福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

丸山城

 天文十二年(一五四三)に種子島へ上陸した鉄砲も天正のころになると、戦場での重要な兵器となっていた。

 御屋形(小笠原長旌(ながはた))の居城彌山城では、鉄砲に対する防禦に不安がでてきた。

 天正十年(一五八二)初春から天正十三年(一五八五)七月までの三年を費やして邑智郡三原村の丸山(四八〇メートル)に要害を築き、四国遠征から帰国した八月、居城を移した。丸山城である。その規模は東西二ヶ所に大門があり、掘矢倉は三重となって、高石垣の上に馬場あるいは塀、櫓を構え、要所には切通し櫓を建てた。

 中国地方無比の名城月山富田城をしのぐほどの城となった。これほどの城を三年もかからずに完成させたのは、小笠原家臣団には春昌のような城持ち武将が多く、各々が寄り集まって築城したからである。それに長年にわたって銀山を領していたころの蓄えがあった。銀を手にしていた強みであった。

 天正十三年八月丸山城入城当時、小笠原長旌の領地は、次のとおりであった。(『島根県史』)

一、三原四ヵ村(田数八十四町六反半三升 この六百六石七斗八升)

一、上下湯谷村(田数三十町八反九十歩 この取米二百八石五斗)

一、三又村(田数十八町六反三百十歩 この取米百五十一石六斗三升)

一、同 (田数四十四町九反大四升 この取米三百石四斗一升)

一、下君谷村(田数四十四町半十歩 この取米二百八十七石九斗六升)

一、下君谷分郷(田数四町六反三百三十歩 この取米二十五石三斗七升)

一、川下り村(田数五十四町三反大五升 この取米三百八十七石二斗九升)

一、川本村(五十六町三反歩 この取米三百九十九石三斗)

一、井原村(井原丹後守より入 田数、取米不明)

一、上日和村(井原丹後守より入 田数、取米不明)

一、大貫村(田数一町五反 この取米四石三斗三升)

一、谷村(田数七町四反半三十歩 この取米四十七石三斗)

一、住郷村(田数十二町一反三百五十歩 この取米六十五石九斗一升)

一、南川登(田数四十七町九反四十歩 この取米三百四十五石一斗三升)

一、北川登(五十七町六反半九升 この取米三百二十三石二斗三升)

一、下川戸村、上川戸村(永銭四十五貫文)

一、八神村、大田村(永銭三十貫文)

一、田野村、千金村(永銭七十貫文)

一、浅利村(永銭十七貫文)

一、佐野村(永銭百十五貫文)

一、長安七ヵ所(百十九貫文)

一、下都冶村(田数二十四町七反六升 この取米百十八石四斗)

一、福光之内(田数六町三反六升 この取米五十九石六斗)

同じく福光之内(田数四十二町四反少三升 この取米三百三十六石九斗)

一、井尻村(田数四町四反 この取米二十七石六斗一升)

一、福田村(田数十七反少三升 この取米七十石三斗六升)

一、横道村(田数十三町二反半三十歩 この取米九十六石四斗四升)

一、大宮村(田数百六十五町八反歩 この取米千百六石七斗)

一、租式村(田数二十五町二反大二十歩 この取米百六十五石八斗五升)

一、白圷村(田数二十三町四反少三升 この取米二百六十九石七升)

一、三楠村(田数二十三町四反少三升 この取米百七十七石四斗)

一、佐摩村(田数三十八町三反半 この取米二百五十一石八斗七升)

一、赤波村(田数七町五反大三升 この取米四十二石六斗) 

一、市ノ原市(田数三十七町六升 この取米二百五十一石五斗二升)

一、久利村(田数、取米不明)

一、松代村(田数、取米不明)

一、川合村(田数五十七町二反三百四升 この取米三百八十一石六斗三升)

一、吉永村(田数六十七町二反 この取米四百六十石八斗)

一、延里村(田数、取米不明)

一、鳥井村(田数三十七町一反歩  この取米二百二十七石四斗八升)

一、大田南村(田数百三十一町九反半五升 この取米九百五十石七斗五升)

一、出雲国(永銭五百貫文)

 総計一万七千石ほどである。

 その所領は、江川以北、川本から大田、西は江川流域一帯から大田までという広範囲なものになっていた。

 

長宗我部(ちょうそかべ)征伐 

 天正十二年(一五八四)四月、羽柴秀吉徳川家康による小牧長久手合戦のさなか、徳川家康長宗我部元親が同盟を結んだ。

 同年九月、長宗我部元親が伊予に侵入してきたため伊予の河野通直と毛利連合軍が圧迫されてきた。

 この結果、河野通直が確保するのは湯築城のみであり、実質的には元親が四国全土を平定したのである。

 

 十一月十五日(新暦十二月十六日)、羽柴秀吉織田信雄の間で和睦がなり、小牧長久手合戦が終了した。

 秀吉は小牧長久手合戦で家康に加担した紀州根来寺、太田党、雑賀党と四国元親征伐に着手した。

 

 天正十三年(一五八五)三月、根来寺を焼き払い、四月には太田党、雑賀党を滅亡させた。この紀州攻めには毛利水軍も参加したが春昌は出陣しなかった。

 

 五月初旬、吉川元春、元長父子連盟による出陣命令が小笠原長旌のもとに届いた。四国遠征である。

 四ッ地蔵城の厩で轡(くつわ)取りの弥助が軍馬の蹄(ひづめ)を削っている。馬が暴れないように一頭づつ畳一枚ほどの木枠の中に入れて片足ずつ手際よく削っていく。

「殿の馬は気が強いから蹄を削るのも大変です。これをしないで遠距離を歩けば蹄が割れて、苦しむのは己なのに」

 弥助の顔から汗が玉になって流れていた。

 隣の納屋では、女らが「キャッキャッ」と騒ぎながら藁で草鞋を作っていた。

 その後方には大小さまざまなが無造作に積み重ねられている。

 草鞋は人間だけのものではない、馬による長距離の遠征には、蹄を保護するため馬の草鞋も必要なのだ。

 家士の山下重郎左衛門が郎従を使って弓の弦を張り替え、鉄砲の玉薬を調合しやすいよう分別袋詰め作業を行なっている。

「湿気にやられないようにしろよ」

 こまかく作業の指示をだしている重郎左衛門が、ふと振り向いたところに春昌がいた。

「殿、初陣ですなー」

「なにを言うか、初陣は、とっくの昔に済んでるぞ」

「今までは、大殿と一緒でしたから、実質の初陣は大殿が出征されないこの度の戦でしょう」

「そうだ、父上は今まで幾多の戦に出られたが、その剣技に敵う者はいなかった。強かった」

「そうですなー、剣士である大殿には、対手も子供のようにあしらわれていた」

「殿も大殿の技量を受け継いでおられますから、心配はしていません。それにしても、四国とは、遠いですなー」

「そーだの」

「それにしても…・紀伊根来衆や四国の長宗我部にしても、徳川家康に加担したから秀吉に攻められることになった。家康が情ある武将なら、当然、根来衆や長宗我部を助けるはず…」

