福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

郡山城

 天文八年(一五三九)十一月一日、尼子詮久は毎年の恒例となっている「備定談合」で、来年秋を期して毛利征伐出兵を決定した。毎年、この日は、富田月山城内に一門の重臣たちを集めて、来年度中の作戦を練ることとしていた。これを「備定談合」という。

 その知らせは直ちに麾下の諸将に飛ばされた。

 同年十一月二十日、温湯城本丸において軍議が開かれた。

「尼子詮久どのが毛利征伐に御自ら出陣される」

 御屋形(小笠原長隆)が口を開いた。オーッとどよめきが起こった。そのどよめきを代弁するかのように重臣のひとりが聞いた。

「経久どのは毛利征伐を制止しておられたはずだが」

「すでに、病気が重く詮久どのを諌める力は有しておられない」

「経久どのの弟君、国久どのがおられる」

「もはや、国久どのの言うことを聞かれるような方ではない」

「どういうことでしょうか、経久どのは国久の言うことをよく聞けと詮久どのに言ったと聞いておりますが」

「経久どのの言われたことを、生涯守りとおすことのできる方ではないということだ」

「己の力が経久どのを越えたと思っておられるということだの」

「過信でなければいいがの」

 重役の話は次々と出てくる。いつも、こうだった。御屋形は口火を切るだけで、後は、重役らの話を聞くだけであった。じっと、黙って見ている。議論が白熱しても立ち入ることをせず、耳を傾けていた。最後に、御屋形が結論を出して、すべてが決定していた。

「毛利といえば、たかが二千名そこそこの兵しか擁していない小勢ではありませんか」

 詮久が出陣しなくとも麾下の武将を数名だせば十分ではないか。その場に列している皆が思うことだった。

「さよう、尼子詮久さまが出陣となれば、出雲、伯耆、石見の尼子麾下武将はこぞって隋従するでしょうな、そうなれば、軍勢は、三万を越える」

「それでは、戦になるまいて」

「さよう、戦になっても敵はひとたまりもない、まさに鎧袖一触だ」

 重役の一人が口角に泡を浮かべて息巻いた。

「まあ、物見遊山で大軍を見せびらかしにいく程度でしょうな」

「そう、示威行動だけで毛利は屈する」

 重臣の哄笑につられ、居並ぶ家臣団が声をあげて笑った。

「しかし、大内氏は黙っていないでしょうな」

大内氏が毛利救援に立てば、こちらも数万の軍勢を相手にしなければならなくなりますな」

大内氏は、しばらくは出て来ない。毛利救援の必要性を見極めたうえでのことでしょう」

「弱い毛利なら、捨てるということですかな」

「さよう、こちらとしては、大内氏がでてくるまでにかたをつける必要がある」

大内氏の総領(義隆)は、公家装束を着て文事に励み、戦ぎらいらしい」

 重臣らの会話は、大広間に端坐する家臣の哄笑を誘っているようである。

― 冬までには、きりがつくだろう。いかに馬鹿でも中国十一ヵ州の太守率いる三万の軍勢に、たかが二千ばかりの兵で刃向かってくることなどありえない。

 相安もつられて笑いながら、戦にはならないだろうと思った。

 

 会議終了後、大島和泉守に面談を申し入れようと、控え室へ向かった。この度の婚礼について御屋形への取次ぎをお願いしたお詫びとお礼を言うためだった。

控え室には、小笠原家中の重役が三々五々集まって雑談をしていた。

 相安は座敷に入ることはできない、座敷前の廊下に平伏した。

 なに用かといっせいに相安を見る重役の中から大島和泉守が相安を見つけて近寄ってきた。

「大島さま、こたびはお手をわずらわせて申し訳ございません」

「お、福冨どの、おめでたいことで。書状は、確かに御屋形さまにわたしましたぞ」

「ありがとうございます、ですが」

 と言ったところで、大島和泉守が「すまぬ、今、忙しいのだ」と言って離れていった。

 忙しいというのは、事実だった。雑談していた重役連中が皆、立ち上がって座敷をでていった。

「しかたないか」

 相安の周りを、どやどやと通りすぎる重役を平伏して見送った。

 この中に、坂根筑前守もいたはずだが、相安は顔を上げることをしなかった。

 

 天文九年(一五四〇)六月、尼子新宮党の尼子国久とその嫡男誠久、それに尼子詮久の大叔父久幸の三将が率いる三千余騎の第一次先発隊が、赤名(赤穴)から八幡山城三次市)へ出て。そこから江川を渡河しようとしたが、毛利方の祝屋城主深瀬隆兼、五龍城主宍戸元源とその孫の宍戸隆家らによって撃退された。宍戸隆家は、毛利元就の娘婿でもある。

 尼子新宮党が備後路を経由したと聞いて相安は「なぜ」とつぶやいていた。御屋形は尼子詮久に、石見路を通れば江川の南に位置する温湯城があるから、小笠原隊による渡河の支援ができると石見路経路を進言していたのを知っていたからだ。

 江川を渡ることのできなかった尼子勢はひとまず月山富田城に帰った。

「敵に追い返されるとは、なんという体たらくだ。普段の豪語はどこへ行ったのか」

 尼子詮久が憤り、自ら出陣することとなった。

 御屋形も他の石見国人衆とともに、尼子に従って出陣しなければならない。  

 相安は嫡男明尊への家督相続を御屋形に願い出た。

 当時の武家社会においては、出陣に際して家督を嫡男に譲るということが、ごく自然に行われていた。命を賭して主家に奉公するという心構えの表意と、万が一、討死しても家の存続に齟齬をきたさないようにとの考えからである。

 家督相続は、直ちに受理された。

「御屋形さまの御言葉を伝える」

 家老寺本土佐守が威厳を正して、小笠原長隆の話し振りをまねた。

「七左衛門の跡取は、幾歳であったかの」

「九歳にござります。と、お答えしたら御屋形さまは、なにもおっしゃらなんだ。ただ、ニッと笑われた」

「今回はその必要もなかろうて。毛利では対手が小さすぎる」

 愉快そうに一頻り笑ってから、

「他にも幾つか申し出があり、受理された」

 家老は許諾書をうやうやしく相安に渡した。

「寺本さま、お聞きしたきことがございますがよろしいでございましょうか」

「あー、なんなりと」

 寺本土佐守はくつろいだ表情をとりもどしていた。相安は、都野家重臣の息と福冨の分家との婚姻についてこれまでの経緯を説明した。

「半年にわたって尾行されたか」

 ひとしきり笑って、

「さて、御屋形さまからは、そのような話は聞いてないぞ。大島どのなら確実に御屋形さまに取り次いでくださっているだろうがの。だが、御屋形さまからだめだといってこないかぎり、了解したものと取ってもいいだろう」

「ありがたきことでございます」

「だがの、貴殿(そなた)にも、もうひとつ気配りが必要であったかもしれぬの。都野氏との話がでたとき、一番に報告して、お許しを得るべきであった御屋形さまへの配慮が足りなかったのではないかの。何も知らなかったでは、御屋形さまとて、都野どのへ礼の言いようもないからの」

「寺本さまの、おっしゃるとおりにございます。いかにも、それがしの落ち度でございました」

「心配はいらぬ。儂からも、それとなく言っておくことにしよう。今の都野氏は小笠原家の配下といってもいいほど、うまくいっていることでもあるしの」

「ありがたきことでございます。よしなに、よろしくお願いいたします」

 寺本土佐守の意見は、明尊の落ち度をみごとに突いていた。

「配慮が足りなかった」

 明尊は、冷や汗のでる思いに、うちしおれていた。

御屋形はなにを思っておられるのか、無視しているのか、失念しているのか相安には判断がつかない。相安の気分はいつまでも晴れなかった。

 家督を嫡男明尊に移譲した相安は、七左衛門の名を七右衛門と改めた。

 郎従の山下理右衛門は留守居とした。

「まだまだ若い者には負けませんぞ」

 理右衛門は出陣する気でいた。

「分かっている。今回は対手が二千名ほどの兵しか擁していない毛利だ、尼子の総大将が直接出張るような相手ではない、戦にはならん。大軍勢を見せつけるためだけの出征だから嫡男の忠左衛門に大軍勢の威容を見せておくのも経験だ」

「そうですな、儂は四ッ地蔵城の留守居ということですか」

「そう、失望するな。これから先、理右衛門、忠左衛門両名に命を賭して戦ってもらうことがあるやも知れん」

「儂は行きますぞ」

 佐々木膳兵衛は頑として行くと言い張る。これには、相安も苦笑せざるを得ない。

 僕従は助八と茂吉だ。助八は轡を取って敵に向かう肝っ玉は太く、荷駄の搬送を受け持つ茂吉は、臨時で集めた人夫を使役することがうまい。

 

