福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

忍山(おしやま)の城

 天正七年(一五八〇)二月、毛利麾下の有力武将備前岡山城宇喜多直家が離反し、織田信長についたことが確実となった。 

 宇喜多直家備前、備中と美作の一部を支配する大名であり、毛利にとっては重大な損失となる。

 毛利輝元は宇喜多の領国を攻略するため、吉川元春と元長(嫡子)、経言(三男)小早川隆景ら四万騎でもって美作に出陣した。

 毛利軍は芦田太郎の守る小寺畑城(真庭郡久世町)へ押し寄せ、二月十二日に強襲で攻略した。

 強襲は力と力の正面衝突である。それだけに攻撃側の被害も大きい。それをあえて決行した輝元の凄まじい闘志に、随従する諸将らも命をすてる覚悟を決めざるを得なくなった。

 小寺畑城を一蹴した毛利勢は、その勢いにのって十六日には大寺畑城(真庭郡久世町)を取り囲んだ。この城には、宇喜多直家の婿江原兵庫助親次と羽柴秀吉から派遣された兵らが籠っている。

 毛利勢は高田城(岡山県真庭郡勝山)に本拠を置き、毛利家の旗本衆と小早川勢で一隊を組み、もう一隊を吉川勢として左右二手に分れて布陣した。

 明尊ら小笠原隊は砥石山の尾根に広がる城をめざして進撃していた。

 そのとき、城を捨てて逃げようとする兵がバラバラになって下りてきた。

「敵は逃げる気だ、一人も逃がすな。」

 吉川勢が敵兵を追い詰めて討ち取っていく。たちまち数十人を討ち取った。

「さいさきいいぞ、敵を軍神の血祭りにあげろ」

 明尊らは勇躍している。城からでてきた敵兵は、あわてて城内へ引き返している。

 明尊は敵兵にまぎれて城内へ侵入しようとしたが、いま一歩のところで間に合わなかった。

 城門が閉められ、至近距離から狙い射ちする敵の矢に味方が次々と斃れた。

「退け退け」

 あわてた攻城軍が矢の射程距離外に退いた。

 その夜半、籠城していた楢崎弾正が毛利軍に内通し、城内の家屋に火をかけて攻城軍を城内に引き入れた。

 このため、毛利勢の猛攻に耐えられなくなった江原兵庫助らが篠葺の城(真庭郡久世町)へ逃げたため、大寺畑城は毛利のものとなった。二月十七日のことである。

 篠葺城の宇喜多勢は寄せてくる毛利勢を見ると、一戦もせずに備前めざして逃げ去った。

 これをみた岩屋城の連中も高田川対岸の宮山城へ逃げ去った.

「次ぎは、宮山城だ」

 毛利勢は破竹の勢いで旭川を渡って宮山城(落合町高田)を包囲した。

 宮山城には市三郎兵衛とその嫡子・五郎兵衛、葦田太郎ら三千人が籠って、激しく抵抗してきた。数日間の小競り合いのあと、こう着状態になった。

 そんなある日、毛利勢は宮山の里にある温泉で湯浴みの毎日を送っていた。ところが入浴中の者を討ち取ろうと城方がでてきた。

 毛利勢も江田新右衛門、山県源右衛門らが鉄砲を持って助けにでた。

 城方は、さっと退いて竹林の中の民家に籠り毛利勢を待ちうけた。

 さらに、城から応援が出て七、八百人ほどになった。

毛利勢は吉川元長自らが一千騎を率いて、民家に籠っている城方を攻撃した。

城方は散り散りになって城に逃げ入ろうとする。毛利勢が追撃して城門の前まで押し詰め柵を切り破った。城中から厳しく矢で反撃してくる。

 至近距離での狙い撃ちに、明尊らはうつ伏せになって矢を避けるのが精一杯となっていた。

もはや、退くこともできない、矢の間隙を衝いて突入するしかない。

 矢がバシッバシッと甲冑に突き刺さる。あちこちで悲鳴があがる。

「井下左馬允さまがやられた」

「森脇弥五郎さまをお退げしろ」

 すぐ近くで、続々と負傷者が出る。

―なんとかしなければ。

 明尊は這いながら徐々に登っている。周りの将兵も必死の形相で城をめざしている。

―一番乗りは、儂がとる。

 明尊が気を奮い立たせて、突入しようとした、そのとき、

「小笠原次郎右衛門さまがやられた」

 明尊のすぐ横で、悲壮な声があがった。ギクッとして振り返ると、小笠原隊の将兵

 次郎右衛門を中に円陣を組むところであった。

―命には別状なさそうだ。

 明尊はホッとして円陣に加わった。

「伏せろ」

「伏せろ」

 下から吉川元長の大音声が響き渡った。

 明尊らが地に伏せると同時だった。

 ドドドンと鉄砲の轟音が山を揺るがした。後方から城をめがけての一斉射撃であった。

 明尊は、頭を地につけて目をつむった。

「儂らの後ろから撃つなんて殺生だぜ」

 小笠原隊は、しきりにぼやきながらも這いつくばっている。

 頭上を通過していく玉の音がピュウと耳に入ってくる。

 連続しての射撃に、敵が総崩れとなって逃げ始めた。

明尊らは、やっと敵の矢から開放された。

それーとばかりに城内へなだれこんだ。

宮山城もついに落とした。

 ここで、毛利軍はひとまず解散して、明尊ら小笠原隊も石見へ帰ってきた。

 

 十月下旬、吉川元春小早川隆景の連絡を断つ作戦にでた宇喜多直家は、さきに毛利軍が占領していた大寺畑城と小寺畑城を奪還した。

 さらに、伯耆羽衣石山城主の南条元継と連係しながら備中の忍山城を宇喜多信濃守らが占拠した。同時に祝山城をも包囲した。このため、毛利方の祝山城は孤立した。

吉川元春は毛利軍山陰道の主将として羽衣石山城に迫り長郷田合戦の末、南条兄弟を追い払った。

 

 十一月中旬、毛利軍は、これまでのやり方を変え、吉川、小早川軍を加え、毛利三家を一本に結集して、備中忍山城奪回戦を展開することとなった。

 毛利輝元吉川元春小早川隆景ら三万騎が備中へ進攻した。吉川元春は、元長、元氏、経言三兄弟を連れての出陣である。

 明尊ら小笠原隊は、経言の配下となった。

 明尊は、吉川元春のことを「文武ともに優れ、常に的確な即断をもとにした勇猛果敢な将」と畏敬している。陣中において、『太平記』や『三国志』等の書写をしている姿を幾度も目撃していた。一方、経言のことは、父元春の性格をもっともよく引き継いでいると思っている。ただ、猪突猛進が前面にでてしまう怖さはあったが…・。

 

 忍山の城では、宇喜多信濃守の兵一千が「毛利の兵なにするものぞ」と待ちうけている。

 吉川元春は経言に二千騎を差し添えて、備前から来つつあるという敵方援軍の偵察を命じた。

 経言は、あちらこちらと偵察を重ねながら忍山城近くまで押し寄せて、城の強弱を窺っているところに、

「忍山の城救援のため、岡越前守、長船紀伊守ら五千騎が今日、当地へ着陣する」という情報をえた。

 それなら、ということで経言隊は、岡、長船隊と決戦すべく引き返そうとした。これを見た城方一千騎が追撃してきた。

「待ってた」とばかりに、経言隊が鉄砲の雪崩撃ちで、敵の足軽隊を撃破し、騎馬隊を宇喜多、岡めがけて突入させた。宇喜多勢の先陣が崩れて引くと、岡隊が押し返して戦ったが、後陣から崩れて城中へ逃げいった。吉川経言隊は追撃して城山の下を焼き払って引き揚げた。

 その夜、吉川経言の命令を受けた下清左衛門が城内へ潜入して建物に火を付けた。

 火の手が上がったのを合図に、吉川経言が先頭をきって城に突入していった。

 明尊が城内に駆け込んだときには、すでに白兵戦がはじまっていた。

 火は風を呼び、次々と建物に火が燃え移った。あちこちで凄絶な闘いを繰り広げている敵味方の顔を照らし出している。

 そのとき、明尊は、ひときわ大きい闘争集団を見つけた。敵の守将宇喜多信濃守に群がる吉川勢である。剛勇で有名を馳せた宇喜多信濃守は、高名を狙って群がる吉川勢に一歩も退かずに奮戦していた。すでに脱出をあきらめ、死を覚悟した姿であった。信濃守のまわりには、もはや、旗本の兵もいない。足元には彼の犠牲となった多くの兵が倒れている。

