福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

佐摩銀山(石見銀山)

 享禄三年(一五三〇)も暮れようとするころ、相安の叔父八神屋與次郎兵衛が四ッ地蔵城を訪れてきた。

「どうですか商いは」

 相安は子どものころから、父忠智と部屋に籠って話し込んでいた叔父の與次郎兵衛に対しては礼節をわきまえた態度を崩さなかった。

武家を捨てた変な叔父御。

 としか見ていなかったが、父が他界してからも時々、顔をだしては、貴重な他国のようすなどを知らせてくれた。最近になって、それが、いかに重要であるのかが相安にも分かってきた。

―ひょっとして……與次郎兵衛が商人になったのは、祖父治堅の意思によるものだったのかも知れない。と思うこともあったが、相安は口にだして聞くことはしなかった。

「まさに飛ぶように売れている。最近は江川だけでは間に合わず斐伊川の物まで集めているよ。他国へ持ち出して初めて分かったことだが、石・雲州の玉鋼から作った刀剣は切れ味、粘り、見栄えとも、他に累が無いと言われている」

 砂鉄から作った刀剣は、地肌の冴に神秘的な青味をたたえている。相安もこの美しさに吸い込まれるようなとまどいを感じることがあった。叔父は、これを見栄えと表現したのだった。

「そんなに売れますのか」

「ところで、面白い話を仕入れたよ」

 朴訥な口調だった。相安が当主となってからも與次郎兵衛の言葉づかいは変わらなかった。叔父が甥に話すそれであった。ただ、話し方には、自愛に満ちた柔らかさがある。それも、二人きりのときだけであり、相安が、武家の頭領として行動しているときには、決して相安の面前には姿を現さなかった。

 

仕入れですか…・・商人の言葉ですなー」

 相安がフッと笑った。與次郎兵衛の顔からは笑顔が消え、真面目な話をするときの顔になっていた。

「出雲で玉鋼を仕入れて、いつもは江津まで一気に舟を走らすのだが、その日は風が悪くての、温泉津へ泊まることにした。折角の機会だからと温泉に入湯していたら、大変な繁盛で…・なんでも…・・佐摩銀山の銀が大量に採れだしたとかで…・博多の豪商神谷寿貞とかいう仁が、出雲佐義銅山へ銅の買いつけのため、船で馬路(まじ)海岸沖を航行中、佐摩の仙ノ山にかかる霧が、光り輝くのを見たことから、そこに、銀の鉱床があるのをみつけたらしい…・儂も、馬路沖は、いつも通っているのだが…気づかなかった・・博多の神谷寿貞が乗っていた舟でも、船頭らはときどきその現象をみていたようでのー、『御来光だ。』といって拝んでいたらしい…・それを、神谷寿貞は、佐義銅山主の三島清左衛門と、大永六年(一五二六)ごろから銅山の穿通子(ほりこ)を使って銀の採掘に着手したらしい。それが、図に当たったらしいのだな、銀が思いの外大量に採れ出した。銀山の経営にあたったのは神谷寿貞と三島清左衛門で、採掘を請け負ったのが吉田与左衛門、籐左衛門、於紅孫右衛門ら三人の穿通子大工だということじゃった。ところが、一昨年の大永八年(一五二八)夏、吉田与左衛門、籐左衛門は、意趣があってということらしいが、於紅孫右衛門を討ち果し、それで、吉田与左衛門、籐左衛門の両名が頭となって掘っているということだ。それから、銀の産出量がずいぶんと増えているそうだ。佐摩の町は人が集まって、どんどん賑やかになっているらしい」

「世間の噂というものも面白いですな、実は、あれは、御屋形さま(小笠原長隆)の知略が効を奏しているということですよ。御屋形さまが吉田与左衛門、籐左衛門を手なずけて於紅孫右衛門を討ったのです。なにしろ於紅は、御屋形さまのいうことを聞かなかったですから」

