福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

四ッ地蔵城築城

 治堅は浅利村へ出発の前日、寺島五郎左衛門へのあいさつに行った。

「うらやましいかぎりよ、儂(わし)など、いまだに小城のひとつも持っとらん。そちは、二十代で城持ちだ」

「父上」

 突然、ぬいが言葉をさえぎった。

「福冨さまは、父上と同役になられたのですよ、そちというのは失礼です。戦場(いくさば)にでれば、父上と同じ侍大将です」

「ほいしまった。ついつい儂の配下であったときと同じ呼びかたをしてしまった」

 五郎左衛門が、右手の指で自分の額を軽くたたいた。

「いえ、同じ武位は賜りましたが、寺島さまには、これまでと同じくご指導をいただきたく、お願いいたしまする」

 五郎左衛門が『そうか、そうか』といわんばかりにうなずいて破顔した。

「いつ発つのか」

「できるだけ早くと思いまして、明日にも、出発したいと思います」

「早いのう、…・すでに知っているとおもうが、かの地、浅利村は都野氏や福屋氏、都治(つち)氏との国境にあり、しかも、御屋形の温湯城からは江川を隔てている。己の城は己で守らなければならぬ。隙をみせたらお終(しま)いぞ。それに、かの地には、都治家騒動で取り潰しになった都治氏に恩義を持っている者が多い。」

「都治といいますと…」

室町幕府御家人の都治弘行というのが都治郷に今井城を構えていた」

 都治をツチと呼ぶ。石州浅利村から東へ二里(八キロメートル)ばかり入った都治本郷の、都治川を前濠とした懸崖な山に城があった。

「その都治家三代、弘行のとき、娘婿の土屋宗信がその宗家都治弘行の領である都治郷と羽積郷を乗っ取ろうとして、弘行と重臣八人を殺したのだ」

「重臣八人も、一度に殺したのでございますか」

「そうだ。土屋宗信は、泊まり狩の催しをして、八人衆の宿所へ河井越前守に急襲させたのだ。河井は、宿所近くの谷に兵を集めていっきに襲ったということだ。翌年の正月八日には、今井城から外出した弘行を待ち伏せして主従ともども弓で射殺してしまった。

 その時の将軍足利義満公が不審に思われて度々召文なされたが、参洛しなかったことから、石見の守護山名氏豊に都治退治を命じられたのだ。御屋形(小笠原)を始めとして、吉見、益田、三隅、周布、福屋ら国人衆が攻め落した。当時の都治家の領地は、羽積、河戸、有福、市山、日貫、住郷、日和、大貫、川上(かわのぼり)等であったが、日和、大貫は御屋形(小笠原)に、市山、日貫は福屋氏にといったぐあいでことごとく退治に参加した国人衆に分けられたのだ」

 今は、百姓となっているが、都治氏の家臣であった者も多く、小笠原氏ら周辺の国人衆に恨みをもつ者も多いはずだ。

―こころして対処せねばなるまい。隙をみせれば終りだ。

 治堅の気が自然とひきしまる。

 

 治堅は暗くなった廊下を玄関に向った。

 見送りのため手燭を持って先導するぬいの着物から、絹ずれの音が静かに伝わってくる。

 よどんだ空気のなかに漂う、ぬいの体臭が治堅の心をときめかした。

―抱きしめたい。

 湧き立つ衝動を打ち消すように、

「もう、日が暮れてきた。短くなったものだ」

 とりとめのない話をした。

「はい」

 ぬいが静かに返事をした。別れを意識してか、二人の会話は続かなかった。

 次の言葉に詰まり、ふと、振り返ると、ぬいの目に宿る輝きをみた。その輝きは、心の底から治堅のことを慕いぬき愛しいという情に溢れている。

 治堅の胸で、ぬいの情が痛いほど膨らむのを感じた。

「お気をつけて」

 ぬいが上がり框に座って両手をついた。こころなしか声に愁いがある。

 治堅は、玄関から門まで続いている石畳の通路をしばらく歩いて振り向くと、上がり框のうす闇のなかに座ったままこちらを見ているぬいを見た。

 とても愛しく見えた。

 治堅の足が止まった。

 静かに立ち止まっていた治堅が踵を返した。突然、ぬいが立ちあがって裸足のまま土間に下りた。

 玄関に引き返した治堅の胸にぬいがとびこんできた。

 二人はしっかりと抱き合った。ぬいの肩が小刻みにふるえている。きれいに整った髪から椿油の香りが治堅を酔わせた。

「落ちついたら、迎えにくる」

 短い言葉に想いのすべてをこめて言った。ぬいの体が崩れるようにもたれてきた。

 敷台の上に残された手燭の炎が大きく揺れていた。

 

 江川を挟む両岸の山から雨あがりの霧がいたるところで湧き立っている。

 昨夜の雨は農作物に潤いを与えるほどでしかなかったが、上流では、かなりの量が降ったのであろう、水が茶色く濁り、水かさが増えている。

 治堅は家士の山下理左衛門と佐平を連れて川本郷から江川を下り、昨夜は渡利山中腹の甘南備寺に宿泊した。

 甘南備寺は、天平年間のころ泉州の僧行基により開基された古刹である。もとは法相宗であったが弘仁十年(八一九)、空海によって真言宗に改められた。小笠原氏代々の帰衣寺及び祈願道場となっていた。    

