福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

京都屋(みやこや)

 昼すぎに、二人は川之江城下へ出た。

 海岸近くの小高い山に城があった。南北朝期の建武四年(一三三七)に河野道政がその武将土肥義昌に命じて築いた仏殿城だ。永延元年(九八七)に諸国行脚の僧恵心が建立した「鷲尾山恵心院仏報寺」を取り入れて建てたものである。

 川之江は古くから海陸交通の要衝であったことから仏殿城をめぐって河野氏と細川氏による侵略・支配が幾度となく繰り返されてきた。

 今は、細川氏の持城となっている。

 川之江を東西に流れる金生川に架かる木橋を渡ると、もうそこは、武家屋敷が建ち並ぶ城下町だった。人々の往来が急に増えていた。

 川の近くに寺があった。一軒の寺に入り事情を説明すると住持が丁寧なお経をあげてくれた。

 やえの供養ができた。

 その夜は、寺で宿泊した。

「お鶴、大丈夫か」

 ひとりで寝れるか。と聞いた。

「はい、大丈夫です」

 鶴姫の声に、張りがある。もう、大丈夫だ。

 二人は、布団を並べて就寝した。

 

 五日目、

 やえの供養を済ませたことにより、鶴姫の心に、忌わしい過去を払拭して、前向きに生きていこうとする気持ちが芽生えてきたようである。足取りがしっかりとし、動きに力強さがでてきた。

 忠智らは再び木橋を引き返して大店(おおだな)に入った。呉服商・京都屋という木の看板があがっていた。店員が着ているはっぴの背中には、白く太い字で「みやこや」と書き入れてある、京都屋と書いて「みやこや」と読むらしい。紺地に白く浮きあがった字は、かなり遠くからでも読みとれるほど大きな字だ。それが、なんとも、店の活気を添えていた。

 呉服は絹の着物のことである。京都屋は上流社会の人しか着ることのない高級品を扱う川之江でも一軒しかない呉服店だった。そのころ、絹物を着るのは上流社会の一部の人しかいなかった。木綿も日本では採れないので高麗から大量に輸入されていた。しかし、値段も高く庶民の手に届くものではなかった。庶民は麻の着物を着ていた。さらに、古着が主流で京から買い集めた古物が多く出回っていた。そんななかで、新物しか扱わない京都屋は他の同業者を寄せ付けない威厳があった。

「この娘に旅支度を調えていただきたい」

 忠智の注文に、奥から妻女らしい中年の女がでてきた。二人の姿を見て瞬時のことではあったが、戸惑いの翳が妻女の眉宇に現れた。険しい山道の逃避行で、姫の着物は汚れ、あちこちが木々に引掻き破られていた。風体からみれば異様な客には違いなかった。妻女が驚くのも無理のないことだ。とはいえ、姫は絹の単衣を着ている。忠智の着物は木綿である。妻女は、忠智らが一般庶民とは違うということを、当然、見抜いているはずだ。

「金銭は十分に持っている」

「さあさ、お上がりください」

 忠智の説明は、耳に入らなかったかのように無視して姫を店の座敷に導いた。女中が漱ぎの水をいれた桶を用意した。実に手際のいい動きだった。

 妻女は、色白でふっくらとした見るからに優しそうであった。いわゆる、たまご形をした顔だちで美貌の持ち主だった。

 店の女が反物のはいった衣装箱を奥の部屋から持ってきた。当時は呉服商といっても、店頭に商品を展示して売るのではなく、番頭が小僧に荷物を持たせて、地侍などの家に売り歩く、いわゆる訪問販売であった。

 姫と妻女が着物地の品選びにはいった。

 楽しそうに、あれやこれやと選んでいる。妻女の巧みな話術が姫の心をほぐしてくれている。

 姫の表情がいきいきとしてきた。

 忠智は、店員がだしてくれたお茶をひと口飲んだ。なんとも香ばしくさわやかな味が広がった。当時は、茶葉というものもなく白湯が主体である。初めて口にするお茶の味であった。

なにすることもなく二人を見つめていた。

 熱い茶は喉の渇きを一気に癒してくれる。

 長い時間を経て、着物の柄が決った。旅衣装であるから派手さはおさえてあるものの上品さが際立っていた。

 仕立てあがるのは明日の朝だ。二人が地元民でないことを見てとった亭主は、離れの部屋が空いているからと宿を勧めてくれた。

「ありがたいが、迷惑をかけることになるから…」

「これだけ、使用人の多い店です、あなたがた二人が増えたところで、どおってことありませんよ、お泊まりなさいまし」

 妻女が、忠智の言葉を遮った。

 実に、はきはきとした気持ちのいい口調だった。筍をスパッと切るような妻女の歯切れよさに好感を持った。

「それもそうだ」

 思わず忠智も応えていた。妻女の言うとおり、店には十人ほどの奉公人がいるようだった。

 店では、もう一組の客が品選びをしていた。店頭に買いに来る客もいるらしい。客のうきうきとした気持ちが周囲を明るくし、声を弾ませていた。ときたま、快活な笑い声がとびだした。

 二人は、ありがたく好意を受けることとした。

 

「ごゆっくりなさいませ」

 店の裏へ案内される二人に、亭主が接客中にもかかわらず振り向いて送り出してくれた。

 亭主は、小柄な男だった。この夫婦が並んで立てば、背丈は妻女の方が高いだろう。もう老翁になろうとする年代のようだが、顔はつややかで精力に満ちていた。

 忠智は、弟の室神屋(やかみや)與次郎兵衛正秋(よじろうべえまさとき)を思い出していた。武門に生まれた正秋は、忠智による福冨家の家督の存続に側面の柱となるべく、武人の道を歩むはずであった。だが、正秋は負けず嫌いなところがあるものの、性格が柔らかいため、武士より商人に資質があると、父・治堅が選ばせた道だった。海商のため、顔は黒く無骨な男にみえる。京都屋とは全く異質の商人に見えた。

 離れの部屋は庭の奥にあった。母家から離れまでは、きれいに打ち水された敷石の通路となっていた。

 庭には、梅や椿、躑躅などの花を主とした植え込みがほどよく配置されていた。椿の花は、首から脱落することから、武家は庭木にすることを嫌っていた。それを、京都屋は庭の中央に配している。

―さすが商人だ。と感心した。

 忠智も、椿の花が好きだった。さすがに庭木にはしていないが、道端で椿の花を見つけると思わず立ち止まって見つめることも多かった。

 

 塀際に幹の太さがひとかかえもありそうな、赤松の大木が一本立っていた。威勢良く横に広がった枝は屋根の上にあり、庭からは、もはや幹しか覗めない大木になっていた。天に聳え立つ古木の勇姿は、この店が古くから続いている老舗であることを物語っている。

 

 八畳と六畳からなる二間の部屋には床の間までついていた。良質な材木を使い、簡素な中にも落ちついた美しさをかもしだしていた。妻女は亭主との隠居部屋として建てたものだと言った。

「ですが、若夫婦が頼りなくて、楽隠居が出来るのはまだ先でしょう」

 快活に笑った。ほがらかできさくな性格が好ましかった。

 つと立ちあがった妻女が、床の間に垂れ下がっている紐を二度ほど引いた。

 やがて母屋から小走りに急ぐ下駄の音が近づいてきた。

「失礼します」

 襖の外から声がした。

 小間使いの娘が、入口に膝を落として顔を覗かせた。色の白い、ぽっちゃりとした娘だった。十七歳だという。どちらかといえば鶴姫に似た愛嬌のある娘だ。

 

「びっくりなさったでしょ」

 妻女がいたずらっぽく笑いかけながら「これも、主人の道楽なんです。この紐は母屋につながっているんですよ。その先端には、お遍路さんが持つお鈴がついているのです。用事があるとき、こちらから引っ張りますと、向こうで「チリンチリン」と鳴りますのよ」

