福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

三高城

 天文十二年(一五四三)七月三日(新暦八月三日)こんどは、尼子晴久が石見に出兵してきた。石見の豪族は、つぎつぎと頭を垂れている。

 晴久は、「大内勢を敗った今、勝ちに乗じて石見、備後を切り隋えたのち、再び芸州へ討ち入って一年前の鬱憤を散し、大敗の恥をすすぐ」との決心を伝えた。

 七月五日(新暦八月五日)、温湯城大広間、江川から吹き上がるさわ風が、端坐する重臣らの汗を乾かしている。ガンガンと耳に響く蝉しぐれに混じって、ときたまさえずる鳥の声が、居並ぶ諸士の心をわずかに慰めている。

 広間では御屋形小笠原長雄を前にして緊急の重役会議が続いている。

 御屋形は病臥中の父長徳に代わって小笠原軍団を統率しており、二十歳を過ぎたばかりの青年武将ながら気性激しく、すでに剛将の片鱗をうかがわせていた。

「一昨年は、尼子とともに毛利を攻めた。去年は、大内に追従して尼子を攻めた。今回は、また尼子についていかねばなるまい」

「それにしても、いつも他人に隋従では情けない、武士らしく毅然とした態度を貫きたい、真の独立をめざすべきです」

「それがしも同意見にございます。小笠原領内には銀山があり、銅山もあり、それに刀剣の材料となる良質の鉄も豊富です。これらを最大限に活用して軍備を増強すべきであると考えます。自分の力を養っていかないと、やがては尼子や大内に支配されてしまいます」

「忠誠、義理にこだわれば、河津民部左衛門のようにひとたまりもなく滅びます。これが我らの宿命です」

 河津民部左衛門久家は、大内に従って尼子を攻めた出雲国人衆のひとりである。大内勢敗退のとき宍道遠江守や多賀美作守らは山口に逃れたが河津久家は、あえて出雲に残り、尼子に攻められて討死した。

「河津民部左衛門の戦死の様は、武士らしくいさぎよいと称賛をあびているようですが…家を潰してしまってはなんにもならん」

「そう、武士の意気地を立てたところで死すれば犬死だ」

 議論は尽きそうにない。

「我らは、そのときどきの連合を組んで戦ってきた。武家がいっそう強い勢力と連合を組むのは、武家のならいである、裏切ではない」

「合戦は、お家興隆のよい機会だ」

「籠城してどちらにも附かない中立という立場はどうだ」

「この城・温湯城に籠城すればちょっとやそっとのことでは落とすことはできないでしょう。でも、後詰めがあるということが前提となりましょう。今、大内、毛利は、月山富田城攻めの失敗により離反する者が多く、自国内での戦いで手いっぱいでございます。我らが籠城しても後詰めは期待できません。救援の無い籠城は自滅を招くだけです」

重役らの発言は続いている。

 御屋形(長雄)は腕組みしたまま目を瞑っている。ひとことも発言しない。長雄の脳裏には、毛利元就とともに過ごした二月前の一夜がわすれることができない。

―あのとき、元就父子は、儂らを信じてくれた。二人の生命を儂らに預け、頼ってくれた。短い日数であったが、元就の強さ優しさを知り、これからは元就とともに歩むと誓ったではないか。

 老臣らの意見はとうとうと続いている。

「尼子氏とともに行動する」

 突然、長雄が短く言いきると、捨て切れない元就父子との交誼を振り払うかのようにサッサと座敷をでていった。『小笠原には、いままでどおり銀山支配を安堵する』という尼子晴久からの書状を手にしていた。この時代、銀山を支配するということは、銀山経営を請負うということである。尼子晴久に一定量を貢献すれば、あとは、すべて自由になった。それだけ、銀山支配には魅力があったのである。

 ちなみに、大内、毛利と尼子の間で熾烈な銀山争奪を繰り返したなかにあって、小笠原氏は、通算で二十年もの間、銀山を支配していたことになる。

 七月十四日(新暦八月十四日)、二万の尼子勢は、久利清六兵衛、左馬助父子を攻め、郷中一軒も残らず焼き払った。大内からの援軍も望めず、わずか三百人では、とうてい守り抜くことはできないと久利は防州へ逃げた。

 久利城を潰した尼子勢は、つづいて佐波隆連の三高城を攻めるため江川を隔てて頓営した。

 佐波氏は、本城青杉城を中心として、その西に丸屋城、南に皷ガ崎城を構えていた。三城の間は数町しかなく、互いが緊密な連携をとって戦うため、うかつに攻め入ることのできない要害であった。この三城は南北朝動乱のころから三高城と呼ばれていた。

翌日、江川特有の朝霧のなか、かすかに見える対岸に佐波の勢三百余りがでてきた。

「ここから渡って来い。治承の乱において足利忠綱と佐々木高綱が、宇治川を渡って功を得ている。それのみか三郎盛綱は海を渡ったという、川を渡るということは例あるといえども、馬にて海を渡ること未曾有の功であると賞せられたという。今、ここを渡らねば晴久殿の勇は落ち、先祖に顔向けもできないであろう、海を渡れといっているのではない、せめてこの河を渡ってきたらどうか」

 対岸から兆発している。

「憎い敵のいいぐさだ、ここを渡らねば、まことにもって先祖の功をも潰してしまう。行くぞ、ものども続け」 

 尼子左衛門大夫が馬腹をけった。

「なんということをなさるのか、ここは浅瀬ではありませぬぞ、敵は我々をだまして深みに入らそうとしているのです。浅瀬は、ここよりはるかに下流ですぞ」

 小笠原長雄と本城常光が走り寄って制止する。

「なにを言うか、これぐらいの川、渡れなくてなんとする。」

 左衛門大夫が制止を振り切って川に踏み込もうとする。

「浅瀬もわからぬ大河を渡り、溺死でもしたら末代までも恥辱を残してしまう。舟を集め夜を待って渡る、しばらく待て」

 晴久の命により左衛門大夫は、力なく陣へ入った。

 その後、一ヵ月ほど攻めたが城を落とすことが出来ない、

「いたずらに当城にのみ日数を費やすのは愚なことだ。石州のうち益田、吉見、福屋、佐波以外の国人衆は、尼子に靡き従った、ひとまずはこれでよい」

 ついに、晴久は、三高城攻略をあきらめて石見銀山に矛先を変え、これを押領した。

 これを区切りとして晴久は出雲へ引き揚げた。

 晴久は、銀山を小笠原長雄に与えず、直轄地として代官を置いた。長雄としては、当然、自分に与えられるものを直轄としてしまったことに納得がいかない。

「今まで、大内どのにしろ、尼子どのにしても銀山支配は我が小笠原に任せていたではないか、小笠原の銀山支配力をないがしろにしおって」

こめかみに青筋をたてて怒りを露わにした。

 天文十二年(一五四三)この年、種子島に鉄砲が伝来した。

 天文十三年(一五四四)二月中旬、尼子民部太夫改め修理太夫晴久は、三万騎を引率して伯州攻略にかかった。

 伯州へ入ったばかりの八橋城で逗留して初夏になるのを待った。この間に、大崎城の守将は尼子勢の威風に怖れをなして逃げ去った。

 尼子勢は海岸を東進し、鹿野城を一気に陥落させた。

「この勢いで、鳥取城下に放火して、鳥取城もしくは私市城のいずれかを落とせば、因幡の者どもは尻尾を巻いて退散するであろう」

 意気衝天の勢いで軍評定を行なっていたところに、尼子晴久の母公が重態に陥ったとの知らせが届いた。

 五月上旬、尼子勢は因幡を引き払った。

 

 同年(一五四四)十一月、毛利元就の三男隆景が小早川家を相続した。

 

 天文十六年(一五四七)八月二十一日(新暦十月四日)、小笠原長徳が死去した。治世わずか六年の短い在位であった。

 嫡男長雄が十四代を継いだ。

 天文十七年(一五四八)、三月、小笠原長雄は銀山を攻略し、弟小笠原大膳太夫長秀をはじめとして大島和泉守、平田加賀守、寺本土佐守、福原山城守、横道帯刀、青木、市川、小田、樋口ら三五〇人を連れて銀山の視察をした。

 

お夕

 天文十二年(一五四三)初夏、明尊と忠左衛門は四ッ地蔵城を出た。

 今日も晴天が続き、雨の心配は無さそうだと思っていたが、太陽が中天を過ぎた頃になって突然の雷雨となった。あいにく人里離れた山中だった。

 黝(あおぐろ)い雲が地を圧し、雷電が頻りに襲ってくる。

「これはかなわん、避難しようぞ」

 明尊が走り出しながら前方をみると、山道を覆い隠すように広がる竹林のなかに一軒屋があった。

「それ!」

 掛け声とともに入口に駆けこみ、ホッと大きく呼吸した。

「誰か居るか」

 山下忠左衛門が軋む音をたて、重たい板戸を引き開けて暗い土間に入った。

「誰もいないようですが、子供がひとりで寝ています」

 忠左衛門に誘なわれて明尊も敷居をくぐった。暗い土間にポタッポタッと音をたてて雨漏りが始まっている。

 土間に面した囲炉裏の端に三歳ぐらいの女児が寝ている。遊んでいる最中に、とつぜん寝てしまったという形をしている。その手に、木を削って作った小さな人形をしっかりと握っている。木の枝で細工しただけの素朴な人形だ。

 囲炉裏の火は灰で覆いかくされ、鍋は冷えきっている。

 土間の窓際にある流しには、女児が昼に使ったらしい小さなお椀とはしが置いてある。

 高窓から差し込む一条の光りの中で、空気中に浮遊する無数の塵が光っている。すべてが静寂のなかにあって、意外なほど多くの屑が飛んでいた。

「どうしたの、どこか悪いの」

忠左衛門が女児の額に手をあてて、

「熱はないなー」

 目が覚めて、きょとんとしている女児に話しかけている。

「おかあちゃんは?」

「下へ行ってるの」

 下の村へいってるらしい。

「おとうちゃんは?」

「いない」

「そう、ひとりで留守番してるの」

「そう」

「おかあちゃんは、いつ帰ってくるの?」

「夜になったら」

「夜まで、ひとり?」

 女児はこっくりとうなずいた。

「それで、どうして寝てたの、おなかが痛いの?」

かあちゃんが早く帰ってくるから」

 女児のひとことが明尊の胸を押し潰した。

「そうだね、寝ていたら早く夜になるな」

 忠左衛門が大粒のなみだをだしている。

 忠左衛門がふところから紙に包んだ菓子をとりだして女児に食べさせた。

 女児は目をまんまるくして食べている。

「こんな甘い物は、はじめて口にするのでしょう」

 忠左衛門が泣き笑いしている。

 近ごろ、長崎で出まわり始めた南蛮あめの金平糖だ。博多の内田屋が八神屋へ贈ってくれたものだった。女児が驚愕するのも無理はない。

 結局、二人は夕方まで出立できなかった。明尊が可哀相だといって動こうとしなかったからだ。明尊は、囲炉裏の横に置いてある薪の中から、椿の枝を切り取った。そして、無心に小柄(こづか)を使って、なにやら彫刻を始めた.明尊に寄り添うように座っていた女児が目を輝かせた。