 翌払暁に出発した一行は朝のうちに市村にでた。すぐ右手の山に福屋氏の属城松山城が辺りを睥睨している。

 ここから江川支流の都治川に沿って土手を少しばかり上り、下川戸村から山道を北上して浅利村に向った。  

 道は、やがて室神山(やかみやま)(浅利富士)を正面に望む狭い谷間にでた。

 谷間を縫うように並んでいるわずかばかりの田んぼで、夫婦らしい百姓が小さな箱船に乗って田植えをしている。

「沼田らしいですな、箱船がないと田に入れないのでは大変だ」

 理左衛門が、丁寧に腰を折って礼をする百姓に気安く話し掛けた。

「大変だのー、深いのか」

「へー、儂の身の丈ほどもありますもので…」

「箱船が必要なわけだ」

 理左衛門が、しきりにうなずいた。

 

 道は、ここで江川に通じる東川沿いの道と分岐している。この道は細川道として浅利村に通じる重要な街道となっていた。

 治堅らは、そのまま進んで浅利海岸近くの郷士佐々木善右衛門宅に入った。 

 治堅は翌日から善右衛門の案内により城地の選定を始めた。

 浅利は御屋形の居城温湯城との間に江川を挟んでおり、小笠原の支配する領地のなかでは飛び地のような位置にある。もともとは室町幕府御家人である都治氏領地の一部であり、都治騒動により取り潰しとなっているが、累代にわたって庇護を受けていた郷士が多い。

 さらに、浅利郷には地侍がそれぞれの土地を所有している。ここに治堅が割り込むことになるのだ。

「まず、彼らを服従させなければならない」

 治堅が支配する領地は、江川以東の太田、市村、八神から東は波積本郷、福光下村に点在していた。

 このとき、治堅の所領については定かでないが、当時、小笠原家の領する浅利の地は、永銭十七貫文となっている。

 浅利村は、福屋氏との国境に面している。今は、友好を保っているが、いつ破綻するかもわからない。そのためには、できるだけ防禦性の高い城郭とする必要があった。

 

 治堅ら一行は、室神山(二四六メートル)に登って、頂上に祭られている不動明王に御参りした。室神山は、海岸近くに連なる低い山なみの上に、でんと胡座(あぐら)をかくごとく聳立(しょうりつ)している円錐状単独峰である。

 その優美な姿は駿河の富士山に似ていることから浅利富士と呼ばれている。

「この山はどうでしょう」

 理左衛門の声を背に治堅は周辺の地形を見まわしている。

「頂上部が狭い、それに裾野が広くなだらかだ、城砦にはむかない」

 治堅の返事は、そっけなかった。

「そうですの、こんなに高い場所に引っ込んでいては、いざというとき街道の封鎖さえできない、要害にはならんですの」

 周辺の山を隈なく歩き、要衝となる地を探したがなかなか見つからない。

「下河戸村との境近く奥口という所に、元寇蒙古襲来)に備えた砦跡がある由にございます。もう三百年も前のものですからどのようになっているかは分かりませんが」

元寇に備えてのものなら、海から侵入する敵を想定してのものだろう。今は蒙古の脅威より国内の敵を考えなければならない。…・・いずれにしても、石州の城はほとんどが蒙古襲来に備えたものだが…・・いちど、登ってみるか」

 治堅らは室神山のすぐ南にある低い山(標高六十七メートル)に登ってみることにした。昨日、百姓夫婦が箱舟に乗って農作業をしていた田んぼの後方にある山だった。

その山は、山というよりは丘陵に近く、下から見ると高くもなく峻険そうでもない。とても城砦を構えるような山には見えなかった。ところが、登りにかかると意外なほど斜面が急で、地がもろく登りにくかった。密生した雑木を手がかりにし、足をかけて登った。

 

 やがて頂上の平坦な地にでた。

 平地全体にの穂が密生している。広さは一町歩ほどもありそうだ。

「蒲の穂があるということは、沼地ということですかな」

 理左衛門が蒲の穂をかきわけて歩き、あちこちで木の棒を地に押しこんで固さを計っている。

「沼地ではなさそうだ。…・それにしても不思議ですな。こんな頂上部に水が湧き出している」

「湧いているのか、尾根伝いに流れてきているのか」

「この山は、この辺が頂上部です。尾根伝いに小川があるとすれば、こちらから流れでているということでしょう。なにかのかげんで地下水脈がここまで上がっているということでしょう」

「不思議だな、かなりの水量だ」

 山城は、守るに安く、攻めるに難い。だが、水の無い場合が多い。雨水に頼ることとなる。

「城地としては最高ですな、頂上部の広さが全体で五反(一千八百坪)ほどでしょうか、そのうち半分は田んぼにできる。城内に田んぼを持つ城なんて、めったにあるものじゃありません」

「そうだの、南は尾根で他の山とつながっているが掘割を造ればいい」

「尾根伝いの道を掘割で遮断したならば防禦として万全ですな」

 理左衛門が湧き水を口に含みながら、さかんにうなずいている。

 

