福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

君谷合戦

 永正三年(一五〇六)十一月二十三日(新暦十二月七日)病気療養中の小笠原長正(十代)が温湯城において死去した。直ちに嫡男長定が家督を継いだ。

 翌年、喪も明けぬなか佐波勢が小笠原領君谷湊に侵入してきた。

 小笠原長正は、南北朝以来繰り返してきた佐波氏との争いに終止符を打つべく、孫長隆に佐波秀連の娘を娶った。和平への努力も行われていたのである。

 こともあろうに、その長正の死さえも攻撃の機としてしまったのである。それだけ君谷湊は佐波氏にとっても魅力ある湊だったのだ。

 十一代当主小笠原長定としての初めての戦である。

 両軍は、いつものとおり、江川の支流を挟んで対峙した。

 小笠原方井原左京亮信成が両軍の面前に馬を進めた。

 それに応じて、佐波勢の中から一騎の武者が進み出た。

 両軍から一斉に喚声があがった。

 凄絶な一騎討ちが始まった。二合、三合と槍を合わせ、馬腹を擦るが決着がつかない、技量が互角なのだ。

 両軍の兵数千が一気一憂し喚声を挙げている。

 数度の衝突を繰り返し、ついに井原信成が敵を突き落とした。

 小笠原勢が踊りあがって喜んでいる。

 そのとき、井原信成が佐波軍に包み込まれてしまった。

「行け、左京亮を助けろ」

 小笠原勢が突撃した。

 佐波軍が逃げだした。

 しかし、先鋒一番槍をとった井原信成は討死していた。

 いつものことながら小笠原軍は追撃しない。

 目の前の敵は佐波軍なのだが、忠智らは意気が上がらない。小笠原長隆(十二代)の妻は、佐波秀連の娘である。実の親子であっても互いに命のやりとりをするのが戦国乱世の常だが、なんとしても力がでない、太刀先が鈍る。

 佐波勢が押し寄せてくる。

 小笠原勢が迎え討つ。

 両軍が対峙するなか、定法どおり矢戦を展開したあと、一騎討ち、ときには小規模な小競り合いをもって、佐波勢が退いて行く。

 小笠原勢は追撃しない。

 なんとも優雅な戦をくりかえしていた。