福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

四代・福冨七郎左衛門尉藤原明尊

 天文十年(一五四一)正月十六日深夜、

「おーい帰ってきたぞ」

 ドンドンドンと大きな足音をたてて廊下を歩いてくる。

―あら、お帰りだ。あいかわらず賑やかな相安さまだこと。

 由貴は、ホッと笑みを浮かべて目を覚ました。

 急いで夜具からでて着物を手にした。もうすぐ、相安がガラッと襖を開けて入って来る。

「……、どうしたのかしら相安さま」

 いつまでたっても、姿を現わさない。

「山下忠左衛門さまがお帰りでございます」 

 城門からの伝令が走りながら主殿に入ってきた。

 由貴の顔から血の気が退いた。

 

 城内のざわめきで明尊が目を覚ました。

 母の部屋には、すでに灯火が点いている。

 寝しずまっていた四ッ地蔵城の城内が争がしくなった。廊下を軋ませ、あわただしく行き来している。

「なにごとか」

 明尊が広間に入ると、ムッとする血の濃臭が充満していた。

 戎衣のうえに毛皮の袖なしを着ただけの山下忠左衛門が、憔悴しきった体で正座している。

「殿が身罷られた」

 重苦しく沈んだ声で忠左衛門が話しはじめた。

「去る十三日、大内勢との激戦に及びましてござります。小笠原の御屋形さまが先鋒となって突入したのでございます。敵味方五万が渡り合い、殿は、勇ましく戦っておられたのでございますが、混戦のなかで至近距離から放した敵の矢を右目に受け、絶命されたのでございます。なにぶんにも、至近距離から射られたものでしたので手当てをする間も無く…膳兵衛どのが殿の御首を敵に渡してはならぬと、己の手で御首を切り離して、それがしに戦場離脱を命じたのでございます」

「膳兵衛どのは、どうした」

「おそらく、御首は敵の手に渡ったものと思われます」

「忠左衛門どの、よくぞ殿をお連れくださった。…さぞかし難儀な退却でしたでしょう」 

 母の由貴が、毅然とした態度で、忠左衛門が差し出した包みから相安の頭を抱き上げて三方の上に載せた。髪を整えて顔を拭いている。

「ごくろうさまでございました」

 ながい沈黙の後、静かに語りかける由貴の横顔が、ジジジとかすかな音を出しながら燃える灯火に揺られている。

「明尊、父上にお別れを」

 相安の右目は、抉れ、肉が飛び出していた。

―これが、討死か。

 明尊は両手を合わせながら意外に冷静な自分をみつめていた。

 留守を守って出陣しなかった家臣らがドドッと集まってきて、声を限りに泣いている。

「忠左衛門、甲冑はどうした」

 重臣山下理右衛門が、息・忠左衛門の姿を咎めた。

「それがしは、戦場を離脱いたしましてござります」

 その一言で、忠左衛門が、戦場離脱の汚名を一身に受ける覚悟であることを、理右衛門は悟った。

「………そうか、己の身ひとつをも、危うい退却であったようだな。その姿になってまでも、殿をお連れしたこと、よくやった」

「殿もほんに心やすらかにお眠りでございましょう」

 母の由貴が改めて礼を言った。

 出征中の戦死は亡骸の無いままに葬られるのが常である。棺桶に入れる白木の位牌が亡骸のすべてである。忠左衛門が相安の首級を持ち帰ったことは由貴にとっても、このうえなくありがたいことであった。

「忠左衛門殿、あなたは死んではなりませんよ。生きて、明尊をりっぱな武将に育て上げてください」

「忠左衛門、お方さまのおこころざし無駄にすまいぞ」

「……・・」

「死ぬほうがそちには楽であろうが…・・己を捨て、生きてお家をお護りすることこそ忠も義もなりたつというものよ」

 忠左衛門は、頭を畳に落して慟哭しているだけであった。

 忠左衛門が戦場を離脱したのは十三日の昼ごろであったが、その夜には尼子軍が総崩れとなって逃げ帰った。このことは、忠左衛門の退却を容易にし、さらには、敵前逃亡の汚名も受けずに済んだのだ。

「おそらく殿は、ご自分が死亡したとは思っておられないでしょう。あまりに突然でしたので」

「そうか、殿は苦しむこともなかったということか」

 それで、儂の気も安らぐというものだ。と理右衛門が大きなため息をついた。

 数日後になって分かったことだが、尼子下野守や小笠原長晴の御首さえも敵の手に渡ってしまったということが判明した。

 小笠原家中で、「主の首を持ち帰った忠の者」として山下忠左衛門の名があがった。

 

