福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

小田原城

 天正十七年(一五八九)十一月、太閤秀吉は北条討伐の軍令を発した。

 天正十八年(一五九〇)正月、討伐軍先鋒・徳川家康が出陣し、街道の整備を行なった。

 二月、小早川隆景吉川広家が軍勢を率いて上洛し、秀吉に面謁のうえ尾張に進んだ。小早川隆景清洲城吉川広家は星崎城に在番した。

 三月一日(新暦四月五日)、秀吉が聚楽第を出発、十九日(新暦四月二十三日)、吉川広家三河岡崎城に移り、秀吉は駿府に入った。

 二十八日(新暦五月二日)、秀吉、家康連合軍が韮山山中城を攻略した。

 四月、秀吉は箱根に陣をとり、一軍を十国峠、一軍を仙石原から小田原へ進ませた。

 秀吉は湯本から小田原の早雲寺に移り、長期包囲戦の策をとるとともに周辺の城を攻めて小田原城を孤立させていった。

 五月、秀吉は小早川隆景吉川広家を小田原に呼び寄せ北条攻略の策を問うた。隆景は富田城包囲戦のとき父毛利元就の執った経験から『将士の倦怠を警戒し、陣中慰安の策を講じること』を進言した。

 秀吉は、さっそく京堺の商人を出入りさせ、酒宴遊興を許し、諸大名の女房を迎えさせた。秀吉も淀君を呼び寄せた。

 小早川隆景吉川広家は下田城攻略を命じられ、吉見、益田、小笠原以下将兵一万をもってこれを攻略した。

 六月に入ると関東に散在する北条方諸城も次々と降伏してきた。

 七月五日(新暦八月四日)、ついに北条氏が降伏した。

 七月十二日、秀吉は奥州平定のため小田原を出発し、八月九日、会津の芦名氏館である黒川城に入り、奥州の押さえとして蒲生氏郷会津に置いた。

 八月十二日、秀吉は会津を発し、九月一日京都に帰った。

 

 天正十九年(一五九一) 三月、吉川広家は出雲、隠岐など十二万石を秀吉から与えられ、月山富田城に入城した。

 

 吉川広家は、軍団の編成替えを行った。これまでは、傘下国人衆の自立性を維持しつつ指揮下にいれていたのだが、広家は用兵の指揮権さえ取り上げた。これにより、小笠原軍団も御屋形に指揮権はなく一介の戦闘員になりさがってしまった。

 春昌も広家から直接下知を受けることとなったのである。御屋形の気持ちを思うと察しあまるところであるが如何ともしがたい。主従関係の形が合議制から絶対服従へと確実に移行しつつあったのである。

 

 

島津征伐

 天正十四年(一五八六)七月十日(新暦八月二十四日)豊臣秀吉は、島津征伐令を発動、黒田孝高を監察使として、毛利輝元吉川元春小早川隆景ら中国隊に、北九州からの先陣を命じた。

 毛利輝元は十月三日(新暦十一月十三日)豊前の門司に上陸、筑後川を渡って筑前への侵攻をもくろむ島津忠長(義久の従弟)、伊集院忠棟、野村忠敦らの勢を迎え討つべく進撃を開始した。

 十月二十九日(新暦十二月九日)毛利隊は備前香原岳城高橋元種の支城・小倉城を攻略して入城した。高橋元種は早々に降伏したが、まもなく島津軍が大軍をもって豊後に進撃してくるのを知って再び島津軍に寝返った。

 毛利隊は高橋元種討伐の軍勢を起し元種の支城宇留津城を攻め、千人余りの籠城兵を殺戮してその日のうちに陥落させた。

 つづいて、十五日には高橋方の障子ヵ岳城を攻撃した。城兵たちは高橋元種の籠る香原岳城に逃げ込んだ。

 この日,十一月十五日(新暦十二月二十五日)毛利元就の次男として生まれ、三男の小早川隆景とともに毛利宗家を補佐してきた吉川元春が陣中で病没した。五十七歳であった。生涯にわたり幾多の合戦を展開してきたが、一度も負けた事が無く『不敗の将』と呼ばれてきた。

 毛利隊は弔い合戦だとばかりに香原岳城に軍勢を進めた。

 香原岳城には峰続きの二の岳、三の岳に砦があった。いずれも要害で容易には落せそうにない。斥候をだし城の強弱を探った寄せ手は三の岳に攻撃を集中して二十日にはこれを占領した。さらに十二月十五日(新暦一月二十三日)香原岳城を総攻撃、ついに高橋元種を降伏させた。

 ところが、豊後へ直接上陸した仙石秀久を監察使とする長宗我部元親、信親父子、十河存保ら四国勢六千人が、中津の南に流れる戸次川で三万六千の島津軍と戦って大敗した。この戦いで長宗我部元親の嫡男信親は手勢七百余名とともに壮絶な討死をとげ、十河存保も五百の兵と枕を並べて戦死するという甚大な損害をだしていた。

 このため、中国勢も、ひとまず鉾を納めることとした。

 中国勢を追い払った島津家久は、城を捨てて逃走した大友義統の豊後府内城に入った。長年にわたって敵対し凌ぎを削ってきた大友の本拠地を占領したのである。

 島津の兵らは大友義統の重宝を掠奪し、町屋、百姓屋や目だったをし戦利品のに熱中していた。

 分捕った戦利品を持ち帰るため、無断で薩摩へ向う兵が続出した。

 

 天正十五年(一五八七)豊臣秀吉は島津征討のため尾州以西三十七か国に大動員令を発し、秀吉も三月一日(新暦四月八日)大坂を進発した。この時、薩摩、大隅、日向三州の大守島津義久は肥後の八代に、島津家久(末弟)は豊後府内、島津義弘(二弟)は豊後朽綱にいた。

 同月二十五日(新暦五月二日)秀吉が赤間が関(下関)に着陣、二十八日には総勢二十五万の軍勢を引き連れて小倉の東海岸に上陸、二十九日には、長野三郎左衛門の馬野岳城へ入城した。

 秀吉軍本隊は筑前筑後から肥後へと西コースを進撃し、羽柴秀長、秀勝の率いる別働隊は豊後から日向に至る東コースを進むことになった。 

 春昌ら小笠原隊は羽柴秀長の率いる別働隊の吉川勢である。

 秀吉より早く、二月十日(新暦三月十八日)に大坂を出立した羽柴秀長、秀勝には、宇喜多、藤堂、蜂須賀ら大和、阿波、讃岐、美作、但馬、因幡伯耆半国、備中半国の兵が従った。 

 二月二十五日(新暦四月二日)、豊前築城原に着陣、翌日、同国秋吉、二十七日、豊後湯の岳に着いた。

 ここで、毛利三家率いる三万騎が揃って羽柴秀長に合流した。これにより、別働隊は九万騎となった。

 怒涛のごとく押し寄せる上方勢に怖れをなした地元の兵らは、次々と恭順してきた。

 三月十一日(新暦四月十八日)島津義久もついに退却を始めた。

 退却となると昨日まで味方だった国衆や一揆が次々と襲ってくる。島津軍は凄惨な退却をつづけた。この逃避行で伊集院美作守、白浜周防介父子、平田新左衛門尉、長谷場出雲守ら数百人が戦死した。

 上方勢は島津軍を追撃して日向に入り、まず、県城(延岡)を落し、さらに南下して耳川周辺に陣を張った。

 対岸には島津家久がわずか一万で九万騎にもおよぶ上方勢に臆することもなく挑発している。

 これほど差があれば、平場での野戦は数がものをいう。

「いっきに蹴散らせ」

 春昌らの血がたぎる。

 ところが、総大将羽柴秀長の命がおりない。

「これほど小さい川を、なぜ渡れないのか」

 島津の兵が河岸まで出て、あざ笑う。

「これほどまでに馬鹿にされては武士のめんぼくがたたん、行くぞ」

 吉川元長の下知をうけて、吉川隊五千騎の士気が一気に沸騰する。

「川底の石に気をつけろ、つまずくな」

 春昌らは、つぎつぎと指令を兵に伝えている。

 そのとき、

「今しばらく待て、と大将の仰せであります」

 小早川隆景の軍使が飛び込んで来た。それでも、すでに動きだした兵には通じない。

「待たれよ、秀長卿の御下知であるぞ」

 まさに川に入ろうとしている吉川隊将兵の前に、ただ一騎で駆けつけた小早川隆景が立ちはだかる。

「この川の深さも知らずして、渡ろうとすること浅はかでであろう」

「このような小川のこと、たとえ、川の様子がわからなくとも、浅瀬は、ひとめ見てもわかります。ましてや昨夜、家人どもに下知して浅瀬をさぐらせております」

 吉川元長は昨夜のうちに千代延早介、恋塚三郎兵衛に命じてをさせていたのだ。

 元長が隆景の制止を振り切って動こうとする。

「なにを言うか、これほどの大河に、しかも水底には大石、小石が多くて、馬の足もとも悪く、いたずらに溺死者をだすことになろう。ことに御大将の下知であるぞ。下知を破るとは由々しきことぞ」

