福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

月山冨田城

 天分十年(1541)秋、それまで尼子方であった備後、安芸、石見、出雲の国人衆十三人が連署して大内氏へ尼子征伐を慫慂した。

 備後の三吉広隆、山内隆通、多賀山久意、杉原盛重、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、川津久家、宍道正隆、古志吉信、石見の本城常光、福屋隆兼、出羽助盛、吉川興経の十三氏である。

 小笠原長隆は十三人衆の連署には参加しなかった。これまでの尼子氏との交誼を考えると、どうしてもふんぎりがつかなかったのである。

 

 十三人衆の意見に心を動かされた大内義隆は尼子征伐の兵を起した。

 天文十一年(一五四二)正月十一日(新暦一月二十六日)、一万五千の将兵を率いて山口を進発した。

 義隆と駒を並べて進む若武者は、公家の一条家から義隆の養嗣子となった義房である。 公家装束に甲冑をつけている姿は、いかにも弱々しく勇猛な武将とは、ほど遠い。武将としての知識も持ちあわせていないだろう。きらびやかで奢侈な姿は、随従する武将の目には受け入れられるものでなかった。

 同月十九日(新暦二月三日)、義隆は安芸の国府で安芸、備後国人衆の参陣を待った。

 ここで、毛利、宍戸、平賀、吉川、小早川、天野、熊谷、香川、山県ら安芸の国人衆、宮、三吉、山名、多賀山、山内ら備後の諸将が集まり、三月初旬に石見路に入って出羽の二ッ山城に着陣すると、益田、福屋、出羽、佐波、小笠原、本城ら石見の諸将が加わった。 

 遠征軍は、都賀の渡しに舟橋を架けて江川を渡り出雲路に入った。これまで尼子麾下となっていた石見の国人衆は大風が通り過ぎた稲穂のごとくこぞって腰が折れ、大内方となって尼子攻めに参陣したのである。

 

 御屋形(小笠原長徳)の顔が暗い。

― 己の力がないため、大きな勢力に反抗することができない。ただ、大風の吹く方向に腰をり頭(こうべ)をたれて追従しなければならない。まるで、鼬(いたち)ごっこだ、なさけない。

「それにしても、大内義隆の公家装束には、どうもいかん。化粧した顔をみると虫唾が走る」

 御屋形(長徳)が近侍にもらした。

 大内義隆は、武士の本分を捨て、公家になりたがっている。山口では、公家のような生活を送っているという。今回の出征も、公家装束に甲冑を着けている。武辺一辺倒の長徳には、どうしてもなじめない姿であった。

 福冨党に出陣命令はでなかった。十歳になったばかりの明尊に戦はまだ早いと御屋形は見たのであろう。

 四月四日(新暦五月八日)、病に伏していた小笠原長隆(十二代)がついに死亡した。

 

 六月七日(新暦七月十九日)、大内勢は、尼子方の赤名・瀬戸山城を攻撃した。

 

 七月十九日(新暦八月二十九日)、毛利元就が先陣となって、陶、杉、内藤ら大内の重臣らとともに攻めたが、らちがあかない、わずか二千余の籠る小城を陥すのに一ヵ月半もかかっている。城の攻略がいかに難しいかということを、さらけ出してしまったのだ。

「こんなところで兵力を損なっていたのでは、肝心の本拠地である月山富田城攻めに支障がでる」

「そうかといって、この城をこのまま放って、進撃するわけにもいかない」

 戦評定は容易にはまとまりそうにない。

 尼子氏は月山富田城を守る前線基地として、赤名、牛尾、白鹿、三沢、三刀屋、高瀬、神西、熊野、馬木、大西の十城を配している。「尼子十旗」である。さらに、十神山、三笠山などの尼子十砦といわれる城砦が二重三重に月山富田城を固めている。