「ほー」

 なかなかうまく考えたものだ。忠智が、しきりに紐を見つめている。紐は床の間の天井裏に消えていた。

「今日いち日、川之江の町でも見物されたらいかがでしょうか、由緒あるお寺もありますよ」

「かってを言って申し訳ないが、この娘は旅に慣れてないもので…・できれば、今日は、ゆっくりとしたい」

「それは、よろしゅうございます。忙しくてお相手はできませんが、ご用のときは、この紐を引いて、この娘を呼んでくださいませ。はるといいます」

 懐中物を取り出そうとした忠智の仕種を見た女房がきっぱりと言った。

「お気遣いは無用にしてくださいませ、着物代はちゃんといただきますから」

「申し訳ない。お言葉に甘えることとする」

「では、ごゆっくりなさいませ」

 軽快な下駄の音を響かせて店へ出て行った。妻女の接遇態度には、少ない言葉のなかにも親切な心が滲みでていた。

 離れの裏には、小川が通っており、そこから、屋敷の庭にも水を導いているらしかった。さわさわと清らかな音が庭から聞えていた。格子窓ごしに見ると、水中に長さ一尺もある水草が茂っていて、流れの速い水に流されているように見えたが、根は、しっかりと川底に根付いていた。おそらく、あの急流の中で根づき、成長したのだろう、なんという生命の逞(たくま)しさであろうか。

 遠くに、薄紫色に霞んだ山なみが見えていた。五百丈(一五〇〇メートル)を超える大きな山が左右からぶつかり、切れ込んだ峠が見えている。数日前必死の思いで越えてきた鞍部だ。

 姫も見つめている。両親のことを思い出しているのであろう、姫の横顔に愁いの翳りが奔(はし)っていた。忠智は、慰めることばもなく黙然とたたずんでいるだけであった。

 カランカランと乾いた下駄の音が近づいてきた。妻女とは違った歩調だ。

 やがて小間使の娘・はるが、湯のみと急須をお盆に載せてきた。椿の葉に載せた丸い蒸し饅頭がついている。庭の椿を思いだし、手作りの饅頭だろうと思った。

何回も往復して、火鉢に火をいれ、鉄の茶瓶をかけた。すでに、熱湯が入れてあったらしく、たちまち沸騰の音が静かな室内に行きわたった。

 離れに行き来するときは、いつも軽快な下駄の音がした。

 表の店から、活発な動きが音になって聞えている。

「活気のある店ですね」

「店も繁盛しているようだ」

 ふと、芳しい風が漂ってきた。いつの間にか、金木犀の咲く時期になっていた。

 二人は、縁側に座って店のざわめきを聞いていた。

 座敷の前庭で、二羽のすずめが一心不乱に虫を啄ばんでいる。庭と離れだけが静かなたたずまいを保っていた。

 庭を囲む低い土塀の先に金生川があった。

 縁側に座って川の流れが見える。そのさきには、仏殿城と武家屋敷が甍を重ねていた。川と城下町を借景とするため土塀を低くする。心憎いほどの演出だった。一日中でも見飽きぬ景観だ。

 

 店が閉まってまもなく、亭主と妻女が現れた。

 一緒についてきた使用人たちが、手際よく膳を並べて食事の仕度を始めた。

「お構いもせず申しわけございません。なにもございませんが」

 亭主が徳利を手にとって忠智に酒をすすめた。

「恐縮です。それがし、酒は強くないので、一盃だけいただきます」

 忠智は、亭主と妻女に礼をして、ゆっくりと盃を口にもっていった。妻女が、鶴姫に食事をすすめている。

「それにしても、繁盛のようで、ようございますな。それがしの弟も石州で海商を営んでおりますが、弟は、海の上ばかりにおりますので全身が真っ黒に日焼けしております。」

「なんと、商いをしておられるのでございますか」

「玉鋼を博多で売っています。高麗へも足を伸ばしているとか言っています」

 もっとも、商人というよりは船頭と言った方が適切かもわかりませんが、と付け加えた。

「私にはよく分かりませんが、石州の砂鉄から採った玉鋼は品質がいいと評判のようです。それにしても高麗とは・・・・私は、乗り合いの船で京都へ往復するだけです」

「一歩海へ乗り出したならば海賊もいる、天候の急変もある。毎日が命を賭しての商いだと申しておりました」

 武力を持たない商人がいるとは忠智に理解できない。古来、おのれの財産はおのれで守る、そのためには商人といえども武力を持つことが本来の姿である。

 商人とはいえ、室神屋(やかみや)は海商であり、おのれの命と財を守るための武力を持っている。京から商品を仕入れて近在へ売る京都屋(みやこや)とは根本的な違いがあった。

「そうですね、特に高麗や明国へ行くとなると危険も多いことでしょう」

「明国は日本と同じ武力を尊ぶ国です。国と国の交易であれば心配ないが裏では、日々殺戮を繰り返している。そんな国へ行くのだからいつ襲われるかもわからない。表面は良民であっても裏にまわればなにをしているのか分かりません」

 それに比べ、瀬戸内は波も穏やかで、海賊などの心配も無いと亭主が言った。

「瀬戸内へ回られるようでしたら、是非、私の店へも寄っていただきとうございます」

 そうそう、申し遅れましたが、と、自の紹介にはいった。

 亭主は儀兵衛と呼び、妻女はおようと言った。

 形ばかりの挨拶が終わると、給仕のためにはるを残して夫婦は引き上げていった。

 

 深更、熟睡していた忠智の耳がかすかな軋みを捉え、全身が総毛立った。誰かが戸をこじ開けようとしている。

 夜半は過ぎているようだが、夜明けは、まだ先だ。

 忠智は、起きあがって袴をつけ、刀を腰に帯びた。姫が部屋の空気を揺るがせないよう、静かに身支度を始めた。

 何者かが侵入している。だが、忠智らを狙ってのことではなさそうだ。

 それなら、離れの部屋にじっと隠れていれば、見つからずに済む可能性はある。

 忠智の使命は姫を石見まで無事に連れ帰ることだ。ここで、侵入者と戦って万が一、落命するようなことになれば、姫をひとりで放り出すことになる、御屋形に申し開きもできない、忠智は躊躇した。

 しかし、すでに敵は屋敷のなかに侵入しているのだ。忠智が、外に出なかったら、おそらく、侵入者の仲間と見られるだろう。

―闘うしか方法はない。

 忠智は決心した。

「それがしが出たら、内からしっかりと戸締りをしてください」

 忠智が、姫の耳元でささやいた。

「追手でしょうか」

 姫の声は緊張していた。

「いや、しかとはわかりませんが、追手とは違うでしょう。追手なら正々堂々とやってくる。なにも忍び込む必要がありません。たぶん物盗でしょう。盗人など、なにほどもない、心配に及びません」

 刀の柄をぽんと叩いた。姫の顔に微笑がよみがえった。

 刀の目釘を確かめた忠智が、気配を消して敵に気ずかれないよう縁側から外に出た。

 庭には、べっとりと肌に纏わりつく湿気を含んだ霧が漂っていた。わずかな月明かりを頼りに前方を見透かすと、母屋の軒下に五人の賊がいた。一人が雨戸を開けようとしており、残りの四人は、うしろに立って開くのを待っていた。上から下まで黒ずくめの服装をして、黒い布でほお被りをしているが顔は出したままだ。

 忠智が用心深く周辺を窺った。他に仲間は見えない。闇の中にいる息づかいをさぐった。五人だけだ。

刀の鯉口を切った。

「何をしている」

戦場で鍛えた大喝に、弾けたように飛びあがって驚愕した賊が、次ぎの瞬間には、すばしこくひるがえった。

 忠智をふり返ったときには、三方から挟み込む態勢を組んでいた。隙のない構えだった。五人の射放す殺気が一塊となって忠智を包み込もうとしている。

 賊の持つ匕首(あいくち)が、ぶきみに光った。非常さと残酷さが漂っていた。

 忠智が、抜刀するのと同時だった。右手前の敵が大きく動いた。瞬時の間合いを置いて、左手後方の敵が動くのを忠智の肌が察知した。すさまじい一撃が疾(はし)った。敵は左右両方向から忠智の体を挟み込む態勢で襲ってきた。迅(はや)い、電光の動きだった。目線も遅れをとるほど鋭く迅(はや)い。匕首さばきは実戦で身につけたものであろう。

 忠智は、裂帛の気合を込めて踏み出し、前面の敵を薙(なぎ)払うのと同時に、体を預けて背中に奔る殺気を寸毫(すんごう)の差で躱(かわ)した。その刹那(せつな)、地面を蹴って一間ほども虚空に跳躍した敵から放った鋭い匕首が、忠智の頬をかすめて地に突き刺さった。不気味な音が残った。敵は、ひと言の気合も発しない、無言のまま攻撃してくる。風を切る匕首の音が忠智の耳朶を振るわせた。多勢で一人を討つ場合は巧妙な連携をとらねば数はかえって邪魔になる。賊の連携に寸分の狂いもない。実に巧妙な連携をとっている。