「敵も、ここが渡れると知っているからこそ、昨日も出てきて備えを固めたのでありましょう、されども、あるいは、我々を謀って言っているのかも知れないと思い、昨夜、瀬踏みさせて調べたところ、深いところでも胸肩の間を超えるところは無く、真中のほうで七、八間ほどは人が立てないところはあるものの渡れないものではありません。大友義統ごときの弱敵に勝って、我々をも豊後勢と等しく思い侮り、おのれの勇を誇示していることが憎いことです。

 それがしが一番に打ち渡り、敵を城中へ追い込めて城を柵で取り囲み、一人も漏らさず討ち果たしたならば、薩摩、大隅の両州は武力によらずとも靡き従うでありましょう」

 吉川元長には、これほどに優勢な軍隊をもちながら、慎重な態度を崩さない総大将の指揮に納得がいかない。粘り強く叔父である小早川隆景に同意を求めている。

 春昌ら小笠原隊は、すでに戦闘隊形を組んで突撃命令を待っている。

 総大将羽柴秀長の軍使が到着した。

「今日は川を渡るべからず。本陣へ集合せよ、申し渡すことあり。と、総大将の御下知でございます」

 小早川隆景と吉川元長、経言兄弟が、連れ立って本陣へ向った。

 小笠原隊も戦闘態勢を解いた。

「今日の一戦を止め、明日、総軍いちどに渡河する。士卒らに柵の木一本づつ持たせよ、城の喉元を遮断する」 

 総大将の下知がおりた。

 ところがその日深更、島津勢が退却を始めた。

 これを察知した春昌らは、七里(二十八キロメートル)ほど南の佐土原まで追撃して首級を取りまくった。

 

 島津本隊を蹴散らした上方勢は、島津氏の本拠である鶴丸城(鹿児島)を核とした百十三外城のひとつである高城(宮崎県児湯郡木城町高城)の周辺に三十四ヵ所の陣を敷いた。

 高城を直接包囲するのは羽柴秀長を総大将として毛利輝元小早川隆景、吉川元長、宇喜多秀家、大友、筒井らである。毛利輝元は備中、備後、安芸、周防、長門の兵を率いて城の喉元にあたる尾根に陣を構え、つづいて小早川隆景が伊予、備後、備中勢を加えて陣を張った。毛利、小早川、吉川軍総勢二万五千名の陣容である。 

 そこから西の端に吉川元長、経言(つねとき)が石見、出雲、隠岐伯耆将兵一万名で固めている。東の山には一万五千人を率いた羽柴秀長の本陣がある。南の山には宇喜多秀家が一万五千で陣を張った。これに対する高城の守備部隊は一千三百名であった。

 吉川勢の陣は高城の塀の手へ六、七間までに接近している。必ず他勢より敵の近くに陣を取ることが吉川元春から引き継がれている作戦であった。

「火矢を放せ」

 吉川勢が集中して火矢を放し、たちまち高城三の郭を炎上させた。

「ウオー」

 吉川勢が、鬨の声をあげて士気を鼓舞する。

 上方勢に戦う気概があふれてくる。

 

 高城の前面を流れている小丸川の対岸、五十町(五千四百メートル)のところに位置する根白坂には、黒田孝高と宮部継潤、尾藤知定ら因幡勢が砦を築いていた。高城救援のため来攻する島津勢はここを突破しなければ高城へ行けない。

 四月十六日、宮部隊の陣近くに大札が立てられていた。

「来る十七日(新暦五月二十三日)寅刻、この表へ罷り出、一戦を遂げ候(そうろう) 島津中務」

 豪胆にも事前通知だった。

 宮部らは濠を堀り、土手を高く築いて塀や柵を厳重に構えた。特に、敵に最も近い宮部の陣は一番先にかかってくるだろうと塀柱を大きくし、五尺(百五十センチメートル)間隔で補柱を立てた。さらに塀の外には、枝をつけたままの大木で逆母木を設えた。

 逆母木とは、枝のついた木を外に向けて柵をつくり敵の侵入を防ぐものである。

 翌十七日夜、島津勢が根白坂に押し寄せてきた。

 島津家久を大将とする島津勢二万騎は一陣も二陣も破らずば再び帰らず、と書いた符を髻に結び、その隊列も堂々として宮部隊と南条隊の陣へ太鼓を打ちながら寄せてくる。島津の先鋒は左翼が北郷一雲、右翼が伊集院忠棟であった。

 南条隊は前面に深さ二間、幅三間の空濠を堀り、濠ぎわには土居を築き、塀や柵をめぐらせ、三千人を六組に分けて、それぞれの持ち場を固めていた。

 高い場所に櫓を上げて、その上には鉄砲の上手な兵を選抜して配置した。

 島津勢は、先端に鹿の角を付けた青竹を夫々が手に持って寄せてきた。

 やがて、先陣の大将と思われる人物が、塀から五、六間前で床几に腰を掛けて振る采配に合わせ、皆がいっせいに塀に取り付き、鹿の角を引っ掛けて倒そうとする。

 南条隊は陣中から松明を投げ出し、敵を浮かびあがらせて鉄砲を撃ちかける。

 島津勢は集中射撃の的になって次々と倒れていく。床几に腰を掛けて采配を振る武将は格好の餌食だ、たちまち狙い撃ちされて床几から転がり落ちた。次の武将が交代して采配を振る。次から次へと代わってくる。

「あれでは命を捨てにくるようなものだ。」

 上方勢には死者をかえりみず、屍をふみ進んでくる島津勢の姿は奇異としか映らない。

 

 島津勢は砦の正面左右から激しく攻め込んできた。黒田隊と因幡勢が鉄砲で迎撃して三百ほどを倒したが島津勢の迫撃は止まらない。

「なんと、ものすごい迫力だ」

 高城包囲を続けている吉川隊の春昌らは、後方の小丸川を隔て聞こえてくる斬撃に耳をそばだて、戦のなりゆきを見守っているだけである。もし、南条隊が破られると春昌らは城方と島津勢との挟み撃ちにあう。

 島津勢は数百挺の鉄砲に撃たれて累々と築く味方の屍を乗り越え、奇声に近い気合を発し、白刃をかざして突撃を繰り返す。島津軍得意の抜刀戦に南条隊の被害が続出している。

 ついに、濠を越えて侵入してきた。

 高城を包囲していた秀長の家老藤堂隆虎、小早川隆景らの軍が救援のため動きだした。

 そのため高城の攻城戦は一時中断した。

 援軍合流して数千挺の鉄砲を撃ちかけた。

 島津勢が撃ち伏せられ、身動きもできないまま死傷者を重ねていく。

 藤堂隆虎、小早川隆景隊の騎馬武者が戦闘に入った。

 島津勢の島津忠長、北郷忠虎らが、踏みとどまって戦う。

 島津勢の白兵戦は損害をかえりみない力攻めだ。聞きしにまさる猛烈さである。

 藤堂、小早川隊にも損害が続出している。

 春昌はいずれが優勢なのか判断がつかない。ただ、はらはらして見守るばかりである。

 吉川元長が援軍に加わろうとするが、総大将羽柴秀長の下知がでない。

「まだか、まだか」

 馬上の吉川元長が歯ぎしりしてくやしがっている。

「夜が明ければ敵は退くであろう、我が軍勢で敵の左右から挟撃すれば、敵に損害を与えること必定だ、ここにて一塩つければたちまち敵を潰せるものを、役にもたたない詮議ばかりして、敵に手もつけることができずに逃がすことこそ無念だ。強敵と人が恐怖する薩摩勢と一合戦して、どちらが強いか試すこともできるものを」

 馬から飛び降りた元長が地団太を踏んでドカッと座りこんだ。

 

 ついに双方ともに大きな損害をだして引いた。闘争は互角であった。しかし、島津勢にとっては大軍を擁する上方勢に対して、将兵の損耗をかえりみない力押しでは勝ち目がない。

 夜明とともに島津勢がいちどに一町ばかりサッと引いて、態勢を整えると全軍がまん丸になって退いて行く。まったく隙をみせない、いつでも反撃できる態勢だ。あまりにもみごとな退却に羽柴秀長は追撃を止めた。

