福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

船岡山合戦

 近江岡山城に逃げた足利義澄らは、政権を取り戻そうと再三にわたって攻め上ってきたが、その都度撃退して三年がたった。

 小笠原隊もあいかわらず平安城(御所)警護が続いている。

 永正八年(一五一一)七月七日(新暦七月三十一日)細川政賢らが泉州堺に上陸し、天王寺の城を攻めてきた。

 これにより細川澄元は、なんとしても義澄将軍に再び天下を取り戻そうとしていることが確実となった。

 これに呼応して堺の南の庄に蟄居している遊佐入道印叟が深井に陣を張った。

 京都からは遊佐順盛ら一万余騎が迎撃に出陣し、堺万代(まんだい)の庄に陣を置いて七月十三日(新暦八月六日)に深井の陣へ押し寄せたが失敗して遊佐順盛隊は三百人が討死し、残りは散々になって逃げた。遊佐順盛は、おのれの持ち城である譽田、高屋の城に入ることもできず京都に逃げ帰った。

 譽田の城へは遊佐印叟が入れ代わり、高屋の城へは畠山義英が入城した。

細川政賢は摂州中嶋に陣を移し、細川元常は同国脇の浜に渡海して芦屋庄上鷹屋城に籠っている河原林対馬守を攻めるため灘の吹飯に頓営して攻め続けた。

 七月二十六日(新暦八月十九日)、京都から細川尹賢、大内義興を大将として細川高国の旗本勢柳本、波多野ら摂津、丹波二州の軍兵が灘郷、雀の松原、御影宿に駆けつけて芦屋川原で会戦した。

 これをみて芦屋城中からも打って出て、しまいには、細川元常の陣を突き崩し、首級百有余を取って京都へ凱旋した。

 そうとは知らず赤松義村は、細川澄元に頼まれて細川元常に加勢しようと八月上旬、播州御着の館を出発し加古川に勢ぞろいした。そこから大倉谷まで上ったところで細川元常の敗走を聞いたが引き返すことをせず、同月五日(新暦九月九日)、兵庫浦の鷹屋へ押し寄せてきびしく攻めたてた。

 河原林は耐えられず、その日の夜半に退城して伊丹城へ入ったが、たちまち追撃軍に囲まれ攻められた。

 京都からは細川尹賢に大内義興勢が加わって山崎まで馳せ下ったところで入江の一族らが近郷の一揆を先導して多勢で押し寄せてくることを知り、山崎の陣を引き払った。

これをみて、細川政賢、細川常有、遊佐印叟、赤松義松らは、この機を逃すなと京都へ上がるべく摂丹両州の勢を集めた。

 江州へも緊急の書状を発して両方から一気に攻め上る日どりを定めているところに、近江岡山にいる前将軍足利義澄が、十四日に死去した知らせが届いた。細川らは力を落とし、愁涙にむせび落胆したが、

「義澄卿の御弔い合戦により敵を畿外に追い散らし、御曹司義晴朝臣を将軍に仰ぎ奉ることこそ千層の塔婆を建て、万部の法華を読むよりも供養はなおも勝」

と、十八日(新暦九月十日)をもって江州勢と一気に京都へ打ち入ることを決定した。

 この報は京都にも次々と注進がくる。

 将軍の大命を受けた大内義興は、諸将を集め軍(いくさ)評定により去年と同じように東寺、神祇館へ軍兵をだし、竹の内、日之岡に伏兵を置いて敵を一気に退けようと決めたが、おりしも、諸将の多くは帰国していて軍勢が少なく作戦はむずかしい。だからといって、洛中において多勢を迎え撃っては危険が多すぎると議論がまとまらない。

「味方の軍勢は、たしかに敵より少ない。ここは来鋭を避けて、その虚を衝くことこそ最高の作戦でありましょう。まず、いったん丹波の国へ退き、凶徒を洛中に入れて、掠奪、窃盗に心を奪われ油断しているときこそ、たやすく勝利を得る手だてでありましょう」

