福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

種子島銃

永禄二年(一五五九)初冬、戦に明け暮れる明尊の四ッ地蔵城在城を待っていたかのように、八神屋與次郎兵衛がやってきた。雪が降ったのかと見間違うほどの霜が立っている寒い朝だった。 與次郎兵衛は、家督を受け継いで十年になる。すでに齢四十を越え、玉鋼…

温湯城開城

四月二十八日(新暦五月十六日)、吉川元春が益田藤包、佐波秀連、杉原盛重、福屋隆兼ら三千五百余騎で温湯城へ迫ってきた。 御屋形(小笠原長雄)は、二千余騎を二手に分けて夜襲をすべしと評定したが、異議が多くその夜は徒労に終った。 このころの軍団は…

日和城

三月二十四日(新暦四月十二日)、日和城へ芸州の杉原盛重が五百人ばかりで押し寄せてきた。 城下の村に放火して日和城に拠っている寺本伊賀守らを挑発している。 城中よりこれを見た寺本玄蕃允が二百人ばかりで追いまくり日暮まで戦った。 この争いのなか、…

風雲温湯城(ふううんぬくゆじょう)

石州出羽(いずは)合戦 永禄元年(一五五八)春、山椿が冬の終りを告げるかのように群生している。木々の若芽がふくらみ桜もつぼみが大きくなってきた。そろそろ本格的な春を迎えようとしている。 このころ、福屋、周布(すふ)、吉見、三隅、益田は毛利の軍門…

お夕の結婚

弘治三年(一五五七)春、室神山に霞みがかかっていた。 小笠原氏と佐波、福屋勢との熾烈な戦いは続いている。 緊迫した毎日が続いていた。 刀の手入れをしている本丸館の庭木に小鳥が集って、せわしなく動き回っている。 春日和が戦いに明け暮れる明尊の心…

四ッ地蔵城の戦い

弘治元年(一五五五)四月十六日(新暦五月六日)払暁、河上(かわのぼり)村の渡しを軍勢がぞくぞくと渡っているという知らせが入った、三千人余いるという。 「そのなかには福屋氏の幟があります」 「福屋どのじきじきのお出ましか」 「間違いありません」 …

八神屋(やかみや)襲撃

天文二十二年(一五五三)明尊も二十歳になった。 周辺の田んぼも田植えが終わり、青々とした早苗が日増しに丈を伸ばしている。 風に紛れてかすかな木鐘の音が聞こえてくる。 本丸西側の塀ぎわに立って、風の音と木鐘の音を聞き分けようとしている明尊の背後…

秘剣・稲妻

天文二十一年(一五五二)夏、 太陽が山の陰に没して、西の空を茜色に染めていた最後の光も、わずかばかり残すだけとなっている。 音もとどかぬ遠いかなた薄暮の空に、くっきりと立ち上る入道雲のなかで、しきりに稲妻が奔っていた。 雷神が雲中で暴れまわっ…

斬撃

福冨明尊は十五歳となっていた。重兵衛とのきびしい訓練はつづいている。 無心に木刀を振っていた。素振りをしていれば無心になれた。もはや、回数を数えることもなく、ただ、ひたすら体を動かしつづけた。体から力が失せ、へとへとに疲れても、気力のある限…

三高城

天文十二年(一五四三)七月三日(新暦八月三日)こんどは、尼子晴久が石見に出兵してきた。石見の豪族は、つぎつぎと頭を垂れている。 晴久は、「大内勢を敗った今、勝ちに乗じて石見、備後を切り隋えたのち、再び芸州へ討ち入って一年前の鬱憤を散し、大敗…

お夕

天文十二年(一五四三)初夏、明尊と忠左衛門は四ッ地蔵城を出た。 今日も晴天が続き、雨の心配は無さそうだと思っていたが、太陽が中天を過ぎた頃になって突然の雷雨となった。あいにく人里離れた山中だった。 黝(あおぐろ)い雲が地を圧し、雷電が頻りに襲…

月山冨田城

天分十年(1541)秋、それまで尼子方であった備後、安芸、石見、出雲の国人衆十三人が連署して大内氏へ尼子征伐を慫慂した。 備後の三吉広隆、山内隆通、多賀山久意、杉原盛重、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、川津久家、宍道正隆、古志吉信、石見の本城常…

四代・福冨七郎左衛門尉藤原明尊

天文十年(一五四一)正月十六日深夜、 「おーい帰ってきたぞ」 ドンドンドンと大きな足音をたてて廊下を歩いてくる。 ―あら、お帰りだ。あいかわらず賑やかな相安さまだこと。 由貴は、ホッと笑みを浮かべて目を覚ました。 急いで夜具からでて着物を手にし…

郡山城

天文八年(一五三九)十一月一日、尼子詮久は毎年の恒例となっている「備定談合」で、来年秋を期して毛利征伐出兵を決定した。毎年、この日は、富田月山城内に一門の重臣たちを集めて、来年度中の作戦を練ることとしていた。これを「備定談合」という。 その…

尾行者

残暑の厳しい天文八年の夏も、かすかに秋の気配を感じるようになってきた。ガンガンと耳に響いていた蝉しぐれも力を失い、法師蝉が「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴いていた。 「いったい、何者だ」 理右衛門は後方を振り返った。 「ハアー」っと、自…

佐摩銀山(石見銀山)