「ほれ」

と、女児の手に握らせたのは一刀彫りの人形だった。

「ほー、うまく出来てますな」

 忠左衛門は、夕が大切そうに抱える人形を見つめていた。

「これで、二人になっただろ、人形さんの友達ができた」

 女児がこくんとうなづいた。       

「そうだ、お人形さんの夜具も必要だ」

明尊が、襦袢の片袖を切り取って、女児に渡した。

「そりゃーいくらなんでも・・・」

 忠左衛門が苦笑いしながら移す視線の先で、女児が二つの人形を大切そうに布で包んでいた。

 夕方暗くなって帰ってきた母親に、忠左衛門が事情を説明してから家をでた。とにかく、下の村まで後戻りして昼餉をとるために立ち寄った郷士中村宇左衛門の家に泊まることとした。

 さきほどの、にわか雨で川になった山道を、二人は下りて行った。

 引き返してきた明尊らをみて驚いている宇左衛門に事情を説明すると、

「あー、そういうことで…・・」

 安堵の声を発し、なんと物好きなといわんばかりの顔をあわてて取り繕うように、

「あの家の亭主は、吉田攻めに足軽として出征したまま帰って来なかったのでございます。あの戦では、多くの者が亡くなりました……あっ、これは失礼しました、お殿さまの御先代さまも、お亡くなりに……それから、あの女児…夕ともうしますが…・女児の母親は、…さちともうしますが、村の野良仕事を手伝って、ほそぼそと生きてるので御座います」

「父親の名は、なんと申しますか……」

「茂吉と申します」

「なんと、茂吉か…・・」

「ごぞんじで」

 宇左衛門が「へー」という顔をしながら上目づかいで忠左衛門を見つめた。

「殿、茂吉は大殿の轡を取った男です。大殿の轡取りであった助八が病に倒れましたので、急遽、茂吉にさせたのです。それが、なかなかの者でして、あの日(天文十年正月十三日)敵味方数万がダンゴになって激突したとき、己は血だるまになりながらも決して大殿の側を離れなかった、あっぱれ者でした。最後は、御最期をげた大殿の前で仁王立ちになって敵の矢を一身に受け止めてくれました。イガグリのごとく矢が突き刺さっても逃げなかった」

「そうだったのか」

「ここで、茂吉の身内に逢うとは…・」

「さちは、うちでもときどき使っていますが……そりゃーもう…よく働きます。まだ三十にも程遠い若さですから、身惜しみをしない女です」

「吉田攻めでは、大敗を蒙った。……あの山のなかの一軒屋では、…・狼や山犬もいるだろうに。」

「だから、一日中、外にでないらしいんですよ」

「……・」

「あの夫婦は、あそこで炭焼きを生業としていたんです…・・亭主が亡くなってから、一人では無理ですから」

「…・・連れて帰るわけには行きませんか」

 明尊の唐突な申し出に、エッと絶句したままことばがでない宇左衛門に、

「いままで、あのような者がいることさえ気がつかなかった。…・迂闊だった…・わが父のために命をささげてくれたのに…・・非道のもとに一刻も苦しめておくべきでない。…宇左衛門どの、それがしの気まぐれを許してもらえないでしょうか」

「反対する理由はございません、私としても気にかかっていたことでございます。それにしても、そのような働きをしていたのでございますか、茂吉は…」

「それでは、さっそくにも行って、話してみよう」

明尊が立ち上がった。

「おまちください。突然行ったのでは…・うちの者を走らせますので、すこし刻をおいてからお出発ください」

 宇左衛門があわてて、若者を走らせた。

 

「おじちゃん」

 忠左衛門の顔をみて夕が走りよってきた。

「おー、おー、かあちゃんが帰ってきて元気がでたな」

 夕の頭を優しくなでながら、土間に平伏している母親を促して座敷へあがった。

 明尊と忠左衛門は、仏壇として設えた台上の位牌に両手を合わしている。

「話のあらましは、聞いたとおもうが、亭主には、きのどくなことをした。儂のところへ来ないか、なにも心配をすることはない、…・・娘御と一緒に暮らせるようにしたい」

「……」

 明尊に寄りそうように夕が座っている。明尊は兄ちゃんでしかない。

 土間に平伏したままの母親のさちは、嗚咽して声がでない。

「存じているとおもうが、殿のお父上も吉田攻めで討死なさった。そのとき、そなたの亭主茂吉は、殿の馬の口取りをしていたのだ。最後の最後まで大殿のもとを離れず、りっぱに死んでくれた。剛の者だ。天国でも大殿は、茂吉の口取りで馬に乗っておられるであろう。今、そなたに逢えたということは、大殿のおぼしめしだ。だから、心配するでない、…・それに、こんな可愛い子を、こんな山奥にひとりで留守番させるには、危険が多すぎる。…・・娘御には、遊びあいても必要だ」

「宇左衛門どの、恐縮だが、この者の用意ができたら、それがしのもとまで送ってくれないでしょうか」

「よろしうございます。亭主も草葉の陰で安心しているでしょう」

 宇左衛門が感きわまったという口吻で、さかんにうなずいた。 

「亭主の位牌も忘れるでないぞ、一緒に連れてくるのだぞ」

 忠左衛門がやさしくいいながら、懐から銭をとりだして夕にわたした。

「もう、明日からかあちゃんは、いつも夕と一緒だよ」

 事情の理解できない夕は、きょとんとしながらも忠左衛門からもらった銭を母親の手に渡した。

 

 数日後、さちと夕は明尊のくちききで、八神屋(やかみや)與次郎兵衛に引き取られた。

 八神屋は今、正寛が三代與次郎兵衛を襲名している。

 正寛は祖父忠智の又従兄弟になる。

「二人は特別待遇をうけているようでございます。他の奉公人とは別に門長屋の一室を貰いうけて二人で住んでいます。『大殿の盾となって討死した』という殿の一言がきいたようでございます」

 二人を送り届けた忠左衛門が、破顔で報告している。

「小間使いをやっているようですが、それが、なかなかの働き者で、機転が利くらしく、與次郎兵衛さまや奥方に気に入られているようです。夕は、孫のようにみんなから可愛がられています」

 明尊は二人を自分の屋敷で働かせるつもりでいた。しかし、その考えは直(すぐ)に変わった。

 亭主を死なせたさちを、武家に住ませることに躊躇したのだ。商家のほうが二人にとって安穏に暮らせると思ったからだ。

― さちが武家を望むなら、夕が大きくなってから武士の亭主でも探してやればいい。

「ところで、與次郎兵衛さまは、『さちと同じような境遇の者は、他にもいるでしょうに』と言っておられました。その件につきましても、殿はなにか善処を考えるお気持ちのようですと言いますと」

 いたずらっぽく笑いながら忠左衛門は、

「與次郎兵衛さまは、『同じような境遇の者が十人おるとして、残された家族のうち、そのうち男は四人、女は六人じゃろうか、…一日あたり、男に米五合、女に米二合が飢えずにすむ最低量であろうから、一年では一千八百合、女七百二十合…・一俵四百合として、男に約五俵、女に二俵、十人では三十二俵を扶持しなければならんでしょうな、一石は二俵半ゆえ、〆て十三石分となる。…十人でこれですからなー』とおっしゃられました」

 たちどころに計算したという與次郎兵衛に、明尊は口をあんぐりとしているだけだった。

「でも、あの二人はほっておけなかった」

 忠左衛門が明尊に同意をもとめた。

 「それにしても、お夕の顔がずいぶん明るくなりました。與次郎兵衛さまはお夕の遊び相手も付けて下さっています」

「よかった」

明尊がつぶやいた。

 

月山冨田城

 天分十年(1541)秋、それまで尼子方であった備後、安芸、石見、出雲の国人衆十三人が連署して大内氏へ尼子征伐を慫慂した。

 備後の三吉広隆、山内隆通、多賀山久意、杉原盛重、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、川津久家、宍道正隆、古志吉信、石見の本城常光、福屋隆兼、出羽助盛、吉川興経の十三氏である。

 小笠原長隆は十三人衆の連署には参加しなかった。これまでの尼子氏との交誼を考えると、どうしてもふんぎりがつかなかったのである。

 

 十三人衆の意見に心を動かされた大内義隆は尼子征伐の兵を起した。

 天文十一年(一五四二)正月十一日(新暦一月二十六日)、一万五千の将兵を率いて山口を進発した。

 義隆と駒を並べて進む若武者は、公家の一条家から義隆の養嗣子となった義房である。 公家装束に甲冑をつけている姿は、いかにも弱々しく勇猛な武将とは、ほど遠い。武将としての知識も持ちあわせていないだろう。きらびやかで奢侈な姿は、随従する武将の目には受け入れられるものでなかった。

 同月十九日(新暦二月三日)、義隆は安芸の国府で安芸、備後国人衆の参陣を待った。

 ここで、毛利、宍戸、平賀、吉川、小早川、天野、熊谷、香川、山県ら安芸の国人衆、宮、三吉、山名、多賀山、山内ら備後の諸将が集まり、三月初旬に石見路に入って出羽の二ッ山城に着陣すると、益田、福屋、出羽、佐波、小笠原、本城ら石見の諸将が加わった。 

 遠征軍は、都賀の渡しに舟橋を架けて江川を渡り出雲路に入った。これまで尼子麾下となっていた石見の国人衆は大風が通り過ぎた稲穂のごとくこぞって腰が折れ、大内方となって尼子攻めに参陣したのである。