「でも、根来衆は見捨てられた。長宗我部もそうなるのでしょうか」

「いや、家康は恩義を感じていないだろう、家康は織田信雄の手伝いをしたにすぎない。秀吉と戦ったのはあくまで織田信雄だ。だから信雄が秀吉と講和してしまったとき、さっさと手を引いたのだ」

「家康は根来衆や長宗我部を助ける義理がないということですか」

「名目はそうだろうよ。実態は家康と秀吉の戦いだ」

「そうですの、家康としても、もはや秀吉に敵わない。己を犠牲にしてまで助けようとはしないでしょうの」

 

 六月十六日(新暦七月十三日)、長宗我部元親征伐のため、羽柴秀長を総大将とする大坂の軍勢三万が堺の湊から出陣し、淡路の洲本に上陸した。秀吉の甥羽柴秀次率いる近江、丹波勢三万は明石から淡路の福良に着いた。ここから両軍合わせて六万が八百艘の船で鳴門海峡を渡り、阿波の土佐泊(鳴門港)に上陸した。これに合わせて、播磨からは宇喜多秀家蜂須賀正勝黒田孝高ら二万三千人の軍勢が讃岐の屋敷(屋島)に上陸した。

 さらに、毛利輝元小早川隆景、吉川元長ら三万余を率いて伊予への侵攻を開始した。

 全軍あわせて十二万の大軍が、阿波、讃岐、伊予の三方から長宗我部元親に襲いかかったのである。

 これを迎え撃つ元親の軍勢は約四万しかいない。

 東伊予の宇摩、新居二郡の平定を担当することとなった毛利勢が、上陸地とした東伊予は金子、高尾両城を支配する金子元宅が海岸に逆茂木、乱杭を備え上陸を阻止していた。

 毛利勢は新間(新居浜)沖に軍船を碇泊させ、敵方を圧迫しながら上陸を窺っていたが、七月二日(新暦七月二十八日)と三日にかけて一気に上陸した。

 ただちに二隊に別れ、毛利隊は西進して岡崎城を攻略し、高木を通って松本に入った。

 小早川、吉川隊は海岸を東進してその日(七月二日)のうちに、黒川広隆の丸山城を潰し、磯浦の名古城、御代島を制圧したあと毛利勢と合流して金子城を二重、三重に囲んだ。

 毛利勢らは戦闘開始の法螺貝、陣太鼓を合図に鉄砲、弓矢の一斉射撃で戦端を開いた。

続いて将兵が槍や白刃をかざして突撃した。

 城将金子元春は、兄の金子元宅とともに剛将の名をとどろかしている。

 その家臣も命より義を重んじ、名を大切にする士ばかりであった。数十倍もいる寄せ手をものともせず鉄砲で反撃してくる。さらに、凄まじい闘争心をあらわに城外へでて死ぬまで戦う。

「ものすごいのー、死を覚悟した兵ほど強いものはない」

 毛利勢は敵兵の熾烈な反撃に舌をまきながらも、圧倒的多数の強みで次ぎから次ぎへと新手を繰り出し徐々に追い詰めていく。

 七月十四日(新暦八月九日)、ついに、金子元春を討ちとって落城させた。

 金子城を陥落させた毛利勢は、その勢いをもって金子元宅の高尾城に押し寄せた。

 七月十七日、早朝から両軍の凄絶な戦いが繰り返され、籠城将兵の一族郎党全員が討死した。

 金子元宅は十数名だけ残った将兵とともに、小早川勢のまっただなかに切り込んで修羅のごとく戦い、力尽きて動けなくなると自刃した。

 金子元宅の戦死により土佐方に与していた諸城は次々と毛利の軍門に下った。

 いよいよ、阿波白地城に籠る長宗我部元親との直接決戦である。毛利勢は怒涛の勢いで阿波に詰め寄った。

 一方、四国攻略軍総大将羽柴秀長と秀次勢六万は播磨から讃岐の屋敷(屋島)に渡り高松城をあっという間に潰した。

 その後、宇喜多勢二万三千と合流して阿波の木津城を攻略した。

 七月十五日(新暦八月九日)、攻略軍は三隊に別れて秀長は一宮城を、秀次隊は岩倉城、宇喜多隊は、海部城を包囲した。いずれも白地城の防禦線に構えた城である。

 秀長は本陣を辰ノ山に置き鮎喰川を挟んで一宮城攻略にかかった。一宮城には、元親の重臣谷忠澄と江村親俊が五千の兵で籠り、五万の攻城軍をはねのけていたが、水路を断たれたため降伏した。

 長宗我部元親の白地城へ東からは羽柴、宇喜多軍が吉野川を伝って迫り、西からは毛利両川軍が長宗我部方諸城を蹴散らしながら切迫している。 

 徳川家康は長宗我部を助けようとしなかった。

 八月六日、ついに谷忠澄の仲介により長宗我部元親が降伏した。

元親は伊予、讃岐、阿波の三ヵ国を没収された。そのうち、伊予(三十五万石)は、小早川隆景が拝領した。

 四国征伐のさなかの七月十一日(新暦八月六日)、羽柴秀吉が関白に就任し、さらに九月九日(新暦十月三十一日)には豊臣姓を勅許された。

 十月二日(新暦十一月二十三日)、秀吉は、島津氏の圧迫に耐えられなくなった大友宗麟の哀願を受け、島津氏に大友氏との講和を命じた。島津氏は、これを一蹴し九州制覇の北上を続けていた。

 

 

5代・福冨七右衛門尉藤原春昌

小笠原家臣団

 

 天正十二年(一五八四)春、毛利氏と羽柴秀吉の講和がなり、毛利軍諸将は鉾を収めてそれぞれの自領に帰っていった。

 秋、四ッ地蔵城にも、つかの間の平穏がもたらされていた。

 明尊から御屋形(小笠原長旌)に願い出ていた嫡男春昌への家督継承が認められた。

 春昌が福冨七右衛門尉を拝命し、仕官することとなった。

 この時期、小笠原長旌の家臣団は、次ぎのとおりだった。『大丸山伝記』

小笠原兵庫頭源長秀(長旌の弟・次男)、小笠原掃部介源元枝(長旌の弟・三男)、小笠原都冶少将源元長(元枝の長男)、小笠原駿河守源元春(元枝の次男)飯田白翁院、

寺本土佐守、坂根筑前守、平田丹後守、平田加賀守、平田若狭守、井原丹後守、井原長門守、尾崎佐渡守、尾崎但馬守、窪田但馬守、原但馬守、小田對馬守、大谷遠江守、田儀遠江守、大久保備前守、金田越前守、山縣備後守、羽隅豊後守、福原山城守、大島和泉守、吉田阿波守、横道石見守、金子修理太夫、三浦善太夫、松田主膳、丘主膳、長道外記、鳥井式部、横道帯刀、