 それでも、敵の退却を追撃することは戦の鉄則であることを熟知している将兵の中に、自制のきかない諸将が続出する。

 南条隊の近藤七郎兵衛が一番になって追い、傷を負って動けない敵兵の首を取った。

 このとき上方勢が討った島津勢の首は、島津歳久の子三郎兵衛忠親を始めとして五百ほどもあったが、皆が二の腕に『氏名、行年何十歳、何月何日討死』と刺青してあった。

「我らは、死人と戦っているのか」

南条隊の将兵はお互いに顔を見合わせた。

 敵勢は四、五町ばかり引いていたが、黒田の陣へ向って来る気配があったので、吉川元長は都野三左衛門に鉄砲六十挺を添えて加勢にだした。

 黒田も今日を討死の日と覚悟して待ち構えていた。

 敵は一町ばかり向いの小松山の木陰に休み、扇で仰ぎ涼をとりながら黒田の陣を窺っているようであったが、そのまま引き退いて行った。その跡には手負いの者らの始末をしてことごとくを路傍に埋めていた。あまりにも冷酷無慈悲なふるまいに上方勢は言葉を失っている。

 島津勢の強さの本質を見せつけられた思いで、諸将はそれぞれの陣を固めた。

 高城は徹底交戦を続けていたが、島津義久の説得によりまもなく開城した。

 

 この合戦の後、島津家久(四男)が当主義久の承諾のないいまま、独断で秀長に降伏した。

 上方勢の一部は佐土原、都於郡(西都市)に前進した。

 

 

 一方、秀吉本隊は秋月種実攻略に向っていた。

 馬野岳城の西南六里(二十四キロメートル)地点に岩石城がある。ここで秋月種実の侍大将熊見越中守、芥田悪六兵衛が立て籠って進撃の阻害をしようとしている。この辺りは山岳地で平地が狭く大軍を投入する戦には不利だ。さらに熊見越中守らは猛将で知られている。強襲では損害が大きくなるとみた秀吉は攻撃を避けて蒲生氏郷を備えとして残した。

 ひとり残された氏郷は無念でたまらない。家臣の吉田兵部を呼んで岩石城下に物見をだすと、人っこひとりとして見あたらない。再度、布瀬次郎右衛門、土田久助に様子を探らせると、住民は、すでに立ち退いている。秀吉に、この様子を知らせるとともに攻撃したいと申しでたが、

「岩石城は地形堅固で籠っている将も勇烈だ、そんなところに攻めかかって、もし攻め倦むようなことにでもなれば、島津をはじめ他の敵どもに機をつけることになる、そのままでいよ」

 秀吉の許可はでない。それでも氏郷の再三にわたる願いが通って、攻撃となった。

氏郷の軍勢だけでは人数が少ないので、秀吉軍本隊から丹羽秀勝を将として羽柴肥前守利長(前田利長)、脇坂中務少輔安治、石川伯耆守を加勢とし検使に谷大膳大夫、小野木縫殿助をだした。

 四月一日新暦五月八日)払暁、氏郷は、本道から進撃し、秀勝は搦手から攻め登った。その外、諸勢は大手、搦手と分かれて押し寄せた。

 秀吉も杉原山へ陣を寄せ、瓢箪の馬幟を押し立てて総軍の士気を鼓舞する。

 城中から激しく撃ってくる鉄砲をものともせず、氏郷が配下の蒲生源左衛門、寺村半左衛門、蒲生四郎兵衛、栗生美濃守、高木助六郎、神田清右衛門らと先を争い、攻め込んで郭一つを攻め取った。これを見ていた秀吉は、自分の着ていたの羽織を脱いで氏郷に与えた。

 氏郷は感泣し、これを着て大いに勇み一番になって本丸へ攻め入った。利長も手傷を負いながらも奮戦し、郎党の河原兵庫、太平左馬允、坪内次左衛門らも高名をとった。

 丹羽長秀の臣上田主水重安も、名のある武将を討ち取った。

 脇坂も一方の櫓を攻め取ったので、ついに岩石城は落城した。

 その後、秀吉軍は阿蘇大宮寺惟谷の館へ軍勢をだして降伏させた。

 秀吉は惟谷の領地二十四万石をとりあげ、三百町の御朱印をだした。

 三百町の取り米は約千二百石である。二十四万石が千二百石になったのでは馬の飼料もないと惟谷は朱印を返上した。惟谷の気持ちは納まらない。後年、佐々成政が肥後に封じられたとき、度々、反抗することになる。

 さらに、秀吉本隊は秋月種実、種長父子を降伏させた。秋月種実は居城を浅野長政、毛利吉成に明渡し、頭を剃って秀吉のもとに出頭、人質として十六歳になる息女を差し出し、金二十枚、米二千石のほか天下にかくれなき名物といわれた「楢柴」の肩衝(茶釜)を献上して許しを求めた。

 杉野、城井、安心院、筑紫、草野、宗像、原田、彦山らも続々と降参した

 四月五日、秀吉が秋月城に入った。ここで、立花統虎が秀吉に謁見した。

「父紹雲天下に心を通じ、ついに島津に降りず多勢を引き受け切腹のこと、その功、はなはだもって高し、父の討死後、敵が押し寄せて来た時には、統虎が城を守り抜き、敵を追い散らすのみならず、高鳥居城の星野兄弟を討ち取り、さらには、岩屋、宝満の二城をも奪還した。まことにもって父のために孝であり、天下に対して忠である」

 秀吉は西国一の剛将と褒め称え、太刀、馬を贈った。

 立花統虎に秋月、原田、筑紫、蒲池、麻生ら筑前の大名をつけ、浅野長政を与頭として薩摩への先手を命じた。

 秀吉軍の南下は加速している。

 四月十日(新暦五月十七日)、筑後高良山久留米市

 十六日、肥後隈本

 十八日、隈庄(城南市

 十九日、八代と進み、ここで五日間の休養をとり、

 二十四日、田の浦

 二十五日、佐敷

 二十六日、水俣

 二十七日、ついに、島津領に侵入し出水を占領した。

 五月三日(新暦六月八日)、秀吉は川内、出水の泰平寺に本陣を置いた。

 五月八日、島津の当主・義久が、川内の泰平寺に出頭し降伏した。

 秀吉が義久へ与えたのは薩摩一国だけであった。島津領であった日向国大隅国は取り上げられた。

 五月十四日、都於郡に在陣していた羽柴秀長島津家久を同道して鹿児島へ向った。

 五月十九日(新暦六月二十四日)、最後まで抵抗していた島津義弘が降伏した。島津義弘には大隅国一国が与えられた。ただし、島津義久の領土保全工作も粘り強く、五月二十五日(新暦六月三十日)になって義弘に大隅一国、二十六日には義久以下北郷時久らの所領が安堵され、義弘の子久保に日向の一部、翌年の八月四日、義弘に日向国の残りに相当する地域が許されて、これにより、元の領地を保持したことになる。

 島津家久が佐土原で急死した。島津家当主である義久の許しを得ずに降伏したため家久に毒殺されたというもっぱらの噂となった。

 

 風邪をこじらせて日向国都於郡で病臥していた吉川元長もまた六月五日に逝去した。

 享年四十歳であった。

 吉川経言が吉川本家十七代を相続し、同年九月広家と改称した。

 中国の覇者として君臨していた毛利家も秀吉に屈して後、島津征討戦では先鋒として先駆け、病弱の身を挺して出陣した吉川元春天正十四年(一五八七)十一月十五日に小倉城で没し、嫡男・元長もまた逝去した。

 元春、元長にも劣らぬ知勇を持った広家を当主として仰ぎ、隆盛にいささかの揺るぎもない吉川勢であったが、将兵みなが落胆している。春昌ら吉川勢の嘆きは大きい。

 六月七日(新暦七月十二日)、秀吉は筑前箱崎に凱旋し、ここで次のとおり九州の国分けを行った。

 小早川隆景筑前一国と筑後肥前のうち各二郡(旧領安堵)

 毛利秀包筑後の上三郡

 佐々成政―肥後一国

 黒田孝高豊前六郡

 龍造寺政家肥前四郡(旧領安堵)

 毛利勝信筑前二郡

 立花統虎―筑後の下三郡(旧領安堵)

 筑紫広門―筑後一郡

 高橋元種―日向一郡

 秋月種実―日向二郡

 九ヵ月におよぶ島津征討戦は終った。島津の無条件降伏という結果に嬉々として沸き立ってる上方勢のなかにあって、当主を二人も失った吉川隊の失望は大きく、あたかも敗戦のように打ち沈んでいた。

 

 肥後の国を拝領した佐々成政天正十五年六月下旬に熊本城へ入城した。

 成政は直ちに国中の制法等を定め、その一つとして田畑面積の書付を提出するよう、国侍(地元豪族)五十余人に申し渡した。検地を急いだのである。ところが、国侍は激怒した。島津氏は国侍の領地経営を国侍自身が行うことを認めていた。従って、領地内での田地面積、収穫量等はいちいち報告する必要がなかった。島津氏と国侍たちとの関係は一種の連合であった。秀吉は、それらを全て払拭し中央集中型に変えたのだ。国侍たちの土地は、おのれのものではなくなり、秀吉から借りたものになるという解釈をした。彼らにとっては、納得のできるものではない。しかし、大半の国侍は「仕方なし」として田畑面積の書付を提出した。