 両手でひとかかえもあるやまももの木の陰に、方形三面体の地蔵が一体奉られていた。

 参拝する人もないのであろう、腰から下は落ち葉に埋もれ、大きく右に傾いている。いわれは、わからないが、地元では四ッ地蔵と呼ばれているとのことだ。

 治堅は落ち葉を払い除けて傾きを直した。野花を手向け両手を合わせた。

 昼餉(ひるげ)を取ることにして地蔵尊の前に胡坐(あぐら)をかいた。やまももの大木から降り積もった落ち葉が、幾重もの層となってクッションとなり座布団の上に座しているようである。

 周辺の山から木々を揺らす風の音がながれていく。

 密集するやまももの小枝に雀が巣でも作っているのであろうか、チッチッチとせわしなく飛びっていた。

 治堅は竹筒の水で喉を潤してから、竹の皮に包んだにぎりめしをほおばった。ほどよく塩が利いて実に美味い。

「アレー」

 突拍子な声をあげて理左衛門が立ちあがった。

「ここにもお地蔵さんがある」

 理左衛門が掘り出した地蔵尊も方形三面体である。

「まったく同じだ」

 理左衛門を振り返った。理左衛門はしきりに周辺をさがしている。

「四ッ地蔵…・すると同じものが四体あるということか…・・」

 皆があわてて周辺の落ち葉を掻き分けている。

 四体は、横列に並んでいた。

「言い伝えは本当でしたなー…方形三面体だから、一体で四ッ地蔵というのかと思っていたが四体あったんですなー」

 善右衛門が合掌し、しきりにお経を唱えている。

「何百年にもわたって地に埋もれていた地蔵尊が、われわれの手に、ふたたびお出ましになった…・・ありがたいことだ。…ここに城を構えよう。四ッ地蔵尊の御加護をいただこう」

 木もれ日のなかに気高く鎮座する四ッ地蔵尊に、治堅が膝まづいて合掌した。

 

 城地が決定した。

 連山から楔状に突出した尾根の南側は篠竹が群生している、いい矢が作れそうだ。

 その先に掘り割りを造れば堅確な城砦となる。三方への見晴らしが利く天然の要害だ。敵の接近を早く知ることができる。ただ、東南の下河戸村からの侵入に備えて、北側正面の小山に出城を築かなくてはならない。

 城山の前面には、沼田が広がっている。人の身丈ほどもある深い沼田だ。

―これは防禦に良い。蓮を植えよう、蓮根は食糧になる。それに、馬は踏み込むことができない。…・勝負留となる。

 治堅の頭に描く縄張りは、とどまることを知らない。

 

 その夜、善右衛門が「城地も決定したことですから」と祝いの膳を用意してくれた。

 弾むこころのまま盃を重ね、心地よい気分で就寝についたのは亥の刻(夜十時)を過ぎたところだった。

 