―しめた。

 明尊の心が踊った。千載一遇の好機である。

「宇喜多信濃守さまと覚える、石州住人、福冨七郎左衛門見参、尋常に相手願いたい。」

 明尊が、大音声で将兵を蹴散らした。

「オー」

 信濃守が槍を捨て、刀を手にした。

 明尊も得物を刀に替えた。

 信濃守の剛刀が振り下ろされてきた。

 信濃守の打ち込みを、明尊が入り身になって腰を落とし、くるりくるりと廻りながら払い捨てている。一刀斎流払捨刀であった。周りの将兵には、蝶が舞っているように軽やかにみえているが、その実は、信濃守の小手を払い、胴を払いながら少しずつ傷つけていた。

 明尊が、裂ぱくの気合とともに鋭い剣先を敵の右眼に送った。信濃守が顔面を両手で覆いながら、非常にゆっくりと倒れていった。

 秘剣『稲妻』の突きは、確実に信濃守の眼を貫いていた。

 二人を取巻く敵味方軍勢のなかで、誰ひとりとして明尊の動きを見極めた者はいなかった。

 すかさずとびかかって組みつき、信濃守の首根に刀をくい込ませた。

「小笠原隊福冨七郎左衛門なり、敵方守将宇喜多信濃守を討ち取ったりー」

 明尊は信濃守の首級を左手で高々と上げた。頭内に圧迫されていた血塊がドッと噴出し明尊の顔面を覆っていた。

「おのれ」

 横合いから明尊めがけて突きだされた槍を皮一重のところで躱(かわ)した。

「卑怯であろう、尋常に立ち会え」

 体勢をたてなおした明尊の面前に立っているのは、なんと…敵の副将岡剛介であった。

「岡剛介」

 面前の武将が叫んだ。目の前で宇喜多信濃守を討ち取られ逆上しての反撃であったのだ。

「石州住人、小笠原隊福冨七郎左衛門なり、御首頂戴つかまつる」

「小癪な、来い」

 岡剛介の槍がするどく肉薄してきた。

 体を躱すゆとりもなく刀で刎ねのけ、攻撃を凌いでいた明尊が、一瞬の隙をつかんで飛び込んで体当たりした。固唾をのみ、勝敗をみつめる敵味方将兵が二人を囲んでいる。

 ついに、明尊が組討ちにより剛介を仕留めた。

 ウオーというどよめきが周辺に響いた。

「殿、勝ち名乗りを」

 喜兵衛に促されて、立ちあがった明尊の大音声が辺りに響き渡った。

「おみごと!」

「おみごとでござります!」

「おめでとうございます」

 明尊は次々と飛び込む祝辞も耳に入らないほど喜悦に酔っていた。

 郎従の喜兵衛が、二つの大将首を丁寧に持ち上げ、明尊に捧げた。

 たちまち城方は崩れ、夜陰にまぎれた者は落ちのび、見つかった者は首を取られていった。

 吉川隊の挙げた首級は、敵将宇喜多信濃守以下五百三十人余と「陰徳太平記」に記されている。

「大丸山伝記」にいう。

天正七年(一五七九)十一月 備前の国加茂府にて合戦があり、福冨七郎左衛門尉敵方の座首二人を討ち取り無比類の高名となる。その他の諸侍も名誉の手柄をたてて無事に帰軍した』

 明尊は、このときの手柄により、小笠原長旌より感状を受け福光に十貫文の地を給わった(感状筆者 大島和泉守)明尊四十六歳にして掴んだ高名であった。

 これにより、明尊は福光下村十五貫文の地(約百八十石)を領したことになる。

 江戸時代に石見銀山領となった福光地区の村高をみると、福光下村は百八十四石、湊は二百八十石、林村百六十七石、本領(湊地区の一部と白谷地区)百七十石となっている。

 このことから考察して、福冨七郎左衛門が福光下村のほぼ全域を領したことになる。

 ちなみに、このころ、物不言城の吉川経家領千六百五十六石のうち、福光郷内は、本領二十貫、湊村二十五貫(合わせて四百五十石)となっている。

 福光は福光川を境として左岸(南側)を吉川家が、右岸(北側)を福冨家が領することとなったのである。

 

 宇喜多から取り戻した忍山城へは、毛利家から桂左衛門大夫、岡宗左衛門を入れて守らせ、毛利、吉川、小早川隊は伊賀久隆の籠る虎倉城を包囲した。

 これに対抗すべく宇喜多直家は、秀吉の援軍を得て美作、祝山城を孤立させた。

 この戦の最中、天正八年一月(一五八〇)播磨三木城を織田信長の武将羽柴秀吉に取られた。

 織田信長の容赦ない侵攻に、毛利領は、波打ち際に築いた砂の城さながら次々と削り取られていく。

 

 同年二月、 小早川隆景は虎倉城の包囲を固めたまま吉川元春とともに北上、宇喜多方の大寺畑城を攻略、つづいて祝山城の救援に向うつもりだったが、備中南部の情勢が悪くなったため元春だけが祝山城救援に向った。

 宇喜多が虎倉城救援隊を派遣したことから、吉川元春も途中から退き返し、毛利対宇喜多、織田連合軍と熾烈な戦いを展開していった。

 この間に、毛利軍の救援がおよばなかった祝山城は陥落してしまった。

 

 小笠原家は吉川元春の三男経言を養子として迎えたいと願い、長旌の娘を新庄へ送った。名を千代姫という。小笠原家中でも屈指の美女であり、気立ての優しい娘であった。経言と仲むつまじく、似合いの夫婦になるはずであった。ところが、小早川隆景は、小笠原家人のなかで経言養子に反対勢力のあることを理由に反対した。

「小笠原家中で、儂に刃むかうやつは、粛清すればよい」

 御祖父(元就)も、父(元春)を吉川家へ入れてから、吉川家当主であった興経を殺害した経緯がある。

 経言には、その自信があった。

「千代姫と夫婦となる」

 千代姫に約束したばかりである。父元春も了承している。にもかかわらず、小早川 隆景は、毛利輝元を引っ張り出してきた。宗家の命となれば従わざるを得ない。

 経言は諦めざるを得なかった。

 泣く泣く新庄から立ち退く千代姫の輿を見送る経言もまた、心を押し潰されるような暗澹たる気持ちに涙していた。

 このことにより、経言の心に叔父小早川隆景に対する心の隔てが生じてきていた。

―叔父御は、儂に冷たい。

 経言の一生にわたってつきまとう、わだかまりとなった。

 小笠原家としては、吉川から養子を迎えて毛利三家(毛利、小早川、吉川)と同様の絆を得ようとしたのであるが、仮に経言を小笠原家当主として迎えることができたとしても、その五年後には、吉川本家の嫡男が死亡したため、経言は小笠原を捨てて吉川本家を継いだであろうことは明白である。

 

 

 

 元亀元年(一五七〇)以来続いていた石山本願寺織田信長との抗争が天正八年(一五八〇)三月に講和という形で終了した。実質的には本願寺の敗北である。

これまで、本願寺に肩入れしてきた毛利に対して、信長による攻勢は必至となった。

 

 この年、小笠原長旌により小笠原軍団の再編が行われ、明尊は、名を七右衛門と改めた。

 

 

筑前立花城

 永禄十一年(一五六八)七月中旬、またしても出陣命令がきた。

 筑前立花城主立花鑑載が大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻し、毛利家に庇護を求めてきたためである。毛利元就は伊予から帰ったばかりの小早川隆景吉川元春に出陣を命じた。

 これに呼応して古処山城主秋月種実や宗像神社大宮司宗像氏貞肥前五ヵ山城主筑紫広門、佐賀城主・龍造寺隆信らも毛利方についた。

「こんどは、九州だ」

 四国から帰ったばかりというのに次は九州だ。

「戦場が遠いのー」

 明尊のため息はとどまることを知らない。武将たる者にとって合戦は家禄を上げる絶好の機会である,喜ぶべきなのだ。にもかかわらず、霧のように湧き立つ物憂いさはどうしょうもない。

 

 毛利軍が九州に出兵した。新兵器の鉄砲を巧みに使った毛利軍は破竹の勢いをみせつけたが、間に合わなかった。七月二十三日(新暦八月十六日)、立花鑑載が大友義鎮によって攻め滅ぼされたのである。

