎっている。
「では、殿、御武運を。」
出陣の儀礼として交わす言葉に、少しの乱れもない。
「お頼み申す」
明尊が慇懃に送りだした。
重兵衛らは狭い谷間の其処彼処で燃えさかっている福屋軍の篝火を巧みにかわしながら闇に消えていった。
さらに忠左衛門率いる二十人が東側の山を越えて敵の背後にまわった。
二隊は闇にまぎれて敵に気づかれることなく、それぞれの配置についた。
朝、暗いうちに朝餉を済ました明尊は、いまだ夜の明けきらぬ薄やみのなか、本丸の一角に奉じてある四ッ地蔵尊にお参りして戦勝を祈願した。
手燭の灯りが、暗い御堂の中で正座している明尊と妻のさよを照らし、長く延びた影が壁で揺れている。外は意外に静かだ。
「ご武運を」
さよが静かに明尊の前に両手をついた。
自分の城が攻められている。今まで経験したことのない危機に直面している。まさに危急存亡の秋(とき)なのだが、さよの心に乱れはない。たんたんと運命に身をまかせている。
だが、白い顔にわずかではあるが緊張の気配が現れていた。
万が一、四ッ地蔵城落城ということになれば、明尊とさよは城に火をかけて、この御堂で自決することになる。逃げまわって命ごいをするような明尊ではないということを、さよは知っている。
そのときは明尊にすべてを委ねる決意を持っている。それが、さよの顔に緊張として現れているのであろう。
「心配するでない、心配はいらん」
明尊がうなずいた。
御堂を出た明尊は縁側で大きく息を吸った。
将兵を三の丸広場に集めた。
「これから、面白い戦術をみせようぞ」
明尊が大音声で将兵を鼓舞すると力強く采配を振った。
三の丸に林立していた百本の幟を、あらかじめ決められていた城の出入口三ヵ所と南北の塀際に二十本づつ移動させた。陽動作戦を展開したのである。敵の目を、この一帯に集めるためだ。
「見ろ、敵も我々の動きに合わせて移動しているぞ。我々が、どの出口から出撃してくるのか分らない敵は、すべての可能性に備えようとして兵力を分散させているのだ」
「一泡吹かせて見せるぞ」
明尊の顔に気概が横溢していた。槍の穂先が星に煌いた。
敵は三百人の兵を五ヵ所に分散させたため大門の備えは八十人しかいない。
それぞれの部署に幟を移動させた兵が幟だけを残して帰ってきた。
「敵に、さとられなかったか」
「首尾よくいきました、敵は向こうで我々の出撃を待ち構えております」
全兵力が明尊の前に集まった。
「皆も見るがいい、大門前の敵は八十名ほどしかいない」
「では次ぎの戦術に移れ」
明尊の回りに精兵を十名だけ残して、越堂清左衛門に率いられた二十名が大門道の両崖上にある塀に隠れて配置に付いた。
「法螺貝を吹け」
明尊の大音声が轟いた。
明尊が槍をとった。
ガチャガチャガチャと明尊の動きにのって甲冑が鳴っている。
城主出撃の法螺貝が鳴り渡った。
「門を開けよ」
馬上の明尊が命じた。
明尊の声音に少しの変化もない、平常心である。その姿は、なんともいえない威風があった。
四ッ地蔵城の大門がきしみ音を立てながら開いた。
城内の動きを察知した敵が、あわただしく動き出した。敵勢の法螺貝が鳴りわたり、甲冑や武具の擦れる音や馬蹄が谷間に盤踞している。
まさか明尊らが城を出てくるとは思ってもいなかったのであろう、滑稽なほどあわてふためいている。
明尊が先頭に立って群る敵勢の中に突進した。
「敵の大将が一番に突入してくる。」
福屋勢にとっては願ってもない好機だ、明尊めざして我先に群った。
槍ぶすまをつくって押し包み、明尊を打ち取ろうとした敵勢の中から、数本の槍が宙を飛び絶叫が走った。あっという間に数人の首が体を失っていた。
明尊を頂点とした福冨党の将士が大岩に楔を打ち込むように、一塊となって槍を振るう。
福冨党は、縦横無尽に動きまわる明尊にピタリと隋いて闘っている。
敵の大軍が割れて力を削がれた。
血飛沫が悲鳴とともに飛び交う。
「よし、これでよい。退くぞ。鉦をならせ」
明尊が馬首を返し大門の中に走りこんだ。
福冨党の将兵が算を乱して城内に逃げ込んだ、と敵兵には見えた。
それっとばかりに敵兵が群って大門を襲ってきた。
明尊の合図を受けて弓弦がキリキリと大門に反響した。
このとき福屋勢は大門の望楼に、ひときわ煌(きら)めく女武者を眼にして立ち止まった。さよの勇姿であった。赤紫の小袖に朱糸威(あかいとおどし)の鎧を着け、額(ひたい)には白銀の天冠が鈍く光っている。いまだ明けきらぬうす闇のなかで神々しく輝いていた。あまりの美しさに見惚れて立ち止まった福屋勢めがけて、さよの強弓がうなりをあげた。侍大将がもんどりうって倒れた。さよの放った矢は過(あやま)たず、侍大将の眉間を貫いていた。
「おー」
望楼から歓声があがった。
「放て」
