福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

三代・福冨七左衛門尉藤原相安

 

 永正十三年(一五一六)、足利義稙を奉じて京都の守備に任じていた尼子経久は、大内義興の専横を怒り出雲へ帰った。

 月山富田城に帰った経久は、つぎつぎと周辺の国人衆を制覇し、大内氏の領土を脅かしてきた。

 永正十五年(一五一八)、ついに義興も山口へ帰った。

 いよいよ大内氏と尼子氏による石見争奪戦の幕開けである。

 

 この時期の石見国は鹿足郡の三本松城に吉見頼興、益田の七尾城には益田宗兼がおり、那賀郡の三隅高城に三隅興信、周布(すふ)に周布興兼、有福の乙明城(おとあけじょう)に福屋正兼がいた。

邑智郡では川本の温湯城(ぬくゆじょう)に小笠原長隆、吾郷泉山城に佐波(さわ)誠連、出羽に出羽孫次郎、阿須那に高橋清光ら大小の国人が割拠していた。

 

 永正十六年(一五一九)九月四日(新暦九月二十七日)、小笠原氏と佐波氏が君谷およびその周辺で戦った。何度も繰り返されてきた戦いであるが、小笠原隊井原秀信は君谷松尾口において首一つを討ち取り豊前守に任ぜられた。

 

 大永元年(一五二一)三月、四ッ地蔵城へ温湯城から緊急の書状が届いた。

出羽城の高橋大九郎久光が討死したというものだった。

「大九郎どのは、三千余人を率いて加井妻城三吉(みよし)隆亮(たかすけ)の家臣が籠る青屋城を攻撃中に討死したという」

 衝撃による動揺を抑えきれない声で、福冨相安が書状を読んでいった。

「なんと、どう申し上げていいのか…・あれほどの剛勇で名高いお方が…・あっけないものですな」

 郎従の山下理右衛門と佐々木膳兵衛の口から低いうなり声が洩れている。

「大九郎さまの奥方さまは小笠原家の姫君ですから、応援にいかねばならないでしょうな。」

「直ちにいかねばならない、備後国三吉隆亮が五千余騎で出羽城を囲んでいる。主を亡くした出羽城は家臣の佐々部、岡、湯谷らが持ち堪えているらしいが…主の無い城を守るべきか否かと動揺もでているらしい早急に行くべきだ。小笠原隊には温湯城に集合がかかっている、出陣の合図をせよ。」

「承知」

 理右衛門と膳兵衛が勢いよく立ち上がった。

「佐々部どのか」

 相安の父忠智がなつかしそうに呟いた。

「父上、ご存じですか」

「よく知っている。・・・あれは儂の父上が亡くなって間もないときだった。御屋形さまの命令で阿波国まで鶴姫さまを迎えに行っての帰りだった。なにしろ、鶴姫さまのご両親の城が落城してしまったときに、脱出しての旅路だったので、姫の行列を調えることができなかった。それを、出羽本城の大九郎さまが調えてくださった。そのとき、行列を先導したのが儂と佐々部どのだ。おかげで堂々と鶴姫さまを御屋形さまに、お渡しすることができた。佐々部どのは気配りのよくつく、いい男だった。・・・だが、大九郎さま、佐々部にしても気の毒なことになったものだ。武家の宿命とはいえ寂しいの」

 

 翌日、温湯城で軍勢を編成した小笠原隊は、明日早朝に出羽城へ向けて出発することとした。出羽へは一日もあれば到着する。

 その夕方、毛利の使者として宍戸家の家臣が御屋形のもとを訪れた。

 急遽救援にかけつけた安芸の毛利軍が三吉の兵を撃破し、さらに毛利、高橋連合軍が加井妻城を攻めて三吉隆亮を討ち取った。というものだった。

さらに、使者の口から「城を攻略したが久光さまは斬られた」という驚愕すべきことが分かった。使者は次のように説明した。

「三月二十四日、高橋久光さまは三千余騎にて青屋の城を攻囲のうえ、城の一方をわざと開けおいて、三方から攻めかかったのでございます。高橋勢の猛攻に敵はたちまち戦意を失い、逃げだしたので、高橋勢は逃げる敵に急迫しながらつぎつぎと討ち取っていったのです。だが、久光さまの旗本衆までもが高名に気を取られて城内へ乗り入ってしまったということです。そのため、本陣には久光さまの周りに、わずか十騎ばかりしかいなかったのでございます。久光さまは床几に腰掛けて首実験をしておられたところに、逃げ去った敵が数百人引き返して久光さまの首を掻き斬って、切っ先に貫き、『高橋久光を、青屋入道の手に討ち取ったり』と名乗りを挙げたのでございます。この声に驚いた久光さまの旗本衆があわてて本陣に帰ってみたら敵はすでに逃げ去り、『城は、御所望であれば進呈申し上げよう、高橋どのの首は三吉の土産としていただいた。城と首は替え得にございますか、替え損にございますか』と大声でからかいながら消えて行ったということです。出羽城では、久光さまが討たれたと聞いて、どうしたものかと泣き悲しんでいるところに三吉勢五千余騎が近日中に押し寄せて来るとの報が入ったのでございます。佐々部、岡、湯谷ら久光さまの臣は、『大将も無いのにこの城に籠っていてはしまいには敵の捕虜となってしまう、まず、北の方さまと姫君を吉田へ移っていただいたのち、最後の戦をしようと詮議しているところに、元就さまが五百余騎を率いて駆けつけたのでございます。元就さまは、『三吉勢が押し寄せて来るといっても、儂が到着したからには何の怖れがあろう、久光さまの弔い合戦をしてから後、姫君に誰か適任の者を選んで婚姻の儀を調えて当家を相続させるべきでしょう。万事において心易く思ってくだされ』と力強くおっしゃったのでございます。佐々部ら久光さまの臣も、『よろしくお願い申し上げます』と自ら家人のようになったのでございます。高橋さまの所領一万六千貫は元就さまの成敗に帰してございます。

 三吉隆亮は高橋の家城を攻め取るべしと、五千騎を引率して城を出立したが、多治比の元就さまが出羽城に到着しており、弔い合戦を行うとして三吉軍を待ちうけているということが隆亮の耳にとどいたらしく、青屋で陣を張って、こちらの様子を窺っているようでございました。このことを聞いた元就さまは多治比と吉田の兵に高橋の兵を相添えて三千五百騎が四月十五日に、青屋の城へ発向されました。これを聞いた三吉勢は陣を払って、皆が自分の城に引き籠ったのでございます。青屋の城には三吉、久代、高野山から選抜した兵八百余騎を入れたので、青屋の手勢と合わせて一千余騎ほどにもなっていたようです。元就さまは、この城に昼夜の別なく攻撃を仕掛けられたが、敵は少しもひるまず防戦しておりました。されども、元就さまは、この城は水が乏しいということを聞かれまして、力攻めを止めて陣を固め、後詰の用心を手堅くして、数日を経たのでございます。城内では、水で馬の頭を冷やしてやったり、湯洗いしているように見えましたので、『城内には思いのほかに水がたくさんあるぞ』と沙汰しておりました。実は、これは籠城中の青屋入道の謀りごとでして雪のごとく白い米を水桶にいれて水のように見せかけていたのでございます。

 ですが、元就さまは『この城に水が乏しいことは元来、人の知るところだ』と一笑に付して、後三十日も攻めればたちどころに飢渇に及ぶと申されましたが、こんな城を潰すのに、そこまで待つことはないと、城楼を組み上げて、出丸の一つを攻め破ったのでございます」

 

 一ヵ月後、温湯城大広間で定例会議が行われていた。

ここでも、宍戸家家臣の話は大きな衝撃を残していた。

「すばやい、これが元就どのの戦法か」

「元就どのは二十歳をすぎたばかりの初陣で安芸佐東郡銀山城主の武田元繁を討ち取ったほどの戦巧者だ」

「その戦は七年前になるの、そのときの戦を知るものはいないのか」

 重役のひとりが聞いた。

「それならば、高橋大久郎どのの御葬儀のときに吉川国径どのと嫡男の元経どのから聞いている。」

 小笠原一門衆のなかから発言がでた。御屋形(小笠原長隆)だった。座敷に座している一同が注視した。

「これは、御屋形さま、御無礼を申しあげました」

「いや、良い、儂が話そう」

「御屋形さまにお話いただけるとは、恐縮にございます」

 一同が平伏するなか御屋形が話はじめた。

「安芸佐東郡の銀山城主武田家は安芸国の守護であったが、元繁のときは長門国守護大内氏支配下に置かれていた。大内氏足利義稙将軍を擁立しているのに対して、尼子経久は義稙と対立する足利義晴の麾下となって大内氏を圧迫しはじめた。義稙将軍はこれを阻止すべく元繁に帰国を命じられたのだが、元繁は尼子経久に呼応して安芸領内から大内氏の勢力を駆逐しようとしたことから戦がはじまったのだ」

 御屋形の話は滔々と進んだ。

 元繁は永正十三年八月に毛利家当主興元が二十四歳で病死し、後嗣幸松丸君がわずか二歳で郡山城主となると、毛利領および吉川領の切り取りを企てた。

元繁は毛利領と境を接する吉川領に侵入し、その武将小田信忠の拠る有田城を攻めた。このとき永正十四年(一五一七)には、吉川家当主国経(安芸山県郡新荘小倉山城主)は高橋大久郎久光(石見邑智郡上出羽城主)とともに大内義興に従って京都に滞在中であったため国許は留守となっていた。元繁はその虚を衝いたのだ。武田勢は途中から諸将が手勢を率いて加わっていたので五千騎にふくれ上がっていた。