 立花城を救援できなかった毛利軍は、豊前の三岳城に猛攻を加えて陥落させた。

三岳城主長野弘勝は毛利方から大友に寝返り、毛利軍と立花城との連絡、補給を断ち切り、それがために立花城が落ちたのである。毛利軍は長野弘勝を自刃させた。 

 毛利軍は永禄十二年(一五六九)五月三日(新暦五月十八日)、筑前立花城を攻め、一ヶ月に及ぶ激戦の末攻略、奪還した。

 ところが同年八月、出雲で尼子勝久を擁立した山中鹿之助が挙兵した。織田信長の後押しを受けての蜂起だった。

 さらに、大友義鎮の女婿大内輝弘が、毛利の新領山口を衝いた。

 これでは、遠征どころではない、自国を固めなければならない。

 十月十五日(新暦十一月二十三日)の深夜、毛利軍は北九州から撤退した。

 撤退となれば敵軍は追撃してくる。殿軍(しんがりぐん)は、吉川元春が受け持った。

 

 吉川隊は、いつでも敵に向って攻撃できるよう戦闘隊形をとったままの陣形で、一糸乱れず粛々と退いて行く。

 あまりにもみごとな退却に、敵は追撃することさえできなかった。

 

 十月二十一日(新暦十一月二十九日)、吉川元春は大内輝弘を討つため山口へ出陣、二十五日に浮野峠で大内軍を破った。輝弘は自殺した。

 

 永禄十二年(一五六九)十二月九日(新暦一月十五日)、小笠原十四代当主長雄が死亡した。嫡男長旌が十五代を継いだ。

 

 元亀元年(一五七〇)、毛利輝元を大将として吉川元春小早川隆景らが出雲に出陣、挙兵した尼子勢を攻撃し壊走させた。

 この戦いに明尊は十三歳になった嫡男昌康を初陣させた。

 

 畿内では、織田信長朝倉義景を攻めていた。

 

 同年二月十四日(新暦三月二十日)、布部合戦で尼子勢を撃退。十五日輝元が富田城へ入城した。

 

 九月五日、毛利輝元小早川隆景、出雲より帰陣し病床についた父元就を見舞った。

 

 元亀二年(一五七一)、六月十四日(新暦七月六日)毛利元就が没した。

 

 東では、天正元年(一五七四)四月十二日、信州駒場において信濃の猛将武田信玄が五十三歳の生涯を閉じた。

 

 天正二年(一五七五)備前守護代浦上宗景織田信長の後援を受け、毛利氏と戦った。浦上家臣の宇喜多直家は毛利についた。織田と毛利の代理戦争といわれる。

 

 天正三年(一五七六)五月、三河国長篠の合戦があった。天下無敵といわれた武田騎馬軍団が壊滅したという。織田信長が発案した鉄砲の三段構え速射に潰されたという。

 

 

伊予・大洲城(大津城)

 永禄十一年(一五六八)三月四日(新暦四月一日)、吉川元春小早川隆景らは伊予大津の宇都宮豊綱に攻められている湯月城河野道直を救援のため伊予に出陣した。

 河野道直は十二年前の厳島の戦いに毛利のために働いた伊予水軍の一族である。水軍は強力であるが陸上での軍は苦手であった。宇都宮豊綱には、四国統一を狙う長宗我部が後押しをしている。毛利としては、なんとしても救援する必要があった。

 毛利軍は福原貞俊を名代とし、吉川元春小早川隆景宍戸隆家らが四月二十二日(新暦五月十八日)に、伊予の道後に上陸した。石見勢の小笠原、吉見隊は隆景配下に、佐波、益田、波根、出羽らは元春配下となっていた。

 毛利軍の援護を得た河野道直は父河野道宣とともに宇都宮の支城を次々と攻略し、たちまち大津城を包囲した。

 このとき、宇都宮の援軍として西園寺公広が出陣してきたが、毛利軍は、難なく撃退した。

 いよいよ大津城攻略の戦端が開かれようとしている。

 小早川勢が大手門から、吉川勢が搦め手から攻撃することとして布陣した。ところが、勝ち目のないことを悟った宇都宮豊綱が降伏・開城し、西園寺公広も和平を求めてきた。

 伊予を平定した毛利軍は、河野道直による伊予の支配体制を整えたあと安芸に凱旋した。

 

 明尊が四ッ地蔵城に帰り着いたのは五月下旬であった。

 庭の池で鳴くかえるの声がなつかしい。座敷に大の字になって寝ころぶ明尊の体から緊張がほぐれていく。

 すでに三十五歳を越えている明尊にとって、遠征につぐ長陣は体に堪える。

― 温泉津の湯に行って、しばらくのんびりとしようか。

 久しぶりにゆったりとした気持ちになっていた。

 

月山(がっさん)富田城(とだじょう)

 

 永禄五年(一五六二)七月、毛利元就は尼子氏攻略のため一万五千の兵を率いて吉田郡山城を出発、二十八日(新暦八月二十七日)には出雲の赤穴郷に着いた。ここで、三沢郷の三沢為清、三刀屋郷の三刀屋久扶、高瀬郷の米原綱寛、阿用の桜井入道、大東童山の馬田入道、牛尾の牛尾信濃守、白鹿の松田誠保ら出雲の国人衆が毛利に随いた。

 

 同年(一五六二)八月六日(新暦九月四日)、毛利輝元が備中、備後の守護に任命された。

 十一月五日、  尼子の驍将本城常光が毛利に寝返って大森銀山は毛利に渡った。 

 毛利元就は平賀山城守、高畑源四郎の二人を山吹城に置いて銀山奉行とした。

 石見全域が毛利に属した。

 これまで石見の国人衆は、それぞれが独立した領国を持ち、大内、毛利、尼子の勢力争いでは、そのときの有利な方に合力してきたが、毛利の家臣団に組み込まれてからは独立性は否定され、臣従することとなった。

 

 石見国内での戦がなくなり、四ッ地蔵城も戦略的価値がなくなった。

  

 永禄四年から五年にかけて出雲の大半が尼子を見限り毛利に随いた。

 毛利元就宍道湖北岸に洗合城を築いて攻撃の拠点とした。洗合城から月山富田城までは六里(二十四キロ)ほどである。

 

 永禄六年(一五六三)五月十八日(新暦六月八日)、毛利隆元が周防、長門の守護に任命された。

 毛利軍は月山富田城の防衛網尼子十旗のうちでも、第一といわれる白鹿城に対し永禄六年八月から攻撃にはいり七十余日かかって陥とした。白鹿城主松田誠保は晴久の姉の子である。尼子家第一の勇将といわれている。抵抗も強く毛利方も数百人の死傷者をだした。

 八月四日、豊後に出征中の毛利隆元が大友氏との講和を結んで出雲に転進の途上、備後の和智城主、和智誠春の饗応を受け、宿所の佐々部蓮華寺で急逝(享年四十一歳)した。隆元と誠春の夫人同士がともに内藤興盛の娘で姉妹であったことから、受けた饗応であった。元就は見るも無残に落胆していた。元就を取り巻く重役連中は、元就が絶望のあまり自分で相果てるのではないかと恐れていた。

白鹿城を弔い合戦と位置づけた毛利軍はすさまじい猛攻を重ね、ついに、十月十三日、要害堅固な白鹿城を陥落させた。

 輝元が十三歳で家督を継承した。

 永禄七年(一五六四)七月二十五日(新暦八月三十一日)、毛利元就大友宗麟と講和、誓約書を交換した。

 永禄八年四月、月山富田城の北西一里(四キロ)余りの星上山(四五四メートル)に本陣を進めた。

 四月十七日(新暦五月二十七日)から三万五千で月山富田城攻撃を開始した。

 城正面の御子守口には先鋒隊に横見、児玉、井上、粟屋、香川、木原隊五百人が陣を取り、その後方に庄原兵部、渡辺左衛門大夫、坂就清、粟屋元真、児玉就方、児玉就忠、口羽通好、志道元保、桂元澄、福原貞俊を前衛として粟屋元好、国司元助、内藤六郎右衛門、児玉四郎右衛門、天野元明、天野隆重、天野元定ら旗本勢一万五千に囲まれて毛利輝元毛利元就が全軍を睥睨している。

 これには、渡利元枝、飛落元吉らの指揮する鉄砲二百挺が、三段の構えで控えている。

毛利輝元はこのとき十三歳で初陣である。また、吉川元春の嫡子元長も初陣となる。

 対して御子守口を守る尼子軍は、細矢、河本隊二百人が前衛、中井駿河守、三刀屋蔵人、牛尾弾正忠、福山肥後守、吉田八郎左衛門ら一千人を第二陣とし、その後方に、熊野兵庫、吉田三郎左衛門、川副二郎左衛門、川副右京亮、黒田右京亮、馬田尾張守、津森四郎次郎、力石兵庫、平野賀兵衛、横道兵庫助、桜井入道仁斎、高尾右馬允、神西三郎左衛門、牛尾豊前守に囲まれた尼子義久が控えている。

