福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

尾道宿

 その日は、尾道宿に泊まることとした。

 陽も陰り、往来する旅人も、それぞれが宿を物色している。

 軒を連ねる宿屋の女が、声を張り上げ客引きしていた。競争で客を引き込んでいる、まるで喧嘩だ。

「ご浪人さま、どうぞお泊まりになってください」

 女が忠智の袖を引いた。

「浪人か…」

 忠智がおのれの姿をみた。どう贔屓(ひいき)めに見ても浪人者という風体だった。京都屋が仕立ててくれた着物に栽着袴を穿いて菅笠を被っているが、やはり浪人にしか見えないのだろう。それに、供もなく娘を連れて旅することなど、主持ちの身ではありえないことなのだ。

 せめて武士としての矜持(きょうじ)だけは失うまいと思った。

「ここにするか」

 忠智が振り返った目の前で、きょとんと喧騒をみていた鶴姫が客引き女に連れ込まれた。忠智とは別の宿だった。街道に面した『きちん宿』だ。有無を言わさないあざやかさだった。

「しかたないか」

 忠智が、苦笑を残して姫に続いた。娘を引っ張り込まれたら親は否応無しについてくる、さすが手馴れた客引きだ。

 多くの客でごったがえしていたにもかかわらず、忠智らには、個室をあてがってくれた。

 天井の低い小さな室だった。個室がなく、大きな部屋で雑魚寝をするのがきちん宿だった。小さくとも個室をくれたことに忠智は感謝した。鼾や寝息の重なる大部屋では、姫も寝付くことができないだろう。

「なぜ、個室をくれたのでしょうか」

「それは、これでしょう」

 忠智が二人の着物を指差した。

「京都屋が着せてくれた二人の着物は、上等の誂え物だ。庶民が着る古着とは違う。われわれが銭をたくさん持っていると見たのであろうよ」

「そんなところまで見ているのですか」

「女中にとっては、重大なことだ。なにしろ、おのれの懐に入る心づけをたくさんくれる客をつかめば、それだけ身入りがいいということだ。だから、たっぷり握らせた。なんでも銭しだいということだ」

「いつ、渡したのですか」

「家に入った直後だ。誰にも気づかれぬよう、さりげなく渡すのがこつだ。渡す時宜を誤っては逆効果になる。宿の主人に見つかれば取り上げられて女の懐には残らない、そんな野暮なことをするなら渡さないほうがましだ」

 忠智がいたずらっぽく笑った。

 かなり年代の経った建物らしく、梁や柱が黒く煤けていた。

 わずかにそよいでいた風が、ぴたりと止んでいた。

 昼の海風から夜の陸風に代わる狭間だ。むっとする暑い空気が室内によどんでいた。

「驚いた。嫌応なしに連れ込まれた」

 鶴姫は、かなり驚いたようだ。

 鶴姫が出窓に腰掛けて下の街道を見つめている。鶴姫の白い顔が夕日を受けて紅く浮かんだ。

 次ぎ次ぎに入って来る客を案内する女の声が、宿のあちこちでこだましていた。

「さあ、ここは、自炊しなければなりませんよ」

「え、食事はついてないのですか」

「そう、泊まり賃は安いが、部屋は何組もの相部屋、賄いなし、それが『木賃宿』なのです」

 きょとんと突っ立っている鶴姫を連れて、忠智は、宿に備えつきの鍋を借りうけ、野菜と魚のすり身を少々、それに蕎麦粉を買ってきた。

 野菜を、手際良く切り、蕎麦粉のだんごを作って鍋にいれた。

 なにもすることがなく、棒のように突っ立っている鶴姫を、となりの女がいぶかしげに振り返った。鶴姫が女をまねて、竃の火を団扇(うちわ)であおいだ。パーッと灰が飛び散った。