 二撃目に移ろうとしている賊の挟撃態勢に、寸分の狂いも生じていない。おそろしい遣い手だ。

 賊の顔には不敵な笑いが宿っていた。闇のなかで眼が異様なほどに冷たく光っている。

 忠智の背中に冷たい感触が流れた。切られたようだ。しかし、痛みはない。浅手だったのだろう。合戦なれしている忠智にとっても、縦横立体的に躰ごとぶつかってくるとは、全く予測のつかない攻撃方法だった。匕首は、肉迫しなければ斬れない刀法であることを予測できなかった。完全に守勢にまわったことを認めざるをえなかった。大刀を抜いたことを悔いた。狭い庭で、しかも闇のなかだ。小太刀のほうが有利だということに気づいた。

 内懐に敵を飛び込ませないよう間合いをとった。

 しかし、敵の一撃目のとき、忠智の刀は敵の一人をとらえていた。戸を開けようとしていた賊が血泡をふきながら倒れ伏した。ひとことの悲鳴も発せず、まったくの無言であった。体が激しく痙攣して静止した。

右手に確かな手ごたえが余韻として残っていた。

 雨戸の内側で人の動く気配がした。

 店の者が物音に驚いて起きだしたのだ。

「押し込みだ、戸を開けてはならん」

 忠智がどなった。近隣の家にも届く大声を出した。敵の神経を撹乱する策だ。

 室内が静まりかえった。

 賊の気がわずかに揺らいだ、焦りが生じたのだ。

 二人がいっきに突進してきた。しかし、すでに敵の集中力は失せていた。賊にとっては、すみやかに決着をつけなければならない、『長引けば長引くほど不利になる』このことが焦りを招き、攻撃に隙を生じさせた。

 忠智には敵の太刀筋がよく見えた。余裕をもって敵の動きを見ることができた。

 賊の一人を豪快に斬り上げて弾ね返した。確かな手応えを掴んだが致命傷ではないだろう。つづいて腰を入れて振り向きざま、渾身の力を込めて一人を袈裟懸にした。忠智の刀と賊の匕首が、賊の眼前で絡んだように見えた。だが、匕首を弾ね飛ばした忠智の剛刀は、賊の顔面を二つに断ち割っていた。甲冑をも切り崩す忠智の力が勝ったのだ。噴出する血しぶきが霧のなかに拡散した。残りの二人も見事な斬撃で斃していった。

 賊は一言も声を漏らさなかった。骨を断つ音が静寂な庭に響いた。

 忠智は、必要以上に大声で気合を発して、賊のあせりを増長させていった。

 忠智の左手には血塗られた小太刀が握られていた。咄嗟のことだった。無意識に身体が動き、小太刀を抜いていた。長年、集積してきた剣技修練の結果が忠智の本能を引き出していたのだ。

「ググッ」と、押し殺したわずかな声が忠智の背で洩れた。傷を負って倒れていた賊が自らを始末した姿であった。

 血振りをした両刀を鞘に納めた。全身から汗が噴出し、肩が大きく上下していた。息を吐き出して、気息が整うのを待った。

「もう出てもよい、終った」

 忠智の声を合図に、雨戸の一枚がわずかに開けられた。

「押し込み……。」

 凝然と立ちすくむ儀兵衛が、陰鬱な表情でつぶやいた。やや小太りで恰幅のいい、つややかな顔から血の気が引いていた。鞘に収めたままの刀を持っている左手がわずかに震えていた。

「福冨さまには、なんとお礼を申し上げたらよいか…」

 言葉につまりながら礼を言う声も震えている。それでも、毅然とした態度を繕い、役人を呼びに店の者を走らせた。

 おようが、茶碗に注いだ冷酒を無言のまま忠智に差し出した。

「おー、喉がからからだ」

 礼をいうのも、もどかしく一気に飲み干した。「クックック」と音をたて喉を通った冷たい液体が五臓六腑に浸み渡っていく。冷酒が乾いた喉を潤し、昂ぶった気を鎮めた。闘争で疲弊した心身を癒すのに最高の気くばりだった。

「美味かった。」

 茶碗を受け取るおようの瞼がうるんでいた。血飛沫の飛散した死体を目の当たりにしたのは、おそらく初めての経験であったのだろう。それでも、自分で持ってきた手桶の水を、柄杓で汲んで忠智の両手にかけてくれた。

「さすがは、商家の女房どのだ、機転が利いている」

「お怪我は、ありませんか」

 おようの声は、小さいながらも、しっかりとしていた。

「たかが、夜盗を相手に、これほど苦戦するとは思わなかった。儂も、まだ鍛錬がたりない。庭を汚してしまった」

 謝る忠智に、おようが頭(かぶり)を大きく振った。

 闘争の対手が虚空を跳ぶことなど想定になかった。戦では、腰を低くして足をしっかりと地につけてこそ、安定した体勢を保てるのである。跳躍するとしても甲冑が重みとなり、せいぜい三尺ほどが精一杯である。おのれの頭上で、二人の敵が交差した驚愕に、気が削がれ隙となった。その刹那を見逃さず放った匕首が雷光となって襲ってきた。忠智の目はなにも捉えていなかった。ゾクリとする戦慄に脳の意思をまたず、体が反応して避けていた。まさに、獣の本性が忠智を救ったのだった。おのれの鍛錬不足に臍をかむ思いがした。背筋を走る悪寒に思わず身震いをしていた。賊を退治したという満足感がなく、遅れをとったという気持ちのほうが強かった。

 家の戸口に呆然と立っている使用人らは、言葉を失い、恐怖に怯えた表情で忠智を見つめていた。

 急遽、庭に焚かれた篝火が、倒れている賊を照らし出した。すでに五人とも絶命している。生臭い血の臭いが庭に漂い始めていた。使用人が、納屋から持ち出した莚を屍骸に掛けた。

 おようが、風呂を沸かすよう指図した。儀兵衛より落ちついた声だった。度胸は亭主よりも強そうだ。

「風呂は後でいい、役人が来たら、それがしの説明も必要であろう」

「ありがとうございます」

 儀兵衛も落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

 離れの前で立ち竦んでいる鶴姫の肩を、歩み寄った忠智が抱き寄せた。体が小刻みに震えていた。三日前の山中につづいて二度も斬り合いを目撃させられた衝撃から立ち直れない姿であった。二人は、しばらくじっとしていた。鶴姫の心が鎮まるのを、ゆっくりと待った。

おようが姫の手をとって母屋へ導いた。

 

 ほどなく、十人ほどの手下を連れた役人が来て、庭に倒れている賊を検めた。

「篝火をもっと増やせ」

 役人が居丈高の声で店の者に命じた。篝火から、火のついた割木を取りだして賊の顔を覗きこんでいる。

「最近、商家に押し入る夜盗が出没していた。つい先日も、大野屋という材木問屋が襲われたばかりだ。家の者、奉公人ら九人すべてが殺された。奪われたのは三百貫(約七百五十両)を超えていたと推測されるが、なにしろ全員が殺されたので詳細はわからずじまいだ。もっとも、京都屋は千貫を超えるであろうがの」

「なにを、おっしゃいます。とんでもございません」

 儀兵衛が大仰なしぐさで手を横に振った。

「いや、冗談だ…・ところで、誰がこいつらを遣っつけたのか」

「それがしにござる、石州住人・福冨七郎左衛門にございます。娘を連れて金毘羅参りの帰りにござります」

 忠智の説明に、

「さようか」

 一瞥をくれただけで賊の斬り口を、しきりに見ている。

「この男は、自殺したな」

「はい、それがしの放った刀傷は致命傷まではいかなかったのですが、仲間全てが倒れた後に自ら命を断ちました」

「一人でも生きていたら、調べようがあるのだが・・・」

「申し訳ないことです。それがしにも手に余る遣い手で、防御に精一杯でござった」

「そうであろう、大野屋で殺された者の切り口を見ると見事な仕留め方であった、そうとうの手練と思われる。一人でも生かして捕まえようとすれば、自分の身が危うくなったやも知れぬ。仕留めたということは賢明な判断だ」