 城の南入口にあたる塩谷口には、細迫、朝枝、森脇、須子、二宮、香川、笠間ら五百が先鋒隊、第二陣には山県、森脇、吉川、二宮、小笠原ら五千人、阿曾沼元景、熊谷高直、熊谷信直ら旗本衆を引き連れて吉川元春、吉川元長父子が采配をとっている。

 西の入口である菅谷口では毛利勢に米原綱寛、三沢為清、三刀屋久裕ら出雲国人衆が先陣をとった。彼らは、尼子十旗の一員であったが、すでに毛利方の主要戦力となっていた。尼子十旗も、三沢、三刀屋、赤穴、高瀬は、毛利の軍門に落ちたことになる。

 総大将毛利元就は総軍に、下知もなく、抜けがけした者は、かりに一番の功名があったとしても首を刎ねる、と堅く制法をだした。

 それでも、いきり立つ将には制止が効かない。あちこちから抜けがけがでた。

 御子守口では木原、香川、粟屋、児玉、横見など五百余騎が下知を待たずに突撃した。尼子方の細矢、河本が二百ばかりで迎撃に出て激しく戦った。

 寄せ手は多勢にものを言わせて強襲したから、尼子方は一気に潰れて城へ退いていく。力を得た毛利勢が追撃して行く。逃げる敵を追いかけ御子守口の坂にかかったとき、城の兵吉田、福山、牛尾、三刀屋、中井らが坂を挟む両側の山に鉄砲を揃えて一斉に撃ってきた。たちまち形勢が逆転した。横見、桜井が倒れ、香川の郎党四人、三須の若党三人が撃ち殺された。

「後陣の味方は続かず、今、ここに進んでいる兵には鉄砲の一挺もなく、ただ敵の的になって射られているばかりだ、一緒に連れてきた若い衆に手負いなどさせてしまっては、我一人の不覚だ。皆は、先に退きたまえ」

 木原が後に残って、皆の退却を援護しようとした。

「それなら木原どのが先にお退きください」

「いやいや、あなたこそ」

 香川、粟屋の二人が、自分が殿(しんがり)を受け持つから先に退いてくれと、お互いが譲りあってきかない。

 木原も再三辞したが埒(らち)があかない。

「お互いが譲り合ってばかりいても大人気ない、それなら我が先に退きましょう。しかし、おめおめと逃げるのも口惜しい」

 木原が近くの岩に走り上がって、やあやあ、我と一騎打ちをする自信のあるやつは、坂を下ってここへ来い。と呼んだが、敵からは、ただ、一本の矢が飛んできただけだった。

「臆したか、みぐるしいぞ、我とおもわんものは、ここへでてきて相手をしろと招いたが、ただ、遠くから矢を射るだけとは、我らの武威に怖れをなしたのであろう、見苦しいぞ、儂の言うことに口惜しいと思うなら、ここへきて手並のほどを見せたらどうだ」

これほどまでに侮辱しても、尼子方からは激しく矢が飛んでくるだけである。

「まだ出てこないか、尼子の臆病者どもこれでも食え」

 木原が、尼子方にむかって尻をめくり、二つ三つ叩いて見せた。

 尼子方も頭にきたのであろう、鉄砲を集中して撃ってきた。ところが、玉(弾)は当たらない。

「おまえらの鉄砲は、尻にさえ当たらないのか」

 木原は気が済んだのか、皆を連れて退き下がろうとした。

 尼子方からは、岩陰に見えなくなった木原が放尿でもしているのだろう、今のうちに近づいて討ち取れと追いかけてきた。

 木原が、岩陰から飛び出して一人を切り伏せた。ところが、敵は、どんどん集まり多勢になって追いかけてくる。

 これを見て、福原貞俊、桂元澄、桂元忠、志道広好、口羽通好、口羽春好、児玉就忠、児玉就方、坂就清、渡辺左衛門太夫、渡辺肥後守、粟屋縫殿助、粟屋内蔵允、庄原兵部ら三千余が斬りかかったので、先に退いた香川広景、三須隆経、粟屋彦右衛門、南方宮内少輔、木原兵部少輔、木原次郎兵衛、井上宗右衛門、蔵田市助、粟屋右京、児玉四郎兵衛らも引きかえし入り乱れて戦った。 

 尼子方総大将義久自らが打って出て、牛尾豊前守、神西三郎左衛門、高尾右馬允、桜井入道仁斎、横道兵庫助、平野賀兵衛、力石兵庫、津森四郎次郎、馬田尾張守、里田右京亮、川副右京亮、川副次郎左衛門、吉田三郎左衛門、熊野兵庫らを御子守口の谷口から出した。

 この戦で、毛利元就の孫輝元が初陣をはたした。元就の嫡男・隆元亡きあと、毛利家の頭領とした輝元を見つめながらも、

「隆元が生きていてくれたなら…・」

 元就の心は暗くなるばかりである。隆元の勇姿に比して輝元は、あまりにも脆弱であった。

 

 両軍は、四月十八日(新暦五月二十八日)、十九日の両日にわたって、攻防戦を展開した。これが、富田城下三箇所合戦とよばれるもので、双方千名近い死傷者をだした。

 その後は、毛利軍が強襲を避けて兵糧攻めによる持久戦法に切り替えた。

 毛利軍は、京羅木山(四七三)、石原山、滝山に向城を築いて包囲網を厳重にした。

 城の入口に、高札を立て城兵の降伏や脱走を許さなかった。兵糧攻めの効果を早めるためである。

 永禄二年から始まった富田城攻防戦はすでに六年を経過している。その間、周辺の郷民らによる妨害戦は数回あったが、いずれも小競り合い程度に終った。

 城内の兵糧もつき、餓死もでる状態になってきた。折はよしと、高札を取り除いた。

 将兵が城内から続々と退出してくる。尼子の有力武将牛尾豊前守、亀井秀綱、河本隆任、佐世清宗、湯惟宗ら重臣さえも尼子を見すてて出てきた。

 

 永禄九年(一五六六)十一月二十八日(新暦一月八日)ついに、尼子義久が降伏し、 月山富田城が開城した。

 最後まで籠城したのは、山中鹿介幸盛ら武人百十三名、僧衆二十数名、総計でも百四十人弱しかいなかった。

 

物不言城(ものいわずじょう)

 永禄四年(一五六一)七月、元春から、福屋隆兼に次男の二郎を孝鶴丸(輝元)の近習に差し出すよう督促された。人質要求であった。

隆兼は、これを拒否した。

 

 同年九月、福屋隆兼が家老の重富民部大輔兼雄一族を抹殺したという、まさに驚愕すべき事件が勃発していた。小笠原家臣亀山平四郎が知らせてきたものである。

 重富兼雄は、福屋氏のなかでも最強の兵力を誇り、福屋本城乙明城の東南の守りを固めている。重富を討てば福屋の勢力は半減する。それを、あえて断行した理由はなにだったのか。

重富が毛利氏と謀って福屋隆兼を攻めようとしていたらしゅうございます。それを察知した福屋氏が誅殺したという噂にございます。」

「誅殺か…」

吉川元春さまの命により、検使として派遣された、二宮木工助ら吉川の将兵六十人が、重富城へ到着するまでに始末したらしゅうございます」

「それにしても、重富は福屋勢のなかでも豪勇で知られた士だ」

「戦いは凄惨を極めた由にございます。ですが、重富が最後に残した言葉が気になるところでございます」

「なんと言ったのか」

「愚かなり御屋形(福屋隆兼)、根も葉もなき謀略に惑わされるとは。御屋形といえども理不尽な戦いを挑まれる以上、我も、武門の意地を守り、受けて立つだけにございます」

「そう言ったのか。…それで、検使として派遣されていた二宮勢は、いかがしたのだ」

「日和まで到着したところで事が発生しましたので、ただちに引き返しました」

 ことの起こりは九月二十三日早朝であった。福屋隆兼が三千人を引き連れて重富城を包囲した。福屋勢は火矢をもって城を焼き、場内の混乱に乗じて強襲した。

 寡勢の重富方は、たちまち一族の重富兼時、兼光、兼輝以下四十八人が討死、重富兼雄は腹を掻き切って死んだ。兼雄の妻は福屋隆兼の臣福原兼教の姉であったが、薙刀をもって勇戦し、最後には火中に入ったという。

 福屋方も福屋兼久ら七十四人が討死、江田基勝ら数百人が負傷した。

「福屋どのは、姦計に堕ちたのではなかろうか・・・・」

「福冨どのも、そう思われますか・・・実は、御屋形(小笠原長雄)さまの、お考えでは…」

 平三郎が声を落とし、周囲に目を配った。

「この戦は元就が謀略をもって福屋勢の弱体化を図るべく起したものであろう。とのことでした。その理由として、日和から重富城までは数里しかない。毛利勢が重富の救援に駆けつけようと思えば、いくらでも間に合ったはず、はじめから助ける意思なんてもっていなかった」

