福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

甲山宿

 峠を下り、谷間を抜けると広い盆地にでた、甲山宿だ。鎌倉時代以来の高野山領大田荘である。盆地の中を東西に流れる芦田川を隔てた対岸の山に、大田荘経営の中心寺院として真言宗龍華寺が建立されていた。山には、龍華寺を中心として観音堂、御影堂等が設けられ福智院、安楽院等十二院があるという。さらに、これらの安全を確保するための城砦が要所に配置されていた。

 木々の間に広がる白壁の塀と甍が続いている。思わず鶴姫が歓声をあげたほど、一段とよい眺めだった。

 芦田川沿いに軒を連ねる十軒ほどの宿屋は、福山宿のような客引きの喧騒もなく静かであった。

 忠智らは、街の入り口から宿の中を窺うように歩いた。声をかけられることを期待してのことだったが、玄関は開け放してあるものの人影はみえない、どうしたものかと迷っていると、道に打ち水をしている女がいた。

「泊めてもらってもいいかの」

 客引きがいないのも拍子抜けすると思いながら遠慮がちに聞いた。

「どうぞ」

 愛想のない返事だった、打ち水をする手を止めようともしない。

 玄関を入ると上り框の前に、足の洗い桶が二つ置いてあった。勝手に洗えということだろう、と二人は、框に腰掛けて、わが足を洗い出した。さて足拭きはどこにあるのかと、周辺をみまわしたがなにもない、「さて、困ったぞ」と言おうとしたとき、

「いらっしゃいませ」

奥から女中が足拭きを持ってでてきた。きれいに洗濯された気持ちのいい布巾だった。

「どうぞ、こちらへ」

 女中は、トントントンと軽やかに階段を上っていった。

通されたのは、一番奥の部屋だった。

「相部屋になるかの」

「いえ、泊まりのお客さまは少ないです。お二人だけで遠慮なく使っていただいて結構です」

「それは、ありがたい」

忠智が心づけを女中に握らせた。

「あら、こんなに」

 女中の目が輝いた。右手に握った小銭の感触を楽しむように手のひらを、もぞもぞと動かしていた。

「宿は、がらがらに空いているということか」

「夜には、前の山からたくさんの方が下りてこられます」

 龍華寺の坊さんや僧兵が酒を飲みに来る、と女中が説明した。

「川の向こうは、戒律の厳しい聖域ですから女人禁制ですが、こちら側は下界です。何をするのも自由…」

 その言葉には、女と遊ぶ楽しみがあるということを含んでいるらしいのだが、娘同伴の忠智には、あえて何も言わなかった。『何をするのも自由』と言ったとき、ぞくっとするほど艶めいた視線で忠智を見つめた。が、それは一瞬のことだった。視線を外して、ちらっと鶴姫を見た。

 だから、いちばん奥の静かな部屋に案内したということだろう。そういえば、まだ七つ刻(午後四時)だ。尾道を明の六つ刻(午前六時)に発ったが、行程は八里しかなく、街道は整備されていた。宿では一番乗りだった。健脚な旅人は次の吉舎宿まで足をのばしたのだろう。吉舎宿までは二里ほどだ。