 城を攻めるには、まず、これらの城を落さなければならない。石見の小豪族を潰すのとは違う。ただ、今回は三沢、三刀屋らが尼子を裏切って大内氏へついている。

「まず、赤名・瀬戸山城将赤穴右京亮に、城を明渡し味方となるならば所領数カ所を与える、と言い送って相手の出方をみてはどうでしょうか」

 相良遠江守武任が言う。

「いや、遠江守の言うこともっともなれど、赤穴はその手にのらないだろう、なぜかと言えば、三沢、三刀屋をはじめとして多くの国人衆が、大内家へなびき従うなか赤穴ただひとりが尼子一味の約束を頑(かたく)なに守っている。いかなる謀をもっても、いまさら降伏はしないだろう。それよりも月山富田城が最も頼みにしているこの城を、一気に力攻めで落とせば、敵方は恐れ臆すことでしょう。赤穴の城を潰さずして月山富田城を攻囲しても、赤穴のために石州の通路を塞がれ、糧道を断たれて、味方が苦戦するでしょうし、万が一、味方が敗れて退くときにもこの城が害となるでしょう。とにかく、この城を放っておくことは智謀にうとい者のすることだ。味方の損害をかえりみず、強襲し、たとえ、赤穴に血気の勇士がそろっていようとも乗っ取るべきだ。当城を攻め取れば、出雲国中で未だ大内家に従わない諸士も、ことごとく降伏するでありましょう。属城を片っ端から切り従え、後方をかためながら月山富田城を攻めるべきでありましょう」

 陶隆房の主張に皆が同意した。

 七月二十七日(新暦九月六日)、卯の上刻(午前六時)、総軍四万余騎が三度の鬨をあげて、赤穴の要害を四方から攻め立てた。

 陶隆房、平賀太郎左衛門隆宗、吉川興経ら五千余騎が一手になって大手門を強襲した。

 これに対して、赤穴右京亮が一千余騎を率いて激しく射立て、攻手が怯んだところに城門を開いて出てきた。両軍が押しつ押されつ入り乱れて、夕方まで戦ったが勝敗は決まらず、お互いに退いた。攻手は、手負い死人が一千人を超える損害をだしたが、ついに城を破ることができず、津賀まで退いた。

 だが、その夜突然、城方は降伏・開城した。

「どういうことだ、あれほど息盛んに反撃していたものを」

 攻城軍は、きつねにつままれたようである。

 ところが後になって分かったことだが、その日の戦闘で喉に矢を受けた城主赤穴右京亮が落命したため、大将が討たれたうえは、城を持ちこたえることができないと、富田城から加勢にきていた将の助言をいれて、赤穴の妻子を助けることを条件に城を明渡したというものであった。

 

 七月二十九日(新暦九月八日)、大内勢の本陣を由木に移した。地図上に月山富田城を基点とする円を描くと、南西六十キロ地点が赤名であり、南三十キロ地点が油木である。まだまだ、月山富田城までは遠い。

 それにしても、いかにも遅い進撃であった。

 

 この年八月、石見地方は猛烈な台風に襲われた。二十一日(新暦九月三十日)夜半、滝のような大雨が一刻にわたって続き、たちまち江川は氾濫、周辺の村落に甚大な災害を引き起こした。

 刈りとって稲棚に干していた稲も水に浸かった。

 高石垣の上にある八神屋も軒下まで水を被り、川近くの倉や家屋はことごとくが水面下となった。この辺りは、洪水に流されるのではなく、土手を溢れた水により、村全体が沈んでしまうのだ。住民は、徐々に増えていく水に追われるように山に避難していく。江川の水位が下がると、村を覆い隠していた水も引いてゆき、その後には、ほとんど被害の無い村が出現した。といっても、倉の中に置いていた商品・玉鋼等も水に浸かったため、後の手入れが大変だ。刈り取って稲棚に干していた稲も水に浸かった。田んぼにそのまま残していた稲は、引いて行く水に持っていかれてしまった。

 このとき、大森銀山では、大轟音とともに発生した山崩が谷を塞ぎ、せき止められた水が洪水となって間歩(坑道)に逆流したため、溺死者千三百名を数える大惨事となった。

 

 九月に入っても、大内勢は由木に屯営して傷ついた将兵の養生をしていた。

 九月中旬、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、多賀美作守、宍道遠江守、川津民部左衛門、広田、桜井、その外伯州住人・南条宗勝、行松入道らが大内軍に馳せ参じてきた。いずれも、富田城防禦網の基趾を担っている将であった。

 これより、三刀屋久祐を案内者として富田城の西三十キロ地点の三刀屋に陣を移し、さらに十一月上旬には、南二十キロ地点の高津馬場に移動した。

 

 十一月十三日(新暦十二月十九日)、中国十一ヵ国の太守尼子経久は失意のうちに八十四歳の生涯を閉じた。

 