 ジージーと、眠りを妨げていたがピタリと鳴き止んだ。

 治堅の肌が総毛立った。外からの殺気が屋敷を突き抜けて治堅に向って来る。

 シーンとした静けさが、何者かの侵入を教えてくれている。

 すばやく身支度をととのえた治堅が太刀を手にして立ちあがった。

 隣の部屋で寝ていた理左衛門と佐平が、ふすまを開けて入ってきた。

「囲まれているようですな」

 理左衛門は、塀の外にいる敵の兵力を数えようとしている。

「多いですな」

「十…四、五人ほどだろう」

 闇に紛れて姿の見えない敵を十五人ほどとみた。

 甲冑の擦れ合う音がしない。ということは、敵も合戦とは考えていないのだ。

「儂らを狙っているようですな。堤で姫を襲った一味でしょうな」

 理左衛門の声に力が漲ってきた。戦を目前にした武士の気迫だ。

 理左衛門が雨戸に身を隠しながら一枚を開けた刹那、青白い月光とともに、数十本の矢がうなりをあげて飛び込み、客間の壁に音をたてて突き刺さった。

「何事でございますか」

 善右衛門が太刀を手にあたふたと駆けつけてきた。

「夜襲にございます」

「夜襲…」

 善右衛門には状況が掴めない。

「あだ討ちのつもりであろう」

「あー、例の、堤のですか」

 治堅の説明に善右衛門が納得と安堵を含んだ声をだした。善右衛門は自分が手配した刺客だと誤解されないかということを瞬時の間、抱いていたらしい。

 理左衛門が雨戸の節穴から敵の動きをみている。

 庭が下弦の月のわずかな光りを受けて浮かびあがっている。

 庭には誰もいない。

 敵が塀の外にいる間は弓を警戒しなければならない。うかつには庭に出れない。

 治堅は、顔色ひとつ変えず悠然と構えている。

「事情はわかりました。我が屋敷を荒らされたとあっては面目が立ち申さん、儂もお手伝いする」

「いや、ここは儂と理左衛門で受けましょう。善右衛門どのは、お身内の方をお護りください。佐平、手出しはするな善右衛門どののご家族に加勢せよ」

 僕従の佐平を闘争から外した。

 十数人の敵が塀を乗り越えて庭に侵入した。

 それを機に治堅と理左衛門が庭に飛びだした。

「福冨七郎左衛門を狙っての狼藉か」

「いかにも」

 敵のひとりが押し殺した声で短く言いきった。

 敵は皆一様に股立ちをとり、襷掛けをして白い布で鉢巻をしている。

そうとうの覚悟をしているようだ。

「ものものしい姿だ、あだ討ちのつもりか」

「そうだ、武士でありながら首を刎ねられる無念、お前にはわかるまい」

「その無体をふるまったのは、お前らの仲間だ。あだ討ちとは、笑止千万」

「問答無用」

 敵が一斉に動きだした。

「相手いたす。最後にもうひとつ聞きたい。あのとき、仲間を捨てて逃げた二名は、どうなったか」

「二人とも、自栽した」

「そうであろう、あのとき、命をかぎりに闘うのが武士であろう。仲間をほったらかしにして逃げるとはなんと情けないやつらだ。忠告する。武士だというのであれば最後のひとりまで闘え、今度は逃げるような卑怯なまねをするな。これ以上、佐波さまの顔に泥を塗るな」

「言うまでもなきこと、忠告無用」

「やはり佐波さまの手の者だったのか。佐波さまはご存じのことか」

「御屋形は、ご存じないことだ」

 敵の殺気が膨らんできた。堤のときとは比べにならない殺気の強さだ。

―手練を集めたな。

 治堅の気が敵の殺気を吸収して膨張する。

「たー」

 裂ぱくの気合とともに治堅が先に動いて敵の重囲のなかに踏み込んだ。

 光芒一閃、二つの首が宙を飛び、ドテッと鈍い音をたてて地に落ちた。瞬時に頭部を失った二人の体が数歩走って石につまずいたところで斃れた。

 敵の一斉攻撃が始まった。右から左から刃が襲ってくる。身をかがめ、あるいは飛び躱(かわ)して相手を傷つけていく。肉を切り、骨を断つ音が邸内に響いた。

 敵の目は治堅を追っているが、味方同士の相打ちを避けるために、味方の動きをみながら攻撃をかけなければならない。なかなか間合いに踏み込むことができない。

 正面の男が八双の剣を振り下ろそうとしたとき、横の男が治堅めがけて突進してきた。正面の男が一瞬、躊躇した。それが隙となった。跳びあがって、するどく斬りおろした治堅の剣戟を受けることができなかった。男の頭が真っ二つに割れ、血と脳漿が宙に噴出した。

 敵は数の差を嵩に、治堅と理左衛門の力が失せるのを待つ戦法をとっている。次ぎから次ぎへと二人に休む暇を与えぬよう連携しながら攻めてくる。

 治堅は当然のごとくそれを読んでいた。軽く体を躱(かわ)した治堅の剣尖が敵の小手を襲い手首を落としていく。

 ある者は右手腕を刎ねられて太刀を落し、ある者は足を抉られて闘争から落伍していった。堤での闘いで会得した治堅の戦法である。

「まるで、木偶(でくの)棒(ぼう)の中で華麗な神楽を舞っているようでござった」

 闘争のあと、治堅の強さをたたえる善右衛門の声が上ずっている。

 庭には十六人の敵が倒れていた。さすがに逃げた者はいない。

 治堅が敵をひとりずつ検分して、生きている者のとどめを刺した。

 もはや刀を握る力も失せて座り込んでいる男の首をかたっぱしから刎ねていった。

 躊躇というものはない。

 治堅の剣尖に千切られた腕を、もう一本の手でひろいあげ、呆然と座り込んでいる男の首が宙を舞った。

 襲ってくる相手に対しては容赦なく殪(たお)すことができても、武器を放棄して無抵抗になった人間を斬ることは、戦場では当然のことであっても平場では誰しも嫌なものである。

 治堅は躊躇なく殺している、まさに鬼気せまる姿だった。

―恐ろしい人だ。

 善右衛門は、治堅の冷酷な姿を目の当たりにして呆然と立ちすくんでいた。

 生臭い血の匂いが風のない庭に充満してきた。

「庭を汚して申し訳ないことです」

 詫(わ)びをいれる治堅の声も善右衛門には上(うわ)の空(そら)でしかなかった。 

 

 浅利村に城砦を構えるに当たって城地は決定した。次は周辺豪族の動静を考えなければならない。

 四ッ地蔵城の南西一里地点に都野氏の支城千本崎城があった。南東一里地点には福屋氏の支城松山城があり、東一里地点の都治村には福屋氏の支城田中城と佐々木三河守が拠る梅月城がある。

 築城に取り掛かった虚をついて、周辺豪族から潰されるということはめずらしいことではない。まず、都野氏との軋轢を避けなければならないと治堅は考えていた。

 都野氏は、藤原北家十二代兼家を祖とする。鎌倉時代末期の嘉元二年頃、石見国に入部した六代信房が、那賀郡都野郷に居を構えたことから在名を苗字とした。南北朝争乱では南朝方として働き、最後には北朝方となったものの、石見のほとんどが平定された後であったため、足利幕府からは冷遇されていた。

