福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

阿波・雲霧城

 伊予国との国境近く、馬路川右手の小高い山に、小笠原長重の城がある。

 城山は川の両岸から急激にそそり立つ懸崖な山の頂にあった。背後には峰畑山(七四八メートル)が屏風のように連なっている。

 

 城内は戦支度でごった返していた。

 兵の顔は強張り、将士に叱咤されながら、せわしなく動いている。

 籠城を覚悟した姿であった。

 

「七郎、わたしは帰らないよ」

 忠智の顔を見るなり綾姫の第一声が飛んできた。忠智はなにも言えなくなった。

「このとおり頑固での、さすがは長弘さまの娘御よ。それでは、わざわざ石見から来た七郎左衛門の面目が立たん」

 取り付く島を失った忠智に長重が助け舟をだした。

「七郎左衛門には、すまぬと思っている。でも、わたしは小笠原長重の妻です。夫が命をかけて戦うというときに逃げ出すような女は、石見にはおりません。川本のお義姉さまだってそうでしょ」

 綾姫が、お義姉さまと言ったのは兄(長正)の妻太宝のことである。安芸高田郡五竜城主宍戸隆家の娘である。女ながらも強弓大力で勇名を馳せていた。

「わたしだって、一人や二人、射止めてみせます」

「よく分かりましてござります。ですが、…・・三好さまも、孫娘の婿であられる長重さまを、お討ちになられますでしょうか」

 忠智は、長重に『三好氏のところに出向いて身の潔白を証明なさい』と言いたかったのである。

「それは七郎左衛門が、わざわざ石見から来たことでもわかるであろう、小笠原どのは儂が三好之長に誅殺されるとみて、せめて妹だけは助けたいと思われてのことであろう。だが、儂は何もしていないぞ、儂が叛旗を翻していると言っているらしいが誰かの策謀であろうよ」

「三好さまは長重さまのお気持ちを、お聞きにはなられなかったのでしょうか」

「来いといってきたさ、根も葉もない噂に説明などいるものか。儂は行かなかった。それが悪かったようだ」

 長重が自嘲ぎみに言った。顔には、暗く寂しい影があった。

「…・」

「三好さまは厳しい人だ、自分に逆らう者は容赦なく抹殺する。たとえ、わが子であっても殺すであろう」

 長重は、すでに覚悟を決めているようであった。

「七郎左衛門、早々に立ち帰って父上に伝えてくだされ、『綾は夫とともに戦います』とな」

 時間をかけて説得するしかない。粘りづよくいくことだ。と、その日は退出した。

 

 しかし、異変は、その翌早朝にやってきた。

 三好軍が押し寄せてきたのだ。

 迅速をきわめた行動だった。

 またたく間に包囲されてしまった。

 それにしても敵がこれほどの大軍を動員するとは考えも及ばなかった。そればかりではない、城周辺の地侍までも引きいれてしまっていた。

 城の周囲では敵勢が益々脹れあがっている。昨日まで、わが麾下であった武将が平然と旗指物を翻し敵に加わっている。

「知らなかったのは、儂だけか…・」

 おのれの地盤で、これほどの下工作をされていたにもかかわらず何も気づかなかった長重は、おのれのうかつさに自嘲するしかなかった。特に、股肱の臣川辺三十郎の旗幟を寄せ手のなかに見つけたとき全身の血が滾(たぎ)った。降伏することは三十郎らわが臣に命乞いをすることである。長重には堪え得ることではなかった。

「やつらに頭など下げられるか」

 吐き捨てるように言った。

 長重の決断は早かった。

「武士らしく戦って死ぬ。逃げたい者は逃げよ」

 城内の兵に徹底抗戦を告げた。

 女子供らに混じって平然と退去する武将があった。

 これまでの恩義など、どこ吹く風、どうどうと逃げ去った。

「死んでしまっては元も子もない」

 彼らの言い分なのだろう。

―主従の絆は、これほどに脆いものなのか。

 忠智は衝撃を受けていた。忠智も六人の家臣に寝返られたばかりだ。

 衝撃は暗澹とした思いに変わった。

「信義というものはないのか」

 叫びたかった。

 もはや城を守りきるほどの手勢も残っていない。

 明日は敵の総攻撃であろう。圧倒的多数の敵が総攻撃を掛けてきたならば、この小城など、ひとたまりもない。

 客人とはいえ忠智も武士である、逃げ出すわけにいかない。長重とともに戦う決心をした。

 夜おそく、明日の討死を覚悟して三の丸館で寝ているところを長重に呼ばれた。

 本丸では甲冑に身を固めた長重と綾姫がわずかの重臣とともに座っていた。

 長重の端正な顔が蒼白となっている。眼は血走り、わずかな赤みが目元に差していた。死を決断した姿であった。

「お鶴を助けたい、石見の国へ連れて行ってほしい」

 長重と綾姫の願いだった。

 十三歳の鶴姫を彼岸へ連れていくには不憫であると言った。

 忠智は、引き受けた。

 鶴姫には、やえが付き添って行くことになった。やえは、重臣の娘で三十歳になっていた。常に、しずかでおとなしいが芯の強い女である。鶴姫は、姉のように慕っていた。

 長重は十人の護衛を隋けた。本丸に残っているのは三十名しかいなかったが、そのうちの十名を護衛としたのである。

 忠智は明け方の敵がもっとも熟睡している隙に包囲網を突破することとした。

 裏手の谷川を伝い、城山に連なる峰畑山を越えて伊予国へ向かった。

 敵は山の中腹から尾根にわたって野営している。谷川沿いは両側の斜面から急襲されたとき逃げ場がないという危険がある。だが、水の干上がった谷川など眼中にないだろうと思われた。

 忠智らは一列になって一言も喋らず歩いていた。喘ぎ喘ぎ、それでも歩みの速度は落とさない。緊迫感だけが疲れ切った躰を奮い立たせている。

 鶴姫は両親と別れた悲しみをぶつけるように黙々と歩いている。着物が夜露に濡れ、足元が重い。荒い息づかいが伝わってくる。ごろごろ転がっている石に足をとられて歩きにくい。