「僧兵といえば、荒っぽくて始末が悪いと聞いている」

「そんなことはありません、静かに話しながら飲んでいらっしゃいます。他のお客さんと諍いなど起こすような方は、居られません」

「それなら安心だ」

 なるほど、この宿場は龍華寺の坊さんや僧兵でもっている。だから、競って客引などする必要が無いのかと納得した、大げさな歓迎表現もいらないはずだ。

「父上、僧兵は、そんなに怖いのでしょうか」

 女中がいなくなるのを待って姫が聞いた。

「武力が怖いというのではない、僧兵といえども坊さんなのだ、仏に仕える身の者を斬るということができないから困るのだ」

「でも、万が一、襲ってきたら」

「そのときは、斬るしかないだろう、おのれの身は地獄に堕ちることを覚悟して…いちばん良いのは逃げる事だな」

「でも、ここの僧兵は、おとなしいと言っていました」

「そう、そう願おう」

 さきほど部屋から出て行った女中がすぐに引き返してきた。

「よろしかったらどうぞ」

 小さなカゴに焼き栗がはいっていた。さきほど渡した心づけに対する返礼のつもりだろう。

「お、栗か、今年の初物だ」

 忠智が愛想よく受け取った。

「おまたせしました、夕餉にしましょうか」

 大皿を両手に一枚ずつ持った女中が、一尺立方ほどもあろうかと思われる石の火鉢を持った男を従えて入ってきた。火鉢には、かんかんに熾きた炭が入っている。

大皿には、ヤマメや手長えびが整然と並べてある。一方の皿には野菜がっていた。

「お、松茸だ」

 忠智と姫が声をあげた。

「この辺りは松茸の産地ですから」

「もう、そんな季節になったということか」

「例年ですとまだ、松茸は出ないのですが、今年は、もう出ているんです。今晩はおもいっきり食べていただきます。焼き松茸、松茸ごはん、松茸の吸物、いろいろでますよ」

「それは楽しみだ」

「お飲み物を、お持ちします」

「酒はあまり強くないので一本でいい」

女中が、火鉢の上に置いた金網に、松茸を並べてから立ち上がった、軽快な足音が階段を下りていった。

 

 日暮れを待っていたかのように、前方の山で松明が動きはじめた。木々の葉に見え隠れしながら、湧くようにでてくる。お坊さんや僧兵が山を下りてくるのだ。鶴姫が、まるで蟻の行列のようだと言った。まったく、そのとおりだった。

「きつねのお嫁入りも、あんなのでしょうね、きっと」

「そうだの」

「お風呂をどうぞ」

 女中が、今は空いてますと言った。

「あの山から下りてくるのは、お坊さんらか」

「そうです、でも、あの方たちは、旅篭の風呂には入りません」

「それは、どうしてかの」

「川向うの山の下に温泉が湧いているのですよ。お寺の敷地内にありますから、お寺の方しか入浴できませんが」

「温泉か、それは、豪勢な」

「こちらの旅篭でも温泉を分けていただいているのですよ。ほら、あそこ、幅の狭い橋が川を渡っているでしょ」

 女中の指差す先の橋からは湯気が盛んに上がっていた。もう、薄暗くてはっきりとは見えないが、木の樋が渡してあるようだった。姫が、出窓から身を乗り出して見ている。

 暮れなずむ空を押しやるように、キラキラと輝く星が一つ浮かんでいた。

ねぐらへ帰るカラスが次々と飛んでいく、いちように同じ方向に向かっていた。

「大きな風呂ですから、いちどに入れますよ」

 女中に追いたてられるように、ふたりは風呂場に向かった。

 雲の隙間を月が走り去った。するどく尖った三日月だった。

 近くの草むらで、「リ、リ、リ」と秋虫が鳴いていた。

 さきほどまでの閑散とした旅篭にも人が増え、活気がでていた。

 

 

 翌朝、ふたりは明けの七ッ半(午前五時)に宿を出た。

 今日は、三次までの十里(四十キロ)を歩く決心をしていた。だが、姫の足具合によっては四里(十六キロ)手前の宿場で泊まることになるのだが、とにかく行けるところまで行こうと思っていた。通常、一日十里というのが、旅人の歩く距離だった。そのため、朝は七つ(四時)発ちがならいとなっている。忠智らが外に出たときには、すでに人影はなかった。

 陽が中天を過ぎたころ、吉舎宿を通過した。三次宿まではあと一息だ。

「お鶴の足も強くなったものだ、歩くのが早くなった」

「そお、父上にも負けませんよ。ほら」

 両手を腰の後ろで組んだ鶴姫が、ことさらに胸を張って忠智の前を歩いた。

 