「挨拶に伺いたい」との申し入れに都野氏からは、「ぜひ、お会いしたい」旨の返事がきた。

 治堅は佐平を伴ったのみで都野氏の本城高田城へ向かった。

 石段の先に大門が見えてきた、黒塗総構えの壮大な建物だ。

 治堅らが到達する目前で大門が軋み音をたてながら開いた。実にタイミングよく開いたものだと思ったら、ひとりの武士が立っていた。遠目にもはっきりと分かる笑顔である。治堅を迎えにでていたのだった。

「ごくろうさまにございます。殿も福冨さまの御到着を心待ちしておられます」

 堂端太郎左衛門と自己紹介した白髪の老人が慇懃に治堅を迎えた。

「え、それは・・・御屋形さまが、それがしごときに会ってくださるということでしょうか」

「そうです。殿が、そう望んでおられます」

「小笠原家の臣でしかないそれがしに直接お会いくださるとは、あまりにも畏れ多いことにございます。それがしは、ご挨拶をお伝え願うばかりでございます」

 戦となれば、相手が格上の武者であろうとも敢然とぶつかっていく治堅であったが、平時においては武士の格式をおろそかにはできない。都野景房には治堅の主である小笠原長直が同格となる。治堅は都野景房に直面できる立場にない。

「ま、そう言わず、殿に会ってくだされ」

「恐縮にございます」

 太郎左衛門の先導により歩き出した背後で、門扉が重々しく軋みながら閉まっていった。

このまま、監禁されそうな感じがした。

―それも宿命だ。

 治堅は、静かに深呼吸をして太郎左衛門の後につづいた。

 大門から本丸への坂道は苔むした石段が続いていた。石は登下城の武士らによって踏まれ、中央付近が磨り減っている。数百年にわたって城を支えてきた歴史の重みであった。

「殿は福冨さまが一城の主となられたことを大変喜んでおられます。都野と福冨氏は南北朝争乱のとき、南朝方として力を合わせ戦った仲だと」

座敷に案内された治堅が待つほどもなく都野左近将監景房が小走りに出てきた。

「お初に、お目にかかります。それがし、小笠原上総助さま家臣福冨七郎左衛門治堅にございます」

 治堅は上座に向かって平伏した。

「わざわざ、お出でいただき恐縮にございます。都野景房にございます。よしなにお付き合い願います」

 治堅は、おのれの耳を疑った。小笠原長直の家臣にすぎない治堅に対しては、あまりにも親しい声であった。

「福冨さま、お顔を上げてくだされ」

 太郎左衛門にすすめられて顔を上げると、らんらんと輝く目で見つめられていた。親しみを込めた眼差しであった。黒く日焼けした顔は、そのほとんどが黒いひげに覆われている。室町武士の気風を六尺に近いがっちりとした体から漂わせていた。

「いやー。先日、太郎左衛門から福冨氏と聞いて驚きました。福冨氏といえば、かの南北朝争乱において宮方剛将として名を馳せた福冨七郎判官。あの折、佐波(さわ)氏や川上(かわのぼり)氏と同じく義を貫いて玉砕された。佐波氏や川上氏はお家を再興したのに福冨氏だけが中興の由を聞かない。それが、こうしてお会いできたのですからな」

「すでに百年以上も前のことにございます。それがしも、代々言伝えとして聞かされております」

「そう、百年以上も前のことなれど南北朝争乱においては佐波氏、福屋氏、福冨氏、都野、三隅氏、周布(すふ)氏らは力を合わせて武家方に抗した。福屋氏と都野はいよいよ最後になって降参したが佐波氏と、福冨氏は義を貫き惨烈な最後をなさったという」

 

 南北朝争乱に石見国が巻き込まれたのは、延元元年(一三三六)のことになる。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇との戦に破れ、九州に逃亡していた足利尊氏が、わずか半年後には再挙、九州から東上の途上、上野頼兼に石見制圧を命じたことに端を発する。以後、石見国は宮方(後醍醐天皇南朝)と武家方(足利尊氏北朝方)に別れて戦いをくりかえしていった。

「それにしても、福冨氏が手を組まれたのが、佐波氏でなく小笠原氏だというのが意外でしたな。福冨家は小笠原家と同格だ。それに、福冨判官どのが討死なさったということ、今でも、謎とされている。北条一族を倒した後醍醐天皇建武の親政を行ったが、公家、貴族のための政治であって武士のものではなかった。武士は、公家や貴族の番犬でしかないということが全国の武士に分かった。判官どのにも分かったはず。全国の武家足利尊氏を仰いだのもこの理由による。武家のための政治を足利尊氏に求めた。でも、判官どのは足利尊氏に徹底抗戦を貫徹された。なぜなら福冨判官どのは後醍醐天皇の朝廷から派遣された武士で、石州の旗頭としての責務があったのでしょう。小笠原氏にしても、武門の戦いであれば降伏を認めるのが習いとなっているのに、小笠原氏は「なんとしても福冨判官どのを抹殺しなければならなかったのではないだろうか。儂は考えた。七郎左衛門どのもご存知であろうが、判官どのが拠った三久須城は仙の山にある。昔から、銀の取れる山として注目されていた。小笠原氏は銀が欲しかった。だが、福冨判官どのは降伏せず生を断ってまでも義を貫いたということ、紛れもない事実です。石見に並ぶ者なき猛き志を貫いた、まことの武者です。あっぱれ、武人の鑑と誰もが誉めそやし、今でも近在の人々の尊崇を集めております。判官どのが死をもって示された「義」は、武家であるかぎり皆が声を大にして唱えていることです。でも、いざとなると土壇場で皆が生を選んだ。風になびくばかりで武士の意地などひとつも持っておらぬ。はずかしながら、わが先祖も生を選んだくちです。死ねなかった。家を潰せなかった。というのが、わが都野にしても、福屋氏にしても、偽りのない心情だ。」