「だめだ、だめだ、お鶴、団扇は優しく振らないと、火も消えてしまう」

忠智が団扇を取り上げて、小さく小刻みに扇(あお)いだ。

「さあ、出来あがったぞ」

 二人が鍋をかかえて部屋にむかった。

「驚いた、でも楽しい。さっきの人、私を見てポカーンと口を開けてた」

 ケラケラと思い出し笑いをした。鶴姫の驚きは消えそうにもない。

 すっかり気に入ったようである。好奇心旺盛な鶴姫にとっては、このうえなく楽しいようだ。

 外は、すっかり暗くなっていた。

 夜空をびっしり覆っている薄雲の奥から、月が輝きを失いながらも輪郭をくっきりと現わした。

 宿の灯が街道を照らし、客引きはあいかわらず続いている。

「さすがは、山陽道ですね、人の往来が多い」

 鶴姫は、あきることなく窓際にすわって外をみつめていた。

 戌の刻(午後八時)をすぎると、宿から人の声が消えた。皆が就寝したようである。

 二人も、部屋の隅に積み重ねてあった夜具を敷き伸べて、それぞれの布団に横たわった。

 二組を並べて敷くと、部屋いっぱいになった。

 姫にとっては、息苦しいほどに狭いはずなのだが、そんなことは、すこしも気にしていないようであった。

「なんや、まだ舟の上にいるみたい、身体がゆらゆらするよう」

 独り言のようにつぶやいた鶴姫のことばも、睡魔に消されたらしく寝息にかわっていた。

 忠智も、静寂のなかで深い眠りについた。

 

 翌日、二人は、尾道から三次への街道に入った。この道は、後に、石見銀山の銀を江戸へ運ぶ『銀山街道』となった道である。道は整備され、人の往来も多かった。ここからは、旅程三日で温湯城に着く。

「さあ、これからは山越えの道ばかりですぞ、石表(石見)へ出るには、幾重も続く厄介な山を越えなければなりません」

 忠智の指差す前方には、薄墨を流したように高い山なみが連なっている。山の背後にもくもくと湧き立つ入道雲が天を圧していた。はるかな山々を越えたむこうに石州がある。

「阿波の山に比べて、あまり高い山はありませんね」

「そう、阿波…・」

 忠智の足が止まった。

 前方の山を見つめている。

 山脈の前面に横たわる低い山の後方から、おびただしい煙が上がっていた。

「火事」

 鶴姫が心配そうにつぶやいた。二人が進む街道は、あの煙の方角へ回っている。

 鳶が、煙の上空で遊弋している。

「いや、山火事ならもっと黒い煙です。あれは、炊煙でしょう。軍勢が炊事をしている、しかも大軍勢だ」

「この街道は、あそこを通っているのでしょうか」

「そのようです」

「大丈夫でしょうか」

「あそこで、戦いが始まらないかぎり、街道を通過することに支障はないと思います…が…合戦に遭遇してしまったらやっかいなことになります」

「戦に巻き込まれたら大変ですね」

「戦は対手がはっきりしているから、街道 を通過する者には、目もくれないでありましょう。とにかく早く通過してしまうことです。炊事をしている今なら通ることもできるでしょう」

 二人は前へ進んだ。

 一町ほど前方で、大きな荷物を背負った商人らしい男が、思案顔で立ち止まっていた。

 街道脇の田んぼで草取りをしていた百姓も、腰をのばして山をみつめている。

「火事でしょうか」

 忠智らが近づくのを待って、商人が不安そうに煙を指差した。

「いや、軍勢が炊事をしているのでしょう」

「どうなさいますか」

 忠智にすがるような目つきで近寄ってきた。

「戦端を開く前に通過してしまえば大丈夫だろう。今なら行けそうだ」

「お武家さまは行かれますか」

 商人は、二人と一緒になって行きたいようだ。しきりに話し掛けてくる。

「一緒に来てもよいぞ、ああいうところは集って通過するに限る」

「ありがとうございます、助かります。急ぎ旅なもんですから…助かります」

 商人がぺこぺこと頭を下げながら、二人のすぐ後を歩き出した。

「戦ですか…・大変なことで…・」

 忠智らと会話をすることで不安を紛らわそうとしているのか、いろいろと話し掛けてくるが、忠智らは押しだまって歩いている。商人もだまって歩き出した。三人が一組だと思わせたいのであろう忠智にぴたりと寄り添っている。

 道をつけるために切り崩した山際を廻ると狭隘な谷間にでた。一面に芒の穂が咲き乱れている。

 数十人の歩卒が、あちらこちらに分散して焚き火をしていた。暖をとるためではない、煙をだす目的のようだ。よもぎをくべて真っ黒な煙をだしている。

「何をしているのでしょうか」

 姫が小さな声で忠智に聞いた。

「あれは、敵に、『こちらの軍勢は多勢だぞ』と見せかけているのだ。敵からは煙しか見えないのを利とした作戦だ」

「ということは、敵も近くにいると言うことでしょうか」

「そのようだ」

 炊煙の上がっている谷間に入った。

 谷の中央を流れる川に沿って、軍勢が炊事をしている。

 高台にいくつもの帷幕をめぐらせ、目算では数え切れないほどの幟が立ち並んでいる。色とりどりの旗が風になびいていた。忠智も見たことのない家紋が多い。そのなかでも一番の高地にある帷幕は、いっそう警戒がものものしくなっている、本陣のようだが見たことのない家紋だ。

