福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

三高城

 天文十二年(一五四三)七月三日(新暦八月三日)こんどは、尼子晴久が石見に出兵してきた。石見の豪族は、つぎつぎと頭を垂れている。

 晴久は、「大内勢を敗った今、勝ちに乗じて石見、備後を切り隋えたのち、再び芸州へ討ち入って一年前の鬱憤を散し、大敗の恥をすすぐ」との決心を伝えた。

 七月五日(新暦八月五日)、温湯城大広間、江川から吹き上がるさわ風が、端坐する重臣らの汗を乾かしている。ガンガンと耳に響く蝉しぐれに混じって、ときたまさえずる鳥の声が、居並ぶ諸士の心をわずかに慰めている。

 広間では御屋形小笠原長雄を前にして緊急の重役会議が続いている。

 御屋形は病臥中の父長徳に代わって小笠原軍団を統率しており、二十歳を過ぎたばかりの青年武将ながら気性激しく、すでに剛将の片鱗をうかがわせていた。

「一昨年は、尼子とともに毛利を攻めた。去年は、大内に追従して尼子を攻めた。今回は、また尼子についていかねばなるまい」

「それにしても、いつも他人に隋従では情けない、武士らしく毅然とした態度を貫きたい、真の独立をめざすべきです」

「それがしも同意見にございます。小笠原領内には銀山があり、銅山もあり、それに刀剣の材料となる良質の鉄も豊富です。これらを最大限に活用して軍備を増強すべきであると考えます。自分の力を養っていかないと、やがては尼子や大内に支配されてしまいます」

「忠誠、義理にこだわれば、河津民部左衛門のようにひとたまりもなく滅びます。これが我らの宿命です」

 河津民部左衛門久家は、大内に従って尼子を攻めた出雲国人衆のひとりである。大内勢敗退のとき宍道遠江守や多賀美作守らは山口に逃れたが河津久家は、あえて出雲に残り、尼子に攻められて討死した。

「河津民部左衛門の戦死の様は、武士らしくいさぎよいと称賛をあびているようですが…家を潰してしまってはなんにもならん」

「そう、武士の意気地を立てたところで死すれば犬死だ」

 議論は尽きそうにない。

「我らは、そのときどきの連合を組んで戦ってきた。武家がいっそう強い勢力と連合を組むのは、武家のならいである、裏切ではない」

「合戦は、お家興隆のよい機会だ」

「籠城してどちらにも附かない中立という立場はどうだ」

「この城・温湯城に籠城すればちょっとやそっとのことでは落とすことはできないでしょう。でも、後詰めがあるということが前提となりましょう。今、大内、毛利は、月山富田城攻めの失敗により離反する者が多く、自国内での戦いで手いっぱいでございます。我らが籠城しても後詰めは期待できません。救援の無い籠城は自滅を招くだけです」

重役らの発言は続いている。

 御屋形(長雄)は腕組みしたまま目を瞑っている。ひとことも発言しない。長雄の脳裏には、毛利元就とともに過ごした二月前の一夜がわすれることができない。

―あのとき、元就父子は、儂らを信じてくれた。二人の生命を儂らに預け、頼ってくれた。短い日数であったが、元就の強さ優しさを知り、これからは元就とともに歩むと誓ったではないか。

 老臣らの意見はとうとうと続いている。

「尼子氏とともに行動する」

 突然、長雄が短く言いきると、捨て切れない元就父子との交誼を振り払うかのようにサッサと座敷をでていった。『小笠原には、いままでどおり銀山支配を安堵する』という尼子晴久からの書状を手にしていた。この時代、銀山を支配するということは、銀山経営を請負うということである。尼子晴久に一定量を貢献すれば、あとは、すべて自由になった。それだけ、銀山支配には魅力があったのである。

 ちなみに、大内、毛利と尼子の間で熾烈な銀山争奪を繰り返したなかにあって、小笠原氏は、通算で二十年もの間、銀山を支配していたことになる。

 七月十四日(新暦八月十四日)、二万の尼子勢は、久利清六兵衛、左馬助父子を攻め、郷中一軒も残らず焼き払った。大内からの援軍も望めず、わずか三百人では、とうてい守り抜くことはできないと久利は防州へ逃げた。