 

 御屋形(小笠原長徳)の顔が暗い。

― 己の力がないため、大きな勢力に反抗することができない。ただ、大風の吹く方向に腰をり頭(こうべ)をたれて追従しなければならない。まるで、鼬(いたち)ごっこだ、なさけない。

「それにしても、大内義隆の公家装束には、どうもいかん。化粧した顔をみると虫唾が走る」

 御屋形(長徳)が近侍にもらした。

 大内義隆は、武士の本分を捨て、公家になりたがっている。山口では、公家のような生活を送っているという。今回の出征も、公家装束に甲冑を着けている。武辺一辺倒の長徳には、どうしてもなじめない姿であった。

 福冨党に出陣命令はでなかった。十歳になったばかりの明尊に戦はまだ早いと御屋形は見たのであろう。

 四月四日(新暦五月八日)、病に伏していた小笠原長隆(十二代)がついに死亡した。

 

 六月七日(新暦七月十九日)、大内勢は、尼子方の赤名・瀬戸山城を攻撃した。

 

 七月十九日(新暦八月二十九日)、毛利元就が先陣となって、陶、杉、内藤ら大内の重臣らとともに攻めたが、らちがあかない、わずか二千余の籠る小城を陥すのに一ヵ月半もかかっている。城の攻略がいかに難しいかということを、さらけ出してしまったのだ。

「こんなところで兵力を損なっていたのでは、肝心の本拠地である月山富田城攻めに支障がでる」

「そうかといって、この城をこのまま放って、進撃するわけにもいかない」

 戦評定は容易にはまとまりそうにない。

 尼子氏は月山富田城を守る前線基地として、赤名、牛尾、白鹿、三沢、三刀屋、高瀬、神西、熊野、馬木、大西の十城を配している。「尼子十旗」である。さらに、十神山、三笠山などの尼子十砦といわれる城砦が二重三重に月山富田城を固めている。

 城を攻めるには、まず、これらの城を落さなければならない。石見の小豪族を潰すのとは違う。ただ、今回は三沢、三刀屋らが尼子を裏切って大内氏へついている。

「まず、赤名・瀬戸山城将赤穴右京亮に、城を明渡し味方となるならば所領数カ所を与える、と言い送って相手の出方をみてはどうでしょうか」

 相良遠江守武任が言う。

「いや、遠江守の言うこともっともなれど、赤穴はその手にのらないだろう、なぜかと言えば、三沢、三刀屋をはじめとして多くの国人衆が、大内家へなびき従うなか赤穴ただひとりが尼子一味の約束を頑(かたく)なに守っている。いかなる謀をもっても、いまさら降伏はしないだろう。それよりも月山富田城が最も頼みにしているこの城を、一気に力攻めで落とせば、敵方は恐れ臆すことでしょう。赤穴の城を潰さずして月山富田城を攻囲しても、赤穴のために石州の通路を塞がれ、糧道を断たれて、味方が苦戦するでしょうし、万が一、味方が敗れて退くときにもこの城が害となるでしょう。とにかく、この城を放っておくことは智謀にうとい者のすることだ。味方の損害をかえりみず、強襲し、たとえ、赤穴に血気の勇士がそろっていようとも乗っ取るべきだ。当城を攻め取れば、出雲国中で未だ大内家に従わない諸士も、ことごとく降伏するでありましょう。属城を片っ端から切り従え、後方をかためながら月山富田城を攻めるべきでありましょう」

 陶隆房の主張に皆が同意した。

 七月二十七日(新暦九月六日)、卯の上刻(午前六時)、総軍四万余騎が三度の鬨をあげて、赤穴の要害を四方から攻め立てた。

 陶隆房、平賀太郎左衛門隆宗、吉川興経ら五千余騎が一手になって大手門を強襲した。

 これに対して、赤穴右京亮が一千余騎を率いて激しく射立て、攻手が怯んだところに城門を開いて出てきた。両軍が押しつ押されつ入り乱れて、夕方まで戦ったが勝敗は決まらず、お互いに退いた。攻手は、手負い死人が一千人を超える損害をだしたが、ついに城を破ることができず、津賀まで退いた。

 だが、その夜突然、城方は降伏・開城した。

「どういうことだ、あれほど息盛んに反撃していたものを」

 攻城軍は、きつねにつままれたようである。

 ところが後になって分かったことだが、その日の戦闘で喉に矢を受けた城主赤穴右京亮が落命したため、大将が討たれたうえは、城を持ちこたえることができないと、富田城から加勢にきていた将の助言をいれて、赤穴の妻子を助けることを条件に城を明渡したというものであった。

 

 七月二十九日(新暦九月八日)、大内勢の本陣を由木に移した。地図上に月山富田城を基点とする円を描くと、南西六十キロ地点が赤名であり、南三十キロ地点が油木である。まだまだ、月山富田城までは遠い。

 それにしても、いかにも遅い進撃であった。

 

 この年八月、石見地方は猛烈な台風に襲われた。二十一日(新暦九月三十日)夜半、滝のような大雨が一刻にわたって続き、たちまち江川は氾濫、周辺の村落に甚大な災害を引き起こした。

 刈りとって稲棚に干していた稲も水に浸かった。

 高石垣の上にある八神屋も軒下まで水を被り、川近くの倉や家屋はことごとくが水面下となった。この辺りは、洪水に流されるのではなく、土手を溢れた水により、村全体が沈んでしまうのだ。住民は、徐々に増えていく水に追われるように山に避難していく。江川の水位が下がると、村を覆い隠していた水も引いてゆき、その後には、ほとんど被害の無い村が出現した。といっても、倉の中に置いていた商品・玉鋼等も水に浸かったため、後の手入れが大変だ。刈り取って稲棚に干していた稲も水に浸かった。田んぼにそのまま残していた稲は、引いて行く水に持っていかれてしまった。

 このとき、大森銀山では、大轟音とともに発生した山崩が谷を塞ぎ、せき止められた水が洪水となって間歩(坑道)に逆流したため、溺死者千三百名を数える大惨事となった。

 

 九月に入っても、大内勢は由木に屯営して傷ついた将兵の養生をしていた。

 九月中旬、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、多賀美作守、宍道遠江守、川津民部左衛門、広田、桜井、その外伯州住人・南条宗勝、行松入道らが大内軍に馳せ参じてきた。いずれも、富田城防禦網の基趾を担っている将であった。

 これより、三刀屋久祐を案内者として富田城の西三十キロ地点の三刀屋に陣を移し、さらに十一月上旬には、南二十キロ地点の高津馬場に移動した。

 

 十一月十三日(新暦十二月十九日)、中国十一ヵ国の太守尼子経久は失意のうちに八十四歳の生涯を閉じた。

 

 高津馬場は千メートル級の山が連なる中国山地の尾根を背にしているため、厳寒の風雪が毎日のように大内勢本陣を襲ってくる。四尺(一メートル強)を越す積雪に兵は凍え、糧米の搬送もままならない。

 大内義隆は、ついに馬潟(松江市)の正久寺に本陣を移して冬営に入った。

 

 天文十二年(一五四三)馬潟にもようやく、春が訪れようとしてきた。

 いつまでも、徴兵、拘束されていらだつ将兵の不満に押されるように、月山富田城目前の京羅木山(四七三メートル)に本陣を移した。昨年正月十一日に山口を進発してから、実に一年以上もかかったのである。

 麾下の諸将は山を下りて富田城と飯梨川を隔てた山々に陣地を構築した。

 富田城は高さ百八十メートルの月山にある。頂上に本丸を置き、二つの峰を利用して幾重にも連なった壮大な城を築いている。城下からは、東に聳え立つ城の背景に煌煌と輝く月がみえ、その美しさから月山富田城と呼ぶようになったという。

 二月十三日(新暦三月十八日)、大内勢と尼子軍との攻防戦がはじまった。が、しかし、足軽どうしの小競合い程度で、大きな戦には進展しなかった。

 翌十四日、毛利元就は塩谷口から城内への突破を試みた。城方からは牛尾幸清ら一千騎が迎撃し両軍が激闘した。このとき、内藤下野守の家人馬田孫七郎が城方の首を取った。

 これは、この日における『一ッ首』として高名を得、攻城勢将兵の羨望を受けた。

 二月下旬、富田城北麓の新宮谷に近い金谷の尼子家菩提所洞光寺境内へ、平賀隆宗、益田籐包らが侵入した。菩提所を焼き払われてはならぬと、尼子式部太輔、尼子左衛門太夫が二千ほどの兵を率いてでてきた。尼子勢は、弓隊を前面にだして激しく矢を射って来た。これにより益田隊の二人が射落とされため兵が浮き足立った。これをみた平賀隆宗が五百余騎で尼子軍の大軍勢に突っ込んで激戦になった。隆宗が闘っているのは、尼子でも武勇の名高い新宮党である。たちまち包みこまれて劣勢になっていく。

「平賀を討たせるな」

 益田籐包がまっしぐらに切りかかる。それでも、少数の益田隊が新宮党と直接渡り合っては苦戦必定である。そこへ、吉川興経八百余騎が槍を揃えて新宮党の横合いに割って入り突きまくった。これで新宮党の隊伍が四散した。

 洞光寺は、大内軍の手に落ちた。

 

