福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

桐山城

 嘉吉二年(一四四二)八月、足利幕府の管領職を継いだ畠山持国は多年実子がなかったので、弟である畠山持富の次男政長を家督相続者に定めていた。

 ところが、持国に実子義就(よしひろ)が生まれたので義就に家督を譲り、畠山氏譜代の重臣須屋氏を後見人とした。宝徳二年(一四五〇)のことである。  

 須屋氏の勢力増大をおそれた持国の家老遊佐、神保の二人は義就を廃して政長を擁立しようとしたが持国に敗れ、遊佐、神保は敗死、政長は細川勝元を頼った。

 持国は将軍足利義政に政長討伐を願い出たが承認されなかった。にもかかわらず、享徳三年(一四六〇)、無断で政長を攻めた。

 持国が将軍の命に反して戦端を開いたことは、結果として自分の首を締める事となった。細川勝元管領である。しかも、将軍義政の管領職である。勝元は幕府の権威をもって義就討伐にもちこんだ。

 九月、将軍の命により大和、伊勢、近江、河内、紀伊、和泉、攝津、播磨、丹後、淡路、阿波、讃岐の兵を動員しての畠山義就討伐が始まった。

 討伐隊は、山名持豊指揮のもとに畠山政長を援けて戦ったが河内、紀伊、和泉の有力御家人畠山義就に付いている。

 戦いは一進一退を繰り返すのみでいっこうに決着しない。

 ついに、幕府は全国に出兵を要請した。

 これを受けて石見からは小笠原長弘、益田兼尭、貞兼父子、周布元兼、三隅豊信、福屋国兼、出羽祐房らが出征した。

 この年、寛正元年(一四六〇)治堅の嫡男が出生した。忠智と名を付けた。

 治堅は出産を終えたばかりのぬいを残して出陣した。

 この年、小笠原長直が死去していた。小笠原長弘は父の喪も明けないなか出征しなければならなかった。

 寛正二年(一四六一)四月、治堅ら石見勢が河内の戦線に到着したとき、義就は嶽山城に拠り、その勢は桐山城(赤坂城)とその周辺の城に籠っていた。

 政長は寛弘寺に布陣してこれらの城を攻撃している。

 寛弘寺の幕府軍陣地から、前方に丘のような低い山が連なり、その奥に、ぽこっと頭を出した山の頂に嶽山城があった。

 寛弘寺から南西に一里(四キロメートル)ほどのところに聳立する嶽山(二六四メートル)だ。

 山全体に所狭しと並ぶ義就勢の幟が激しく風に揺られている。

 あの城を潰すのはたいへんだろう、と思うが、こちらは大軍だ、はたして戦いにめぐり逢うことがあるのかどうか治堅にもわからない。

 嶽山の左手には桐山城(上赤坂城)があり、その手前に下赤坂城がある。

 それらの城からは、こちらの兵力が一望できるはずである。

 嶽山城と桐山城、下赤坂城それに左後方の城(猫路城)から、のろしが盛んに昇っている。おたがいの連絡をしているのであろう。蒼空に立ち上る煙が強弱を表し、白く、黒く、濃く薄くと、めまぐるしく変わっている。

―みごとなものだ。

 治堅は敵方の一糸乱れぬ団結を見る思いでいた。

 石見、備後勢は桐山城を攻撃することとなった。

 百年前、南北朝争乱のときわずかの手勢で、数十倍の幕府軍を悩ませた楠木正成が築いた城(上赤坂城)を攻めるのである。

―さらに、南北朝争乱では、我が福冨家も楠木正成と同じく南朝に殉じた。

「わが先祖の築いた城を攻めるとはのう」

 治堅の胸中は複雑だ。

 桐山城は、元弘元年(一三三一)に楠木正成が築いた上赤坂城として知られている。

 正成は上赤坂城を本城に、前衛の下赤坂城をはじめ、周辺に多くの支砦を構え、さらに詰の城として千早城を持っていた。その数十七に及ぶという。敵はこれらの城に分散しているらしい。