「そうであろうの、策謀を得意とする毛利さまならできることだ」

重富の郎従らの中には、御屋形である福屋氏の軍勢に刃向うことをせずに討ち取られた者も多かったということです」

「残酷だの」

 この時代には、調略、欺瞞、陰謀、誘降といった謀略を盛んに用いていた。孫子兵法に曰く『兵は詭道なり』味方の戦力を消耗させずに戦いに勝つ、最善の策だ。さらに、曰く『上兵は謀を伐つ』、敵の意図を見抜いてこれを未然に封じる。これが最高の戦い方だ。

「隆兼ともあろう武将が忘れたわけでもあるまいに、元就の策にまんまと嵌められるとは。それにしても隆兼は愚かな戦をしたものだ。敵より圧倒的な兵力があったとしても、いきなり城を強襲するとは多大な犠牲を強いられるものを」

「隆兼は最も頼りとしてきた重富が裏切ったと思い込み、頭に血が上ったのであろう」

 それにしても、元就の謀略恐るべしだ。

 

 その年の十一月(一五六一)は寒い日が続いていた。空はどんよりと曇り、みぞれが降ったり止んだり、陽が照ったりとめまぐるしく変わっている。

「江川の対岸におびただしい兵が終結しているそうです」

伝令の者が息せき切って走り込んできた。

「福屋どのか」

「そうでございます。兵は、川平から渡って松山城(福屋の支城)に入っています」

松山城と四ッ地蔵城とは一里(四キロメートル)ほどしか離れていない。

 明尊は、直ちに物見を出し、忠左衛門を呼び寄せた。領内の将兵を召集する木鐘がけたたましく叩かれている。

「やつらは、この城を潰すつもりだろうか」

 ひとりごとのようにつぶやく忠左衛門の顔に緊張が走っていた。

 突然湧きあがった戦の予感に闘争心が漲ってくる。

「わからん、やつらは温湯城取り合い(永禄元年)のあと、井田、波積の領地を受取りに行った小笠原さまと小早川さまの家臣に兵を向けて、馬物具を剥ぎ取り、追い返すという暴挙にでたばかりだ。御屋形(小笠原長雄)さまに兵を向けることもありえる」

「まずいですな、今、御屋形さまは、甘南備寺におられる」

 防禦の弱い甘南備寺を攻められたならひとたまりもない。

 温湯城取り合いで毛利に降伏した御屋形は、甘南備寺で謹慎中の身である。

「御屋形さまを攻めるとなると、その前にこの城を攻めるでしょうな」

「そうだ、やつらにすれば、ここを潰さなければ挟みうちにされる」

 松山城から押し寄せてくるなら判刻(一時間)もかからず到達する。はやく防禦を固めなければならない。

 明尊は兵を城内に入れて、要所に兵を配置、迎撃態勢を敷いた。

 明尊の将兵は八十名ほどである。三千を超す福屋の軍勢を迎え討つには籠城しかない。

「ひとまず籠城して、時間をかせぐことだ。その間に御屋形さまも戦支度ができる」

 四ッ地蔵城内に、つぎつぎと幟が立ち並び、兵が溢れてきた。物見がせわしなく城から走りでる。

 江川を渡った福屋の軍勢が、ぞくぞくと松山城終結し、すでに一部の兵は都治方面へ進んでいる。四ッ地蔵城の裏側、十町(一キロメートル)ほどしか離れていない道を通り過ぎて行く。

「どういうことだ。やつらは、我々を無視している」

「いや、無視しているのではなく、別に狙いがあるようです。……御屋形さまを狙っているのでは無さそうだが……」

「この四ッ地蔵城に兵をまわさないということは、小笠原家を狙ってのことではない……物不言城だ」

 温湯城取り合いでは、福屋隆兼が吉川元春の先鋒として攻めてきた。まさに獅子奮迅の戦いをしたにもかかわらず、毛利元就は福屋の所領を削って御屋形に与えた。さらに、追い討ちを掛けるように人質を要求した。

 福屋には、別の地をもって倍増して与えると言ったにもかかわらず、隆兼は、それを不満だとして、土地を受取りに行った小早川と小笠原の使者に暴行を加え追い返した。

 毛利に叛意を抱いた隆兼が、まっさきに狙うのが吉川元春の分家にあたる吉川和泉守経康としても不思議ではない。

 物不言城の吉川経康は無勢で、古老の兵が多く、攻めればたやすく潰せると隆兼は見たのであろう。使者を経康のもとに遣わして尼子への鞍替えをうながしたが、経康は、使者の首を刎ねて隆兼の書状とともに元春のもとに送り届けた。

「最も忠勤の至りなり」

 元春は大いに感じ入った。

 家臣の首を取られ激怒した隆兼は、

「経康を退治する」

 隆兼は尼子に加勢を要請した。ところが、尼子義久は将軍足利義輝の仲介により毛利氏との講和交渉を続けている最中であり、応援は出せない。

 結局のところ、湯惟宗、牛尾久清ら三千騎が独自の判断により、ということにして応援にでた。

 そうなると、同じ福光郷にある福冨陣屋も危ない。

「忠左衛門、『門を固く閉ざして籠れ』とだれかを福光へ走らせてくれ」

 屋敷の裏山(妙見山)には、物不言城の出城がある。福屋勢がこれを攻撃したなら福冨陣屋も無傷では済まないだろう。

 福屋が吉川を攻めれば、小笠原としても毛利に従って出兵しなければならない。明尊にも出陣命令がでるだろう。陣屋の救援に行くことは出来ない。

 

  

 明尊は、ひとまず戦闘態勢を解いて、御屋形の出陣命令がでるまで待機することとした。

 湯信濃守の居城は、湯里にある。

 物不言城まで一刻(二時間)もかからない。

 それだけに、吉川和泉守は不意を衝かれた。北から湯隊が、南からは福屋隊が怒涛のごとく押し寄せてきて初めて気がついたのである。あっというまに五千の敵勢に囲まれてしまった。  

 物不言城は、福光の市、箱坂、林地区に囲まれた百メートル弱の山頂に本丸(東西二十間、南北九間)、二の丸(東西十一間、南北八間)、三の丸(東西十間、南北六間)を構え、山麓に御屋敷(東西三十間、南北三十間)、東段屋敷(東西三十間、南北三十間)等がある。

 城の南方は本陣山から連山に続き、城山は急峻で断がいが多く、前面からの登攀は不可能だ。強襲はむずかしい。

 物不言城のいわれについて、「楞巌寺(りょうごんじ)記」によれば「暦応年中、楠判官開城峙庶民挙而称物不言城」とある。楠判官は福冨七郎のことである。

 吉川和泉守経康が物不言城へ入城したのは、毛利元就から福光郷を知行地として与えられたのを機に、本拠を福光に移した永禄二年(一五五九)のことである。

 入城と同時に城の拡張、補強を行ない、やっと終ったばかりだった。

 

 物不言城を包囲した福屋勢は、長期戦の構えを見せていたが、『吉川和泉守は、家人らを休息のため山下へ下ろしており、城にはわずかの人数しか残っていない』ということを福屋に密告する内訌者があった。

 福屋勢の足軽大将が、二百人ばかりを率いて尾根づたいに急迫した。

 城中には、わずか数十人しかいない。経康は、あわてふためき右往左往する家臣を叱咤し、城にただ一挺しかない鉄砲を持ち出して、城門の外に仁王立ちに立ちはだかった。

「しめた、敵将だ!」

 吉川和泉守経康を目前にして敵は勇躍した。

 敵将の首をとれば、一番の高名だ。

 千載一隅の好機とばかりに福屋勢が殺到してくる。

 

 二百人の敵兵が挙げる喚声にも、経康は臆する気配もなく平然として鉄砲を構えている。

 福屋勢の足軽大将が七、八間に迫ってきたときドッと撃ち放った。至近距離から心臓を撃ち抜かれた足軽大将は、もんどりうって倒れ絶命した。

「見たか!」

 肝を冷やして呆然とする敵勢のなかに、槍を引っさげた経康が、わずか十四人を前後に立てて斬り込んだ。

 敵は、ひとたまりもなく逃げて行った。

 その後、物不言城には、「鉄砲の名手がいる」と言って近づく者はいなかった。

 