 富田城攻撃をはじめてから二ヶ月を経過したが小競り合いばかりで大した成果がない。

 攻城軍は、毎日をいらいらした気持ちで過ごしている。

 四月三十一日(新暦六月三日)月山富田城に低く垂れ下がった雨雲が重くのしかかり、梅雨特有の小ぬか雨が降り続いている。

 城中より牛尾遠江守、卯山飛騨守らが千騎ばかりで城門をでてきた。

 富田川を隔てて備えると、かかって来いと招いている。

「あの敵を追いはらって大内殿にお見せしよう。」

 三沢為清が一千五百余騎を率いて突撃態勢を取った。

 続いて大内氏へ富田城攻撃を慫慂した十三人衆が動いた。

 十三人衆の一万をこえる軍勢が山から下りて、富田城正面の御子守口を前に整然と隊を組んでいる。城方は静かだ。

 攻撃隊全軍が一丸となって突撃した。飯梨川に架かる橋を目指して疾駆している。橋を渡れば城門だ。

 これからはじまろうとしている激戦に大内勢将兵が固唾を飲んで静まり返っていた。 

「始まるぞ。正面からの強襲だ」

「強襲だ」

 強襲は、味方の被害も多くなる。それをあえて実行しようとしている攻撃隊に、見守る大内勢将兵の血がたぎる。

 城内は静かだ。攻撃隊の先鋒が橋を走り抜けて行く。そのとき、城門が開いた。

「さあ、城内からも押し出してくるぞ。」

 他人の戦を観戦する将兵は、己の生命に危険がないことをいいことに、凄絶な戦いを期待する。

 ところが城内からは出てこない。

 富田川沿いに展開している牛尾遠江守、卯山飛騨守隊を無視して一万余りの攻撃隊が富田城内へ駆けこんだ。

 続いて城方の牛尾、卯山隊が城内へ入った。

「あれでは、味方が挟み撃ちにされる」

 城内で凄絶な戦いが展開されている……はずであった。

 城門が閉められた。

「……」

 城内が静かだ。

「…………」

 両軍の間に起こるべき剣戟の音が発生しない。

 大内勢将兵には、ことの成り行きが理解できない。ポカーンと口を開けているだけである。

 そのとき、城内の塀際に、突撃隊十三将の旗幟が次々と立てられていった。

「エイ、エイ」

「オー」

 城内の勝鬨に大内勢のどよめきが地を揺るがす。

「……」

「……」

「裏切だ」

 城内から笑い声がとどろいた。嘲笑だ。

「裏切だ。」

 我にかえった大内勢将兵に衝撃が走った。こともあろうに、出雲遠征を慫慂した芸、備、石十三将が示し合わせて尼子方に寝返ったのだ。

 どうしてこのようなことになったのか、……話は一ヵ月前にさかのぼる。富田の八幡山に陣をならべている三沢、三刀屋、宮、杉原、出羽、本城ら十三将は、戦の暇があるとき、各々が一所に集まって、酒を飲み、茶をたて、和歌を詠ったりしていたが、あるとき、敵味方将士の強弱評論に話題がうつった。

「大内、尼子両将の知計、強勇の優劣はどうだろうか、それがしが思うには、両家軍法の善悪しを見ると尼子家に利があると思う。大内家は、先代義興さまとは違って今は心浅く思う、なぜかというと、尼子家の大将晴久さまは、勇一道においては近国無双の将であろうと思う。智謀は、勇に比して少しは劣るといえども、この人は、わが勇力を頼りに謀より戦を優先してしまうこともあるが、今、知をもって謀の賢い将といわれる仁に比べても決して劣るものではない。吉田発向のことは大叔父下野守さまに再三、止められたが、尼子比丘尼の臆病意見と侮って出兵し、終いには敗れて尼子氏の柱礎ともいうべき下野守さまを討たれてしまった。下野守さまは、かって刑部太輔と称しているころより、舎兄経久さまと、ともに智謀をもって十一ヵ州を切り従え、その比、経久日本に二人となき大名といわれるまでになったが、これも下野守さまの知謀によるところが大きい。もし、晴久さまが下野守さまの諌言を守って危うき戦を避けていたら最強の尼子になったであろうに、下野守さまは討死してしまった。尼子には、紀伊守(国久)という勇将もいるが、この人は、奢りすぎる欠点がある、『奢る者、久しからず』という習いがあるように、尼子家も終いには大敗を喫することになるやもしれない。もともと、吉田の大敗は、因但備作においてしばしば戦い、勝ってきたことによる奢りから下野守さまの諌めを受け入れなかったことによる。もし、智をもち、勇をもつ将で諌言を受け入れる度量があれば、これこそ誠の将であろう。大内義隆さまは柔弱で大将の器ではない。大将たるものがこのような状態では、その国は、必ずや削り取られるであろう。また、尼子の新宮党、大内の陶は剛強だ。将がこれならばその国は必ず亡びる。

尼子の国久さまと大内の陶どのは将として互角の器であろう。大内義隆さまと尼子晴久さまでは、将の器量に雲泥の差がある。しからば、大内、尼子の国争いは大内滅亡必定であろう」

 杉原忠興の意見に皆が、最もだとうなずいている。

 吉川興経、三沢為清、三刀屋、広田、桜井、本城常光、小笠原長徳、富永、出羽、杉原、久代、江田、池上らが頭をつき合わせて、行く末とても頼り無い弱将の大内を頼ることは考えの足りない者のすることだ。尼子に立ち帰ろうと、一同が結束して富田城内と連絡を取っていたものであった。

 小笠原長徳は、家督を継いだばかりであり、十三将とは、いまだ馴染みが薄かった。結局のところ大内軍に居残ったのである。

 攻城勢と尼子勢の形勢が逆転した。

「大変なことになった。このまま大内勢として残るか、退却するか」

 各陣営がお互いに他陣の様子を覗い浮き足だっている。

「いま、裏切った雲石備の武士どもがその領に残してきた一族家臣らに命じて、防州の通路を塞ぐことになれば味方兵糧の運送も絶えてしまう、ここは、ひとまず陣を引き払い、あらためて九ヵ国の勢を集めて今回の鬱憤を晴らす」

 五月七日を期して攻城勢の総退却が決った。

 大内義隆は、殿(しんがり)を毛利元就と沼田の小早川正平に申しつけた。

 五月七日(新暦六月九日)、未の刻(午後二時)降りしきる大雨のなか大内義隆の本陣が動き出した。

 大内義隆父子は中の海に面した揖屋に出た。ここで義隆は義房と別れ、陸路宍道から石見路により山口へ向かい、義房は海路で帰ることとして船に乗った。ところが、追撃を怖れた多数の将兵が、われ先にと船に乗りこんでくる。このままでは沈んでしまうと舟子らが櫓櫂を振り回し乗船を拒みながら舟を動かした。パニックになった将兵が水のなかまで追って、船の両縁にとりつき乗りこもうとしたからたまらない、船が危うくなってきた。

「エーイ邪魔だ、御屋形さまの御座船に乗ろうとは、失礼千犯!」

 大内家重臣冷泉隆豊が、長刀で舟縁に取りついている将兵の手を切り払った。ところが片舷だけを切り払ったため重心を失い、たちまち横転転覆した。投げ出された義房は甲冑が錘となって、泳ぐこともできず水中深く沈んでいった。公家の一条家から大内義隆の養子となったものの、元来、武略に縁のない育ちであった。舅にうながされて初陣した戦で生涯を終えた、二十歳であった。

 月山富田城正面の八幡山宮ノ尾に布陣していた元就は、大内義隆の本陣が京羅木山から撤退したのを見とどけて、同じ日に陣を撤去し、星上山の峠を越えた。

 元就の陣近くに踏みとどまっていた安芸の小早川、平賀、天野、備後の三吉、石見の福屋、益田の軍が次々と退いていく。

「さあ、退くぞ」

 小笠原長徳は、大内勢本隊が進んだ方向に背を向けて、山佐川沿いに三刀屋に抜け、赤名にでた。尼子軍追撃隊が大内本隊を追うであろうことを推測しての選定だった。

 追撃隊の目は、明らかに大内本隊を狙っているようであった。

 なんといっても地形を知り尽くしている小笠原隊は、たくみに追撃をかわしながら無事に温湯城へ帰還した。

 毛利隊は、追撃隊の執拗な攻撃を受け、将兵が次々と討ち取られていくなか、松江方面へと岩坂道を下った。大雨に全身がぬれねずみとなり急激に体温が失われていく、間隙のない追跡を受けて食べるものも摂れない。雨水で喉をうるおしながら逃げる。討ち取られた仲間には、背をむけ心でわびるしかない。まさに地獄の逃避行となった。

 

 大内義隆は、殿(しんがり)部隊の犠牲的敢闘に助けられて、五月九日(新暦・六月十一日)には宍道にでた。そして二十五日(新暦・六月二十七日)には山口へ無事に帰還した。

 追撃隊の執拗な攻撃を受けながら撤退している毛利元就は、次々と将兵を失い、殿(しんがり)部隊の宿命ともいう凄絶な退却を続けていた。すでに、内藤九郎左衛門、波多野源兵衛、三戸与五郎、井上源左衛門らが討死してしまった。

 五月八日(新暦六月十日)には出雲の古志と神西で続けざまに襲われて多数の戦死者を出した。古志、神西とも尼子十旗の本拠地である。敵国内を敗走するのだから犠牲は膨らむ一方である。

 それでも波根村まで逃げると、豪族の波根弾正忠泰連の保護を受けて禅院満蓮社(長福寺)で休息をとることができた。

 三日の後、敗兵をまとめた元就父子は波根から大森銀山に向い、そこから降露坂を越えようとしたとき、突然、伏兵に襲われた。

 毛利隊は次々に討ち取られていった。

 ついに、元就父子は死を覚悟した。このとき、渡辺太郎左衛門通が、強引に元就の甲冑を貰いうけて身代わりとなった。

 渡辺通は、部下六騎とともに元就父子とは逆方向の湯里・西田郷へ敵を誘いだした。

 これにより、元就父子は九死に一生を得て、大江高山の東をまわり祖式村に逃れることができた。

 元就とともに、殿(しんがり)をつとめた小早川正平は、松江から宍道湖北岸を西に逃れようとしたが、平田・美談で土民の襲撃を受けて全滅した。

 

