福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

輿入れ

 

 文明十年(一四七八)御屋形(小笠原長弘)の息女綾姫と阿波小笠原長重の婚礼が決まった。長重は、阿波国池田に領をもつ三好小笠原家の一族である。

先の応仁の乱では、阿波の三好小笠原家と石見の小笠原家は本家分家の間にありながら敵対した。

此度の婚礼は、その修復の意味合いを持っていた。 

 婚礼には御屋形(小笠原長弘)が出席することとなった。佐波氏と領境紛争のつづいている最中に当主である御屋形が他国へ出張ることは通常では考えられないことだ、にもかかわらず御屋形は阿波へ行く。このことは、嫡男長正への家督継承がとどこおりなく行われていることを示すものであった。

 綾姫の輿入れに際して阿波の小笠原家まで随従する者六十名、このうち婚礼に出席するのは御一門衆ばかり二十名である。残りの二十名が婚礼衣装等の輜重隊、二十名が護衛隊であった。忠智も護衛として阿波まで行くこととなった。

さらに安芸国安芸津までの護衛衆三十名を加えて、総計九十名となった。

 翌十一年三月、綾姫一行が温湯城を出発した。その日は、御屋形(小笠原長弘)の姉が嫁いでいる出羽本城までの十里(四十キロ)行程である

 温湯城を出てすぐ山道に入った。これから出羽までは懸崖な谷川沿いの道を遡上して行くことになる。出羽本城は、出羽の集落からさらに進んで、いちばんの難関である犬伏山を越えなければならない。一行は、狭い道を一列になって粛々と進んで行った。 

 出羽本城の高橋大九郎久光は、石見阿須那、安芸の高田郡と山縣郡に盤踞している旧族である。

 安芸毛利家とも外戚関係にあった。

 その日夕方に本城に着いた。翌日、綾姫は伯母との別れを惜しみつつ安芸吉田の郡山城へむかって出発した。毛利少輔太郎弘元の郡山城だ。

 毛利氏は天穂日命の末葉といわれている。鎌倉幕府から安芸吉田荘の地頭職に補された大江経光の次男時親が安芸毛利氏の初代となった。時親は楠木正成に大江流軍学を伝授した武将として有名である。八代治部少輔豊元のとき応仁の乱が起きた。豊元は将軍足利義政および細川勝元に従って東軍に属していたが、のちに大内正弘の西軍に属して武功を重ねた。しかし、豊元は文明八年(一四七五)五月に三十三歳の若さをもって死去してしまったため嫡男弘元が毛利家九代を継いだ。後に中国地方を制覇した陸奥守元就は弘元が三十歳のときにもうけた次男である。御屋形小笠原長弘も西軍であったことから両家の親交があった。

 

 次の宿泊は、小早川弘平の居城木村城である。

 源頼朝麾下の武士土肥実平の子遠平が平家追討の功績により安芸安直、沼田本荘、親荘などの地頭職となり小早川を氏としたのが小早川氏のはじめといわれている。

 正嘉二年、沼田高山城を本拠地とする小早川茂平(遠平の孫)の三男政景が竹原荘を与えられて分家し竹原に小林城を築いて居城とした。以来、十二代にわたって勢力を拡大し、沼田本家と同格とされるまでになった。しかし、本家分家の間は決して親密であったわけではなく、応仁の乱では沼田小早川氏は細川勝元の率いる東軍に味方し、竹原小早川氏は大内氏に従って西軍に加わったのである。かくして両小早川氏は対立抗争を続けてきたが、弘平は沼田小早川氏の当主扶平が二十三歳という若さで死去したため、四歳で家督を継いだ興平を後見し領分も要求しなかったという慈愛に満ちた武将であった。此度の婚礼に際しても「是非、木村城へお寄りください」との招聘を受けていた。さらに、「四国への渡海にあっては、小早川家の軍船を使用いただきたい」との申し出を受けたのであるが、その時にはすでに河野軍船による話が決定したあとであった。小早川弘平は、小笠原家の辞退をこころよく了承し、河野水軍の軍船が安芸津に入港することを認めてくれた。

「祝いごとでありますので、いかようにも協力させていただきます」

 弘平の気持ちであった。

 河野水軍を利用することについては、治堅が母の実家河野九郎を介して伊予へ交渉したものである。

 

 湊に大型の御座船が停泊していた。長さ十丈(三十メートル)幅二丈(六メートル)ほどもある。上部は方形の箱造りとなっており、舷側と艦首、艦尾には盾板を張り、盾板には、狭間が設けられている。いざ、戦闘のときにはこの銃眼から弓を射るのである。さらに、甲板上部には二重の楼閣が建てられている、まさに、城郭だ。

楼閣を巡る幔幕に描かれた折敷に三文字の河野家紋が風に靡いている。

 さきの、応仁の乱では小早川水軍とともに西軍将兵を乗せて東上した河野水軍の指揮鑑だった。

 翌払暁、木村城を退出した綾姫一行は御座船に乗船した。

潮の動き始めるのを待って御座船が湊を出港した。

「ドンドン」と打ち鳴らす船太鼓に合わせて、舷側から伸びる六十本の櫂が、みごとに息を揃えて水面を蹴っていく。

小早川家中の吹き鳴らす法螺貝が御座船の船出を祝い、河野水軍の法螺貝が返礼しながら海上を進んでいく。実に壮大な儀式であった。

綾姫一行は大三島と大島上島の間を進んで大島下島を右に見ながら南下し来島海峡を通過した。潮流に乗った船は早い、矢のような速さで進んでいった。

 

 延徳元年(一四八九)治世二十九年にわたって君臨して来た小笠原九代長弘が死去した。

 同年秋、忠智が四ッ地蔵城へ帰ってきた、十五年ぶりであった。

 治堅は六十歳となったのを機として、嫡男忠智に家督を譲り、ぬいとともに二の丸へ移った。忠智は三十歳になっていた。