 同年三月一日(新暦四月七日)、都野家重臣島田麻呂と福冨家分家山根儀右衛門の娘美雪との婚礼を行った。

 御屋形からは何も言ってこなかった。完全に無視された。御屋形の機嫌を損ねた婚礼になってしまったことを、思い知らされた。都野隆安からは重臣を代理出席させて丁重な祝儀を贈ってくれた。

 

 同年八月十日(新暦九月十日)、 尼子詮久は、出雲、伯耆、石見など三万の大軍で毛利征伐に出立した。

 赤名から石見国都賀を通って、口羽の手前で江川を渡河することとなった。

 江川の南に位置している温湯城は、渡河の必要がない。小笠原隊は、渡河地点に進出して尼子隊を援護することとした。

 八月二十七日(新暦九月二十七日)、御屋形率いる小笠原隊二千余の軍勢が口羽に進出 した。

 御屋形は、兵を二隊に分けて一隊を毛利勢の襲撃に備え、別の一隊は、渡河を直接支援することとした。

 相安は、御屋形の次男長晴が指揮する第一軍である。口羽からさらに五里地点の川根まで進出して陣を張った。尼子の第一次先発隊が毛利方五龍城主宍戸元源とその孫宍戸隆家らに、犬飼平の険、石見堂の渡しなどで妨害されて、川を渡ることができなかったあとだけに、勢いのついた毛利勢が攻撃してこないともかぎらない。

 相安らは、柵を二重に結び、それぞれに弓隊と槍隊を配置して襲撃に備えた。さらに数組の物見(斥候)を前進させた。

 御屋形は、都賀で尼子詮久を迎えるため進軍方向とは逆に江川を渡った。

 

 尼子詮久は、先遣隊が撃退された江川を渡ることが一つの山場であると考えていた。

 今回は、石見路を選んだとはいえ、先遣隊と同じように上陸地点を襲われたら難渋する。そのときのために、まず先発隊を渡河させて対岸を固める必要があると考えていた。

「前方から、小笠原どのが来られます」

 側近の武将が馬上に伸び上がって目をこらすように前方を見つめながら注進した。

「刑部少輔か」

「さようでございます。小笠原刑部少輔長隆どのです」

 まもなく、馬旗を引き連れた小笠原長隆が単騎で小走りに寄った。慇懃な態度で挨拶をする長隆に、

「おー、刑部どの御高齢にもかかわらず手数をかけてごくろうです」

 二十六歳を過ぎたばかりの若武者尼子詮久が馬上から鷹揚に挨拶した。昂然と顔をあげ、胸を張って騎乗している詮久が馬足をとめることはなかった。いつも丁寧すぎるほどの親しみで接してくれた尼子経久とは、あまりにも違う傲慢さであった。

 尼子詮久とて、よもや戦になろうとは夢にも思っていないらしく、加勢に加わった小笠原の武勇に期待するというよりは、忠誠心を認めてやろうといった態度があいまいな挨拶に現れている。詮久は、尼子経久の孫である。永正十五年(一五一五)八月、尼子に叛旗を翻した大原郡阿用城主桜井宗的討伐戦で討死した父・政久の跡を継いだのは未だ幼少のころであった。爾来、経久や叔父・国久らの扶けを受けて成長してきた。今は、りっぱな頭領である。

 詮久は、兜を従兵に持たせていた。一間ほどの棒の先端に兜を載せて、掲げながら従兵が従っている。

「御大将が心易く江川をお渡りいただきますよう、渡河地点を確保しております。」

「それは、ごくろうです。さっそく案内願いましょう」

 長隆の先導で三万の軍勢が続く。

 川岸に密生する竹林の中をくぐり抜けると、川面に反射する太陽の光りが、将兵の目に飛び込み、あわてて瞬く。

「おー」

 尼子詮久が感嘆の声をあげた。江川の両岸に小笠原隊の幟が林立し、軍勢が臨戦態勢で配置されている。小笠原軍団は、長年にわたって銀山を領していたこともあり、銀板の飾りをふんだんにつかった甲冑が小笠原軍の象徴となっている。それが朝日を受け、にぶく光り輝いて「白銀の軍団」の威圧をみせつけていた。さらに数十艘に及ぶ舟が舳先を川上に向けて櫛の歯のように並び、その上に厚板を敷いて一間巾の舟橋を作っている。

「あれに控えておりますのが嫡男の長徳でございます。対岸の五里さきにも、次男長晴の率いる兵一千を配置しておりますので、渡河中に襲撃を受けることはございません」

 小笠原長隆の説明に尼子詮久が満足そうな笑顔を返した。

「三万を超える勢が渡りきるには、時間もかかりますゆえ」

 小笠原長隆は、大軍を集めた尼子詮久に畏敬をこめたように『三万を超える軍勢』とことさらに強調した。

 先頭で川を渡った尼子詮久が、長隆の案内で川岸に新築した休憩所へ入った。

板座敷の床几に腰掛けた尼子詮久から、渡河中の軍勢がよく見える。川から吹き上げるそよ風が、居並ぶ武将らをここちよく包んでいた。後続の将兵が続々と橋を渡っている。

「刑部どのの心づくしで、心易く難所を超えることができる」

尼子詮久は、鮮やかな茜色のとんぼが群れ舞う川岸をみながら礼を言った。

「はじめから、ここを通ればよかったものを」

 ふと、吐き捨てるように言った、詮久の言葉が長隆の耳に届いた。第一次先発隊として尼子新宮党が出発するとき、「石見路を通れば、安全に江川を渡河できる」と詮久が助言を与えたが、尼子国久は「天下無双の尼子新宮党です。はじめから敵を怖れて遠回りしたとあっては物笑いになります。と、最短距離で芸州に入ろうとしたのだ。瞬時、詮久の顔に青筋が立った。長隆は気づかぬよう繕って目をそらせた。

「ところで、例の件…」

 詮久の言葉を小笠原長隆が手で制した。

「万事ぬかりなく、大久保備前、大谷遠江に兵五百を預けております」

「五百もいれば十分だろう」

 詮久が盃の酒を一気に飲み干した。

 いつまでも暑い日が続いている。季節は秋というのに非常な暑さが続いていた。道は灼けつき渇ききって、大軍の移動でひどく舞いあがった砂ぼこりが狭い谷間を覆っていた。

 相安は、兜に隠された頭髪にジットリと汗が滲んでくる気持ちのわるさに閉口していた。

 残暑の太陽に熱せられた兜を脱ぎたい衝動に苛まれていた。馬の首にも汗が吹き出ている。

 ともすれば耳鳴りと聞き違うような虫の声がピタリと止んだ。

「さあ、尼子勢が到着するぞ」

 小笠原長晴が兵を後退させ、騎馬の武将を、道端に横隊整列とした。

 山かげから舞いあがった砂埃が流れてきた。やがて、砂埃と陽炎に揺られながら大軍が姿を現した。尼子国久ら新宮党が先頭を立ってゆったりと進んでくる。六月に先発隊として進撃したものの江川で撃退された屈辱を晴らそうとする気迫が満ちている。

 騎馬の将はお互いに挨拶を交わしながら相安らの前を通りすぎて行った。

 ここで、小笠原隊は本隊と別働隊の二隊に別れた。小笠原長隆率いる本隊二千騎は吉田へ進撃し、大久保備前守、大谷遠江守らの別働隊五百騎は石見銀山奪還のため佐摩に向った。尼子詮久と示し合わせての決行だった。

 

 尼子勢は、安芸の川根、川井を通って九月四日(新暦・十月三日)、郡山城と一里(四キロ)地点の風越山に本陣を置いた。

 風越山から俯瞰する郡山城は、遠すぎて城内のようすなどは見えない。

 それでも、風越山は周辺で一番高く守りやすい。

 

 郡山城は高さ約二百メートル、周囲三町(二、三キロ)ほどの玉子型をした小山にある。

山の頂上部に本丸を築き、頂きから五つに分かれて下る尾根に、二の丸、三の丸と配して山全体を要害としていた。

 尼子詮久は、左翼に部下の湯原弥次郎ら三千を、高尾久友、黒正久澄、吉川興経らを右翼、後方にも別軍を配置して大軍勢を誇示した態勢を取った。

 尼子勢諸将は、割り当てられた場所に陣地を構築しはじめた。

 小笠原隊も土塁を築き、柵を結んで枝折戸を設けた。要所には矢倉を立てている。地をならして陣屋や小屋が続々とできあがってくる。

 生い茂る木々に覆われていた緑の風越山は、たちまちのうちに地肌の露出した要害と化した。

 山の裾野に広がる棚田には、色づきはじめた稲穂が広がり、風に揺られてさざ波のように波打っている。

―それにしても御大将(尼子詮久)は、無慈悲なことをする。

 相安は、あと半月もすれば刈り取ることができるまでになっている稲穂を見ていた。

 秋の出陣は、現地で糧米を挑発するには好都合であるが…・元来、戦というものは米の取り入れが終ってから起していたではないか。武士といえども普段は百姓をしているのだ。秋に米を収穫しなければ来年の秋まで生きていけない。