 五月十四日(新暦六月十六日)、シトシトと音もなく降る雨が温湯城を包み込んでいる。

 小笠原長徳は、室内にこもって長陣の疲れを癒していた。

毛利元就どの主従が、三原村に向っておられるようです」

 あたふたと走りよってきた家士が長徳の顔をのぞきこむような目で窺っている。

― 今なら討ち取れますよ。

 家士の目は訴えている。

「なに、毛利どのか」

「七名ほどです」

「七名だけ…・そうか…・・毛利どのは今回の撤退に殿(しんがり)を務められた」

―二千名の毛利軍団がバラバラになったのか。

 長徳らは、地の利を得て無事に帰ってきた。土地感がない毛利や大内本隊は街道を通らなければならず、あちこちで敵兵の待ち伏せを受けた。

「毛利どのを粗略に扱ってはならない。すぐ、迎えに行く」

 長徳があわてて城門を出て行った。温湯城から三原までは二里(八キロ)弱の道程である。長徳が先頭にたって馬を走らせた。十騎ほどの家臣が慌ててついてくる。

 江川沿いに下って、因原から支流の木谷川縁を北西に上り、狭隘な谷を抜けた。そこが、丸山(四八〇メートル)の裾野に広がる三原である。

 そのとき二町(二百メートル強)ほど前方で、刃を激しく切り結ぶ集団が眼に飛び込んだ。

「毛利右馬頭どのが伏兵に襲われている、すぐ応援に行け!」

 長徳の下知を受けて、八騎の士が馬腹を蹴った。

「小笠原刑部少輔さまです。毛利右馬頭(元就)さまをお迎えに参上!」

 長徳の家臣が疾駆しなが張り上げた声に、闘争中の集団から数十騎の将兵が逃げ去った。

 敵の重囲から開放された元就の側近数騎が走り寄ってきた。長徳一行と対峙する位置に停止して戦闘態勢に入っている。

「小笠原刑部少輔さまでございます、毛利右馬頭(元就)さまをお迎えに参上しました。」

「ありがとうござります。しばらくお待ちください。」

 元就の家臣ひとりが後方へ馬を走らせた。残りの武士は戦闘態勢を崩さない。

 やがて現れた元就一行を見て、長徳は呆然としていた。元就を含めて七騎しかいないのだ。 

長徳が下馬した。家士らも馬から飛び下りて後方で叩頭した。

 

 甲冑を着けていない平服姿の長徳が下馬して出迎えた。長徳に敵意がないことを理解した元就が破顔した。

「毛利どの、難儀なことでござりましたでしょう」

「あちこちで伏兵に襲われこのざまです。…・助かりました小笠原どの」

「退却となると、土民までもが襲撃してくる。情けないことです」

「…・たしか…・本城の兵だと言っておりました。さきまわりして隠れていたのでしょう」

「私どもは、毛利どのが殿(しんがり)を固めてくださったおかげで、心安く引き退くことができました。・・さあ、今宵は我のもとで、ごゆるりとご休息してください。ご家来衆もおって集まってこられるでしょうほどに」

 長徳は、元就一行が持っていた旗を借り受けて篝火の横に立てた。

「ありがたいことでござります」

 小笠原長徳の案内で元就主従が温湯城に入った。

 その夜、長徳の気づかいは、徹底したものであった。武器を携行したままの元就一行を客殿に案内して、ひとまず湯漬をだし、その間に、食事を調えた。

「今宵は、心おきなくお休みください。吉田へは、毛利どのがご無事であることの、お知らせを走らせました。」

「ありがとうございます。」

「お疲れでしょうが、今宵は、いろいろと話したきこともありますゆえ、同室させていただきます、よろしゅうございますか。」

 長徳父子が元就一行のなかに入った。

 長徳には元就への敵愾心がないということの証として、長徳自らが人質となったのだ。長徳父子が元就一行の手の内にある間は、誰も手だしできない。

 四人は、枕を並べて寝床に入った。

「その方らも今宵は、寝てもいいぞ。」

 元就が、長徳の心遣いに答えるように、隣の部屋で控えている家来衆に言った。『不寝番の必要がない』ということを伝えたのだ。

「それにしても、吉川らには参りました」

 あお向けに寝て暗い天井に視点を置きながら、元就が独り言のように呟いた。大内を裏切った十三人衆のひとり吉川興経は、元就の妻の甥である。天文九年の郡山城合戦では、尼子麾下として元就を攻めていながら元就のとりなしで大内方についたばかりである。それを、またしても裏切って尼子についた。そのために大内遠征軍は富田城攻めから撤退しなければならなくなった。大内義隆は退却に最も困難な殿(しんがり)を元就に命じた。そして、元就は、命からがら逃げ延びてきたのである。

 元就の口からは、大きなため息がでるばかりである。長徳も、慰めることばもなくただ黙っているだけであった。

 翌日、元就らは客殿からでてこなかった。一日中、室内で休養し体力の回復に努めた。

「申し上げます」

 廊下に長徳の側近が平伏している。戸を開け放した座敷に飛び込んだ日の光りには、たそがれの赤みがでていた。

「帰ったか」

 長徳が小さな声で聞いた。

「はい、毛利さまご家来衆の加勢に福冨七郎左衛門が福光下村の釜野地区を通って海岸寄りの路を温泉津めざして急ぎました。…が…今一歩のところで間に合わず…ご家来衆七名、温泉津小浜から福光への峠にかかったばかりの坂で、壮絶なご最後を遂げられているのを、見つけましてござります。すでに御首は敵に渡ったようでございます。…・残念でござります。亡くなられた方々は、温泉津の海蔵寺にお連れいたしました。」

 兜と鎧の鳩尾板が一枚、二人の前に差し出された。

 鎌倉から室町時代の大鎧とよばれる甲冑には肩から脇にかけての防禦を目的とした細長い板がついていた。これは、鳩の尾に似ていることから鳩尾板とよばれていた。

戦国時代末期になると、大鎧は重く、動きにくいことから、軽量化した当世具足が主流となり、これには鳩尾板はついていなかった。ただ、威厳を重んじる大将クラスの武将は依然として大鎧を着用していた。

「このものが、渡辺太郎左衛門です。それがしの甲冑を着て身代りとなり…・死んでくれました。数多(あまた)の勇士を失いました」

 兜を取って、声を押し殺すように忍び泣く元就に、長徳は慰めのことばもなくただ頭をたれている。

 降露坂で、敵の伏兵に襲われた元就主従が大江坂七曲まで追いつめられたとき、元就の甲冑と乗馬を貰いうけて身代わりとなった渡辺太郎左衛門通と郎党六人が、元就らが逃げて行く矢滝路とは反対の湯里方面へ敵をおびき寄せた。彼らは、温泉津まで逃げたが、ついに追いつかれて全員が壮絶な討死を遂げた。

 現在、この坂には、七人の武者を供養する地蔵菩薩が祀られており、七騎坂という地名が残っている。

 

 翌日から、毛利隊将兵が疲れ果てた姿で少しずつ集まってきた。

 長徳、長雄父子は、館を開放して毛利軍将兵を優遇し体力回復に務めた。

 三日後、元就ら一行は吉田へ向かった。長徳は三百人の小笠原隊将兵を護衛として元就に付けた。

 小笠原隊は白帷子、肩衣、化粧袴、籠手、喉輪に鉢巻を着けた小具足という軍装である。合戦の重装備では元就一行にはばかりがあると長徳が指示したものである。  

 元就のすぐ横には小袖姿の長徳、長雄父子が付き添っている。

 長徳、長雄父子と元就一行は、石、芸の国境で別れた。

「此度のお気づかい、終世忘れるものではございません」

 元就は、長徳の手をとって押し抱かんばかりに礼を言った。

 長徳は肩を落として悄然と遠ざかっていく馬上の元就を、いつまでも立ちつくして見送っていた。吉田まで随従する小笠原将兵と、長徳が贈った兵糧米を背に振り分けた馬列が一行の最後部をついて行く。

 元就は、しばらく進むと馬から下りて、長徳父子を振り返った。そして、深々と腰を曲げ頭をさげた。長徳も最敬礼している。

 やがて元就一行は山陰に曲がっていった。

「良い御仁だ、生涯にわたって交誼を続けたい方だ。」

 長徳が呟いた。

 

 小笠原長徳は、大内義隆から出雲攻めの戦功により大家、三方、下都治、湯里、佐摩、白坏、井原等の加俸を受けたが、そのうち井原は数代にわたって小笠原家に反抗をしていた。

 長徳はこれを攻め、井原長門守、井原丹後守、井原孫三郎らは降参した。

 他方、尼子へ帰服した吉川、三沢、三刀屋、宮、杉原、本城らも尼子晴久から馬太刀等 種々の引出物を贈られ慇懃に礼謝をうけた。

 

四代・福冨七郎左衛門尉藤原明尊

 天文十年(一五四一)正月十六日深夜、

「おーい帰ってきたぞ」

 ドンドンドンと大きな足音をたてて廊下を歩いてくる。

―あら、お帰りだ。あいかわらず賑やかな相安さまだこと。

 由貴は、ホッと笑みを浮かべて目を覚ました。

 急いで夜具からでて着物を手にした。もうすぐ、相安がガラッと襖を開けて入って来る。

「……、どうしたのかしら相安さま」

 いつまでたっても、姿を現わさない。

「山下忠左衛門さまがお帰りでございます」 

 城門からの伝令が走りながら主殿に入ってきた。

 由貴の顔から血の気が退いた。

 

 城内のざわめきで明尊が目を覚ました。

 母の部屋には、すでに灯火が点いている。

 寝しずまっていた四ッ地蔵城の城内が争がしくなった。廊下を軋ませ、あわただしく行き来している。

「なにごとか」

 明尊が広間に入ると、ムッとする血の濃臭が充満していた。

 戎衣のうえに毛皮の袖なしを着ただけの山下忠左衛門が、憔悴しきった体で正座している。

「殿が身罷られた」

 重苦しく沈んだ声で忠左衛門が話しはじめた。

「去る十三日、大内勢との激戦に及びましてござります。小笠原の御屋形さまが先鋒となって突入したのでございます。敵味方五万が渡り合い、殿は、勇ましく戦っておられたのでございますが、混戦のなかで至近距離から放した敵の矢を右目に受け、絶命されたのでございます。なにぶんにも、至近距離から射られたものでしたので手当てをする間も無く…膳兵衛どのが殿の御首を敵に渡してはならぬと、己の手で御首を切り離して、それがしに戦場離脱を命じたのでございます」

「膳兵衛どのは、どうした」

「おそらく、御首は敵の手に渡ったものと思われます」

「忠左衛門どの、よくぞ殿をお連れくださった。…さぞかし難儀な退却でしたでしょう」 

 母の由貴が、毅然とした態度で、忠左衛門が差し出した包みから相安の頭を抱き上げて三方の上に載せた。髪を整えて顔を拭いている。

「ごくろうさまでございました」

 ながい沈黙の後、静かに語りかける由貴の横顔が、ジジジとかすかな音を出しながら燃える灯火に揺られている。

「明尊、父上にお別れを」

 相安の右目は、抉れ、肉が飛び出していた。

―これが、討死か。

 明尊は両手を合わせながら意外に冷静な自分をみつめていた。

 留守を守って出陣しなかった家臣らがドドッと集まってきて、声を限りに泣いている。

「忠左衛門、甲冑はどうした」

 重臣山下理右衛門が、息・忠左衛門の姿を咎めた。

「それがしは、戦場を離脱いたしましてござります」

 その一言で、忠左衛門が、戦場離脱の汚名を一身に受ける覚悟であることを、理右衛門は悟った。

「………そうか、己の身ひとつをも、危うい退却であったようだな。その姿になってまでも、殿をお連れしたこと、よくやった」

「殿もほんに心やすらかにお眠りでございましょう」

 母の由貴が改めて礼を言った。

 出征中の戦死は亡骸の無いままに葬られるのが常である。棺桶に入れる白木の位牌が亡骸のすべてである。忠左衛門が相安の首級を持ち帰ったことは由貴にとっても、このうえなくありがたいことであった。

