福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

四つ地蔵城

 四つ地蔵城では忠智の留守中、重臣・佐々木善右衛門は、紫部新左衛門に逢って、都治方へ寝返った本意を聞きだしてくれていた。
 善右衛門は、平時においては、穏やかな好好爺であるが、戦場においては鬼神の働きをする。
 幾多の戦場において、先頭をきって突き進み武功を重ねてきた。その剛胆さは他の家臣の及ぶところではない。
 新左衛門の無二の友である善右衛門に、残した言葉は厳しいものだった。
「先代(治堅)さまは、部下をわが子のように慈しむ心をお持ちでした。だから合戦のとき、先代さまの下知に従い死ぬ覚悟で突撃していったのです。生まれながらにして城主を約束された殿には、おそれながら先代さまには及ばないことでござりましょう。それに、今の殿は、温湯城ばかり見ておられる、儂らのような地下人には見向きもしてくれなかった」
 新左衛門は、淀みなく言い切ったという。新左衛門の言うことにも理はあった。忠智は十五年にわたり御屋形の家士として温湯城に務めた。その間、四ッ地蔵城へは、ほとんど帰っていなかったのである。
「先代(治堅)さまも、応仁元年に今井城を攻めたとき攻略に失敗したためではありますが、従軍した士への褒賞をされませんでした。たとえ、失敗したといえども、合力した者には褒賞をするということ、古今の通義でありましよう」
「武士がより強い主人を求めるのは裏切りではありません」
 とまで言った。
 この時代(戦国時代初期)の武家社会は、各地に割拠する豪族、地侍らが、それぞれ独立した土地を持っていた。一所懸命ということばが残っているように、彼らは、自分の土地を守り、拡張することに命を賭して戦っていた。主人の命令に絶対服従といった主従関係をつくったのは、織田信長であり、豊臣秀吉徳川家康によって完成されたといわれている。この時代より、六、七十年後のことになる。
 石見の豪族も小笠原、佐波、吉川、高橋、福屋ら諸氏が、それぞれ独立して、時に応じ、そのときどきの連合を組んで戦っていた。
 彼らの意識としては、主従関係ではなく、連合、合力である。
 福冨党においても、主従関係にある家臣は少なく、忠智には郎従の佐々木善兵衛・善右衛門父子と山下理右衛門、僕従の嘉平と佐吉だけが家臣であった。そのころの武将は支配地域の地侍を束ねて軍団を編成していたのである。したがって、地侍らの独立意識も強かった。
 新左衛門の発言には、このような背景があった。
「そこまで、言ったか、儂も、恥を曝したものよの」
「ところが、本音は別にあるようです。応仁元年に京で起きた大乱のとき、出征途上で遭難した都治宗行は百名ほどの将兵を率いていたということですが、都治に帰り着いたのは兵卒が一名だけで他は全員死んだそうにございます。そのため、都治郷には断絶した家も多く、跡目を継いだ兼行は、早急に軍勢を造りあげなければならないのに、肝心の人物がいないという状況らしゅうございます。ですから、雀部らのように、戦場で鬼神の働きをする武士が欲しかったようです。雀部らは、すでに持っていた領地に加え、都治郷の中で同じ広さの土地を合わせて与えるといった破格の条件で迎えられたということにございます。ですから、雀部らの領地は倍になったということです。なにしろ、都治郷には家が途絶えて、空いた土地が多いということですから」
「なるほど、もっともらしい御託をならべたが、所詮は食い扶持の多いほうに鞍替えしたということか」
「もうひとつ、都治兼行が兵を興して、この四ッ地蔵城を攻めると言ったのは、どうも、雀部らの旗幟をはっきりさせるための計略だったらしいという噂があります。都治に付くと言いながらも煮え切らない雀部らを引き込むために兵を興したということのようです。はじめから出陣する意思はなかった。たとへ四ッ地蔵城へ攻め寄せても勝ち目はないとみていたようです」
「だが、松村どのは都治からの破格な好条件による勧誘を一切断ち切って、福冨家に残った。実に、義理堅い武人です」
「大切にしなければならない、御仁だ」
だが、六人もの家臣に陵辱された忠智は、終世拭い去ることのできない懊悩を負うこととなったのである。