山下彦右衛門尉、福井杢衛門尉、福冨七右衛門尉、福田亀右衛門尉、高橋籐右衛門尉、鎌倉宇右衛門尉、仲間久右衛門尉、丘田勘解由兵衛尉、波多野十郎兵衛尉、小原十郎兵衛尉、三上重兵衛尉、野田三郎兵衛尉、赤田権太左衛門尉

山田彦太郎、安邊孫次郎、井原孫三郎、坂根小三郎、立野彦三郎、山田新四郎、志谷源四郎、松本彌四郎、松島助四郎、羽根善四郎、松前源五郎、福原源五郎、有山源八郎、田原八郎、浦島九郎、田原重郎、武田十郎、塩田十五郎、高井又次郎、川上又五郎、馬場又八郎、

塩田又十郎、馬木彦七、樋口源内、尾崎源次、仲間籐次、本田兵衛、本田兵六、安田兵六、

佐々木源蔵、丘本大蔵、有馬兵蔵、今井平蔵、野瀬半蔵、福屋縫殿之介、金坂掃部之介、

山崎左京之介、原釜左京之介、熊谷木工之介、松井辧之介、丘兵部之介、渡邊能登之丞、

兼富次郎之丞、市川三郎之丞、小畑四郎之丞、青木五郎之丞、窪田市之丞、

樋口次郎丸、三宅六郎丸、和田七郎丸、三田七郎丸、平井九郎丸、金田宋彌、

 以上のとおり、小笠原家臣団の勇将は約百名であり、各々の郎党を加え、戦のときに臨時に集める足軽を加えると一千五百から二千名ほどの兵団となる。

 当時、群雄割拠する石見の豪族らも、ほぼ互角の勢力であった。

 

 

山崎屋敷 

 

 石見の国人衆すべてが毛利氏に臣下してからは石見国内での戦はなくなった。

 もはや、四ッ地蔵城も要害としての役目を終わり居館の機能しか果していない。

 しかし、小笠原軍団としての四ッ地蔵城だ、独断で取り潰すことはできない。

 明尊は四ッ地蔵城を嫡男昌康にまかせ、福光下村(しもむら)の所領に隠棲することとした。

 福光湊から福光川沿いに東へ十町(約一キロ)ほど入った地の、低い山の麓に屋敷を建てた。妙見山と呼ばれるこの山は、お椀を伏せたように南へ突きだしており、日本海から侵入する外敵の一次防禦線として構えた城(妙見山城)がある。しかしここも、閉められたままである。

 妙見山の南麓に広がる屋敷を凹字型の濠で囲み土居を築いた。(この濠は、徳川時代なってから灌漑用の溜池となる)

 福光下村のほぼ全域を領する福冨七郎左衛門にふさわしい壮大な屋敷となった。

「福光は良い、朝から晩まで日が当たる。」

 明尊が気にいっているように、南向きに建てた山崎屋敷の前を、左から右手へと太陽が通りすぎる。一日中さんさんと照りつける太陽の恵みを受けて稲穂はふくらみ旨味を増す。

 狭い谷間で日差しがあっという間に通りすぎる浅利村の稲とは各段の差がある。

 家督を昌康に譲ったあとは、この地で隠棲したいと、常々思っていた。

 下村は福光のほぼ中央を東から西に流れる福光川右岸全域にあたる。現在の市地区から森分地区、そして釜野地区にいたる広範囲であった。

 現在、森分地区と市地区の境目に日露戦争以来の戦没者を追悼する忠魂碑が建っている。この前方に広がる荒地が山崎屋敷跡である。

 現在、濠や土塁といったものは何も残っていないが、昭和四十年代はじめのころまでは、屋敷の東端に濠の一角が一畝(三十坪)ほどの畑となって残っていた。畑から見上げると石垣が二メートルほど築かれ、そのうえに土盛の屋敷跡があった。

 屋敷跡一帯の地名を土居といい、屋敷跡を山崎土手という。わずかに、残った地名が当時の隆盛を偲ばせるのみである。

 

福冨七郎左衛門(七右衛門)尉藤原明尊

元和七年(一六二二)六月二十九日(新暦八月六日)卒

戒名松翁道林居士 

 

 

 

鳥取城

 天正九年(一五八一)二月二十六日(新暦の三月三十日)、村のあちこちに咲き始めた桜が、うららかな春びよりを喜ぶように美しさを誇示している。

 この日、羽柴秀吉因幡侵入を阻止するため鳥取城督となった福光物不言城主吉川式部少輔経家は、朝枝加賀守、山縣筑後守、森脇内蔵大夫、野田左衛門尉、今田孫十郎、ら軍勢四百人とともに鳥取へ向った。

 村の中は出征する将兵や見送る村人でごったがえしている。

 歓声をあげ、兵らを激励していた村人は突然、言葉を失った。颯爽とした笑顔で馬上に跨る若殿の後ろから追従する小者が首桶を奉げ持っている。

 わずか三十五歳でありながら家督を嫡男に譲り、自分の首桶を持参しての出征である。

 村人の顔から笑顔が消え、道端に土下座して無言で見送るばかりとなった。

 

 天正九年(一五八一)三月十八日(新暦四月二十一日)、鳥取城に入城した経家は、あまりにも少ない兵糧に愕然とした。城兵千四百人余りに対して二、三ヵ月分しかない。

 吉川元春に糧米の補給を要請するとともに、海からの食糧確保のため、城と加露港との中間に丸山城を築いた。ここには、塩冶周防、佐々木三郎左衛門、奈佐日本助、山縣左京と吉川元春から派遣された堺與三右衛門らを詰めた。

 しかし、秀吉の戦法は経家のそれをを上まわるものがあった。経家は鳥取城に入城したとき戦の出発点であったが、秀吉はそれよりはるか以前から鳥取周辺の米を高値で買いあさった。さらに戦が始まると周辺の住民に危害を加え城内に追い込んだ。長期包囲戦を着々と進めていたのである。

 

 七月五日(新暦八月四日)、羽柴秀長藤堂高虎以下三万の先鋒隊が丸山東方の吹上浜へ上陸、丸山城と対峙した。

 七月十二日(新暦八月十一日)未明、羽柴秀吉鳥取東北の高山(二五二メートル・現在の太閤ヶ原)に本陣を置き、鳥取城の前面を流れ外堀の役割りをなしている袋川筋に浅野矢兵衛、中村孫平次、蜂須賀家政、小寺官兵衛らを配し、雁金山には、宮部善乗坊、垣屋駿河守らが陣を敷いた。また、海上は、荒木平太夫らが数百艘の舟で固めるという徹底した包囲網となった.