 菊池の郡主隈部但馬守入道だけが、これを拒んで、隈府城にたて籠った。八月一日(新暦九月三日)、成政は一万の軍勢でもって攻撃したものの、当城は懸崖、堅固で容易には落せない。それでも大軍を擁する佐々軍は強襲を繰り返し、徐々に圧迫していった。

 八月四日(新暦九月六日)、攻城軍が総攻撃をかけ、これに隈府城内からも内応者がでたため城中の兵らはドッと崩れた。隈部但馬守とその一族、重臣らが斬り死、あるいは自決した。

 八月六日、隈部から五里地点の山鹿城を取り囲んだ。ここには隈部但馬守の子山鹿郡主隈部式部少輔親安が籠っている。親安は但馬守の子でありながら親子の仲が悪く、佐々成政が但馬守の隈府城を包囲したとき、佐々成政に味方して、佐々軍の後方に陣を張った。ところが、但馬守の懇請を受けるうちに、親子の絆が蘇ったのであろう、親子が協力して佐々軍を挟撃する約束をした。これは、直ちに佐々成政の知ることとなり、逆に攻撃されて山鹿城に逃げ帰っていたのである。

 山鹿城には軍兵一万八千人、その外、男女合わせて三万人がいる。

 八月七日、城の大手口で鉄砲の撃ち合いがあったが大きな戦にはならなかった。

 翌八日、攻城軍は城から五町ばかり離れたところに付城二ヵ所を築いて軍兵をいれた。

 十三日早朝、円通寺口から攻め上ったが成政股肱の臣佐々右馬助、赤沢右近、高井左文ら八十余人が戦死した。

 その日夕方、さきに攻略したばかりの隈府城が数万人の一揆勢に取り巻かれた。成政に付き従っていた国侍らがこのことを聞いて逃げ帰り、残ったのは上方勢わずか三千人だけとなってしまった。

 成政は隈府城救援のため二ヵ所の付城に、それぞれ三百ばかりを籠め置き、十四日の晩になって、熊本の一里ほど郊外にあたる鳶の巣というところに陣を移した。

 翌十五日朝から、一揆の大将が陣取っている茶磨山を後方から攻め上り激戦の末、切り崩した。

 この間に、成政本隊は、敵の一角を打ち破り城内へ入った。しかし、隈府城を包囲している敵は退かない。

 数日後、寄せ手の小代下総守らが、寄せ手を裏切るむね城中へ内通してきた。成政がこれに答えて打ってでた。小代も成政に合力して戦ったので、一揆勢は逃げ去った。

 機を逃さず、成政は一揆首謀者の一人である甲斐相模守親秀を御舟城へ攻めて自害させた。

 この外、次々と一揆勢を制圧していったので国内の大半は平治した。

 ところが、山鹿城を包囲している上方勢付城の兵糧が欠乏してきた。しきりに届く救援要請に成政は、立花親成(統虎)に兵糧の搬入を依頼した。立花親成(統虎)は、ただちに三千余騎をもって進軍し、九月下旬、山鹿城から狙い撃ちする敵弾のなかを掻い潜って、二ヶ所の味方付城に兵糧を放り込みながら引いて行った。山鹿城からは、敵兵一千ばかりが出てきて引いて行く立花隊を追撃してきた。

 立花隊はただちに、全軍で反撃に移り、敵兵三百余を討ち取って蹴散らした。

 しかしながら山鹿城を包囲している上方勢付城の兵糧事情が、ますます緊迫してきた。

 太閤秀吉は、黒田孝高筑前筑後からの兵糧搬入を命じた。

 黒田孝高は近従衆のみを連れただけで、筑後小早川隆景のもとに急行した。

 両者が兵糧運送の評定を行なっているさなかの十月一日、豊前国のあちこちで一揆が蜂起した。

 馬之岳城にいた黒田長政は孝高のもとに羽書をもって注進するとともに、馬之岳城にいる手勢をもって、その夜亥の刻(十時)に進発して六里ばかり進んだところで夜が明けてきた。

 長政は近辺の国士らの人質を取りながら諸方の城を抑えていった。

 上毛郡一揆勢は、日隈、高田の両所に城を構えて立て籠った。そのあいだは、わずか五町(五百メートル強)ほどしか離れていない。 

 九月二日、黒田長政は日隈の城を落すべく、城戸口まで攻め寄せたところで城内から多勢が押し出してきた。寄せ手は一度に崩れて引いていった。

「戦いもせずに逃げるとはなにごとか」

 衣笠因幡守と長政の臣、栗山備後守、黒田三左衛門の三人が城戸脇で槍を構えて立ちはだかった。

 城戸を開けてでてきた敵も、三人の気迫に恐れをなし城内へ入って門を閉ざした。

 長政は旗本の兵一千騎を黒田三左衛門に預け置いて、自身は周辺の偵察に廻った。

 このとき、山内村、川底の城主如法寺孫四郎が二千騎を引き連れて、日隈城救援に寄せてきた。

 急を聞いて帰ってきた長政は、味方となっている国侍衆には動くことを禁じたうえで、長政の旗本勢だけで如法寺孫四郎勢に打ちかかって孫四郎を討ち取った。

 これにより日隈、高田ともに人質をだして退城していった。

 黒田長政、孝高父子は、自国の安定が先であるとして、馬之岳へ帰城し、ただちに、長岩城と雁俣岳城に籠っている一揆勢を平定した。

 ところが、豊前国の住人宇都宮中務少輔鎮房は、城井谷(きいだに)に籠って黒田に従わなかった。

 黒田長政は自らが大将となって、毛利の応援部隊を含めた三千騎で城井谷を攻めた。

 宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人宇都宮信房の子孫である。鎌倉時代から四百年ちかく豊前城井谷を本拠地としていた。城井谷は細長い谷で、その最も狭いところに一の戸、二の戸という城門を構えている。

 ニの戸を通過すると宇都宮氏の本城大平城がある。

 二つの木戸は両側から山が迫る要害で容易には陥れることができない。

 一の戸を避けて尾根越えで城井谷へ侵入しようとした黒田勢は、峻険な山中で宇都宮勢に急襲されて壊滅した。

 秀吉の命を受けた毛利輝元は直ちに吉川広家を九州へ進軍させた。

 黒田と吉川連合軍は、正面から攻撃して激戦のすえ一の戸を突破した。

 ついに城井谷へ侵入したのである。細い谷だが水田や畑が広がっている。入ってしまえばなんの変てつもない普通の風景であった。

「次は二の戸だ。」

 春昌らの前は、両側から迫る山が路を塞いでいる。

 ひょうたん型にくびれた谷の最も狭いところが二の戸である。

 谷は、さながら敵をおびき寄せる魔城の入り口のように細くなりながら奥へ奥へと延びている。その奥が宇都宮の本城大平城だ。

「行くぞ」

「われわれが来たからには、敵は、ひとたまりもない」

 吉川勢には過去に敗戦の記憶がない、向うところ敵なしである。それだけに将兵の意気は天を突くばかりだ。

 ところが、広家の下知がでない。

 黒田、吉川勢は二の戸を前にして動きを止めていた。

「宇都宮は大平城が落ちた場合に備えて背後の求菩提山に、最後の戦いを挑むための城がある。城井ノ上城(きいのこうじょう)と呼ばれているその城は、絶対に攻め落とせない城だ」

 地元の国侍らが話している。

「どういうことだ。強襲がだめなら兵糧攻めがあるではないか」

「後方の山を見ろ、英彦山求菩提山がそそりたっているではないか、あれだけの大山は地元の者でも入ることができない。それにいずれも修験の霊場で、多くの山伏らが住んでいる。やつらが宇都宮の味方であるかぎりは攻めようもないさ」

兵糧攻めにならないというのか」

「そうだ、城の前面を遮断しても、背後は、じゃじゃ漏れさ。それに、城井ノ上城と呼ばれる詰めの城は険阻な岩山に囲まれている。表門は両側から巨岩が迫る岩門であり、裏門も天然の岩穴を巧みにつかった岩門となっている。さらに裏門への道は、切り立った絶壁を削りとってつくられ、道に渡した鎖をつたって行かなければならない。あれは、人間の住む城ではないさ、鬼の城だよ」

「鬼の城か・・・それで、軍を進めないのか」

それにしても鬼の城を、一度、見たいものだ。

 だが、進軍を止めた理由は他にあった。

 和議が成立していたのだ。

 和議により宇都宮当主鎮房の娘が黒田長政に嫁ぐことになった。

 しかし、その祝賀に中津城を訪れた鎮房と娘が暗殺され、城下の合元寺に控えていた家臣らも惨殺された。豊臣秀吉の参謀といわれる黒田長政の陰謀だったのだ。

―そういうことか。

 一の戸を突破したところで進軍を止めた理由がわかった。

― それにしても、騙して皆殺しとは…

『恨みを残す』として、誰もが避けてきたやりかたである。

 ついに九州が制圧された。

 天正十七年(一五八九)閏五月、肥後国を治め切れなかった佐々成政は改易され切腹して果てた。

 