 高津馬場は千メートル級の山が連なる中国山地の尾根を背にしているため、厳寒の風雪が毎日のように大内勢本陣を襲ってくる。四尺(一メートル強)を越す積雪に兵は凍え、糧米の搬送もままならない。

 大内義隆は、ついに馬潟(松江市)の正久寺に本陣を移して冬営に入った。

 

 天文十二年(一五四三)馬潟にもようやく、春が訪れようとしてきた。

 いつまでも、徴兵、拘束されていらだつ将兵の不満に押されるように、月山富田城目前の京羅木山(四七三メートル)に本陣を移した。昨年正月十一日に山口を進発してから、実に一年以上もかかったのである。

 麾下の諸将は山を下りて富田城と飯梨川を隔てた山々に陣地を構築した。

 富田城は高さ百八十メートルの月山にある。頂上に本丸を置き、二つの峰を利用して幾重にも連なった壮大な城を築いている。城下からは、東に聳え立つ城の背景に煌煌と輝く月がみえ、その美しさから月山富田城と呼ぶようになったという。

 二月十三日(新暦三月十八日)、大内勢と尼子軍との攻防戦がはじまった。が、しかし、足軽どうしの小競合い程度で、大きな戦には進展しなかった。

 翌十四日、毛利元就は塩谷口から城内への突破を試みた。城方からは牛尾幸清ら一千騎が迎撃し両軍が激闘した。このとき、内藤下野守の家人馬田孫七郎が城方の首を取った。

 これは、この日における『一ッ首』として高名を得、攻城勢将兵の羨望を受けた。

 二月下旬、富田城北麓の新宮谷に近い金谷の尼子家菩提所洞光寺境内へ、平賀隆宗、益田籐包らが侵入した。菩提所を焼き払われてはならぬと、尼子式部太輔、尼子左衛門太夫が二千ほどの兵を率いてでてきた。尼子勢は、弓隊を前面にだして激しく矢を射って来た。これにより益田隊の二人が射落とされため兵が浮き足立った。これをみた平賀隆宗が五百余騎で尼子軍の大軍勢に突っ込んで激戦になった。隆宗が闘っているのは、尼子でも武勇の名高い新宮党である。たちまち包みこまれて劣勢になっていく。

「平賀を討たせるな」

 益田籐包がまっしぐらに切りかかる。それでも、少数の益田隊が新宮党と直接渡り合っては苦戦必定である。そこへ、吉川興経八百余騎が槍を揃えて新宮党の横合いに割って入り突きまくった。これで新宮党の隊伍が四散した。

 洞光寺は、大内軍の手に落ちた。

 