 秀吉軍は城の周囲三里四方に尺搆を結び、河岸には乱杭を打ち、逆茂木をひき、水底には縄網を張って鳴子をつけるという徹底した包囲網を敷いた。

 城外へ出そうとした伝令は、ことごとく捕まって殺された。

 兵糧補給もかなわず、城内の食糧は欠乏してきた。 

 

 鳥取城の惨状は、明尊にも密偵により刻々と知らされてくる。想像を絶する飢餓に襲われているらしい。

「城は、二重、三重に包囲され、城を取巻く敵の陣は篝火を煌煌と燃やし、まるで夜がないようでございます。その為、儂らは城に近づくことができませなんだ。包囲勢に紛れて城内を覗いますと…。食べ物もないようで、飢えから柵の近くに出た者は、包囲勢から狙い撃ちされて…・斃れた者を、他の者がむしゃぶり食うという惨状でございます」

―早く、救援隊を出さなければ…。

 明尊らに転進の命令が来ない。

―毛利さまや吉川(元春)さまは何を考えているのか。

 こうしてもたもたしている間に手遅れになってしまう。

 明尊と吉川経家とは所領が同じ福光郷にある。

 だから、人ごととは思えない。

「何をしているのだ」

 明尊には理解できない。はがゆさで奥歯がきしむ。

 だが、毛利、小早川は、東から宇喜多秀家、西から九州の大友宗麟に隙を狙われて動けない。

 鳥取城は全員が飢え死にする様相を呈しているという。

 柵近くへ出て秀吉軍に狙い撃ちされた兵を、他の兵らが群って食べている。

 ついに、吉川元春鳥取城救援に踏み切った。

 明尊ら小笠原隊も出陣である。

「秀吉五万の兵に、わずか六千で何ができるというのか」

輝元、隆景が制止した。

「剛直な性格をもつ経家は、敗け戦となれば自殺をもって責任を取るであろう、死なせてはならない」

 元春は輝元、隆景の制止を無視して出発した。

 明尊らは今まで救援に駆けつけなかった己を恥じるように道を急いだ。

 十月二十五日(新暦十一月二十一日)、伯耆因幡の国境に近い馬野山に陣を構えた。

 明日には鳥取城を囲む秀吉軍と決戦になるだろう。明尊らは、敵の十分の一しかいない軍勢で決戦を挑まなければならない。兵らは、どことなく無口である。明日の苦戦を想定してのことだろう。

―ものごとを想像によりくよくよするのはやめよ。

 明尊は兵らに言いたかったが、兵らも声に出しているわけではないと口をつぐんだ。

 

 その夜、骸骨のごとく痩せた難民が、ぞろぞろと這うように歩いてきた。

 木の枝や竹を杖に、歩くのがやっとという体である。

 よく見ると、見覚えのある顔が多い。それにしても、哀れな姿に変わり果てていた。肉は削げ落ち骨に皮が張りついているだけだ。頭髪はほとんどが抜け落ち、皮膚はかさかさに乾いて皺だけとなり、まるで老人になってしまっている。

―物不言城の衆だ。

 なんということだ、鳥取城は落城したという。

 吉川経家は人肉までも食うという目も当てられぬ城内の惨状に、自分の命を犠牲にして兵を助ける決意をした。

 十月二十五日(新暦十一月二十一日)寅刻(午前四時)、経家は静間源兵衛の介錯により自刃した。

 

 籠城の兵らは、経家の仁愛に泣き、

「申し訳ありません、申し訳ありません」

 呪文のように繰り返している。

 明尊は経家が物不言城を出陣したとき、追従する兵に持たせていた首桶を思い出していた。そのとき経家の覚悟のほどを知らされた明尊であったが…・・

「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」

 御大将の冥福を祈る唱和が周辺に広がって行く。

 明尊も脳裏に去来する経家の勇姿に頭を垂れ、粛然と合掌した。

 経家は、ほとんど戦らしい戦をせずに破れた。しかし、経家の、あまりにも武士らし  、いさぎよい最後に、敵味方一同が感泣した。

 

 二十七日(新暦七月二十三日)、吉川元春が陣を敷いている馬野山の、すぐ目前にある御冠山から羽衣石山城にかけて秀吉軍三万が進出してきた。

「速い」

 ぞくぞくと集結している秀吉軍の動きは素早く、統一がとれている。たちまち攻撃態勢に入った。最前線に展開する鉄砲隊だけでも三百人はいる。

 秀吉軍からみれば、六千の吉川勢なんて、たちまち潰せると思っているだろう。

馬野山は低く、山というより丘である。北には日本海が迫り、南は東郷池、背には橋津川が流れている。

「こんな所で、三万対六千の軍勢では勝負にならん、たちまち吉川勢が壊走してしまう」

 吉川勢に動揺が、いる。

「橋板を外せ、橋板を外せ」

 吉川元春の伝令が走ってきた。

「なんだと、橋板を外せだと」

「逃げ場が無くなるではないか」

 三万の敵が一気に攻めて来たなら、川に追い落とされてしまう。古今来の兵法では最も危険とされている。

東郷池の舟もことごとく放り離したらしい」

日本海の橋津に停泊している舟も陸に上げたぞ」

「なに、われわれの警護のため来た舟をか」

「そればかりではない、それらの舟の櫓や櫂をことごとく壊したらしい」

 吉川勢がざわめいている。

 背水の陣を敷いたのだ。

 秀吉軍が動き出した。

吉川勢めがけて進んでくる。

「急げ!橋板を外せ」

「前面に立てて、玉避(よ)けとせよ」

 伝令が走る

 吉川隊将兵に動揺が奔っている。

 後退する道も無く左右逃れる方法も無い。そのうえ、海上に出る術も絶たれている。

―もはや、命を限りに戦うしかない。

 退路を断った吉川勢が、まなじりを決して迎撃態勢を組む。

「式部少輔経家さまの弔い合戦ぞ」

 逃げられないのがわかると、ふしぎと気が落ち着いてきた。六千の兵が一丸となって秀吉軍と戦うしか活路はない。

 吉川勢に気迫が満ちてくる。

 秀吉軍の動きが止まった。 

「さあ来るぞ」

 明尊らは白刃をかざして待ち構えた。

 ところが、対峙したまま止まっていた秀吉軍が引き上げていった。

 経家の弔い合戦に命を賭けている吉川勢と戦っては、味方の被害も大きくなる。

 すでに鳥取城を手に入れている秀吉は、これ以上の戦いをする必要もなかったのだ。

 元春が執った背水の陣は、元春の武名とともにとどろきわたった。

 京、大坂では、囲碁や将棋で、思い切った覚悟をすることを「吉川、橋を引きたる所業をなせり」と言う流行語となった。

 吉川経家の最後については、経家が残した五通の遺書及び経家の小姓として籠城した山縣源右衛門尉長茂の手紙によって明らかにされている。(石見吉川家文書)