丸山城

 天文十二年(一五四三)に種子島へ上陸した鉄砲も天正のころになると、戦場での重要な兵器となっていた。

 御屋形(小笠原長旌(ながはた))の居城彌山城では、鉄砲に対する防禦に不安がでてきた。

 天正十年(一五八二)初春から天正十三年(一五八五)七月までの三年を費やして邑智郡三原村の丸山(四八〇メートル)に要害を築き、四国遠征から帰国した八月、居城を移した。丸山城である。その規模は東西二ヶ所に大門があり、掘矢倉は三重となって、高石垣の上に馬場あるいは塀、櫓を構え、要所には切通し櫓を建てた。

 中国地方無比の名城月山富田城をしのぐほどの城となった。これほどの城を三年もかからずに完成させたのは、小笠原家臣団には春昌のような城持ち武将が多く、各々が寄り集まって築城したからである。それに長年にわたって銀山を領していたころの蓄えがあった。銀を手にしていた強みであった。

 天正十三年八月丸山城入城当時、小笠原長旌の領地は、次のとおりであった。(『島根県史』)

一、三原四ヵ村(田数八十四町六反半三升 この六百六石七斗八升)

一、上下湯谷村(田数三十町八反九十歩 この取米二百八石五斗)

一、三又村(田数十八町六反三百十歩 この取米百五十一石六斗三升)

一、同 (田数四十四町九反大四升 この取米三百石四斗一升)

一、下君谷村(田数四十四町半十歩 この取米二百八十七石九斗六升)

一、下君谷分郷(田数四町六反三百三十歩 この取米二十五石三斗七升)

一、川下り村(田数五十四町三反大五升 この取米三百八十七石二斗九升)

一、川本村(五十六町三反歩 この取米三百九十九石三斗)

一、井原村(井原丹後守より入 田数、取米不明)

一、上日和村(井原丹後守より入 田数、取米不明)

一、大貫村(田数一町五反 この取米四石三斗三升)

一、谷村(田数七町四反半三十歩 この取米四十七石三斗)

一、住郷村(田数十二町一反三百五十歩 この取米六十五石九斗一升)

一、南川登(田数四十七町九反四十歩 この取米三百四十五石一斗三升)

一、北川登(五十七町六反半九升 この取米三百二十三石二斗三升)

一、下川戸村、上川戸村(永銭四十五貫文)

一、八神村、大田村(永銭三十貫文)

一、田野村、千金村(永銭七十貫文)

一、浅利村(永銭十七貫文)

一、佐野村(永銭百十五貫文)

一、長安七ヵ所(百十九貫文)

一、下都冶村(田数二十四町七反六升 この取米百十八石四斗)

一、福光之内(田数六町三反六升 この取米五十九石六斗)

同じく福光之内(田数四十二町四反少三升 この取米三百三十六石九斗)

一、井尻村(田数四町四反 この取米二十七石六斗一升)

一、福田村(田数十七反少三升 この取米七十石三斗六升)

一、横道村(田数十三町二反半三十歩 この取米九十六石四斗四升)

一、大宮村(田数百六十五町八反歩 この取米千百六石七斗)

一、租式村(田数二十五町二反大二十歩 この取米百六十五石八斗五升)

一、白圷村(田数二十三町四反少三升 この取米二百六十九石七升)

一、三楠村(田数二十三町四反少三升 この取米百七十七石四斗)

一、佐摩村(田数三十八町三反半 この取米二百五十一石八斗七升)

一、赤波村(田数七町五反大三升 この取米四十二石六斗) 

一、市ノ原市(田数三十七町六升 この取米二百五十一石五斗二升)

一、久利村(田数、取米不明)

一、松代村(田数、取米不明)

一、川合村(田数五十七町二反三百四升 この取米三百八十一石六斗三升)

一、吉永村(田数六十七町二反 この取米四百六十石八斗)

一、延里村(田数、取米不明)

一、鳥井村(田数三十七町一反歩  この取米二百二十七石四斗八升)

一、大田南村(田数百三十一町九反半五升 この取米九百五十石七斗五升)

一、出雲国(永銭五百貫文)

 総計一万七千石ほどである。

 その所領は、江川以北、川本から大田、西は江川流域一帯から大田までという広範囲なものになっていた。

 

長宗我部(ちょうそかべ)征伐 

 天正十二年(一五八四)四月、羽柴秀吉徳川家康による小牧長久手合戦のさなか、徳川家康長宗我部元親が同盟を結んだ。

 同年九月、長宗我部元親が伊予に侵入してきたため伊予の河野通直と毛利連合軍が圧迫されてきた。

 この結果、河野通直が確保するのは湯築城のみであり、実質的には元親が四国全土を平定したのである。

 

 十一月十五日(新暦十二月十六日)、羽柴秀吉織田信雄の間で和睦がなり、小牧長久手合戦が終了した。

 秀吉は小牧長久手合戦で家康に加担した紀州根来寺、太田党、雑賀党と四国元親征伐に着手した。

 

 天正十三年(一五八五)三月、根来寺を焼き払い、四月には太田党、雑賀党を滅亡させた。この紀州攻めには毛利水軍も参加したが春昌は出陣しなかった。

 

 五月初旬、吉川元春、元長父子連盟による出陣命令が小笠原長旌のもとに届いた。四国遠征である。

 四ッ地蔵城の厩で轡(くつわ)取りの弥助が軍馬の蹄(ひづめ)を削っている。馬が暴れないように一頭づつ畳一枚ほどの木枠の中に入れて片足ずつ手際よく削っていく。

「殿の馬は気が強いから蹄を削るのも大変です。これをしないで遠距離を歩けば蹄が割れて、苦しむのは己なのに」

 弥助の顔から汗が玉になって流れていた。

 隣の納屋では、女らが「キャッキャッ」と騒ぎながら藁で草鞋を作っていた。

 その後方には大小さまざまなが無造作に積み重ねられている。

 草鞋は人間だけのものではない、馬による長距離の遠征には、蹄を保護するため馬の草鞋も必要なのだ。

 家士の山下重郎左衛門が郎従を使って弓の弦を張り替え、鉄砲の玉薬を調合しやすいよう分別袋詰め作業を行なっている。

「湿気にやられないようにしろよ」

 こまかく作業の指示をだしている重郎左衛門が、ふと振り向いたところに春昌がいた。

「殿、初陣ですなー」

「なにを言うか、初陣は、とっくの昔に済んでるぞ」

「今までは、大殿と一緒でしたから、実質の初陣は大殿が出征されないこの度の戦でしょう」

「そうだ、父上は今まで幾多の戦に出られたが、その剣技に敵う者はいなかった。強かった」

「そうですなー、剣士である大殿には、対手も子供のようにあしらわれていた」

「殿も大殿の技量を受け継いでおられますから、心配はしていません。それにしても、四国とは、遠いですなー」

「そーだの」

「それにしても…・紀伊根来衆や四国の長宗我部にしても、徳川家康に加担したから秀吉に攻められることになった。家康が情ある武将なら、当然、根来衆や長宗我部を助けるはず…」

「でも、根来衆は見捨てられた。長宗我部もそうなるのでしょうか」

「いや、家康は恩義を感じていないだろう、家康は織田信雄の手伝いをしたにすぎない。秀吉と戦ったのはあくまで織田信雄だ。だから信雄が秀吉と講和してしまったとき、さっさと手を引いたのだ」

「家康は根来衆や長宗我部を助ける義理がないということですか」

「名目はそうだろうよ。実態は家康と秀吉の戦いだ」

「そうですの、家康としても、もはや秀吉に敵わない。己を犠牲にしてまで助けようとはしないでしょうの」

 

 六月十六日(新暦七月十三日)、長宗我部元親征伐のため、羽柴秀長を総大将とする大坂の軍勢三万が堺の湊から出陣し、淡路の洲本に上陸した。秀吉の甥羽柴秀次率いる近江、丹波勢三万は明石から淡路の福良に着いた。ここから両軍合わせて六万が八百艘の船で鳴門海峡を渡り、阿波の土佐泊(鳴門港)に上陸した。これに合わせて、播磨からは宇喜多秀家蜂須賀正勝黒田孝高ら二万三千人の軍勢が讃岐の屋敷(屋島)に上陸した。