「忠左衛門殿、あなたは死んではなりませんよ。生きて、明尊をりっぱな武将に育て上げてください」

「忠左衛門、お方さまのおこころざし無駄にすまいぞ」

「……・・」

「死ぬほうがそちには楽であろうが…・・己を捨て、生きてお家をお護りすることこそ忠も義もなりたつというものよ」

 忠左衛門は、頭を畳に落して慟哭しているだけであった。

 忠左衛門が戦場を離脱したのは十三日の昼ごろであったが、その夜には尼子軍が総崩れとなって逃げ帰った。このことは、忠左衛門の退却を容易にし、さらには、敵前逃亡の汚名も受けずに済んだのだ。

「おそらく殿は、ご自分が死亡したとは思っておられないでしょう。あまりに突然でしたので」

「そうか、殿は苦しむこともなかったということか」

 それで、儂の気も安らぐというものだ。と理右衛門が大きなため息をついた。

 数日後になって分かったことだが、尼子下野守や小笠原長晴の御首さえも敵の手に渡ってしまったということが判明した。

 小笠原家中で、「主の首を持ち帰った忠の者」として山下忠左衛門の名があがった。

 

 数日後から江川下流に、おびただしい将兵の骸が漂着しだした。溺死であった。周辺の住民は、一体づつ川岸に埋葬した。この時代、戦で死亡した場合、その死した場所に埋葬していたのである。

 

 

 山里にも遅い春が来た。

 御屋形(小笠原長隆)は、帰城してから病気で臥せることが多くなった。高齢を推しての出陣が体にこたえたようである。それにも増して、次男長晴が討死したことが、御屋形の生気を失わさせていた。

 天文十年(一五四一)四月、小笠原長隆の嫡男・長徳が家督を継ぎ、小笠原家第十二代当主となった。

 同年五月、明尊のもとへ小笠原長徳からの呼び出し状が届けられた。それには、『山下忠左衛門を同道せよ』との記述があった。御屋形が陪臣を引見することは通常ではありえない、まったく異例のことだ。

 山下忠左衛門は、戦場離脱を追及されるのではないかと思わざるをえない。万が一、そのようなことになれば己の命を捨てても明尊に累が及ぶことを防がなければなければならない。悲壮な決意で御屋形(長徳)に拝謁した。

「七郎左、そちの親父どのは武辺者であったぞ、大内、尼子の取り合い(郡山城の戦い)での武功は儂がみておる。七右衛門が身を盾として戦ってくれたことは終世忘れぬ。

 山下忠左衛門、あの凄惨な逃避行のなかで、よくぞ七右衛門を連れ帰ったものだ。その快挙、そちの名に恥じぬ忠であるぞ。七郎左衛門は幼少ゆえ、そちは、育ての親となって、りっぱな武将に育て上げてくれよ」

 小笠原長徳も弟を失っている。そのことはおくびにもださず家臣の行く末に心を配ってくれるこころ優しい言葉に、忠左衛門は平伏したまま肩を大きく揺らして嗚咽した。

「七郎左、武功をあせるでないぞ、じっくりと体をつくれ」

 御屋形の言葉は、どこまでも優しかった。

 吉田郡山城攻めで福冨党は、壊滅に近い損害をだした。

 福冨七郎左衛門尉明尊にとって福冨党の再編が喫緊の課題となった。

 

 そんなある日、一刀斎流剣師山田重兵衛という人物が四ッ地蔵城を訪れてきた。

 わずか八歳で、四ッ地蔵城を継ぐこととなった明尊のため、御屋形の小笠原長徳が派遣してくれたものである。

 一刀斎流とは一刀流の始祖といわれる伊藤一刀斎にはじまる。

伊藤一刀斎は、生涯にわたって廻国修業を続け、行く先々で望む者を惜しみなく教導してきた。山田重兵衛も一刀斎の弟子として永いあいだ修業を続けてきた一人である。

 山田重兵衛のことを忠左衛門は、戦場での働きは驚愕すべきものがある。剣の遣いには他人を寄せ付けない強さがあった。まるで蝶が舞っているような軽やかさであったと口癖のように言う。山田重兵衛は、御屋形の馬廻役であった。吉田攻めで御屋形が敵の重囲に陥り、死を覚悟したとき、父・相安に助けられたということである。

 重兵衛が話す。

 あのとき、先陣として敵の大軍と渡り合っていた。後方から進んできた味方と前面の敵との真っ只中にのみ込まれてしまい、もはや組織的な戦闘はできなくなっていた。それぞれが、バラバラになって、ただ、やにくもに目の前に現れた敵と斬り結ぶという状態であった。

そんな中で御屋形が敵の重囲に陥った。なにしろ大将首が目の前にいるのだから、敵にとっては、千載一隅の好機だ。重兵衛は、御屋形に群る敵兵を蹴散らすのが手一杯となっていた。御屋形を脱出させなければならない、と気はあせるのだが、如何せん敵は次ぎから次ぎと襲ってくる。己一人の身であるならば切り抜ける力はある。だが、御屋形を護り抜かねばならない。重兵衛は、死を覚悟した。そのとき、福冨七右衛門が突入してきた。「早く、御屋形さまを」七右衛門は、己の首を楯にして御屋形を脱出させようとしていた。

 重兵衛は、御屋形の安全を確保するのが使命である。七右衛門に後を託して脱出した。

「あのとき、儂は死んだ。七右衛門どのが己の身を犠牲にして助けてくれた」

父七右衛門の位牌を前に長い間、瞑目していた重兵衛が位牌に語りかけた。

「七右衛門どの、りっぱな最後でござった。御屋形さまも貴殿を残したこと、一生の悔いだと嘆いておられる。福冨家の行く末、なんの懸念もござらん、御子息がりっぱな跡取りとなるよう御屋形さまとともに見守ろう」

 

 重兵衛が、明尊の四ッ地蔵城の客将となった。

 同じ頃、母の由貴は、御屋形の奥方美代の方から書状を受取った。その内容は、重兵衛を派遣するにいたった理由を、懇切丁寧に記されたものであった。重兵衛派遣について、表向きは、明尊の武術指南であるが、幼くして家督を相続した明尊のため、立派な武将として大成するまでの間、家中、領内の平穏を保つ使命をもっていること、重兵衛は、己の分をわきまえた人物である。けっして福冨家中を落し入れるようなことをすることはない。しっかりと明尊を補佐し、立派な武将に育て上げてくれるでしょう。というものであった。「心易く明尊の成長を見守ってほしい」とまことにもって慈愛に満ちた文面で締めくくられていた。

 

「皆伝は受けていない。だから自己流だよ」

 重兵衛は冗談まじりに茶化していたが、一刀斎流の秘伝は師を殺すことによって伝授されるといわれている。後年の話になるが、一刀斎は、高弟の小野次郎右衛門に秘伝を伝譲した。このとき、次郎右衛門は、その秘術をもって、師一刀斎を殺した。我も人も仮借ない絶対否定の立場に立つのが一刀斎流である。

 一刀斎流は、非情残酷な剣である。己に向って来る殺意を察知するや無意識に払うことを太刀名目とする。向って来る相手が誰なのかはいっさい詮索しない。殺意を払い除くのである。これを夢相剣という。斬るのではなく、払い捨てるところに極意がある。

あくまでも真剣の修羅場で勝つことをめざした兵法なのだ。

 庭に、二本の竹が用意された。

「これを袈裟斬りにするなら誰でもできるでしょう。真横から輪切りにしなさい」

 直径半寸にもなっていない矢竹である。明尊が渾身の力をこめて横に払った。

 竹は刀身を受けたところから折れ曲がった。が、切れなかった。

 直径三寸(約九センチメートル)もある孟宗竹が用意された。

「つぎは、これを切って見なさい」

 重兵衛にうながされた明尊が、「エイッ!」と気合をいれて太刀をふるった。

 カーンと渇いた音がして太刀は刎ね返された。両手にしびれが走った。

 孟宗竹には、かすり傷ほどの痕がついているだけだった。

「気合いを発するということは、剣術のすべてですが、おおげさな声をださなくてもいいのです」

 重兵衛が笑いながら孟宗竹を前にした。

「では、それがしがやりましょう」

 刀に手もかけてない、ただ、ダランと下している。

 突然、裂ぱくの気合が、大気を切り裂いた。

 切り刻まれた大気がもとの静寂を取り戻したとき、孟宗竹が真横に輪切りになってい竹肉をさらしていた。

「まるで筍を切ったようだ」

 明尊のつぶやきに、

「筍ならそれがしでも斬れます」

 忠左衛門が笑い出した。

 明尊には、刀身の動きさえ見えなかった。風が動くのを感じただけであった。

「これが、一刀斎流払捨刀の剣技です。斬るのではなく払うのです。敵の打ち込みを払って払って払いまくりながら、敵を少しずつ傷つけていく、対手を間合いの内に引き込み、先を取り、斬る。ここに極意があります。今、切ったのは一本だけですが、連続して何本でも切れるようになることが要求されます。殿が、会得するまでには何年もかかるでありましょう。人間は、十五歳にしてやっと一人前の身体になります。そのときに武芸者として完成するよう鍛えるべきです。今、侍の子として、なにより大切なことは足腰を強くすることです」

 毎朝、剣師山田重兵衛と武術の訓練が始まった。

 それは、訓練というよりしごきに近いものであった。雨の日も雪の日も休むことなく続けられている。だが、明尊は厳しさのなかにもやさしい目で見つめる重兵衛をみいだしていた。身は歯をくいしばって耐えているが、心は充実していた。