武田勢は十月三日から有田城を遮二無二攻め立てた。そればかりか、毛利元就の猿掛城がある多治比村へも侵入して在家へ放火してきた。これに敢然と立ち向かったのが元就だった。武田勢六百余騎に対して元就の軍勢は猿掛城兵だけの百五十騎ほどしかいなかった。元就は手勢を百騎と五十騎に分けて、自らは百騎を率いて敵勢を田んぼの縄手の中に誘い込んだ。そして敵が湿地に足をとられ難渋しているところを、後陣の五十騎に襲撃させて追い払った。

元就は直ちに本家である郡山城の兵と合わせて七百余騎で有田城の救援にでた。有田城は吉川氏の持城であるから、上京中の国経に代わって小倉山城を護っていた嫡男元経が留守居の城兵三百余を率いて救援にきていた。ここにいたって、元就と吉川元経が力を合わせて武田勢と決戦することとなった。

 十月二日早朝、元就は武田陣には目もくれず、熊谷元直陣屋を襲撃した。元直は中井手という所に柵の木を結び渡し、芝土手を築いて城のごとく構えていた。これは、元就が武田陣へ押し寄せたときに、その背後から衝いて挟み撃ちにするためであることを、元就が敵陣へ潜り込ませていた忍の者が知らせてきた。

「それなら、まず、中井手の陣を切り崩し、その後、武田の陣を襲う」

 と、元就は一千五百騎を二隊に分け、一手五百騎を武田勢に備えて残し、残りの一千騎を一手にして熊谷陣へ撃ちかかったのである。だが、両軍は矢を射るだけでなかなか勝敗が見えない。

「このまま、矢戦ばかりやっていたのでは埒があかん、そのうち武田勢がでてきたなら由々しきことになる。早く突入して敵陣を破れないか」

 元就が郡山城重臣の志道広良に言った。

このとき、毛利家の当主は郡山城の幸松丸君であり、元就は毛利家の家臣の列に置かれ、その行動は執権志道広良の制約下に置かれていたから、元就が独断で動くことは許されなかったのだ。とはいえ、広良にとっては主家筋の元就である。

「仰せのとおりにございます。元就さまは、しばしここに留まっていてくだされ、それがしが敵陣へ突っ込んで柵を押し破ります。そのとき御旗本をもって熊谷の陣を強襲してくだされ。くれぐれも、御旗本の備えを乱されぬよう心がけくだされ」

志道広良は元就に付いている二人の轡取りに「もし、元就さまが突撃しようとしても馬の口は放さず押し止めよ」と言いおいて鬨を挙げて突撃に移った。

 志道広良が敵陣へ突入したのを見た元就は、広良が命を捨てる覚悟をしていることに気づいた。「志道だけを死なせることはできない。馬の口を離せ」と言ったが、広良から厳命を受けている轡取りは放さない。「放せというのが分からんか」元就が太刀に手をかけて轡取りの手を離し、まっしぐらに駆け出した。元就は敵陣の柵まで乗り寄せて「ここを打ち破れ」と下知したので味方の兵は「えいやえいや」と声をあげて攻め戦った。

 これを見た広良は井上河内守と渡辺次郎左衛門の二人に、

「元就さまの馬の口を押さえよ。あまりに勇み出ては敵の矢が当たる」

と命じた。両人は急いで馬から飛び下りて元就の馬の口を取って留めた。なおも戦う広良の甲冑に敵の放つ矢が三本も突き刺さっている。広良はこれをものともせずになおも向かっている。元就の鎧にも矢が二本突き刺さった。このままでは柵は破れないと判断した広良は二、三百人の兵を柵に集中させて一気に破ろうとした。敵の防戦はますます激しくなる。これを見ていた元就は井上、渡辺に向かって叫んだ。

「今、武田勢が敵の救援に駆けつけてしまえば、われらはまちがいなく敗北してしまう。元繁はこのような策を知らぬほど愚将ではない。すぐにも駆けつけて来るぞ。敵の援軍が到着するまでに柵を打ち破らねばならない。馬の綱を放せ」

「最ものことにございます」

 両人が馬の口を放して戦闘に加わった。元就が柵を打ち破ろうと先頭に立って手をかけた。

これを見た毛利勢が「元就さまを死なすな」と、敵の撃つ矢、突き出す刃をものともせず一気に柵を引き破って、どっと敵陣へ押し入った。

 毛利勢の高名争いが熾烈となった。同士討ちもしかねない様相になっている。

「わが目前だ。皆の働きはすべて見ている。敵の首を取る必要なし。討ち捨てにせよ。敵の加勢が来るまでに一刻も早く切り崩してしまえ」

 元就の下知が飛んだ。

 毛利勢三百余騎が熊谷の本陣へまっしぐらに突きかかった。

 熊谷勢がどっと崩れた。

 これを見た熊谷元直は「敵に後ろは見せぬものぞ」とばかりに槍をもって大立ち回り、たちまち毛利勢数人を突き倒した。

必死で引き止める家臣を無視して、さらに数人の毛利勢を倒した。元直は源平合戦の剛勇、熊谷次郎直実の子孫である。「次郎直実このかた敵に後ろを見せたためしなし、われ、後詰めのために一陣を固めながら、いとも容易く切り崩され、多くの郎党を討たれた。なんの面目あって元繁に顔向けできようか。幸いに元就が近くにいる。直に勝負を決してみせる」と、鑓を振り回し先頭に立って向かってきた。

「元直を討て、矢を集中して元直一人を射よ」

 戦況を冷静に見ていた元就の下知に数百の矢が元直に的中した。

 馬上から真っ逆さまに落ちた元直に、吉川隊の侍大将宮庄下野守が駆け寄って首を取った。

「当陣の大将、熊谷次郎三郎元直を、宮庄下野守経友が討ち取ったり」

 経友の名乗りに、元直の家臣は、「もはやこれまで」と、力の限り戦って死んでいった。

 ついに、毛利、吉川連合軍は中井手の陣を破った。

 

 熊谷元直の戦死を聞いた武田元繁がいきり立ち、われを忘れて力攻めに移ろうとしているのが元就にもわかった。

 元繁は伴繁清と品川信定ら七百騎を城の押さえとして残しただけで、全軍を毛利軍への突撃に向けた。四千五百騎を五隊に分け、粟屋繁宗ら七百余騎を一手として左の山に陣をとった。これは、戦がはじまってから横槍をいれるためである。先鋒として毛木隊一千騎、二陣は一条繁高ら七百騎、三番に本陣を置き元繁ら千五百騎、後陣には香川景之ら三百騎を配置した。その他にも足軽三百ばかりを一手三十人から五十人に分けて弓矢を持たせて田や畑の畦に潜ませた。

これに対する毛利方は相合四郎元綱を大将として桂元澄ら三百騎で武田勢の左軍を押さえ、福原広俊井上元兼ら四百騎が先陣となった。二陣は元就と旗本衆七百騎、井上資忠ら百騎は後陣に置いて敵味方とも戦に疲れたとき、新手を入れ替えて元繁の本陣を突く手立てとした。

さらに志道広良の二百騎は旗を巻いて右の山陰を秘かに廻り、城の尾首を強襲して敵の伴、品川らを切り崩したあと、城中の兵と一つになって元繁の背後を衝くこととした。

静かに太鼓を打って毛利軍が進撃を開始した。武田勢先陣もひしひしと迫ってきた。

両軍の矢戦が始まった。時を移さず毛利勢が槍長刀の切っ先をそろえて突きかかる。

武田勢の先陣が応戦した。

一進一退の激戦を展開していたが、毛利勢の気迫に押された武田勢先陣がさっと退いた。一陣を敗れば残りも退いていくだろうと思っていたが二陣は少しも騒がず、後ろには元繁の旗本衆が備えを万全にして悠然と構えている。毛利勢からは容易に近づけそうに見えない。それでも、まっしぐらに掛かっていく毛利勢。敵味方入り乱れての混戦が続く。

毛利勢は今朝寅の刻(午前四時)から交代する兵もなく戦っているので、喉は渇き、腕はなまっている。そこへ敵は新手を投入して襲ってきたので、ついに毛利軍が山下へ退いた。

「きたなくも、敵に背を向けて逃げるのか。元就ここにあり、返せ、返せ」

 元就は槍を振り回し、逃げる者の眉間、冑を叩いて叱咤しながら七百騎を前後に進撃した。

 これにはたまらず武田勢の二陣一条の兵が突きたてられて元繁の本陣へ逃げた。

「逃げる敵兵は追うな、武田の本陣へかかれ」

 元就の下知に毛利勢は一千余騎が一丸となって元繁へ迫っていく。

 迫り来る元就を見て、元繁は「初陣の元就にしては抜群の振る舞い、行く末はいかなる名将になるものを、あたら若者をわが穂先にかけることは不憫だが」と、真っ先に先頭に立って戦闘に入った。武田勢三千騎が一手となってかかってきた。

両軍の大将旗が三度激突し、三度分かれた。

「井上の者ども、いつもの豪語とは違うぞ。なんのために弦を弓に張っているのか。弦を切って杖にでもせよ」

 真っ赤に充血した双眼を突き出して元就が怒った。

「まことに、年をとった者の悲しさは、はやく戦い疲れてしまうもの、しばらく息を継いでいるのでございます。なんのため命を惜しんで退くものですか。われら身命を投げ打って敵陣を切り破ってごらんにいれましょう」