 

 織田信長の毛利領侵食に容赦はない。

 

 天正十年(一五八二)三月、甲斐国では、織田軍の滝川一益に包囲された武田勝頼が甲斐天目山のふもと田野において自殺した。鎌倉以来の名門武田氏も滅亡した。

 

 五月七日(新暦五月二十八日)、備中高松城が秀吉に包囲された。

 高松城は岡山平野の真中に位置する平城である。足守川と沼沢池に囲まれ、いざというときには城に通じる橋を落とせば、城は浮島となって攻めることができない堅城である。

 高松城を守る清水宗冶も吉川経家に劣らぬ猛将である。

 死守する覚悟で籠城に入った。

 石見、出雲の兵からなる吉川軍一万二千も、ただちに高松城救援に向った。

 五月二十五日(新暦六月十五日)、織田軍先鋒・宇喜多勢二万により攻撃を開始したが、数百の犠牲を払って後退した。

 高松城を攻めあぐねた秀吉は水攻めに切り替えた。

 五月八日から足守川の堰止め工事を開始し、わずか十九日間で幅十間、高さ四間、長さ二十六町(約二・八キロメートル)におよぶ大堤防を完成させた。

 梅雨の時期とあいまって、堰止められた水はたちまち高松城を孤立させた。

「なんと、沼のなかに水浸しの城がある。」

 応援に駆けつけてきた毛利軍は愕然とした。

 水びたしの城ではどうすることもできない。

 吉川元春は寺山に、小早川隆景は日差山に陣を敷いて秀吉軍と対峙したものの、無策な日ばかりが過ぎていった。

 そんなさなかの六月二日(新暦六月二十一日)、京都の本能寺で織田信長明智光秀に攻められて自刃した。ところが、毛利軍は、これを知らぬまま秀吉との講和交渉を続けていた。

 六月四日、羽柴秀吉毛利輝元との講和により清水宗治は自刃し、高松城が開城した。

 六月六日、秀吉は毛利軍の陣払いを待って、畿内への引きあげを開始した。

 まさにそのとき、毛利軍も織田信長が死んだという情報をつかんだ。

「だまされた。ただちに追撃して秀吉を討て」

 毛利軍がいろめきたった。

「待て、追撃はならん、武士が誓いを破ってなんとする。だまされたとあっても、誓いは守らねばならない」

 小早川隆景が追撃を止めた。

「ものすごい速度で、走っています。あれでは、まさしく敗走です」

「敗走…・」

 三万の秀吉軍が全速で走り去った。

「あれだけ素早く逃げ去っては、たとえ、追撃していても追いつけなかったでしょう」

「小早川さまの判断が正しかったということか」

「それにしても、秀吉のやることは凄い」

 毛利軍は、ただ舌をまくばかりである。

 

 天正十年(一五八二)六月十三日(新暦七月二日)、山崎合戦により羽柴秀吉明智光秀を破った。

さらに、翌年四月には賤ヶ岳で柴田勝家を破った。勝家は北庄で自殺した。

 七月、羽柴、毛利間の講和交渉が持たれた。

 十一月、小早川元総(秀包)と吉川経言の二人が、人質として羽柴秀吉のもとへ行くこととなった。

「これでは、敗北だ」

「秀吉との講和交渉にあたった安国寺恵瓊は、毛利元就さまに潰された安芸武田の子孫ではないか、毛利に恨みを持っているから、人質を出さなければならないようなことをしたのだ」

 明尊らは、切歯扼腕したが、如何ともしがたい。

 この悲憤は、経言自身も胸の内に秘めていることであった。二人は、秀吉から優遇され、元総は、秀吉から一字を与えられて秀包と改め、経言は、蔵人に任じられた。十一月、秀包を大坂に留め、経言の帰国を許したが、恵瓊に対する遺恨は消えることなく、やがて慶長の役関ヶ原の戦いへと尾を引くことになるのである。

 吉川経言の配下となって数々の戦場を走りまわった明尊らは、己の大将をとられる慙愧に苛まれている。

 平然とした態度で旅立つ経言を、明尊らは土下座号泣して見送った。

 経言には、小坂春信、二宮俊実が、元総には、桂広繋と浦兵部丞が随行して、案内の恵瓊とともに出立したのであった。

 

 そして、翌年(天正十二年)春、羽柴氏と毛利氏の講和が整った。

 

 天正十二年七月(一五八四) 主君小笠原長旌から嫡男昌康との面談が通知されてきた。

 かねてから小笠原長旌に申し出ていた昌康への家督相続願いの件である。

 昌康にとっては、初めての「お目見え」である。

「七右衛門の嫡男か、何歳になるか」

「二十七歳になりましてございます」

 昌康は、緊張で顔がやや青くなっているが慄然と答えた。

「七右衛門よ、槍の伝授は順調か。」

 小笠原長旌の質問に、

「それがしが、相手しましょう」

 応じたのは小笠原軍団戦(いくさ)奉行の大島和泉守である。彼もまた、『槍を持つと敵なし』といわれるほどの剛勇者である。

「ありがたきお心づかい」 

 明尊が礼を言ったので、昌康は父に合わせて平伏した。

 庭に下りると、和泉守は、

「よい」

 と言って、若者が用意した木槍を取らずに真剣を手にした。

 昌康も真剣を持って一礼すると槍を正眼に構えた。和泉守は、ゆったりと槍を構えているがその矛先は昌康の目を据射えている。

 静かに構えている槍の穂先に『大島さまの身体が隠れていく。』と、昌康は思った。それは、剣士重兵衛と毎朝行っている訓練のときにいつも経験していることである。同時に硬くなった心身から柔らかさが蘇ってきた。それを待っていたかのように和泉守の穂先が昌康の穂先を軽く二・三度突いた。

「さすが七右衛門殿、よくもここまで伝えられた」

 昌康から目を離さない姿勢のまま、和泉守が槍を収めた。昌康も正眼のまま数歩引き下がって丁寧に礼をした。

 明尊が笑みを浮かべて和泉守に目礼をしている。

「七右衛門よ、昌康への相続を許すぞ」

「ありがたきお心づかい」

「昌康、今日の対戦は、どう思うか」

弥山城からの帰途、明尊が言った。

「大島さまの姿が、師重兵衛どのと代わりましてございます。すると、気も落ち着いてきました」

「鍛錬の成果が出たということよ」

 明尊は、さりげなく言ったが、

―槍の穂先を数度合わせたのみで敵の技量が判るようになるには、幾度も戦場を経験せねばならない。

「大島さまともなれば、穂先を合わせただけで敵の技量は判るものよ。だがの、それも敵に殺意がある場合のことよ」

 敵に殺意がなければ技量なんて判るものではないが、大島さまは、それを承知のうえで、昌康を御屋形に推挙してくれたのだと、明尊は気づいていた。

「昌康、今後、真剣で立ち会ったら、対手か、己かいづれかが倒れるまで闘わなければならないということを肝に命じておけ。武士というものは滅多なことで他人に真剣を向けてはならないが、一度刀を抜いたら対手か己か、いずれかが死ぬまで闘わなければならぬぞ」