 富田城攻撃をはじめてから二ヶ月を経過したが小競り合いばかりで大した成果がない。

 攻城軍は、毎日をいらいらした気持ちで過ごしている。

 四月三十一日(新暦六月三日)月山富田城に低く垂れ下がった雨雲が重くのしかかり、梅雨特有の小ぬか雨が降り続いている。

 城中より牛尾遠江守、卯山飛騨守らが千騎ばかりで城門をでてきた。

 富田川を隔てて備えると、かかって来いと招いている。

「あの敵を追いはらって大内殿にお見せしよう。」

 三沢為清が一千五百余騎を率いて突撃態勢を取った。

 続いて大内氏へ富田城攻撃を慫慂した十三人衆が動いた。

 十三人衆の一万をこえる軍勢が山から下りて、富田城正面の御子守口を前に整然と隊を組んでいる。城方は静かだ。

 攻撃隊全軍が一丸となって突撃した。飯梨川に架かる橋を目指して疾駆している。橋を渡れば城門だ。

 これからはじまろうとしている激戦に大内勢将兵が固唾を飲んで静まり返っていた。 

「始まるぞ。正面からの強襲だ」

「強襲だ」

 強襲は、味方の被害も多くなる。それをあえて実行しようとしている攻撃隊に、見守る大内勢将兵の血がたぎる。

 城内は静かだ。攻撃隊の先鋒が橋を走り抜けて行く。そのとき、城門が開いた。

「さあ、城内からも押し出してくるぞ。」

 他人の戦を観戦する将兵は、己の生命に危険がないことをいいことに、凄絶な戦いを期待する。

 ところが城内からは出てこない。

 富田川沿いに展開している牛尾遠江守、卯山飛騨守隊を無視して一万余りの攻撃隊が富田城内へ駆けこんだ。

 続いて城方の牛尾、卯山隊が城内へ入った。

「あれでは、味方が挟み撃ちにされる」

 城内で凄絶な戦いが展開されている……はずであった。

 城門が閉められた。

「……」

 城内が静かだ。

「…………」

 両軍の間に起こるべき剣戟の音が発生しない。

 大内勢将兵には、ことの成り行きが理解できない。ポカーンと口を開けているだけである。

 そのとき、城内の塀際に、突撃隊十三将の旗幟が次々と立てられていった。

「エイ、エイ」

「オー」

 城内の勝鬨に大内勢のどよめきが地を揺るがす。

「……」

「……」

「裏切だ」

 城内から笑い声がとどろいた。嘲笑だ。

「裏切だ。」

 我にかえった大内勢将兵に衝撃が走った。こともあろうに、出雲遠征を慫慂した芸、備、石十三将が示し合わせて尼子方に寝返ったのだ。

 どうしてこのようなことになったのか、……話は一ヵ月前にさかのぼる。富田の八幡山に陣をならべている三沢、三刀屋、宮、杉原、出羽、本城ら十三将は、戦の暇があるとき、各々が一所に集まって、酒を飲み、茶をたて、和歌を詠ったりしていたが、あるとき、敵味方将士の強弱評論に話題がうつった。

「大内、尼子両将の知計、強勇の優劣はどうだろうか、それがしが思うには、両家軍法の善悪しを見ると尼子家に利があると思う。大内家は、先代義興さまとは違って今は心浅く思う、なぜかというと、尼子家の大将晴久さまは、勇一道においては近国無双の将であろうと思う。智謀は、勇に比して少しは劣るといえども、この人は、わが勇力を頼りに謀より戦を優先してしまうこともあるが、今、知をもって謀の賢い将といわれる仁に比べても決して劣るものではない。吉田発向のことは大叔父下野守さまに再三、止められたが、尼子比丘尼の臆病意見と侮って出兵し、終いには敗れて尼子氏の柱礎ともいうべき下野守さまを討たれてしまった。下野守さまは、かって刑部太輔と称しているころより、舎兄経久さまと、ともに智謀をもって十一ヵ州を切り従え、その比、経久日本に二人となき大名といわれるまでになったが、これも下野守さまの知謀によるところが大きい。もし、晴久さまが下野守さまの諌言を守って危うき戦を避けていたら最強の尼子になったであろうに、下野守さまは討死してしまった。尼子には、紀伊守(国久)という勇将もいるが、この人は、奢りすぎる欠点がある、『奢る者、久しからず』という習いがあるように、尼子家も終いには大敗を喫することになるやもしれない。もともと、吉田の大敗は、因但備作においてしばしば戦い、勝ってきたことによる奢りから下野守さまの諌めを受け入れなかったことによる。もし、智をもち、勇をもつ将で諌言を受け入れる度量があれば、これこそ誠の将であろう。大内義隆さまは柔弱で大将の器ではない。大将たるものがこのような状態では、その国は、必ずや削り取られるであろう。また、尼子の新宮党、大内の陶は剛強だ。将がこれならばその国は必ず亡びる。

尼子の国久さまと大内の陶どのは将として互角の器であろう。大内義隆さまと尼子晴久さまでは、将の器量に雲泥の差がある。しからば、大内、尼子の国争いは大内滅亡必定であろう」

 杉原忠興の意見に皆が、最もだとうなずいている。

 吉川興経、三沢為清、三刀屋、広田、桜井、本城常光、小笠原長徳、富永、出羽、杉原、久代、江田、池上らが頭をつき合わせて、行く末とても頼り無い弱将の大内を頼ることは考えの足りない者のすることだ。尼子に立ち帰ろうと、一同が結束して富田城内と連絡を取っていたものであった。

 小笠原長徳は、家督を継いだばかりであり、十三将とは、いまだ馴染みが薄かった。結局のところ大内軍に居残ったのである。

 攻城勢と尼子勢の形勢が逆転した。

「大変なことになった。このまま大内勢として残るか、退却するか」

 各陣営がお互いに他陣の様子を覗い浮き足だっている。

「いま、裏切った雲石備の武士どもがその領に残してきた一族家臣らに命じて、防州の通路を塞ぐことになれば味方兵糧の運送も絶えてしまう、ここは、ひとまず陣を引き払い、あらためて九ヵ国の勢を集めて今回の鬱憤を晴らす」