真情のこもった景房の一言に、不覚にも治堅の頬を熱いものが溢れた。

「百有余年前の悲劇から話を説き起こすには、それがしへの伝承はあまりにも少のうございます。福冨においては論ずることさえ禁句とされてきました。今、都野さまと話をさせていただいておりますと、事実を知らぬは福冨のみであったことを思い知らされております」

 治堅の偽らざる気持である。

「七郎左衛門どのは、正直な方だ。さすが、判官どのの御子孫であると感じ入っております。小笠原どののことは、儂の推測にすぎません」

「足利氏に楯突いた福冨は、幕府にとっては逆賊でございます。それなのに、百有余年にわたって破格の御恩を蒙った小笠原さまへの感謝は、どんな言葉でもってしてもいい表わすことはできません。恨みなど皆無にございます」

「さすが判官どのの血を受け継ぐ福冨どのだ。百年経った今も「誠忠の心」にいささかのゆるぎもない。感服しました。儂は小笠原氏の悪口を言っているのではありません。長い間、気になっていた福冨氏にお逢いできたものですから、長年の心の内を曝け出したまでです。それに、福冨判官どのの妻は我が都野の娘だという事実が我が心を曝け出させたのでしょう」

「なんと、都野さまと福冨は姻戚関係にあるということでございましょうか」

「判官さまは、福光物石謂城と三久須高城の二城で凄惨な戦いを行なっておられます、おそらく書面等は消失してしまっているでしょう。福冨氏がご存知ないのも無理ありません」

 驚愕する事実を教えられて治堅は言葉を失っていた。

「儂の四代前、都野家開祖正隆の娘ゆいが七郎正則さまに嫁いでおります。正則さまの出征中を狙って、小笠原軍と御神本軍が正則さまの居城、福光物謂城を陥し、そのときゆいは戦死しております」

「はじめて聞きました」

「小笠原氏が判官どののご子孫を自由にせず、百年余りにわたっておのれの領内に留め置いたことは、銀山が欲しかったということのほかに、当時は、『恨みをもって討死した武将は悪霊となって末代まで敵を呪う』と怖れていましたから、子孫を優遇することにより怨念から逃れようとする考えがあったのではないでしょうか」

「言葉もございません」

 治堅の口から洩れるのは唸りばかりである。

「小笠原氏と佐波氏は、南北朝以来、衝突を繰り返している。福冨どのにとっても苦しいことでしょう。幸い、わが都野は、小笠原氏と平衡を保っている。福冨どの、懇意なお付き合いを願いますよ。福冨氏に対する畏敬の念は今でも薄らぐことなく鮮明ですぞ」

「陪臣の身でしかないそれがしには、過分のご慈悲、もったいないことでございます」

「何を言われますか、陪臣などとは申されますな。儂の心内には一城の主としての福冨氏しかありません。福冨氏と都野家は今でも姻戚です」

「ありがとうございます」

「僭越ですが、それがしからひと言、御忠言させていただくなら、小笠原氏に付くといっても福冨家は小笠原と同格であるという誇りを保っていただきたい、そのためには都野としても最大限の協力を惜しむものではありません」

「ありがたく:」

「それにしても小笠原どのが福冨氏を浅利村に配したということは、うまく考えたものだ。浅利村は福屋氏、都治氏、都野、川上氏に囲まれている。これらは、いずれも南朝党だ。同じ南朝党の福冨氏ならうまくやっていけるだろう」

「よろしく、お導きのほど、お願いいたします」

「福冨氏と儂の城は近い。なにしろ一里しか離れていない。儂がくしゃみをすれば、直ちに福冨どのに知れることになる。福冨どのにしてもしかり。お互いに親密なお付き合いが必要でしょう」

もし、治堅が兵を招集すれば、直ちに都野景房の知ることとなる。わずか一里という距離がお互いの動静を透明にする。心して付き合っていかなければならない。

治堅は言いようのない感激と身の引き締まる思いを抱いていた。

 

「おー」

 都野景房の元を退出した治堅が、大門の前に立ったとき、思わず感嘆の声をあげていた。正面に見える黒く翳った山なみの底を、ゆったりと横たわる大河・江川が陽に輝いている。都野景房の慈愛に接した余韻をもって退出する治堅の気持ちを、代弁するかのような実に清々しい光景であった。

南朝党同志の佐波氏、三隅氏、福屋氏、川上氏らは家名を存続させている。どうぞ、福冨家の威名を回復してください」

 景房が別れ際に言った語がいつまでも治堅の心を暖かく包み込んでいた。

 

