福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

九州出征

 明応五年(一四九六)一月、周防、長門豊前筑前の守護大内政弘が死去した虚を突くように、九州肥前少弐政資大内氏の支配する筑前に侵入して大宰府を占拠した。大内氏は、その子義興が後を嗣いだばかりであった。

 同年十二月、父政弘の一周忌を済ませた義興は、少弐政資討伐のため筑前に出陣した。   

 翌明応六年(一四九七)一月、忠智ら石見勢も大内軍に従軍した。

 大内軍は門司、小倉、八幡と破竹の勢いで進軍、直方で待ち構える少弐軍前衛を蹴散らして飯塚にでた。ここから大内軍主力は西寄りに南進、石見勢は遊軍となって西進、博多を経て、やがて本隊と合流、基山、鳥栖を征服しながら進んで行った。

 二日後、大内軍は肥前の小城城を包囲、少弐政資、高経父子を滅亡させた。

 この戦では、御屋形(小笠原長正)が少弐少輔を討ち取って高名をあげた。