 井上一族が一所に集まって「打死にせよ」と呼び合い、真っ先に戦った。そして、井上元光が敵将山形備中守を討ち取った。

 後陣として控えていた武田勢の香川隊と毛利勢左軍の相合、桂隊が激突した。相合、桂隊が少数なのを見て一気に揉み破ってしまえと、香川らが向かってきたのだ。両軍は一度、二度と渡り合ったが、ついに相合、桂隊が後退した。毛利勢右軍の志道広良隊は、山陰を廻り、岩の狭間を伝って城の尾首に陣取っている伴、品川隊に切り掛かった。籠城していた小田信忠も城門を開いて三百騎ほどが撃ち出て伴、品川隊を挟み撃ちにした。形勢が悪くなった伴、品川隊には香川隊が応援に加わった。

 尾首での激闘を見た元繁は、伴、品川らが負ければ、毛利勢に背後を衝かれる。早く、元就の旗本を切り崩せ。と兵鼓を打って前進してくる。

「見よ、志道も敵陣への攻撃をかけたぞ。われらも挟み撃ちにせよ」

 元就は井上党を先に立てて武田の本陣に迫った。毛利勢の児玉、赤川、渡辺らも負けるものかと切り掛かった。だが、武田も猛勢だ。しかも、山上からの逆落としで攻撃してくる。

 毛利勢の後陣に控えていた井上資忠ら百騎が元就の周りに集まった。渾身の気力をふりしぼって元就の前後を固めているが、味方は次ぎ次ぎと討ち取られていく。

 元就も死を覚悟した。

 人数で劣勢の毛利勢が、またも撃ち負けて三町ばかり退き下がった。敵は勝ちに乗じて追撃してくる。

 毛利勢は又内川を前にして態勢を整えようとしていた。

元就めがけて武田勢が突っ込んでくる。

 浮き足立った毛利勢を制止しながら敵勢を見ると、元繁が味方の兵を後方に離して進んでいる。

「射よ。先頭に立つ元繁を射落とせ」

 元就の命じた一斉射撃により、矢が元繁に集中した。数本の矢が突き刺さっている。

 ついに、元繁が又内川の水際に、真っ逆さまに落馬した。すかさず元就の側に控えていた井上光政が飛びつき、首を掻き切って切っ先に貫いた。

「日頃、鬼神のように恐れし武田殿を、井上左衛門尉が討ち取ったり」

 声高々と名乗りをあげた。

「ウオー」

 毛利、吉川連合軍の歓声があがり、方々に四散していた兵が元就の周辺に集まってきた。

 

 側近の士が差し出した冷水で御屋形が喉を潤した。

 あちらこちらから咳がもれ、粛としていた座敷にざわめきが戻った。

「このとき元就どのは二十一歳で初陣であったという。あの強さは元就どのの力であろうか」

「毛利家臣団の強さもさることながら、元就どのの采配が際立っていたということかの」

「ところで、吉川国経どのは京に行っていて留守中のことであったが、元就どのと吉川の嫡男元経どのが力を合わせて武田を打ち破ったということ。さらに、元就どのは奪った武田の所領の一部を元経どのに譲ったのだ。国経どのは大層喜ばれての、いっぺんに元就どのにべた惚れよ」

 御屋形の声に、座敷に静寂が戻った。

「国経どのは、早速にも元就どのをわが城まで招待したそうだ」

「元就どのは、まねきに応じたのでございますか」

 軽率だと言わんばかりに重役の一人が口をはさんだ。

「それがの、元就どのは大変な収穫をしおった」

 御屋形がさもゆかいそうにひとしきり哄笑した。

「なんでございますか」

「娘をみやげに持って帰ったそうだ」

 御屋形の笑いはとまらない。

「国経どのに『お玖』という娘御がおっての、これが聡明で絶世の美女なのだ。お互いに一目惚れしおっての、嫁にもらったということだ」

「元就どのは、毛利家でも脇柱でございますな」

「そうだ、毛利本家の郡山城ではなく、分家の猿掛城へ嫁がきたことになる。そのうえ、元就どのの妹を元経どのに嫁した」

「本家をさしおいて、国経どのも、思い切ったことをなされますな」

「それだけ、国経どのが元就どのに惚れたということだ」

「鬼吉川を味方につけて元就どのも強くなりますな」

「毛利家の祖は学問の家柄で、源氏の頭領源義家に大江流兵法を伝授した大江匡房(まさふさ)がおり、南北朝期の楠木正成に大江流の軍学を伝授したのが大江時親、後の毛利時親だと言われている。元就どのも二十一歳の若将でありながら、すでに大江流軍学を会得していたので、初陣であった有田合戦では、わずか千数百騎に満たない毛利勢が、四千八百余騎の武田勢を撃破して大将武田元繋の首を掻き切ったそうだ」

「われわれ石見の武将たちは、中国から伝来した孫子呉子の兵法を学んでいる。だから敵の配置を見れば、どのような動きをとるのかが、ある程度は予測できるものだ。元就どのが大江流軍学という家伝で攻撃してきたなら、我々は、なにもわからずに、後手を掴ませられるであろうの」

「大久郎さまの後継となるべき嫡子元光さまは、永正十二年(一五一五)の備後出陣中に討死されていますよな」

「すでに、元光さまご他界のとき、大久郎さまは次男(弘厚)の子興光どのに本家を継がせて、本拠の藤掛城に入城させ、弘厚どのを松尾城に拠らせている。

「大久郎さまの仇を報じた元就どのの力もどんどん強くなりますな」

 各地に割拠している一豪族にすぎない毛利氏に周辺国人衆が注目している。

「しばらく眼が離せませんな。元就どのの戦法について、観察を怠らず、検討を加える必要がありますな」

 この日の軍議では、元就が戦を起こすときには間諜を出して、戦法や動きを見極めることが肝要であるとの結論に達した。

 

そのころ安芸では、安佐郡銀山(かなやま)城の武田光和が佐伯郡桜尾城を攻略した。大内氏に反抗してのことであった。尼子経久はこの機に乗じて、さきに大内勢に攻略された鏡山城を奪還すべく、出雲、伯耆、美作、石見、備後の兵を率いて安芸国高田郡北池田に進出した。

 これにより、毛利氏が尼子軍の傘下にはいった。

 

 鏡山城攻撃は、毛利軍が先鋒となって六月十三日に開始された。

 城将藤田房信が頑強に抵抗したため、なかなか陥ちない。

 そこで元就は調略をもって房信の叔父藤田直信を誘降させ直信が守備する二の丸に毛利軍を侵入させた。城の一角を占領された鏡山城はたちまち陥落、房信は壮烈な討死をとげた。元就は尼子経久に了解を得た上で調略を行ったにもかかわらず、経久は、「不義の至り」として直信の首を刎ねた。元就の面目はまる潰れとなった。こればかりではなかった。経久は毛利家の当主であった幸松丸にも出陣を命じていた。わずか九歳で毛利軍総大将として出陣した幸松丸は、体調をくずして大永三年七月十五日に死去した。

 元就は経久に対して強い不信感を抱くこととなった。

 

 さる永正四年(一五〇七)に大内義興足利義稙を報じて東上したとき以来、石見国内国人衆の大部分は大内義興の傘下に入っていた。

このことから、幕府は、大内義興の石見支配力を認めて、石見守護職に任命した。

 しかし、これは石見守護であった山名氏にとっては面白くない。

 出雲へ帰っていた尼子経久に石見を取り戻すよう依頼した。

 

 大永元年(一五二一)九月二十六日(新暦十月二十六日)、石見侵攻の名分を得た尼子経久が石見に侵入してきた。 

 これまで、大内氏の傘下に入っていた石見の国人たちは、大内、尼子という二大勢力にはさまれ、その動きかたが自家の存亡に直結する立場に立たされた。どちらにつくのか判断を誤ればそれは滅亡を意味した。

 歩武堂々と進軍してくる軍容のさかんなさまを見て、石見の国人衆は戦う意欲を失い、ぞくぞくと経久の前に平伏していった。

「これは、これは恐縮でございます」

 経久は、意外なほど優しく遇した。

「尼子の総大将は、やさしく寛大である」

 この噂は、たちまち石見国人衆に広がっていた。

 佐波誠連、出羽孫次郎、高橋清光らも尼子勢に加わった。

「今は、大内氏の傘下にいるとはいえ、我が命を盾にしてまで大内氏に義理だてをすることもない」

 御屋形(小笠原長隆)の言は端的だ、躊躇なく尼子勢として西進に隋従した。

 しかし、乙明城の福屋氏は頑として尼子勢に加わろうとしない。さらに福屋氏の中核戦力となっている都治興行も今井城に籠って門を閉ざしたままだ。明らかに叛旗を翻している。

 尼子勢は一気に今井城とその支城を囲んだ。

「都治興行も豪気なものだ、数万の軍勢に囲まれても平然としている」

 こう言うのは口先だけだとだれもが思っている。

「尼子の総大将(経久)殿は、頭(こうべ)をたれて跪(ひざまず)く敵には優しいが、反抗する者は容赦なく潰す方だ。あんな小城では、ひとたまりもあるまいものを」

 このことは、国人衆すべてが知っている。だからこそ経久に伺候して傘下に入っているのである。

小笠原隊は、今井城の支城として、都治川を挟んだ対面に構えている佐賀理松城を包囲していた。ここには、興行の父兼行が百名ほどの兵とともに籠っている。兼行は、父宗行が京に出征途上の海難事故で遭難したため、十九歳で跡目を継いだものの、軍兵は壊滅的な状態であった。それを、わずかの年数で立てなおした武将だ。籠城とはいえ、城兵の戦意も高く、幾度も城門を開いて討ってでた。そのたびに小さな衝突が繰り返された。