―それを分かっていながら、郡山城下の収穫前に押し寄せた。

「これだけの大軍を見て毛利も震えあがっているでしょう」

 山下忠左衛門の言葉に、

―アーッ、そうであった。稲刈りの時期までには決着がつくだろう。

 相安も納得した。

 郡山城には、わずか二千名あまりの戦闘要員と周辺の農民を合わせて五千人ほどが籠っているにすぎない。

―これだけの大軍をみせれば、毛利はたちまち戦意喪失してしまうであろう。

 相安もこのように考えていた。 

「それにしても…・まさか地下の衆(農民)までもが籠城するとは、思いもつかなかったですなー」

 膳兵衛が意外だという顔つきをしている。非戦闘員を抱え込むことは、それだけ食糧を確保しなければならない。籠城に足手まといにしかならない農民を城に入れた毛利元就の考えが理解できない。

 ところが、農民らは『御屋形さまが百姓をかばって下さる』と、自分らの蓄えていた米や麦を大量に城内へ持ち込んだのである。それらは、一年分の食糧にも匹敵していた。

―毛利は、戦う気だろうか。

 戦いの予感が相安の脳裏をよぎった。だが、たとえ応戦してきても所詮、蟷螂の斧だ。

 九月五日(新暦十月四日)、尼子勢は、郡山城下の民家に放火して挑発したが、毛利勢は城から出てこなかった。

 城内から唄が聞こえる。

―なんだ。

 相安は、風に乗って流れてくる唄を聞いていた。

「尼子どのは雲客だー、引き下ろして、ずんぎり曳こー、ずんぎり曳こー」

 百姓らが声を揃えて唄っているらしいのだ。自分たちの家を焼かれ、泣きすさぶどころか唄で尼子勢をからかっている。尼子を天の子ともじっているようなのだ。雲からひきずりおろして、のこぎりで切り殺そうと言っている。

―出雲から来た尼子どのは雲に乗った客か…おもしろいことを言う。

 相安が笑いそうになった顔をあわててひきしめた。

 九月六日(新暦十月五日)、尼子勢は、四千余騎で太郎丸ほか町屋に放火した。これに対して、毛利勢が反撃して激戦となり、尼子勢先鋒の足軽数十人が討ち取られてしまった。

 毛利が戦う気概をみせたのである。

『戦わずに毛利を屈服させる』というもくろみはみごとに外れた。

「戦わずして降伏してきたなら、毛利の所領安堵という可能性もあったが、刃向かってくれば、所領を没収して我々に分与される」

 尼子勢に、俄然と戦意が高揚してきた。

 九月十二日(新暦十月十一日)、尼子勢が大挙して城下に侵入した。この日は、数隊にわかれ指揮官の本城信濃守、高橋元綱、小笠原長晴ら主力は郡山城のすぐ下まで進み、後小路に放火して毛利勢を挑発した。

「出て来い。出て来い」

 尼子勢足軽らが声を揃えて挑発している。そのとき、城内から三十人ほどが出撃して来た。

「来たぞ」

 尼子勢にとっては、ものの数にもならない小勢である。

「やつらを討ち取れ、血まつりにあげろ」

 尼子勢がワッと喚声をあげて襲いかかった。小笠原隊も長晴を先頭に、獲物を他人に取られてなるものかと勇んで追撃した。まったく、てんでバラバラの追撃だ。

「包みこめ」

「包囲しろ」

 将官が声をからしながら統制を取ろうとしている。

―敵は意外に足が速い。変だ、なにかある。

 相安は、逃げ回る敵兵を凝視した。甲を付けていない、鎧も着てない。なぜだ、敵には戦う気がない、逃げるだけだ。

 相安の脳裏に殺気が襲ってきた。

―兵を集めよ。

 相安の声は、獲物に殺到している兵には通じない。

 小笠原長晴は、ずいぶん前を走っている。

 そのとき、江川沿いに密集している竹やぶから躍り出た敵の伏兵が、尼子勢の側面に襲いかかった。

「しまった、謀られた。兵を集めよ」

 相安が馬を止めた。兵は、その辺りにいない。十騎ほどの郎党が相安のまわりに集まってきただけである。

「敵の罠にはまった。兵を集めよ」

 尼子勢数千人が烏合の衆となってしまった。不意をつかれた兵はあわてふためき、自隊の位置もつかめず逃げまわるばかりである。

 さらに、毛利の武将渡辺通らが城門を開いてでてきた。

 これを見た尼子勢は算を乱して逃げだした。

「長晴さまを探せ」

 相安ら十騎が一塊となって前進しようとしたが退却する数千の味方に押し戻された。

 どうすることもできない。流れに乗って後退するしかなかった。

 尼子勢は、各所に潜んでいた伏兵に挟撃されて大敗、尼子方の将・本城信濃守、高橋元綱ら十人が討ち取られた。

 小笠原長晴も兵が逃げ、単騎になってしまったところに毛利勢が殺到して来た。

 長晴は、小笠原家中でも兵法名誉の達者な将である。群がる敵兵を長刀で切り崩し、たちまち数人を倒していったが、兜首を狙って群る敵兵に突きたてられ、矢を至近距離から射られた。 

 近くにいた小笠原隊・松前源五郎、藍田四郎五郎の両名が長晴を助けるべく馬を寄せようとしたときには、すでに長晴の体からほとばしる鮮血が、敵兵の甲冑を叩きつけていた。

「主の御首を取られておめおめと帰れるか」

 二人は、勝ちに乗じた敵軍に突入して、凄絶に闘い、たちまち包み込まれて露と消えた。殉死である。

 この日の戦闘を毛利軍は太田口の合戦と言った。

 広修寺縄手、祇園縄手方面でも毛利勢と激突したが尼子勢はいずれも負け戦となった。

 

 同じころ、石見銀山奪還のため佐摩へ向った小笠原別働隊は、まず、少数の先発隊を佐摩に先行させて、「この度は、銀山奉行内田正重討伐のため出兵したものである。住民への乱暴狼藉等は一切行なわない。」旨の伝達を行なった。これが功を奏して住民は逃げなかった。佐摩の村は平静を保っていた。小笠原隊は、不安そうに見守る住民の前を粛々と通過して山吹城を包囲した。

 小笠原隊は、直ちに山吹城を攻撃した。

 山吹城は、かって、小笠原氏が拠っていた城である。芸州から派遣されて籠っている将兵にも知られていない抜け道が残っていた。地から湧くように城内へ侵入した小笠原隊に城方はなす術もなく落ちた。

 銀山奉行の内田正重は自殺して銀山は小笠原氏のものとなった。

 小笠原別働隊大久保備前守、大谷遠江守らは、そのまま山吹城に入り銀山確保の任にあたった。

 

 九月二十三日(新暦十月二十二日)、周辺は、すでに稲刈りの時期に入っていた。

「戦どころではない、早く家へ帰りたい」

 将兵の苛立ちに押されるように、尼子勢は風越山から郡山城の南正面にある青山と光井山の間に連なる平坦な山丘・三塚山に本陣を移した。

 尼子勢の湯原弥二郎、湯惟宗ら三千余騎が青山に、高尾久友、吉川興経らは光井口の山下に陣を張った。

 郡山城から遠い風越山では、毛利に与える威圧感が十分とはいえなかった。ここ三塚山ならはるかに強烈な圧迫感を与えること明白である。

「ついに御大将も、決着をつける気になられたようですな」

 忠左衛門の話題が突然変わった。

「それにしても稲が稔りましたなー、そろそろ刈り取りをしなければなりませんな」 

 忠左衛門の目は、浅利を見ていると相安は思った。

 秋の取り入れまでには決着がつくだろうと誰もが考えていた。それが全く覆(くつがえ)された。

 自分の所領も稲刈りをしなければならない。

「戦どころではない、早く帰って稲刈りをしなければならない」

 善兵衛も浮かない顔をしている。

「なぜ、城を攻めないのだ、尼子勢の全軍三万をもって突入すれば一気にかたがつくではないか」

 足軽らがあせりイライラしているのとはうらはらに、長期戦の様相を呈してきている。

 その夜、守備の手薄となった風越山が毛利勢に襲われて、兵糧のほとんどが焼き払われてしまった。風越山で使用していた柵や小屋とともに三塚山に移そうとしていた尼子勢にはおおきな痛手となった。