清左衛門の号令に弓矢が風を切って飛び出した。大門前に群っている敵兵を両崖の上から狙い射ちでしとめていく射撃は的確だ。
一方的な殺戮となっている。
濠の橋を渡って大門へ殺到しようとしていた敵勢が至近距離からの矢を受けて、次々と斃れていく。
敵兵を襲う矢は大門の望楼と大門道の両側崖の上からと間隙なく続いた。
敵は狼狽し、うろうろするだけで反撃もできず地に伏した。
「今こそ総力を挙げて戦うときぞ。福冨党の力を見せようぞ」
「おー」
喚声を挙げ弓を槍に持ち替えた福冨党の将士が明尊を頂点とした突撃態勢を組んだ。
明尊率いる本隊四十人が大門から打ち出た。
将兵の血をたぎらせる法螺貝が鳴りひびき、角立て四ッ目結いの大将旗が高だかと掲げられた。陣太鼓が打ち叩かれている。
「見ろ、敵は何の策もとらず、団子になってむかってくるではないか。敵に作戦なし、勝ちはわれにあり」
明尊の哄笑が谷間に轟いた。
まさにそのとき、後方から敵を包み込むように法螺貝が鳴り渡った。
「なにごとだ。」
敵勢が耳を澄ませるまでもなく、暁闇のなかから湧きあがるように、重兵衛と忠左衛門の隊が敵の側面と背後から猛然と襲いかかった。
敵勢のなかを、叫喚がうずまいた。
両軍の鬨の声、雄叫びが狭い谷間を圧した。
三方から攻撃を受けた福屋勢は、たちまち戦うことを放棄して逃げだした。
「追え、敵に膚接して追え、間隙を与えるな」
福冨党の軍勢が逃げる敵に追い打ちをかけて討ち取っていく。
逃げ送れて濠に落ちた敵兵が泥沼に足をとられて立ち往生したところを、城内の兵が狙い打ちで矢を放って仕留る。初代治堅が築城の際に勝負留めとして構えた底無し沼の濠だ。
ひとたび入ったなら、たちまち自由を奪われる。弓での狙い撃ちは静止した的を射るのと少しも変わらず容易い。
濠のなかを血が走り、泥水が赤く染まっていった。
やがて、敵の首級を取った将兵らが意気揚々と集まってきた。
それらの首級を記録するのももどかしく、明尊は重兵衛隊を城に残して馬首を日和城に向けた。
「さあ、これからが本番ぞ。戦いが終わるまでに行かねばならん」
「田窪村では、まだにらみあったままです」
物見が連絡してきた。
「こちらのことは、まだ気づいていないだろうな」
「だいじょうぶのようです。敵の目は前面の日和城に集中しています」
「そうか、こういうとき、われわれのような小勢は便利だの、相手に気づかれにくい」
明尊らは住郷村の天満宮境内で小休止とした。ここなら戦端を開いてから動けば丁度いいころあいに突入できる。
「火は使うな、ただちに出発できるよう心して休憩しろ」
明尊の下知が、全員に伝えられた。
「殿の采配、みごとですな」
「孫氏の兵法を実践してみただけだ」
「孫氏ですか、すばらしい兵法ですな」
「孫氏の兵法は、戦う気のない百姓らをいかにして戦わすか、ということに尽きるさ。儂らも見習うことは多い。儂らも郷士連中の戦う気を如何にして起すかということに頭を悩ませているからの。今回は、たまたま、うまくいったということだけだ」
「それがしも、郷士の端くれですが」
佐々木喜兵衛がニタリと笑った。戦を前にした緊張というものが全く顔にでていない。
平常心そのままの喜兵衛であった。
「この分なら一戦も交えずに勝利ということもありえる」
「戦わなければだめだ。戦って高名を得てこそ、武士の本分というものだ」
「殿は、戦となればあいかわらず剛毅だ」
忠左衛門が満足そうにうなずいた。
「始まりました」
物見が大声で叫びながら疾駆してきた。
日和城の方角から凄まじい戦闘の響が聞こえる。
「よし、行くぞ。儂に続け、敵の背後を衝く」
愛馬に飛び乗った明尊が先頭に立って突撃していった。
日和城下の田窪村では小笠原勢と福屋勢が激烈な戦いを展開していた。まさに、そのとき、福屋勢の後方から福冨党が突入して挟撃したのだ。
現在においても『横槍をいれる』ということばが残っているように、戦国時代の戦において、軍隊は前面の敵には強いが、側面や後方から攻撃されると脆(もろ)く、たちまち崩れてしまうことが多かった。
福屋勢は、ほうほうの体で逃げ去った。
しかし、福屋勢の侵入は執拗になるばかりである。
四月下旬、温湯城を攻めようと侵入して来た福屋勢を小笠原勢が川越の田津で迎撃撃退した。
福屋勢の小笠原領侵入は毛利の命によるものだ。毛利は、福屋、出羽、佐波らに命じて小笠原包囲網をかためつつあったのだ。
「毛利元就は、なんの名分もなく、小笠原領への侵入を画策している。これを討たねば武家の面目が立たん」
小笠原勢は、尼子の後援を受けて、毛利領内の侵食を始めた。
弘治二年(一五五六)三月十八日(新暦四月二十七日)、元就の次男吉川元春が石見へ侵入してきた。
小笠原勢は、からくも撃退したが、大森銀山を取られてしまった。