 攻撃は、これらの要害をひとつづつ潰していかなければならない。

「上赤坂城は、南朝の楠木氏が籠って勇名を馳せた城だ。そう簡単には陥とせないぞ」

 敵方の城塞をみながら兵が立ち話をしている。

「それだけ懸崖で堅固な城らしい」

「あのときには、谷を押し登る幕府軍に石や材木、それに熱湯や糞尿までも掛けたらしいの」

「そりゃーたまらん。臭くて戦どころではないわ」

 周辺の将兵がドッと笑っている。

「できれば敵をおびき出して野戦といきたいですな」

 理左衛門が馬上の治堅を見上げた。楠木の城を攻めるには忸怩(じくじ)たる思いがある。

「そうだ、野戦なら数がものをいう」

 治堅は理左衛門の心情をはぐらかした。

―楠木の城を勝手に使いやがって。との思いが芽生えていたのである。

「われら幕府軍は、敵の十倍はいますな」

「城攻めの場合、攻城軍の勢は籠城軍の十倍必要だというからの」

「それにしても政長と義就は従兄弟ではないか。それが全国の兵を召集する戦を引き起こしている、あさましいものよ」

 とはいっても、我らは将軍の軍勢だ。なにしろ将軍の面前での戦だ、高名を挙げれば恩賞も夢ではない。治堅らの鼻息も荒い。

 六月、石見勢と備後勢が桐山城攻撃に出発した。

 千早川沿いに遡上し、西楽寺の前を通って森屋地区にはいった。寛弘寺からは、わずか一里(四キロメートル)程になった。

 ここから、備後勢は下赤坂城攻撃のため、石見勢とは別行動をとり千早川本流を上って行った。

 城の正面を衝く石見勢は千早川支流をたどりながら桐山集落にはいった。城山周辺には、いくつもの低い山が散在している。敵は幾らでも伏兵を隠すことができる。

 周辺の山は、すべてといっていいほど城塞化されているだろう。

 地の利を活かした敵の攻撃には気をつけなければならない。

 

 道は幾重もの低い谷を抜けながら城へと登っていた。

 小笠原隊も尖兵隊をだしながら慎重に進んでいる。

 ふと、馬を止めた治堅が聞き耳を立てた。

 谷間越しに地を揺るがす馬蹄の響(とよ)みが近づいている。雑木林の陰で姿は見えない。

―味方の尖兵隊が逃げてくる。

 治堅は直感した。味方が勝っているときは、戦場が遠くへ移動することを多年の勘でつかんでいる。

 兵に戦闘態勢を組ませた。

 やがて、敵味方入り乱れた集団が谷から出てきた。味方の尖兵隊は敵の本隊と出会い頭に衝突してしまったようだ。圧倒的に敵の数が多く歯が立たなかったのであろう。味方尖兵隊は散りじりになって逃げている。味方の完敗だ。勝ちに乗じた敵が味方の兵に群がって次々と背後から討ち取っている。目も当てられぬ惨状を呈していた。

 福冨党の兵が浮き足だって、じりじりと後退しはじめた。そしてその速度はしだいに速くなった。一人が走り、二人が走る。戦の負けは足軽が散々になって逃散したときに決まる。たちまちパニックの兆候が現れた。恐怖心にかられ盲動に移ったのだ。パニックが拡大したら福冨党も散りじリになって四散するしかない。そのとき、

「逃げる者は儂が討つ」

 馬上の治堅が馬を煽(あお)って先頭に出た。

「一戦も交えないで逃げるやつは成敗する。先鋒隊大将島本丹波守さまは、まだ帰っておられないぞ。先に逃げるとはなにごとか」

 治堅の大音声に将兵の動きが止まった。

 治堅は近づいてくる集団をじっと見つめている。

 ハエのように群がる敵を払い除けながら後退している騎馬の武将をみつけた。まだ、動きに余裕がある。

―島本さまは大丈夫のようだ。

 安心すると同時に敵の軍団も勝ちに乗じて、ばらばらになっているのを見逃さなかった。敵も組織的な戦闘は出来なくなっているのだ。

「敵の大将を見よ、隊が崩れて旗本の兵が少ないぞ」

 治堅は騎兵を前に集めた。

「行くぞ、狙いは敵の大将のみぞ。周りには目をくれるな。喊声を挙げるな」

 治堅は騎馬の将士のみを引きつれて突撃した。

 そのとき、追撃していた敵の大将は、疾風のごとく一塊となって向かって来る新たな軍勢を見つけて驚愕していた。突入してくる騎馬隊には歩兵が付いていない。ということはそれだけ足が速い。たちまち到達してしまう。さらに、砂塵の煙幕に包まれて全体像がつかめない。

―しまった、深追いしすぎた。

「追撃を止めよ」

「兵をまとめよ」

 あわてて指令をだしたが間にあわない。

 ここで、敵の大将は大きな過ちを犯していた。兵を停止させてしまったのだ。全速で突入する敵軍を迎え討つには、こちらも全速で走りながら立ち向かわなければ勝負にならないのだ。

 敵の将兵が大将を守ろうと集まっている。

―どちらが早いか。やつらが態勢を整えるまでに大将に近づくことができたら、首を取れるかもしれない。

 治堅は必死で馬を走らせた。

 敵の大将があわてて馬を走らせようとしたとき福冨党の騎馬隊が突入した。たちまち敵味方の形勢が逆転した。敵の大将に治堅が一撃を加えた。敵はもんどりうって落馬した。

「石州住人福冨七郎左衛門なり、御首頂だい仕る」

 大喝一声、十文字槍を突出した。

「小癪な田舎侍め」

 それが精一杯であった。治堅の一撃は対手のわき腹をえぐっていたのだ。十文字槍の月型刃で首を落とした。

 