 街道を通過する忠智を見ても、別に気に止めるでもなく、眼中にないような素振りでいる。

兵たちの目は鶴姫に釘付けとなっている。

緊張して強張った顔を隠すようにうつむき、忠智の手をしっかりと握っている鶴姫の手が、かすかに震えていた。

「戦は、これからのようだ」

 忠智が、小声で二人に話しかけた。

「どうして、分るのですか」

 鶴姫は、うつむいたまま両手で、しっかりと忠智の左手を握っている。姫の手は、緊張からじっとりと濡れていた。武家では、たとえ女性であっても、どのような危機に襲われようとも、心のみだれを面に表さないよう訓練されているものである。十三歳の娘では、いまだ心構えが完成されていないのであろう。

「兵らが元気で意気揚々としている。戦に向かう顔だ。それに、甲冑も装備も汚れていない」

一千名ほどの軍隊だ。これだけの兵を動員しての戦が、いったいどこで起ころうとしているのか、聞いてみたいところだ。

 十人ほどの手勢を率いた騎馬武者が忠智らを追い越した。

― 儂らの行く方角と同じでなければよいが…。

 しかし、忠智の気がかりは的中した。

「まずい、儂らの行く手に戦場がある」

「どうなさいますか」

 商人が、とまどいの目を忠智に向けた。 

「行くしかあるまい」

 もはや、引き返すつもりなど毛頭消え失せていた。

― どんな戦いをするのか。

 合戦を見とどけたい気持ちもある。

 武将としての血がたぎってきた。鶴姫がいなければそうしたであろう。

 だが、今は鶴姫の安全を守ることが先決だった。

― せめて、陣取りだけでも見たい。

 三人は前進した。

 行き来する兵士や避難する住民で街道が混みはじめた。

 道端で待機する将兵が増えてきた。

 忠智らは、兵士や住民らを避けるように歩いた。

―どこが戦場か。

 はずむ心を抑え、ゆっくりと歩む忠智の右手前方に山城が見えてきた。街道からは、五町(約五百メートル)ほど奥まっていた。山上に幟が林立している。しかし、それは攻城軍と比べてあまりにも少なかった。

 籠城しているようすだ。あの城を攻撃するらしい。

 すでに包囲は完了していた。二千名以上の軍勢で数百しかいないであろうと思われる小城を潰そうとしている。

 しかし、攻め手には、戦を前にした緊迫感がない。

 忠智の脳裏を、阿波の小笠原長重の顔がよぎった。戦国の世とはいえ残酷だ。

 心のなかを冷たい風が吹き抜けた。

「まて」

 突然、大声で止められた。いっときも早く戦場を離れようとする民百姓とは違う忠智の目つきに、不審をいだいた兵が呼びとめたのだった。ギクッと崩れる膝をあわててつくろいながら、商人が忠智の背にかくれた。