 いつになく厳しく言った。

 

 翌日、明尊は山田重兵衛に言ったものである。

「昌康を頼むぞ、こいつはものごとに熱中すると見境がなくなるからの、しっかりと駆け引きを教えてくれよ」

「それは、無理というものでござりましょう、殿のお子ですから」

「血は争えぬということか」

 重兵衛は口をとじたまま愛想をくずした。

 重兵衛の歯は、すでに抜け落ち、口元が大きく窪んでいた。

 

忍山(おしやま)の城

 天正七年(一五八〇)二月、毛利麾下の有力武将備前岡山城宇喜多直家が離反し、織田信長についたことが確実となった。 

 宇喜多直家備前、備中と美作の一部を支配する大名であり、毛利にとっては重大な損失となる。

 毛利輝元は宇喜多の領国を攻略するため、吉川元春と元長(嫡子)、経言(三男)小早川隆景ら四万騎でもって美作に出陣した。

 毛利軍は芦田太郎の守る小寺畑城(真庭郡久世町)へ押し寄せ、二月十二日に強襲で攻略した。

 強襲は力と力の正面衝突である。それだけに攻撃側の被害も大きい。それをあえて決行した輝元の凄まじい闘志に、随従する諸将らも命をすてる覚悟を決めざるを得なくなった。

 小寺畑城を一蹴した毛利勢は、その勢いにのって十六日には大寺畑城(真庭郡久世町)を取り囲んだ。この城には、宇喜多直家の婿江原兵庫助親次と羽柴秀吉から派遣された兵らが籠っている。

 毛利勢は高田城(岡山県真庭郡勝山)に本拠を置き、毛利家の旗本衆と小早川勢で一隊を組み、もう一隊を吉川勢として左右二手に分れて布陣した。

 明尊ら小笠原隊は砥石山の尾根に広がる城をめざして進撃していた。

 そのとき、城を捨てて逃げようとする兵がバラバラになって下りてきた。

「敵は逃げる気だ、一人も逃がすな。」

 吉川勢が敵兵を追い詰めて討ち取っていく。たちまち数十人を討ち取った。

「さいさきいいぞ、敵を軍神の血祭りにあげろ」

 明尊らは勇躍している。城からでてきた敵兵は、あわてて城内へ引き返している。

 明尊は敵兵にまぎれて城内へ侵入しようとしたが、いま一歩のところで間に合わなかった。

 城門が閉められ、至近距離から狙い射ちする敵の矢に味方が次々と斃れた。

「退け退け」

 あわてた攻城軍が矢の射程距離外に退いた。

 その夜半、籠城していた楢崎弾正が毛利軍に内通し、城内の家屋に火をかけて攻城軍を城内に引き入れた。

 このため、毛利勢の猛攻に耐えられなくなった江原兵庫助らが篠葺の城(真庭郡久世町)へ逃げたため、大寺畑城は毛利のものとなった。二月十七日のことである。

 篠葺城の宇喜多勢は寄せてくる毛利勢を見ると、一戦もせずに備前めざして逃げ去った。

 これをみた岩屋城の連中も高田川対岸の宮山城へ逃げ去った.

「次ぎは、宮山城だ」

 毛利勢は破竹の勢いで旭川を渡って宮山城(落合町高田)を包囲した。

 宮山城には市三郎兵衛とその嫡子・五郎兵衛、葦田太郎ら三千人が籠って、激しく抵抗してきた。数日間の小競り合いのあと、こう着状態になった。

 そんなある日、毛利勢は宮山の里にある温泉で湯浴みの毎日を送っていた。ところが入浴中の者を討ち取ろうと城方がでてきた。

 毛利勢も江田新右衛門、山県源右衛門らが鉄砲を持って助けにでた。

 城方は、さっと退いて竹林の中の民家に籠り毛利勢を待ちうけた。

 さらに、城から応援が出て七、八百人ほどになった。

毛利勢は吉川元長自らが一千騎を率いて、民家に籠っている城方を攻撃した。

城方は散り散りになって城に逃げ入ろうとする。毛利勢が追撃して城門の前まで押し詰め柵を切り破った。城中から厳しく矢で反撃してくる。

 至近距離での狙い撃ちに、明尊らはうつ伏せになって矢を避けるのが精一杯となっていた。

もはや、退くこともできない、矢の間隙を衝いて突入するしかない。

 矢がバシッバシッと甲冑に突き刺さる。あちこちで悲鳴があがる。

「井下左馬允さまがやられた」

「森脇弥五郎さまをお退げしろ」

 すぐ近くで、続々と負傷者が出る。

―なんとかしなければ。

 明尊は這いながら徐々に登っている。周りの将兵も必死の形相で城をめざしている。

―一番乗りは、儂がとる。

 明尊が気を奮い立たせて、突入しようとした、そのとき、

「小笠原次郎右衛門さまがやられた」

 明尊のすぐ横で、悲壮な声があがった。ギクッとして振り返ると、小笠原隊の将兵

 次郎右衛門を中に円陣を組むところであった。

―命には別状なさそうだ。

 明尊はホッとして円陣に加わった。

「伏せろ」

「伏せろ」

 下から吉川元長の大音声が響き渡った。

 明尊らが地に伏せると同時だった。

 ドドドンと鉄砲の轟音が山を揺るがした。後方から城をめがけての一斉射撃であった。

 明尊は、頭を地につけて目をつむった。

「儂らの後ろから撃つなんて殺生だぜ」

 小笠原隊は、しきりにぼやきながらも這いつくばっている。

 頭上を通過していく玉の音がピュウと耳に入ってくる。

 連続しての射撃に、敵が総崩れとなって逃げ始めた。

明尊らは、やっと敵の矢から開放された。

それーとばかりに城内へなだれこんだ。

宮山城もついに落とした。

 ここで、毛利軍はひとまず解散して、明尊ら小笠原隊も石見へ帰ってきた。

 

 十月下旬、吉川元春小早川隆景の連絡を断つ作戦にでた宇喜多直家は、さきに毛利軍が占領していた大寺畑城と小寺畑城を奪還した。

 さらに、伯耆羽衣石山城主の南条元継と連係しながら備中の忍山城を宇喜多信濃守らが占拠した。同時に祝山城をも包囲した。このため、毛利方の祝山城は孤立した。

吉川元春は毛利軍山陰道の主将として羽衣石山城に迫り長郷田合戦の末、南条兄弟を追い払った。

 