享禄三年(一五三〇)も暮れようとするころ、相安の叔父八神屋與次郎兵衛が四ッ地蔵城を訪れてきた。 「どうですか商いは」 相安は子どものころから、父忠智と部屋に籠って話し込んでいた叔父の與次郎兵衛に対しては礼節をわきまえた態度を崩さなかった。 ―…

三代・福冨七左衛門尉藤原相安

永正十三年(一五一六)、足利義稙を奉じて京都の守備に任じていた尼子経久は、大内義興の専横を怒り出雲へ帰った。 月山富田城に帰った経久は、つぎつぎと周辺の国人衆を制覇し、大内氏の領土を脅かしてきた。 永正十五年(一五一八)、ついに義興も山口へ…

船岡山合戦

近江岡山城に逃げた足利義澄らは、政権を取り戻そうと再三にわたって攻め上ってきたが、その都度撃退して三年がたった。 小笠原隊もあいかわらず平安城(御所)警護が続いている。 永正八年(一五一一)七月七日(新暦七月三十一日)細川政賢らが泉州堺に上…

平安城

永正四年(一五〇七)、足利義澄を奉じて将軍足利義稙を放逐した管領細川政元は、実権を握って大いにその権勢をしめしたが、自分の後継ぎに関白九条政基の子澄之、阿波讃岐細川義春の子澄元、そして細川支流細川政春の子高国の三人を立てた。三人が力を合わ…

参考文献

石見家系録 大島幾太郎 島根県大田市立図書館 陰徳太平記……・・ 和歌山県立図書館、大阪府立中央図書館 吉川家古文書……・ 和歌山市立図書館 石見吉川家古文書… 大阪府立中央図書館 大丸山伝記……・・ 川本町立図書館 孫子………………・ 浅野裕一 講談社学術文庫 吉…

君谷合戦

永正三年(一五〇六)十一月二十三日(新暦十二月七日)病気療養中の小笠原長正(十代)が温湯城において死去した。直ちに嫡男長定が家督を継いだ。 翌年、喪も明けぬなか佐波勢が小笠原領君谷湊に侵入してきた。 小笠原長正は、南北朝以来繰り返してきた佐…

九州出征

明応五年(一四九六)一月、周防、長門、豊前、筑前の守護大内政弘が死去した虚を突くように、九州肥前の少弐政資が大内氏の支配する筑前に侵入して大宰府を占拠した。大内氏は、その子義興が後を嗣いだばかりであった。 同年十二月、父政弘の一周忌を済ませ…

四つ地蔵城

四つ地蔵城では忠智の留守中、重臣・佐々木善右衛門は、紫部新左衛門に逢って、都治方へ寝返った本意を聞きだしてくれていた。 善右衛門は、平時においては、穏やかな好好爺であるが、戦場においては鬼神の働きをする。 幾多の戦場において、先頭をきって突…

温湯城(ぬくゆじょう)

目前の城山には秋の色あいがでていた。白壁の塀が幾重にも重なって横に広がり、所狭しと甍をかさねる建物が、頂上部へと続いている、いつ見ても美しい城だ。 「あそこが本丸です、その右下にあるのが二の丸で、城の大手門にあたる南大門は…ほら、あの木の陰…

出羽本城(いずはほんじょう)

昼過ぎには、川根の湊に着いた。ここから温湯城へは、一日行程でしかないが、忠智は、ひとまず小笠原家の姻戚・高橋大九郎の城に入ることとした。江川の支流・川草川を辿れば、城まで二里ほどでしかない。大九郎久光の妻は、小笠原長弘の姉である。 また、こ…

甲山宿

峠を下り、谷間を抜けると広い盆地にでた、甲山宿だ。鎌倉時代以来の高野山領大田荘である。盆地の中を東西に流れる芦田川を隔てた対岸の山に、大田荘経営の中心寺院として真言宗龍華寺が建立されていた。山には、龍華寺を中心として観音堂、御影堂等が設け…

尾道宿

その日は、尾道宿に泊まることとした。 陽も陰り、往来する旅人も、それぞれが宿を物色している。 軒を連ねる宿屋の女が、声を張り上げ客引きしていた。競争で客を引き込んでいる、まるで喧嘩だ。 「ご浪人さま、どうぞお泊まりになってください」 女が忠智…

京都屋(みやこや)

昼すぎに、二人は川之江城下へ出た。 海岸近くの小高い山に城があった。南北朝期の建武四年(一三三七)に河野道政がその武将土肥義昌に命じて築いた仏殿城だ。永延元年(九八七)に諸国行脚の僧恵心が建立した「鷲尾山恵心院仏報寺」を取り入れて建てたもの…

阿波・雲霧城

伊予国との国境近く、馬路川右手の小高い山に、小笠原長重の城がある。 城山は川の両岸から急激にそそり立つ懸崖な山の頂にあった。背後には峰畑山(七四八メートル)が屏風のように連なっている。 城内は戦支度でごった返していた。 兵の顔は強張り、将士に…

四ッ地蔵城

その日午後、四ッ地蔵城城門に浜崎四郎兵衛尉率いる百名の軍勢が到着した。 御屋形に呼び出された城主忠智が帰らず、軍勢が押し寄せてきた。 四ッ地蔵城は大混乱に陥った。 城の門すべてが固く閉じられた。 「なにごとです父上、殿はご無事でしょうか」 大門…