 五月七日を期して攻城勢の総退却が決った。

 大内義隆は、殿(しんがり)を毛利元就と沼田の小早川正平に申しつけた。

 五月七日(新暦六月九日)、未の刻(午後二時)降りしきる大雨のなか大内義隆の本陣が動き出した。

 大内義隆父子は中の海に面した揖屋に出た。ここで義隆は義房と別れ、陸路宍道から石見路により山口へ向かい、義房は海路で帰ることとして船に乗った。ところが、追撃を怖れた多数の将兵が、われ先にと船に乗りこんでくる。このままでは沈んでしまうと舟子らが櫓櫂を振り回し乗船を拒みながら舟を動かした。パニックになった将兵が水のなかまで追って、船の両縁にとりつき乗りこもうとしたからたまらない、船が危うくなってきた。

「エーイ邪魔だ、御屋形さまの御座船に乗ろうとは、失礼千犯!」

 大内家重臣冷泉隆豊が、長刀で舟縁に取りついている将兵の手を切り払った。ところが片舷だけを切り払ったため重心を失い、たちまち横転転覆した。投げ出された義房は甲冑が錘となって、泳ぐこともできず水中深く沈んでいった。公家の一条家から大内義隆の養子となったものの、元来、武略に縁のない育ちであった。舅にうながされて初陣した戦で生涯を終えた、二十歳であった。

 月山富田城正面の八幡山宮ノ尾に布陣していた元就は、大内義隆の本陣が京羅木山から撤退したのを見とどけて、同じ日に陣を撤去し、星上山の峠を越えた。

 元就の陣近くに踏みとどまっていた安芸の小早川、平賀、天野、備後の三吉、石見の福屋、益田の軍が次々と退いていく。

「さあ、退くぞ」

 小笠原長徳は、大内勢本隊が進んだ方向に背を向けて、山佐川沿いに三刀屋に抜け、赤名にでた。尼子軍追撃隊が大内本隊を追うであろうことを推測しての選定だった。

 追撃隊の目は、明らかに大内本隊を狙っているようであった。

 なんといっても地形を知り尽くしている小笠原隊は、たくみに追撃をかわしながら無事に温湯城へ帰還した。

 毛利隊は、追撃隊の執拗な攻撃を受け、将兵が次々と討ち取られていくなか、松江方面へと岩坂道を下った。大雨に全身がぬれねずみとなり急激に体温が失われていく、間隙のない追跡を受けて食べるものも摂れない。雨水で喉をうるおしながら逃げる。討ち取られた仲間には、背をむけ心でわびるしかない。まさに地獄の逃避行となった。

 

 大内義隆は、殿(しんがり)部隊の犠牲的敢闘に助けられて、五月九日(新暦・六月十一日)には宍道にでた。そして二十五日(新暦・六月二十七日)には山口へ無事に帰還した。

 追撃隊の執拗な攻撃を受けながら撤退している毛利元就は、次々と将兵を失い、殿(しんがり)部隊の宿命ともいう凄絶な退却を続けていた。すでに、内藤九郎左衛門、波多野源兵衛、三戸与五郎、井上源左衛門らが討死してしまった。

 五月八日(新暦六月十日)には出雲の古志と神西で続けざまに襲われて多数の戦死者を出した。古志、神西とも尼子十旗の本拠地である。敵国内を敗走するのだから犠牲は膨らむ一方である。

 それでも波根村まで逃げると、豪族の波根弾正忠泰連の保護を受けて禅院満蓮社(長福寺)で休息をとることができた。

 三日の後、敗兵をまとめた元就父子は波根から大森銀山に向い、そこから降露坂を越えようとしたとき、突然、伏兵に襲われた。

 毛利隊は次々に討ち取られていった。

 ついに、元就父子は死を覚悟した。このとき、渡辺太郎左衛門通が、強引に元就の甲冑を貰いうけて身代わりとなった。

 渡辺通は、部下六騎とともに元就父子とは逆方向の湯里・西田郷へ敵を誘いだした。

 これにより、元就父子は九死に一生を得て、大江高山の東をまわり祖式村に逃れることができた。

 元就とともに、殿(しんがり)をつとめた小早川正平は、松江から宍道湖北岸を西に逃れようとしたが、平田・美談で土民の襲撃を受けて全滅した。

 