 さらに、毛利輝元小早川隆景、吉川元長ら三万余を率いて伊予への侵攻を開始した。

 全軍あわせて十二万の大軍が、阿波、讃岐、伊予の三方から長宗我部元親に襲いかかったのである。

 これを迎え撃つ元親の軍勢は約四万しかいない。

 東伊予の宇摩、新居二郡の平定を担当することとなった毛利勢が、上陸地とした東伊予は金子、高尾両城を支配する金子元宅が海岸に逆茂木、乱杭を備え上陸を阻止していた。

 毛利勢は新間(新居浜)沖に軍船を碇泊させ、敵方を圧迫しながら上陸を窺っていたが、七月二日(新暦七月二十八日)と三日にかけて一気に上陸した。

 ただちに二隊に別れ、毛利隊は西進して岡崎城を攻略し、高木を通って松本に入った。

 小早川、吉川隊は海岸を東進してその日(七月二日)のうちに、黒川広隆の丸山城を潰し、磯浦の名古城、御代島を制圧したあと毛利勢と合流して金子城を二重、三重に囲んだ。

 毛利勢らは戦闘開始の法螺貝、陣太鼓を合図に鉄砲、弓矢の一斉射撃で戦端を開いた。

続いて将兵が槍や白刃をかざして突撃した。

 城将金子元春は、兄の金子元宅とともに剛将の名をとどろかしている。

 その家臣も命より義を重んじ、名を大切にする士ばかりであった。数十倍もいる寄せ手をものともせず鉄砲で反撃してくる。さらに、凄まじい闘争心をあらわに城外へでて死ぬまで戦う。

「ものすごいのー、死を覚悟した兵ほど強いものはない」

 毛利勢は敵兵の熾烈な反撃に舌をまきながらも、圧倒的多数の強みで次ぎから次ぎへと新手を繰り出し徐々に追い詰めていく。

 七月十四日(新暦八月九日)、ついに、金子元春を討ちとって落城させた。

 金子城を陥落させた毛利勢は、その勢いをもって金子元宅の高尾城に押し寄せた。

 七月十七日、早朝から両軍の凄絶な戦いが繰り返され、籠城将兵の一族郎党全員が討死した。

 金子元宅は十数名だけ残った将兵とともに、小早川勢のまっただなかに切り込んで修羅のごとく戦い、力尽きて動けなくなると自刃した。

 金子元宅の戦死により土佐方に与していた諸城は次々と毛利の軍門に下った。

 いよいよ、阿波白地城に籠る長宗我部元親との直接決戦である。毛利勢は怒涛の勢いで阿波に詰め寄った。

 一方、四国攻略軍総大将羽柴秀長と秀次勢六万は播磨から讃岐の屋敷(屋島)に渡り高松城をあっという間に潰した。

 その後、宇喜多勢二万三千と合流して阿波の木津城を攻略した。

 七月十五日(新暦八月九日)、攻略軍は三隊に別れて秀長は一宮城を、秀次隊は岩倉城、宇喜多隊は、海部城を包囲した。いずれも白地城の防禦線に構えた城である。

 秀長は本陣を辰ノ山に置き鮎喰川を挟んで一宮城攻略にかかった。一宮城には、元親の重臣谷忠澄と江村親俊が五千の兵で籠り、五万の攻城軍をはねのけていたが、水路を断たれたため降伏した。

 長宗我部元親の白地城へ東からは羽柴、宇喜多軍が吉野川を伝って迫り、西からは毛利両川軍が長宗我部方諸城を蹴散らしながら切迫している。 

 徳川家康は長宗我部を助けようとしなかった。

 八月六日、ついに谷忠澄の仲介により長宗我部元親が降伏した。

元親は伊予、讃岐、阿波の三ヵ国を没収された。そのうち、伊予(三十五万石)は、小早川隆景が拝領した。

 四国征伐のさなかの七月十一日(新暦八月六日)、羽柴秀吉が関白に就任し、さらに九月九日(新暦十月三十一日)には豊臣姓を勅許された。

 十月二日(新暦十一月二十三日)、秀吉は、島津氏の圧迫に耐えられなくなった大友宗麟の哀願を受け、島津氏に大友氏との講和を命じた。島津氏は、これを一蹴し九州制覇の北上を続けていた。

 

 

5代・福冨七右衛門尉藤原春昌

小笠原家臣団

 

 天正十二年(一五八四)春、毛利氏と羽柴秀吉の講和がなり、毛利軍諸将は鉾を収めてそれぞれの自領に帰っていった。

 秋、四ッ地蔵城にも、つかの間の平穏がもたらされていた。

 明尊から御屋形(小笠原長旌)に願い出ていた嫡男春昌への家督継承が認められた。

 春昌が福冨七右衛門尉を拝命し、仕官することとなった。

 この時期、小笠原長旌の家臣団は、次ぎのとおりだった。『大丸山伝記』

小笠原兵庫頭源長秀(長旌の弟・次男)、小笠原掃部介源元枝(長旌の弟・三男)、小笠原都冶少将源元長(元枝の長男)、小笠原駿河守源元春(元枝の次男)飯田白翁院、

寺本土佐守、坂根筑前守、平田丹後守、平田加賀守、平田若狭守、井原丹後守、井原長門守、尾崎佐渡守、尾崎但馬守、窪田但馬守、原但馬守、小田對馬守、大谷遠江守、田儀遠江守、大久保備前守、金田越前守、山縣備後守、羽隅豊後守、福原山城守、大島和泉守、吉田阿波守、横道石見守、金子修理太夫、三浦善太夫、松田主膳、丘主膳、長道外記、鳥井式部、横道帯刀、

山下彦右衛門尉、福井杢衛門尉、福冨七右衛門尉、福田亀右衛門尉、高橋籐右衛門尉、鎌倉宇右衛門尉、仲間久右衛門尉、丘田勘解由兵衛尉、波多野十郎兵衛尉、小原十郎兵衛尉、三上重兵衛尉、野田三郎兵衛尉、赤田権太左衛門尉

山田彦太郎、安邊孫次郎、井原孫三郎、坂根小三郎、立野彦三郎、山田新四郎、志谷源四郎、松本彌四郎、松島助四郎、羽根善四郎、松前源五郎、福原源五郎、有山源八郎、田原八郎、浦島九郎、田原重郎、武田十郎、塩田十五郎、高井又次郎、川上又五郎、馬場又八郎、

塩田又十郎、馬木彦七、樋口源内、尾崎源次、仲間籐次、本田兵衛、本田兵六、安田兵六、

佐々木源蔵、丘本大蔵、有馬兵蔵、今井平蔵、野瀬半蔵、福屋縫殿之介、金坂掃部之介、

山崎左京之介、原釜左京之介、熊谷木工之介、松井辧之介、丘兵部之介、渡邊能登之丞、

兼富次郎之丞、市川三郎之丞、小畑四郎之丞、青木五郎之丞、窪田市之丞、

樋口次郎丸、三宅六郎丸、和田七郎丸、三田七郎丸、平井九郎丸、金田宋彌、

 以上のとおり、小笠原家臣団の勇将は約百名であり、各々の郎党を加え、戦のときに臨時に集める足軽を加えると一千五百から二千名ほどの兵団となる。

 当時、群雄割拠する石見の豪族らも、ほぼ互角の勢力であった。

 

 

山崎屋敷 

 

 石見の国人衆すべてが毛利氏に臣下してからは石見国内での戦はなくなった。

 もはや、四ッ地蔵城も要害としての役目を終わり居館の機能しか果していない。

 しかし、小笠原軍団としての四ッ地蔵城だ、独断で取り潰すことはできない。

 明尊は四ッ地蔵城を嫡男昌康にまかせ、福光下村(しもむら)の所領に隠棲することとした。

 福光湊から福光川沿いに東へ十町(約一キロ)ほど入った地の、低い山の麓に屋敷を建てた。妙見山と呼ばれるこの山は、お椀を伏せたように南へ突きだしており、日本海から侵入する外敵の一次防禦線として構えた城(妙見山城)がある。しかしここも、閉められたままである。

 妙見山の南麓に広がる屋敷を凹字型の濠で囲み土居を築いた。(この濠は、徳川時代なってから灌漑用の溜池となる)

 福光下村のほぼ全域を領する福冨七郎左衛門にふさわしい壮大な屋敷となった。

「福光は良い、朝から晩まで日が当たる。」

 明尊が気にいっているように、南向きに建てた山崎屋敷の前を、左から右手へと太陽が通りすぎる。一日中さんさんと照りつける太陽の恵みを受けて稲穂はふくらみ旨味を増す。

 狭い谷間で日差しがあっという間に通りすぎる浅利村の稲とは各段の差がある。

 家督を昌康に譲ったあとは、この地で隠棲したいと、常々思っていた。

 下村は福光のほぼ中央を東から西に流れる福光川右岸全域にあたる。現在の市地区から森分地区、そして釜野地区にいたる広範囲であった。

 現在、森分地区と市地区の境目に日露戦争以来の戦没者を追悼する忠魂碑が建っている。この前方に広がる荒地が山崎屋敷跡である。

 現在、濠や土塁といったものは何も残っていないが、昭和四十年代はじめのころまでは、屋敷の東端に濠の一角が一畝(三十坪)ほどの畑となって残っていた。畑から見上げると石垣が二メートルほど築かれ、そのうえに土盛の屋敷跡があった。