 築城には、郷士の協力が必要である。そのためには、福冨七郎左衛門による統治を伝えなければならない。これには、浅利の郷士であった佐々木善右衛門が率先して動いてくれることになった。

 領内に郷士は十八家あった。

「都治家臣であったころには、殿の武位より上の位を持っていた郷士がおります。松村阿波守です。これをどうするかですな。」

「今は、なんと名乗っている」

「権兵衛を名乗っております」

「松村権兵衛か」

「福冨家の支配下におくには、阿波守ではなく権兵衛でなければなりませんな」

 七郎左衛門の武位が「尉」である。官位でいうなら三等官となる。「守」は尉より上の二等官である。

「松村は放っておくしかあるまい、まさか、権兵衛の名で儂の配下になれとは言えない」

「そうですな。主は変われど武位は尊重するのが世の常ですから」

「その辺の説明は松村にも言っておく必要があるの」

 

 善右衛門の案内で理左衛門が伝達をして歩いた。

「大部分の郷士は了解したのですが、元都治家臣であった八人は殿に従うことをよしとしないようです。それでも、藪清兵衛、畑田多左衛門、平島新右衛門、十島吉兵衛、紫部新左衛門、雀部重郎左衛門、田多新次郎などは、畏まったという態度でしたが、永井助左衛門はだめです」

「それは、どう言うことだ」

「喧嘩ごしで追い返され申した。『無礼であろう。都治は、読んで字のごとし、古くから都の烏丸大納言が治めてこられた地ゆえ都治と呼ぶのだ。陪臣ごときになれるか』でござった」

 理左衛門が自嘲ぎみに笑った。

「よくぞ、我慢したの」

「善右衛門の話によれば、永井の当主は助左衛門ですが四十歳を越えたばかりでして、それほど芯は強くありません。たぶん、助左衛門の親父、たしか七十歳ぐらいですが、親父の言い分でしょう。親父は偏屈者ですから。・・・・粘り強く説きふせます」

「いや、その必要はない。いちど皆を集めて儂が支配することを言い渡す。このときに、来なければ成敗するまでだ」

 短気を起こして言っているのではない、領国支配は妥協で行えるものではない。毅然とした態度を貫き、必要なら武力でもって制圧する覚悟がなければ統制はとれない。我に抗う者には、いささかも容赦しない冷酷非情な決断も必要である。

 

 松村権兵衛は、

「福冨さまのご配慮、いたみいります。何か、事あるときには、福冨さまの与力として馳せ参じるでありましょう」

と言ったと、理左衛門から報告があった。

「松村は、どうしますか」

「できれば、陪席をお願いしろ」

 

 召集場所は浅利寺(せんりじ)とした。

 当日、永井以外の郷士は集まってきた。

「支配者の命令だから集まって来た」

 誰もが仕方なしということのようだった。

 少し後年の話になるが、松村を治堅の客将扱いにしたことについて、小笠原家中で異論を唱える者がでた。「阿波守は都治家臣としての武位であるから、都治家が断絶した今は何も遠慮をする必要はない。治堅の支配下に置くべきだ。」というものであった。この論に理がある。だが、治堅は松村に対する配慮を崩すことはなかった。

 

 松村権兵衛も来ていた。ものやわらかな武将で、四十歳に近いと思うのだが挨拶する権兵衛の声音はしわがれていた。

治堅は権兵衛を同じ上座に招じた。

「松村さまにはご臨席いただきまして、恐縮にございます」

 治堅が権兵衛に丁重な礼をしてから、皆に振り向いて話し始めた。

 

 永井は来なかった。このまま放っておいては治堅による領地支配がなりたたない。

「儂が行きましょう」

 善右衛門が同じ郷士の自分が話し合えば、なんとかなる。と言った。

「いや、その必要はない。説得の時期はすでに失している」

 我に抗う者には、いささかも容赦しない冷酷非情な決断も必要であった。

 治堅と理左衛門の二人で行くこととした。

 