 五月十四日(新暦六月十六日)、シトシトと音もなく降る雨が温湯城を包み込んでいる。

 小笠原長徳は、室内にこもって長陣の疲れを癒していた。

毛利元就どの主従が、三原村に向っておられるようです」

 あたふたと走りよってきた家士が長徳の顔をのぞきこむような目で窺っている。

― 今なら討ち取れますよ。

 家士の目は訴えている。

「なに、毛利どのか」

「七名ほどです」

「七名だけ…・そうか…・・毛利どのは今回の撤退に殿(しんがり)を務められた」

―二千名の毛利軍団がバラバラになったのか。

 長徳らは、地の利を得て無事に帰ってきた。土地感がない毛利や大内本隊は街道を通らなければならず、あちこちで敵兵の待ち伏せを受けた。

「毛利どのを粗略に扱ってはならない。すぐ、迎えに行く」

 長徳があわてて城門を出て行った。温湯城から三原までは二里(八キロ)弱の道程である。長徳が先頭にたって馬を走らせた。十騎ほどの家臣が慌ててついてくる。

 江川沿いに下って、因原から支流の木谷川縁を北西に上り、狭隘な谷を抜けた。そこが、丸山(四八〇メートル)の裾野に広がる三原である。

 そのとき二町(二百メートル強)ほど前方で、刃を激しく切り結ぶ集団が眼に飛び込んだ。

「毛利右馬頭どのが伏兵に襲われている、すぐ応援に行け!」

 長徳の下知を受けて、八騎の士が馬腹を蹴った。

「小笠原刑部少輔さまです。毛利右馬頭(元就)さまをお迎えに参上!」

 長徳の家臣が疾駆しなが張り上げた声に、闘争中の集団から数十騎の将兵が逃げ去った。

 敵の重囲から開放された元就の側近数騎が走り寄ってきた。長徳一行と対峙する位置に停止して戦闘態勢に入っている。

「小笠原刑部少輔さまでございます、毛利右馬頭(元就)さまをお迎えに参上しました。」

「ありがとうござります。しばらくお待ちください。」

 元就の家臣ひとりが後方へ馬を走らせた。残りの武士は戦闘態勢を崩さない。

 やがて現れた元就一行を見て、長徳は呆然としていた。元就を含めて七騎しかいないのだ。 

長徳が下馬した。家士らも馬から飛び下りて後方で叩頭した。

 

 甲冑を着けていない平服姿の長徳が下馬して出迎えた。長徳に敵意がないことを理解した元就が破顔した。

「毛利どの、難儀なことでござりましたでしょう」

「あちこちで伏兵に襲われこのざまです。…・助かりました小笠原どの」

「退却となると、土民までもが襲撃してくる。情けないことです」

「…・たしか…・本城の兵だと言っておりました。さきまわりして隠れていたのでしょう」

「私どもは、毛利どのが殿(しんがり)を固めてくださったおかげで、心安く引き退くことができました。・・さあ、今宵は我のもとで、ごゆるりとご休息してください。ご家来衆もおって集まってこられるでしょうほどに」

 長徳は、元就一行が持っていた旗を借り受けて篝火の横に立てた。

「ありがたいことでござります」

 小笠原長徳の案内で元就主従が温湯城に入った。

 その夜、長徳の気づかいは、徹底したものであった。武器を携行したままの元就一行を客殿に案内して、ひとまず湯漬をだし、その間に、食事を調えた。

「今宵は、心おきなくお休みください。吉田へは、毛利どのがご無事であることの、お知らせを走らせました。」

「ありがとうございます。」

「お疲れでしょうが、今宵は、いろいろと話したきこともありますゆえ、同室させていただきます、よろしゅうございますか。」

 長徳父子が元就一行のなかに入った。

 長徳には元就への敵愾心がないということの証として、長徳自らが人質となったのだ。長徳父子が元就一行の手の内にある間は、誰も手だしできない。

 四人は、枕を並べて寝床に入った。

「その方らも今宵は、寝てもいいぞ。」

 元就が、長徳の心遣いに答えるように、隣の部屋で控えている家来衆に言った。『不寝番の必要がない』ということを伝えたのだ。

「それにしても、吉川らには参りました」

 あお向けに寝て暗い天井に視点を置きながら、元就が独り言のように呟いた。大内を裏切った十三人衆のひとり吉川興経は、元就の妻の甥である。天文九年の郡山城合戦では、尼子麾下として元就を攻めていながら元就のとりなしで大内方についたばかりである。それを、またしても裏切って尼子についた。そのために大内遠征軍は富田城攻めから撤退しなければならなくなった。大内義隆は退却に最も困難な殿(しんがり)を元就に命じた。そして、元就は、命からがら逃げ延びてきたのである。