 数日後から江川下流に、おびただしい将兵の骸が漂着しだした。溺死であった。周辺の住民は、一体づつ川岸に埋葬した。この時代、戦で死亡した場合、その死した場所に埋葬していたのである。

 

 

 山里にも遅い春が来た。

 御屋形(小笠原長隆)は、帰城してから病気で臥せることが多くなった。高齢を推しての出陣が体にこたえたようである。それにも増して、次男長晴が討死したことが、御屋形の生気を失わさせていた。

 天文十年(一五四一)四月、小笠原長隆の嫡男・長徳が家督を継ぎ、小笠原家第十二代当主となった。

 同年五月、明尊のもとへ小笠原長徳からの呼び出し状が届けられた。それには、『山下忠左衛門を同道せよ』との記述があった。御屋形が陪臣を引見することは通常ではありえない、まったく異例のことだ。

 山下忠左衛門は、戦場離脱を追及されるのではないかと思わざるをえない。万が一、そのようなことになれば己の命を捨てても明尊に累が及ぶことを防がなければなければならない。悲壮な決意で御屋形(長徳)に拝謁した。

「七郎左、そちの親父どのは武辺者であったぞ、大内、尼子の取り合い(郡山城の戦い)での武功は儂がみておる。七右衛門が身を盾として戦ってくれたことは終世忘れぬ。

 山下忠左衛門、あの凄惨な逃避行のなかで、よくぞ七右衛門を連れ帰ったものだ。その快挙、そちの名に恥じぬ忠であるぞ。七郎左衛門は幼少ゆえ、そちは、育ての親となって、りっぱな武将に育て上げてくれよ」

 小笠原長徳も弟を失っている。そのことはおくびにもださず家臣の行く末に心を配ってくれるこころ優しい言葉に、忠左衛門は平伏したまま肩を大きく揺らして嗚咽した。

「七郎左、武功をあせるでないぞ、じっくりと体をつくれ」

 御屋形の言葉は、どこまでも優しかった。

 吉田郡山城攻めで福冨党は、壊滅に近い損害をだした。

 福冨七郎左衛門尉明尊にとって福冨党の再編が喫緊の課題となった。

 

 そんなある日、一刀斎流剣師山田重兵衛という人物が四ッ地蔵城を訪れてきた。

 わずか八歳で、四ッ地蔵城を継ぐこととなった明尊のため、御屋形の小笠原長徳が派遣してくれたものである。

 一刀斎流とは一刀流の始祖といわれる伊藤一刀斎にはじまる。

伊藤一刀斎は、生涯にわたって廻国修業を続け、行く先々で望む者を惜しみなく教導してきた。山田重兵衛も一刀斎の弟子として永いあいだ修業を続けてきた一人である。

 山田重兵衛のことを忠左衛門は、戦場での働きは驚愕すべきものがある。剣の遣いには他人を寄せ付けない強さがあった。まるで蝶が舞っているような軽やかさであったと口癖のように言う。山田重兵衛は、御屋形の馬廻役であった。吉田攻めで御屋形が敵の重囲に陥り、死を覚悟したとき、父・相安に助けられたということである。

 重兵衛が話す。

 あのとき、先陣として敵の大軍と渡り合っていた。後方から進んできた味方と前面の敵との真っ只中にのみ込まれてしまい、もはや組織的な戦闘はできなくなっていた。それぞれが、バラバラになって、ただ、やにくもに目の前に現れた敵と斬り結ぶという状態であった。

そんな中で御屋形が敵の重囲に陥った。なにしろ大将首が目の前にいるのだから、敵にとっては、千載一隅の好機だ。重兵衛は、御屋形に群る敵兵を蹴散らすのが手一杯となっていた。御屋形を脱出させなければならない、と気はあせるのだが、如何せん敵は次ぎから次ぎと襲ってくる。己一人の身であるならば切り抜ける力はある。だが、御屋形を護り抜かねばならない。重兵衛は、死を覚悟した。そのとき、福冨七右衛門が突入してきた。「早く、御屋形さまを」七右衛門は、己の首を楯にして御屋形を脱出させようとしていた。