 大内義興の説明に皆が賛同した。

 足利義稙細川高国、畠山義元、大内義興らが供をして同月十六日に丹波長坂(亀岡)へ退いた。

 足利義晴を奉じた細川政賢、赤松義村らは翌十七日に京都へ入ったが一人として防戦するものもなかった。

 しかし敵が一戦にも及ばず洛中を開いたということを考えると、味方を楽に入洛させ、油断したところを襲ってくるという謀りにちがいない。それなら攻めてくる敵は多勢であるにちがいない。

 急遽、船岡山に城を構え細川政賢、細川元常、細川常有、遊佐印叟らが守りを固めた。

 秋の気配を肌で感じる季節になった。

 長坂に滞在している足利義稙は敵の城が完成するまでに攻め落すべく、本陣を高雄山に移した。これに従い細川高国大内義興、畠山義元、河野道直、山名氏明、尼子経久、武田元信、武田元繋、毛利興元、吉川国経、小早川弘平、宍戸元源益田宗兼、熊谷元直、小笠原長隆ら八万余騎が梅之畑、鳴滝等に陣を固めた。

周辺の山々には諸将の旗馬印が山風に翩翻としている。

 まる一日の休みをとって二十四日卯の刻(午前六時)、先陣の大内義興ら二万余騎は陶興房、杉興重、杉重矩、問田紀伊守、問田丹後守、問田興之、問田弘胤らを先頭に立てて船岡山の一の城門に向って兵鼓を打ち法螺貝を吹いて攻め寄せた。

 先鋒を承るということは武門の名誉である。この度も大内義興尼子経久との間で熾烈な争奪戦があった。結果は大内義興が先鋒を取ることになった。大内と尼子では力の差が歴然としている。しかも、尼子経久は八月下旬になって、やっと出雲から到着したばかりである。

 尼子経久、武田元繋らが二陣に進み、畠山、毛利、吉川、宍戸、香川、熊谷らは搦め手を攻撃した。

 先陣の一番隊となった小笠原隊は、山岳戦に備えて甲冑の佩楯(膝鎧)を外した。これで動きやすい。

 忠智は、さらに兜を取って鉢巻を締めたが、城内から射ってくる弓矢を防ぐため兜を被った。

 小笠原隊は、御屋形(小笠原長隆)を中心に一丸となって攻め上っていく。

 細川政賢の指揮する城方は静まりかえっている。矢の一本も飛んでこない。

あっというまに、城門近くまでたどり着いた。このとき、いっせいに矢窓が開いて至近距離から突風のごとく音をたてて万箭が襲ってきた。

 忠智らは、竹束を楯として矢を避けながら肉迫する。

 城門を開いて城方が打ってでた。

「行くぞ」

 攻城軍の大内勢、陶、杉らが一気に攻めかかった。

両軍の刀槍から火花が飛び散る。喚声、矢叫びがこだまして山谷を揺るがす。 

 怒涛のごとく押し寄せる攻城軍に城方が後退して城門に入るのと同時に、矢窓を開いて射出す数万の矢に攻城軍が次々と倒れて行く。大内勢の多数が負傷した。数刻にわたって激戦がつづき攻城軍も喉が渇き、腕がなえて動きが鈍った。

「もたもたしていると、日が暮れてしまうぞ、早く一の城門を落としてしまえ、先陣が疲れれば二陣と代われよ」

 続けざまに下知する大内義興に陶、問田、杉、内藤ら大内の旗本勢が分散しがちな軍勢をまとめてじりじりと攻め上がった。

 城中からも名乗りをあげながら打ってでて、凄絶な戦闘をくりひろげる。

「臆するな、引くな」

 大内義興が采配を振って攻めたてた。

「ここが死に場ぞ、命を捨てて戦え」

 小笠原隊は長隆が先頭に躍り出て突撃した。御屋形自らが捨て身で先頭に立つ行為は、将兵の血を滾らせる。御屋形に遅れては、申し開きができないとばかりに、忠智らが先を競う。 

