福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

君谷合戦

 享徳二年(一四五二)正月、江川(ごうのがわ)の河原を覆い隠す朝霧のなか、小笠原、佐波(さわ)両軍が対峙していた。

 薄明の河原に流れる霧が静かに両軍を覆って、沸き立つ殺意を包み込んでいる。

 山の頂を浮かび上がらせている朝の陽射しは駆け足で谷底へ下りているが、両岸からそそり立つ急峻な中国山脈に阻まれて川まではとどいていない。

 佐波氏が、君谷湊の失地回復と領土拡大をもくろんで挑戦してきたのだ。

 君谷湊は、日本海から江川を十里(四十キロメートル)ばかり遡上した深い谷間にある。

 対岸には良質の銅と銀を産出する銅が丸鉱山があり、後年、石見銀山として名を知られる佐摩銀山にも近く、これらの積み出し湊として栄えていた。

 佐波の軍勢は、これまでいくどとなく押し寄せてきて、その都度、小笠原軍が撃退している。

 いままさに、君谷湊の争奪戦が始まろうとしていた。 

 両軍が動かない、おたがいに相手の出方をうかがっている。

 そのとき、小笠原軍団からただ一騎の武者が敵に突入して行った。福冨七郎治堅であった。このころの戦では、両軍の大将による言葉戦のあと腕に覚えのある武者が両軍の面前で一騎打ちを行うことは多かったが、敵の軍団に一騎だけで突入することは、誰も予測していなかった。治堅の郎党山下理左衛門と轡取(くつわと)りの佐平でさえ驚愕し、あわてて治堅を追った。

 あまりにも無謀な突入に唖然として沈黙する敵軍のなかで治堅の周辺だけが騒然となっている。治堅は右に左に激しく動きまわり、赤柄の長槍がうなりをあげて回転する。そのつど絶叫が飛び、刎ねられた刀が飛ぶ。

 辺りは地獄と化している。

 やがて、敵軍の中から飛び出した治堅が、槍を高だかと掲げながら相対峙している両軍の間を走り抜けた。手にしている槍の先端には兜のついた首が突き刺さり、真っ赤な血塊がドクドクと治堅の身に降りかかっている。

 どっと味方から歓声があがった。士気が一気に頂点に達していく。敵軍のなかにどよめきが起きた。敵軍の騎士数人が治堅に向かって追撃を開始した。

「あっぱれ、あの豪の者を討たせるな、突撃せよ」

 御屋形の下知を受けて、両軍入り乱れての戦いが始まった。

 突然、治堅の前に敵の騎士が立ちはだかった。

「山内彦兵衛なり、尋常に勝負せよ」

「おおー、我は福冨七郎」

 治堅が槍を突だす。二度、三度と槍を併せ、一閃(いっせん)して山内彦兵衛を地に落とした。すかさず、十文字槍の月形刃で首を落し、突き立てた。

 理左衛門と佐平が治堅の前後を固めた。

 勢いに乗った小笠原軍は強い。圧倒的な勢いで佐波軍をかき乱していった。

 あっというまに、佐波軍が崩れて行く。

 わずか一刻(二時間)の戦いで勝利を手にしていた。

 

「首注文を受けます。良き首(兜首)をお持ちの方から申告して下さい」 

 伝令の呼びかけに、辺りで休憩中の武士が討ち取った敵兵の首級を持って集まっていく。

 治堅も馬の鞍に括り付けていた首級を取り外し、丁寧に髪を整えて順番を待つ列に並んだ。

 首注文とは、討ち取った敵兵の首級を記録して論功行賞の資料とするためのものである。これは、当然ながら兜を付けた首級、すなわち武将の首に値うちがある。

 首注文では、自分の苗字、武位、実名を申告して、討ち取った首級の氏名を述べることとなっている。

 受け取った首級は一首づつ記録し、武位の順にならべ置かれ、最後に総大将小笠原長直の首実験が儀式として行われる。

 治堅の取った二つの首も兜首なのだが、最初に取ったものは敵陣に飛びこんだときに姓名も言わずに向かってきた者を討ち取ったものである。いや、四方八方から突きだされる槍を払い除けるのに夢中で、敵が名のりを挙げたのも気づかずに打ち取ったのかも知れないが、相手の姓名が分からないということは、それだけ価値がさがるということを覚悟していた。

「福冨七郎治堅にござります。それがしが討ち取ったのは兜首なれど最初のは姓名の儀は定かでござりませなんだ」

 治堅が言ったとき、

「福冨殿、御屋形のお呼びです」

 記録係りの横で床几に座っていた武将が帷幕の奥へ導いた。総大将小笠原長直への拝謁である。治堅は羨望のまなざしで見ている武士のなか案内に従った。

 治堅は持槍を入り口で理左衛門に渡した。さらに、身につけている大小の太刀を渡そうとするのを、

「いや、そのままで結構です。戦場(いくさば)のことですから」

 案内の武士が笑いながら言った。

 治堅は、作法にのっとって太刀を右手に持ち直した。

 御屋形小笠原長直は正面の床几に座って治堅を見ていた。面頬(めんぽお)を取った顔だちは意外なほど端正で武将とは思われぬ優しさが現れている。その前面の両側に小笠原長直の弟、都賀但馬守長信をはじめ君谷丹波守、山中丹後守長祐等一門衆が兜を付けたままの姿で座っている。