 男の忠智でさえ難渋しているのに、鶴姫とやえには踏破不可能に近い。二人は歯を食いしばって耐えている。

 一行は、ときどき止まって息をひそめ、耳をすました。厳しい眼を周辺に向け、深い闇のなかに何かを見つけようと凝視するが何もない、ほっとしてまた歩き出す。

 喉はからからだ。恨めしそうに渇いた川床をみた。足元では水が地中を通っているらしく清らかな音が聞こえている。だが、川底を掘り返して水を得ることは、忠智らが通過したという痕跡を残すことになる。

 

 重い足を引きずって歩いた。

 険しい山稜の頂きは厚い雲に覆われていた。

 突然、清冽な流れが現れた。

 忠智が山蕗の葉で水をすくって姫に渡した。鶴姫が一気に飲み干した。わずかに、苔の味が残る冷たい水だ。

 色白で、ふっくらとしていた姫の顔から血の気が引き、やつれた頬に一本の髪の毛がこびりついていた。

 

 忠智は城を脱出して直ぐ闇に紛れて消え去る護衛の士を、悲痛な面持ちで感じ取っていた。次ぎから次ぎへと消えていく。

「去る者は去れ」

 叫びたい気持ちを必死で黙殺した。おのれの臣ではない彼らに逃げるなと言える立場ではない。逃げた士にも親や子もある、家族を残してまで他国へ行くことなどできないのであろう。

 七人が逃走した。残った護衛は、三人の士だけとなった。

 

 あと、すこしで敵の包囲網を突破できるというとき、後方でざわめきが起きた。

 敵に見つかった。

 三人の士が迎撃の覚悟を決めた。

「ご尊名を」

 忠智が聞いた。

「蘆田三郎裄綱にござります。これまで長重さまからいただいた御高恩に報いたいと思います」

「前山源三光盛にござります」

「盾川五郎貞芳。姫を、よろしくお願いいたします」

「受けたまわった」

 忠智の力強い激励を受けた三人が多勢の敵に対し、生還に一縷の望みも掴みえない絶望的な突入を果たした。

 忠智は闇のなかに消えた三人に頭を下げた。

 部下は大切に労わり、その心を掴まねばならぬということが身に沁みてわかった。

 いざというとき、主人を裏切って自分の保身を考える家臣に対する憤怒も、いささかながら緩くなっていった。

 父治堅の死去に乗じて都治家へ鞍替えした田多神次郎らに対して、一度も話しかけることなどなかった。主という立場に胡坐をかいていた自分に気付いた。

 

 男は忠智だけとなった。忠智が姫とやえを連れて逃げなければならない。

 

 対面の尾根から火の手があがった。すさまじい炎が朝霧を赤く染めている。

 あの火炎は鶴姫の両親が生涯を閉じたことを知らしめている。

 そのとき、城では長重と綾姫が最後の決断をしていた。

「一族で命の取り合いをすること、わが本意にあらず」

 二人は家臣すべてを城から退去させたのち、本丸に火を放って自刃した。敵の総攻撃直前だった。

 鶴姫とやえは息をつめ無言で見つめている。もはや帰る家とてない。

 鶴姫の顔には表情が無い。突然、噴出した過酷な運命に気持ちがついていかないのであろう、虚ろに、赤く染め上がった空を見ていた。

 忠智も綾姫を石見へ連れ帰ることができなかった。御屋形の心を思って、暗澹とした思いに胸が押し潰されそうになる。さらに、死ぬことが分かっていながら長重と綾姫を残して脱出したことに、忸怩とした感慨にとらわれずにはいられない。

このうえは命のつづく限り姫を護りとおすことだ。

 それが長重に対して、せめてもの手向けになる。

 懊悩とした動揺が緊張した姫の顔に現れている。

 忠智の死は即ち姫の死に繋がる。おのれがしっかりしなければ皆の不安を取り除くこともできない。

「さあ」

 押し殺した声で皆をうながした。いつまでもここにいてはだめだ。敵の追跡をかわさなければならない。

 重い足どりで歩み始めた姫が一度だけ城の方角を振り返った。

 

 一行はながい時間を費やして、やっとのことで尾根を越えた。

 山の向こうには幾重にも連なる山塊がとめどもなく広がっている。

 伊予の国までは、人里を離れ山中に身を隠して逃げなければならない。

 気の遠くなるような距離だ。

 小鳥の啼き声が森の中を飛び交っている。

 陽が中天を過ぎた。ひとまずは追跡を振り切ったようである。

 山道を避け、獣道を辿って山を下りると、また傾斜のきつい上りとなっている。昨夜から幾度も上り下りの繰り返しだ。

 三人は重い足を引きずりながら、深い木々の間にもぐりこんで行った。

 忠智らは西へ向かって歩いていた。昼は太陽を、夜は星を見て方角を見極めた。

 できるだけ早く危険から脱したいと、ひたすら歩きつづけた。

 落ち葉を踏み、シダをかき分け、潅木を越えながら歩くうち、方位を見失っていることに気づいた。

―ここは何処だ。今、歩いているのは讃岐を東西に横たわる山脈のはずだ、西へ行けばいいはずだ。

 忠智は不安に襲われていた。しかし、心の動揺を面に出すわけにはいかない。冷静を装って黙々と歩いた。

―とにかく、人家か街道に行き当れば…。

 心のなかで念じていた。

「キー」

 唐突に鋭い鳴声が響いた。ぎくっと立ち竦(すく)んだ一行は、すぐ近くの崖上にいる鹿を見つけた。仲間に知らせる警戒音だった。

「びっくりしたなもう」

 鶴姫が照れ隠しに小石を拾って山のなかに投げ入れた。

 その夜は岩陰で野営した。

 そこは砂地だった。上部が屋根のひさしのように突き出た岩は雨の侵入を防ぎ、幸いにも砂が乾いていた。獣の足跡が無数に残っていたが、それはいずれも通過した跡だった。

 忠智が砂を盛り上げて枕をつくり、やわらかな雑草を敷きのべて寝床とした。一番奥に鶴姫を寝かせ、その横にやえを寝かせた。

 戦陣では土の上に莚を敷いて、甲冑のまま夜掛一枚を羽織るだけで過ごすことの多い忠智は、夜露にも耐えることのできる身体を持っている。外で寝ることのない姫ややえには堪えるだろう。薮椿の小枝を大量に切り取って二人を覆い隠した。幾重にも重ねた木葉が、わずかなりとも冷気を和らげてくれるはずだ。