「ありがとうございます。それがしも初めて経験する敏捷な相手でござった、苦戦しました」

 役人は、全身に返り血を浴びて生くさい臭いを放つ忠智を、まじまじと見つめた。

「貴殿(そなた)は、怪我をしてないのか・・・・かなりの遣い手だのう」

 役人は、髭の濃い自分の顔をなでながら、何かを思案している。

「京都屋、この御仁とは、どういう関係だ」

「客人にございます」

「客人・・それだけか…それだけのことで泊めたのか、軽率ではないのか、この御仁は、良い人だったから、いいものの、賊の一味だったらなんとする。どんなに戸締りをしていても内側から手引きされたら、防ぎようもあるまい」

 役人は、すたすたと歩いて、土塀から身をのりだして川岸を見ている。

「これだけ、高石垣になっておれば、川からの侵入はできないの」

 金生川から土塀までの高さは二間ほどもあり、はしごでも使わない限り侵入は不可能だ。

 目を屋敷へ戻した役人の、細い目が一段と細くなった。凝視する視線の先には、屋敷の外に通じる木戸があった。だが、そこの閂は閉まったままで、開けた形跡は認められなかった。

 役人は、内側から誰かが鍵を開けて手引きをしたと思っているようだ。一間半を越す高さに設えた高塀を越すことなど出来るものではないと思い込んでいるようであった。ひとかたまりになって震えている使用人に目を移した。

 忠智が気づいたとき、すでに賊は庭に侵入していた。外から鍵を開けて侵入したのか、中から手引きしたのかはわからない、だが、戸を開けた気配はなかったと説明した。

「外の異変に気づいたときには、すでに福冨さまが闘っておられました。御助勢に出なければと気はあせるのですが、足がすくんで・・」

「出ても、邪魔になるだけだ、それにしても、他人を泊めるなど軽率だの」

 役人の脳裏からは、忠智も夜盗の一味かもしれないという疑いを、払拭してはいなかったようだ。

「おそれながら、長年つちかった商売人の目と感がございます。この客人は悪い方ではございませぬ」

「あたりまえだ、だから、今、お前らの命があるのだ」

 役人が声をだして笑った。

 そのとき役人の手下が、庭の塀際に立つ老松から垂れ下がっている荒縄を見つけた。

「なるほど、賊は、この木の枝をつたって屋敷に侵入したのか」

 役人が納得した顔で見上げていた。松の大木は、すばらしく枝振りのいい庭木だった。横に伸びる一の枝は塀を乗り越え、前の道に圧し掛かっていた。その枝から太い棕櫚縄(シュロナワ)がぶら下がっている。縄は、一尺間隔に結び目が作られていた。上り下りするときの滑り止めだ。これなら、縄梯子と変わらない、周到な準備をして侵入してきたようだ。

 賊の侵入経路がはっきりしたことで、皆の顔に一様の安堵感がでていた。これで、内部から手引きした者はいないということだ。最も疑われやすい内通という問題も、その疑いがなくなった。

「京都屋、あの枝は切り払ったほうがよさそうだな、今後のことを思えばの」

「はい、なにか手だてを考えます」

「五人か・・・」

 役人が意外だという顔をした。それでも、「あと十名応援を連れて来い」と一人を走らせた。

「少ないの・・・大野屋も、金生川沿いの店だったな…」

 老練な役人は何事かを整理するように沈思していたが、

「おい、裏の川を見て来い」

と、手下に顎をしゃくった。

二名の役人が裏手に流れている金生川へ走った。

「ありました、二艘の小舟が舫ってあります。今、周辺の住人を起こして確認しておりますが、持ち主が不明のようです」

四半刻後、ひとりが息せき切って帰ってきた。

「それだ、こやつらは舟で運ぶつもりだったのだ。そうでなければ、五人やそこらでの全財産を運べるものではない。だがの、舟があればいくらでも運べるぞ。・・・・ということは、こやつらは京都屋の全員を殺してから、ゆっくりと、舟まで何回も往復して運ぶつもりだったのだ。それに、こいつら、顔を曝(さら)け出したまま押し入っている。京都屋の者に顔を見られてもいいということは、一人残らず殺すつもりだったのだ」

 後方で悲鳴ともつかないため息がもれた、手代が洩らした声だった。

「大野屋もこの手を使いやがったのか・・だがの、舟があるということは逃げたやつらもいないということだ。五人組で五人みな死んだということだ、川之江城下も安全を取り戻したの」

 上役役人は、おのれの感が当たったことに満足したかのように饒舌だった。忠智は、役人の鋭どい感に瞠目、言葉を失って、ただ、唖然としていた。

 

「福冨どの…・貴殿は、戦の経験が有るようだ…この剛胆な切り口、骨をも断ち割っている。このような盗賊相手の斬り方ではない、甲冑を着けた相手を斬る太刀筋だ」

 役人は、宙を睨んでいた。

 馬上における騎馬武者の戦闘は、すぐれた膂力をもって長い得物を振り回す力と力の戦いだ。おのれの力が対手の力を凌駕したとき勝を得る。役人は、瞬時にして忠智の力を見抜いていた。

 忠智は、無言のまま首肯した。

「そうであろう…・甲冑を着けていない者は動きも軽やかだ、甘くみると、命を落すことにもなりかねない」

「まったくもって…」

「戦の経験があるということは、主持ちということかな」

「今は、致仕しております。わずかばかりの田地一所を懸命に守っている身でございます」

 忠智は嘘を言った。もし、三好之長から手配が回っていたならば、石見の小笠原家中だと言うことは自首することと同じだと判断してのことだった。

「どなたの家中だといわれるか」

 探るような目を向けて訊いた。

「今は、百姓の身でございます」

「なに」

 役人が、きっとなって忠智を見た。細く開いた目の奥から瞳が冷たく光った。

「言えぬということか。…ま、いいか、聞かぬが花ということもある、儂ら下っ端の役人とは格が違うかも知れぬ、・・・・・京都屋に夜盗が入り、たまたま宿泊していた貴殿が退治したということは、まぎれもない事実だからの」

 役人は、自分に納得させるようにうなずいた。皮膚からふき出した髭がこそばいのであろう、右手で盛んに顎をなでている。

「ありがたき、ご配慮いたみいります」

儀兵衛がおようから受け取った紙包みを役人の袖に入れた。

「お浄めでございます」

役人は、亭主の小さな声が聞こえない風をよそおいながらも鷹揚にうなずいた。 

「それにしても、京都屋。助かったの、この五人は、並の夜盗ではないぞ、たぶん大野屋を襲ったやつらだ。大野屋では女子供まで全員惨殺した。危ないところを助かったの。ま、この御仁にしっかり礼をすることだな」

 役人は賊を戸板に乗せて引き上げて行った。

「急ぎの旅でございますが出立してもよろしゅうございますか」

 忠智が役人の背に問うた。

「よいぞ、気をつけて行きなされ」

 役人は振り向きもせず、それでも畏敬をもって許可をだした。

「賊の亡骸は、役人が処理してくれるのか」

 忠智が、意外だという顔をして京都屋の儀兵衛を振り返った。

「罪人は、海へ捨てられます。寺に葬ることはしません。こもに包んで、石をいっぱい抱かせて沈められます。だから、二度と浮かんではこないでしょう」

「石見では、たとえ罪人であろうとも、死後は寺に葬られる。もちろん、無縁仏としてだが」

「仏の教えからいえば、寺に葬ってやるのが正しいかも知れませんが、ここら辺りでは、昔からの風習です」

「ま、いずれにしても、こちらが処理しなくていいのは、ありがたい。事後処理のために、何日間も足止めされるのは困る」

「その必要はございません。私ひとりで十分でございます」

 

 いつのまにか、夜は白み始めていた。霧は相変らず地を這っている。

―やれやれ。

 忠智が、安堵の溜息をついた。三好之長からの手配は廻っていないことを確信した吐息だった。

 その当時、戦で敵を攻め滅ぼしたとき、男については、老若をとわずすべてを殺すことはあっても、女は、特別な理由がない限り殺さないのが一般的であった。忠智も、鶴姫が脱出したことを三好之長が知っても、追手までかけて殺そうとするとは思えなかったが、万が一ということもありえると警戒していたのであった。それも、杞憂にすぎなかったことを確信した。