「寺島五郎左衛門尉様御配下福冨七郎治堅にござりまする」

 入り口で片膝を地につけて座した。

「みごとな槍さばきよのう、この度の働き抜群であった」

 御屋形が言った。

「おそれながら、それがしの最初に取りましたのは、姓名は定かでござりません。二つ目のものが、まぎれも無く敵の侍大将のものでございます」

 治堅は、地に頭をつけたまま全身に脂汗の滲むのを感じていた。

「アッハッハ」

 小笠原長直の高笑いが帷幕(いばく)をふるわせた。

「二つも取ったのか、あっぱれであるぞ。それにもうひとつ、そちは、敵の闘争心を摘み取った」

 御屋形が笑いながら言った。

 治堅は、頭を伏せたまま、『御屋形が、認めてくれた』と感じていた。

「顔をあげられよ」

 横に座っている武将がやさしく言った。おそるおそる目を上げた治堅は正面に端座している御屋形の顔が笑っているのを見て、

― 自分は誉められているのだ。

 ということの確信をもった。戦場において総大将の下知をまたずに突入したことは、まぎれもない軍令違反である。場合によっては首を刎ねられることもあるのだ。

「フクトミ…。我先代(四代長氏)に討たれた福冨七郎・楠判官の子孫か」

 

           ※                  ※

 元弘三年(一三三三)鎌倉幕府を倒して親政を開始した後醍醐天皇は、全国平定を磐石なものにするため、各地に旗頭(はたがしら)となる武将を派遣した。

 石見国(いわみのくに)(島根県西部地方)へは楠木正成の代官として一族の楠七郎が入部した。

 まもなく起きた後醍醐天皇武家政権をもくろむ足利尊氏との権力抗争から、後醍醐天皇南朝と尊氏が擁立した北朝とが鎬を削る南北朝時代に突入した。

 石見国においても、南朝国司日野邦光の下(もと)、福光(ふくみつ)物石謂(ものいわい)城(大田市温泉津町福光)に拠(よ)った楠七郎と三年後に入部した新田義貞の一族新田義氏を旗頭に三隅兼連(みすみかねつら)、福屋兼景(ふくやかねかげ)、都野氏隆(つのうじたか)、佐波顕連(さわあきつら)ら在地豪族が結束して益田兼見(ますだかねみ)、小笠原長胤(おがさわらながたね)ら北朝方と争った。

 戦いは終始、北朝方有利に展開し、楠七郎らは絶望的な戦いを強(し)いられていた。

その最中、興国三年(一三四二)七月二十三日早朝、北朝方の奇襲を受けた福光物石謂城は陥落した。

「楞厳寺記」には、「古記曰く暦応年中 楠判官開城時庶民挙而称不言城」と記されている。

このときの凄惨な戦いから、物石謂(ものいわい)城は「物不言(ものいわず)城」と呼ばれるようになった。

 

 楠七郎は捲土重来の思いを込めて姓を福冨と改め、三久須村後方の仙ノ山に築いた三久須高城(大田市水上町)で再起を計ったが、正平五年(一三五〇)、足利尊氏の重臣高師泰(こうのもろやす)率いる三万の軍勢に攻囲されるなか先鋒隊となった小笠原長氏と戦って討死した。

 

 七郎は、わずか百五十人ほどの兵で勝ち目のない戦と知りながら、最後まで天皇に忠義を貫いて玉砕した。二十七年の生涯であった。

 

 福冨七郎は、男らしい討死を惜しんだ三久須村の人々によって、楠判官と呼ばれ、のちのちまでも慕い、大切にされてきたという。

           ※                  ※

 

―あれから一世紀を経過している。

 その間、福冨は代々にわたって七郎の名を襲名してきた。

 

「福冨判官は南北朝争乱のとき忠義を貫いたと聞いている。東の楠木正成に劣らぬ忠であり至誠の人だ。南北朝争乱では、敵味方となったがそれも時の流れによるもの。判官と同じ位・尉位を与えよう、左衛門尉を名のるがよい」

 小笠原長直の言葉に周りの武将から、どよめきがあがった。感嘆の声を発することで長直に賛意を表したのだ。

 論功行賞は、戦の後、城に帰ってから全体の戦功を見ながら決められるものなのだ。戦場において大将が直接実施することは、かって一度もなかったことだ。

「ありがたき幸せにござりまする。身命を賭して忠義にはげみまする」

 治堅は、改めて拝伏した。喜びが全身にあふれ、声の震えを押さえることができなかった。

「おう、頼もしいぞ」

 御屋形の声を懐に退出した。

 入り口で、膝を地に着けて控えていた理左衛門が満面の笑みをもって迎えた。笑顔の中を一筋の涙が頬を流れ落ちていた。

 

 三月五日、小笠原長直の居城、温湯城大広間において戦功者への論功行賞が行われた。

 

「任・七郎左衛門尉

 享徳二年三月五日

       長直 

  福冨七郎殿     」

 

― 福冨七郎左衛門尉…いい名前だ。

 武門の面目を施した治堅は幾度ともなく呟いた。

「一番槍」となり、無比類の高名を得た。

 

 この合戦の武功により小笠原長直より福光下村で五貫文(六十石)の地を賜った。

 六町歩にわたる田地が治堅のものになった。

 念願の所領を手にしたのであった。さらに、浅利村に城砦を築くことを命じられた。

 

 楠判官は、南北朝期に福光下村を支配していたが、争乱は北朝方に軍配があがり、北朝方に属した小笠原家の支配地となっていた。小笠原長直は、このことを考慮して福光を福冨に宛行ったと考えられる。  

 

 君谷湊跡周辺(島根県邑智郡)(地形により推測)

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