 忠智も仰向けになって思いきり手足をのばした。砂が身体の曲線に馴染んで、なんとも気持いい。

 山峡の夜は静まり返っている。山の生き物すべてが寝ているような静寂が過ぎていく。

 わずかな風の音に混じってかすかに狼の遠吠えが聞こえてきた。ずいぶん遠くのようだ。

 目の前につきだした自分の手さえ見えない漆黒の闇中に、数匹のホタルが優雅な曲線を描いて飛び交っている。蛍の時期は梅雨時だ。季節はずれの蛍だった。それでも青白いほのかな光りは忠智の心を癒してくれた。梅雨の一時期、四ッ地蔵城の前濠を無数の蛍がやわらかな光りを発しながら乱舞する。忠智は幼い頃、虫篭と竹箒を持って蛍狩をしたものである。

僕従の佐平が作ってくれた竹の虫篭は、薄い和紙を張って蛍専用としたものだった。竹箒で払い落した蛍を集めていれると、虫篭がほんのりと明るくなってくる。実に幻想的だった。

 こおろぎが鳴いている。手を伸ばせばとどきそうな近くだった。

 秋口の山中は寒い、鶴姫とやえは寄り添って寒さを凌いでいる。横たわっているが寝ていないのだろう、眼を閉じ長い夜を堪えているようである。姫の気持を思うと締め付けられるような痛みを胸に感じる。心の奥にこみ上げる索漠感に押し潰されそうだ。

 忠智もうとうととしていた。

 忠智の背を、ぞっとする戦慄が奔った。背筋がぞくぞくと震え全身総毛立った。

―殺気だ。

 夜目にもみえるほど身の毛がよだった。

「起きなされ」

 すばやく身を起した二人が真っ暗闇で身構えた。

「立つのだ」

 忠智が二人を背にして立ちあがった。

「狼だ、狼の群れが我々を狙っている」

 二十間ほどしか離れていない林のなかに異様に光る眼があった。、燐光を放つ無数の眼が微動だにせず、こちらを見ている。獲物を襲う目だ。

「ずいぶんいますね。大丈夫でしょうか」

「狼は立った人間には、めったなことで襲ってくるものではない。だが、狼は縄張りをもつ動物だ、それを荒らせばただではすまない。襲ってくるときは群れをなしていっきにくる。一匹や二匹殺したところでなににもならない、よってたかって食い殺される。決して姿勢を低くするな。やつらは人間の急所が喉もとであることを知っている。喉もとを食い千切られたら終りだ。どんなことになっても、ここから動くな、やつらは頭がいい、我々をばらばらに離して一人ずつ殺していこうとする」

岸壁を背にして三人が一塊となった。

「ここに居る限り、狼は左右と前方からしか攻撃できない、人間の一番弱い背後と頭上は岩が遮っている、護るには絶好の場所だ、絶対に動くな」

 群れから、猛々しい眼をした一匹が、ゆっくりと間合をつめてきた。頭を低くし唸りを発している。攻撃態勢だ。じりじりと輪がせばまってくる。

忠智らは、狼の縄張りを侵したようだ。

 忠智が抜刀した。小太刀を抜いてやえに渡した。

「やえ、火を焚いてくれ」

 忠智が、やえを背後に隠した。

 夕方、忠智が枯れ木を集めていたのを、やえが思い出した。手探りで集めて、火打ち石を叩いた。

 ぼっと辺りが明るくなった。枯れ木に点いた火が、勢いよく燃え上がった。

「どんどん燃やせ、そこの青竹も燃やせ」

 言われるままにやえが火を大きくした。

「パーン」

「パーン」

 凄まじい音をだして青竹が破裂した。音は山峡にこだまして大きさを増し、谷間を行き交った。

 三人を包みこんでいた殺気が消えた。闇のなかの不気味な眼も消えていた。

「危なかったの、火を焚けば、追っ手に見つかるかもしれないと、焚かなかったのが災いした。焚かなければ、狼や山犬に襲われる。今のはおそらく山犬だったのだろう。狼ならあんなことで逃げはしない。一晩中、火は絶やしてはいけない。獣は、火を怖がるから、火が燃えている間は襲ってこない。火は、それがしが見ます。二人は安心して寝てくだされ、明日も一日中歩かなければなりません、体力を保つには睡眠が一番です」

「それでは、福冨さまが…」

 やえが、わたしも火の番をしますと言った。

「いや、やえもゆっくり寝てくれ、それがしは、何日も山に籠って剣術の修業をしている、一日や二日寝なくて、へこたれるような軟ではない」

 忠智が、立ちあがって焚き火の回りを飛び跳ねた。仕草が可笑しかったのか、やえと姫が声をころして笑った。再び、二人を小枝の中に潜り込ませた。火の番と言っても、ただ、火が消えないように見守るだけではない、さきほどの狼が再び襲ってくる虞がある。気配を消して一気に寝込みを襲われたら忠智といえども遅れをとるだろう。やえに任すわけにはいかない。

焚き火が岩陰を暖め、身体の緊張を溶かしていく。

「やっぱり、火はいい、炎を見ていると心が落ち着いてくる」

 しみじみと思った。

 

 朝になった。冷たい霧が足元を流れゆく清冽な朝だった。

 寒い。

 両腕に立つ鳥肌を手のひらで摩りながら、忠智が立ちあがった。

 近くを流れている川へ行って篭をあげた。昨夜、道端に延びている蔓を切り取って、細長い篭を編み上げ、みみずを入れて水中に仕掛けていたのだ。

 篭には、三匹のうなぎと無数の手長えびが入っていた。背開きにしたうなぎを一寸ほどに切り、手長えびとともに、竹串に刺して焼いた。焚火の煙は濃霧に消されている。これなら敵に見つかることもないだろう。