「お湯が沸いております。福冨さま、お身体を洗ってくださいませ」

 おようの、きりりとした言葉づかいと立ち振る舞いが戻っていた。

 湯屋に入ると、板敷きの脱衣場に湯帷子と着替えの衣類が衣装箱に重ねてあった。

 忠智は裸のまま腰をかがめて浴室にもぐり込んだ。もうもうと立ち込める湯気の奥に湯釜があった。やや熱めの湯を汲んで、全身を執拗なほどに洗った。体にまとわりついた血糊と生臭さが消え、体中に張り詰めていた緊張が一気に氷解していった。

 袋に詰めた乾燥蓬が湯に浸かっていた。いい匂いだ、体に沁み付いた血臭を取り除き、切り傷にも効果があることを知っていて浸けてくれたのだろう。

 風呂から上がった忠智が母家の客間に招じいれられた。そこには、すでに離れから呼ばれた姫が待っていた。

 忠智が姫に無言の笑みをおくった。姫もさきほどの衝撃から立ち直り、平常心をとりもどしていた。頬に血の気がもどっている。 

 おようが用意してくれた真新しい絹の肌着と着物がなんとも気持ちいい。

 血糊のついた忠智の着物をたたんでいたおようが「ハッ」と声をあげ忠智の元へ走り寄った。

 さきほど着たばかりの着物を、はぎ取るように脱がせた。

 背中に一筋の血が流れていた。

「心配いらぬ」

 忠智の声はおように通じない。すでに固まり始めた血をなどるように、蛤の貝殻に入った塗り薬を擦り込んでいった。

「お役人が言っておられましたように、福冨さまのご助勢がなければ、この京都屋は全員殺されるところでございました」

 儀兵衛が、銀粒の入っている袋三つを忠智の前に差し出した。お礼のつもりであろう。一見しただけでかなりの高額であろうことがわかった。

「お心づかいは、無用に願います。見も知らぬ他人の、それがしらを泊めていただいた、ご亭主とご妻女のやさしい心に神仏が応えてくれたのでしょう、礼などいりません」

 忠智は困惑して辞退した。結局、押し問答の末、受け取らなかった。

 膳が運ばれてきた。おようが忠智に盃を持たせて酌をしようとした。

「すまぬ。あまり酒には強くない」

 忠智は盃を裏がえして膳の上に置いた。

「お浄めの酒にございます」

「ならば、一杯だけいただこう」

 盃をとってゆっくりと飲み干した。

「すまぬが、刀の手入れをしたい」

 食事のあと、忠智が皆に背を向けて正座し、刀を鞘から抜いた。刀身は二度の闘争で疲れきっていた。できるだけ早く磨ぎにださなければ錆びてしまう。だが、石見に帰り着くまでは手放すわけにいかない。鹿革で刃にこびりついた血糊と脂をていねいに拭い取っていった。

 

 翌朝、おように連れられて奥座敷からでてきた姫は新しい着物を着て、見違えるほど、すっきりとしていた。昨日までの百姓姿から武家の娘に戻っていた。忠智の目にまぶしいほどに大人びて映った。

生まれながらにして姫として育った気品と美しさが甦っている。ぱっと座敷が華やいだ。

「おー」との嘆声をあげたのは儀兵衛だった。

「なんと、お美しゅうございます。凛とした、なんとも言いようもない、お美しさ、着物も貴女様に着ていただいてうれしいことでございましょう」

 呉服屋の亭主としては使い古した言葉かもしれない、だが、儀兵衛はしみじみと見惚れている顔になっていた。

儀兵衛とおようは、忠智と鶴姫の身の上についていっさい詮索をすることはしなかった。だが、忠智が武家姿でありながら鶴姫は百姓娘という、ちぐはぐな姿を妻女は見抜いていたのだ。

あれだけの事件が生じたにもかかわらず、着物は縫いあがっていた。京都屋の誠意を見る思いを抱いた。

「どお、父上」

 姫がおどけてみせた。

「色の白いきれいなお嬢さまですから、よく似合ってます」

 おようの言葉は、口先だけの御世辞ではなさそうだ。

 着物は、旅装を意識して地味な柄だったが、あずき色の生地に、ほどよく散りばめた黄色と白の小さな梅の花が浮かび、しっとりとした美しさを表現していた。

胸の懐剣袋があまりにも派手すぎて服装と合わなくなった。

 思案しながら見比べていたおようが、ふと思いついたように小走りに奥へ行ってきた。

「これになさいまし」

 歯切れよい口調で地味な色の懐剣袋をさしだした。タンスの奥にしまっていたおようのものだという。

「かたじけない。なにからなにまで世話をおかけする」

 忠智が礼を言った。

 姫が、懐剣を取り出し、おようのくれた袋に入れ替えた。朱漆蒔絵拵の懐剣は、いかにも姫さまの持ち物にふさわしい華やかさだった。鞘を見ただけですばらしい作りであることが判る。おようは、空になった古代錦の袋を丁寧に折りたたんで姫の持ち物に入れていた。二人の視線には、我が娘に接するような柔らかさが溢れていた。

 おようは着物だけでなく、菅笠から手甲、脚半、草鞋まで旅装一式を揃えてくれていた。昨日のうちに手配していたらしい。当時の女性は、平安時代のころから貴族がかぶっている市女笠をよく使っていた。特に、上流の女性は笠の縁に枲(むし)の垂(たれ)絹(きぬ)をつけ、日よけを兼ねたものを用いていた。おようは、鶴姫がかぶっていた百姓用の小さな菅笠ではかわいそうだと思ったのであろう、商家の妻女や娘が旅をするときに用いるやや小さい市女笠を用意してくれていた。垂(たれ)絹(きぬ)は付いていなかった。京都屋の如才ない気配りが嬉しかった。忠智は温湯城を出立したときから、竹の塗り笠を被っている。薄く剥いだ竹の外皮で笠を編み、漆で塗り固めたものである。菅笠より頑丈で耐抗性にすぐれていた。これで、忠智と鶴姫の服装にちぐはぐなところがなくなった。

 そればかりではない、忠智の衣服も上から下まで新しくなっていた。京都屋が、強引に着せたのである。

 さらに、忠智は袋に入れた一振りの大小刀を襷がけに背負っていた。

「せめて三日間でも逗留してください、三日あればお武家さまの刀を砥ぐことができます。今のままでは、すぐ錆びがでてしまいます。私の知り合いに腕のいい砥師がおります」

 しきりにひき止める儀兵衛の誘いを忠智は断った。深い仔細があってのことと見抜いていたらしい儀兵衛はあまり無理強いはしなかった。瞬時に相手の心を読み取り、相手の気持ちを大切にする。商人として長年培ってきた生き方なのであろう。

「それならば」ということであろうか、儀兵衛は、大小拵の太刀一振りを取り出してきた。

「これを御覧いただけませんでしょうか」

 なぜ、いまごろ出してきたのか儀兵衛の意をくみ取ることもできないまま、忠智は大刀を手に持った。黒漆塗りのすばらしい鞘だった。柄には鮫の皮が巻いてある。

「拝見する」

 懐紙を口に銜(くわ)えて静かに刀身を抜いた。

二尺三寸六分緩やかな反りの優美な業物だ。

武器は、人殺しの道具であって、どんなに美しくとも美術品にはなりえないと、忠智の父・治堅が言っていたのを思い出した。だが、今、忠智が手にしている刀は、あまりにも優美で気品に満ちていた。

「これは見事だ」

 思わずため息を漏らしていた。

「銘を拝見したい」

 儀兵衛が大きくうなずいた。

 静かに目釘を抜き取って、柄を持った左手のこぶしを右手で軽く叩くと刀身が出てきた。備前国長船の刀匠・国宗が鍛造した豪刀だった。

「すばらしいものを見せていただいた。備前国宗の銘刀など、めったに見れるものではない。手入れもよく行き届いている」

 この当時、戦闘用の太刀一振り一貫文というのが相場であったが、その数十倍はする。

そればかりではない、買いたくても買えない、たとえ、注文までこぎつけても、受け取るまでに何年も待って、ようやく手に入れることができるものなのだ。

「それは、ようございました、ぜひ福冨さまに、お持ちいただきとうございます」

「とんでもない、それがしが持つようなものではない、もったいなき逸品だ」

「いえ、福冨さまなら、どのようなものを、お持ちになっても身分不相応ということはありません。これは私どものお礼です。福冨さまが、賊を退治してくださったから、今の京都屋があるのです。どのようなお礼をしても、しすぎるということはございません」