 一ヵ月後、福冨党の再編を完了した忠智は、理右衛門を連れて温湯城へ報告とお礼に行った。
 御屋形から給わった所領と家臣を三割も失ったにもかかわらず、なんの叱責も受けなかった。そればかりか慰めと激励の言葉をいただいた。
 さらに、阿波から来た三人の家臣をつけてくれた。
 忠智と理右衛門は、心の底から湧きあがる安堵感をかみ締めながら下城した。

 

 娘が一人、大門の柱に寄りかかるように立っていた。背を向けている。地侍の娘らしく地味な服装で旅の身じたくをしている。
―遠方から来たのかな。
 と思ったが、別に不審なようすはない、黙って通りすぎた。
「父上」
 はっとして、振りかえった忠智が絶句した。
「なんと…・・姫さま」
 理右衛門と嘉平が、あわてて膝を地につけて叩頭した。
 驚愕する忠智と理右衛門を尻目に、
「どお、この姿、似合うでしょ」
 にこにこと破顔する鶴姫の瞳がいたずらっぽい。
「どうなさったのですか、そのいでたちは」
「浅利へ行くのです。おいしい魚を食べに」
「それはもう、いくらでも…・ですが、御屋形さまに、お許しをいただかないと…」
「それには、およびませぬ、わたしから、お許しをいただきました」
 もう、軽やかに飛びはねながら歩き出している。
「父上とお呼びになるのは、ご容赦ください。御屋形さまに叱られます」
「伯父さまは、ご存知ですよ。『七郎左衛門には感謝している』とおっしゃいました。それに、『いつでも、行くがいい』と」
 鶴姫が、言葉の最後の『と』を、ことさら強調した。
「それなら、お乗り物を」
「だめ、のんびりと歩いて旅をする楽しみを教えたのは、父上でしょ。それに、輿は窮屈で身体の節々がいたくなる」
 腰の後ろで両手を組み、胸を張って忠智を見つめている、瞳がきらきらと輝いていた。十三歳とはいえ、まだ、少女の面影を残した小娘だ。
「参りました。それでは、短い旅ですが、楽しく行きましょうか。そうですの、まず、甘南備寺へ行って、姫さまご両親さまの供養と石見・小笠原家先祖さまへの挨拶をして、今宵は、甘南備寺に泊めていただきましょう」
忠智が、馬を轡取りの嘉平に渡して浅利へ先行させた。
「お寺に泊まるのですか」
 鶴姫が、眼を輝かせている。
「阿波からの帰りには、泊まったですな」
「どことなく心が満ちてくる、それが、お寺ですよね。朝、暗いうちから勤行にたたき起こされるのがなければ、なお、いいところです」
 鶴姫が、肩をすぼめた。
「甘南備寺は戒律の厳格な寺で女人禁制でございます。泊めていただくのは、寺の麓にあるそれがしの弟の家になります」
「弟さまですか」
「はい、それがしの弟が海商を営んでおりますので、江川の主要な湊には店や屋敷を持っております。今宵は、そこに泊まり、明日には船で下りましょう」
「うれしい。早く船に乗りたい」
「ひとまず浅利へ、お連れして…・そうですの、温泉津(ゆのつ)温泉へ行きましょう。それには、妻のしのも一緒に行かせていただきます」
「ゆのつ温泉ですか」
「温泉の湧く湊の意味で温泉津と書きます。今から一千年も前に、たぬきが入浴していることから発見したということです」
「狸ですか」
「そう、たぬきです。怪我をした狸が湯治していたということです」
「面白そうですね、ぜひ行ってみたい」
「そうそう、うまく風が合えば船で温泉津まで送ってもらいましょう」
「船」
「瀬戸内を渡ったときのような、あんな小さな船ではありません、あの数倍も大きい船です。明国や朝鮮までも行っている船です」
「楽しみ。父上、はやく行きましょう」
「じゃー、それがしが先行して、お寺にお願いしておきましょう」
 理右衛門と嘉平が、気を利かしたつもりであろう、逃げるように、二人を残して行った。
 紺碧の空にそびえたつ柿の木は、すっかり落葉し、あかく熟した実が大門の横で鈴なりになっていた。