 重兵衛は、御屋形の安全を確保するのが使命である。七右衛門に後を託して脱出した。

「あのとき、儂は死んだ。七右衛門どのが己の身を犠牲にして助けてくれた」

父七右衛門の位牌を前に長い間、瞑目していた重兵衛が位牌に語りかけた。

「七右衛門どの、りっぱな最後でござった。御屋形さまも貴殿を残したこと、一生の悔いだと嘆いておられる。福冨家の行く末、なんの懸念もござらん、御子息がりっぱな跡取りとなるよう御屋形さまとともに見守ろう」

 

 重兵衛が、明尊の四ッ地蔵城の客将となった。

 同じ頃、母の由貴は、御屋形の奥方美代の方から書状を受取った。その内容は、重兵衛を派遣するにいたった理由を、懇切丁寧に記されたものであった。重兵衛派遣について、表向きは、明尊の武術指南であるが、幼くして家督を相続した明尊のため、立派な武将として大成するまでの間、家中、領内の平穏を保つ使命をもっていること、重兵衛は、己の分をわきまえた人物である。けっして福冨家中を落し入れるようなことをすることはない。しっかりと明尊を補佐し、立派な武将に育て上げてくれるでしょう。というものであった。「心易く明尊の成長を見守ってほしい」とまことにもって慈愛に満ちた文面で締めくくられていた。

 

「皆伝は受けていない。だから自己流だよ」

 重兵衛は冗談まじりに茶化していたが、一刀斎流の秘伝は師を殺すことによって伝授されるといわれている。後年の話になるが、一刀斎は、高弟の小野次郎右衛門に秘伝を伝譲した。このとき、次郎右衛門は、その秘術をもって、師一刀斎を殺した。我も人も仮借ない絶対否定の立場に立つのが一刀斎流である。

 一刀斎流は、非情残酷な剣である。己に向って来る殺意を察知するや無意識に払うことを太刀名目とする。向って来る相手が誰なのかはいっさい詮索しない。殺意を払い除くのである。これを夢相剣という。斬るのではなく、払い捨てるところに極意がある。

あくまでも真剣の修羅場で勝つことをめざした兵法なのだ。

 庭に、二本の竹が用意された。

「これを袈裟斬りにするなら誰でもできるでしょう。真横から輪切りにしなさい」

 直径半寸にもなっていない矢竹である。明尊が渾身の力をこめて横に払った。

 竹は刀身を受けたところから折れ曲がった。が、切れなかった。

 直径三寸(約九センチメートル)もある孟宗竹が用意された。

「つぎは、これを切って見なさい」

 重兵衛にうながされた明尊が、「エイッ!」と気合をいれて太刀をふるった。

 カーンと渇いた音がして太刀は刎ね返された。両手にしびれが走った。

 孟宗竹には、かすり傷ほどの痕がついているだけだった。

「気合いを発するということは、剣術のすべてですが、おおげさな声をださなくてもいいのです」

 重兵衛が笑いながら孟宗竹を前にした。

「では、それがしがやりましょう」

 刀に手もかけてない、ただ、ダランと下している。

 突然、裂ぱくの気合が、大気を切り裂いた。

 切り刻まれた大気がもとの静寂を取り戻したとき、孟宗竹が真横に輪切りになってい竹肉をさらしていた。

「まるで筍を切ったようだ」

 明尊のつぶやきに、

「筍ならそれがしでも斬れます」

 忠左衛門が笑い出した。

 明尊には、刀身の動きさえ見えなかった。風が動くのを感じただけであった。

「これが、一刀斎流払捨刀の剣技です。斬るのではなく払うのです。敵の打ち込みを払って払って払いまくりながら、敵を少しずつ傷つけていく、対手を間合いの内に引き込み、先を取り、斬る。ここに極意があります。今、切ったのは一本だけですが、連続して何本でも切れるようになることが要求されます。殿が、会得するまでには何年もかかるでありましょう。人間は、十五歳にしてやっと一人前の身体になります。そのときに武芸者として完成するよう鍛えるべきです。今、侍の子として、なにより大切なことは足腰を強くすることです」

 毎朝、剣師山田重兵衛と武術の訓練が始まった。

 それは、訓練というよりしごきに近いものであった。雨の日も雪の日も休むことなく続けられている。だが、明尊は厳しさのなかにもやさしい目で見つめる重兵衛をみいだしていた。身は歯をくいしばって耐えているが、心は充実していた。

