福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

ぬいの逆襲

 寛正元年(一四六〇)も秋になった。どこからか芳しい花の匂いが漂ってくる。

 本丸の塀際に立つ金木犀だ。

 ぬいと結婚してすでに五年が経った。治堅もまもなく三十歳になろうとしている。

 ぬいは自分の生活に満足しているようであった。小娘のように甘えったれで良人の治堅にまとわりつく、まるでじゃれるようである。武家の娘としてきびしくしつけられてきたぬいは、娘のころ、いつも物静かで声をたてて笑うこともあまりない、どちらかといえば無表情な顔をしていた。それが違っていたのである。治堅にとってはうれしい誤算であった。おそらく、ぬいの両親も気づかなかった一面であろう。治堅も、ぬいの前では、いつも微笑を絶やさない気のやさしい男であった。

 まだ跡取りができない。

 治堅としては、あまり気にもしていないのだが、周りがだんだんとうるさくなってくる。

「そろそろ、お世継ぎのことも考えていただかなくては…・・」

 理左衛門がしきりに言う。『側室をもて』と言っているのだ。

「いや、まだいらん。ぬいは、まだ二十六歳だ」

「お方さまにご執心なのはわかりますが、それとこれとは別ですぞ。別の娘もいいものですぞ。」

「別の娘か…」

 治堅の顔がおもわずほころぶ。

 何かを言おうとした理左衛門が、突然、口をつぐんだ。治堅の背からぬいが入ってきたらしい。

「なにごとです。わたしの顔を見たとたん黙り込むとは」

 理左衛門がぬいの疑わしい目つきを避けるように、目を外らせたまま治堅の方を向いている。

「いや…・なに…・」

 彼の顔には、うろたえがはっきりと表れていた。

「いや…・なに…・理左衛門が早く世継ぎをつくれとせかしての」

「殿、それは卑怯というものですぞ。儂は、お家のことを思って…」

 理左衛門が絶句した

「いや、分かっている。理左衛門の気づかい、ありがたいと思っている」

「ほんに、そうです。そろそろ私らも、まじめに考えねばね」

 ぬいも相づちをうった。

 うなじの汗をしきりに拭いている理左衛門を可笑しそうにぬいがみつめている。

「それだけですか」と、理左衛門を目で追及している。

 ぬいの視線に射られる理左衛門は目の置きどころをなくし、ただ、汗を拭いているだけだ。

「だから、別の娘なのですか」

 いかにも、いたずらっぽく、ぬいが理左衛門の目を覗きこんだ。

「え、お方さま、聞いておられたのですか」

「ええ、そうですとも私の耳は、とてつもなく良いのですよ」

「いや、これはまいった」

「ま、殿方ふたりして若い娘の夢でも、ぞんぶんにみてくださいまし」

 ぬいが、可笑しそうに愛想を崩したまま席を立った。

「殿、殺生ですぞ、儂だけを悪者にして…」

 ぬいが部屋をでたのを確認して、やっと一息いれたというふうに理左衛門が愚痴をいう。

「いや、すまん。変に隠し事をしても、ぬいのことだからの、すぐ気づいてしまうのだ」

「ほんとですの。くわばらくわばら、悪いことは話せませんな」

 理左衛門が、さて、退散しましょうか。と独りごとを言い、ヨイショと声をかけて立ちあがった。

「きゃー」

 廊下の後方から凄まじい絶叫が走った。

 下城する理左衛門を見送るため、ふたりで廊下を歩いていた治堅が「うむ」と絶叫の発生した方角に顔を向けた瞬間、何者かにさっと足を払われて転倒していた。

 すばやく体を回転させて小太刀を構えた。

 ところが、そこには右手に薙刀を持ったぬいが仁王立ちとなって立っていた。その顔は、にこにこと破顔している。してやったりという顔だ。

「なんと」

 理左衛門が、あんぐりと口を開けて立ちすくんだ。

 薙刀で治堅の足をなで斬りに払ったのだ。状況を飲み込んだ治堅がきまり悪そうに、胡座をかいた。

「なんと、槍の七郎左衛門さまも、お方さまには敵いませぬか」

 理左衛門が笑い出した。

「殿の一大事とあらば、それがしも身を挺してお護りしなければなりませぬが、対手がお方さまなら躊躇なくお方さまにご助勢つかまつりますぞ」

「武芸は、武家の女子に欠くべからずでございます。別の娘に、うつつを抜かすからこういうことになるのですよ」

 仁王立ちになって治堅を見下ろしているぬいがいばっている。

「それにしても、お方さまの武術も大したものですのー、刃引きをした稽古用の薙刀だったからよかったものの、真剣なら、殿も今ごろは足を失っていましたぞ」

 理左衛門の笑いは止まらない。さきほどの、ぬいに対する負い目を挽回しようと口もなめらかである。

「なにを言うか、殺気があれば儂とて感知できたさ。殺気のない奇襲では避けようもないさ」

 治堅が苦笑し、足首をさすりながら立ちあがった。

「ところで、さっきの悲鳴は、なんだったのだ」

「……」

 ぬいは、微笑みながらなにも答えない。

「そういうことか、儂を陥れるために小娘と仕組んだな」

 小娘とは、ぬいの下使いをしている娘のはるのことである。

「そういうことか…・・いや、まいった。理左衛門、お互いに寝首をかかれぬよう気をつけようぜ」

「まったくで、さて、命のあるうちに退散しましょうか」

 理左衛門が、仰々しい動作で逃げるように下城していった。

 

 その夜、夕餉の膳を持ってきたはるの顔を、治堅がじろじろと覗きこんでいる。容赦なく見つめられてはるは顔をあげることもできない。ただ居竦んでいるだけだ。

「はる、さきほどの悲鳴は真に迫っていたぞ、この儂もやられたわ。この礼はきちっとさせるぞ」

「武士とは勝負に負けても潔いのが信条でしょ。私の大切な妹をいじめるのはお止めなさい」

 真っ赤に顔を染め、うつむいているはるを背に隠し、ぬいが毅然と立ちはだかった。

「あのとき、はるは本気で悲鳴をあげたのです」

「どういうことだ。まさか、だれか男にはるを襲わせた、とでも言うのか」

「男では、ありませんけど」

 いかにも楽しそうな、ぬいの笑顔が治堅を見つめている。

「女に、襲わせたのか」

「そうです。突然、後ろから抱きつかせたのです、男のように」

「悪いやつだ。はる、この敵(かたき)は二人で取ろうぞ。二人で、ぬいをやっつけようぞ」

「あ、冗談だ。ぬい、夫婦のじゃれごとにはるを巻き込んで、見ろ、はるが泣き出したではないか」

「これはこれは、はる許しておくれ、ほんに夫婦のじゃれごとです、殿とて怒ってはおりませんよ」

 

 このことが、刺激となったのかどうか…・それからまもなく、ぬいが懐妊した。

「ぬいに、寝首をかかれては、たまらんからの、セッセとがんばったんだよ」

 理左衛門から祝辞を言われた治堅が返した言葉である。これには、さすがのぬいも顔を赤くして黙っているだけだ。

 当時の武将としてはめずらしく、治堅は生涯にわたって側室を置かなかった。ぬいを大切に思う気持ちが強く、あえて側室を求める気が起きなかった。ぬいが治堅を敬い、愛し、信頼してくれているという心の安らぎが邪念の立ち入る余地を与えなかったようだ。