 良い香りが漂ってきた。

「できましたぞ」

 忠智が、焼きあがったうなぎに塩を振りかけて、姫とやえに渡した。

「おいしい」

 ふと、やえが立ち上がり、山肌に自生している山椒の葉を採って、手のひらで、ぱちんと派手な音をたてた。香ばしい湯気の漂ううなぎに山椒の葉を載せた。すばらしく良い匂いが鼻腔をくすぐった。

「さすがだ、良い香りだ」

 忠智が、鼻をならした。

 鶴姫の顔に微笑が浮かんだ。わずかではあるが、脅えのかげりが薄れている。

「ひとまず、窮地は脱出したでありましょう。今日は、人里にでます。しっかりと食べて元気をつけてください」

 忠智もかぶりついた。意外と旨かった。

 安堵の気持ちを持ったことが、食欲をそそったのか、鶴姫とやえも乾飯を食べ、うなぎをほおばっている。

「おいしい。手長えびも、なんとも香ばしくてうまいですね」

 幾度となく、口からもれてくる。

 

 一つの尾根を乗り越えて下りきったところに沢が流れていた。ほとんど水のない谷川だったが、道は、そこで忽然と消えていた。対岸はびっしりと羊歯が生い茂り尾根への上り口が分からない。

「道は、あるはずだ」

 忠智は岸辺を這うようにして羊歯の下を掻き分け、行き来して道を探した。

「やっぱり道はあった」

 探し当てた道は、あるようなないようなところだった。

 忠智は羊歯のなかに踏みこんで行った。そこは未踏の地ではなく、けもの道でもない、明らかに人が通った形跡があった。猟師が何回も通ってできただろうと思えた。地表はやわらかな土が露出して気持ちのいい道だったが、羊歯でさえぎられて土は見えなかった。足元が見えないと、なんとも心もとない。足で探るように歩いていた。

 

 突然、切り立った崖の縁に出た。

 木々の隙間を通して、はるか彼方に海が見える。海面は白く輝いていた。海は荒れているようだ。海岸のすぐ近くに、ぽつんと単独で座している小高い丘の上に、城らしい建物があった。その周辺にはかなりの数の家が見える。それが、何処なのかは分らなかった。

伊予国だ」

 忠智が指差した。

 良く見ると崖の下に道があった。

―やれやれ、助かった。

 崖の縁をたどって道に下りた忠智が安堵のため息をついた。

 急峻な斜面につけた道は、大きく蛇行しながら下っていた。谷は深く、見下ろすのも躊躇するほどの絶壁だ。

 もはや、敵線をくぐり抜けたであろう。

「もう、すぐそこに人里がある」

 構える心に緩みが生じていた。

 道に突き出た巨岩を迂回するように、大きく曲がったとき、不意に前方を塞がれた。数人の野武士が行く手を遮っている。

 まったくの突然であった。

 総勢六人、いずれも日焼けした精悍な男たちだ。

 殺気がこもっている。

 野武士は、ずいぶん以前から忠智らを追跡していたに違いない。

 崖道の右手は、岩はだが露出した急斜面であり、左手は、深い谷になっている。

 地形をうまく利用した、みごとな包囲であった。まったくの不意打ちだ。

 万事休す。忠智は、命を賭して戦うしか逃げ道のないことを悟った。戦場で数々の修羅場をくぐり抜けているだけに、なにがあっても動じない肝太さは身についている。瞬時に戦いの気迫が漲(みなぎ)った。

 敵は、無言であった。口元にうすいを浮かべていた。三人を標的にしているということは、としたが全てをものがたっている。頭領らしい男のひげ面は、頬が大きくれていた。刀傷だ。

 忠智が、大刀を静かに抜いた。

「やえ、死にどきを誤るでないぞ」

 忠智が、正眼の構えをとりながら、やえに言った。

『忠智が遣られたら、姫の始末をし、自らの命を断て』と言ったのだ。

 先頭の野武士が突進してきた。荒っぽく力強いだけの太刀さばきだった。隙だらけだ。

―大したことない。

 忠智が余裕をもって躱(かわ)した。

「やえ、はやまるでないぞ」

 忠智が言い直した。

「こんなやつらに負ける儂ではない」

 何人いようとも、所詮は野武士の剣法にすぎない。

「はい」

 毅然とした声が後ろから聞こえた、姫の声だった。

 

 とてつもなく背の高い、髭面の男が無鉄砲に突進してきた。剣術の心得などまったく無い、体当たりと同じだ。余裕をもってを躱(かわ)すと、そのまま前のめりに走って谷に落ちた。

 横から袈裟斬りがきた。力任せに叩いてきたと言ったほうが良さそうだ。これを、まともに受けてしまえば忠智の剛刀といえども、ひとたまりもなく折れてしまう。

 忠智が、うしろに跳びすさった。空を切った野武士が態勢を立て直そうとした瞬間、地を蹴って間合いに飛び込んだ忠智の太刀は、ふかぶかと野武士のわき腹を裂いていた。野武士が大仰な声を残しながら谷へ消えていった。

 すでに、次ぎの攻撃が忠智の身に迫っていた。上段から打ち下ろされる刃を太刀で受け止め、そのまま撥ねあげた。間髪入れず敵の首筋を払った。ヒューと凄まじい喘鳴が洩れた。

 敵は、崩れるように倒れながら、頭から谷へ落ちた。首根から噴出する血しぶきが、霧を赤く染めた。

 野武士は次々と打ち込んでくる。間断なく繰り出される白刃を、ひたすら耐えつづけ、隙をついて斃(たお)していった。

 そのとき、忠智の背筋をすさまじい殺気が襲ってきた。

 一行のなかでは、一番年嵩(としかさ)らしい男が、後方から忠智めがけて手槍を投げつけたのだ。

 太刀で叩き落とす余裕がなかった。咄嗟に躰(たい)を開いて躱(かわ)した。

 槍は、忠智をすり抜けた。

「う」

 後方で、うめき声がした。

 やえの声だった。

 手槍が、やえの胸を貫き、剣先は背に突きでていた。熊や鹿など大型の獣を仕留める鑓だった。

 やえは、姫の前に立ちはだかり盾となっていた。

「しまった、やえ、大丈夫か…・」

「やえ、死んではだめ」

 姫の絶叫が山峡にむなしくこだました。

「やえ、しっかりしろ」

 忠智が、狂鬼と化して野武士にぶつかった。凄まじい斬撃が野武士を襲う。

 忠智の白刃を受けた野武士が、次々と谷へ落ち、絶叫が深谷に消えていく。

「やえ」

 鶴姫の絶叫に、我に返ったとき、野武士の姿が消えていた。

 すべて忠智の剣尖を受けて、谷へ転落していったのだ。

「やえ、しっかりしろ」

 やえの顔には、すでに死相が表れていた。

「姫さまを…」

 最後の声だった。

 激しく泣きながら肩をゆする鶴姫に、やえの応えはなかった。忠智は、血刀をさげたまま悄然としていた。

 