 屋敷跡一帯の地名を土居といい、屋敷跡を山崎土手という。わずかに、残った地名が当時の隆盛を偲ばせるのみである。

 

福冨七郎左衛門(七右衛門)尉藤原明尊

元和七年(一六二二)六月二十九日(新暦八月六日)卒

戒名松翁道林居士 

 

 

 

鳥取城

 天正九年(一五八一)二月二十六日(新暦の三月三十日)、村のあちこちに咲き始めた桜が、うららかな春びよりを喜ぶように美しさを誇示している。

 この日、羽柴秀吉因幡侵入を阻止するため鳥取城督となった福光物不言城主吉川式部少輔経家は、朝枝加賀守、山縣筑後守、森脇内蔵大夫、野田左衛門尉、今田孫十郎、ら軍勢四百人とともに鳥取へ向った。

 村の中は出征する将兵や見送る村人でごったがえしている。

 歓声をあげ、兵らを激励していた村人は突然、言葉を失った。颯爽とした笑顔で馬上に跨る若殿の後ろから追従する小者が首桶を奉げ持っている。

 わずか三十五歳でありながら家督を嫡男に譲り、自分の首桶を持参しての出征である。

 村人の顔から笑顔が消え、道端に土下座して無言で見送るばかりとなった。

 

 天正九年(一五八一)三月十八日(新暦四月二十一日)、鳥取城に入城した経家は、あまりにも少ない兵糧に愕然とした。城兵千四百人余りに対して二、三ヵ月分しかない。

 吉川元春に糧米の補給を要請するとともに、海からの食糧確保のため、城と加露港との中間に丸山城を築いた。ここには、塩冶周防、佐々木三郎左衛門、奈佐日本助、山縣左京と吉川元春から派遣された堺與三右衛門らを詰めた。

 しかし、秀吉の戦法は経家のそれをを上まわるものがあった。経家は鳥取城に入城したとき戦の出発点であったが、秀吉はそれよりはるか以前から鳥取周辺の米を高値で買いあさった。さらに戦が始まると周辺の住民に危害を加え城内に追い込んだ。長期包囲戦を着々と進めていたのである。

 

 七月五日(新暦八月四日)、羽柴秀長藤堂高虎以下三万の先鋒隊が丸山東方の吹上浜へ上陸、丸山城と対峙した。

 七月十二日(新暦八月十一日)未明、羽柴秀吉鳥取東北の高山(二五二メートル・現在の太閤ヶ原)に本陣を置き、鳥取城の前面を流れ外堀の役割りをなしている袋川筋に浅野矢兵衛、中村孫平次、蜂須賀家政、小寺官兵衛らを配し、雁金山には、宮部善乗坊、垣屋駿河守らが陣を敷いた。また、海上は、荒木平太夫らが数百艘の舟で固めるという徹底した包囲網となった.

 秀吉軍は城の周囲三里四方に尺搆を結び、河岸には乱杭を打ち、逆茂木をひき、水底には縄網を張って鳴子をつけるという徹底した包囲網を敷いた。

 城外へ出そうとした伝令は、ことごとく捕まって殺された。

 兵糧補給もかなわず、城内の食糧は欠乏してきた。 

 

 鳥取城の惨状は、明尊にも密偵により刻々と知らされてくる。想像を絶する飢餓に襲われているらしい。

「城は、二重、三重に包囲され、城を取巻く敵の陣は篝火を煌煌と燃やし、まるで夜がないようでございます。その為、儂らは城に近づくことができませなんだ。包囲勢に紛れて城内を覗いますと…。食べ物もないようで、飢えから柵の近くに出た者は、包囲勢から狙い撃ちされて…・斃れた者を、他の者がむしゃぶり食うという惨状でございます」

―早く、救援隊を出さなければ…。

 明尊らに転進の命令が来ない。

―毛利さまや吉川(元春)さまは何を考えているのか。

 こうしてもたもたしている間に手遅れになってしまう。

 明尊と吉川経家とは所領が同じ福光郷にある。

 だから、人ごととは思えない。

「何をしているのだ」

 明尊には理解できない。はがゆさで奥歯がきしむ。

 だが、毛利、小早川は、東から宇喜多秀家、西から九州の大友宗麟に隙を狙われて動けない。

 鳥取城は全員が飢え死にする様相を呈しているという。

 柵近くへ出て秀吉軍に狙い撃ちされた兵を、他の兵らが群って食べている。

 ついに、吉川元春鳥取城救援に踏み切った。

 明尊ら小笠原隊も出陣である。

「秀吉五万の兵に、わずか六千で何ができるというのか」

輝元、隆景が制止した。

「剛直な性格をもつ経家は、敗け戦となれば自殺をもって責任を取るであろう、死なせてはならない」

 元春は輝元、隆景の制止を無視して出発した。

 明尊らは今まで救援に駆けつけなかった己を恥じるように道を急いだ。

 十月二十五日(新暦十一月二十一日)、伯耆因幡の国境に近い馬野山に陣を構えた。

 明日には鳥取城を囲む秀吉軍と決戦になるだろう。明尊らは、敵の十分の一しかいない軍勢で決戦を挑まなければならない。兵らは、どことなく無口である。明日の苦戦を想定してのことだろう。

―ものごとを想像によりくよくよするのはやめよ。

 明尊は兵らに言いたかったが、兵らも声に出しているわけではないと口をつぐんだ。

 

 その夜、骸骨のごとく痩せた難民が、ぞろぞろと這うように歩いてきた。

 木の枝や竹を杖に、歩くのがやっとという体である。

 よく見ると、見覚えのある顔が多い。それにしても、哀れな姿に変わり果てていた。肉は削げ落ち骨に皮が張りついているだけだ。頭髪はほとんどが抜け落ち、皮膚はかさかさに乾いて皺だけとなり、まるで老人になってしまっている。

―物不言城の衆だ。

 なんということだ、鳥取城は落城したという。

 吉川経家は人肉までも食うという目も当てられぬ城内の惨状に、自分の命を犠牲にして兵を助ける決意をした。

 十月二十五日(新暦十一月二十一日)寅刻(午前四時)、経家は静間源兵衛の介錯により自刃した。

 

 籠城の兵らは、経家の仁愛に泣き、

「申し訳ありません、申し訳ありません」

 呪文のように繰り返している。

 明尊は経家が物不言城を出陣したとき、追従する兵に持たせていた首桶を思い出していた。そのとき経家の覚悟のほどを知らされた明尊であったが…・・

「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」

 御大将の冥福を祈る唱和が周辺に広がって行く。

 明尊も脳裏に去来する経家の勇姿に頭を垂れ、粛然と合掌した。

 経家は、ほとんど戦らしい戦をせずに破れた。しかし、経家の、あまりにも武士らし  、いさぎよい最後に、敵味方一同が感泣した。

 

 二十七日(新暦七月二十三日)、吉川元春が陣を敷いている馬野山の、すぐ目前にある御冠山から羽衣石山城にかけて秀吉軍三万が進出してきた。

「速い」

 ぞくぞくと集結している秀吉軍の動きは素早く、統一がとれている。たちまち攻撃態勢に入った。最前線に展開する鉄砲隊だけでも三百人はいる。

 秀吉軍からみれば、六千の吉川勢なんて、たちまち潰せると思っているだろう。

馬野山は低く、山というより丘である。北には日本海が迫り、南は東郷池、背には橋津川が流れている。

「こんな所で、三万対六千の軍勢では勝負にならん、たちまち吉川勢が壊走してしまう」

 吉川勢に動揺が、いる。

「橋板を外せ、橋板を外せ」

 吉川元春の伝令が走ってきた。

「なんだと、橋板を外せだと」

「逃げ場が無くなるではないか」

 三万の敵が一気に攻めて来たなら、川に追い落とされてしまう。古今来の兵法では最も危険とされている。

東郷池の舟もことごとく放り離したらしい」

日本海の橋津に停泊している舟も陸に上げたぞ」

「なに、われわれの警護のため来た舟をか」

「そればかりではない、それらの舟の櫓や櫂をことごとく壊したらしい」

 吉川勢がざわめいている。

 背水の陣を敷いたのだ。

 秀吉軍が動き出した。

吉川勢めがけて進んでくる。

「急げ!橋板を外せ」

「前面に立てて、玉避(よ)けとせよ」

 伝令が走る

 吉川隊将兵に動揺が奔っている。

 後退する道も無く左右逃れる方法も無い。そのうえ、海上に出る術も絶たれている。

―もはや、命を限りに戦うしかない。

 退路を断った吉川勢が、まなじりを決して迎撃態勢を組む。

「式部少輔経家さまの弔い合戦ぞ」

 逃げられないのがわかると、ふしぎと気が落ち着いてきた。六千の兵が一丸となって秀吉軍と戦うしか活路はない。

 吉川勢に気迫が満ちてくる。

 秀吉軍の動きが止まった。 

「さあ来るぞ」

 明尊らは白刃をかざして待ち構えた。

 ところが、対峙したまま止まっていた秀吉軍が引き上げていった。

 経家の弔い合戦に命を賭けている吉川勢と戦っては、味方の被害も大きくなる。

 すでに鳥取城を手に入れている秀吉は、これ以上の戦いをする必要もなかったのだ。

 元春が執った背水の陣は、元春の武名とともにとどろきわたった。

 京、大坂では、囲碁や将棋で、思い切った覚悟をすることを「吉川、橋を引きたる所業をなせり」と言う流行語となった。

 吉川経家の最後については、経家が残した五通の遺書及び経家の小姓として籠城した山縣源右衛門尉長茂の手紙によって明らかにされている。(石見吉川家文書)