 峠から、木々の間に見え隠れしていた大河が、急に、目の前に広がった。

 江川(ごうがわ)の支流・馬洗川である、三次まではあと残りわずかだ。

「やっと帰ってきた」

 独り言を呟く忠智の横で、鶴姫が立ち止まった。

「川……・」

 鶴姫が佇んでいる。涙が赤く日に焼けた頬を伝わっていた。

 阿波の両親を思い出したのであろう、急に湧き立った寂寥感にさいなまれている姿である。

 忠智は、かける言葉を持っていなかった。忠智の胸が絞めつけられる。

 バシャバシャと派手な音をたてて、忠智が川に入った。水は、膝ほどまでしかない。

 真夏を思いださせるような暑い太陽に熱せられ、疲れきっていた身体が冷たい水を得て生き返るようだ。

 川一面に転がっている一尺ほどの丸い石のひとつに、近づいて両手を水の中に入れた。

「ほれ」

 忠智が、岸辺に立っている姫の足元に放り投げた。一匹のあゆが跳ねていた。

「あゆ」

 鶴姫が、すっとんきょうな声をあげた。

「お鶴、ここら辺りでは、こうしてあゆを捕るのだ。普段は、夜の漁だが、昼でもとれるぞ、お鶴もやってみなさい」

 忠智の声が終るまでに、鶴姫が水のなかに入っていた。足袋と草鞋を履いたままである。足袋は、冬の防寒用であるが、生まれながらにして姫さまとして育った鶴姫は、草鞋をはいたことなど一度もない。城を脱出するとき、やえが足の保護用にと、足袋を履かせていた。川之江の京都屋では予備の新しい足袋を持たせてくれた。おかげで、足にマメをつくることもなく、長距離を歩くことができたのだった。

「気持ちいい」

 鶴姫が水の中を走っている。

 忠智のやりかたを見て、石の下に手を侵入させた。

「お、手に、ぬるっとしたものが当った」

 鶴姫が元気な声をだした。

「ほれ」

 忠智の口真似をして、あゆを岸に放り投げた。

「お、うまいうまい。その調子だ」

 鶴姫の着物は、膝から下が水に浸かっている。

 そんなことは無頓着に、はしゃいでいる鶴姫を見て、忠智も苦渋から解放される思いだった。

 河原で火をたいて、串刺しのあゆを遠火で焼く。こってりと振りかけた塩が徐々に白く浮かび上がってきた。

「父上、塩は、いつも持ち歩いているのですか」

 煙から逃れようと顔を横にそむけ、目を手でこすっている。それでも煙は容赦無く姫の顔を襲った。我慢しきれなくなった姫が、跳ねるように立ち上がって風上に逃れた。

「人間は、塩がなくては生きることができないのです、だから、戦で遠征するときは必ず塩を持って行きます。塩は、それがしの城のある浅利の浜でも造っています。海水を煮詰めて水分を飛ばしてできた塩を、さらに素焼きの壷に入れて蒸し焼きにした塩・焼き塩を造ります。こうすれば吸湿性の少ない焼き塩になります。城にも、塩倉を造って保存しています。塩があれば、木の根でも野草でも食うことができる、だから、大切なものです塩は」

「ふーん」

 納得した姫が「あちち…」と声をあげながら、焼けた鮎にかぶりついた。

 焚き火で熱せられた灰のなかに放り込んでいた栗が「プシュッ」という音をあげて跳びはねた。さきほどの峠道に落ちていたものを拾っていたのだ。表皮の裂け目から剥いて、黄色くなった実を口に入れた。なんとも甘い栗だった。

「この川は、江川(ごうのがわ)という中国地方で一番大きな川と合流します。江川のことを他国の人は「石見川」と呼んでいるようです。温湯城へは、江川を船で下るのが楽で早いのですが、途中、佐波(さわ)氏の領内を通らねばなりません、小笠原さまと佐波氏とは、これまで幾度も領境争いを繰り返しています。危険を避けるためにも、儂らは、佐波領内を避けて下口羽の湊で降ります、舟で半日ほどです。今宵は、ここ三次に宿泊しましょう」

「佐波氏とは、そんなに争っているのですか」

「執念深くやって来ます。ちょっかいをかけて来るのは、いつも佐波勢で、追い返すのが小笠原勢です」

「そんなに強いのですか小笠原の軍勢は」

「周辺では、小笠原軍団に敵う者はいますまい。佐波勢なんか余裕をもって追い返します。さあ、行きましょう」

 焚き火に両手ですくった水をかけた。ジュンと派手な音をたて灰が舞いあがった。

「父上、父上は、どうしてそんなに強いのですか、対手(あいて)が何人いても決して負けない剣術はどうして覚えたのですか」

前方を歩いていた鶴姫が、くるっと振り向いて忠智を見つめた。

「小笠原家には、逃げの剣法もあります」

「逃げる」

「そう、逃げるための剣術です。儂が御屋形さまの馬廻組にいたとき修練しました。もっとも、馬廻組だけに義務づけられたものです。戦は時の運といいます。万が一、小笠原軍が敵地で敗退・四散したとき、敵は、大将首を狙って追撃してきます。敵兵ばかりではない、野盗や民百姓まで群がってくる。やつらから、御屋形さまの御身を護り貫かねばなりません。無事、温湯城へお連れしなければなりません。そのための訓練です。訓練では、儂ひとりが逃げ、追っ手は十名以上で追いかけてくる。十日間、逃げおおせば当方の勝。追い詰められて斬られれば、それで訓練も終わりです。もちろん木刀です。山の中を逃げ廻って対手に襲われれば撃退する。食事も摂らなければならないし、睡眠も必要です。敵は、そんな隙を狙って襲ってくる。あれは、きついものです。もちろん、訓練ですから追っ手も小笠原家中から編成します。でも、手練者を集めます。今まで、逃げおおせたのは、儂一人だということです。