福冨七左衛門尉相安は佐賀理松城南門に通じる細谷を固めていた。かがり火に浮かび上がった南門は閉まったままでひっそりとしている。

突如、城の大手にあたる大門から喚声があがった。南門からは死角となって姿は見えないが、なにか動きがあったようだ。

「数十名の兵が大門を開けてでてきました」

 伝令が大声で伝達しながら走り去って行った。

「行きますか応援に」

 理右衛門が、しきりに大門の方角を気にしている。

「いや、動くな。持ち場を離れるな」

 理右衛門を振りかえったとき、相安の視野をかすめる残像が残った。

視点を集中して土塀の上を見つめた。

「出てくる」

 相安が、身を翻して闇の中に没した。理右衛門も相安の背後にぴたりと身を寄せてきた。

 相安の視線は、閉じた南門の、さらに先の闇の中を見つめている。

「二人ですな。甲冑を着けていません」

 土塀の上から顔をだした二人の男が、外の様子を伺っている。土塀を乗り越えて降りようとしているらしい。やがて、すとんと外に飛び降りて態勢を立て直したところに、相安が無言のまま立ちはだかった。二人の男が、ぎょっとして身構えた。

「闇に紛れて脱出するとは、あやしいやつだ」

「角立四つ目紋」

 相安の旗指物を見てひとりの男が驚愕した声をあげた。

「福冨さま、福冨さまではありませぬか」

 押し殺した小さな声ではあったがはっきりと聞きとれた。

「いかにも、福冨だ」

「若でござるか。それがしは、雀部にございます」

「裏切り者か」

「主を代えるのは武士の裁量です。それにしても、大きくなられたものだ」

「裏切り者にとやかく言われるすじあいはない、信頼していた家臣に裏切られた父の無念。今こそ晴らしてやろうぞ」

 相安が刀を抜いて間合いを取った。

「待ってくだされ、決別したとはいえ、若に刃を向けることなど、それがしにはできませぬ」

「言うな、武士らしく掛かってこい」

「ごめんこうむります」

 身を翻して雀部らが闇に消えた。

「放っておけ」

 あわてて追跡しようとする兵を相安が制止した。なぜなのか相安にも分からない、裏切られたとはいえ元家臣だったと聞いて闘争心が萎えていた。

「身軽な服装の相手に追いつくことなど不可能だ」

 憮然と相安が言い放った。

「雀部でしたな、年はとっていますが、顔はしっかりと覚えております」

 理右衛門が驚きの声をもってつぶやいた。

「儂は覚えていないが、裏切ったやつらの名は知っている」

「逃げましたな」

 ほっとしたような理右衛門の声であった。雀部が刃を向けてこなかった気持ちがうれしかった。

「南門は小笠原隊が固めていることを知っていて出て来たのであろう」

「ところが、殿に見つかってしまった。やつらにしてみれば不運か」

 大門の喧騒も聞こえなくなった。けりがついたようだ。

 

その翌日午後のことであった。

 小笠原隊の松島助四郎が黒松村で都治方武将ら二名を討ち取ったという報が入った。今井城の北一里ほどの所だ。昨夜の深更だったという。小笠原隊の重臣に面会を求めて来たところを問答無用と討ち果たしたようであった。つづいて、同じ都治方武将大隈玄蕃が使命を帯びて小笠原隊へ接触しようとしたが尼子方に捕殺された。

「黒松の二人は雀部らでしょうな。昨夜、殿と遭遇してしまったため、あきらめて城内へ帰ったものと思っていたが、そうではなく、黒松に屯営している小笠原別働隊を探し出したようですな」

「雀部も死んだようだの」

 理右衛門は無言のまま肯頭した。

「昨夜、大門で起きた喧騒は、密使を放つための陽動作戦だったということか」

「小笠原の御屋形さまにしても、いまさら都治氏から泣きつかれてもどうしょうもないでしょうに」

「松島助四郎は、それを思って、独断で処理したようだの」

「それにしても、都治氏の本家筋にあたる川上(かわのぼり)氏や福屋氏に、なぜ応援を求めないのでしょうな」

「当然、応援は求めているさ。両家にしても、いまさらどうしようもない。静観するしかない」

「都治興行が馬鹿だということですか」

「ま、そういうことだろう。我々は腰抜けだがの。尼子が来れば尼子に隋き、大内が来れば大内に隋く。これでは、武士の意地なんてまったくない。ただ、家の存続だけを求めている。それに比べれば都治興行の方がよほどしっかりしている。己の意思を貫いている分だけ、武士らしい生き様ではある。

ただ、籠城をしておれば、福屋氏や大内氏が助けに来てくれるだろうという判断が甘かったというだけのことだ。こんな小さな城を潰すには十日もかからないということを忘れている。父親の兼行が付いていながら阻止できなかったほどの愚鈍な将だったのだ」

「せっかく再興した家をまた潰してしまいますな」

「兼行は、すでに齢七十を越している。兼行ともあろう人が、浅はかだの」

 

「わずか数百しか軍勢をもたない都治氏だ。尼子の精鋭をもって強襲すれば、あっというまに陥とすことができるのに、尼子の総大将は攻撃を命じない」

 いぶかしむ将兵の前を、一人の武将が今井城に入っていった。

 降伏勧告の使者だ。

 四半刻後、開かれた門から、下帯ひとつの裸にされた男が放り出された。門の外でうつ伏せに倒れたまま動かない、瀕死の状態だ。

 なんということだ使者ではないか。走り寄った郎従が自分の戎衣を被せて退いてくる。郎従は主人の被った屈辱に大声で泣いていた。

 城内から嘲笑が使者の後を追う。

「この姿が、都治の返事でございます」

 使者は、経久に報告したあと自刃した。

「家中一とわれた誇りにも傷がついた。武士の矜持さえも奪われた無念は、おのれの命を絶っても消えるものではない」

 最後のことばであった。

「おのれ、卑怯者、興行め。武士たる者のなすことではないわ」

 経久は、地団太踏んで激怒した。

「犬、猫一匹たりとも逃すな、すべてを抹殺せよ」

 二十九日、尼子軍の総攻撃がはじまった。

 尼子軍の猛攻を受け、たちまち、佐賀理松城が降伏した。この城には興行の父兼行以下九十三人が籠っていた。経久は全員を城から下ろして救精庵に押し込めたうえ、家屋の周りに柴木を積み重ねて火を放った。武器を取り上げられ、丸腰の将兵は自殺することもかなわず、焼き殺された。生きたまま焼かれる将兵の阿鼻叫喚は、今井城に籠る将兵のみならず、攻守すべての将兵を震えあがらせた。地べたに座り込み両手で耳をふさぐ兵が続出した。兼行主従を焼き殺す黒い煙が流れゆく下では、攻城方将兵が黒い悪魔から逃れようと走り回っている。

兼行は七十三年の生涯であった。

 もはや、本丸を残すのみである、攻略は時間の問題だ。

 このとき今井城内に福屋から派遣されている奥田寺、野田という二人の武将がいることを掴んだ経久は、攻撃を中断して奥田寺、野田の両名を指名して講和交渉に入るともちかけた。

 奥田寺、野田を福屋氏のもとに行かせて「都治一族に腹を切らせよ。応じなければ直ちに福屋の城攻めにかかる」と伝えさせた。これにより、今井城は、主だった者だけでも百六人が自害して陥落した。

「興行が城兵を残して逃げた」

 衝撃が奔った。二百名もの家臣や一族の命を犠牲にしておきながら、夜陰に紛れて脱出したらしい。

「逃すな、家臣を捨て、己の命だけが助かりたいとする見下げた根性だ」

「徹底して探せ」

「許せない」

 佐賀理松城兵の断末魔が耳にこびりつき、城内のいたるところで、折り重なって息絶えている凄絶な姿が、目に焼きついている攻城勢に、憤慨という新たな感情が渦巻いた。

興行は丸原雲井城の福屋慶兼のもとへ落ちたが、尼子勢の急迫すさまじく、ついに、十月二日夜、生涯を閉じた。

 

 福冨を裏切って都治の家臣となった田多ら六人と、その一族郎党ことごとくが滅亡した。

 

 翌年夏尼子経久は尼子一門衆の宍道氏に、直臣の亀井氏、国人衆の三沢氏を先鋒として福屋氏の討伐にでた。対する福屋氏は、支城の雲井城と市山城を捨て本城である乙明城に籠城して徹底抗戦の構えをとった。尼子軍は、浜田、長浜、まで進出したが、大内軍が東上してきたため、和議して帰陣した。

 

「八月十五日に、元就どのが郡山城に入城したという知らせにございます」

 温湯城から帰城した山下忠左衛門が報告に来た。相安は山下理右衛門を定期的に温湯城へ派遣して挨拶と情報の収集に努めてきた。忠左衛門は山下理右衛門の嫡男である。十五歳になってから、理右衛門がこれまで行ってきた役目を少しずつ引き継いでいる。

「元就どのが跡目を継いだのか」

「そのようです」

「元就どのは何歳だったかの」

「二十七歳だと聞きました」

「尼子どの(経久)は毛利家当主の幸松丸が九歳で卒去したのを機に、尼子家から経久どのの子息を毛利家当主の座に据えようとしていたはずだが」

「毛利家一門衆の福原広良がひそかに粟屋縫殿允を京都へ派遣して、将軍家の御内諾書を拝受させていたため、さすがの尼子どのも横槍の入れようがなかったということのようです」

「元就どののやることに抜かりないの。なにもかも早い、なかなかの人物だ」

「末、おそろしい人物ですな」

 これまで二人のやり取りを黙って聞いていた理右衛門が話に割り込んできた。

「いや、毛利といっても、安芸国に居る三十余の国人領主の一にすぎない。中国地方七ヵ国を勢力圏とする尼子氏や周防国等六ヵ国を持つ大内氏の勢威に翻弄される宿命よ」

「だが、眼は離せない元就どのであることには事実ですな」

 理右衛門が危惧することは尼子氏や石見の国人衆とて同じ思いである。

 元就が毛利家を継いだころの所領は五千貫だといわれている。石高に換算すれば、およそ六万石になる。小笠原家の所領約一万七千石と比べても、かなりの有力領主であったことがわかる。