 忠智が左手につないだ姫の手を、さりげなく解きながら兵に相対した。

「その目つき尋常でない。胡乱なやつだ。敵の物見であろう」

「いや、ただの通りすがりのものだ、主命により旅をしている」

「主命に女を連れての旅などあるはずがない、いよいよもって怪しいやつだ」

 兵が刀を抜いて攻撃の態勢に入った。軍神の血祭りにあげよと言わんばかりに逸り立っている。

「またれよ、ただの通りすがりのものだ」

 困ったことになった。ばらばらと周辺にたむろしていた兵が集まってきた。

 仕方ない、ここはどうしても切りぬけなければならない。突然、横にいた兵が槍を突き出した。瞬時に、刀を抜いて槍を払った。臍を固めた忠智が、刀を青眼に構えた。

「待て!」

 騎乗の武士が走り寄って来た。

「旅の者でござる、物見と勘違いされて難渋している。」

 忠智の声が響いた。

「待て、刀を引け」

 騎乗の武士が、馬の鞭で兵を叩いて退りぞかせた。

「戦場ゆえ、馬上からの失礼を許していただきたい」

 意外と落ちついた声音であった。馬上の武士は居丈高であるが、一応丁寧に言った。

「お気遣いなく」

 忠智も柔婉であったが、寸毫のスキもみせなかった。

「何処へ行かれるのか」

 馬上の武士は、動こうとする馬を制しているが、戦を感知した馬は興奮して、意のままにならない。右に向いたり、後ろ向きになったりしながら顔だけを忠智に向けてきた。

「石州住人・福冨七郎左衛門でござる。主命により阿波の国から帰るところでござる」

「それは、遠いところをご苦労に存じます、ご主君とは、どなた様でございましょうか」

石見国の小笠原下総守源長正さまでございます」

「これは、失礼しました」

 武士が丁寧に頭を下げた。

「ばかもん、おまえらには判らぬか、この御人の刀を見よ、血のりが巻いている。

どういう事情かは判らぬが、今まで幾度もの修羅場を潜りながら旅して来られた証しだ。物見であろうはずがない」

 忠智は、あえて何も言わなかった。無言のまま静かに刀を納めた。

「失礼つかまつった。ここは、まもなく戦も始まるゆえ早々に立退かれたがよい」

「承知した。ご武運を祈念します」

「ありがとう存じます。平穏な旅を祈念します」

 馬にせかされるように武士が馬腹をけって走り去った。歩卒があわてて馬を追っていった。

 もうもうと立つ土ぼこりが、風のない谷間にゆっくりと広がった。

 戦を見たいという気は、すでに失せていた。

 三人は、足を速めた。

 いつのまにか、商人が先頭にたっていた。

「なぜ、わたしらを尋問したのでしょうか」

 緊張から解かれた鶴姫の顔に、わずかながら紅色がさしていた。

「戦ともなると、両軍とも合戦の何日も、いや何ヵ月も前から密偵を放して、対手の様子を探るものだ。さらに、攻守に関係なく勝敗を確かめる密偵も大勢出没する。それらは、いろいろな姿をしている。山伏、百姓、商人、旅の武辺者とあらゆる姿に変えているものだ、儂らも、密偵と見られたのであろう」

「商人」という言葉に、男が、ぎくりとして立ち止まった。

「戦も、この段階になれば、密偵のほとんどは足軽に紛れこんでいるであろうがの。そちも、もう少し儂らと一緒に行ったほうがよさそうだな。一人で歩いていると密偵と間違われるぞ」

「へえ、ありがとうございます」

 商人が、忠智らの後ろにまわった。

 

尾道から甲山宿への道は、山塊にそって曲がりながら北上していた。周辺の山は低く、道の高低もさほどない平坦な街道が続いている。とはいえ、道端の田んぼはびっくりするほど狭い。石で段丘を築きながら、ひな壇のように山裾を上がっていた。

わずかでも平地のとれる場所は田んぼになっている。

稲穂は黄金の輝きを生じつつあった。あぜ道を覆う彼岸花が真っ赤な帯となって横に延びている。

いまだ完熟とはいかず、青緑の残った田んぼで、すでに刈り入れを始めている百姓がいた。

 近くの畑では、除草した青草を、燻(くゆ)らす煙が一条の帯となって、狭い谷あいを流れている。長閑な秋の風景であった。わずか、一里ほどしか離れてない峠のかなたでは、数千人におよぶ軍勢が戦い、命のやり取りを行なっているというのに、こちらでは、平常どおり稲刈りをしている。したたかな、百姓の姿だ。

 

 同じ形が一つとしてない棚田は、峠に近づくほど小さくなり、やがては、蕎麦畑に変わっていた。赤い茎の先に美しく咲きそろった白い蕎麦の花が、今年の豊作を誇示しているようで、気も和んでくる。