 蛇を焼いて食べ、まむしの生き血を吸い、木の実を食べて逃げ廻ります。岩陰でまどろみ、木こり小屋で瞬時の睡眠をとる。それが、修練です。負ければ、馬廻組からも外される。これほどの屈辱はありません。だから、追う者、追われる者、皆が必死です。儂は、逃げおおせた。その間、何回攻撃を受けたのか記憶にありません。最後は、気力の勝負です」

「追っ手は何人ですか」

「それは、知らされません。敵は次から次へと新手を投入してくる。いったい、何人いるのだ。と、叫びたくなる」

「逃げの剣法ですか。だから、父上が強いのだ」

「攻撃するほうが守りより、強いということは明らかなことです。でも、逃げの剣法も必要です」

 鶴姫は、数日前、岩陰で夜営したとき、手際よく食べ物をつくり、寝床を設えてくれた忠智を思い出していた。

「雲霧城を脱出したとき、父上は石見から来たばかりで地理に詳しくないはずなのに、迷うことなく川之江城下に行き着いた。あれは、どうしてですか」

「お鶴は、あまり遠出をすることもなかったが、男は、戦となれば、どんなに遠くても、いかなければならない。こんなとき、一番、気にするのが、今、自分がどこにいるのか、温湯城は、どの方角にあたるのかということだ。方角は、太陽の動きにより定める。夜は、柄杓の形をした星(小熊座)を見ればいい。満点の正座すべてが柄杓星の柄の先端にある星(北極星)を中心として一年に一回転する。今の時期は秋だから、柄杓は西に向いている。春は東、夏は南、冬は北を示す、だから、星を見れば方角がわかる」

「それで、迷わず目的地に着けるのですか殿方は」

 

 その夜、二人は旅人宿に泊まった。ここは『木賃宿』とは違う。すこしばかり上等だ。食事がついて女中が酌もしてくれる。

「姫は、こういうところに泊まることは、もう二度とないでしょう、最後の夜を楽しみましょう」

 鶴姫の耳元でささやいた。

 鶴姫が口を閉じたまま、「うんうん」とうなずいた、いたずらっぽい眼をしていた。えくぼが大きくなった。

 宿の裏は江川だった。出窓の下は、水が深くよどんでいる。

 部屋の出窓から釣り糸を垂らしている客があった。なにが釣れるのかと見ていると、しばらくして釣れた魚は、二寸ほどのゴリ(鯊)だった。

「あれなら、せいぜい猫の餌だ」

 鶴姫が窓際を離れた。大きな鮒でも釣れたなら、自分も釣りたいと言いかねない目つきだった。

 清らかな流れの音が静かな室内をおおっていた。

「どうなさいますか」

 食事を運んできた女中が言った。夜になると、宿の前から観光の屋形船がでるらしかった。

「それで、宿が満員だったのか」

「鮎の夜漁は、めずらしいのですよ。近郷のお客さまも、それが目当てで来られるのです。出雲や大田からもいらっしゃいます」

 その、ほとんどが商人や裕福な百姓だという。

 主持ちの武士には、戦以外で他国へ行くことなどは許されてない。羨ましいかぎりだ。

「でも、もう夏もすぎて水温も下がってきましたので、そろそろ終りでしょう」

「乗りましょ、父上」

「よし、儂らも頼むことにしょう」

 姫に、少しでも庶民の暮らしを体験させてやりたかった。

 鶴姫が、あわてて食事を済まそうとした。

「お嬢さま、そんなにあわてなくても、漁は、日が暮れてからですよ」

 女中が、笑いながら忠智にごはんのお代わりをすすめた。

 辺りが暗くなるのを待って、宿をでると夜空に満点の星が煌いていた。酒の臭いを発散させた男が数人で声高に話しながら舟着場に歩いている。

 道の端に咲く月見草が、夜目にもくっきりと黄色く映えていた。

 三艘の屋形船が待っていた。舟の舳先には、勢いよく燃えている篝火が吊られ、こぼれおちる火の粉が把になって水面に落ちている。

 滝のように流れ落ちる火の粉と煙が、船内の客にかからないよう、船頭が巧みな操船で舳先を風下に向けている。

 夜の冷気を含んだ川風が、ハタハタと耳朶を叩いて通りすぎていく。

 川岸にも、煌々と燃える篝火が並べられ、辺りを昼のように照らし出している。

「きれい」

 鶴姫の気持ちも最高潮となっていた。

 

