福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

平安城

 永正四年(一五〇七)、足利義澄を奉じて将軍足利義稙を放逐した管領細川政元は、実権を握って大いにその権勢をしめしたが、自分の後継ぎに関白九条政基の子澄之、阿波讃岐細川義春の子澄元、そして細川支流細川政春の子高国の三人を立てた。三人が力を合わせて磐石な細川家を後世に残そうと考えてのことであったが、これは当然のごとく細川一族で内訌を招くことになった。

 細川政元は、その有力家臣薬師寺、香西らに殺され、細川澄之が足利義澄の執事となった。

 これに対して阿波細川の三好之長が、細川澄元を擁して細川澄之を殺し、実権を握った。

「京都が紛乱している今こそ、征伐どきぞ」

 将軍の座を追われ大内氏を頼っていた足利義稙の下知を受けて大内義興が山陰、四国、九州の諸将に至急の書状を送った、好機到来である。

 同年十一月二十六日(新暦十二月二十九日)、足利義稙が防州を出発した。

 大内義興を筆頭に九州から島津、大友、龍造寺、高橋統種、菊池ら有力武将がこぞって集まった。

 安芸の国から探題職の武田元繁をはじめ毛利、吉川、宍戸、小早川、熊谷らが供奉に加わり、石見から、小笠原長隆、三隅興信、吉見成頼、佐波誠連、益田宗兼、高橋清光、福屋国兼、周布和兼、祖式、久利ら、出雲の尼子経久、三澤為幸、三刀屋為虎、牛尾、浅山、宍道、廣田、桜井ら、伯耆に山名清忠、南條守親、大山の教悟院、行松入道、因幡から山名豊重、但馬の山名政豊、美作の斉藤ら、播磨の別所熙治、黒田高政、伊予の河野通直、讃岐から香河元光が随従し、

 総勢十五万余騎が八千五百余艘の船に分乗して威風堂々と船出した。

 海上は、能島掃部助、久留島出雲守らが海上を警衛している。大内義興は、防、長、豊、築四州の守護である。にもかかわらず今回の東上には、石見、出雲、因幡伯耆、備中、伊予の武将も随従している。大内義興の勢威をみせつけた軍勢であり、衰えたりといえども将軍の威光、まさに天を突くばかりであった。

―心がおどる。

 忠智にとっては初めての上京であり、『将軍を擁しての進撃だ』ということが心をおどらせている。

 とはいえ、小笠原長隆は、小笠原宗家と仰いでいる阿波、三好之長を敵にまわして戦わなければならないという戸惑いは如何ともし難い。

 瀬戸内の海を大小の船があふれている。帆を立てたもの、櫓や櫂で漕ぐものあらゆる舟が舳先を競って東上している。

―まさに壮観だ。

 各船が将軍の眼に留まるよう、御座船近くを航行しようと陣取り合戦をしている。

 忠智は舳先や船べりに幟や旗を立てた船が、これ見よがしにせわしなく動きまわっているのを厭くことなく眺めていた。

 鶴姫を連れて多度津から瀬戸内を渡ったのが、ほんのこの前のことのように思っていたが、すでに十二年前のことになる。忠智は、阿波の小笠原長重と綾姫、そしてやえのことを思い、北の方角に合掌した。

 二日後に鞆ノ浦に着いた。ここで越年し、永正五年(一五〇八)正月三日(新暦二月三日)に出航したが、寒波の襲来に遭遇してしまった。西風に押されて狂ったように走っていた船が、荒れ狂う波にはばまれて危うくなってきた。忠智らは、慣れない船酔いに苦しめられ、立ちあがることもできない。横臥したまま嘔吐している兵から発する異臭が船内に充満して息苦しい。忠智は、せめてもの抗いから口を大きく開けて呼吸し、鼻からの進入を防ごうとした。これなら陸路を進撃するほうが早いと思うが勝手をすることはできない。

 ついに、船団は播州室ノ津に避難したまま動くことができず、いたずらに日数を費やすばかりであった。

 二月一日(新暦三月二日)になって、やっと海上が凪いできた。船団は纜(ともづな)を解いて次々と湊を出ていく。

 今度は快適に走っている。左手には本土の山並みが朝日を受けて輝き、右手には淡路の島がすぐ近くに見える。

「あれが泉州堺だ。あそこに上陸するらしいですな」

 善兵衛は、寒さに身を震わせながらも、甲板に腰を下ろして、はるか前方に霞む山並みを指差している。

「お前、震えているのか」

「武者ぶるいですよ」

 忠智の横に座っている理右衛門が、寒さで満足に動かせない顎をがくがくと震わせながら笑った。

 翌二日泉州堺に着いた。やっと上陸したと安堵したものの足が萎えている。忠智はその場で足踏みをして力を取り戻そうとした。

堺は海上から畿内への玄関口である。九州、中国、四国を結ぶ交通の要衝となっていた。 

 京都では執事細川澄元が上意をもって諸国の軍士を召集していた。これに応じて、斯波義兼、畠山義豊細川勝久、細川成春、朝倉貞景、赤松義村富樫政親、一色義春、伊勢貞熈ら十三万余騎が京都に馳けつけて三条の御所を警護した。

 足利義澄は、堺に上陸した大内ら西国勢が京に攻め上るまでに蹴落としてしまえと八万余騎の軍勢を摂州中島に進め、陣を取って待ち構えていた。ところが、寄せてくる大軍勢に肝をつぶしほとんど戦うこともせず敗走した。

三好之長は大内勢の鋭鋒を受けて敗死した。

細川澄元は四国へ落ち延びて斯波、赤松は京都へ逃げた。

 足利義澄は近江岡山城滋賀県蒲生郡)へ退いた。

 忠智らは淀川沿いの橋本で一泊し、翌日、東寺の五重の塔を目印に都へ向かった。

 六月八日(新暦七月五日)、足利義稙が入洛を果した。

 忠智にとっては、はじめての都である。

 貴族、武将の館や寺社が壮大な敷地を占領し、住民は狭くひしめき合っている。館や寺社のあまりにも荘厳な建物に忠智の心は奪われていた。

 小笠原隊も平安城(御所)の警備についた。

 七月一日(新暦七月二十八日)、足利義稙は、従三位に叙任し、権大納言征夷大将軍に復任した。

 八月一日(新暦八月二十七日)には、随伴した諸将の論功行賞を行い細川高国管領に、最大の功労者大内義興には従四位下に叙して管領代に任命した。

 さらに、九月十四日には、従四位上として管領職に任じた。その他、随伴した諸将も褒美を受けた。