 翌日、尼子勢は、大軍を配したうえで吉田城下の稲をことごとく刈り取って持ち帰った。

 籠城している百姓の目前での暴挙である。このことは、郡山城に籠城している農民の敵愾心をあおることとなり、やがてそれは、毛利勢全体に広がって行った。

 相安らは、刈り取った稲から米を採り、寝床になり馬の飼料にもなる藁は納屋を作って積み上げた。陣屋は、二間に区切って奥の間を閨とするため、板敷きの床を張り床下には籾がらを詰めた。床には藁をさばいて一尺ほどの厚さに敷き詰めた。さらに、麻布の袋に蒲の穂を詰めた掛け布団をつくった。これで真冬の防寒対策も万全である。長期戦に備えての準備であった。

 

 九月二十六日(新暦十月二十五日)、冷たい雨が降り続いていた。

尼子勢湯原弥二郎ら千五百騎が、坂、豊島方面に到着したばかりの大内の先発隊長杉二郎左衛門と小早川の両陣屋を襲撃したが、駆けつけた毛利軍により挟撃され大敗した。尼子勢は追撃してきた毛利勢によって侍大将・湯原弥二郎ら数十人が討ち取られた。

 尼子勢は、これまでの戦いに、ことごとく負けていたので、士気を高める必要があった。

 十月十一日(新暦十一月九日)、ついに降り始めた霙(みぞれ)の中を、精鋭・新宮党を先頭に大挙して城下に侵入、民家に放火してまわった。尼子軍本隊がいよいよ動き出したのだ。

 足軽らが、

「掛かって来い」

 籠城衆を誘きだそうとした。

 郡山城に籠城中の地下住民の目前で、民家を放火していった。

 ついに、元就が動き出した。

 元就と嫡子隆元が、口羽通良、赤川元秀、同左京亮、同又五郎児玉就忠、同與八、同内蔵允、佐藤彦三郎、長尾縫殿允、桂善右衛門、三戸五郎右衛門、同小三郎、長沼宮内少輔、井上、同玄蕃、同源五郎、同源次郎、同與三右衛門、同右衛門尉、同七郎次郎、平佐源七郎、岡又十郎、内藤九郎兵衛、椿槌房ら一千余騎を率いて城の正門からでてきた。威風堂々と大将旗を挙げての出陣である。元就に追従する幟がことさらに武門を誇示している。

 毛利軍は、先陣先手備えに数百人の長槍隊を配している。先手左右備えには、百人ほどの弓隊を並べ、長槍隊の後ろから先陣先手備えの武将が五名の歩卒に囲まれている。先陣先手備えの指揮官のようだ。先手二陣には、弓隊、槍隊が横隊に並び、その後方に密集隊形の騎馬隊が控えている。

 ずいぶん後方にいる本陣のまわりは、甲冑の武将や騎馬隊が二重、三重にかためている。

「なんと…・・堅固な備えだ」

 はじめてみる毛利軍の陣だてに尼子軍将兵から、感嘆の声がこぼれた。

 対する尼子軍の陣だては、一人の騎馬武者と二、三人の歩卒を単位とした集団が、寄り集まって大軍を編成している。鎌倉時代から続いている戦闘態勢なのだ。尼子軍の陣立てを現在でいえば、小学校の運動会で行なう騎馬戦と同じようなものだ、一騎ずつが個々の戦闘を行なっている。

 両軍が、正面から激突したならば、数百の剣尖を透き間なく揃えて向って来る毛利軍の長槍隊に、バラバラで戦う尼子軍は苦戦すること明白だ。毛利軍は、力がひとつになり、尼子軍は分散する。  

「おー、一文字に三星の旗がでてきたぞ、あれこそ元就だ。これまで小勢で戦利を得たことに奢って、今日もまた、小勢で出てきおったか。この式部大輔は、今までの敵とは雲泥の差があるぞ」

 新宮党・尼子国久が自ら采配を振って真っ先に進んだ。

 毛利勢は、元就を中心にして一丸となった隊形を、がっしりと固めて進撃している。

 ところが、尼子軍は総勢が先を争って突撃したため、戦闘態勢は崩れ、混雑して旌旗が乱れている。

 勝機と見た毛利軍が兵鼓を打って進撃してきた。

 この様子を陰徳太平記は、「両陣の魁(さきがけ)の兵、無手(むんず)と渡り合い、南風(おいつ)北風(まくりつ)攻め戦う、鬨の声矢叫の音、天地に満ち、山野を動かす」と記す。

 尼子勢の先鋒三沢三郎左衛門為幸は、毛利軍先鋒赤川元助ら四百余を迎え撃ち激戦となった。尼子勢の先鋒は、西国で無双の大剛将と名をとどろかせている新宮党だ。さらに軍奉行は、一騎当千の名を得ている立原久光、それに、三刀屋、古志、山中、神西、池田らが続いている。いずれも尼子家中屈指の剛将たちだ。

 毛利勢は、たちまち突きたてられて先陣が一気に後退した。

「なんのために命を惜しんで敵に後ろを見せるのか、無二に懸かって押し崩せ」

 元就が、大音声を挙げ、兵を叱咤しながらまっしぐらに突き進む。

 毛利勢には、敵愾心がある。尼子勢は、味方の大軍に惑わされて戦闘意欲も劣る。

 この違いが両者の勝敗を分けた。

 尼子の先鋒隊が押されて引いて行く、尼子勢・立原久光が押し返す。

「あの小勢など瞬時に追い崩してみせる」

 尼子勢も、兵鼓を打ち、法螺貝を吹いて総攻撃をかけたが、道が狭く大勢が一度にかかることができない。左右の田んぼへ馬を打ち入れて突撃した。ところが土地感のない悲しさ、人馬とも深田に足を取られて動きも自由にならない。それでも尼子勢は十倍にも及ぶ多勢だから、たとえ先鋒が幾たび突き崩されようとも、少しもひるまずかかっていく。

 口羽、赤川、児玉ら元就の旗本勢が槍を揃えて力戦している。

 このとき左右の毛利勢伏兵が突進して来た。

 たちまち尼子勢が浮足だち、後退してくる。ついには尼子本陣の麓にある土取り場まで追い詰められた。

 尼子勢先鋒の大将三沢為幸は、手勢五百騎で円陣を作り敵と渡り合う。尼子勢総軍が崩れかけてきても少しもひるまず、長さ三間半もある長柄の槍を軽々と振り回し、向って来る敵を数十人突き伏せ、勇ましく闘っていたが、やがて疲れ果てて危うくなってきた。

 郎党の三沢蔵人、布廣左近、野尻玄蕃允ら七十騎が中に入って三沢為幸を助けようとするが毛利勢に遮られる。

「味方の勝ちぞ、一気に押し崩せ」

 勝ちに乗じた毛利勢が我さきにと進み、三沢為幸一人に的を絞って矢を射かけた。さすがの三沢為幸といえども矢疵、槍疵を全身に受けて血に染まったところを、毛利勢の井上信重が組み付き、格闘のうえ首を掻き切って高々と差し上げた。

「三沢三郎左衛門の首、井上七郎次郎信重が討ち取ったり」

 井上信重の大音声に三沢の郎党、三沢蔵人、野尻玄蕃允ら三十余人が、力の限り闘い尽くして殉死した。三沢為幸の嫡男・為清も父と一緒に斬り死にしようと敵の中に駆け入ろうとするところを、

「これはなにごとでござりましょうや、命を全うして父の敵・元就を討ち取ってこそ、孝も義も立つというものでござりましょう。せんなき討死をして、敵に利を付けることこそ不忠・不孝の至りでしょう」

 布廣左近、米沢入道が為清を無理に引き戻して退いた。

 毛利勢の三面攻撃に尼子の大軍がたちまち壊走に移った。

「それ、敵は引くぞ」

 毛利勢が増々勇んで力を盛り返してきたので尼子軍は堪えられず崩れさった。

「あれしきの小勢に突き立てられて逃げるとはなにごとか。踵を返して闘え」

 尼子方諸将も必死になって叱咤しているが壊走する兵を押し止めることはできない。

「今日の合戦は、味方の勝利、当然のことと思っていたのに…口惜しい限りだ。日頃から武辺を誇っている者は何処へ行ったのか、引き返して一合戦せよ」

立原久光が馬首を返して闘う。これを見て、本田豊後守、横道石見守、秋上三郎左衛門、目黒新右衛門らもひき返して闘った。だが、後退する味方の兵に包まれて槍・長刀を振りまわすこともできない。熊野兵庫助、松田兵部少輔もひき返し一手になって防ごうとするが、たちまち破られてしまった。

「今日、新宮党が合戦に敗れたこと。尼子家が世の嘲りを受けること必定だ。味方に、身命を捨てて戦うものがいないから、毎度、敵の小勢に負けるのだ。ここは、大将自らが一戦すべきところだ」