 福屋勢が福冨陣屋の前を怒涛のごとく行き来している。

 陣屋では、明尊の指示により、前濠にかかる橋を落して門を閉ざした。

 突然、濠の外側から、無数の火矢が飛来して屋根に突き刺さった。陣屋は、たちまち炎に包まれた。屋敷内の家屋は、米倉となっている土蔵を残してことごとくが消滅した。

 村のあちこちで煙が上がっている。敵が周辺民家の焼き討ちをしているのだ。

 陣屋には、五名ほどの士がいるだけである。敵兵が、侵入してくれば殺戮されるしかない。五人の士は、死を覚悟した。

 だが、敵は陣屋を焼き討ちにしただけで侵入してこなかった。

 

「福屋勢、福光の城を取り囲こむ」

 注進を受けた毛利の行動は素早かった。吉川元春を先陣の大将として宍戸隆家熊谷信直ら二千騎で駆けつけ、井田城、三つ子山城、大家城を攻略、毛利元就は、嫡男隆元、小早川隆景とともに六千騎で河下郷の渡り口に出張ってきた。

 御屋形小笠原長雄は、甘南備寺から出陣した。

 明尊の率いる福冨党も直ちに出陣し、小笠原隊に合流した。

 今回の紛争を引き起こす因の一端を持つ形となった小笠原隊に与えられた使命は、毛利軍の魁となって、まっさきに敵に突っ込むことである。小笠原隊は、まなじりを決して先発した。

 福屋隆兼は、松山城に退き、湯信濃守は湯里の居城に逃げ帰った。

 

 十二月初旬、元就父子は、川本の温湯城に集合して軍議したあと中之村城(中野)を取り巻いた。

 攻撃軍に加わった小笠原隊の闘志はものすごい。温湯城取り合いでは、福屋が敵の手先となって襲ってきた。今回は、攻守逆転だ。温湯城の仇とばかりに奮い立っている。

 吹きすさぶ寒波のなか攻撃が始まった。

 横なぐりの雪や霙に将兵の身は凍え、弓を引くにも指は萎え、刀槍を握るにも力がでない。

 それでも、小笠原隊が吉川勢の魁として突進していく。

 城内から射る弓矢に将兵がバタバタと倒れる。

「かかれ!かかれ!」

 すぐ後で下知を発する元就の大音声に、気を奮い立たせて突進する。

 ついに、二重に構えた柵木を乗り越えた。

 吉川勢の綿貫時勝が、二十貫目(七十五キログラム)もある鉄の大槌を軽々と持って追手門に一番に取り付いた。

「吉川隊綿貫左馬助時勝、大門を打ち破って、城への一番乗りを果たして見せようぞ。敵も味方もとくと御覧あれ」

 鉄槌を振り上げ、二打、三打と打って門の扉を微塵に砕いた。城の兵は、これを見て「大門が破られるとは」と驚愕したものの、槍数十本の穂先を揃えて綿貫時勝に突きかかった。

綿貫時勝は眉間に槍を受けて絶命した。

 吉川勢の今田経忠らが、大門から一番に乱入した。吉田の毛利勢並びに、宍戸、熊谷以下もぞくぞくと押し入った。

 城主の中村康之は少しもあわてず防戦し、宍戸の家臣末兼彌次郎を討ち取り、庄原豊後守に傷を負わせた。

 ここで、城の諸手が一度に破られたのを見た中村康之は、三百余人が円陣を組んで搦手から斬り抜け、矢上の城へ入って矢上勝平と合流した。

 攻城軍は中村康之を討ち洩らしたものの、残る兵らを追い詰めて討ち取り、首級八百五十余を挙げた。

 攻城軍は、つづいて矢上城を落すべく陣を進めた。

 ところが、矢上城の矢上勝平、中村康之らは城を明けて逃げ去った。

 

 中国山地にとどろく雷鳴とともに、せわしなく通りすぎていた雲の動きがとまった。

地上に重くのしかかった黒雲から、大粒の雪がしずかに降り出した。大雪の気配である。

 一晩のうちに積雪が一・五尺(五十センチメートル)を超えた。この地方としては大雪である。

 藁の雪靴も、湿気が多い山陰の雪には用をなさない。容赦なく沁み込んだ水気が将兵の足に凍みる。

 攻城軍も動きが困難になってきた。

 毛利元就が矢上城で、吉川元春は日和城にて越年、雪解けを待つこととした。

 福屋の郎党井下新兵衛、井下三郎兵衛、井下加賀守、河邊美作守、門田民部少輔らがあいついで元春に降伏して来た。彼らの武勇をかねてより知っている元春は、家人として召抱えた。

 永禄五年(一五六二)二月、雪どけとともに攻城軍は、福屋隆兼の子隆任らが拠る河上松山城を包囲した。

 四ッ地蔵城からは一里ほどしか離れていない。

 御屋形が四ッ地蔵城を前線基地とした。城内に幟が林立し、将兵が溢れた。

 ぴんと張りつめた空気が漂っている。

 いつもは閑散としている城内が賑やかだ。

 四日(新暦三月八日)、総攻撃がはじまった。

 六日、先鋒・小笠原隊が積年の恨みを晴らすべく、死傷者を乗り越え遮二無二突撃していった。そして、左近大夫が一番乗りの高名を挙げ、敵将・福屋隆任の首級を取った。

 諸隊に勝る高名をとった小笠原隊は、面目を施した。

 

 元就は、隆任の首を福屋隆兼に送り、翌日(七日)元春率いる先鋒隊が、隆兼の本城(乙明城)攻略のため進発した

 その夜、隆兼は、ひそかに城を脱出、浜田から小舟に乗って出雲に遁れ、尼子を頼ったが、昨年の十二月に将軍足利義輝の斡旋により毛利と講和したばかりの尼子義久は、福屋を受け入れなかった。

 隆兼は、大和に移ったというが、その後の消息については定かでない。

 

 永禄五年(一五六二)三月二十六日(新暦四月二十九日)、吉川経安は毛利元就毛利隆元吉川元春連署により邇摩郡福光郷のうち本領二十貫、湊二十五貫、同郡西郷のうち井尻村十五貫文の地と邑智郡日和のうち十五貫文の地を与えられた。福光の役による軍功を認められたものである。これにより、吉川経安の所領は千三百石余りとなった。

 福光郷では、吉川経安が五百四十石、福冨明尊が六十石を領していた。

「儂の所領は、吉川殿に保護されているようなもんだ」

 明尊が、哄笑している。明尊の所領・福光下村をとりまく田地のほとんどが吉川経安の領地なのだ。

 現在、国立歴史民族博物館に残されている『石見国福光下村福富家文書』の永禄五年(一五六二)三月二十五日付福光郷森村検地帳では、福冨七郎左衛門の所領を次のように記している。

屋敷

 二ヶ所四百文前

田地

 谷合七百前

 せと五百前

 南かわほり百五十前

 道下なかれ田五百前

 八幡御神田五百前

 権のかみ田五百前

 大境六百前

 落合三百前

 すけとこ三百前

 みつほ田五百前

 みつほ田上の切れ百五十前

以上十一か所計四貫七百文前

 天神迫五十文前

合わせて五貫百十五文前(約六十石)となる。

 前とは、この地方独特の地積表示方法で、耕地面積を示さず田地及び屋敷を分銭高で示したものである。例えば、四百前とは、四百文の収入に相当する土地ということである。

 このなかには、濠や土塁もあり、防禦性を兼ね備えた灌漑用の溜池も含んでいる。

 ここで注目することがある。

「前」という小笠原家独特の方法である。一般的に、百石の加増というのは百石採れる田畑を知行地として与えるということである。したがって、この中から武家の収入となるのは、五公五民とすれば五十石になる。後年、江戸時代になると知行地ではなく禄米としてお米蔵から受け取る武家ができたが、これは、「このたびの功績により、百石の加増を下しおかれる。ただし、玄米として五十石を支給するものとする」といった方法である。

これに対して、「百前」といえば百石の租税が取れる田畑を与えられたのである。 

 

 御屋形小笠原長雄は、福屋攻略戦の戦功により、住郷、川上、日和その他を加増された。さらに、甘南備寺閉居を許され、湯谷弥山城に移った。

 

山吹城

 

 永禄三年(一五六〇)七月、きびしい暑さがつづいていた。いつまでも続く暑さに人々は閉口していたが、幸いにも午後には決ったように夕立が降っていたので、渇水の心配はない。田んぼの稲には、すでに穂がつきはじめている。

 七月初旬、毛利元就は安芸、備後、石見の国衆一万四千余を率いて山吹城へ攻め寄せ、銀山の仙ノ山に本陣を置いた。

 山吹城に籠る本城常光は尼子方武将である。永禄元年の温湯城取り合いでは小笠原長雄に味方し毛利元就を攻撃した。

 仙ノ山(五三〇メートル)からは、要害山頂(四二〇メートル)の山吹城が低く見える。 

 城内に立ち並ぶ幟や旗が風に吹かれて元気よくたなびいていた。周辺の山や峰は毛利方として馳せ参じた石見勢が陣を構えている。

 攻撃隊は三方から同時に攻め登ることとなった。

 今回も小笠原長雄隊が先陣となっている。

 山吹城の正面は吉川元春隊が受け持ち、天文九年(一五四〇)九月から弘治二年(一五五六)までの十六年間にわたって銀山を領有し、城を熟知している小笠原隊は攻めるに最も困難な左翼を受け持った。