「じゃ、すでに小笠原さまのものになっているということかの、銀山は」

「まだです、仕上げには、もう少し刻が必要でしょう」

 佐摩銀山の起源は、一説には鎌倉時代といわれているが、当初は、地上に噴き出した露頭銀を採掘していた程度のものであり、今も、あまり変わっていないと相安は思っていた。

「銀か…・・欲しいですなー」

「そうよの、小笠原の御屋形さまが銀を手にしたら、『銅ガ丸鉱山の銅と銀、佐摩銀山の銀、江川流域の砂鉄』、鬼に金棒ですのー…・銀があれば武器がいくらでも買える。遠隔地へ進攻のときも、苦労して兵糧を持っていかなくても現地で買うことができる。儂も、銀を商いたいが、今は、大内氏の管理下に置かれていて、手がだせん」

「そうですな、横取りするにしても、名目がなければ…・」

「ところが」

 與次郎兵衛が身を乗り出して声を細めた。

「銀山を守っている矢瀧城から城将をはじめ侍雑兵らまでが郷にでて住民に数々の災いを起しているということだ。そのため民が困窮しているらしい」

矢瀧城は、銀山から湯里を通って温泉津に向う路が初めて越える峠・降露坂の南にある高い山(六八四メートル)に築かれて、今は、大内義隆の武将が山吹城とともに銀山の押さえに任じている。

「面白いですなー」

 與次郎兵衛が火鉢に手をかざしながら暖をとっていた手を止めて、エッと顔を上げた。

「あ、いや違います。儂が面白いと言ったのは、地下(じげ)の衆が困っているからではなく、住民を苦しめる族は退治しなければいけんと思ったからです」

 

 昌康は、享禄四年(一五三一)正月、温湯城大広間にて毎年行われる年賀式の連座で、銀山のことを披露した。

「地下の衆を困らせる悪党は退治しなければいけんのー」

 御屋形(小笠原長隆)が満足そうに笑いながら言ったものだ。

―そして、銀が手に入る。

 これが本音だ。

 このころ、大内氏は北九州の平定に精一杯となっており、石見から眼が離れている。

 尼子家では、経久の三男塩治(えんや)興久が謀反を起こしたため、出雲領内での合戦が続いている。

 興久は、父経久から三千貫を与えられ、上塩冶(かみえんや)の要害山城主となっていた。尼子の本月山富田城の防衛上特に重要な城である。

興久は三千貫では少ないと加増を要求し、一千貫加増のお墨付きを得たが、それでは少なすぎるとして叛旗を翻したものである。

「やるなら今だ」

 御屋形(小笠原長隆)の決断は即(はや)かった。

 同年二月、小笠原長隆の命を受けた志谷修理太夫、平田加賀守、三完氏六郎左衛門、安田兵六、原釜左近、青木、兼田ら総勢三千五百余騎が、大内方の武将が守る矢瀧城を攻めてことごとく討ち果たした。

 つづいて、四月には大田の高城を攻略した。この戦で小笠原隊井原十郎左衛門は高城々将の長田若狭守を討ち取って高名を得た。

 小笠原長隆は、大永七年(一五二七)に離反した福光氏の領地を取り上げ、享禄五年(一五三二)九月、都野長弼に石見江城、城番の功として福光彦八郎の福光郷六十貫文足と福光右京進の福光郷二十五貫文、飯田内蔵丞の跡、大家庄内三十貫文の地を給した。

この時期、小笠原家の隆盛は天を衝くばかりであり、邑智郡、那賀郡、邇摩郡と支配地を伸ばしていた。

 矢瀧の村人は、おおいに喜び、御屋形(小笠原長隆)を歓迎した。

 これにより、石見佐摩銀山は小笠原氏のものとなり、じ後三年にわたって領した。

 このころ、銀山では採掘が軌道に乗りおびただしく銀を出していた。

 御屋形は、銅ガ丸鉱山の銅と銀、佐摩銀山の銀、そして江川流域でおびただしく採れる鉄を手中にしたのである。これらを上手く使えば小笠原軍団に敵なしとなること明白、小笠原家は前途洋々の未来を抱えようとしていた。