 尼子勢総大将尼子詮久が、立ちあがって進撃しようとした。

「これは如何に、数万騎の大将ともあろうかたが、このような小事に、軽々しいふるまいをなさるものではありませんぞ、このようなことがないよう、それがしが常にお側に居て制しせよと祖父経久どのに仰せつかっている。ただいまのおふるまいは、五百騎、千騎を領する程の武将などと同じですぞ。中国の大将を心に懸けられる御身にあっては情けない。祖父(経久)には遥かに劣る軍将ですぞ」

 大叔父尼子下野守久幸が駆けよって制した。

 立原久光、本田豊後守、熊野兵庫助、松田兵部少輔らも引き返そうとするが逃げる味方に押し流されている。

 毛利勢が激しく追撃してくる。味方は小魚の群れに小石を投げたごとくドッと逃げていく。

道は狭く、左右の深田に落ちたところを敵に討たれる。深手を負って逃げることのできない者は次々と首を取られていく。命からがら逃げて行く者も、ほとんどが傷を負っている。もはや一方的な虐殺でしかない。

 しつこく追撃していた毛利勢も尼子方の兜首三つと、五百余りの雑兵首を取って意気揚揚と引き揚げていった。やがて毛利勢陣地からドッと挙がる勝鬨の声を、尼子勢は、蹌踉とした気分で聞いていた。

 逃げる尼子勢は本陣まで追撃されるという大敗を喫した。毛利軍の戦死者は福原の家人・中原小七郎ただひとりであったという。これを青山土取場の合戦という。

 

 ゴーッと凍てつく西風が篝火を蹴散らして通り過ぎて行く。山峡の吉田の里は、ついに冬になった。

 十一月、尼子応援のため吉田へ進撃してきた佐東銀山城主・武田信実隊を、毛利勢国司元相隊が般若谷で撃退した。

 尼子方の武将吉川興経、高尾久友が評定して言う。

「諜ごとを先にして戦いを後にすることは兵家古今の通義である。このたびの数回にわたる合戦をみると、毛利の勇気・智計年を追うて増上しているうえに、諸卒もまた三千が一心となって戦うゆえ、まことに一騎が千騎に当たり、分外の勇となっている。味方は、多勢を頼んで、この城、何ほどのことがあろうか、わずかの三千人前後なのでたとえ臥龍、鉄虎が籠っていようとも、最後には落城するか、降伏するかであろうと気安く思うゆえに陣法・軍容を自ら怠り、将兵もまた戦うことに、それぞれ一身の大事とは思わず、敵が強ければ引き退き、他に任せて見物する。多勢がかえって仇となっていちども勝ったことがない。だから、城の兵も自然と寄せ手の兵を、たいしたこともないと侮る心が生じているであろう。いまこそ、謀りを先にして戦えば勝てる。さあ、三人ともあの宮崎へ陣を進めよう。そうすれば城中の兵は、これまでの勝ち戦のように常法で押し出してくるだろう。いままでは、平場に隠れていたから勝利を失っていたのだ。柵を作って中から弓を射させよ。毛利勢は、柵を破らんと無二に懸かってきて、手負い死人多くでて退くのに乗じて突撃に移り、ただ遮二無二戦うべし。宮崎へ陣を移し、ひと合戦して強いところをみせようぞ」

 数十日にわたり詮議してやっと結論がでたので本田豊前守が尼子詮久に上申した。

「あいわかった、各々の望む旨に任す。ただし、先鋒は尼子旗本衆から一陣に高尾、二陣には、その次はとする」

 尼子詮久の返答があった。

「宮崎の陣へ敵が今までどおりに攻撃してきたところを、本陣から軍兵を出し、敵を真中に挟んで撃ったら勝つこと必定だ。出雲勢に一勝を得させて、これまでの数回にわたる負け戦による嘲りの衆口をふさぐべし」

 吉川興経、高尾久友ら三人は、宮崎へ陣を移した。

 

十一月二十六日(新暦十二月二十四日)、陶隆房、杉重政、内藤興盛を大将として防長豊築四州の軍兵二万余騎が山口を出発したという知らせが入った。尼子勢が郡山城を包囲してからすでに三月を迎えようとしていた。

 十一月二十七日夜半、陣屋で横になっていた相安は、吹き荒ぶ木枯らしにまぎれて、かすかなどよめきと喚声を聞いた。

― なにごとだ。

 相安が小屋をでた。冬空に寒月がこうこうとさえわたっていた。雲ひとつない夜である。肌に突き刺す寒さに身を縮めながら不寝番の兵に近づいた。篝火で暖をとりながら、兵らも郡山城を見ている。

「夜襲してくる気か」

 相安も耳をすました。それにしては、喚声は一、二度だけであとは静まり返っている。

「夜襲ではなさそうだな」

 相安は、冷え切った体を摩りながら閨に入って蒲の穂を詰めた夜具にもぐり込んだ。

「おー寒」

 冷え切った体は容易には温まりそうにない、身ぶるいしながら床の敷わらをかき集めて身体に密着させた。

壁際に、善兵衛が寝ている。すでに高齢の域に達した善兵衛の体に、この寒さは応えるのであろう。すっぽりと藁に潜り込んでいた。

― そろそろ、何か理由をつけて、浅利へ帰らせてやろうか。

 相安は、震える体をもてあましながら考えていた。

 このとき、毛利方では、大内氏が二万の大軍で救援に出発したという知らせを聞いて、一斉にわき返ったのであった。

 翌日、相安は、留守を守っている妻の由貴と山下理右衛門に手紙を書いて善兵衛に託そうとしたが、善兵衛は頑として受け付けなかった。

「そのようなことで、儂を使われるのか。小者を走らせば事足りることです」

 善兵衛は、自分で名指しした小者を浅利へ走らせた。

 相安は、ただ、苦笑するしかなかった。

 十二月三日(新暦・十二月三十日)、陶隆房に率いられた大内軍二万が一尺(約三十センチ)ほどに積もった雪を踏み散らして吉田に到着した。

 大内軍は、郡山城の東南に当たる上小原の山田中山に軍旗を立て、陣太鼓を打ち鳴らして、毛利勢の士気を鼓舞した。

 対する尼子勢は、

「ついに毛利の救援がきてしまったのか」

 深い失望感とともに、じ後の戦いにおける困難さを思って意気を消沈させた。

 その年は、厳寒が続いた。毎日、空はどんよりと曇り、雪やみぞれが降り、木枯らしが吹き荒れた。士卒の手足は凍傷にかかり、弓を引き、槍を遣うにも意のままにならず、大雪で道も埋もれ、あるいは凍って、馬も動き難い。

 戦どころではなく、両軍の間に膠着状態が続いた。

 相安らは、ただひたすら寒さに耐える日を送った。

 

 天文十年(一五四一)になった。寒波も和らぎ春の近づきを感じさせる風が盆地を流れ、雪も緩んできた。

 弓を絞り、矢を放つ手に力が戻ってきた。

 正月三日、毛利勢が小早川隊とともに尼子勢の相合口を襲ったが大きな戦にはならなかった。

 正月六日、尼子勢将兵のために設けていた遊廓青ノ町を毛利勢に放火された。

―毛利勢が反撃にでた、いったいどうなるのだ。

 勇躍している毛利勢をみて尼子軍の将兵は、あせりいらだっている。

 正月十一日(新暦二月六日)、雪が熄(や)んだ。空はどんよりと曇っている。あいかわらず寒い日が続いているが、風のない分、暖かく感じた。

 陶隆房は、元就の希望を受け入れて、山田中山から天神山に陣を移した。

天神山は、郡山城と尾根つづきで、尼子軍に対して左正面に位置する。両翼で尼子勢を包み込む形を取ったのだ。尼子軍にとって、ここを占拠されたら、郡山城攻撃が困難になる。一方を攻めれば一方に側面から攻撃を受ける。

 尼子勢は、これを阻止しようとしたが亀井、牛尾には戦意がなく、他の者も動かない。それでも尼子国久は、手勢三千騎を連れて一合戦しようとした。ところが叔父尼子下野守に制せられ、顔面を真っ赤にしてくやしがりながらも思いとどまった。

 