「礼などいらぬこと、そのような心遣いは無用にしてくだされ」

「それでは、私どもの気が済みませぬ、ぜひ、お受け取りください。これは、万が一、今宵のような危害を蒙ったときの用心にと、拵えたものでございます。が、たとえこの刀を持って抵抗したところで、私など一刀のもとに突き殺されていたことは明白。なまじっかこういう物を持っていても何の役にもたちません。それに、この刀は、重くて私には到底つかいこなせませぬ」

「ぜひ、お持ちください」「いや、それは困る」向かい合って座る二人の間を、刀は押したり押されたりと行き来したすえ、ついに、忠智が根負けした。さすがの忠智も、商人の強引さには歯が立たなかった。

 忠智が恐縮して受け取った。

 

「店を開けても、ようございますか」

 番頭が伺いにきた。

「開けなさい」

 きっぱりと言った儀兵衛が忠智の正面にきて、ふかぶかと腰を折った。

「ほんに、福冨さまのお蔭で、今日も通常通り店を開けることができます。ありがとうございます」

 店のもの全員が平伏した。

 

「店の前に大勢の人が集まっています」

 小間使いの娘が、あわてふためいて知らせにきた。

「どういうことです」

 おようが聞いた。

「店の戸を開けたら、たくさんの人が立っておられたのです」

 はるも、要領をつかめないようすだ。

「店の異変を聞いて集まってきた人たちだろう。お見舞いに来てくれた人もいるやも知れない、疎かにするでないぞ」

 儀兵衛は、落ちつきを取り戻していた。京都屋に賊が入ったことを聞きつけて、物見高い町民が集まってきたのだ。

「おはようございます。このたびは皆さまには大変なご心配をおかけ致しました。お蔭さまをもちまして賊はことごとく退治していただき、京都屋はこのとおり無事でございます。ありがとうございます」

 儀兵衛が玄関先に立って町民に挨拶をした。

「どうしょう」

 暖簾の下から外を覗き見た姫が忠智を振り返った。

川之江城下を恐怖に落としいれていた賊をやっつけたのです、なにも恐れることはありません、どうどうと出立なさいませ」

 おようが、姫の背を押して外に出た。あわてて、市女笠を被る姫の顔がわずかに紅くなっていた。

 店の前は、群集で埋まっていた。黒山の人だかりだ。皆が無言だ。無数の視線を受けた忠智もいそいで菅笠を目深に被った。

 おようから杖を渡された姫が、眼を白黒させた。

「長い道程を歩くには欠かせないものですよ」

 道を埋め尽くしていた群集が、ふたりの通りを開けてくれた。

 ふたりは、幾度も腰を折って礼を言う夫婦から、逃れるように店を後にした。

 突然、後方にいる群集のなかから一人が拍手をした。堰を切ったように拍手が湧きあがった。

「ありがとうございます」

「ありがとうございます」

「お気を付けて」

 あちこちから飛びかう群集の見送りがどよめきに変わった。ふたりは、とまどい、顔を赤らめて足を速めた。

「びっくりしたな、もう」

 やっと衆人の眼から逃れた姫が、大仰なため息をついた。  

 はればれとした気持であった。

 出立が遅れてしまった。もう朝の五ッ(午前八時)を過ぎている。東の空に上りきった陽光は暁の黄金色を失い、代わって力強さが加わってまぶしかった。

 

 このころ、阿波から温湯城へは、川之江、新間(新居浜)を通って、今治から舟で島づたいに大島、伯方島生口島因島をたどって尾道に上陸し、三次から阿須那に入っていく道がよく利用されていた。

 伊予国今治は、河野氏の領域である。忠智にとっても祖母の里である。今治を通ることは安全を保障されたと同じことだ。だが、今治までの陸行は、あまりにも遠い。

 忠智は、川之江から、海岸沿いを北上し、讃岐国に入って、多度津から舟に乗ることとした。

 讃岐国は、三好氏の勢力圏内である。手配が廻っているおそれはある。しかし、このころは、戦において男子は殺しても女子は殺さない不文律のようなものがあった。鶴姫一人が逃げたところで三好氏にとって何の影響もない。おそらく、手配までして捕まえようとはしないだろうと確信を持ったばかりである。

 

 川之江から多度津までは、およそ十里(四十キロ)ほどの行程だ、出発が遅れてしまったから今日中に着くのは、ややきつい。忠智は、遠出をしたことのない姫の足を案じたが、姫の足はしっかりしていた。幸い、今日も秋晴れだ。忠智らは、出立の遅れを取り戻そうと歩くことに専念した。

「やっと、追いつきました」

 後方の声に振りかえると、京都屋の番頭と小僧が息せき切って追いついてきた。

「さきほどから、お二人の姿が見えるものですから、すぐ追いつくことができると思っていたんですが、なかなか追いつけないものですね」

 番頭は、顔に噴き出た汗を拭おうともせず喋(しゃべ)っている。

「お二人さまが、多度津にお着きになるのは今夕になりますが、明日の朝まで舟はでません。お二人さまが出発されてから、主(ぬし)が、このことに気づきまして、あわてて、私が出てきたしだいです。今宵は多度津泊まりになりますので、お二人さまを京都屋の多度津店にご案内させていただきます」

多度津にも店をお持ちか」

「大坂への廻船はほとんどが、多度津を発着としています。多度津に拠点が必要ですので、主の息が店を開いております」

「それで、わざわざ番頭どのが追いかけてくれたのですか」

「『ぜひ、今宵は多度津店に、お泊まりください』と、主のでございます」

「それは、ありがたい、舟は朝しか出ないということも知らなんだ」

「主が、ご案内すべきところですが、なにぶんにも昨夜の後始末もあり、家を空けるわけにいきませんので、くれぐれも、お詫びを申し上げます、とのことです」

「恐縮です。ご好意に甘えます」

「それでは、わたくしは」

 歯切れのいい声を残して小僧ひとりが先行した。

「頼みましたよ」

 すでに小僧は走り出していた、番頭の声が追いかけるかたちになった。ことの次第を多度津店に知らせるため、先行したものらしい。

 

 しきりに、太陽を気にしていた番頭が、四国八十八ヶ所札所・本山寺の寺前町で辻駕籠を止めた。

「お嬢様、申し訳ございませんが、今日中に多度津まで到達しとうございます。ぜひ、この駕籠にお乗りになってください」

 男だけの足になって先を急ごうとしているのだ。意を解した鶴姫は、言われるままに乗ったものの、初めての辻駕籠だった。左右の戸がない、屋根から垂らした簾だけだ。振り落とされないかと心もとない、どうしたものかと困惑していた。

「お嬢さま、足を横にくずして、背中を後にもたれて、そうそう、身体の力を抜いてください。目の前にぶら下がっている紐を手で持って、そうそう、楽になったでしょう」

「ほんに、楽になりました」

「それでは、行きましょうか」

 番頭が駕籠屋に合図した。

「ほいよ」

 二人の駕籠屋が声を合わせて立ち上がった。一台の駕籠に四人の人足がついていた。二人が担ぎ、四半刻(三十分)ごとに交代していた。こうすることによって休憩をとらずに長距離の歩行を可能にしているのだった。

 一行の歩行が加速した。

 薄暮のなか、店が見えてきた。「京都屋」という文字が扁額のなかに浮かびあがっていた。

間口は五間ほどしかないが、奥行はその倍ほどもあろうかと思われるほど縦長の家屋だ。本店のような塀はなく、回廊式に建てた家屋が屋敷全体を覆っている。屋号に京都を称しているだけあって、家屋の造作も京屋を模してあった。

 すでに営業の終わった店の前に、立っていた小僧が忠智らを見いだして中に飛び込んだ。入れ代わりに、あわてふためくように息子夫婦がでてきた。小走りに寄って、

「お疲れ様さまにございます、京都屋の倅・源太郎にございます、妻の千加にございます」

 源太郎は、齢・四十になろうかとする壮年で、やや丸型の顔が父親に似ているものの、眉や鼻などは母親似であるようだ。父親は「若夫婦が頼りない」といっていたが、恰幅のいい体型などで見る限り、りっぱな商人だ。さすが多度津で一、二位を競う商家だけあって、嫁は選び放題であったのだろう、妻の千加はうりざね顔の見目麗しい美人だ。

