福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

文禄の役

天正十九年(一五九一) 八月、太閤秀吉は大明国(中国)出兵の準備を全国大名に通達するとともに、九州肥前の国、名護屋に大本営を置くこととして築城を命じた。 名護屋は、東松浦半島の先端にある寒村だった。まったくの僻地で、村といっても数戸の家があ…

小田原城

天正十七年(一五八九)十一月、太閤秀吉は北条討伐の軍令を発した。 天正十八年(一五九〇)正月、討伐軍先鋒徳川となった家康が出陣し、街道の整備を行なった。 二月、小早川隆景、吉川広家が領国の軍勢を率いて上洛し、秀吉に面謁のうえ尾張に進んだ。小…

小田原城

天正十七年(一五八九)十一月、太閤秀吉は北条討伐の軍令を発した。 天正十八年(一五九〇)正月、討伐軍先鋒・徳川家康が出陣し、街道の整備を行なった。 二月、小早川隆景、吉川広家が軍勢を率いて上洛し、秀吉に面謁のうえ尾張に進んだ。小早川隆景は清…

島津征伐

天正十四年(一五八六)七月十日(新暦八月二十四日)豊臣秀吉は、島津征伐令を発動、黒田孝高を監察使として、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら中国隊に、北九州からの先陣を命じた。 毛利輝元は十月三日(新暦十一月十三日)豊前の門司に上陸、筑後川を渡…

丸山城

天文十二年(一五四三)に種子島へ上陸した鉄砲も天正のころになると、戦場での重要な兵器となっていた。 御屋形(小笠原長旌(ながはた))の居城彌山城では、鉄砲に対する防禦に不安がでてきた。 天正十年(一五八二)初春から天正十三年(一五八五)七月ま…

長宗我部(ちょうそかべ)征伐 

天正十二年(一五八四)四月、羽柴秀吉と徳川家康による小牧長久手合戦のさなか、徳川家康と長宗我部元親が同盟を結んだ。 同年九月、長宗我部元親が伊予に侵入してきたため伊予の河野通直と毛利連合軍が圧迫されてきた。 この結果、河野通直が確保するのは…

5代・福冨七右衛門尉藤原春昌

小笠原家臣団 天正十二年(一五八四)春、毛利氏と羽柴秀吉の講和がなり、毛利軍諸将は鉾を収めてそれぞれの自領に帰っていった。 秋、四ッ地蔵城にも、つかの間の平穏がもたらされていた。 明尊から御屋形(小笠原長旌)に願い出ていた嫡男春昌への家督継承…

山崎屋敷 

石見の国人衆すべてが毛利氏に臣下してからは石見国内での戦はなくなった。 もはや、四ッ地蔵城も要害としての役目を終わり居館の機能しか果していない。 しかし、小笠原軍団としての四ッ地蔵城だ、独断で取り潰すことはできない。 明尊は四ッ地蔵城を嫡男昌…

鳥取城

天正九年(一五八一)二月二十六日(新暦の三月三十日)、村のあちこちに咲き始めた桜が、うららかな春びよりを喜ぶように美しさを誇示している。 この日、羽柴秀吉の因幡侵入を阻止するため鳥取城督となった福光物不言城主吉川式部少輔経家は、朝枝加賀守、…

忍山(おしやま)の城

天正七年(一五八〇)二月、毛利麾下の有力武将備前岡山城主宇喜多直家が離反し、織田信長についたことが確実となった。 宇喜多直家は備前、備中と美作の一部を支配する大名であり、毛利にとっては重大な損失となる。 毛利輝元は宇喜多の領国を攻略するため…

筑前立花城

永禄十一年(一五六八)七月中旬、またしても出陣命令がきた。 筑前立花城主立花鑑載が大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻し、毛利家に庇護を求めてきたためである。毛利元就は伊予から帰ったばかりの小早川隆景、吉川元春に出陣を命じた。 これに呼応して古処山城…

伊予・大洲城(大津城)

永禄十一年(一五六八)三月四日(新暦四月一日)、吉川元春、小早川隆景らは伊予大津の宇都宮豊綱に攻められている湯月城河野道直を救援のため伊予に出陣した。 河野道直は十二年前の厳島の戦いに毛利のために働いた伊予水軍の一族である。水軍は強力である…

月山(がっさん)富田城(とだじょう)

永禄五年(一五六二)七月、毛利元就は尼子氏攻略のため一万五千の兵を率いて吉田郡山城を出発、二十八日(新暦八月二十七日)には出雲の赤穴郷に着いた。ここで、三沢郷の三沢為清、三刀屋郷の三刀屋久扶、高瀬郷の米原綱寛、阿用の桜井入道、大東童山の馬…

物不言城(ものいわずじょう)

永禄四年(一五六一)七月、元春から、福屋隆兼に次男の二郎を孝鶴丸(輝元)の近習に差し出すよう督促された。人質要求であった。 隆兼は、これを拒否した。 同年九月、福屋隆兼が家老の重富民部大輔兼雄一族を抹殺したという、まさに驚愕すべき事件が勃発…

山吹城

永禄三年(一五六〇)七月、きびしい暑さがつづいていた。いつまでも続く暑さに人々は閉口していたが、幸いにも午後には決ったように夕立が降っていたので、渇水の心配はない。田んぼの稲には、すでに穂がつきはじめている。 七月初旬、毛利元就は安芸、備後…