樹齢、数百年も経っているような大木が生い茂る杉林に入ると、道は、いちだんと急坂になった。すぐ横の谷川で、チョロチョロと清らかな水音が聞こえている。

秋の日差しは樹林に遮られて、二人の体まで届くことはなかったが、風が通らないので暑かった。

道のいたるところを沢ガニが歩いていた。甲羅が赤く、いかにも旨そうな姿をしているが、これを食べると得体の知れない病気になってしまう。

 歩けば踏み潰してしまいそうだが、カニはみごとなほどにすばやく人間の足を避けていた。

「あら、いちご」

道端に野いちごの実が群生していた。粒は小さいが赤く熟れた実は、緑の少ない杉林の根元にあって、旬のものより美しかった。

二人は蔓を折り取って赤い実を口に入れた。ほのかに甘い汁が、ねばついた口中に広がった。

街道脇に露出した岩の割れ目に突き刺した竹筒から、清らかな山水が流れ落ちている。

旅人の喉を潤すために、誰かが仕掛けた配慮だった。

「冷たくて気持ちいい」

 鶴姫が、途切れなく流れ落ちる水を遮断するように、顔を突き出して大きな口を開けた。水は鶴姫の顔で跳ねていた。

鬱蒼とした木立の中を、ひたすら歩いていた三人の目前が突然に開けた。

 峠に出たようだ。「フーフー」と荒い息をしながら忠智の後を歩いていた姫が小走りになって先行した。とっとっと歩いて茶店の前に置かれた縁台に腰をすとんと下した。

「はやくはやく、父上、だんごよ」

 軒先にぶら下がる看板を指差した。

『だんご、あまざけ』と書かれた木の板が風に揺れていた。その下の竃(かまど)に載った蒸(せい)篭(ろ)からもうもうと湯気が立ち上っていた。

 忠智も茶店を背にして縁台へ座った。谷から吹き上げてくる涼風が、ふたりの汗を乾かしてくれる。

「それでは、私は急いでおりますので先行させていただきます」

 商人が慇懃になんども礼を言って茶店を通過した。

 茶店横の岩肌に突き刺した竹筒から、清らかな水が流れ落ちていた。忠智が顔を洗っているのを見つけた鶴姫も寄ってきて手を洗った。

「お疲れさまです」

 見るからに優しそうな好好爺が湯のみに淹(い)れた白湯を持ってきた。

「ダンゴと甘酒をください」

 鶴姫が注文をしてから「ね、いいですね父上。」と、忠智を覗きこんだ。

「儂もだ」

「父上も、ダンゴと甘酒ですか」

「そんな大仰な声をだすものではない、疲れを取るには甘いものが一番だ」

「ダンゴは、キビダンゴです」

「あー、それでよい」

 茶店の前には、えぐれるように落ち込んだ深い谷があり、その先は、紫に霞んだ山が遠くつづいている。木々の幹や枝を潜りぬけていく風がゴーと音を残していく。

「良い景色だ」

「へえ、ここからの眺めは、一年に二度とは同じ景色がございません。特に、夕陽は向こうの山並みが黄金の輝きとなり、次第に赤く染まっていく、それはきれいです」

「そうだの、一度見たいものだが、それでは、この山を下るまでに日が暮れてしまう」

「それにしても…美味い」

 鶴姫が、ダンゴを口の中でもぐもぐさせている。

「体を動かした者だけが味わうことのできる美味さであろうの、旅の楽しみだ」

「石見の国へ抜けるには、大きな山をいくつも越えなければならないと覚悟をしていたのに、この街道は、高い山がない、これなら楽ですね」

「確かに楽だ、せいぜい二十間(六十メートル)ほどしかない山ばかりだ、しかも、街道は高低差の少ない、谷間を縫うようにつながっている、阿波の山に比べたら雲泥の差というべきかの。特に、阿波・雲霧城の背後にそそり立つ山は懸崖だ。だがの、石見も三次から江川を越えれば一気に山も街道も険しくなる。特に、温湯城の後方は山も谷も深い」

 ふと、左手の方角に目を移すと、白く輝く芒の原を先ほどの商人が歩いていた。

身丈を超す萱に見え隠れしながら小さくなっていく。

「もう、あんな所まで行っている」

「ほんと、ずいぶん早い、よほど急いでいたのですね、父上」

「そうだの、商品には納期があるからの」

いったい、どこまで行くのだろうか。

「草鞋は大丈夫ですか、この先の下りは谷川のようになって水びたしです」

 親爺に言われて二人は足元を見た。

「大丈夫だとはおもうが、予備をもらっておくか」

 軒下にぶら下がっている草鞋二足を買って腰に括った。

「こんな峠でも、最近、山賊が出たといいます」

 茶店の親爺が声を細めた。

「山賊か」

― さきほどの商人はだいじょうぶか。

 ふと不安が脳裏をよぎった。だが、かの商人には、馴染めない気持を持っていた。

商人は、上目づかいに忠智を覗う仕草をすることがあった。視線に気づいて振りかえるとあわてて目をそらした。ただ、どことなく気安くなれないといった程度のものだったが、さきほど、先行すると言ったとき、「ホッ」とした気持が湧いていた。彼に危険が迫る虞があると知っても、直ちに出発して彼の安全を見届けようとする気が起きなかった。

―彼は旅なれた男だ。

 嫌な予感を振り払った。

「夜しか出ないと言ってますけど…・」

「人数は多いのか」

「五人ほどらしゅうございます」

「夜盗にでられては、かなわんの、お鶴、出立しようか」

「ご心配なく、お武家さまが襲われたということはございませんので」

 親爺が、そそくさと出立した二人の背から声をかけた。