 久利城を潰した尼子勢は、つづいて佐波隆連の三高城を攻めるため江川を隔てて頓営した。

 佐波氏は、本城青杉城を中心として、その西に丸屋城、南に皷ガ崎城を構えていた。三城の間は数町しかなく、互いが緊密な連携をとって戦うため、うかつに攻め入ることのできない要害であった。この三城は南北朝動乱のころから三高城と呼ばれていた。

翌日、江川特有の朝霧のなか、かすかに見える対岸に佐波の勢三百余りがでてきた。

「ここから渡って来い。治承の乱において足利忠綱と佐々木高綱が、宇治川を渡って功を得ている。それのみか三郎盛綱は海を渡ったという、川を渡るということは例あるといえども、馬にて海を渡ること未曾有の功であると賞せられたという。今、ここを渡らねば晴久殿の勇は落ち、先祖に顔向けもできないであろう、海を渡れといっているのではない、せめてこの河を渡ってきたらどうか」

 対岸から兆発している。

「憎い敵のいいぐさだ、ここを渡らねば、まことにもって先祖の功をも潰してしまう。行くぞ、ものども続け」 

 尼子左衛門大夫が馬腹をけった。

「なんということをなさるのか、ここは浅瀬ではありませぬぞ、敵は我々をだまして深みに入らそうとしているのです。浅瀬は、ここよりはるかに下流ですぞ」

 小笠原長雄と本城常光が走り寄って制止する。

「なにを言うか、これぐらいの川、渡れなくてなんとする。」

 左衛門大夫が制止を振り切って川に踏み込もうとする。

「浅瀬もわからぬ大河を渡り、溺死でもしたら末代までも恥辱を残してしまう。舟を集め夜を待って渡る、しばらく待て」

 晴久の命により左衛門大夫は、力なく陣へ入った。

 その後、一ヵ月ほど攻めたが城を落とすことが出来ない、

「いたずらに当城にのみ日数を費やすのは愚なことだ。石州のうち益田、吉見、福屋、佐波以外の国人衆は、尼子に靡き従った、ひとまずはこれでよい」

 ついに、晴久は、三高城攻略をあきらめて石見銀山に矛先を変え、これを押領した。

 これを区切りとして晴久は出雲へ引き揚げた。

 晴久は、銀山を小笠原長雄に与えず、直轄地として代官を置いた。長雄としては、当然、自分に与えられるものを直轄としてしまったことに納得がいかない。

「今まで、大内どのにしろ、尼子どのにしても銀山支配は我が小笠原に任せていたではないか、小笠原の銀山支配力をないがしろにしおって」

こめかみに青筋をたてて怒りを露わにした。

 天文十二年(一五四三)この年、種子島に鉄砲が伝来した。

 天文十三年(一五四四)二月中旬、尼子民部太夫改め修理太夫晴久は、三万騎を引率して伯州攻略にかかった。

 伯州へ入ったばかりの八橋城で逗留して初夏になるのを待った。この間に、大崎城の守将は尼子勢の威風に怖れをなして逃げ去った。

 尼子勢は海岸を東進し、鹿野城を一気に陥落させた。

「この勢いで、鳥取城下に放火して、鳥取城もしくは私市城のいずれかを落とせば、因幡の者どもは尻尾を巻いて退散するであろう」

 意気衝天の勢いで軍評定を行なっていたところに、尼子晴久の母公が重態に陥ったとの知らせが届いた。

 五月上旬、尼子勢は因幡を引き払った。

 

 同年(一五四四)十一月、毛利元就の三男隆景が小早川家を相続した。

 

 天文十六年(一五四七)八月二十一日(新暦十月四日)、小笠原長徳が死去した。治世わずか六年の短い在位であった。

 嫡男長雄が十四代を継いだ。

 天文十七年(一五四八)、三月、小笠原長雄は銀山を攻略し、弟小笠原大膳太夫長秀をはじめとして大島和泉守、平田加賀守、寺本土佐守、福原山城守、横道帯刀、青木、市川、小田、樋口ら三五〇人を連れて銀山の視察をした。