 石見勢の勇戦にもかかわらず、義就勢の反撃も厳しく、戦の決着はつかない。

いたずらに包囲戦を敷いているだけである。

 治堅らが戦線に到着してから、もうすぐ三年になろうとしていた。

「若君は、もう三歳になりますな」

 槍を前後にしごき空を突きながら理左衛門が治堅を振り返った。

 どのような男子になっているか気になるところであった。文では治堅に似ているとぬいは書いているが顔は浮かんでこない。

 寛正四年(一四六三)三月、幕府はついに総力をあげて決着をつけようとした。

 十二万を超す幕府軍に総攻撃命令がでた。

 大軍は、あっという間に桐山集落を制圧し城山にかかった。

 治堅らは正面の大手道から桐山城めざした。

 馬の背ほどの狭い尾根をたどって大手道が上っている。道の両側は急勾配に落ち込んだ深い谷だ。道から一歩はみ出せば千尋の谷底まで転がり落ちる。

 はるか下の谷をたどりながら攻め登る別の隊が、岩の間を見え隠れしながら進んでいる。

 城への道は侵入して来た敵に対して、両側の尾根から攻撃をかけることの可能な谷底を通すのが一般的である。それを無視して尾根道をとった楠木正成の築城理論に驚嘆している。尾根道ならどんな大軍勢を擁していても、戦うのは先頭のわずかな数でしかない。

 しかし、狭い尾根道を登っている攻城軍にとっても、正面からの攻撃のみに集中できる利点がある。

 大軍を擁する攻城軍は、敵の反撃をものともせず一の木戸(城門)を破った。

「次ぎは二の木戸だ」

 つま先上がりの急な坂道は前日の雨でぬかるんでいる。治堅らは滑って転んで、泥まみれになりながら攻め上った。

 先鋒隊は、「ワッセ、ワッセ」と、声をかけながら矢避けの竹束をもって、ひたすら登っている。

 治堅らは後をついていくだけだ。横合いから攻撃を受ける心配がない。

「ワイワイガヤガヤ」

ただひたすら登って行く。

 下の谷で絶叫があがった。敵が大岩を落としたのだ。急な谷を転げ落ちる大岩が加速をつけて敵兵にぶち当たっている。兵と岩が一緒になって転がり落ちている。

「ウオー」

 前方で喚声があがった。二の木戸を破ったようだ。

 また、喚声があがった。三の木戸もたちまち潰してしまった。

 攻城軍の動きが止まった。

 先鋒隊が四の木戸を前にして止まっている。

 敵が木戸前の掘割に架かる橋を落として反撃している。意外に浅い堀割にもかかわらず攻め手の侵入をみごとにはばんでいる。

 城内から打ち放す弓矢が、すさまじい音を立てて攻城軍の竹束に突き当たる。

「負けるな、射放せ。」

 攻城軍も弓矢で応酬している。

 弓矢の数は、こちらが圧倒的に多くて優勢だ。

 攻城軍の放した火矢が木戸を焼き破った。

 すかさず、なだれ打って突入していく。

 ついに本丸下の平地にでた。先鋒隊が城内の家屋を焼き払っている。ゴーゴーと音をたて黒煙と炎が周辺の建物を呑み込んでいく。

 備後勢がニの丸めがけて左の道をとった。

 石見勢は本丸攻略だ。

 本丸から射落す弓矢が石見勢先鋒隊を釘づけにしている。

 竹束を盾に一歩ずつ登って行く。

 ついに、塀にとりついた。

 木戸を打ち破る大槌が山に轟いて攻城軍の士気を鼓舞しているようだ。

 

 四月、ついに桐山、嶽山両城が陥落した。

 八月、義就が高野山に追われて戦は終結した。

 それでも、なかなか帰国許可がでない。

 論功行賞が難航しているらしいのだが、河内平野で日毎に色ずく稲穂をみるたびに治堅ら将兵の気はあせる。

―ぬいは、どうしているかな。

 治堅の双眸から視点が消えているのを見た理左衛門も、また浅利村を思い出していた。

 幕府軍が京都に凱旋したのは十二月になってからであった。

 

 この戦を嘉吉の変という。

 室町幕府管領の私欲に端を発した喧嘩が全国を巻き込む戦となったものである。

 寛正五年(一四六四)冬、治堅の次男正秋(まさとき)が誕生した。

 

写真

 桐山城(上赤坂城)

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桐山城本丸

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 桐山城本丸から寛弘寺方面

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桐山城周辺図

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