 毛利家に刃向い、降参していながら家名存続という寛大な扱いを受けた小笠原家である。御屋形自らが毛利家の魁(さきがけ)となって遮二無二に戦わなければならない。

 小笠原隊は攻城軍総大将毛利元就の突撃命令を待っていた。仙ノ山頂上から立ち昇る狼煙を合図とされている。身を焼く太陽を背に静まり返っている将兵を、あざわらうかのように蝉しぐれが辺りを覆っている。

「合図を見落とすな」

 小笠原隊将兵が本陣の仙ノ山をみつめている。

「己のつくった城を攻めるとは、気のあがらないことですなー、それに、対手(あいて)の本城勢は、ほんの一ヵ月前までは味方だった」

 忠左衛門が独り言のように呟いた。

「小笠原隊皆が思っていることだ。己が仕組んだ仕掛(防禦装置)の洗礼を受ける。…情けないことよのう。それだけに恐さも分かっている」

「絶対に、落とされない要害として自負をもっていましたよなー。それを落とそうとしている。皮肉ですなー」

 三年前までは、山吹城も小笠原氏のものだった。何回も行き来した城への路も、今では上ることも許されない。本陣の方角に目を据えている明尊の顔には、戦うという気迫が消えている。己のおかれた境遇に困惑している顔だった。

 突然、天地を揺るがす轟音が殷殷と山野にこだました。毛利軍の鉄砲隊による一斉射撃がはじまったのだ。これが、石見において歴史上に登場した最初の鉄砲隊となった。

喚声があがった。だが、山吹城のような山城を攻めるためには、あまり鉄砲の効果はない。

野戦においてこそ威力を発揮できるのだ。元就とて十分承知のうえで鉄砲隊を使ったのであろう。すぐに鉄砲の音は消えた。威嚇のための射撃であっても籠城中の将兵を脅す効果は絶大であった。それまで威勢よくあげていた喚声がぴたりと止(や)んだ。

 吉川勢山縣四郎右衛門、井上又左衛門、山縣助十郎、鉄砲足軽の小頭溝挟次郎兵衛らが先を争って突撃していた。

「吉川勢の抜け駆けだ」

 抜け駆けは、大軍の統制を乱すものとして厳しく諌められている。さらに、先陣を受けた小笠原隊への侮辱だ。戦場において、先陣は名誉とされており、先陣をめぐっての同士討ちになることもめずらしくない。 

 それを、こともあろうに毛利一族が破ってしまった。

「先陣は我らぞ。武士の意地にかけても後続部隊の後塵を被るような恥辱は受けるな」

 御屋形があわてて突撃に移った。飛来する矢を避けるために竹の束を盾とし、逆茂木をつぎつぎと抜き捨てながら一歩づつよじ登っている。

 山吹城には、小笠原が籠っていた十六年の間に銀山の穿通子(ほりこ)を使って設えた秘密の抜け道が掘ってある。城内から縦の斜坑を掘り下げ、岩陰や茂みの中に出口をつくって、よじ登った敵の背後を狙うためのものである。

 山を熟知している小笠原隊は、一つずつ抜け道の出口を塞ぎながら登って行く。

 正面の攻撃をかけた吉川隊は、城内から打って出た本城勢に対し、溝挟次郎兵衛の鉄砲隊で一斉射撃をかけ、敵兵が浮きあし立ったところを槍隊が代わって攻戦する。

 城内からは、正面の路を登ってくる吉川隊がまる見えだ。ひとりづつ狙いを定めて射ってくる。兵が矢に当たりバタバタと倒れている。

 攻撃隊は、いかにしても城内へ突入できない、被害は増えていくばかりである。

 側面からの攻撃隊は、城内から投げ落とされる大石小石や丸太に跳ね飛ばされて転がり落ちて行く。

 小笠原隊も竹束を盾にして石を避けようとするが、大石や丸太が落下してくればひとたまりもない。己が作った防禦装置に襲われ、バタバタと倒れていく。

 さらに、敵は矢穴(狭間)を開け、弓ではげしく狙い撃ちしてくる。

 攻城軍は三日間攻め立てたが落とすことができない。五千人を超す死傷者をだしているのに城はびくともしない。

「強襲では被害が多すぎる、ひとまず撤退する」

 毛利元就はついに撤退を決めた。

「あと、二、三日もすれば、この城は落とせます。このまま攻城を続けさせてください」

 毛利隆元吉川元春小早川隆景ら三人の息子が口を揃えて懇願した。

「いや、敵の籠っている山吹城をみよ、鶴が上空を舞っているではないか、敵陣の糧食が豊富にある証拠だ、一旦、引き退いて謀をもって本城を味方にする方策を考える」

 元就の決断は早い。

 撤退と決った。

 撤退すれば本城勢の追撃を受ける。殿(しんがり)は吉川元春率いる石見勢と決った。

 さらに周辺の地理にくわしい小笠原隊は殿軍の最後尾を受け持った。

 小笠原隊は谷底を通る路を挟むように両側の峰をかためて敵の追撃に備えた。

 吉川元春は一千八百余騎を連れて退却軍の後方に位置をとり、ことさらにゆっくりと退却していく。

 本城勢の兵二千が追いついてきた。足軽を先に立てて元春めがけて切りかかった。吉川勢が踵を反して反撃すれば追撃の足軽らは逃げ散り、退却に移れば、蝿のごとく集まって鉄砲を射掛けてくる。

 吉川勢が谷間の隘路で詰まり、身動きできなくなった。

吉川元春の旗本へ突きかかれ」

 本城の采配に二千騎が一手になってかかって行った。

「ウオー」

 喚声を挙げ、元春めがけて突撃していた本城勢が、突然、立ち止まった。

 前方の小高い場所に、元春が馬を止めて凛とした姿で本城勢を睥睨している。その前後を固めている一千八百余の兵は突撃態勢だ。バラバラなって逃げていると思っていた吉川勢が、いつのまにか態勢を組んでいたのだ。

 

 本城勢は、備え万全の吉川軍をみて動けなくなった。

 両軍がにらみ合い、対峙したまま鬨を挙げている。

 吉川元春の旗本森脇若狭守が本城勢のなかに切り込んだ。これを発端に敵味方数千の将兵が入り乱れた。

「今だ、本城勢を包み込め」

 峰々をかためていた小笠原隊ら石見勢が喚声を挙げて山を走り下った。

 三方から挟撃された本城勢がバラバラになって引いた。

 殿軍が合戦中であるとの注進を受けた元就の下知により、福原、桂らが駆けつけたときには、すでに戦いは終っていた。

 小笠原隊ら石見勢は、再度、峰に上がり備えをかためた。

 周辺の峰々には、小笠原、佐波、益田等の幟が立ちならび、救援にきた福原、桂らの兵とともに吉川元春が引いて行くのを見送っている。

― みごとな退却だ。あれでは本城勢も追撃できまい。

 明尊は、殿(しんがり)軍のありかたを教えられた思いで、吉川勢の姿が見えなくなった路をいつまでも見つめていた。

 この戦が、石見において鉄砲を組織的に使用した最初の戦となった。鉄砲が種子島に伝来して十年が経っていた。

 以後、鉄砲は武器として急速に広まっていった。

 鉄砲の威力をまざまざと見せ付けられた明尊らは、ただ、愕然としているだけであった。

 

 永禄三年(一五六〇)十二月二十四日(新暦一月九日)、尼子晴久が四十七歳で死去した。

 嫡男の義久が跡目を継いだ。

 

種子島銃

 永禄二年(一五五九)初冬、戦に明け暮れる明尊の四ッ地蔵城在城を待っていたかのように、八神屋與次郎兵衛がやってきた。雪が降ったのかと見間違うほどの霜が立っている寒い朝だった。