 遺髪をとり、亡骸は山裾に立つ一本杉の根元に埋めた。野菊を供えて両手を合わせた。

「やえ、すまないことをした。姫は、それがしが護る。安心してくれ」

 忠智も泣いた。やえを護りきれなかった悔恨に、しばらく茫然と跪いているだけであった。

 

 つづら折れに、だらだらと下る道の先に集落が見えた。深く切れこんだ谷の底に川が流れている。川幅は狭いが水量は多いようだ。山々の隙間にわずかばかりの萱葺屋根がへばりついている。今夜は、野宿をしなくても済みそうだ。

 集落に圧しかかるように、真っ黒い雲が低く垂れ下がっていた。くっきりと見える黒雲の底が集落のすぐ近くまで迫っている。あの黒雲の下に潜りこまなければ村に入れない。思わず躊躇してしまうほどの威圧感だ。

 山を下りきると、水量の多い小川につき当たった。手足や身体についた返り血を洗い流した。そして、血に濡れた刀を水流に浸して丁寧に洗った。 

 水車がゆったりと回っている。久しぶりに見る人里の気配だ。死の絶望から脱出したという確かな手応えを感じた。

小屋の引き戸を空けたが、中に人の気配はなかった。水車の回転によって上下する杵は止まったままで、軸だけが空回りしていた。

小屋の横に群生している白い野菊が薄暮のなかに浮かび上がっていた。

 すさまじい稲妻が奔った。耳をつんざく雷鳴が山に反響して二人の腹を震わせた。

雨が降りだした。正面から横なぐりに顔を叩いて、目を開けておれない状態となった。口を大きく開けて呼吸をしなければならないほどだ。

 忠智が姫をふり返った。全身濡れねずみになっていた。

「頑張って下され」

 忠智の声が豪雨に消された。

 差し伸べた左手を、姫が、しっかりと握った。雨に濡れている手がわずかに震えていた。

 小屋の前を小川沿いに下って村に入った。静まりかえっている。

 峠から俯瞰した村には平地がなく、山の斜面に一、二軒の家屋がへばりついている集落に見えたのだが、村に入ってみると山奥にはめずらしく萱葺の高屋根をもつ家が点在していた。

 それでも、往来する者も無く侘しく深閑とした村だ。

 すでに、村は視界を失いかけていた。天をつく萱葺き屋根の頂きは闇に没している。

 二人は、村はずれに建つ一軒家の戸を叩いた。屋内に、人の気配はあるのに、なかなか出てこない。二人は、ずぶ濡れであった。鶴姫の唇は寒さのため紫色に変わっていた。忠智ひとりなら、先ほど通りすぎた水車小屋でもいい。だが、もはや豪雨のなかに鶴姫の身をさらすことはできない、執拗に戸を叩いた。「どうしてもでて来ないようであれば、戸を蹴破ってでも押し入る。」最後の決断をしようとしたとき戸が開いた。

 やっと、出てきた男の眼には、脅えのかげりが走っている。

「主命により旅をしている者だ。道に迷い、難渋している。今宵の宿を頼みたい」

 男は、「それは、大変でございましょう」といいながらも、「貧しい百姓でございます」

くどくどと言い訳をしている。旅の者など、泊めたくもないと言いたいのであろう。

 男の眼は、しきりに忠智の背にいる姫を盗み窺っている。けげんな顔が困惑に変わった。

「このようにずぶ濡れだ。どのようなところでも良い」

 忠智らは、強引に家に入った。

 

 土間では、藁束に囲まれて女房が縄を編んでいた。土間の左側に、いろりのある板の間があり、土間の右奥にも一坪ほどの板の間があった。屋内は、それがすべてだった。いろり端で赤子が寝ている。