種子島銃

永禄二年(一五五九)初冬、戦に明け暮れる明尊の四ッ地蔵城在城を待っていたかのように、八神屋與次郎兵衛がやってきた。雪が降ったのかと見間違うほどの霜が立っている寒い朝だった。 與次郎兵衛は、家督を受け継いで十年になる。すでに齢四十を越え、玉鋼…

温湯城開城

四月二十八日(新暦五月十六日)、吉川元春が益田藤包、佐波秀連、杉原盛重、福屋隆兼ら三千五百余騎で温湯城へ迫ってきた。 御屋形(小笠原長雄)は、二千余騎を二手に分けて夜襲をすべしと評定したが、異議が多くその夜は徒労に終った。 このころの軍団は…

日和城

三月二十四日(新暦四月十二日)、日和城へ芸州の杉原盛重が五百人ばかりで押し寄せてきた。 城下の村に放火して日和城に拠っている寺本伊賀守らを挑発している。 城中よりこれを見た寺本玄蕃允が二百人ばかりで追いまくり日暮まで戦った。 この争いのなか、…

風雲温湯城(ふううんぬくゆじょう)

石州出羽(いずは)合戦 永禄元年(一五五八)春、山椿が冬の終りを告げるかのように群生している。木々の若芽がふくらみ桜もつぼみが大きくなってきた。そろそろ本格的な春を迎えようとしている。 このころ、福屋、周布(すふ)、吉見、三隅、益田は毛利の軍門…

お夕の結婚

弘治三年(一五五七)春、室神山に霞みがかかっていた。 小笠原氏と佐波、福屋勢との熾烈な戦いは続いている。 緊迫した毎日が続いていた。 刀の手入れをしている本丸館の庭木に小鳥が集って、せわしなく動き回っている。 春日和が戦いに明け暮れる明尊の心…

四ッ地蔵城の戦い

弘治元年(一五五五)四月十六日(新暦五月六日)払暁、河上(かわのぼり)村の渡しを軍勢がぞくぞくと渡っているという知らせが入った、三千人余いるという。 「そのなかには福屋氏の幟があります」 「福屋どのじきじきのお出ましか」 「間違いありません」 …

八神屋(やかみや)襲撃

天文二十二年(一五五三)明尊も二十歳になった。 周辺の田んぼも田植えが終わり、青々とした早苗が日増しに丈を伸ばしている。 風に紛れてかすかな木鐘の音が聞こえてくる。 本丸西側の塀ぎわに立って、風の音と木鐘の音を聞き分けようとしている明尊の背後…

秘剣・稲妻

天文二十一年(一五五二)夏、 太陽が山の陰に没して、西の空を茜色に染めていた最後の光も、わずかばかり残すだけとなっている。 音もとどかぬ遠いかなた薄暮の空に、くっきりと立ち上る入道雲のなかで、しきりに稲妻が奔っていた。 雷神が雲中で暴れまわっ…

斬撃

福冨明尊は十五歳となっていた。重兵衛とのきびしい訓練はつづいている。 無心に木刀を振っていた。素振りをしていれば無心になれた。もはや、回数を数えることもなく、ただ、ひたすら体を動かしつづけた。体から力が失せ、へとへとに疲れても、気力のある限…

三高城

天文十二年(一五四三)七月三日(新暦八月三日)こんどは、尼子晴久が石見に出兵してきた。石見の豪族は、つぎつぎと頭を垂れている。 晴久は、「大内勢を敗った今、勝ちに乗じて石見、備後を切り隋えたのち、再び芸州へ討ち入って一年前の鬱憤を散し、大敗…

お夕

天文十二年(一五四三)初夏、明尊と忠左衛門は四ッ地蔵城を出た。 今日も晴天が続き、雨の心配は無さそうだと思っていたが、太陽が中天を過ぎた頃になって突然の雷雨となった。あいにく人里離れた山中だった。 黝(あおぐろ)い雲が地を圧し、雷電が頻りに襲…

月山冨田城

天分十年(1541)秋、それまで尼子方であった備後、安芸、石見、出雲の国人衆十三人が連署して大内氏へ尼子征伐を慫慂した。 備後の三吉広隆、山内隆通、多賀山久意、杉原盛重、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、川津久家、宍道正隆、古志吉信、石見の本城常…

四代・福冨七郎左衛門尉藤原明尊

天文十年(一五四一)正月十六日深夜、 「おーい帰ってきたぞ」 ドンドンドンと大きな足音をたてて廊下を歩いてくる。 ―あら、お帰りだ。あいかわらず賑やかな相安さまだこと。 由貴は、ホッと笑みを浮かべて目を覚ました。 急いで夜具からでて着物を手にし…

郡山城

天文八年(一五三九)十一月一日、尼子詮久は毎年の恒例となっている「備定談合」で、来年秋を期して毛利征伐出兵を決定した。毎年、この日は、富田月山城内に一門の重臣たちを集めて、来年度中の作戦を練ることとしていた。これを「備定談合」という。 その…

尾行者

残暑の厳しい天文八年の夏も、かすかに秋の気配を感じるようになってきた。ガンガンと耳に響いていた蝉しぐれも力を失い、法師蝉が「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴いていた。 「いったい、何者だ」 理右衛門は後方を振り返った。 「ハアー」っと、自…