「戦は晴れの日ばかりとは限りません。大雨のなか濡れ鼠になって戦うことだってあるのです」

 重兵衛の口癖だった。

 一日は払暁の室神山不動尊詣でから始まる。

 明尊は必死に走って重兵衛の後を追った。それでも明尊には、重兵衛が歩いているようにしか見えなかった。

 頂上にたどりついたとき、明尊は、へとへとに疲れ、喉はカラカラに渇いていた。腰にぶら下げていた竹筒の栓を取るのももどかしく一気に水を飲み干した。

「まだ先のことですが」

 前置きのあと、

「二昼夜、休みなく上り下りを繰りかえす訓練も行ないます。食べるのも飲むのも歩きながら摂ります」

 重兵衛は平然としていた。

 

 城にたどり着いた明尊に課せられたものは、木刀による素振りである。木刀は、堅樫の木を削ったものであり、真剣よりはるかに重かった。腹に力を込めて、一回ごとに気を発しながら振り払う。といっても、明尊はただ声をだして素振りをしているにすぎないのだが…

「対手(あいて)を斬るのは、刀の切れだけではない、力いっぱい刀を振り回しても斬れるものではない、気で斬るのだ。気と刀が一体となったときに初めて無限の力となって対手を斬る」

「気とは、なんぞや、今は分からなくてもいい。ひと振りごとに対手(あいて)を斬るという気迫をもって素振りをしておれば、おのずと開眼するものです」

重兵衛は、理論化、体系化された刀術を、明尊に口伝により植え込んでいった。

 一方では、明尊の身体をつくることに心血をそそいだ。

「三百回振りました」

「五百回振りました」

 呼吸を弾ませながら、師・重兵衛に報告する日がつづいた。師は、笑顔を返しただけであった。

「まだ、まだ」師の目が言っていた。

 

 明尊は、父の相安が討死したため急遽跡目を継ぎ、戦場にでることとなった。それゆえに、戦乱の世で身を守るのは自らの力しかないということを知った。

 山田重兵衛の教導を、必死の覚悟で受け止める気迫は衰えることがなかった。

 

 いつもは静かな山村に、不気味な海鳴りが殷殷と轟いている。誰にも経験のない現象に村人は不安に陥っていた。

 村に何かの異変が近づきつつある危機感をもっても、それが何であるのかが判らない。

 重兵衛が、「海を見て来る」と言って海岸へ出た。

「海は真っ白だった」

 重兵衛が言った。荒れているのだ。

「嵐がくるかもしれないな」

 明尊は不安になった。

 その夜、それは、突然やって来た。

 生暖かい風がサーッと吹き抜け、たちまち暴風となった。強烈な風は山の木々を唸らせ、家をきしませ通り過ぎていく。今にも壊れるのではないかと思うほど家が揺れた。

 一晩中吹き荒れた暴風も夜明けとともに静かになり、朝日が昇ってきた。青空が広がっている。

 城は、屋根の一部が剥ぎ取られて無残な姿をさらしていたが、被害としては大したこともなかった。

「夕べはひどかったですなー」

 重兵衛が言いながら、二人は、朝一番の日課となっている室神山頂上の不動尊詣でに出発した。

 田んぼの稲は、刈り取りを前にして、ことごとくが根元から倒れている。風は、南から襲ってきたらしく、稲はすべてが北向きに倒れていた。幸いにも雨が降らなかったので水害に襲われることも無く収穫に影響はなさそうだ。

「ひとまず安心だ」

 だが、倒れてしまった稲穂が地についている。このまま放っておけば実から芽がでてしまうので、村人が総勢で、稲の刈り取りをはじめていた。

 倒れてしまった茎を起こしながら根元から刈っていかなければならない。

「大変ですなー」

 重兵衛が野良仕事の農民に気安く、声をかけながら歩いている。

 ふと、立ち止まって明尊をふりかえった。

「われわれもこの稲と変わりありませんなー・・・・」

「そうですの、数万の大軍が石見を通過したら、石見の豪族はことごとく頭を垂れて隋従する。しなければ潰される。」

「そうですなー、これら稲のように、すべてが大風の行く方向に倒れる。情けないがどうしようもない」

「昨日の敵が今日は味方、今日の味方が明日は敵、武士とは浅ましいものよ」

とはいえ、石見諸将の行動について節操がないとは思わない、黙って嵐が通り過ぎるのを待つ。これも乱世を生き延びる術なのだ。

 

 

 戦国乱世に突入した当時の石見には、力の拮抗した豪族らが小競り合いを繰り返しながらも、姻戚関係を網の目のように広げ平衡を保っていた。

それが、崩れようとしている

 

郡山城

 天文八年(一五三九)十一月一日、尼子詮久は毎年の恒例となっている「備定談合」で、来年秋を期して毛利征伐出兵を決定した。毎年、この日は、富田月山城内に一門の重臣たちを集めて、来年度中の作戦を練ることとしていた。これを「備定談合」という。

 その知らせは直ちに麾下の諸将に飛ばされた。

 同年十一月二十日、温湯城本丸において軍議が開かれた。

「尼子詮久どのが毛利征伐に御自ら出陣される」

 御屋形(小笠原長隆)が口を開いた。オーッとどよめきが起こった。そのどよめきを代弁するかのように重臣のひとりが聞いた。

「経久どのは毛利征伐を制止しておられたはずだが」

「すでに、病気が重く詮久どのを諌める力は有しておられない」

「経久どのの弟君、国久どのがおられる」

「もはや、国久どのの言うことを聞かれるような方ではない」

「どういうことでしょうか、経久どのは国久の言うことをよく聞けと詮久どのに言ったと聞いておりますが」

「経久どのの言われたことを、生涯守りとおすことのできる方ではないということだ」

「己の力が経久どのを越えたと思っておられるということだの」

「過信でなければいいがの」

 重役の話は次々と出てくる。いつも、こうだった。御屋形は口火を切るだけで、後は、重役らの話を聞くだけであった。じっと、黙って見ている。議論が白熱しても立ち入ることをせず、耳を傾けていた。最後に、御屋形が結論を出して、すべてが決定していた。

「毛利といえば、たかが二千名そこそこの兵しか擁していない小勢ではありませんか」

 詮久が出陣しなくとも麾下の武将を数名だせば十分ではないか。その場に列している皆が思うことだった。

「さよう、尼子詮久さまが出陣となれば、出雲、伯耆、石見の尼子麾下武将はこぞって隋従するでしょうな、そうなれば、軍勢は、三万を越える」

「それでは、戦になるまいて」

「さよう、戦になっても敵はひとたまりもない、まさに鎧袖一触だ」

 重役の一人が口角に泡を浮かべて息巻いた。

「まあ、物見遊山で大軍を見せびらかしにいく程度でしょうな」

「そう、示威行動だけで毛利は屈する」

 重臣の哄笑につられ、居並ぶ家臣団が声をあげて笑った。

「しかし、大内氏は黙っていないでしょうな」

大内氏が毛利救援に立てば、こちらも数万の軍勢を相手にしなければならなくなりますな」

大内氏は、しばらくは出て来ない。毛利救援の必要性を見極めたうえでのことでしょう」

「弱い毛利なら、捨てるということですかな」

「さよう、こちらとしては、大内氏がでてくるまでにかたをつける必要がある」

大内氏の総領(義隆)は、公家装束を着て文事に励み、戦ぎらいらしい」

 重臣らの会話は、大広間に端坐する家臣の哄笑を誘っているようである。

― 冬までには、きりがつくだろう。いかに馬鹿でも中国十一ヵ州の太守率いる三万の軍勢に、たかが二千ばかりの兵で刃向かってくることなどありえない。

 相安もつられて笑いながら、戦にはならないだろうと思った。

 

 会議終了後、大島和泉守に面談を申し入れようと、控え室へ向かった。この度の婚礼について御屋形への取次ぎをお願いしたお詫びとお礼を言うためだった。

控え室には、小笠原家中の重役が三々五々集まって雑談をしていた。

 相安は座敷に入ることはできない、座敷前の廊下に平伏した。

 なに用かといっせいに相安を見る重役の中から大島和泉守が相安を見つけて近寄ってきた。

「大島さま、こたびはお手をわずらわせて申し訳ございません」

「お、福冨どの、おめでたいことで。書状は、確かに御屋形さまにわたしましたぞ」

「ありがとうございます、ですが」

 と言ったところで、大島和泉守が「すまぬ、今、忙しいのだ」と言って離れていった。

 忙しいというのは、事実だった。雑談していた重役連中が皆、立ち上がって座敷をでていった。

「しかたないか」

 相安の周りを、どやどやと通りすぎる重役を平伏して見送った。

 この中に、坂根筑前守もいたはずだが、相安は顔を上げることをしなかった。

 

 天文九年(一五四〇)六月、尼子新宮党の尼子国久とその嫡男誠久、それに尼子詮久の大叔父久幸の三将が率いる三千余騎の第一次先発隊が、赤名(赤穴)から八幡山城三次市)へ出て。そこから江川を渡河しようとしたが、毛利方の祝屋城主深瀬隆兼、五龍城主宍戸元源とその孫の宍戸隆家らによって撃退された。宍戸隆家は、毛利元就の娘婿でもある。

 尼子新宮党が備後路を経由したと聞いて相安は「なぜ」とつぶやいていた。御屋形は尼子詮久に、石見路を通れば江川の南に位置する温湯城があるから、小笠原隊による渡河の支援ができると石見路経路を進言していたのを知っていたからだ。

 江川を渡ることのできなかった尼子勢はひとまず月山富田城に帰った。

「敵に追い返されるとは、なんという体たらくだ。普段の豪語はどこへ行ったのか」

 尼子詮久が憤り、自ら出陣することとなった。

 御屋形も他の石見国人衆とともに、尼子に従って出陣しなければならない。  

 相安は嫡男明尊への家督相続を御屋形に願い出た。

 当時の武家社会においては、出陣に際して家督を嫡男に譲るということが、ごく自然に行われていた。命を賭して主家に奉公するという心構えの表意と、万が一、討死しても家の存続に齟齬をきたさないようにとの考えからである。