 治堅が直接出向いて来たことに永井は驚いていた。

「直接来られたか」

 永井助左衛門が門前に走り出てきた。

「すでに承知のことと思うが、小笠原民部太輔さまご家臣福冨七郎左衛門尉さまにござる」

 理左衛門が静かに話し会おうといった態度をとった。

「当家は都治さまにご厚恩を賜っている。今は、故あって浪々の身なれど、他の士に仕える気など、さらさらない。早々に立ち去れよ」

 居丈高に大声で二人を追い払う気構えを表した。

「都治家は断絶しているではないか。今、この地は福冨さまの支配地だ。福冨さまの配下となるのは当然のことであろう」

「何を、ごちゃごちゃ言っている追い払え」

 そのとき、屋敷から長槍を小脇に抱えて助左衛門の父甚兵衛が走り出た。

「やめよ」

 怒鳴る治堅の横から助左衛門の刃が襲ってきた。

「短慮は、するな」

 理左衛門が飛び込んで、するどく突き出した槍を跳ね除けた。

「やめよ。命は無駄にするな」

 理左衛門の声も、すでに甚兵衛と助左衛門の耳にはとどかない。

 助左衛門が蒼白となった顔をひきつらせて治堅に狙いを定めた。

 そのとき、馬を走らせた士が飛び込んできた。

「甚兵衛、助左衛門、刀を引け。家を潰す気か」

 松村権兵衛であった。

「松村さま、儂にも武士の意地がござる。陪臣ごときの配下になり下がれと言われる筋合いはありませぬ」

甚兵衛には、もはや松村権兵衛の意見も通用しない。

 治堅が静かに刀を抜いた。

 松村権兵衛は無言で引き下がった。

「行け、助左」 

 気合と同時に甚兵衛と助左衛門が躍りかかってきた。

 勝負は、あっけなく決した。

 甚兵衛と助左衛門が重なり合うように崩れ落ちた。屋敷の中から悲鳴があがった。

「福冨さま。後は、それがしが引き受けますので、お引取りください」

 苦渋に満ちた姿で松村権兵衛が治堅に願った。その眼には涙が充満していた。

「松村さま、申し訳ござらん、よろしく願います」

 治堅と理左衛門は、横たえている二人に手を合わせてから静かに立ち去った。

 

 一か月が経った。その間、松村権兵衛は永井家を鎮め、永井家の存続が立つよう治堅に願い出た。

 治堅は権兵衛に感謝し、永井助左衛門の嫡男助三郎に家督を継がせることを了承した。

 松村権兵衛は永井助三郎を同道して治堅に伺候した。

「永井助三郎にございます」

 権兵衛に促されて、はっきりと挨拶をする助三郎は、まだ幼かった。

「何歳になるかの」

「五歳にござります」

「しっかりした、子だ。頼もしいですの。松村さま、助三郎の後見方よろしゅう願えませんでしょうか」

 治堅は、権兵衛に願った。

「分かりました、それがしがりっぱな武将に育てあげてみせましょう」

 権兵衛は、なんどもうなづいた。

 

 田んぼの中の道を帰っていく二人を、治堅はいつまでも見ていた。

「なんとか、うまく治まりましたな」

 理左衛門もほっとしていた。

 再び、帰っていく二人に眼を戻した。

 助三郎は権兵衛の小者に手を引かれていた。

―あんな幼子の父親を殺さなければならなかった。

治堅の心は痛んだ。

 

 城は三年後に完成した。

 城山正面に広がる沼田の畔を取り払って泥沼の濠とした。

 濠にかかる橋を渡って、半町(五十メートル強)ばかり坂を上がった場所に大門を構えた、これが大手門である。大手道の防禦線として、両側からせり出した山際に土塁と土塀を築いた。

 大門を通過した谷あいの平地が三の丸である。三の丸を城の公務的な場所とした。

 三の丸広場から急な坂道を登りきった頂上部の正面が本丸で右手を二の丸とした。

 登ってきた敵は本丸に到達する前に二ノ丸の横を通らねばならない。そこを塀に隠れていた福冨軍が突き崩す仕掛けとした。

 本丸の南は尾根続きで、後方の山に連なっている、城の尾首すなわち喉元だ。搦手(からめて)にあたるため、この方面から攻められるとやっかいだ。六間余(十メートル強)の深さに及ぶ掘割を造って遮断した。

 築城には大勢の人夫を必要とする。治堅の家士となった佐々木善右衛門が地下人を、みごとに統率して作業をはかどらせた。

 本丸の西角に四ッ地蔵尊を奉じた。一般的には神仏を鬼門(北東角)の守りとして配するのが多いが、治堅は西から東を望む位置、すなわち神仏の上座に鎮座願った。中国故事に習ったのである。

「三の丸の防禦をもう少し強めては、いかがでございましょう」

 遠慮がちに進言する理左衛門に、治堅は築城理念を次ぎのように言った。

「儂らの小城は何年、何ヶ月も籠城することを考えなくてもよい、いざとなれば、儂の手で三の丸を焼き払い、本丸と二の丸で戦をすればよい。三の丸に敵を誘い込み、本丸、二の丸、東の物見台から逆落としの戦法で打ち破る。二日間、持ち堪えれば御屋形さまの援軍が来る。広くて堅固な城を作っても、儂の手勢七、八十人では、とうてい防ぎきれない」

「そうですのー」

 理左衛門がうなっている。

 戦ともなれば、本丸に数百人の兵を収容しなければならないことを考慮して、本丸に田んぼを作ることはあきらめた。

 城を四ッ地蔵城と命名した。

 

 四ッ地蔵城は、現・島根県江津市浅利にあった。山陰本線浅利駅から下河戸村への村道浅利渡津線を二キロメートルほど入って、太田道との分岐点に立てば目前に低い山が見える。城は、その尾根一帯に築かれていた。

 小笠原民部太輔源長直家臣、福冨七郎左衛門尉藤原治堅の城である。

 新築なった城の庭で槍をかざしながら思うことがあった。

「御屋形(小笠原長直)は、『槍の七郎左衛門』と、言われた。槍の突撃隊を造るのだ」

夢が大きく膨らんでくる。

 目の前、谷を隔てた向いに屹立する室神山が、気高く、美しい。

                               

写真

 四ッ地蔵城跡全景(島根県江津市

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前堀跡(地形を基に推測)

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大手口跡(地形を基に推測)

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大門跡(地形を基に推測)

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