 毛利軍は、宮崎長尾で伯耆の南条、小鴨、出雲の高橋、安芸の吉川ら連合軍と戦った。

 正月十三日(新暦二月八日)になった。昨夜来降り続いた雪が辺り一面を銀世界としていた。一ヵ月ぶりに姿を現した太陽の光りがまぶしく反射している。

 元就が精鋭のほとんど二千騎余を引き連れて城門をでてきた。

 空堀の際に陣取った元就は、甲冑を着ていない。樺色の小袖のまま床几に腰かけて、悠然と尼子方を睥睨している。

―ばかにしゃがって。

 尼子勢をあまく見た行動に、尼子勢将兵がいきり立った。

 宮崎長尾口に屯営している尼子勢の陣地では、高尾久友が二千余で今日の先鋒一番手を受け持っていた。ここに毛利勢が向かってくる。

「来るぞ、敵はわずかの人数だ、近くまで引き寄せて討ち取れ」 

 高尾久友が松永宗十郎、菅谷九郎、亀井三太夫らを先に立て、柵際で待ち受けている。しかし、兵らの間では、

―攻撃軍が守勢にまわったらもうお終いだ。

 隊は、憂色に包まれている。

 厭戦気分が蔓延した。

 毛利勢がわずかの人数で尼子の大軍に突っ込んでくる。

 尼子勢は、そんな毛利勢を無謀なやつらだとみる一方では、敵愾心を露にしてひしひしと迫る殺意に不気味な脅威を感じていた。極度の緊張で顔が強張っている。

 郡山城には周辺の百姓も一緒に籠城している。

「尼子勢は、大軍でやってきて百姓の眼前で稔った稲を刈り取ってしまった」

 秋に米が収穫できなければ、来年の秋まで生きのびることができない。

「尼子のやつらのやることは、むごい」

百姓らの憎悪が毛利勢の敵愾心を引き出している。整然とした隊形でヒシヒシと迫ってくる。

「射て」

 高尾久友の下知に、尼子勢が一斉に矢を放つ。ドドッと毛利勢が倒れる。

 それでもまず押してくる。ついに柵が破られ、高尾隊陣地に切り込んできた。

 尼子勢は、槍を捨て刀で応戦したが、毛利勢は殺意のかたまりとなっているのに対しては命を賭して戦うという気迫がない、防戦で精一杯だった。たちまち高尾隊は、左右の谷へ逃げた。

 そもそも尼子と同盟を組んで毛利攻めに加わったのは、従属しなければ潰されるという武威に屈っしてのことであり、また、尼子が毛利に勝つとみたからである。だから、尼子の旗本衆以外の将兵は、尼子のために命を投げ出す気など毛頭ない。敵が強いとみればたちまち退いて逃げる。

 味方の一陣を切り崩した毛利勢を、尼子勢二陣黒正甚兵衛一千五百が弓矢で応戦し、黒正源八、大野八郎、隅田十兵衛らが馬から下りて槍の穂先を揃え、突撃しようとした。

 そのころ、陶隆房、杉重政、内藤興盛ら毛利救援隊の大内勢二万騎は、尼子軍本隊が毛利軍の後方に周り込むのを阻止するため待機していたが、尼子軍本隊が動かないのをみて、尼子軍本陣青三猪山へ突撃して来た。尼子軍は、天神山と青三井山の間を流れる多治比川の岸辺に伏兵を隠していたが、このとき大内軍は尼子勢の裏をかいて迂回し、与二の渡しから多治比川の本流可愛川を再び渡った。

 そこから、川沿いに南下して尼子勢本陣の背後を襲ってきたのだ。

 各方面に兵を出して手薄になっていた尼子勢本陣は、完全に虚を衝かれ大恐慌をきたした。

「味方は、山上に陣を取ってしかも大勢だ。敵は、山の下から攻め上って、しかも小勢だ味方の必勝なんの疑いやある。各々の好きなように迎え討て」

 尼子詮久の下知が下りた。ところが、尼子一族や十三人の家老衆らも、宮崎の陣は、はやくも敗亡と見え、そのうえ大内勢二万騎を三段に分け、太鼓を打ってひたひたと進んでくる勢いにのまれたのか、だれもが黙して動こうともしない。

 そのとき、

「面々は、いかに思っておられるのか、敵は、味方・高尾の陣を切り崩し、はや黒正の陣へ攻めかかっている、あれを見たまえ、敵方に勝利の色歴然だ、あの陣もたちまちのうちに押し破られるであろう、しからば吉川の陣も絶えられないであろう、宮崎の陣が破れて後は、元就、当陣の後ろへ回り込み、大内勢と牒じ合わせて追手搦手から攻め立てられたならば、当陣の危機は必然だ。今日こそ、ひごろ武道に励んでおられる各々も一合戦して勇気を現されるときですぞ。敵のいないときの広言は、畳の上の水練、虚像の精兵に似ているであろう」

尼子下野守が立ち上がって言う。

 この下野守は、日ごろ思慮深く危うい合戦を慎み必勝の成算がなければ、合戦を控えるところから、臆病者と嘲られて尼子比丘尼と言われている。昨年十一月一日の備定談合でも無策な郡山城攻めに慎重論をだして、詮久や新宮党の国久から臆病野州と罵られた。下野守は、これを聞いても怒ることはなかったが、憤りが深かったのであろう、居丈高になって言った。

 尼子下野守のことばにも皆は、一言の返答もせず、伏目になっているだけである。このようなときは、積極的に戦いを望むのが武将の意地であるはずなのだが…

 そのとき、

「今日は、この尼子比丘尼が討死しなければ、御大将(詮久)も安穏に退陣することも難しいと思われる。尼子の臆病比丘尼まかり通るぞ、ご免あれ」

 すくっと立って緋縅の鎧に赤の手拭で鉢巻をしたが、兜をとって捨て、手勢五百ばかりを引き連れて青三猪ヶ坂へ討ってでた。

「下野守さまは、死ぬ気だ」

 河副美作守、本田豊前守らも二、三百の兵を率い、尼子下野守につづいた。

 そのほか、その場に居合わせた諸侍も遅れてなるものかと突撃している。

すでに、高尾、黒正の両陣が破られたので尼子方吉川の陣も、たちまち潰れてしまうだろうと思われたが、大力の勇将といわれる吉川興経の率いる陣は、先備えが潰されてしまったことにも臆さず静まりかえって毛利勢を待ちうけている。。

 毛利勢も、一陣二陣を破ったものの激戦で喉が渇き、腕は弱り、腹も減って心身ともに疲れ果て前へ進まなくなった。

「はやく吉川の陣を切り敗れ」

 元就が、栗毛の馬に跨り、馬上から大音声で下知したので、毛利勢は、勇む心を力に吉川の陣へ押し寄せて敵陣の構えをみると、高さ四、五尺(一メートル半)の土塁を築きその上に柵を結んで、二ヵ所に枝折戸を構えている。さらに、その脇に矢倉二ヵ所を設け、右の矢倉には選りすぐりの兵を置いている。左には、吉川興経自らが上り六、七人をもってしても使い難いほどの大弓で大矢をすさまじく射る。毛利勢は、つぎつぎと倒れていく。

 毛利勢も、弓矢で応酬し、矢戦がつづく。毛利勢の赤川左京亮、赤川又五郎、桂右衛門尉、山縣彌三郎らが槍を入れ、たちまち敵を押し込んで枝折戸を切り落し、乱入しようとする。吉川興経らが弓矢で狙い撃ちし、毛利勢の手負、死人が累々と重なりひるんだところを、尼子勢の森脇和泉守、境采女正、門田、朝枝らが槍薙刀の切先を揃え、鬨の声をあげながら切って出た。

 毛利勢がたちまち崩されて柵の外へ逃れる。こんどは、桂元澄らが弓を取り直しはげしく射たてて尼子勢を柵のなかに追い入れる。

「かかれ、かかれ」

 吉川興経が、矢を射たて自ら采配を振って下知する。宮庄、伊志、小坂、筏、山縣、二宮、森脇ら一千余騎が先頭に立ってまっしぐらに突きかかる。その勢いに毛利勢が柵の外へ追い出される。

「不甲斐なきふるまいぞ、あの敵を追い入れよ」

 元就の命令により毛利勢が、また奮い立って尼子軍を柵際まで押し詰めた。

 毛利勢は、早朝から凄絶な闘いを展開したが、吉川の陣は、簡単には押し敗れそうにない。

 数刻におよぶ戦いに兵は疲労困憊している。

「少し下がって、息を継げ」

 元就の下知に、毛利勢が引いた。

 日暮が近づいてきた。

 毛利勢が、鬨をドッと挙げて引いて行く。

 吉川勢も陣を破られなかったことを勝として追撃することもしなかった。

 毛利勢の挙げる勝鬨の声が郷中にとどろいた。

 一方、大内勢は、毛利元就の指揮する宮崎の合戦も味方が勝っているように見えたので、いよいよ力を得て、先陣・陶、二陣・内藤、三番・杉と三段備えで、青三猪が坂の尼子軍本陣に押しし寄せてくる。この大内勢は、今日が初めての戦場突入だったので、敵・味方に勇をみせつけようとする気概が士卒にいたるまで溢れている。