 元就の口からは、大きなため息がでるばかりである。長徳も、慰めることばもなくただ黙っているだけであった。

 翌日、元就らは客殿からでてこなかった。一日中、室内で休養し体力の回復に努めた。

「申し上げます」

 廊下に長徳の側近が平伏している。戸を開け放した座敷に飛び込んだ日の光りには、たそがれの赤みがでていた。

「帰ったか」

 長徳が小さな声で聞いた。

「はい、毛利さまご家来衆の加勢に福冨七郎左衛門が福光下村の釜野地区を通って海岸寄りの路を温泉津めざして急ぎました。…が…今一歩のところで間に合わず…ご家来衆七名、温泉津小浜から福光への峠にかかったばかりの坂で、壮絶なご最後を遂げられているのを、見つけましてござります。すでに御首は敵に渡ったようでございます。…・残念でござります。亡くなられた方々は、温泉津の海蔵寺にお連れいたしました。」

 兜と鎧の鳩尾板が一枚、二人の前に差し出された。

 鎌倉から室町時代の大鎧とよばれる甲冑には肩から脇にかけての防禦を目的とした細長い板がついていた。これは、鳩の尾に似ていることから鳩尾板とよばれていた。

戦国時代末期になると、大鎧は重く、動きにくいことから、軽量化した当世具足が主流となり、これには鳩尾板はついていなかった。ただ、威厳を重んじる大将クラスの武将は依然として大鎧を着用していた。

「このものが、渡辺太郎左衛門です。それがしの甲冑を着て身代りとなり…・死んでくれました。数多(あまた)の勇士を失いました」

 兜を取って、声を押し殺すように忍び泣く元就に、長徳は慰めのことばもなくただ頭をたれている。

 降露坂で、敵の伏兵に襲われた元就主従が大江坂七曲まで追いつめられたとき、元就の甲冑と乗馬を貰いうけて身代わりとなった渡辺太郎左衛門通と郎党六人が、元就らが逃げて行く矢滝路とは反対の湯里方面へ敵をおびき寄せた。彼らは、温泉津まで逃げたが、ついに追いつかれて全員が壮絶な討死を遂げた。

 現在、この坂には、七人の武者を供養する地蔵菩薩が祀られており、七騎坂という地名が残っている。

 

 翌日から、毛利隊将兵が疲れ果てた姿で少しずつ集まってきた。

 長徳、長雄父子は、館を開放して毛利軍将兵を優遇し体力回復に務めた。

 三日後、元就ら一行は吉田へ向かった。長徳は三百人の小笠原隊将兵を護衛として元就に付けた。

 小笠原隊は白帷子、肩衣、化粧袴、籠手、喉輪に鉢巻を着けた小具足という軍装である。合戦の重装備では元就一行にはばかりがあると長徳が指示したものである。  

 元就のすぐ横には小袖姿の長徳、長雄父子が付き添っている。

 長徳、長雄父子と元就一行は、石、芸の国境で別れた。

「此度のお気づかい、終世忘れるものではございません」

 元就は、長徳の手をとって押し抱かんばかりに礼を言った。

 長徳は肩を落として悄然と遠ざかっていく馬上の元就を、いつまでも立ちつくして見送っていた。吉田まで随従する小笠原将兵と、長徳が贈った兵糧米を背に振り分けた馬列が一行の最後部をついて行く。

 元就は、しばらく進むと馬から下りて、長徳父子を振り返った。そして、深々と腰を曲げ頭をさげた。長徳も最敬礼している。

 やがて元就一行は山陰に曲がっていった。

「良い御仁だ、生涯にわたって交誼を続けたい方だ。」

 長徳が呟いた。

 

 小笠原長徳は、大内義隆から出雲攻めの戦功により大家、三方、下都治、湯里、佐摩、白坏、井原等の加俸を受けたが、そのうち井原は数代にわたって小笠原家に反抗をしていた。

 長徳はこれを攻め、井原長門守、井原丹後守、井原孫三郎らは降参した。

 他方、尼子へ帰服した吉川、三沢、三刀屋、宮、杉原、本城らも尼子晴久から馬太刀等 種々の引出物を贈られ慇懃に礼謝をうけた。