福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

応仁の乱

 室町幕府八代将軍足利義政は幕政を執るという気がなく、幕府の実権は細川、斯波、畠山の三管領山名宗全の四人に握られ、そのなかでも細川と山名が最大の実力者となっていた。山名宗全は但馬、備後など数カ国を領有する有力な守護である。実子の豊久を細川勝元の養子としていたところ、勝本に実子が生まれたために豊久が仏門に入れられてしまったことで勝元と対立していた。

 

 応仁元年(一四六七)正月、足利義政山名宗全の言を容れて管領畠山政長(細川派)を解任し、屋敷を畠山義就(山名派)に明渡すよう命令した。

 正月十七日、畠山政長は自分の屋敷に火をかけて上御霊社で挙兵した。

 翌十八日、畠山義就軍が大軍をもって政長を攻めた。

 政長は社を焼いて逃走した。

 従兄弟同士である政長と義就の勢力争いに細川勝元山名宗全が介入した。

 これが、将軍足利義政と夫人日野富子、義政の実弟義視と富子の実子義尚という対立とあいまって全国に広がった。応仁の乱である。

 東軍には、細川勝元(攝津、丹波、土佐、讃岐)、細川成之(阿波、三河)、細川勝久(備中)、細川成春(淡路)、細川政有(和泉)、細川教春(丹波)、斯波義敏(越前)、畠山政長紀伊、河内、越中)、京極持清(近江、飛騨、出雲)、赤松政則(播磨、備前、美作)、富樫政親(加賀)、武田国信(若狭、安芸)ら足利一族と彼らの支配地域の豪族ら十六万、

西軍には、山名持豊(但馬、播磨、備後)、山名教之(備前伯耆)、山名勝豊(因幡)、山名政清(美作、石見)、斯波義康(尾張遠江、越前)、畠山義就(大和、河内、紀伊)、畠山義統(能登)、一色義直(丹後、伊勢、土佐)、土岐成頼(美濃)、六角高頼(近江)、大内政弘(周防、長門豊前筑前)、河野通春(伊予)ら十一万が加わった。

 石見では佐波秀連、高橋久光、出羽太裕らが東軍に属する出雲守護京極持清、安芸守護武田国信に従軍し、吉見信頼、益田貞兼、三隅長信、周布元兼、福屋国兼、小笠原長弘らが石見守護山名政清、防長守護大内政弘に加勢した。

 

 畠山持国が義就に管領職を譲ったことに端を発した畠山一族の内訌は、延徳二年(一四九〇)十二月、紀伊で政長に敗れた義就が自殺したことにより終止符を打った。じつに四十有余年にわたった抗争であった。政長もそれから三年後の明応二年(一四九三)に細川勝元の嫡男政元に敗れ畠山一族は衰亡していった。

 無気力な足利将軍をしりめに、幕府を支配する大名たちの戦いが終ったとき、京の都は灰燼と化していた。

 応仁の乱は権力中枢にある者らの私闘に端を発したものであり、各国守護、地頭らも命を賭けるほど間抜けではなかった。要請に応じて出兵しても、それはあくまで日和見的なものであり、なかには東西両軍に出征させるといったことも行っていた。

 だが、応仁の大乱は弱肉強食社会を生み、戦国時代への突入を果した。

 領国の確保拡大には都合のいい名分があたえられることとなったのである。

 小笠原氏と佐波氏のように、隣接した者同士の領境紛争が地方に拡大し戦国時代へと移行していった。

 治堅は福冨家を大名へのし上げる絶好の機会であると考えていた。都野氏も着々と領土を拡大している。

―さすがは都野氏だ。

 治堅はらんらんと輝く都野景房の眼を思い出していた。

 

 応仁元年(一四六七)四月、治堅の家臣塩原十兵衛が都治氏へ誼を通じていることが確実となった。

 治堅は討手を差し向け、たちまちのうちに誅伐を加えた。

 さらに、都治氏の本拠今井城に奇襲をかけたが、すでに敵は万全の迎撃態勢を組んでいた。奇襲は露見すれば役目を果さない。それに、治堅の指揮する兵のほとんどが、元都治氏家臣だった。

―攻撃する力に勢いがない。

 兵の気持ちを看過した治堅は、すばやく兵を引いた、失意の退却であった。治堅の生涯で初めての汚点となった。

 だが、追撃はなかった。都治氏としても元都治家家臣の多い福冨家と戦う意思はなかったのである。

 この事件に対して松井権兵衛は、屋敷の門を固く閉ざして沈黙していた。治堅にも都治家にも付かず中立を貫いた。かっては、都治家臣として阿波守の武位を得ていた権兵衛であったが、都治家が再興してからも都治家へ仕官することをしなかった。「今、それがしの領地は福冨が支配する地でありますから」と言ったということを洩れ聞いた。都治家の応援にも駆けつけることをしなかった権兵衛の気持ちが治堅には嬉しかった。

 今井城攻撃のためには松村の屋敷前を通過しなければならなかった。

 治堅は理左衛門を先行させて松村への挨拶をさせた。

 理左衛門が松村屋敷に到着したとき、すでに門は閉められていた。

「松村さまに申し上げます。此度、塩原十兵衛逆意の件については都治どのの仕様であることが判明いたした。我が主、福冨七郎左衛門にとっては許しがたき大事であります。武家の習いにより、都治どのに対して弓矢を引くこととなり申した。まもなく本隊が門前を通過する予定であります。門前を騒がし、まことに恐縮なれど、なにとぞ、お許し願いたい。福冨七郎左衛門、伏して、お願い申しあげます」

 門前で朗々と口上を述べる理左衛門に権兵衛からの返答はなかった。

 

 

 応仁二年(一四六八)七月、西軍に加担した石見諸将のうち吉見、周布、三隅、川上(かわのぼり)、都治、福屋らは、温泉津湊から乗船出陣した。ところが但馬国鮑島付近において暴風のため兵船ことごとくが難破した。そのうえ命からがら上陸したわずかな者は夜に入って但馬の国衆のために討ち果たされ、生きて帰ってきた者は都治の峰重という者が一人と、川上へは実相寺、江口という名の二人にすぎなかった。峰重の説明によれば都治宗行は命からがら海岸に上陸したが、地元人に殺されたということであった。

 治堅の属する小笠原勢は、大内本隊と合流して瀬戸内海を東上したため、災害に遭わなかった。

 都治氏は宗行の子兼行が五代都治家を相続したが軍勢はなく丸裸である。

「今なら都治氏を壊滅できますな」

 理左衛門がささやくように言ったが「そんなことはできない、やってしまっては武士の矜持を失う」ということを含んでのことだった。

眼を瞑り、腕組みしている治堅の眉がわずかに曇った。

「やはり、今はだめだ」

 

 忠智が八歳となった。治堅は忠智への剣術指南を理左衛門に委ねた。

 

 庭で忠智と正秋(まさとき)の二人が剣術のまねごとをしている。

 五歳の正秋が九歳の忠智を攻撃している、攻めているのは正秋だ。だが、剣術の鍛錬をはじめて一年とはいえ、正秋より四歳も年上の忠智に対しては力の差が歴然としている。

 忠智が軽くあしらっている。まけずぎらいの正秋が執拗に挑んでいる。閉口しているのは忠智だ。ときには勝ちを弟に譲っているようだが平然としている。聞えるのは正秋の声ばかりだった。