 

 織田信長の毛利領侵食に容赦はない。

 

 天正十年(一五八二)三月、甲斐国では、織田軍の滝川一益に包囲された武田勝頼が甲斐天目山のふもと田野において自殺した。鎌倉以来の名門武田氏も滅亡した。

 

 五月七日(新暦五月二十八日)、備中高松城が秀吉に包囲された。

 高松城は岡山平野の真中に位置する平城である。足守川と沼沢池に囲まれ、いざというときには城に通じる橋を落とせば、城は浮島となって攻めることができない堅城である。

 高松城を守る清水宗冶も吉川経家に劣らぬ猛将である。

 死守する覚悟で籠城に入った。

 石見、出雲の兵からなる吉川軍一万二千も、ただちに高松城救援に向った。

 五月二十五日(新暦六月十五日)、織田軍先鋒・宇喜多勢二万により攻撃を開始したが、数百の犠牲を払って後退した。

 高松城を攻めあぐねた秀吉は水攻めに切り替えた。

 五月八日から足守川の堰止め工事を開始し、わずか十九日間で幅十間、高さ四間、長さ二十六町(約二・八キロメートル)におよぶ大堤防を完成させた。

 梅雨の時期とあいまって、堰止められた水はたちまち高松城を孤立させた。

「なんと、沼のなかに水浸しの城がある。」

 応援に駆けつけてきた毛利軍は愕然とした。

 水びたしの城ではどうすることもできない。

 吉川元春は寺山に、小早川隆景は日差山に陣を敷いて秀吉軍と対峙したものの、無策な日ばかりが過ぎていった。

 そんなさなかの六月二日(新暦六月二十一日)、京都の本能寺で織田信長明智光秀に攻められて自刃した。ところが、毛利軍は、これを知らぬまま秀吉との講和交渉を続けていた。

 六月四日、羽柴秀吉毛利輝元との講和により清水宗治は自刃し、高松城が開城した。

 六月六日、秀吉は毛利軍の陣払いを待って、畿内への引きあげを開始した。

 まさにそのとき、毛利軍も織田信長が死んだという情報をつかんだ。

「だまされた。ただちに追撃して秀吉を討て」

 毛利軍がいろめきたった。

「待て、追撃はならん、武士が誓いを破ってなんとする。だまされたとあっても、誓いは守らねばならない」

 小早川隆景が追撃を止めた。

「ものすごい速度で、走っています。あれでは、まさしく敗走です」

「敗走…・」

 三万の秀吉軍が全速で走り去った。

「あれだけ素早く逃げ去っては、たとえ、追撃していても追いつけなかったでしょう」

「小早川さまの判断が正しかったということか」

「それにしても、秀吉のやることは凄い」

 毛利軍は、ただ舌をまくばかりである。

 

 天正十年(一五八二)六月十三日(新暦七月二日)、山崎合戦により羽柴秀吉明智光秀を破った。

さらに、翌年四月には賤ヶ岳で柴田勝家を破った。勝家は北庄で自殺した。

 七月、羽柴、毛利間の講和交渉が持たれた。

 十一月、小早川元総(秀包)と吉川経言の二人が、人質として羽柴秀吉のもとへ行くこととなった。

「これでは、敗北だ」

「秀吉との講和交渉にあたった安国寺恵瓊は、毛利元就さまに潰された安芸武田の子孫ではないか、毛利に恨みを持っているから、人質を出さなければならないようなことをしたのだ」

 明尊らは、切歯扼腕したが、如何ともしがたい。

 この悲憤は、経言自身も胸の内に秘めていることであった。二人は、秀吉から優遇され、元総は、秀吉から一字を与えられて秀包と改め、経言は、蔵人に任じられた。十一月、秀包を大坂に留め、経言の帰国を許したが、恵瓊に対する遺恨は消えることなく、やがて慶長の役関ヶ原の戦いへと尾を引くことになるのである。

 吉川経言の配下となって数々の戦場を走りまわった明尊らは、己の大将をとられる慙愧に苛まれている。

 平然とした態度で旅立つ経言を、明尊らは土下座号泣して見送った。

 経言には、小坂春信、二宮俊実が、元総には、桂広繋と浦兵部丞が随行して、案内の恵瓊とともに出立したのであった。

 

 そして、翌年(天正十二年)春、羽柴氏と毛利氏の講和が整った。

 

 天正十二年七月(一五八四) 主君小笠原長旌から嫡男昌康との面談が通知されてきた。

 かねてから小笠原長旌に申し出ていた昌康への家督相続願いの件である。

 昌康にとっては、初めての「お目見え」である。

「七右衛門の嫡男か、何歳になるか」

「二十七歳になりましてございます」

 昌康は、緊張で顔がやや青くなっているが慄然と答えた。

「七右衛門よ、槍の伝授は順調か。」

 小笠原長旌の質問に、

「それがしが、相手しましょう」

 応じたのは小笠原軍団戦(いくさ)奉行の大島和泉守である。彼もまた、『槍を持つと敵なし』といわれるほどの剛勇者である。

「ありがたきお心づかい」 

 明尊が礼を言ったので、昌康は父に合わせて平伏した。

 庭に下りると、和泉守は、

「よい」

 と言って、若者が用意した木槍を取らずに真剣を手にした。

 昌康も真剣を持って一礼すると槍を正眼に構えた。和泉守は、ゆったりと槍を構えているがその矛先は昌康の目を据射えている。

 静かに構えている槍の穂先に『大島さまの身体が隠れていく。』と、昌康は思った。それは、剣士重兵衛と毎朝行っている訓練のときにいつも経験していることである。同時に硬くなった心身から柔らかさが蘇ってきた。それを待っていたかのように和泉守の穂先が昌康の穂先を軽く二・三度突いた。

「さすが七右衛門殿、よくもここまで伝えられた」

 昌康から目を離さない姿勢のまま、和泉守が槍を収めた。昌康も正眼のまま数歩引き下がって丁寧に礼をした。

 明尊が笑みを浮かべて和泉守に目礼をしている。

「七右衛門よ、昌康への相続を許すぞ」

「ありがたきお心づかい」

「昌康、今日の対戦は、どう思うか」

弥山城からの帰途、明尊が言った。

「大島さまの姿が、師重兵衛どのと代わりましてございます。すると、気も落ち着いてきました」

「鍛錬の成果が出たということよ」

 明尊は、さりげなく言ったが、

―槍の穂先を数度合わせたのみで敵の技量が判るようになるには、幾度も戦場を経験せねばならない。

「大島さまともなれば、穂先を合わせただけで敵の技量は判るものよ。だがの、それも敵に殺意がある場合のことよ」

 敵に殺意がなければ技量なんて判るものではないが、大島さまは、それを承知のうえで、昌康を御屋形に推挙してくれたのだと、明尊は気づいていた。

「昌康、今後、真剣で立ち会ったら、対手か、己かいづれかが倒れるまで闘わなければならないということを肝に命じておけ。武士というものは滅多なことで他人に真剣を向けてはならないが、一度刀を抜いたら対手か己か、いずれかが死ぬまで闘わなければならぬぞ」

 いつになく厳しく言った。

 

 翌日、明尊は山田重兵衛に言ったものである。

「昌康を頼むぞ、こいつはものごとに熱中すると見境がなくなるからの、しっかりと駆け引きを教えてくれよ」

「それは、無理というものでござりましょう、殿のお子ですから」

「血は争えぬということか」

 重兵衛は口をとじたまま愛想をくずした。

 重兵衛の歯は、すでに抜け落ち、口元が大きく窪んでいた。