 十一月中旬、毛利軍は、これまでのやり方を変え、吉川、小早川軍を加え、毛利三家を一本に結集して、備中忍山城奪回戦を展開することとなった。

 毛利輝元吉川元春小早川隆景ら三万騎が備中へ進攻した。吉川元春は、元長、元氏、経言三兄弟を連れての出陣である。

 明尊ら小笠原隊は、経言の配下となった。

 明尊は、吉川元春のことを「文武ともに優れ、常に的確な即断をもとにした勇猛果敢な将」と畏敬している。陣中において、『太平記』や『三国志』等の書写をしている姿を幾度も目撃していた。一方、経言のことは、父元春の性格をもっともよく引き継いでいると思っている。ただ、猪突猛進が前面にでてしまう怖さはあったが…・。

 

 忍山の城では、宇喜多信濃守の兵一千が「毛利の兵なにするものぞ」と待ちうけている。

 吉川元春は経言に二千騎を差し添えて、備前から来つつあるという敵方援軍の偵察を命じた。

 経言は、あちらこちらと偵察を重ねながら忍山城近くまで押し寄せて、城の強弱を窺っているところに、

「忍山の城救援のため、岡越前守、長船紀伊守ら五千騎が今日、当地へ着陣する」という情報をえた。

 それなら、ということで経言隊は、岡、長船隊と決戦すべく引き返そうとした。これを見た城方一千騎が追撃してきた。

「待ってた」とばかりに、経言隊が鉄砲の雪崩撃ちで、敵の足軽隊を撃破し、騎馬隊を宇喜多、岡めがけて突入させた。宇喜多勢の先陣が崩れて引くと、岡隊が押し返して戦ったが、後陣から崩れて城中へ逃げいった。吉川経言隊は追撃して城山の下を焼き払って引き揚げた。

 その夜、吉川経言の命令を受けた下清左衛門が城内へ潜入して建物に火を付けた。

 火の手が上がったのを合図に、吉川経言が先頭をきって城に突入していった。

 明尊が城内に駆け込んだときには、すでに白兵戦がはじまっていた。

 火は風を呼び、次々と建物に火が燃え移った。あちこちで凄絶な闘いを繰り広げている敵味方の顔を照らし出している。

 そのとき、明尊は、ひときわ大きい闘争集団を見つけた。敵の守将宇喜多信濃守に群がる吉川勢である。剛勇で有名を馳せた宇喜多信濃守は、高名を狙って群がる吉川勢に一歩も退かずに奮戦していた。すでに脱出をあきらめ、死を覚悟した姿であった。信濃守のまわりには、もはや、旗本の兵もいない。足元には彼の犠牲となった多くの兵が倒れている。

―しめた。

 明尊の心が踊った。千載一遇の好機である。

「宇喜多信濃守さまと覚える、石州住人、福冨七郎左衛門見参、尋常に相手願いたい。」

 明尊が、大音声で将兵を蹴散らした。

「オー」

 信濃守が槍を捨て、刀を手にした。

 明尊も得物を刀に替えた。

 信濃守の剛刀が振り下ろされてきた。

 信濃守の打ち込みを、明尊が入り身になって腰を落とし、くるりくるりと廻りながら払い捨てている。一刀斎流払捨刀であった。周りの将兵には、蝶が舞っているように軽やかにみえているが、その実は、信濃守の小手を払い、胴を払いながら少しずつ傷つけていた。

 明尊が、裂ぱくの気合とともに鋭い剣先を敵の右眼に送った。信濃守が顔面を両手で覆いながら、非常にゆっくりと倒れていった。

 秘剣『稲妻』の突きは、確実に信濃守の眼を貫いていた。

 二人を取巻く敵味方軍勢のなかで、誰ひとりとして明尊の動きを見極めた者はいなかった。

 すかさずとびかかって組みつき、信濃守の首根に刀をくい込ませた。

「小笠原隊福冨七郎左衛門なり、敵方守将宇喜多信濃守を討ち取ったりー」

 明尊は信濃守の首級を左手で高々と上げた。頭内に圧迫されていた血塊がドッと噴出し明尊の顔面を覆っていた。

「おのれ」

 横合いから明尊めがけて突きだされた槍を皮一重のところで躱(かわ)した。

「卑怯であろう、尋常に立ち会え」

 体勢をたてなおした明尊の面前に立っているのは、なんと…敵の副将岡剛介であった。

「岡剛介」

 面前の武将が叫んだ。目の前で宇喜多信濃守を討ち取られ逆上しての反撃であったのだ。

「石州住人、小笠原隊福冨七郎左衛門なり、御首頂戴つかまつる」

「小癪な、来い」

 岡剛介の槍がするどく肉薄してきた。

 体を躱すゆとりもなく刀で刎ねのけ、攻撃を凌いでいた明尊が、一瞬の隙をつかんで飛び込んで体当たりした。固唾をのみ、勝敗をみつめる敵味方将兵が二人を囲んでいる。

 ついに、明尊が組討ちにより剛介を仕留めた。

 ウオーというどよめきが周辺に響いた。

「殿、勝ち名乗りを」

 喜兵衛に促されて、立ちあがった明尊の大音声が辺りに響き渡った。

「おみごと!」

「おみごとでござります!」

「おめでとうございます」

 明尊は次々と飛び込む祝辞も耳に入らないほど喜悦に酔っていた。

 郎従の喜兵衛が、二つの大将首を丁寧に持ち上げ、明尊に捧げた。

 たちまち城方は崩れ、夜陰にまぎれた者は落ちのび、見つかった者は首を取られていった。

 吉川隊の挙げた首級は、敵将宇喜多信濃守以下五百三十人余と「陰徳太平記」に記されている。

「大丸山伝記」にいう。

天正七年(一五七九)十一月 備前の国加茂府にて合戦があり、福冨七郎左衛門尉敵方の座首二人を討ち取り無比類の高名となる。その他の諸侍も名誉の手柄をたてて無事に帰軍した』

 明尊は、このときの手柄により、小笠原長旌より感状を受け福光に十貫文の地を給わった(感状筆者 大島和泉守)明尊四十六歳にして掴んだ高名であった。

 これにより、明尊は福光下村十五貫文の地(約百八十石)を領したことになる。

 江戸時代に石見銀山領となった福光地区の村高をみると、福光下村は百八十四石、湊は二百八十石、林村百六十七石、本領(湊地区の一部と白谷地区)百七十石となっている。

 このことから考察して、福冨七郎左衛門が福光下村のほぼ全域を領したことになる。

 ちなみに、このころ、物不言城の吉川経家領千六百五十六石のうち、福光郷内は、本領二十貫、湊村二十五貫(合わせて四百五十石)となっている。

 福光は福光川を境として左岸(南側)を吉川家が、右岸(北側)を福冨家が領することとなったのである。

 