 悪いやつではなさそうだ。しかし、表面上は、善良な民を装った匪賊村だということもありえる。

 忠智がすばやく、屋内を見てまわった。

「家族は、これだけか」

「へえ、三人だけです」

 男が、あきらめた声で、女房を促(うなが)した。

 女房が、いろりの火を熾した。煙がどっとたちあがり萱葺きの屋根に吸い込まれていく。

 忠智が銀粒を渡した。見たこともない大金だといった態度で、ものめずらしそうに見つめていたが、明朝には出て行くと言ったことが効いたのか、たいそう機嫌よくなった。

「申し訳ございませんが・・洗い桶がないものですから・・外の小川で足を洗ってください、すぐに、風呂を沸かしますが時間がかかりますので…」

 男が指さしたあたりに、小川が流れているらしかった。

 すでに、暗くなって、こちらからは何も見えない。さきほど、山を下りて小川に沿って歩いてきたのを思い出した。

踏み石も上がりかまちも必要のないほど低く設えた座敷に、直接腰を落として二人は草鞋を解いた。

囲炉裏の端に寄って手をかざした。手の平から伝わる温かさが全身の緊張をほぐしていった。

 沸いたからと案内された風呂は、家の裏にあった。

 星が輝いていた。

「あの豪雨は、いったい何だったのだ」

 忠智と姫が顔を見合わせた。

 風呂場は、粗末な荒土の壁に囲まれた杉皮屋根の小屋だった。入口の右側に焚口があり、ちょろちょろと赤い炎が外にこぼれていた。

 戸を空けると、土間にスノコ板が敷いてあり、奥のかまどに釜が載っていた。その上に桶が取り付けられて八分目ほどの湯が溜まっていた。忠智も初めて見る風呂だった。

 石見地方で、風呂といえば釜で沸かした湯を桶に汲み取って身体を洗っていた。それも冬場だけのことである。夏は、井戸や川で済ますことが多い。今で言う行水であった。

それにしては、釜の上に桶が固定されている。身体を洗うときには座して、湯を汲むときには立たなければ手はとどかない。不思議な風呂だった。

「すまぬが、この娘に入浴方法を教えてやってはくれまいか」

 女房に頼み、忠智は焚口の腰掛石に座った。

「え」

 女房が意外そうな顔つきで振り返った。

「すまぬ、この娘は旅になれてない、早く濡れた着物を脱がせたい」

 姫を自分の娘だという言い方をした。忠智三十四歳、お鶴十三歳、ごく普通の父娘になった。

 忠智の説明に納得した女房が鶴姫とともに風呂場に残った。

「この敷き蓋に足を乗せて、沈ませながら身体を浸けるのですよ」

「え。この釜の中に浸かるのですか」

 鶴姫が驚いている。

「えー、そうです。そこに足を掛けて、ほら、片足ずつ入れて、この板の上に両足を載せてから、体を沈ませるのです」

「温泉に入る要領でいいのですね。温泉へは入浴したことあります」

 鶴姫が驚いたのも無理ない。この時代、温泉場以外で湯の中に体を浸ける習慣がなかったのだ。ほんの数年前(室町時代初期)から、風呂というものが出回ったが、釜で沸かした湯を汲み取って体を洗うものであった。

 女房が、いそいそと動き、鶴姫の面倒をみてくれている。突然、快活な笑いが浴室から立ち上がった。

「あわてなくてもいいのですよ、そうそう、ゆっくり、ゆっくりと足で押さえていくのです」

 鶴姫が失敗して浮き蓋に逃げられたらしかった。鶴姫も笑っている。

「釜に入るなんて私が料理されるみたい。あー、いい気持ち」

 鶴姫が吐息を洩らした。緊張から安堵に代わった安らかな声だった。

「私の家では、別の場所で沸かしたお湯を、風呂桶に入れるのですよ」

 鶴姫が、ゆっくりとかみしめるように、言葉を選びながら女房と話し出した。

「ここら辺りでは、もうずいぶん前から、このような風呂があるのです。そこの窓に樋を通すと谷川の水が桶に流れ込むようになっているのですよ。これだと、谷川から桶を担いで水を入れる必要もありませんしね、楽です」

「すばらしいですね。あーいい気持ち。これなら温泉の入湯と同じです」

「いちど、ここへ上がってください、お身体を流しましょう」

「女房殿、すまぬことですの」

 焚口から礼をいう忠智に、「いいえ」とこたえる女房の声が揺れていた、せっせと姫の身体を洗っているようだ。

 女房が自分の帷子(かたびら)を持ってきて着替えさせた。

 忠智には、男の着物をだしてくれた。洗濯糊が利いて気持ちよかった。

 女房が濡れた着物を裏の軒下に干してくれている。

いろり端に熊毛の敷物を広げて二人を座らせた。雨と寒さから開放された二人の体から、緊張が吐息となって消えた。

 一匹ずつ串刺しにした魚が数十本いろり端に立てられていた。やまめだった。香ばしい匂いが食欲をそそった。

「手前製ですが…」

 土間の壁際に置いてある黒い甕(かめ)から掬ったどぶろくを、お椀に淹(い)れて忠智の前にさしだした。

 甕は、土間に埋もれ、口先だけが出た縁に布を被せて、荒縄で括ってある。その上に木の蓋がしてあった。

 酒にあまり強くはないが、今までの緊張と疲れから、少しだけ飲むこととした。

 口に含むと麹の香りが鼻腔に広がった。ほどよく酸味の利いた旨い酒になっていた。適度に冷えていて、すっと喉を通過した。気分がゆったりとしてきた。

やまめを肴に飲んでいると、酒に弱い忠智でも、いくらでも飲めるような気がした。

 女房が、鍋に肉片と野菜を入れていろりに吊った。

 土間に下りた男が、鉈(なた)と鑿(のみ)に似た道具を持ち出し、丸木を器用に削って杓子と箸を作った。

「なにしろ、客用のおわんがありませんので…」

 土間の奥から持ち出した荒削りのお椀二個を丁寧に洗った。木を削っただけのものだ。

 男が、いとも簡単に作った杓子は、みごとなできばえだった。杉の香りが食欲をそそる。

「かたじけない、造作をかける。それにしてもこの杓子は、すばらしい作りだ」

 忠智が、杓子を持っていろいろな角度から見つめている。

「これが本職ですから」

 男が、指差した土間の奥には、小さな板の間があった、作業場らしかった。そこには、粗削りのおわんが山積みとなっていた。男が本職だと言ったのは木地師だった。川之江城下の漆器屋に納めていると言った。

「なるほど上手なわけだ」

「この辺りの家は、ほとんどが木地師です」

 山奥であるにもかかわらず、あちこちに点在する家屋は大きくりっぱな造りだった。当時、百姓の家屋で床張りの座敷をもっているものは少なく、土間の一部を仕切って藁をならべ、その上に莚を敷いたものがほとんどであった。この家は、普通の百姓家とは違って、小さいながらも座敷があり、風呂もある。木地師だということを聞いて忠智が納得した。木地師なら収入もあるのだろう。

「儂らを取り仕切っておられる頭領さまは、とても優しい方です。たくさんの木地を作るには強制ではだめだ、皆が自ら競い合ってつくることが必要だと言って、出来高に応じて手当てをくれます。お陰さまで、このような家も持つことができます」

「なんとのう、そのような考えもあるのか」

「儂らは、仕事を楽しんで精一杯、働いています」

百姓からは年貢を取り、木地師のような物造りの者には、製作数量を課すことしか頭にない社会通念上からいえば、ふしぎな考えだ。だが、出来高だけを見れば、競争をさせるほうがいいということか。忠智にも、考えの及ばない社会であった。ふと、弟の正秋を思い出していた。商家の養子となった正秋には理解できるだろうか。