 しかし、このことは、大内、毛利、尼子による熾烈な銀山争奪戦に翻弄されることとなったのである

 同年春、山下忠左衛門が驚愕すべき事実を掴んだ。

「都治氏がお家再興を果たした。ということでございます」

「都治家か」

「そうです」

「都治氏は、大永元年(一五二一)に絶滅したではないか」

「ええ、あのときは、尼子経久により都治の城に籠っていた者は、すべてが惨殺されました。その数、名のある者だけで二百名を超している。特に、都治姓の者は一人も残さず殺されました」

「どこかから養子にでも入ったのか」

「それが、都治興行の妻は、川上(かわのぼり)元祐氏の娘で、都治落城のとき妊娠五ヵ月であったそうにございます。夜陰に紛れて家臣天波らと川上へ落ち延び、翌大永二年(一五二二)二月、男児を出産し鶴丸と名づけた。これが成人して隆行と名乗り、このたび、お家再興を果たしたということです」

「あのときは、尼子氏が聞きつけ、男女いずれかを確かめるため、検使を寄こした。と聞いている」

「そのとき、元祐の子国祐が一女をもうけていたので「興行の子はこの娘なり」と示して助かったそうにございます。以後、鶴丸は川上城で養育され、成人したのを機に、都治の家臣水口信濃守という者が出雲に赴いて、尼子国久にこれまでの都治事情を明かして旧領回復を願いでたということです。川上氏からも願い出て、ついに許され都治家七代を継いだのです。都治氏にとって幸いだったのは、尼子氏も経久が高齢のため病弱となり、その嫡男は戦死し、跡を継いだ現在の頭領・晴久は幼少のため、叔父の国久が後見している時期であったことでしょう。国久も「主家を乗っ取ろうと謀っている」という噂もでているような人物です。味方となる者は増やしておきたいでしょうから」

「なんとのー、潰しても潰しても生き返る。それが、都治か。これで三度、生き返ったの」

 一度目は、都治家三代弘行のとき、娘婿の土屋宗信がその宗家都治弘行の領である都治郷と羽積郷を乗っ取ろうとして弘行と重臣八人を殺した。そのときの将軍足利義満が不審に思い、たびたび召文したが惨落しなかったことから、石見の守護山名氏豊に都治退治を命じられ、小笠原、福屋、益田、三隅ら周辺の国人衆により攻め落とされた。その後、川上(かわのぼり)越中守の次男又太郎が入部し、佐波郷の赤都賀の娘を娶らせて都治家再興が許され四代宗行となった。ところが、京で応仁の大乱が起こり、西軍に組した宗行は、川上、周布、吉見らと温泉津から乗船出陣したが、但馬国蛇島付近で暴風のため遭難して生涯を閉じた。このとき、ただ一人、都治まで帰りついた者の報告によれば宗行は命からがら海岸に上陸したらしいが、地元人の襲撃を受けて殺されたという。

 二回目は、都治家六代興行のとき、尼子経久に刃向かったため滅亡した。それが、このたび、わずか十年で甦ったのである。

「完膚なきまでに叩き潰されても再生する都治家とは恐ろしい家だの」

 相安は武家とはこうあるべきだと思っている。だが、都治家再興は都野氏と川上氏の力によるものであった。都野、川上という強力な後ろ盾があったからこそできたことである。

 わが福冨は・・・残念ながら、頼りとする人もなく己ひとりで生きてゆかねばならない身であった。

「それにしても、都治氏は、三代、四代、五代、六代と続いて当主が殺されている。まさに呪われた家系としか思えないのに、家は存続している。ふしぎですな」

「都治という地は、元来、宮家が領してきた土地だ。ゆえに、都の治める土地、すなわち都治という名がついたのだ。都治という土地柄が良いということかの。家を残したいという気持ちが強いのであろう」