 元就は、郡山城に入ると、直ちに城の拡充に入った。郡山の東南に突出した尾根にあった郡山城本丸を標高二百メートルの山頂に移し、その下に二の丸、三の丸、厩の壇、馬場、釜屋の壇、羽子の丸、姫の丸、釣井の壇、御蔵屋敷の壇などを配置して堅固で壮大な要塞を造った。

それは、あたかも手足を広げた巨大な土蜘蛛が、山の上に覆いかぶさっているようであった。

 

 大永四年(一五二四)三月三日、小笠原十一代長定が死去した。

 

 四月八日、元就は郡山城西南麓の船山城を夜討ちして謀反を起こした舎弟元綱と城兵を誅戮した。陰謀に加担していた毛利家譜代の宿老坂広秀と渡辺勝も殺された。

 坂広秀は日下津城(広島県向原町)の城主であり、渡辺勝は長見山城(広島県甲田町)の城主であった。二人は、元就の家督相続に反対し、元綱の擁立工作をしていた中心人物であった。

 元就は、弟までを殺したのである。

 

 五月二十日(新暦六月二十一日)、大内義興は嫡男義隆とともに防、長、豊、築、石、芸、二万五千の兵をもって安芸(あき)銀山城(かなやまじょう)と桜尾城を攻囲した。これは、さきに尼子経久に屈伏した両城と安芸国内の諸地域を回復しようとした作戦であった。銀山城には武田光和が拠っている。

 武田氏は永正十四年(一五一七)の有田合戦で当主元繁が元就と戦って敗死したが、それでもなお、元繁の後を相続した光和は、尼子の傘下となって頽勢挽回をはかっている。

 このとき、尼子軍は伯耆国を平定中であった。経久率いる大軍勢に伯耆の国人衆は、なす術もなくひれ伏していった。尾高泉山城の行松入道、東伯郡の小鴨岩倉城小鴨掃部介、北条堤城山田高直、泊川口城山名久氏、羽衣石城南条宗勝らが経久に恭順した。伯耆守護山名澄之は一戦もせず、但馬国守護山名誠豊を頼って逃げ去った。

 尼子軍は、ただ、行軍だけで、どんどん軍勢が膨らんでいた。

「大永の五月崩れ」と称されるほどの、伯耆崩壊であった。

 安芸の危急を聞いた経久は直ちに転戦する決心をしたが、伯耆国から安芸国までは遠い。ひとまず麾下の安芸、備後の国人衆に武田氏の救援を命じた。元就も後詰めに出陣した。

「さきの有田合戦では、父親を殺し、今はその子を助けている」

 戦国の世の習いとはいえ、元就にとっても、複雑な気持ちであっただろう。

 七月十日、亀井、牛尾両将の率いる尼子軍は大内軍に攻撃を加え激闘となった。しかし、尼子軍一万に対して大内軍は二万を超える兵を有していたため、尼子軍は惨敗して後退した。

元就はこの戦いを傍観していたが、八月五日夜、元就の指揮する一隊が折からの激しい風雨をついて大内軍本陣に夜討ちをかけた。寝込みを襲われた大内軍は周章狼狽するだけで戦うこともできず敗退した。大内軍は五百二十余の首級を取られ、義隆とその父義興もほうほうの体で逃げた。毛利軍の損害は三十九名だけという大勝であった。

八月十六日、大内軍は銀山城の包囲を解いて撤兵した。

 

大永五年(一五二五)三月、大内義興による元就の抱込み工作が成功し、元就が大内軍に帰属した。義興は元就に吉田郡山城一帯の所領を安堵するとともに新たに安芸佐東郡の可部(かべ)七百貫、深川(ふかわ)三百貫、温科(ぬくしな)三百貫、玖(く)村(むら)七十貫等を知行地として与えた。

 毛利元就の尼子服属は、わずかの一年半であった。

 

大内氏へ鞍替えした元就は安芸、備後の国人衆への調略を行って大内方に引き入れているという。

北隣を接している五龍城宍戸隆家に自分の娘を嫁がせ、隆家の母の実家である甲山城主山内直道と誼を通じ、八木城主香川光景を味方につけた。

 一方、調略に応じない備後の宮氏(亀寿山城)と多賀山氏(蔀(しとみ)山(やま)城)を攻めて征服した。

 

 大永六年(一五二六)三月大内義興が石見に侵入してきた。七月、高城の三隅国兼を攻め、十二月、国兼が降伏した。

 義興は、ただちに浜田へ進出した。

 大内勢は、坂井山に本陣を置き、見張りを神並山に置いて、西に大陣平、妙が迫、笠松山、東には三重山、竹迫山に展開した。

 

 小笠原隊は、尼子に合力している。

 尼子経久を総大将とする尼子勢は牛尾遠江守幸清、湯信濃守惟宗らが三千騎で先陣をきり、二陣に若林伯耆守が千五百騎にて続いた。

対する大内義興は、陶入道、陶安房守らが五千騎で討ってでた。

 尼子側の攻撃により浜田の天満畷で戦端を開いて激戦となった。この戦で尼子勢は大内勢の将兵百二十余人を討ち取ったが、尼子勢も三百七十人を超す死者をだした。

その後、両軍は目だった戦もなく五十余日間にわたって対陣していたが勝敗は決まらなかった。(天満畷の合戦)

 

 大永七年(一五二七)正月、山名誠豊が因幡伯耆から出雲に進軍した。このため尼子経久は出雲へ引き上げた。

 これにより石見の諸将は大内の傘下にはいった。

 小笠原氏は尼子方として残った。

 小笠原氏の配下となっていた福光氏は小笠原氏を離れ大内氏の麾下に入った。

 

 享禄元年(一五二八)十二月、大内義興が死去し、義隆が跡目を継いだ。

 そしてこの年、毛利家では元就の次男元春が生まれた。それから五年後には三男隆景が生まれている。

 大内氏は安芸、備後から撤退した。これにより芸備での対決は「尼子対大内」から「尼子対毛利」へと移行していった。

 大内氏が撤退したことにより、尼子氏へ鞍替えする国人衆が相次いだ。

 元就は迅速に行動し、尼子方に寝返った国人衆を潰していった。

 

 享禄二年(一五二九)五月、元就は外戚になる安芸松尾城の高橋弘厚を攻め自刃させた。

 さらに、弘厚の子興光を石見国阿須那藤掛城に攻めて興光を殺した。大内氏の麾下となっていた高橋氏が尼子氏に寝返ったため大内義隆の命を受けて討伐したという名目であった。しかし、さる大永四年に勃発した元綱の謀反のとき元綱に加担していた高橋氏の抹殺を狙ったものであることは明白だ。元綱謀反を起こしたことは、尼子経久の意を受けた亀井秀綱の唆(そそのか)しによるものであったが、毛利家の外戚高橋氏も加担していたことをつかんだ元就は高橋氏撲滅を決心していたのであった。

 

 

 

船岡山合戦

 近江岡山城に逃げた足利義澄らは、政権を取り戻そうと再三にわたって攻め上ってきたが、その都度撃退して三年がたった。

 小笠原隊もあいかわらず平安城(御所)警護が続いている。

 永正八年(一五一一)七月七日(新暦七月三十一日)細川政賢らが泉州堺に上陸し、天王寺の城を攻めてきた。

 これにより細川澄元は、なんとしても義澄将軍に再び天下を取り戻そうとしていることが確実となった。

 これに呼応して堺の南の庄に蟄居している遊佐入道印叟が深井に陣を張った。

 京都からは遊佐順盛ら一万余騎が迎撃に出陣し、堺万代(まんだい)の庄に陣を置いて七月十三日(新暦八月六日)に深井の陣へ押し寄せたが失敗して遊佐順盛隊は三百人が討死し、残りは散々になって逃げた。遊佐順盛は、おのれの持ち城である譽田、高屋の城に入ることもできず京都に逃げ帰った。

 譽田の城へは遊佐印叟が入れ代わり、高屋の城へは畠山義英が入城した。

細川政賢は摂州中嶋に陣を移し、細川元常は同国脇の浜に渡海して芦屋庄上鷹屋城に籠っている河原林対馬守を攻めるため灘の吹飯に頓営して攻め続けた。

 七月二十六日(新暦八月十九日)、京都から細川尹賢、大内義興を大将として細川高国の旗本勢柳本、波多野ら摂津、丹波二州の軍兵が灘郷、雀の松原、御影宿に駆けつけて芦屋川原で会戦した。

 これをみて芦屋城中からも打って出て、しまいには、細川元常の陣を突き崩し、首級百有余を取って京都へ凱旋した。

 そうとは知らず赤松義村は、細川澄元に頼まれて細川元常に加勢しようと八月上旬、播州御着の館を出発し加古川に勢ぞろいした。そこから大倉谷まで上ったところで細川元常の敗走を聞いたが引き返すことをせず、同月五日(新暦九月九日)、兵庫浦の鷹屋へ押し寄せてきびしく攻めたてた。

 河原林は耐えられず、その日の夜半に退城して伊丹城へ入ったが、たちまち追撃軍に囲まれ攻められた。

 京都からは細川尹賢に大内義興勢が加わって山崎まで馳せ下ったところで入江の一族らが近郷の一揆を先導して多勢で押し寄せてくることを知り、山崎の陣を引き払った。

これをみて、細川政賢、細川常有、遊佐印叟、赤松義松らは、この機を逃すなと京都へ上がるべく摂丹両州の勢を集めた。

 江州へも緊急の書状を発して両方から一気に攻め上る日どりを定めているところに、近江岡山にいる前将軍足利義澄が、十四日に死去した知らせが届いた。細川らは力を落とし、愁涙にむせび落胆したが、