 鍋には、うさぎの肉が入っていた。たっぷり入ったキノコと野菜に肉の旨みがしみこみ、とろけるような旨さをだしている。皮をむいた小芋が丸ごと入っていた。杓子ですくって箸を立てた。ほどよく煮あがっている。フーフーと息をふきかけて冷まし、姫に渡した。忠智が口にほおばるのを待って、姫も口にいれた。甘く粘りがある。

「美味い」

 二人は思わず顔を見合わせ、ほころばせた。久ぶりに食べる温かい食事だ。

「先ほど、この先の山中で野武士に出遭った」

 忠智がさりげなく言った。

「六人ほどのやつらでございますか」

「そうだ」

「やつらには、この村もほとほと困っております。村の野菜や食べ物を、わがもの顔で盗って行く悪たれです」

「村人に、危害は加えないのか」

「そこまでは、しません。やつらは、われわれを殺せば食糧も強奪できなくなることを知っています」

「……」

「お武家さまには、なにもしなかったですか」

「あー…」

 忠智が言葉を濁している。『始末したよ.』と言えば喜ぶであろうが、万が一、この村にかかわりのある者がいたら面倒なことになる。

 肉と野菜が少なくなった頃合をみて、鍋に蕎麦を入れてくれた。蕎麦の雑炊で満腹になった二人は、満ち足りた気持ちで箸を置いた。

 囲炉裏の炭が勢いよく弾いている。夫婦が、灰をかけて火勢を抑えた。そして蚊よけのため、湿らした蒲の穂を熨(の)せると、たちまち煙が屋内に充満した。

 いろり端に、うさぎの毛皮を接ぎ合わせた敷物を広げてくれた。

 二人は、その上に横になった。うさぎの毛が、やわらかくて気もち良い。

「朝がたは寒いでしょうから」

 女房が姫の身体に夜具代わりの着物をかけてくれた。普段は、木箱にしまっているのだろう、楠の香りがかすかについていた。

 夫婦は、作業場にござを敷いて寝るつもりらしい。縄を編んで作った篭に赤子をいれて土間に下りた。

 脱出したその日は、一睡もせず、二日目は山峡の岩陰でまどろんだだけだった。

 三日目になって、やっと安らかな眠りにつける。

 忠智の体力も、もはや限界だ。睡魔にひきこまれ、薄れゆく意識のなかで、姫のすすり泣きを聞いた。あまりにも過酷な運命に堪えきれなくなったのであろう。

 忠智が、横になっている姫の肩を、そっと抱いた

 瞬間、姫の身体がぎくっと強張った。

 忠智は、やさしく姫を抱きながらじっとしていた。忠智の手には、わが娘をいたわる優しさがあった。

 姫が、忠智のふところに顔をうずめた。体が小刻みにふるえていた。

 姫の体から、すーっと力が抜けてきた。

 二人は、たちまち深い眠りに入った。

 

 四日目となった。

風呂場の横に、山水を引いた流し台がありますから、そこで、顔を洗ってください。と勧められて家の裏にでた忠智は、ふと立ち止まった。

「どうしたのですか」

 後ろから鶴姫が訝(いぶか)しみの声で訊(き)いた。忠智が、黙したまま指差す先には大きな池があり、黒く丸々に太った鯉が群れをなして泳いでいた。

「ここら辺りでは、ほとんどの家が鯉を飼っています。もともとは、飢饉や災害の時に食べるつもりで飼っていたのですが、下の大川では、山女や鮎などがいくらでも捕れますから、鯉を食べる者はいないようです」

「これだけ大きくなれば、愛情も湧きますよね」

 鶴姫が、池の端に屈んで「ぽんぽん」と手を打った。音を立てて集まってきた鯉が、水面から口をだして姫の指先を吸った、人に慣れた鯉だった。

 風呂場の横に、直径二尺(約六十六センチ)ほどの丸太を二つ割りにした流し台が据えられていた。その横には、大きな自然石をくりぬいた水瓶があり、懸樋(かけひ)を伝って流れくる山水が清らかな音をたてて落ち込んでいた。

昨日は気付かなかったが、家のまわりには蕎麦や粟などの雑穀を植えた小さな畑が広がっていた。山の斜面を切り開いて作った畑は、かなりの傾斜がついている。田んぼになるような平地はなかった。

川を越えた向かい側の山すそにも、川原の丸石を巧に積み上げた高石垣の屋敷が斜面に点在していた。

 朝餉は、蕎麦粥にヤマゴボウの味噌漬けだった。箸でつまみ上げた蕎麦に息を吹きかけて熱さを飛ばしながら口に入れた。ヤマゴボウの漬物は適度な塩が利いて、なんとも美味だった。

「よろしければヤマメを食べてください。亭主に勧められて、囲炉裏端に並んでいる串刺しの魚を一本ずつ取った。水分は、すでに蒸発して茶色に変色した身には味がついていなかった。

「すみません、こちらが塩焼きです」

あわてて囲炉裏端に寄って座った女房が、真っ白になった魚をふたりに渡してくれた。

忠智がとった魚は、出汁(だし)をとるためのヤマメであった。

「これは、美味い」

 忠智が納得した顔で鶴姫を見た。

 塩がよく利いて、香ばしい魚だった」

 

ここは、平石山(八二六メートル)の北側だということが分った。昨日、だらだらと下ったのが掘切峠だった。

「もう、ここからは川之江城下まで大した山はありません」

 男の言葉が二人の気持ちにゆとりを与えてくれた。

久々に心の軽い朝を迎えていた。

 きれいに晴れわたっていた。雨の心配はなさそうだ.