「戦は晴れの日ばかりとは限りません。大雨のなか濡れ鼠になって戦うことだってあるのです」

 重兵衛の口癖だった。

 一日は払暁の室神山不動尊詣でから始まる。

 明尊は必死に走って重兵衛の後を追った。それでも明尊には、重兵衛が歩いているようにしか見えなかった。

 頂上にたどりついたとき、明尊は、へとへとに疲れ、喉はカラカラに渇いていた。腰にぶら下げていた竹筒の栓を取るのももどかしく一気に水を飲み干した。

「まだ先のことですが」

 前置きのあと、

「二昼夜、休みなく上り下りを繰りかえす訓練も行ないます。食べるのも飲むのも歩きながら摂ります」

 重兵衛は平然としていた。

 

 城にたどり着いた明尊に課せられたものは、木刀による素振りである。木刀は、堅樫の木を削ったものであり、真剣よりはるかに重かった。腹に力を込めて、一回ごとに気を発しながら振り払う。といっても、明尊はただ声をだして素振りをしているにすぎないのだが…

「対手(あいて)を斬るのは、刀の切れだけではない、力いっぱい刀を振り回しても斬れるものではない、気で斬るのだ。気と刀が一体となったときに初めて無限の力となって対手を斬る」

「気とは、なんぞや、今は分からなくてもいい。ひと振りごとに対手(あいて)を斬るという気迫をもって素振りをしておれば、おのずと開眼するものです」

重兵衛は、理論化、体系化された刀術を、明尊に口伝により植え込んでいった。

 一方では、明尊の身体をつくることに心血をそそいだ。

「三百回振りました」

「五百回振りました」

 呼吸を弾ませながら、師・重兵衛に報告する日がつづいた。師は、笑顔を返しただけであった。

「まだ、まだ」師の目が言っていた。

 

 明尊は、父の相安が討死したため急遽跡目を継ぎ、戦場にでることとなった。それゆえに、戦乱の世で身を守るのは自らの力しかないということを知った。

 山田重兵衛の教導を、必死の覚悟で受け止める気迫は衰えることがなかった。

 

 いつもは静かな山村に、不気味な海鳴りが殷殷と轟いている。誰にも経験のない現象に村人は不安に陥っていた。

 村に何かの異変が近づきつつある危機感をもっても、それが何であるのかが判らない。

 重兵衛が、「海を見て来る」と言って海岸へ出た。

「海は真っ白だった」

 重兵衛が言った。荒れているのだ。

「嵐がくるかもしれないな」

 明尊は不安になった。

 その夜、それは、突然やって来た。

 生暖かい風がサーッと吹き抜け、たちまち暴風となった。強烈な風は山の木々を唸らせ、家をきしませ通り過ぎていく。今にも壊れるのではないかと思うほど家が揺れた。

 一晩中吹き荒れた暴風も夜明けとともに静かになり、朝日が昇ってきた。青空が広がっている。

 城は、屋根の一部が剥ぎ取られて無残な姿をさらしていたが、被害としては大したこともなかった。

「夕べはひどかったですなー」

 重兵衛が言いながら、二人は、朝一番の日課となっている室神山頂上の不動尊詣でに出発した。

 田んぼの稲は、刈り取りを前にして、ことごとくが根元から倒れている。風は、南から襲ってきたらしく、稲はすべてが北向きに倒れていた。幸いにも雨が降らなかったので水害に襲われることも無く収穫に影響はなさそうだ。

「ひとまず安心だ」

 だが、倒れてしまった稲穂が地についている。このまま放っておけば実から芽がでてしまうので、村人が総勢で、稲の刈り取りをはじめていた。

 倒れてしまった茎を起こしながら根元から刈っていかなければならない。

「大変ですなー」

 重兵衛が野良仕事の農民に気安く、声をかけながら歩いている。

 ふと、立ち止まって明尊をふりかえった。

「われわれもこの稲と変わりありませんなー・・・・」

「そうですの、数万の大軍が石見を通過したら、石見の豪族はことごとく頭を垂れて隋従する。しなければ潰される。」

「そうですなー、これら稲のように、すべてが大風の行く方向に倒れる。情けないがどうしようもない」

「昨日の敵が今日は味方、今日の味方が明日は敵、武士とは浅ましいものよ」

とはいえ、石見諸将の行動について節操がないとは思わない、黙って嵐が通り過ぎるのを待つ。これも乱世を生き延びる術なのだ。

 

 

 戦国乱世に突入した当時の石見には、力の拮抗した豪族らが小競り合いを繰り返しながらも、姻戚関係を網の目のように広げ平衡を保っていた。

それが、崩れようとしている