「福冨家初代治堅さまが、お亡くなりになったとき、福冨家の臣が六名も都治のもとへ逃げたということがあったですな。この度は、大丈夫でしょうか」

「福冨を裏切った輩(やから)は、尼子氏の都治攻めでことごとく滅亡した。よもや、此度は、鞍替えしょうと考える者はいないであろう」

「そうですの」

「だが、目配りは必要であろうの、父上のような屈辱は味わいたくない」

「そうですの、今回は裏切らないという確証はない。注意を怠ることはできません」

「だが、郷士の間で疑心暗鬼となるようなことは避けねばならない」

「そうですの、心して配意しなければなりません」

 

 天文二年(一五三三)大内義興に銀山を奪い返えされた。

大内はその臣吉田若狭守、飯田石見守の二人を銀山奉行とした。

 吉田与三右衛門らは大内義隆に採掘の許可を得、その被官となって、毎年、京銭百貫、積銀にして銀子百枚を大内に貢献した。

 この年、神谷寿貞は博多から二人の中国人技術者を連れてきて現地で精錬させた。灰吹法と呼ばれる銀の精錬技術で、これにより、採掘と精錬を同時に行い、純度も七十パーセントを超える良質の銀が採れるようになった。灰吹法は、銀鉱石に鉛・鉛鉱石を加えて溶かし、鉛と銀が溶ける温度の差を利用して純粋な銀を取り出す方法である。

 佐摩の町は諸国から人夫たちが大勢あつまり、大いに富み栄えた。

 当時、銀山七谷に戸数は一万三千を超え、精錬技術者として来往した明国人の屋敷も並び、唐人屋敷、唐人橋があった。

 大内氏は、福光氏に福光郷内旧領の一部を与えた。相安の所領福光下村と隣接する田地は、また福光氏のものになった。

 

 天文三年(一五三四)尼子家で内紛を引き起こしていた塩治興久が戦いに敗れて自殺した。

 

 天文六年(一五三七)正月、八十歳になった尼子経久は孫の詮久に家督を譲った。

 尼子家を立て直した詮久は安芸、石見への勢力拡大に本腰を入れてきた。

 同年八月、詮久は銀山を攻めて大内の奉行吉田と飯田の両名を殺し銀山を奪取した。

 銀山は、これより天文八年(一五三九)までの三年間、尼子氏のものとなった。

 小笠原、福屋、益田氏は尼子氏になびいたが、吉見氏は応じなかった。福光氏は小笠原氏から離れたまま尼子氏の麾下に走り所領の安堵を得た。

 天文七年九月(一五三八) 温湯城主小笠原長隆は、尼子経久の内意により大内と毛利の離間策を三通の書状にしたため、元就に送った。

 その内容は、『尼子氏に背き、大内氏に属した元就が、東方で攻勢を続けている尼子方に戻りたいと画策しているということを大内義隆が察知している』というものであった。しかし、元就は嫡子隆元を人質として大内へ送っており、毛利・大内の堅い結束をほぐすことができなかった。

 このころ尼子氏は中国地方東部の大攻勢により備中、備前、美作、播磨、因幡を征服し、すでに傘下に組み入れている伯耆、出雲、隠岐、石見、備後、安芸を合わせて中国十一ヵ州の太守と呼ばれていた。

 まさに、元就は、権勢絶頂の尼子氏を見限っていたのである。

  天文八年(一五三九)年四月、尼子勢が安芸侵入を企て、比叡尾城主三吉氏の合力により備後布野から江川に進出した。元就は戸坂で迎撃しようとしたが尼子隊はこれを蹴散らした。このとき吉川興経が尼子に呼応する動きをしたため、元就が山県郡へ出兵した。

 同年五月  大内義隆による銀山奪取軍が侵攻してきた。小笠原長隆は抵抗をせず、赤山に退いた。大内義隆は内田正董を奉行とした。

九月、小笠原氏は大内与党として働き内田正重奉行の下に吉田大蔵丞、吉田采女丞及び坂根次郎兵衛を置いて昆布山谷において銀を吹かせた。

 

 毎年、銀五百枚を大内へ貢献することで、小笠原氏の銀山経営の存続がなった。