 気分が晴れ晴れとしてきた。

 女房が作ってくれた蕎麦の団子を道中袋に入れて腰に巻き付けた。

 脱出のとき、いばらのからまる雑木林の中を、幾度もつまずき、転び、手足や顔に傷をおい、血だらけになりながら懸命に逃げたことが、すべて夢のなかであったような気になった。

 忠智が、ひとにぎりの一文銭と若干の銀粒を女房に差し出した。

「とんでもございません、もう、十分にいただいております」

 女房が、手のひらを忠智の方に向けて遠慮している。

「儂らのことは、心配しなくてもいい。遠慮なく受取ってくれ。お子も大きくなったら着物もいる、銭もいる。銭はいくらあってもいいものだ」

 忠智が強引に、男に握らせた。

「こんなにいただいたら、着物は、何百枚も買えますだ」

 男が、うなるように言っておしいただいた。

 忠智は、大量の銀粒と銭を持っていた。城を脱出するとき、「もはや、この城もされるであろうから。」と、小笠原長重が持たせてくれたのだ。銭は紐に通し腰に巻き付けて旅をしている。

「昨日の野盗だが…儂が、退治した」

 男が作ってくれた新しい草鞋を履いて、外に立った忠智が夫婦を振り返った。

「え、退治でございますか」

「そうだ、もう村に来ることはない」

「……」

「昨日、儂らを襲ってきた。六人とも殺した」

 ぶっきらぼうに言い放つ忠智の言葉を理解した夫婦の顔が急に輝いてきた。飛びあがらんばかりに喜んでいる。

 さっそく村長に連絡して、お礼をするから、出発を少しだけ延ばして欲しい。と、しきりに、ひき止めた。

「旅を、急いでいる。それより、こちらも一人犠牲になって、近くへ埋葬したので、今後の供養を頼みたい」

 地面に埋葬場所を書いた。

「それは、お気のどくなことでございます。お連れさまは、わたしらが、お世話をさせていただきます」

 夫婦が、真顔になって約束した。

 夏の陽が、山から顔をだした。蒼空には一片の雲も浮かんでいない。

 一気に気温が上がってきた、日中の暑さのほどが思いやられる。

 二人は、ふかぶかと腰を折って低頭する夫婦に礼を言って出発した。

 

 今日は、いい旅ができそうだ。

 もはや、敵の追跡などありえない。

 二人は、街道を歩いている。

 各地に群雄割拠する豪族らは、山に城を構え、砦を築いているから、うかつに山岳に入りこむことのほうが危険なのだ。

 姫の悲しみも、徐々に薄らいでいるようだ。

「長重さまには、なんの役にも立たなくて、申し訳なく思っております」

 忠智が、しんみりと話しはじめた。

「姫さまのことは、これから先、なんの心配もいりません。石見の伯父さまも優しい方です。姫にお逢いになったら、さぞお喜びになるでしょう」

「よしなに、お願いいたします」

 姫が、ていねいに頭をさげた。

「ところで、石見国は、まだ遠い。二人で旅をすることになりますが、もはや、それほどの危険は無いでしょう。…・・この姿で、姫という呼び方はいかがなものでございましょう。泊まるところといえば、良くてお寺、下手をすると昨夜のように百姓の家に泊まらなければなりません。親子としたほうが、良さそうです。それがしの娘として、お鶴とお呼びしたいが、お許しいただけますか」

 姫の瞳が輝いた。『はい』と返事が出る前に、うんうんと二度もうなずいていた。

「よし、そうと決まれば、『父上』と『お鶴』だ。お鶴、のんびりと行こうか」

 たちまち忠智の言葉づかいが変わった。このほうが、姫にとっても楽しい旅ができると思ったのである。

「はい、父上」

「うん、よし、その調子だ」

 ふと、鶴姫が笑った。

「この姿、どうみても百姓の娘ですね」

「姫さまには、申し訳ありませんが、この方が歩きやすい。旅には一番いい姿です。こんな旅は、姫さまには、二度とはないでしょう」

「そうですね、狭い輿のなかで、じっとしているより、はるかに気持ちいい。輿の中って暑い。そうですね、娘を連れた兵法者の旅といきますか」

 別人のように元気を取り戻し、表情があかるくなった。

 何事にも、あまりくよくよしない、大らかな性格であることがわかった。生来の行動的で闊達な性格が姫の心を救っている。

 忠智も、救われた気持ちになった。

「父上、石見国とは、どのような国でしょうか」

「そうよの、石見国は、阿波国と同じく風光明媚な所だ。それに、海が近い。だから、魚が旨い。儂の城がある浅利の海岸は、貝が、よく捕れる。大昔からアサリ貝が獲れることから浅利という地名がついたほどだ。それにハマグリ、サザエ、アワビ、いろいろな貝がとれる。魚は、いろいろなのがいる。うまいですぞ。だが、お鶴のお祖父さまの城は海岸から離れた山奥ゆえ、儂の城のようにはいきませんが…」

「お祖父さまの城は、魚がまずいということですね」

「とんでも、ございません。そのようなことは言っていません」

「いえ、わたしには、そのように聞こえました」

 鶴姫が、いたずらっぽい眼をしている。頬のえくぼがぺこっとへこんだ。

「いや、まいった。…・ま、のんびり行こうか」

「はい」

 鶴姫が、元気よく応えた。

 隣村への峠道へ差しかかったとき、村の方から、数人が走ってくる。

 昨日、殺した野武士のなかに、村の者はいないと、昨夜の夫婦は言ったが、もし、嘘を言っていたなら、村の者を集めて報復に来ることもありえる。

 忠智が緊張した。

 村長と村の衆だった。昨夜の夫婦もいた。

「野盗を退治していただきながら、なんのお礼もせずに帰したとあっては、わたしどもの気がすみませぬ」

 皆が、にこにこしている。走ってきたため、呼吸は乱れ、ぜーぜーと苦しそうに息をしながら、村長が説明した。

「やつらは、毎年、秋の取り入れが終ったころ、やってきて食糧を強奪していくのです。ほとほと困っていたのです。ぜひ、村にお帰りいただき、お礼をさせてください」

「いや、申し訳ないが、急いでいる旅での、それより、儂らの身内が犠牲になった。残して行くことが心残りだ」

「そりゃーもう、決してお粗末に扱うようなこといたしませぬ。三年も経てば、お骨だけになりますので、動かすことができるでしょうから、お寺へお移しします。差し支えなければ、お亡くなりになったお方のお名前をお教えいただけませんでしょうか」

 遠慮がちに言う村長に「上坂やえ、三十歳、亡くなったのは昨日です」と鶴姫が答えた。

「ありがたい。心置きなく旅ができる」

 村人がいつまでも、見送っている。二人が振り返ると、何回も礼をしながら手を振っている。

「やれやれ、これで、やえのことも一安心だ」

 鶴姫も、うれしそうだ。