「急がせてすまなかったね」

 駕籠屋に駄賃を払う番頭の横で、鶴姫が「うーん」と声をもらしながら腰を伸ばした。

「つい、うとうとと寝てしまった」

忠智に寄ってきて耳打ちした。そして、いたずらをした少女のように首をすぼめた。そのあどけなさに忠智も苦笑していた。

 若夫婦に導かれて店の敷居をまたぐのと同時に、「いらっしゃいませ。」小僧たちが声をそろえた。あまりにも大きな声に、鶴姫と忠智は顔を見合わせた。

 

 二人は二階座敷に案内された。目の前に海を眺めることができる。夜の海辺はひっそりと静まり返っていた。

 すでに夜に没しているが、わずかな月明かりをとおして、かすかに小島が見えた。

「眺めの良い所だこと、明日の朝がたのしみ」

 窓際に立つ鶴姫のほつれ髪が、さわさわと海風にゆれていた。潮の香がしている。

「なんと、こんな海近くに屋敷があるのですか。それがしの国、石州では、外敵は海から侵入して来るものとして、海辺は怖れられてきた。だから、これほど岸辺に屋敷を構えることなどありません。あるのは、漁師の舟小屋ぐらいのもんです。すでに、数百年も過去のことになる元寇の後遺症を、今も引きずっているのかもしれないが」

「瀬戸内でも、過去には海賊が横行したと聞いています。今は、河野さまをはじめ小早川さまらが、海の安全を護ってくださいますから安心です」

「そうですの、石州でも、今は、海からの侵入より、隣国からのほうが脅威だ。」

「さあさあ、長旅でお疲れでしょう、こちらへお座りください」

 千加が鶴姫の手をとり、源太郎が忠智の背を押して座敷の上座に招じいれた。

「京都屋が賊の侵入を許してしまったということ、信じ難いことでございます。あれほど、慎重な父が…、もし、福冨さまがおられなかったなら、京都屋本店の身代すべてと父や母、それに大勢が殺された。考えただけで身の毛のよだつことでございます」

 畳に額を摩り付けるように礼を言う源太郎と千加の目に涙が溢れていた。

「いや、父上どのは、まったく面識のない、それがしらを親切に泊めてくださった、実にありがたいことです。賊を退治できたことは、父上どのの優しさと神仏のおぼしめしでしょう」

「まったく、そのように思います」

 京都屋多度津店の番頭が涙をながしながら忠智に両手を合わせた。

「まいった、番頭どの、それがしはこのとおり元気だ、拝まれても困る」

 おどける忠智に、「ワッ」と笑いがうずまいた。

「失礼いたしました。今宵は、福冨さまが京都屋多度津店におられることゆえ、賊も避けてとおるでありましょう、楽しく多度津名物でも食していただきましょう」

 多度津店の番頭が、「ポンポン」と手を打った。台所に知らせたのだろう、広い屋敷内があわただしさを取り戻した。

 息子夫婦には十歳の娘と七歳の倅がいた。それに、番頭、手代、小僧二人に女中二人の総勢十人だ。本店は、主夫婦、番頭、手代、小僧、女中を合わせて十二人だった。

 多度津店の番頭は、すでに齢五十を越えている。本店の番頭より老分であるようだ、若夫婦のために経験豊富な老分番頭をつけて商売を教える、父親の配慮が覗われた。

 老分番頭が先頭に立って、歓談の座を取り仕切り、雰囲気を盛り上げる動きは実に如才がない。

鶴姫も忠智も至福なひとときを過ごした。

「お嬢さま」といって鶴姫の面倒をよく見てくれる千加のこころづかいがなにより嬉しい。よく気のつく、心やさしい性格のようだ。話をする語調は、ひかえめで、ぽんぽんと調子よく話をする本店の妻女との違いがあった。

 京都屋は忠常らの旅に番頭を同行させたいと申し出た。

「番頭は旅慣れています。石見の国へもよく行っておりますので、お二人様の旅が不自由なく楽しめますよう努めさせていただきとうございます」

「ありがたいことですが、娘と二人だけで旅を続けて行きたいと思います」

 忠智は丁重に断った。

「明日は、六つ(午前六時)に金浦(このうら)行きの便があるそうにございます。予約をとっておきました」

 手代が襖をわずかに開けて主に耳打ちした。

「それは、よかった。明日は、金浦行きの舟がありました。小さな舟ですが、瀬戸内の海です、波は穏やかでございます」

「金浦は、どの辺にございますか」

福山城下の近くです」

「それは、ありがたい。福山から尾道へでれば石州へ抜ける街道がある」

鞆の浦なら上陸してからの便利がいいのですが、四、五日に一回しかでません」

「いや、どこでもいい、本州へ上陸さえすれば、あとは何処であろうとも、陸続きだ」

 

 翌日も、すばらしい天気だった。朝から清清しい風がわずかに肌をなでる程度だ。

「ようございました。天候もよく、快適な船旅を保障されたようなものです」

 京都屋多度津店の主夫婦と二人の番頭に案内されて湊へでた。

 白壁の倉が海岸を覆い隠すように並んでいる。横の路地を抜けると一気に視界が開けた。

「湊だ」

 うすくかかった霧が遠くの景色のみを消し、昨夜、うっすらと見えていた小島が目のまえで浮かんでいた。どこまでも長閑な風景が広がっている。

 鶴姫が大きく深呼吸をした。

 湊には、海辺特有のすえた臭いが漂っていた。天日干しの小魚や、打ち上げられた海草類の臭いだった。

 荷足舟(にたりぶね)や猪牙舟(ちょきぶね)など大小さまざまな舟が浮かんでいた。金毘羅参りの客が多く、湊ははなやいだ空気に包まれていた。大きいのは大坂や泉州の堺湊へ行く船のようだ。大船の近くに数隻の猪牙舟が舫ってあった。海面は静かで波はないはずなのに大きく揺れていた。その下を無数の小魚が群れをなして泳いでいる。

 鶴姫と忠智は、京都屋のこころ暖まる見送りを受けて船出した。

 忠智らが乗った舟は、十人ほどの客で満席になってしまうほどの小さな屋形舟だった。

 どちらかといえば、川舟に近い型をしている。船尾に「太平丸」と船名が書かれていた。

 全長が四間、幅が一間弱といったところだろうか、そのほぼ中央に二間ほどの屋形が建てられていた。室内には、茣蓙が敷いてあり、両舷の障子はいっぱいに開けられていた。

 部屋の中央を、一本の帆柱が屋根を突き越えて上に伸びていた。

 室内を移動するには、腰を折って屈まなければ頭が天井につかえた。

 部屋の後方入口近くに、竹を市松に組み上げた壁で隔離された半間四方の部屋が付けられていた。それが厠らしい。

 下帯姿の船頭が、二人で竹竿を一突きして、岸から舟を離して櫓に変えた。器用に二丁の櫓を操って進めていく。ギーコギーコと櫓を軋ませながら徐々に速度を増していった。 

 太平丸は一定のリズムをもって軋み、力強く波間を切り進んで行く。年間を通して真冬以外の季節は下帯だけの半裸姿で働く船頭の躰は赤銅色に潮焼けしていた。

 全身から玉のような汗が吹きだしている。

 湊を出てすぐのところに、二、三十隻の小舟が群がって漁をしていた。その上空を無数の白い鳥が乱舞している、カモメだ。まるで引き連れて漁をしているようだ。

 漁師舟の上を群れているカモメが、時々急降下して舟の中の魚をかすめとっていた。

「あ、カモメが、せっかく獲った魚を盗んでいく」

「あー、また盗った」

 姫がくやしがっている。

「お嬢さん、カモメは、魚が群れているのを見つけて集まっているんです。漁師に『ここに魚がいるよ』と教えてくれているのです。だから、漁師はカモメを大切にしているんです。おすそ分けしてやっているんですよ。」

「なんだ、そういうこと」

 大きなため息とともに、一気に興味を失った姫が視線を他に移した。

 

 

 今出た湊が後方に小さく霞んだと思ったらもう、そこに次ぎの島が見えていた。

 客は、金毘羅参りの帰りと思われる男が四人、商人が一人、供の者を連れた中年の武士、百姓の隠居らしい夫婦、それに姫と忠智だった。中年の武士は、帆柱を背にもたれて座った。その他の客は、両舷の窓際で適当な間隔を空けながら席をとっている。皆がいちように窓を背にしていた。窓の外を見ているのは姫だけだった。船頭が櫓を置いて帆を上げた。舟は、風に押されて速度を増した。櫓の音が消え、船側に当たる波の音が静かに船内を包み込んだ。