 大内勢が続く。

 城方がひるんだところを、攻城軍が次々と塀を乗り越えて城内に攻め入った。

「われこそは、九里(くのり)右衛門兵衛なり。尋常に勝負せよ」

 忠智の眼前で戦っていた御屋形小笠原長隆に、敵の侍大将が組み付いた。

 御屋形の御首を敵に取らせてはならない。あわてて助けに入ろうとした。

「手だしをするな!」

 長隆の叱咤に忠智らは、他の敵と戦いながら二人の格闘を見守るばかりである。

―御屋形の方が優勢だ、おくれをとることもあるまい。

 小笠原隊は、忠智らを残して、闘争の渦に飛び込んだ。 

 組んず解れつの大激闘のすえついに、御屋形が敵の首をとった。

「われこそは小笠原刑部少輔なり、佐々木の家人・九里右衛門兵衛を討ち取ったりー」

 血の滴る首を高々と挙げて名乗りをあげた。

「おー」

 小笠原隊将兵が閧の声で祝福する。

「みごとなり」

 大内義興の大音声がとどろいた。そのとき御屋形ががくりと膝を落した。敵の刃を受けていたのだ。あわてて忠智ら小笠原隊将兵が円陣を組んで長隆を引き下がらせた。

 陶道騎は、細川の郎党香西次郎を討ち取り、益田越中守も敵の兵を討ち取った。

 搦手からも尼子、武田、毛利、吉川の諸勢がわれ先にと攻め入った。

 城方は散々になって逃げだした。丹波国住人竹内太夫は、手勢五百騎を率いて一方を防いでいたが、もはやこれまでと落ちるところを、搦手の寄せ手が取り巻き一人残らず首を取った。

 細川政賢は一方を打ち破って洛中へと落ち行くところを、大将首を狙う攻城軍に執拗な追撃を受け、ついに、誓願寺の門前にある羅漢橋の上で壮絶な最後をとげた。その他、遊佐入道をはじめ一千余人が討死した。

 追撃隊は徹底的に敵を追い詰めて多数を討ち取った。大内義興ら攻城軍は三千八百余りを討ち取るという大勝を得た。

 この戦闘を船岡山合戦という。

 大内義興は直ちに洛中に凱旋した。黄昏のなか細川高国も入洛し治安を回復した。

 足利義稙は、数日間入洛を控えて高雄山の陣に滞在していた。これは、京都から平家を追い落とした木曾義仲が直ちに入洛せず、しばらくの間、天台山に控えていたという例を習ったものである。

 九月一日、足利義稙は二条西洞院の妙本寺に御所を構えた。

 諸将が我も我もと馳せ参じて厳重な警衛をつくった。

 将軍は論功行賞による剣や弓、馬物具などを諸将に授与した。

 特に大内義興の戦功は他に傑出していると剣の外に鎧一具を賜り、翌年三月二十六日には従三位の公卿に列せられた。

 石見衆では小笠原長隆、益田、周布らが将軍から感状を受けた。

 御屋形(小笠原長隆)は、三百貫の地を賜った。

だが、尼子経久には、なんの恩賞も与えられなかった。大内義興との確執が大きく影響したことは明白であった。

 

 船岡山合戦が終って、石見の諸勢も次々と帰国していった。

 永正九年(一五一二)、小笠原隊も、あしかけ五年にわたる平安城守備を終えて帰国した。

 この戦で、御屋形(小笠原長隆)は本家筋にあたる阿波三好家に弓を引いた。

 その結果、三好之長は死んだ。戦国の世の習いとはいえ、小笠原勢将兵は言い知れぬ寂しさに襲われていた。

 

 永正十年(一五一三)、京都から帰国した忠智は五十三歳になったのを機に、二十三歳の相安に家督を譲った。

同年秋、福冨七左衛門尉相安の小笠原家仕官が承諾された。