「義澄卿の御弔い合戦により敵を畿外に追い散らし、御曹司義晴朝臣を将軍に仰ぎ奉ることこそ千層の塔婆を建て、万部の法華を読むよりも供養はなおも勝」

と、十八日(新暦九月十日)をもって江州勢と一気に京都へ打ち入ることを決定した。

 この報は京都にも次々と注進がくる。

 将軍の大命を受けた大内義興は、諸将を集め軍(いくさ)評定により去年と同じように東寺、神祇館へ軍兵をだし、竹の内、日之岡に伏兵を置いて敵を一気に退けようと決めたが、おりしも、諸将の多くは帰国していて軍勢が少なく作戦はむずかしい。だからといって、洛中において多勢を迎え撃っては危険が多すぎると議論がまとまらない。

「味方の軍勢は、たしかに敵より少ない。ここは来鋭を避けて、その虚を衝くことこそ最高の作戦でありましょう。まず、いったん丹波の国へ退き、凶徒を洛中に入れて、掠奪、窃盗に心を奪われ油断しているときこそ、たやすく勝利を得る手だてでありましょう」

 大内義興の説明に皆が賛同した。

 足利義稙細川高国、畠山義元、大内義興らが供をして同月十六日に丹波長坂(亀岡)へ退いた。

 足利義晴を奉じた細川政賢、赤松義村らは翌十七日に京都へ入ったが一人として防戦するものもなかった。

 しかし敵が一戦にも及ばず洛中を開いたということを考えると、味方を楽に入洛させ、油断したところを襲ってくるという謀りにちがいない。それなら攻めてくる敵は多勢であるにちがいない。

 急遽、船岡山に城を構え細川政賢、細川元常、細川常有、遊佐印叟らが守りを固めた。

 秋の気配を肌で感じる季節になった。

 長坂に滞在している足利義稙は敵の城が完成するまでに攻め落すべく、本陣を高雄山に移した。これに従い細川高国大内義興、畠山義元、河野道直、山名氏明、尼子経久、武田元信、武田元繋、毛利興元、吉川国経、小早川弘平、宍戸元源益田宗兼、熊谷元直、小笠原長隆ら八万余騎が梅之畑、鳴滝等に陣を固めた。

周辺の山々には諸将の旗馬印が山風に翩翻としている。

 まる一日の休みをとって二十四日卯の刻(午前六時)、先陣の大内義興ら二万余騎は陶興房、杉興重、杉重矩、問田紀伊守、問田丹後守、問田興之、問田弘胤らを先頭に立てて船岡山の一の城門に向って兵鼓を打ち法螺貝を吹いて攻め寄せた。

 先鋒を承るということは武門の名誉である。この度も大内義興尼子経久との間で熾烈な争奪戦があった。結果は大内義興が先鋒を取ることになった。大内と尼子では力の差が歴然としている。しかも、尼子経久は八月下旬になって、やっと出雲から到着したばかりである。

 尼子経久、武田元繋らが二陣に進み、畠山、毛利、吉川、宍戸、香川、熊谷らは搦め手を攻撃した。

 先陣の一番隊となった小笠原隊は、山岳戦に備えて甲冑の佩楯(膝鎧)を外した。これで動きやすい。

 忠智は、さらに兜を取って鉢巻を締めたが、城内から射ってくる弓矢を防ぐため兜を被った。

 小笠原隊は、御屋形(小笠原長隆)を中心に一丸となって攻め上っていく。

 細川政賢の指揮する城方は静まりかえっている。矢の一本も飛んでこない。

あっというまに、城門近くまでたどり着いた。このとき、いっせいに矢窓が開いて至近距離から突風のごとく音をたてて万箭が襲ってきた。

 忠智らは、竹束を楯として矢を避けながら肉迫する。

 城門を開いて城方が打ってでた。

「行くぞ」

 攻城軍の大内勢、陶、杉らが一気に攻めかかった。

両軍の刀槍から火花が飛び散る。喚声、矢叫びがこだまして山谷を揺るがす。 

 怒涛のごとく押し寄せる攻城軍に城方が後退して城門に入るのと同時に、矢窓を開いて射出す数万の矢に攻城軍が次々と倒れて行く。大内勢の多数が負傷した。数刻にわたって激戦がつづき攻城軍も喉が渇き、腕がなえて動きが鈍った。

「もたもたしていると、日が暮れてしまうぞ、早く一の城門を落としてしまえ、先陣が疲れれば二陣と代われよ」

 続けざまに下知する大内義興に陶、問田、杉、内藤ら大内の旗本勢が分散しがちな軍勢をまとめてじりじりと攻め上がった。

 城中からも名乗りをあげながら打ってでて、凄絶な戦闘をくりひろげる。

「臆するな、引くな」

 大内義興が采配を振って攻めたてた。

「ここが死に場ぞ、命を捨てて戦え」

 小笠原隊は長隆が先頭に躍り出て突撃した。御屋形自らが捨て身で先頭に立つ行為は、将兵の血を滾らせる。御屋形に遅れては、申し開きができないとばかりに、忠智らが先を競う。 

 大内勢が続く。

 城方がひるんだところを、攻城軍が次々と塀を乗り越えて城内に攻め入った。

「われこそは、九里(くのり)右衛門兵衛なり。尋常に勝負せよ」

 忠智の眼前で戦っていた御屋形小笠原長隆に、敵の侍大将が組み付いた。

 御屋形の御首を敵に取らせてはならない。あわてて助けに入ろうとした。

「手だしをするな!」

 長隆の叱咤に忠智らは、他の敵と戦いながら二人の格闘を見守るばかりである。

―御屋形の方が優勢だ、おくれをとることもあるまい。

 小笠原隊は、忠智らを残して、闘争の渦に飛び込んだ。 

 組んず解れつの大激闘のすえついに、御屋形が敵の首をとった。

「われこそは小笠原刑部少輔なり、佐々木の家人・九里右衛門兵衛を討ち取ったりー」

 血の滴る首を高々と挙げて名乗りをあげた。

「おー」

 小笠原隊将兵が閧の声で祝福する。

「みごとなり」

 大内義興の大音声がとどろいた。そのとき御屋形ががくりと膝を落した。敵の刃を受けていたのだ。あわてて忠智ら小笠原隊将兵が円陣を組んで長隆を引き下がらせた。

 陶道騎は、細川の郎党香西次郎を討ち取り、益田越中守も敵の兵を討ち取った。

 搦手からも尼子、武田、毛利、吉川の諸勢がわれ先にと攻め入った。

 城方は散々になって逃げだした。丹波国住人竹内太夫は、手勢五百騎を率いて一方を防いでいたが、もはやこれまでと落ちるところを、搦手の寄せ手が取り巻き一人残らず首を取った。

 細川政賢は一方を打ち破って洛中へと落ち行くところを、大将首を狙う攻城軍に執拗な追撃を受け、ついに、誓願寺の門前にある羅漢橋の上で壮絶な最後をとげた。その他、遊佐入道をはじめ一千余人が討死した。

 追撃隊は徹底的に敵を追い詰めて多数を討ち取った。大内義興ら攻城軍は三千八百余りを討ち取るという大勝を得た。

 この戦闘を船岡山合戦という。

 大内義興は直ちに洛中に凱旋した。黄昏のなか細川高国も入洛し治安を回復した。

 足利義稙は、数日間入洛を控えて高雄山の陣に滞在していた。これは、京都から平家を追い落とした木曾義仲が直ちに入洛せず、しばらくの間、天台山に控えていたという例を習ったものである。

 九月一日、足利義稙は二条西洞院の妙本寺に御所を構えた。

 諸将が我も我もと馳せ参じて厳重な警衛をつくった。

 将軍は論功行賞による剣や弓、馬物具などを諸将に授与した。

 特に大内義興の戦功は他に傑出していると剣の外に鎧一具を賜り、翌年三月二十六日には従三位の公卿に列せられた。

 石見衆では小笠原長隆、益田、周布らが将軍から感状を受けた。

 御屋形(小笠原長隆)は、三百貫の地を賜った。

だが、尼子経久には、なんの恩賞も与えられなかった。大内義興との確執が大きく影響したことは明白であった。

 

 船岡山合戦が終って、石見の諸勢も次々と帰国していった。

 永正九年(一五一二)、小笠原隊も、あしかけ五年にわたる平安城守備を終えて帰国した。

 この戦で、御屋形(小笠原長隆)は本家筋にあたる阿波三好家に弓を引いた。

 その結果、三好之長は死んだ。戦国の世の習いとはいえ、小笠原勢将兵は言い知れぬ寂しさに襲われていた。

 

 永正十年(一五一三)、京都から帰国した忠智は五十三歳になったのを機に、二十三歳の相安に家督を譲った。

同年秋、福冨七左衛門尉相安の小笠原家仕官が承諾された。

 

 

 

 

 

 

 

平安城

 永正四年(一五〇七)、足利義澄を奉じて将軍足利義稙を放逐した管領細川政元は、実権を握って大いにその権勢をしめしたが、自分の後継ぎに関白九条政基の子澄之、阿波讃岐細川義春の子澄元、そして細川支流細川政春の子高国の三人を立てた。三人が力を合わせて磐石な細川家を後世に残そうと考えてのことであったが、これは当然のごとく細川一族で内訌を招くことになった。