「いい風が吹いてきた」

 船頭が、脹らんだ帆を満足そうに見ながら竹筒の水を飲んだ。

 舟の中で会話はなかった。仲間内で話をするときには小さな声で、最小限の言葉を交わしていた。静かに流れる刻のなかで、ときどき鶴姫の声が跳ねた。

 姫には始めての船旅だ、次ぎから次ぎへと見えてくる小島を指差して、あれはなんという島かと聞き、「美しい」と声をあげていた。

 舟の帆は、風をはらみ順調に進んでいる。

「海の上って、気持ちのいいものですね」

 風が、夏の日差しに熱せられた二人の躰を冷ましてくれる。姫が舷側の手すりにもたれて大きく深呼吸をした。

 満帆の風をはらんだ千石船が、すぐ横を追い越して行った、大坂へ行く廻船の一隻だ。天を圧するばかりの大きな船体に、姫は目をまん丸くしてあ然としていた。

 舟のすぐ横を、小さな魚が飛んだ。次ぎから次ぎと波間から飛び上がり、水面すれすれのところを一間ほど飛んで水中にもどっていく。まるで、蝉が飛んでいるような動きだ。よく見ると水中に群れている魚が飛びあがっているのだ。それが、てんでばらばらの方角へ蜘蛛の子を散らすように逃げ出している。

「父上、魚が飛んでいる」

 座したまま目を瞑っている忠智の膝をゆすった。

「飛んでいるのか、魚が」

 どれどれというしぐさで、姫の指差す先を見た。

「本当だ、飛んでいる」

 不思議そうに見つめる二人をみて船頭が笑った。

「お嬢さま、そんなにめずらしいですか、あれは『アゴ』と言いますだ。上方では『飛魚(とびうお)』といいます。舟にびっくりして逃げているのですよ。なかには、まぬけなやつがいてね、舟に飛び込んでくるのもいますよ」

「逃がしてやるのですか」

「なんのなんの、食べてしまいますよ、アゴの味噌汁は旨いですぞ」

 

 舟は、瀬戸内海を北上していた。

「さあ、昼餉(ひるげ)にしましょう」

 船頭が、部屋の隅に置いていた竹篭から、竹皮の包を一人ひとつずつ配ってくれた。客のほとんどが横になっていた。舟酔いで青い顔をした者もいる。横臥したままの客は竹皮の包に手をつけようともしない。

 姫は、けろっとしていた。姫だけが元気で、島のひとつたりとも見のがさないと、外の景色を見ている。

 竹皮を広げて、高菜にくるんだにぎりめしにぱくついた。醤油味が高菜と麦飯に馴染んで美味しい。

「お嬢さんは、なかなかの健啖ですの、食欲が旺盛だ、見ている儂らも気持ちがいい」

 船頭が両膝を床について中腰のまま客の間を動き回り、水の入った竹筒を一本づつ配ってくれた。今朝になって作ったものらしく、竹の表皮は青く新鮮な竹の香りが食欲をそそった。「あれ、島が遠くなるよ、あの島へ向かっているのでしょ」

 おにぎりをほおばったまま、姫が突拍子もない声を上げた。

 今まで、前方に見えていた島・高見島が、いつのまにか横手後方に移っていた。

「潮流ですよ、瀬戸内特有の潮流です。あれを乗り切らなければ島に着けません」

 二人の船頭が帆を下すと、「エイホ、エイホ」と声を揃えてそれぞれの櫓を漕ぎはじめた。

 舟は、がくんと舳先に衝撃を受けて潮流に逆らった。

 

 高見島と佐柳島を経由して午後には北木島の大浦に入った。こんもりと潅木の茂った山が海岸近くまでせり出し、水際に大きく口を開けたが横一列に並んでいた。家屋の中が舟着場になっている。

 太平丸は帆柱が高いため、船屋には潜りこめない。家屋の横に作られている板の桟橋に着いた。

 今夜は、ここに泊まるようだ。金浦までは、無理をすれば一日で到達できるのだが、潮流の関係で二日かけて行くのだと船頭が説明してくれた。島と島の間は潮流が早いため、逆らって進むことは並大抵のことではないらしく、転覆する虞もあるということだった。

 桟橋に立った姫がよろめいた。

「なんや、宙に浮いているみたい」

 ふらふらと身体を揺らせながら船屋の外壁にもたれかかった。

 忠智も同じ感覚を受けていた。

「すぐ直りますよ」

 船頭が笑った。

 案内された宿は、船屋だった。

「舟を着けると、その上が宿とは、上手く出来てますね」

 姫が、珍しそうに、下の小舟を覗いた。チャッポン、チャッポンと一定のリズムを持った波の音が、係留した舟を撫でていた。

 

 客は、三組に分けられて別の宿へ移っていった。そういえば、船頭は三人いたことを思い出した。忠智らは二人だけだった。

 夕食の味噌汁に魚が丸ごと入っていた。

「これが飛魚ですよ、ここらでは、あごと言います」

 船頭に、説明せよとでも言われたのだろう、膳を運んできた女房が言った。

 舟から見た飛魚は、蝉のように小さいと思っていたが、汁椀に入っている魚は頭と尾が椀からはみ出ていた。

 生臭さなんて全く無い、あっさりとした味だった。

 思わず二人は「美味い」と声を揃えた。

 この時代、軍勢が遠征するときは、鍋や食糧、夜具すべてを持参していた。宿に泊まる場合であっても、自らの鍋で調理して食べていた。だから、その地方独特の調理法を知る機会は少ない。旅先の郷土料理も良いものだと気付いた。

「島と島の間が狭いね、こっちの島を出たときにはもう、次ぎの島が目の前、あれなら、泳ぎの達者な人なら泳いででも渡れますね」

「お嬢さん、それがですね、昔の話ですが、隣の島からやってきた嫁が、親恋しさに泳いで帰ろうとしたが、そのまま行方不明になってしまったということがあったんですよ。良人が舟で実家へ迎えに行ったが帰っていなかったということです。海の上は近くに見えても実際は遠いし、島と島の間には人に見えない潮の流れがあるんです、これに捉まると、どんなに泳ぎ達者な男でも持っていかれる。それに、人を食う魚も、うようよいます」

「人を喰うのですか、おそろしい」

「この島でも、片足を食い千切られた人もいます」

「恐ろしい、明日、舟に乗るのが怖い」

「あら、船屋の女房が、お客を脅してはいけませんよね、ご心配なく、舟上の人には決して襲ってきませんし、舟が転覆することも、絶対ありませんから」

 女房が、亭主に叱られるわ、と、大仰に首を竦めた。

 

 翌日早朝に出立した小舟は、真鍋島、北木島、白石島を辿りながら、昼過ぎには備中笠浦近くの金浦に上陸した。船着場に着いて、太い綱を岸壁に舫ったのを確認した客が、めいめいに代金を払っている。順番を待ち、忠智も払おうとした。すると、「お代は、京都屋さんから過分にいただきました」満面の笑みを湛えた顔の前で右手を横に振った。そう言えば多度津を出航のとき「京都屋さんありがとうさんで」と、ふかぶかと腰を折って礼を言っていたのを思い出した。昨夜も二人だけで一部屋をあてがわれた理由が分かった、特別待遇を受けていたのだった。通常であれば何組もが一部屋に押し込まれるのが当たり前である。

供連(ともづ)れの侍がいぶかしそうに忠智を見ていた。

「それは、申し訳ないことをしてしまった、船頭さん、こんど京都屋さんに会ったら、それがしが礼を言っていたと伝えてください」

 船頭のひとりに、心づけを渡そうとした。

「こういうものは、二重にいただいたら金毘羅さんの罰が当たります。それに、京都屋に押し入った夜盗を一人で退治なさったと聞きました」

 船頭は、笑みのまま忠智の手を押し返した。

「なに、そんなことを聞いたのか」

 忠智は困惑の表情をして、そそくさとその場を離れた。

「なにしろ、川之江城下を恐怖に陥れていた賊を、お一人で一網打尽になさったらしいぜ」

 後方で、話が大きくなっているようであった。