福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

二代・福冨七郎左衛門尉藤原忠智

 疑惑

 

 闇に姿が没する刻である。百姓姿の男が四ッ地蔵城に登ってきた。家臣山根作左衛門である。地侍の彼は百姓姿が身についている。

「緊急ごとか」

 作左衛門の尋常でない顔つきに、忠智が押さえた声で問うた。

 作左衛門が首を横に振った。口は堅く閉ざしていた。

 父の治堅を含めた三人は忠智の居室に閉じこもった。

 忠智の家臣が都(つ)治(ち)氏に誼(よしみ)を通じている様子だ。福冨党の結束が崩れようとしている。旧都治家に庇護を受けていた雀部重郎左衛門が都治兼行としきりに連絡をとっているという。作左衛門が雀部のほかに田多神次郎ら数名の名をだしたが、いずれも「叛いているという確証はありませんが」という断りつきだ。

 将軍足利義満に取り潰された都治家であったが、川上(かわのぼり)氏から養子に入った宗行は幕府にいろいろと手を尽して都治家再興を認められた。そのうえ福屋氏と手を組みだした。

 そうなると、四ッ地蔵城は福屋氏の松山城と都野氏の本家である川上(かわのぼり)城、それに都治の今井城により包囲されることとなる。

 今、福屋氏と小笠原氏は諍いもなく良好な交誼を重ねている。しかし、領境では平静であったわけではなく常に緊張関係が続いていた。

力と力で領土を取り合う時代に変わりつつある現在、隣国の絆がいつまでも保てるとは忠智も考えていない。そうなれば四ッ地蔵城は孤立する。

 四ッ地蔵城と御屋形の居城温湯城との間には江川がある。

 ひとたび大雨が降れば江川はたちまち渡河できなくなる。飛び地のようなものだ。

そんなときに攻められたら苦戦を強いられる。さらに、宗行の子兼行は我が福冨家の臣雀部重郎左衛門らを懐柔しているらしいのだ。

「元々やつらは都治家の家臣だったが、いわゆる都治家騒動による断絶のあおりを受けて百姓となっていたものを儂が引き揚げてやったのだ。だから儂の目が黒いうちはなにもできないであろうが…・雀部らにすれば、わが福冨家の家臣より都治兼行の臣であることの方が魅力なのだ。なぜなら、都治は室町幕府御家人だから直臣の家臣であるのに対して、わが福冨は室町幕府御家人である小笠原氏の家臣なのだ」

 そこには大きな隔たりがある。そのひとつが、『御屋形』の称号だった。御屋形とは将軍から大名屋形の称号を受けた御家人のことをいう。称号を受けないことには家臣に烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)、素袍(すおう)を着せることができない。

 治堅と忠智本人は着用できても家臣には着せることは許されないのだ。

 都治家の臣となれば雀部らも烏帽子などの正装ができる。

「ならば、雀部らを討てばよろしいではありませんか」

 忠智がいきりたって言うのを治堅が手で制した。

「残念ながら…・裏切っているという確証がない。それに都治に通じているやつが雀部ひとりなのか他に何人いるのかも分からないのだ。やつらの姿が見えないうちは動けん」

 いかにして炙りだすかだ。

「それならば雀部らに都治を攻めさせればよいではありませんか。今なら福冨党だけで都治を討つことが難しいとは思いません」

 さる、応仁二年(一四六八)京都大乱への出兵途上において、但馬国での海難により壊滅した都治の軍勢を、兼行は必死に立て直していたが人数の少ない都治郷だけでは、勇者を集めることに限界があったのである。

 忠智が父治堅の言葉を遮って言った。

 治堅は、にやっと笑ったが、「都治を討つという名分がない。ただ遮二無二、力でもって潰せばいいというものではない。だれもが『なるほど』と納得するだけの名分のもとに戦わなければならない。そうでなければ我々もいっかいの野武士になり下がってしまうのだ」

 ぶっきらぼうに言ったが、自分の考えていたことが忠智の口からでたことに満足していた。いずれは、福冨党を揺るがすことになるかも知れない、膿を早く取り除かねばなるまい。 

 と思ったが、今は名分がない。

 再びつぶやいた。治堅は都治を攻めて失敗したときのことを思い浮かべていた。戦気がなければ戦はできない。それに好機を逃せば敵は警戒するゆえ二度と訪れないことも。

 

 明応三年(一四九四)七月三十日(新暦・八月三十日)、治堅が六十四年の生涯を閉じた。朝、寝床から立ちあがろうとして前のめりに倒れたのは六日前のことだった。それから高いびきをかきながら眠りつづけ、意識がかえることもなく息をひきとった。あっけない最後であった。ひと言の遺言も残すことができなかった。

だが、ぬいと忠智に看取られての穏やかな死であった。

「もはや思い残すことはない」

 口癖のように言っていた治堅の言葉が救いだった。

   

 忠智が三十四歳で七郎左衛門を襲名した。

 同年九月、福冨家の所領福光下村と境を接している福光上村(かみむら)の地頭福光氏は小笠原長正の娘婿となった。

小笠原氏は南北朝から支配していた福光村の一部を福光氏に与えた。