 細川政元は、その有力家臣薬師寺、香西らに殺され、細川澄之が足利義澄の執事となった。

 これに対して阿波細川の三好之長が、細川澄元を擁して細川澄之を殺し、実権を握った。

「京都が紛乱している今こそ、征伐どきぞ」

 将軍の座を追われ大内氏を頼っていた足利義稙の下知を受けて大内義興が山陰、四国、九州の諸将に至急の書状を送った、好機到来である。

 同年十一月二十六日(新暦十二月二十九日)、足利義稙が防州を出発した。

 大内義興を筆頭に九州から島津、大友、龍造寺、高橋統種、菊池ら有力武将がこぞって集まった。

 安芸の国から探題職の武田元繁をはじめ毛利、吉川、宍戸、小早川、熊谷らが供奉に加わり、石見から、小笠原長隆、三隅興信、吉見成頼、佐波誠連、益田宗兼、高橋清光、福屋国兼、周布和兼、祖式、久利ら、出雲の尼子経久、三澤為幸、三刀屋為虎、牛尾、浅山、宍道、廣田、桜井ら、伯耆に山名清忠、南條守親、大山の教悟院、行松入道、因幡から山名豊重、但馬の山名政豊、美作の斉藤ら、播磨の別所熙治、黒田高政、伊予の河野通直、讃岐から香河元光が随従し、

 総勢十五万余騎が八千五百余艘の船に分乗して威風堂々と船出した。

 海上は、能島掃部助、久留島出雲守らが海上を警衛している。大内義興は、防、長、豊、築四州の守護である。にもかかわらず今回の東上には、石見、出雲、因幡伯耆、備中、伊予の武将も随従している。大内義興の勢威をみせつけた軍勢であり、衰えたりといえども将軍の威光、まさに天を突くばかりであった。

―心がおどる。

 忠智にとっては初めての上京であり、『将軍を擁しての進撃だ』ということが心をおどらせている。

 とはいえ、小笠原長隆は、小笠原宗家と仰いでいる阿波、三好之長を敵にまわして戦わなければならないという戸惑いは如何ともし難い。

 瀬戸内の海を大小の船があふれている。帆を立てたもの、櫓や櫂で漕ぐものあらゆる舟が舳先を競って東上している。

―まさに壮観だ。

 各船が将軍の眼に留まるよう、御座船近くを航行しようと陣取り合戦をしている。

 忠智は舳先や船べりに幟や旗を立てた船が、これ見よがしにせわしなく動きまわっているのを厭くことなく眺めていた。

 鶴姫を連れて多度津から瀬戸内を渡ったのが、ほんのこの前のことのように思っていたが、すでに十二年前のことになる。忠智は、阿波の小笠原長重と綾姫、そしてやえのことを思い、北の方角に合掌した。

 二日後に鞆ノ浦に着いた。ここで越年し、永正五年(一五〇八)正月三日(新暦二月三日)に出航したが、寒波の襲来に遭遇してしまった。西風に押されて狂ったように走っていた船が、荒れ狂う波にはばまれて危うくなってきた。忠智らは、慣れない船酔いに苦しめられ、立ちあがることもできない。横臥したまま嘔吐している兵から発する異臭が船内に充満して息苦しい。忠智は、せめてもの抗いから口を大きく開けて呼吸し、鼻からの進入を防ごうとした。これなら陸路を進撃するほうが早いと思うが勝手をすることはできない。

 ついに、船団は播州室ノ津に避難したまま動くことができず、いたずらに日数を費やすばかりであった。

 二月一日(新暦三月二日)になって、やっと海上が凪いできた。船団は纜(ともづな)を解いて次々と湊を出ていく。

 今度は快適に走っている。左手には本土の山並みが朝日を受けて輝き、右手には淡路の島がすぐ近くに見える。

「あれが泉州堺だ。あそこに上陸するらしいですな」

 善兵衛は、寒さに身を震わせながらも、甲板に腰を下ろして、はるか前方に霞む山並みを指差している。

「お前、震えているのか」

「武者ぶるいですよ」

 忠智の横に座っている理右衛門が、寒さで満足に動かせない顎をがくがくと震わせながら笑った。

 翌二日泉州堺に着いた。やっと上陸したと安堵したものの足が萎えている。忠智はその場で足踏みをして力を取り戻そうとした。

堺は海上から畿内への玄関口である。九州、中国、四国を結ぶ交通の要衝となっていた。 

 京都では執事細川澄元が上意をもって諸国の軍士を召集していた。これに応じて、斯波義兼、畠山義豊細川勝久、細川成春、朝倉貞景、赤松義村富樫政親、一色義春、伊勢貞熈ら十三万余騎が京都に馳けつけて三条の御所を警護した。

 足利義澄は、堺に上陸した大内ら西国勢が京に攻め上るまでに蹴落としてしまえと八万余騎の軍勢を摂州中島に進め、陣を取って待ち構えていた。ところが、寄せてくる大軍勢に肝をつぶしほとんど戦うこともせず敗走した。

三好之長は大内勢の鋭鋒を受けて敗死した。

細川澄元は四国へ落ち延びて斯波、赤松は京都へ逃げた。

 足利義澄は近江岡山城滋賀県蒲生郡)へ退いた。

 忠智らは淀川沿いの橋本で一泊し、翌日、東寺の五重の塔を目印に都へ向かった。

 六月八日(新暦七月五日)、足利義稙が入洛を果した。

 忠智にとっては、はじめての都である。

 貴族、武将の館や寺社が壮大な敷地を占領し、住民は狭くひしめき合っている。館や寺社のあまりにも荘厳な建物に忠智の心は奪われていた。

 小笠原隊も平安城(御所)の警備についた。

 七月一日(新暦七月二十八日)、足利義稙は、従三位に叙任し、権大納言征夷大将軍に復任した。

 八月一日(新暦八月二十七日)には、随伴した諸将の論功行賞を行い細川高国管領に、最大の功労者大内義興には従四位下に叙して管領代に任命した。

 さらに、九月十四日には、従四位上として管領職に任じた。その他、随伴した諸将も褒美を受けた。

 

 

参考文献

 石見家系録       大島幾太郎 島根県大田市立図書館

 陰徳太平記……・・   和歌山県立図書館、大阪府立中央図書館

 吉川家古文書……・   和歌山市立図書館

 石見吉川家古文書…   大阪府立中央図書館

 大丸山伝記……・・   川本町立図書館

 孫子………………・   浅野裕一  講談社学術文庫

 吉川元春………・・   浜野卓也  PHP文庫

 尼子経久…………・   中村整朗  PHP文庫

 立花親成(統虎)…………・   八尋舜右  PHP文庫

 長宗我部元親…・・   荒川法勝  PHP文庫

 戦国合戦事典…・・   小和田哲男 PHP文庫

 宇喜多秀家……・・   野村敏雄  PHP文庫

 小早川隆景……・・   竜門冬ニ  人物文庫

 小早川隆景のすべて   新人物往来社

 島津義弘………・・   徳永真一郎 光文社

 島津義弘の賭け・・   山本博文  中公文庫

 朝鮮の役………・・   旧参謀本部 徳間文庫

 秀吉の野望と誤算・   笠谷和比古・黒田慶一 文英堂

 川本町誌        島根県立図書館

 温泉津町誌       島根県立図書館

 二十五人の剣豪……・・ 戸部新十郎 PHP文庫

 石見の城郭       島根県大田市立図書館

 完訳フロイス日本史5  中公文庫

 日本合戦史100話    鈴木 亨  中公文庫

 出雲の鷹……………・・ 南條範夫  文春文庫

 歴史群像・戦国九州軍記 学習研究社

 歴史群像・戦国合戦大全 学習研究社

 歴史群像毛利元就   学習研究社

 別冊歴史読本毛利元就の生涯 新人物往来社

 別冊歴史読本・戦国の籠城戦  新人物往来社

 石州古図……………・・ 島根県立図書館(インターネット)

 分県地図・島根……・・ 昭文社  

 THA MAP・南河内 ワラヂヤ出版

 旧暦・新暦日付変更計算・インターネット「暦のページ」

君谷合戦

 永正三年(一五〇六)十一月二十三日(新暦十二月七日)病気療養中の小笠原長正(十代)が温湯城において死去した。直ちに嫡男長定が家督を継いだ。

 翌年、喪も明けぬなか佐波勢が小笠原領君谷湊に侵入してきた。

 小笠原長正は、南北朝以来繰り返してきた佐波氏との争いに終止符を打つべく、孫長隆に佐波秀連の娘を娶った。和平への努力も行われていたのである。

 こともあろうに、その長正の死さえも攻撃の機としてしまったのである。それだけ君谷湊は佐波氏にとっても魅力ある湊だったのだ。

 十一代当主小笠原長定としての初めての戦である。

 両軍は、いつものとおり、江川の支流を挟んで対峙した。

 小笠原方井原左京亮信成が両軍の面前に馬を進めた。

 それに応じて、佐波勢の中から一騎の武者が進み出た。

 両軍から一斉に喚声があがった。

 凄絶な一騎討ちが始まった。二合、三合と槍を合わせ、馬腹を擦るが決着がつかない、技量が互角なのだ。

 両軍の兵数千が一気一憂し喚声を挙げている。

 数度の衝突を繰り返し、ついに井原信成が敵を突き落とした。

 小笠原勢が踊りあがって喜んでいる。

 そのとき、井原信成が佐波軍に包み込まれてしまった。

「行け、左京亮を助けろ」

 小笠原勢が突撃した。

 佐波軍が逃げだした。

 しかし、先鋒一番槍をとった井原信成は討死していた。

 いつものことながら小笠原軍は追撃しない。

 目の前の敵は佐波軍なのだが、忠智らは意気が上がらない。小笠原長隆(十二代)の妻は、佐波秀連の娘である。実の親子であっても互いに命のやりとりをするのが戦国乱世の常だが、なんとしても力がでない、太刀先が鈍る。