 なかでも、末富志摩守は銀の四手を竹につけて腰に差し、真っ先に進んで尼子の本陣・青光猪山の八分方まで一気に攻め上った。

「まだ、まだ寄せつけろ」

 はやる兵を制止しながら、突撃の機を計っていた尼子下野守が、

「行け」

 大音声を飛ばした。尼子勢三千余騎が、喚声を挙げながらドッと敵軍に向けて山を下っていった。

 この日、小笠原隊が尼子勢の先鋒を受けていた。

 小笠原隊は、九月の戦闘で御屋形の次男・長晴の首を取られてしまっている。

「武士が戦場で死ぬのは名誉である」

 気丈に振舞っている御屋形長隆の心情を思って、小笠原隊の将兵は自責の念に苛まれていた。相安ら武将の目つきが変わってきている。

 小笠原隊勇将が先を争ってなだれ打つ。誰もが死に場所を求めての突撃であった。

 相安の率いる福冨党は、小笠原隊のなかでも特に、屈強の力を持っているという自負がある。

「儂に続け、遅れをとるな。敵を追い落とせ」

 相安は、兵を叱咤しながら陶隊の先陣宮川、深野、末富、野上ら二千余騎と凄絶な戦闘に突入した。

 尼子の先陣一万五千が一手になって戦闘に加わってきた。

討っても射ても大内勢・陶隊七千余騎には怯む気配がない。敵味方の死傷者を踏み越えて上ってくる。

「押せ、押せ!」

 相安の槍が、敵を突き刺す、敵がもんどりうって転げ落ちていく。

 地の利を活かして上から突き下ろす尼子勢の猛攻に、旗色が悪くなった陶隊が山から崩れ落ちるように引き下がり、麓の小川を越して三日市まで後退した。

陶隊は、すかさず、末富志摩守が取って返し、山の中腹まで押し返してきた。つづいて杉、内藤も攻め上ってくる。

 尼子勢は、尼子下野守、本田豊前守、河副美作守、立原備前守らも一手となって押し返す。

 尼子の新宮党は、闘いに加わろうとしたが坂の道が狭くて進むことが出来ない。谷も深く横合いからの挟撃もできない。しかたなく、尼子勢の後塵を被っている。

 ここに、尼子勢三万七千騎、大内勢二万余騎が凄絶な戦いを展開している。

小笠原隊は、敵味方入り混じった大軍のなかに呑み込まれて個々がバラバラの戦闘を行なっている。

 相安の率いる福冨党も、前方の敵、後方の大軍に吸収され、もはや組織的な戦いはできない。個々に目前の敵と渡り合っている。

 積もっていた白雪も大軍に踏みにじられて泥と化し、将兵の足をうばう。滑って倒れた兵に敵の兵が群がって首を取る。

 相安も、敵を突き倒し、蹴倒し戦っている。下から体勢を低くして槍を突き上げてくる敵に、二度、三度と槍を撥ねかえして、わき腹に突き刺した。

 凄絶な渡り合いのなかで相安は、敵方の歩卒に囲まれて立ち往生し、必死になって長槍をふるう御屋形を見つけた。すでに敵の重囲に陥って、小笠原隊旗本衆までが態勢を崩している。

―御屋形が危ない。

 相安が、走り寄った。

「御屋形さま―、ここは、それがしが食い止めます。ひとまずお退きを」

「オー。七右衛門…死ぬでないぞ」

「さらばでござります」

 御屋形が、旗本衆に囲まれて退いていく。

 追撃しようとする敵兵を、福冨党が円陣を組んで阻止する。

 圧倒的多数の敵兵から、次から次に繰り出される槍を防ぎきれず、福冨党の猛者も力尽き倒れていく。相安も数ヵ所に槍を受けて力が消滅してくる。

―なにくそ。

 相安が、低い態勢から立ちあがった瞬間、己の顔面に飛び込む寸前の矢を見た。

 ガーンと衝撃が全身を襲い、真っ赤に染まった空が反転するのをみながら、意識が薄れていった。

 仰向けに倒れた相安の右目には、至近から放った敵の矢が突き刺さっていた。

 福冨七右衛門尉藤原相安の壮絶な最後だった。

「御首を取られるな」

 福冨党の将兵が相安の屍をまんなかに円陣を組んで力の限り闘っている。

「忠左衛門、殿の御首を敵に渡すな。皆も逃げよ、死ぬことは許さん。逃げて、福冨党を立て直すのだ」

佐々木善兵衛が大手を広げて敵前に立ちはだかった。重囲の中で、必死に忠左衛門を守ろうとする善兵衛が最後の言葉をあげた。このとき円陣から抜けだし、後方へ走っていく武将があった。山下忠左衛門である。

 その小脇には相安の首級を抱きかかえていた。

 

 尼子勢の猛攻に大内勢が劣勢になった。

「何時のために命を惜しむのか」

 深野平左衛門興房、宮川善左衛門興廣が真っ先に進み、数多の尼子勢を突き伏せていたが、深野は、右肩に深々と矢を受けた。

「宮川どの、もはやこれまでぞ、さらばでござる」

 敵に組ついて刺し違えた。これを見た宮川も命を限りに闘っていたが、味方の加勢もなくついに、そこで討たれた。

 末富志摩守も槍が折れ、太刀を抜いて闘っていたが、身体に数十箇所の傷を負い、すでに危うくなった。これを若党らが肩に担いで山から下ろし、戸板に乗せて本陣へ帰り、手当てをしたので命を取り留めた。

 大内勢・陶隊は、多くが討たれ、負傷して浮き足だってきた。

「味方の勝利ぞ!進めや、者ども」

 尼子下野守がすさまじい闘鬼となってかかっていった。

 だが、毛利隊・中原善左衛門の放った弓矢が下野守の額に命中した。

 瞬間、体が馬上で棒立ちになり、のけぞって地に落ちた。うつ伏せに倒れた下野守の首を取ろうと走り寄った中原善左衛門に、下野守の若党が、主の首を取られてなるものかと反撃してきた。

「己を捨て、主を助けようとするとは、やさしき者のふるまい」

 中原善左衛門が敵に誉を与え、一太刀に切って捨てた。その隙に下野守の若党らが主を肩に担いで味方の陣へ逃げ込んだ。中原は、思う首をとることができず、心ならずも若党の首を持ち帰った。

 尼子下野守が討たれたので、尼子勢が大崩になりかかった。新宮党の尼子紀伊守、尼子式部大輔、尼子左衛門大夫が手勢三千ばかり入れ替えて大内勢を山下に追い落とした。

「二度までも追い落とされるとはなにごとか、このうえは、自らがかからなければなるまい」

 陶隆房が、大いに憤り、馬腹をけって突撃してきた。

 尼子勢も、陣内に入り備えを堅くして待ち受けた。

 陶隆房の臣、野上道友が、隆房の馬に駆け寄って制止した。伊賀民部少輔も鎧の袖にとりついて引き止めたので、この日の合戦は終わった。

 いっぽう、尼子軍総大将尼子詮久は、下野守が討死したのでひどく落胆していた。

「この度の出征を制止した下野守の意見を退けて、はるばるとここまで発向したため、

われが危急のときに、己の命を投げ捨てた無慙さよ」

 

 この日、尼子勢で討死した者は四百六十人を超え、負傷者は数えることのできないほど多くの損害をだすという凄まじい消耗戦となった。

 そのなかでも、突撃隊先鋒となった小笠原隊は、損害が特に多く、福冨党も、党首・相安を討たれたため、多くの士が力尽くまで戦って殉死した。

 一方、大内勢では、五百四十余騎が討たれたという。

 

 同日午後、犬伏山の麓に点在する百姓家に一人の武将が入った。山下忠左衛門である。

「負籠を貸してくれ」

 土間に平伏していた農夫が、急いで納屋から負籠を持ってくるのを待って、

「儂は、石州住人山下忠左衛門だ。主の御首を持ち帰るところだ」

 脇に抱えた包みを敷台に置くと、農夫があわてて仏壇から線香を取りだした。

「すまぬが蓑を貸してくれぬか」

 甲冑を脱ぎながら土間の壁にかけてある蓑と菅笠を指さした。

「使い古したものですが」

 恐縮しながら忠左衛門に蓑と菅笠を渡し、

「ちょっとお待ちくださいまし」

 小走りに納戸へ消えた、やがて毛皮の袖なしを持ってきた。

「これを、蓑の中に着てください。温かいですから」

「これは、かたじけない。かならず返却にくる」

「これから峠を越えなさるのでございますか。今日は雪が深く難儀なことでござりましょう」

「一刻を争う、ここは何処か」

「後ろの山が犬伏山でございます。ここは、上郷地区でこれから越えられる峠が犬伏山です。家の前の道が登り道です。しばらくは、荷車でも通れる道が続きます。やがて、道が二股に分かれます、そこには、お地蔵さんがありますので迷うことはありません。分れ道を左に入ってください、右は犬伏峠への道です。右は雪が深く、とても越すことはできません。お武家さまは、左の道をたどり、道なりに峠を越えてから、しばらく下ると、谷川沿いの道になります、これが智教寺川の支流ですので、そのまま進みますと里にでます。こちらの道は、木が多く茂り、積雪もあまりありません。山を下りきったところにあります智教寺の前を西に向いますと出羽まではもう少しでございます。くれぐれも、決して犬伏峠へは踏み込まないでください、あの峠は特に雪が深いですから歩くことも難儀になります」