 宇喜多から取り戻した忍山城へは、毛利家から桂左衛門大夫、岡宗左衛門を入れて守らせ、毛利、吉川、小早川隊は伊賀久隆の籠る虎倉城を包囲した。

 これに対抗すべく宇喜多直家は、秀吉の援軍を得て美作、祝山城を孤立させた。

 この戦の最中、天正八年一月(一五八〇)播磨三木城を織田信長の武将羽柴秀吉に取られた。

 織田信長の容赦ない侵攻に、毛利領は、波打ち際に築いた砂の城さながら次々と削り取られていく。

 

 同年二月、 小早川隆景は虎倉城の包囲を固めたまま吉川元春とともに北上、宇喜多方の大寺畑城を攻略、つづいて祝山城の救援に向うつもりだったが、備中南部の情勢が悪くなったため元春だけが祝山城救援に向った。

 宇喜多が虎倉城救援隊を派遣したことから、吉川元春も途中から退き返し、毛利対宇喜多、織田連合軍と熾烈な戦いを展開していった。

 この間に、毛利軍の救援がおよばなかった祝山城は陥落してしまった。

 

 小笠原家は吉川元春の三男経言を養子として迎えたいと願い、長旌の娘を新庄へ送った。名を千代姫という。小笠原家中でも屈指の美女であり、気立ての優しい娘であった。経言と仲むつまじく、似合いの夫婦になるはずであった。ところが、小早川隆景は、小笠原家人のなかで経言養子に反対勢力のあることを理由に反対した。

「小笠原家中で、儂に刃むかうやつは、粛清すればよい」

 御祖父(元就)も、父(元春)を吉川家へ入れてから、吉川家当主であった興経を殺害した経緯がある。

 経言には、その自信があった。

「千代姫と夫婦となる」

 千代姫に約束したばかりである。父元春も了承している。にもかかわらず、小早川 隆景は、毛利輝元を引っ張り出してきた。宗家の命となれば従わざるを得ない。

 経言は諦めざるを得なかった。

 泣く泣く新庄から立ち退く千代姫の輿を見送る経言もまた、心を押し潰されるような暗澹たる気持ちに涙していた。

 このことにより、経言の心に叔父小早川隆景に対する心の隔てが生じてきていた。

―叔父御は、儂に冷たい。

 経言の一生にわたってつきまとう、わだかまりとなった。

 小笠原家としては、吉川から養子を迎えて毛利三家(毛利、小早川、吉川)と同様の絆を得ようとしたのであるが、仮に経言を小笠原家当主として迎えることができたとしても、その五年後には、吉川本家の嫡男が死亡したため、経言は小笠原を捨てて吉川本家を継いだであろうことは明白である。

 

 

 

 元亀元年(一五七〇)以来続いていた石山本願寺織田信長との抗争が天正八年(一五八〇)三月に講和という形で終了した。実質的には本願寺の敗北である。

これまで、本願寺に肩入れしてきた毛利に対して、信長による攻勢は必至となった。

 

 この年、小笠原長旌により小笠原軍団の再編が行われ、明尊は、名を七右衛門と改めた。

 

 

筑前立花城

 永禄十一年(一五六八)七月中旬、またしても出陣命令がきた。

 筑前立花城主立花鑑載が大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻し、毛利家に庇護を求めてきたためである。毛利元就は伊予から帰ったばかりの小早川隆景吉川元春に出陣を命じた。

 これに呼応して古処山城主秋月種実や宗像神社大宮司宗像氏貞肥前五ヵ山城主筑紫広門、佐賀城主・龍造寺隆信らも毛利方についた。

「こんどは、九州だ」

 四国から帰ったばかりというのに次は九州だ。

「戦場が遠いのー」

 明尊のため息はとどまることを知らない。武将たる者にとって合戦は家禄を上げる絶好の機会である,喜ぶべきなのだ。にもかかわらず、霧のように湧き立つ物憂いさはどうしょうもない。

 

 毛利軍が九州に出兵した。新兵器の鉄砲を巧みに使った毛利軍は破竹の勢いをみせつけたが、間に合わなかった。七月二十三日(新暦八月十六日)、立花鑑載が大友義鎮によって攻め滅ぼされたのである。

 立花城を救援できなかった毛利軍は、豊前の三岳城に猛攻を加えて陥落させた。

三岳城主長野弘勝は毛利方から大友に寝返り、毛利軍と立花城との連絡、補給を断ち切り、それがために立花城が落ちたのである。毛利軍は長野弘勝を自刃させた。 

 毛利軍は永禄十二年(一五六九)五月三日(新暦五月十八日)、筑前立花城を攻め、一ヶ月に及ぶ激戦の末攻略、奪還した。

 ところが同年八月、出雲で尼子勝久を擁立した山中鹿之助が挙兵した。織田信長の後押しを受けての蜂起だった。

 さらに、大友義鎮の女婿大内輝弘が、毛利の新領山口を衝いた。

 これでは、遠征どころではない、自国を固めなければならない。

 十月十五日(新暦十一月二十三日)の深夜、毛利軍は北九州から撤退した。

 撤退となれば敵軍は追撃してくる。殿軍(しんがりぐん)は、吉川元春が受け持った。

 

 吉川隊は、いつでも敵に向って攻撃できるよう戦闘隊形をとったままの陣形で、一糸乱れず粛々と退いて行く。

 あまりにもみごとな退却に、敵は追撃することさえできなかった。

 

 十月二十一日(新暦十一月二十九日)、吉川元春は大内輝弘を討つため山口へ出陣、二十五日に浮野峠で大内軍を破った。輝弘は自殺した。

 

 永禄十二年(一五六九)十二月九日(新暦一月十五日)、小笠原十四代当主長雄が死亡した。嫡男長旌が十五代を継いだ。

 

 元亀元年(一五七〇)、毛利輝元を大将として吉川元春小早川隆景らが出雲に出陣、挙兵した尼子勢を攻撃し壊走させた。

 この戦いに明尊は十三歳になった嫡男昌康を初陣させた。

 

 畿内では、織田信長朝倉義景を攻めていた。

 

 同年二月十四日(新暦三月二十日)、布部合戦で尼子勢を撃退。十五日輝元が富田城へ入城した。

 

 九月五日、毛利輝元小早川隆景、出雲より帰陣し病床についた父元就を見舞った。

 

 元亀二年(一五七一)、六月十四日(新暦七月六日)毛利元就が没した。

 

 東では、天正元年(一五七四)四月十二日、信州駒場において信濃の猛将武田信玄が五十三歳の生涯を閉じた。

 

 天正二年(一五七五)備前守護代浦上宗景織田信長の後援を受け、毛利氏と戦った。浦上家臣の宇喜多直家は毛利についた。織田と毛利の代理戦争といわれる。

 

 天正三年(一五七六)五月、三河国長篠の合戦があった。天下無敵といわれた武田騎馬軍団が壊滅したという。織田信長が発案した鉄砲の三段構え速射に潰されたという。