 佐波勢が押し寄せてくる。

 小笠原勢が迎え討つ。

 両軍が対峙するなか、定法どおり矢戦を展開したあと、一騎討ち、ときには小規模な小競り合いをもって、佐波勢が退いて行く。

 小笠原勢は追撃しない。

 なんとも優雅な戦をくりかえしていた。

 

 

九州出征

 明応五年(一四九六)一月、周防、長門豊前筑前の守護大内政弘が死去した虚を突くように、九州肥前少弐政資大内氏の支配する筑前に侵入して大宰府を占拠した。大内氏は、その子義興が後を嗣いだばかりであった。

 同年十二月、父政弘の一周忌を済ませた義興は、少弐政資討伐のため筑前に出陣した。   

 翌明応六年(一四九七)一月、忠智ら石見勢も大内軍に従軍した。

 大内軍は門司、小倉、八幡と破竹の勢いで進軍、直方で待ち構える少弐軍前衛を蹴散らして飯塚にでた。ここから大内軍主力は西寄りに南進、石見勢は遊軍となって西進、博多を経て、やがて本隊と合流、基山、鳥栖を征服しながら進んで行った。

 二日後、大内軍は肥前の小城城を包囲、少弐政資、高経父子を滅亡させた。

 この戦では、御屋形(小笠原長正)が少弐少輔を討ち取って高名をあげた。

 

 

四つ地蔵城

 四つ地蔵城では忠智の留守中、重臣・佐々木善右衛門は、紫部新左衛門に逢って、都治方へ寝返った本意を聞きだしてくれていた。
 善右衛門は、平時においては、穏やかな好好爺であるが、戦場においては鬼神の働きをする。
 幾多の戦場において、先頭をきって突き進み武功を重ねてきた。その剛胆さは他の家臣の及ぶところではない。
 新左衛門の無二の友である善右衛門に、残した言葉は厳しいものだった。
「先代(治堅)さまは、部下をわが子のように慈しむ心をお持ちでした。だから合戦のとき、先代さまの下知に従い死ぬ覚悟で突撃していったのです。生まれながらにして城主を約束された殿には、おそれながら先代さまには及ばないことでござりましょう。それに、今の殿は、温湯城ばかり見ておられる、儂らのような地下人には見向きもしてくれなかった」
 新左衛門は、淀みなく言い切ったという。新左衛門の言うことにも理はあった。忠智は十五年にわたり御屋形の家士として温湯城に務めた。その間、四ッ地蔵城へは、ほとんど帰っていなかったのである。
「先代(治堅)さまも、応仁元年に今井城を攻めたとき攻略に失敗したためではありますが、従軍した士への褒賞をされませんでした。たとえ、失敗したといえども、合力した者には褒賞をするということ、古今の通義でありましよう」
「武士がより強い主人を求めるのは裏切りではありません」
 とまで言った。
 この時代(戦国時代初期)の武家社会は、各地に割拠する豪族、地侍らが、それぞれ独立した土地を持っていた。一所懸命ということばが残っているように、彼らは、自分の土地を守り、拡張することに命を賭して戦っていた。主人の命令に絶対服従といった主従関係をつくったのは、織田信長であり、豊臣秀吉徳川家康によって完成されたといわれている。この時代より、六、七十年後のことになる。
 石見の豪族も小笠原、佐波、吉川、高橋、福屋ら諸氏が、それぞれ独立して、時に応じ、そのときどきの連合を組んで戦っていた。
 彼らの意識としては、主従関係ではなく、連合、合力である。
 福冨党においても、主従関係にある家臣は少なく、忠智には郎従の佐々木善兵衛・善右衛門父子と山下理右衛門、僕従の嘉平と佐吉だけが家臣であった。そのころの武将は支配地域の地侍を束ねて軍団を編成していたのである。したがって、地侍らの独立意識も強かった。
 新左衛門の発言には、このような背景があった。
「そこまで、言ったか、儂も、恥を曝したものよの」
「ところが、本音は別にあるようです。応仁元年に京で起きた大乱のとき、出征途上で遭難した都治宗行は百名ほどの将兵を率いていたということですが、都治に帰り着いたのは兵卒が一名だけで他は全員死んだそうにございます。そのため、都治郷には断絶した家も多く、跡目を継いだ兼行は、早急に軍勢を造りあげなければならないのに、肝心の人物がいないという状況らしゅうございます。ですから、雀部らのように、戦場で鬼神の働きをする武士が欲しかったようです。雀部らは、すでに持っていた領地に加え、都治郷の中で同じ広さの土地を合わせて与えるといった破格の条件で迎えられたということにございます。ですから、雀部らの領地は倍になったということです。なにしろ、都治郷には家が途絶えて、空いた土地が多いということですから」
「なるほど、もっともらしい御託をならべたが、所詮は食い扶持の多いほうに鞍替えしたということか」
「もうひとつ、都治兼行が兵を興して、この四ッ地蔵城を攻めると言ったのは、どうも、雀部らの旗幟をはっきりさせるための計略だったらしいという噂があります。都治に付くと言いながらも煮え切らない雀部らを引き込むために兵を興したということのようです。はじめから出陣する意思はなかった。たとへ四ッ地蔵城へ攻め寄せても勝ち目はないとみていたようです」
「だが、松村どのは都治からの破格な好条件による勧誘を一切断ち切って、福冨家に残った。実に、義理堅い武人です」
「大切にしなければならない、御仁だ」
だが、六人もの家臣に陵辱された忠智は、終世拭い去ることのできない懊悩を負うこととなったのである。


 一ヵ月後、福冨党の再編を完了した忠智は、理右衛門を連れて温湯城へ報告とお礼に行った。
 御屋形から給わった所領と家臣を三割も失ったにもかかわらず、なんの叱責も受けなかった。そればかりか慰めと激励の言葉をいただいた。
 さらに、阿波から来た三人の家臣をつけてくれた。
 忠智と理右衛門は、心の底から湧きあがる安堵感をかみ締めながら下城した。

 

 娘が一人、大門の柱に寄りかかるように立っていた。背を向けている。地侍の娘らしく地味な服装で旅の身じたくをしている。
―遠方から来たのかな。
 と思ったが、別に不審なようすはない、黙って通りすぎた。
「父上」
 はっとして、振りかえった忠智が絶句した。
「なんと…・・姫さま」
 理右衛門と嘉平が、あわてて膝を地につけて叩頭した。
 驚愕する忠智と理右衛門を尻目に、
「どお、この姿、似合うでしょ」
 にこにこと破顔する鶴姫の瞳がいたずらっぽい。
「どうなさったのですか、そのいでたちは」
「浅利へ行くのです。おいしい魚を食べに」
「それはもう、いくらでも…・ですが、御屋形さまに、お許しをいただかないと…」
「それには、およびませぬ、わたしから、お許しをいただきました」
 もう、軽やかに飛びはねながら歩き出している。
「父上とお呼びになるのは、ご容赦ください。御屋形さまに叱られます」
「伯父さまは、ご存知ですよ。『七郎左衛門には感謝している』とおっしゃいました。それに、『いつでも、行くがいい』と」
 鶴姫が、言葉の最後の『と』を、ことさら強調した。
「それなら、お乗り物を」
「だめ、のんびりと歩いて旅をする楽しみを教えたのは、父上でしょ。それに、輿は窮屈で身体の節々がいたくなる」
 腰の後ろで両手を組み、胸を張って忠智を見つめている、瞳がきらきらと輝いていた。十三歳とはいえ、まだ、少女の面影を残した小娘だ。
「参りました。それでは、短い旅ですが、楽しく行きましょうか。そうですの、まず、甘南備寺へ行って、姫さまご両親さまの供養と石見・小笠原家先祖さまへの挨拶をして、今宵は、甘南備寺に泊めていただきましょう」
忠智が、馬を轡取りの嘉平に渡して浅利へ先行させた。
「お寺に泊まるのですか」
 鶴姫が、眼を輝かせている。
「阿波からの帰りには、泊まったですな」
「どことなく心が満ちてくる、それが、お寺ですよね。朝、暗いうちから勤行にたたき起こされるのがなければ、なお、いいところです」
 鶴姫が、肩をすぼめた。
「甘南備寺は戒律の厳格な寺で女人禁制でございます。泊めていただくのは、寺の麓にあるそれがしの弟の家になります」
「弟さまですか」
「はい、それがしの弟が海商を営んでおりますので、江川の主要な湊には店や屋敷を持っております。今宵は、そこに泊まり、明日には船で下りましょう」
「うれしい。早く船に乗りたい」
「ひとまず浅利へ、お連れして…・そうですの、温泉津(ゆのつ)温泉へ行きましょう。それには、妻のしのも一緒に行かせていただきます」
「ゆのつ温泉ですか」
「温泉の湧く湊の意味で温泉津と書きます。今から一千年も前に、たぬきが入浴していることから発見したということです」
「狸ですか」
「そう、たぬきです。怪我をした狸が湯治していたということです」
「面白そうですね、ぜひ行ってみたい」
「そうそう、うまく風が合えば船で温泉津まで送ってもらいましょう」
「船」
「瀬戸内を渡ったときのような、あんな小さな船ではありません、あの数倍も大きい船です。明国や朝鮮までも行っている船です」
「楽しみ。父上、はやく行きましょう」
「じゃー、それがしが先行して、お寺にお願いしておきましょう」
 理右衛門と嘉平が、気を利かしたつもりであろう、逃げるように、二人を残して行った。
 紺碧の空にそびえたつ柿の木は、すっかり落葉し、あかく熟した実が大門の横で鈴なりになっていた。