 與次郎兵衛は、家督を受け継いで十年になる。すでに齢四十を越え、玉鋼の商いも戦乱続きの世とあいまってますます繁盛している。

 久しぶりに訪れた與次郎兵衛の後ろには、二人の男がついている。

「この方が、お夕の義父上内田屋さんで…」

「内田屋孫兵衛でございます。八神屋さんにはひとかどならぬご交誼をいただいております」

「お夕は、元気でいますか」

「ええ、よく気のつく器量よしでございます。夫婦仲もよく安心しております」

「それはいい、夫婦仲のいいのが一番ですからな」

「ええ、それはもう…跡取もできまして、私も一安心です」

「それは、めでたい」

「その節(結婚のとき)には、大層な御祝いをいただきましてありがとうございます。

ところで…」

 連れの若者が持っている包みを取り寄せて、慎重に開きながら、

「これは、薩摩国島津領の種子島というところに漂着した南蛮船から伝わった鉄砲というものでございます」

「うわさには聞いています。九州では戦に使われ始めたらしい」

「そうでございます、天文年間の終り頃には、すでに島津軍が使ったといいます」

「それほどに威力があるものなのですか」

「ご説明申し上げる前にいちど見ていただきましょう」

 孫兵衛らは城内の畑地にでた。

 山下忠左衛門、山田重兵衛、佐々木喜兵衛、越堂清左衛門らが集まってきた。

「弓矢をできるだけ遠くへ飛ばしていただけませんでしょうか」

「それなら、儂がやりましょう、的がなければ儂でも射ることができます」

 笑いながら忠左衛門が弓を取った。

 忠左衛門の射ち放った矢が、地に落ちた場所のさらに五間先に藁(わら)人形を立てた。

「これから、あの的を撃ち抜いてご覧にいれましょう」

 若者が、片ひざだてになって鉄砲を構え、静かに筒先を的に向けたと同時に、凄まじい轟音が明尊らを襲った。

 轟音は、山にこだまし、百雷が足元に落ちたような衝撃を受けた。明尊と忠左衛門が、みごとに尻もちをついていた。なんとも香しい煙が漂ってきた。

 その瞬間、明尊は筒先から噴出す閃光を見た。

 忠左衛門の口が、パクパクと動いていた。

―なにを言ってるのだ。

 聞こうとした明尊の耳に、忠左衛門の声が聞えた。

 鼓膜が痺れていたのだ。

「すさまじい音だ」

 耳の奥でガンガンと響く余韻に驚愕し唖然としている明尊らを、孫兵衛が先に立って的のところへ案内した。

 藁人形は倒れていた。なぜ倒れたのか明尊には理解できない。

「音にびっくりして倒れたのではありませぬ」

 鉄砲の弾が食い込んでいる藁人形を示しながら孫兵衛が笑っている。

「これは、この筒内に火薬という紛を入れまして、その次に鉛の弾を詰めてから火縄の火を火薬に点火しますと、瞬時に爆発して弾を飛ばしているのでございます」

 孫兵衛が説明を始めた。

「火薬は硫黄と炭の粉末に煙硝(硝石)というものを混ぜ合わせたものでございます。これに点火すると爆発して、弾を飛ばすのでございます。その威力は見てのとおりで、弓よりもはるかに強く、織田信長、毛利さまをはじめ各地の領主さまが競って買い集めておられます。さらに、ご自分で鉄砲を作る技術を取り入れ、鉄砲鍛冶を増やしておられます」

「戦の仕様が変わるということですな」

「これから、日ごとに変わるでございましょう」

「ただひとつ、気をつけなければならないのが、馬を驚かせないことです。なんの前ぶれもなく耳元で、突然、このような轟音を出しては、肝を潰して、使いものにならなくなります」

「馬でなくともわれわれが肝を潰したぞ」

「鉄砲の訓練をするときに、初めは遠く、慣れるにしたがって近くで音を聞かせる必要があります。馬は元来、気の小さい動物です」

「硫黄と炭は分かるが、煙硝とは、いつでも手に入るものなのか」

「煙硝は、それぞれがご自分で製造しておられます」

「……」

「古くからある家の床下には、必ず煙硝がある。と、言われています」

「叔父御」

 突然、明尊が、説明を遮った。

「この鉄砲は、買うことができますか欲しいですな」

「はいはい、すでに購入したものです。今は各地で引っ張りだこで買いあさっていますから、なかなか手に入らないものですが、内田屋さんのご尽力により買うことができました」

 孫兵衛が、わざとらしく胸をたたいて見せた。

「儂のために作ってくれたものですか、おー、なんと…・銃身のなかほどに家紋がある、しかも角立四つ目だ、まさしく」

「お気にいりましたか」

「ありがたい。それで、値段はいくらになります」

「これは、六匁銃といわれるもので銭一貫(一千文)ほどです。もうひとまわり大きい三十七匁銃では銭五貫といわれます。今は、製造される数より買う方が多いから高い値段がついてます」

「それは高い、おいそれと買えるものではありませぬの」

「ご心配なく、この銃は支払いも済んでいますよ」

「いつものことながら、叔父御には迷惑ばかりかけて…・ところで、その煙硝というのは、だれでも造れますのか」

「簡単に説明しますと、古い民家の床下、特に、肥溜の近くが良いようですが…、床下の土を掘って、それに草木灰を混ぜて水を加え、濾液を煮詰めて水を蒸発させると、塩のような物質ができます、これが煙硝です。…・しばらくは、この者に手伝わせます」

「肥溜というのは、おもしろいですな」

「そうなんです。糞尿が水に溶けて煙硝を創り出すらしいのです。…次ぎに問題になるのが硫黄、炭、煙硝の配合割合です。これは晴れた日と雨の日とでも違います。いかに配合すれば最大限の力を発揮できるかは、手元にある硫黄、炭、煙硝の品質、濃度によっても違います」

「硫黄は、どうするのでしょうか」

「日本は火山の多い国ですから、大量に採れます。わたくしに言っていただけば、いくらでもお持ちいたします」

「いちど撃ってみられますか」

 孫兵衛がさしだした鉄砲を片手で受け取った明尊が、その重さに驚き、あわてて両手で持ち直した。

 孫兵衛の手取り足取りで射撃体勢をとって、言われるままに静かに引き金を引いた。

 轟音とともにものすごい衝撃を受けた。耳朶が塞がり、またもや尻もちをついていた。

発砲の反動によるものだった。

「熟(な)れれば、二町(二百メートル)先の人間を狙撃することなど朝飯前です」

 孫兵衛は、さらりと言ってのけたが、明尊の撃った弾は、的を外れ、どこへ飛んでいったのか分からなかった。

 次に、男は、一町(百メートル)先に置いた古い甲冑を撃ち抜いた。

 一寸ほどの穴があいていた。まさに驚愕する威力である。

 明尊らは呆然としているだけであった。

「弾は二町(二百メートル)ぐらいはらくらく飛びますが、甲冑を着た人間を倒すには、ほぼ一町ほどでしょう」

「それでも、すごい威力ですの。弓では、どのような大弓を使っても不可能だ」

 各地の武将が競って調達しているということは重大な事実である。このような武器を数百挺単位で筒先を揃えて撃たれたら甚大な損害を受けるであろう。

― 早急に、御屋形へお知らせしなければならない。

 翌日早朝、明尊らは、甘南備館へ遣いを走らせた。

 

 ドーンと凄まじい爆音に、御屋形(小笠原長雄)をはじめ重役が肝を潰し、声を失っている。沈黙が続いた。しばらくして、耳を手で軽くたたきながら重役の一人が呟いた。

「こんなもんが出まわったのでは、今までのような城ではたちまち潰されてしまいますなー」

ため息まじりの声が上ずっている。

「城を、思いきり高い山の上にもっていくか、周囲の水堀を思いきり広くとって弾のとどかない場所に築くしかないでしょうな」

「今、築城中のお城(甘南備城)は、大丈夫でしょうか」

「残念ながらこんな武器を想定しての縄張りではない」

「いずれにしても、すでに工事にとりかかっていることですし、鉄砲に対する備えを強化する必要があるでしょう」

「まず、塀を頑強なものにして二重、三重とし、石垣を高くする」

「そういう点では、温湯城は良かった。…・いまさらせんないことだが…吉川氏の物不言城などは良い城ですなー、わずか四十間(七十二メートル)ほどの山ながら懸崖で、道以外の山肌は登ることが不可能、鉄砲の玉はとどかない」

「それにしても鉄砲を早急に、できるだけ大量に調達する必要があります」

「莫大な資金がいる。銀山を領有していたころならまだしも、今は痛い」

「これなる内田屋孫兵衛に頼ることになるが、毛利さまにも承諾を得る必要がありますな」

 重役らの意見は、鉄砲配備に傾いた。

 

 永禄三年(一五六〇)五月、東国では四万五千の兵を率いて駿府を発ち、京へ向かっていた今川義元が、尾張の田楽狭間で織田信長の急襲を受けて討死した。織田信長はわずか二千の兵で奇襲をかけ、毛利新介と服部小平太が義元の首を取ったという。(桶狭間の合戦)