 下帯ひとつの若者十人ばかりが、交代で水に潜っていた。しばらく水のなかに消えていた若者が水面上に顔をだしたところを、数人の男が松明をかざした。若者は、両手に鮎を一匹ずつ持って、口にも一匹の鮎をくわえていた。

 松明に照らし出された若者の顔を、鮎の尾がぴしぴしとたたいていた。

 屋形船の客から拍手と歓声があがった。したたか、酒に酔った歓声だった。

 捕った鮎は、屋形船に投げ入れられた。船頭が、それらを手際よく調理して客に配った。

 鶴姫も、受けとって食べていた。

 瞳が輝いている。

 水面に姿をうつしている篝火や松明の灯りが川面を走り、幻想的な世界をかもしだしていた。

 忠智も、はなやいだ気持ちに誘われるままに、盃をかさねた。

 夜空に星は見えなかった。

 川岸では、天をも突くばかりの焚き火に、水からあがったばかりの男が暖を取っている。

 もはや水は冷たいのだろう。

「もうすぐ、この漁も終ります」と言った女中の言葉を思い出した。

 

 宿に戻ると、すでに布団が敷いてあった。洗濯がゆきとどいて清潔だ。木賃宿では他人の汗臭さが沁み込んでいる布団に閉口した。

 開け放された窓から川風が流れ込み、蚊帳の裾を揺らしている。室内によどんでいた熱気は退散していた。今夜は気持ち良く寝れそうだ。

 夢うつつのなかで、かすかな吐息が聞こえてきた、妖しい声だ。

 ふすまひとつ隔てた隣の部屋から、もつれあう男女のあえぎ声が密かに聞こえてくる。

―困った、姫に聞こえたら困る。

 鶴姫には、まだ知られたくないことだと思うものの、なんともしようがない、ただ、じっと寝たふりをして、静かになるのを待つしかなかった。

 幸いにも、姫の寝息に乱れはなかった。

 夜半すぎであったろうか、軒を叩く雨音に、目が覚めた。

―雨か、止むまでは動けんな、姫を雨に濡らすほど急ぐこともあるまい

この宿に逗留しようと覚悟を決めた。

 

 翌朝、宿を出るとすっかり日が昇っていた。昨夜の雨は通り雨だったようだ。雨が暑気を追い払ったのか秋風が立っていた。

山や谷から湧き上がる霧が江川の霧と合体し、狭い盆地を覆いつくしていた。

 

 他の客は、暗いうちに出発していた。二人は朝のあわただしさから開放され、静かさを取り戻した街道にでた。軒を連ねる街道は、気が抜けたように閑散としていた。

 船着場には、底の浅い川舟が何艘も舫ってあった。二人の男が叺(かます)を肩に担いで積み込んでいる。

 二人は舟で江川を下った。一艘の舟に二人の船頭が乗り、みごとな操船で急流を下って行った。

 船頭のひとりが船尾で舵をとり、ひとりは舳先(へさき)に立って、長い竹ざおを巧みにあやつった。激流のなかに飛び出る岩場をすれすれの所ですり抜けて行く。

「ひゃー」

 掌を握り締めて発する鶴姫の楽しそうな悲鳴に気をよくしたのか、

「舟なら日本海まで二日で出ることができますだ、ただし、帰りは五日かかります」

 船頭が竹竿を岩に当て舟を離しながら、大きな声で説明していた。

 ガクンと舳先が下がって激流に突入した。

「ひゃー」

 ひとりはしゃぐ鶴姫に、船頭も苦笑している。激流で下手をすれば岩に激突してしまう、これまでも何人もの人が命を落としているのだ。積荷を流してしまえば莫大な損害を蒙ってしまう。船頭にとって激流は、楽しむ場所ではないのだ。とはいえ、急流を巧みに操船して乗り切る爽快感は、船頭だれしも持っていた。声をだしてはしゃぐ娘を見る船頭の心も明るくなる。