「分った、お地蔵さんが見えたら左の道へ行く。出羽まで帰ればもう分かる」

 農夫が、暗い屋内をバタバタと走って、奥からおひつを横脇に抱えて出てきた。

「貧しい身でありますので何もありませんが」

 独り言のようにいいながら、筍の皮に飯を包み、庭から採ってきた柏の葉に囲炉裏端に突き立てていたアユの干物を包んでいる。

「ありがたい、なによりのごちそうだ」

 農夫から差し出された食べ物を押し頂いた。

 負籠にいれた相安の御首に両手を合わせて見送る農夫に、

「此度の戦は大敗だった。万を超える敗残兵がこの村を通って逃げるやも知れぬ事態となっている。そのときは、村の衆に迷惑が及ぶことになるゆえ、皆を集めて山に隠れなさい」

「ありがたき、お心づかいで」

「儂の甲冑は、どこぞへ隠してくれ、さもないとおぬしが盗賊と間違えられる」

「この山には、狼や山犬がおります。仏さまの血の臭いを嗅いで襲ってくるやも知れません、この犬をお連れ下さい。狼や山犬にもめったなことで負けるやつではありません」

 百姓が、二匹の犬を連れてきた。焦げ茶色をした精悍な大型犬である。一匹に縄をつないで忠左衛門に渡した。

「かたじけない、拝借する」

「峠を抜けてから、放してくだされば、自分で勝手に帰ってきます」

「落ち着いたら、必ず礼に参る。儂の甲冑は必ず隠してくれ」

「へえ、そうさしていただきます。…・お気をつけなさって」

 百姓姿になって山下忠左衛門は雪の犬伏峠に向った。

 道は、杉の木が密集する山道となった。一尺ほどに積もった雪を踏んで上り坂にかかった。

 甲冑を脱いで雪靴を履いた体は、軽やかに坂を登っていく。道は、いよいよ細く両側を覆う熊笹がわずかに道を教えていた。幸に積雪は膝の下までしかない。手に繋いだ犬は、おとなしく忠左衛門の前を歩いている。雪山に慣れているのであろう、身丈ほどもある積雪の中を飛びこえ、潜りこんで苦もなく登っている。放した犬は、前になり後ろになってついてくる。

―これは、いい仲間ができた。

 道に沿う谷川の清冽な流れが、さわやかな音をたてている。農夫は、この谷川を出店川の上流だと言った。

 日暮れまでには峠を越えることができるだろう。忠左衛門の気持が安らいできた。

 村の半鐘が鳴りだした。

―村の衆も避難を始めたようだ。

「殿、もう少しで帰れますよ」

 山下忠左衛門は、ずしりと重たい負籠に語りかけた。

 

 この戦では、元就の次男少輔次郎元春(十二歳)が初陣を果たし、吉川興経と激戦を展開したが、この吉川家こそ七年後の天文十七年(一五四八)に元春を養子に迎えた吉川である。吉川興経は、元就の妻お玖(妙玖)にとって実家の甥であるが、尼子詮久に合力し元就を攻めた。

 元就は、宮崎の合戦が散会してからも、小川のほとりに備えを立て、青三猪が坂の合戦をしばらく見物していたが、大内勢が本陣へ帰ったのでさっそく使いを遣わして、

「今日の合戦お互いに味方の勝利を得られたことは、ひとえに貴方がた三将の智勇によるものでございます。そこで、元就は、今晩、宮崎に残っている吉川の陣を夜襲して切り崩す所存でございます。そして、明日には、両口から尼子詮久の陣へ切りかかり一気に攻め破ろうと思っております」

 と言い送った。

 大内の三将は、

「仰せのごとくもっともでございます。しかし、味方は、今日の戦で負傷者も多く、四、五日の間、養生をさせてそのうえで、尼子詮久の本陣をそれがしの軍勢をもって切り崩しましょう。今日、敵陣を敗ることができなかったことは、ひとえにそれがしらの勇と謀の拙いゆえであり、口惜しく思っております。この無念は次ぎの合戦のときには、必ず晴らす所存でござります」

三将が言った。

 一方、尼子詮久は一族郎党を集めて言う。

「宮崎の高尾、黒正が敗れてしまったので、吉川隊だけが宮崎の陣所で耐えている。もし、今宵にでも、敵が押し寄せたら興経が討死してしまうだろう。至急、援兵を遣わせよ。誰かその任に当たる者はいないか」

「宮崎は、敵の陣に近く、尋常の者を遣わしても、高尾、黒正の二の舞になってしまう、それがしが行こう。しからば元就は、この前のように郷中へでてくるだろう。そこで敵が宮崎へ攻めてきたなら、ここからも軍勢をだして援護されたい、もし、順禮堂辺りへ出てきたなら、当陣と宮崎の中に挟んで追い立てようぞ」

 新宮党が言えば、亀井、牛尾ら家老らが言うには、

「今日の合戦を見て考えるに、元就の勇は尋常のものではありませぬ。大内勢もまた隆房の勇烈なことは父・道麒入道に劣らず。今の敵でさえ勝つことが困難なところに、このほど防州にもぐらせている山伏らが、先刻帰って言うには、大内義隆が数万の軍勢を率いて防府に着陣し、青景、弘中、右田、問田の者らが、近いうちに当地へ出張ると聞こえている。このうえにまた、敵勢が増えたならいよいよもって味方の由々しき事態となりましょう。まず、当陣を引き払って大殿(尼子経久)のご意見のように、改めて石州又は備後から攻めたならば、元就も終いには降伏するでありましょう。明日になっては退くのも困難でしょうから、明朝の寅の刻(午前四時ごろ)に、密かに引き払われてはいかがでありましょうか。殿(しんがり)は、高尾豊前守がかねてから望んでおりますので彼に任せられたならば、敵がいかに厳しく追撃してきても味方に難儀が及ぶことはないでありましょう」

 諸将も、下野守が討死されたことに落胆し、気おくれしていたところなので、皆が同意した。

 尼子詮久も、今までの合戦に利がなかったことは、伯州大山大権現の天狗山伏をもって、当地出張の義、再度におよんで制止された神勅に背いた冥罰であろうと思われるので、これから先、とても味方の利運はなかろうと、犯した過ちを悔いた。

 やがて家老らの意見に任せて退陣を決定した。

 同夜半になって諸陣にかがり火を煌煌と焼かせ、密かに陣を払って、北池田、阿沙、津賀まで引き退いた。

 毛利元就も、しばらくは気づかなかったが、敵陣近くに潜入させていた忍の者が走り帰り、敵陣が騒がしいので、もしや夜襲でも仕掛けてくるのではと近くに寄って窺ったところ、宮崎の吉川は新庄口へ引き払い、尼子詮久の本陣は北池田に向って退いております、と告げた。

 毛利の陣ではこの夜、宮崎の陣へ夜襲を掛けるため、宵の口から支度をして待っていたところだった。我先にと追撃したが、大雪のため行動が自由にならない。

 そのうえ、高尾久友の五百騎が殿(しんがり)として道を遮り備えているので、うかつには追えない。

高尾は、夜中のうちであれば安全に退くこともできたが、昨日、宮崎の陣があえなく切り崩されたことを無念に思っていたので、あえて敵を待ち受けていた。

 夜が明けようとするころ、毛利勢が切り掛かって来た。

 毛利勢の猛攻に高尾隊は一歩も退かず三度までも押し返し、終いには三百余騎が円陣を組んで全員が凄絶な討死をとげた。

 その隙に、尼子勢はけが人を助けながら津賀まで退くことができた。

 尼子詮久はここで、陣を張って敗軍を収容していたが、三日後には迫ってきた毛利勢にあわてて出雲へ帰った。尼子勢の逃げた陣には深野、宮川の首が縁の上に置かれ、尼子下野守首桶が床の上に放置してあった。尼子勢は、いかにもぶざまな姿をさらけ出してしまった。

 壊乱退却した尼子軍は、雪の犬伏山や江川の渡しで四百人余りという甚大な犠牲をだし惨憺たる退却行となった。