 家督相続は、直ちに受理された。

「御屋形さまの御言葉を伝える」

 家老寺本土佐守が威厳を正して、小笠原長隆の話し振りをまねた。

「七左衛門の跡取は、幾歳であったかの」

「九歳にござります。と、お答えしたら御屋形さまは、なにもおっしゃらなんだ。ただ、ニッと笑われた」

「今回はその必要もなかろうて。毛利では対手が小さすぎる」

 愉快そうに一頻り笑ってから、

「他にも幾つか申し出があり、受理された」

 家老は許諾書をうやうやしく相安に渡した。

「寺本さま、お聞きしたきことがございますがよろしいでございましょうか」

「あー、なんなりと」

 寺本土佐守はくつろいだ表情をとりもどしていた。相安は、都野家重臣の息と福冨の分家との婚姻についてこれまでの経緯を説明した。

「半年にわたって尾行されたか」

 ひとしきり笑って、

「さて、御屋形さまからは、そのような話は聞いてないぞ。大島どのなら確実に御屋形さまに取り次いでくださっているだろうがの。だが、御屋形さまからだめだといってこないかぎり、了解したものと取ってもいいだろう」

「ありがたきことでございます」

「だがの、貴殿(そなた)にも、もうひとつ気配りが必要であったかもしれぬの。都野氏との話がでたとき、一番に報告して、お許しを得るべきであった御屋形さまへの配慮が足りなかったのではないかの。何も知らなかったでは、御屋形さまとて、都野どのへ礼の言いようもないからの」

「寺本さまの、おっしゃるとおりにございます。いかにも、それがしの落ち度でございました」

「心配はいらぬ。儂からも、それとなく言っておくことにしよう。今の都野氏は小笠原家の配下といってもいいほど、うまくいっていることでもあるしの」

「ありがたきことでございます。よしなに、よろしくお願いいたします」

 寺本土佐守の意見は、明尊の落ち度をみごとに突いていた。

「配慮が足りなかった」

 明尊は、冷や汗のでる思いに、うちしおれていた。

御屋形はなにを思っておられるのか、無視しているのか、失念しているのか相安には判断がつかない。相安の気分はいつまでも晴れなかった。

 家督を嫡男明尊に移譲した相安は、七左衛門の名を七右衛門と改めた。

 郎従の山下理右衛門は留守居とした。

「まだまだ若い者には負けませんぞ」

 理右衛門は出陣する気でいた。

「分かっている。今回は対手が二千名ほどの兵しか擁していない毛利だ、尼子の総大将が直接出張るような相手ではない、戦にはならん。大軍勢を見せつけるためだけの出征だから嫡男の忠左衛門に大軍勢の威容を見せておくのも経験だ」

「そうですな、儂は四ッ地蔵城の留守居ということですか」

「そう、失望するな。これから先、理右衛門、忠左衛門両名に命を賭して戦ってもらうことがあるやも知れん」

「儂は行きますぞ」

 佐々木膳兵衛は頑として行くと言い張る。これには、相安も苦笑せざるを得ない。

 僕従は助八と茂吉だ。助八は轡を取って敵に向かう肝っ玉は太く、荷駄の搬送を受け持つ茂吉は、臨時で集めた人夫を使役することがうまい。

 

 同年三月一日(新暦四月七日)、都野家重臣島田麻呂と福冨家分家山根儀右衛門の娘美雪との婚礼を行った。

 御屋形からは何も言ってこなかった。完全に無視された。御屋形の機嫌を損ねた婚礼になってしまったことを、思い知らされた。都野隆安からは重臣を代理出席させて丁重な祝儀を贈ってくれた。

 

 同年八月十日(新暦九月十日)、 尼子詮久は、出雲、伯耆、石見など三万の大軍で毛利征伐に出立した。

 赤名から石見国都賀を通って、口羽の手前で江川を渡河することとなった。

 江川の南に位置している温湯城は、渡河の必要がない。小笠原隊は、渡河地点に進出して尼子隊を援護することとした。

 八月二十七日(新暦九月二十七日)、御屋形率いる小笠原隊二千余の軍勢が口羽に進出 した。

 御屋形は、兵を二隊に分けて一隊を毛利勢の襲撃に備え、別の一隊は、渡河を直接支援することとした。

 相安は、御屋形の次男長晴が指揮する第一軍である。口羽からさらに五里地点の川根まで進出して陣を張った。尼子の第一次先発隊が毛利方五龍城主宍戸元源とその孫宍戸隆家らに、犬飼平の険、石見堂の渡しなどで妨害されて、川を渡ることができなかったあとだけに、勢いのついた毛利勢が攻撃してこないともかぎらない。

 相安らは、柵を二重に結び、それぞれに弓隊と槍隊を配置して襲撃に備えた。さらに数組の物見(斥候)を前進させた。

 御屋形は、都賀で尼子詮久を迎えるため進軍方向とは逆に江川を渡った。

 

 尼子詮久は、先遣隊が撃退された江川を渡ることが一つの山場であると考えていた。

 今回は、石見路を選んだとはいえ、先遣隊と同じように上陸地点を襲われたら難渋する。そのときのために、まず先発隊を渡河させて対岸を固める必要があると考えていた。

「前方から、小笠原どのが来られます」

 側近の武将が馬上に伸び上がって目をこらすように前方を見つめながら注進した。

「刑部少輔か」

「さようでございます。小笠原刑部少輔長隆どのです」

 まもなく、馬旗を引き連れた小笠原長隆が単騎で小走りに寄った。慇懃な態度で挨拶をする長隆に、

「おー、刑部どの御高齢にもかかわらず手数をかけてごくろうです」

 二十六歳を過ぎたばかりの若武者尼子詮久が馬上から鷹揚に挨拶した。昂然と顔をあげ、胸を張って騎乗している詮久が馬足をとめることはなかった。いつも丁寧すぎるほどの親しみで接してくれた尼子経久とは、あまりにも違う傲慢さであった。

 尼子詮久とて、よもや戦になろうとは夢にも思っていないらしく、加勢に加わった小笠原の武勇に期待するというよりは、忠誠心を認めてやろうといった態度があいまいな挨拶に現れている。詮久は、尼子経久の孫である。永正十五年(一五一五)八月、尼子に叛旗を翻した大原郡阿用城主桜井宗的討伐戦で討死した父・政久の跡を継いだのは未だ幼少のころであった。爾来、経久や叔父・国久らの扶けを受けて成長してきた。今は、りっぱな頭領である。

 詮久は、兜を従兵に持たせていた。一間ほどの棒の先端に兜を載せて、掲げながら従兵が従っている。

「御大将が心易く江川をお渡りいただきますよう、渡河地点を確保しております。」

「それは、ごくろうです。さっそく案内願いましょう」

 長隆の先導で三万の軍勢が続く。

 川岸に密生する竹林の中をくぐり抜けると、川面に反射する太陽の光りが、将兵の目に飛び込み、あわてて瞬く。

「おー」

 尼子詮久が感嘆の声をあげた。江川の両岸に小笠原隊の幟が林立し、軍勢が臨戦態勢で配置されている。小笠原軍団は、長年にわたって銀山を領していたこともあり、銀板の飾りをふんだんにつかった甲冑が小笠原軍の象徴となっている。それが朝日を受け、にぶく光り輝いて「白銀の軍団」の威圧をみせつけていた。さらに数十艘に及ぶ舟が舳先を川上に向けて櫛の歯のように並び、その上に厚板を敷いて一間巾の舟橋を作っている。

「あれに控えておりますのが嫡男の長徳でございます。対岸の五里さきにも、次男長晴の率いる兵一千を配置しておりますので、渡河中に襲撃を受けることはございません」

 小笠原長隆の説明に尼子詮久が満足そうな笑顔を返した。

「三万を超える勢が渡りきるには、時間もかかりますゆえ」

 小笠原長隆は、大軍を集めた尼子詮久に畏敬をこめたように『三万を超える軍勢』とことさらに強調した。

 先頭で川を渡った尼子詮久が、長隆の案内で川岸に新築した休憩所へ入った。

板座敷の床几に腰掛けた尼子詮久から、渡河中の軍勢がよく見える。川から吹き上げるそよ風が、居並ぶ武将らをここちよく包んでいた。後続の将兵が続々と橋を渡っている。

「刑部どのの心づくしで、心易く難所を超えることができる」

尼子詮久は、鮮やかな茜色のとんぼが群れ舞う川岸をみながら礼を言った。

「はじめから、ここを通ればよかったものを」

 ふと、吐き捨てるように言った、詮久の言葉が長隆の耳に届いた。第一次先発隊として尼子新宮党が出発するとき、「石見路を通れば、安全に江川を渡河できる」と詮久が助言を与えたが、尼子国久は「天下無双の尼子新宮党です。はじめから敵を怖れて遠回りしたとあっては物笑いになります。と、最短距離で芸州に入ろうとしたのだ。瞬時、詮久の顔に青筋が立った。長隆は気づかぬよう繕って目をそらせた。

「ところで、例の件…」

 詮久の言葉を小笠原長隆が手で制した。

「万事ぬかりなく、大久保備前、大谷遠江に兵五百を預けております」

「五百もいれば十分だろう」

 詮久が盃の酒を一気に飲み干した。

 いつまでも暑い日が続いている。季節は秋というのに非常な暑さが続いていた。道は灼けつき渇ききって、大軍の移動でひどく舞いあがった砂ぼこりが狭い谷間を覆っていた。

 相安は、兜に隠された頭髪にジットリと汗が滲んでくる気持ちのわるさに閉口していた。

 残暑の太陽に熱せられた兜を脱ぎたい衝動に苛まれていた。馬の首にも汗が吹き出ている。

 ともすれば耳鳴りと聞き違うような虫の声がピタリと止んだ。

「さあ、尼子勢が到着するぞ」

 小笠原長晴が兵を後退させ、騎馬の武将を、道端に横隊整列とした。

 山かげから舞いあがった砂埃が流れてきた。やがて、砂埃と陽炎に揺られながら大軍が姿を現した。尼子国久ら新宮党が先頭を立ってゆったりと進んでくる。六月に先発隊として進撃したものの江川で撃退された屈辱を晴らそうとする気迫が満ちている。

 騎馬の将はお互いに挨拶を交わしながら相安らの前を通りすぎて行った。

 ここで、小笠原隊は本隊と別働隊の二隊に別れた。小笠原長隆率いる本隊二千騎は吉田へ進撃し、大久保備前守、大谷遠江守らの別働隊五百騎は石見銀山奪還のため佐摩に向った。尼子詮久と示し合わせての決行だった。

 

 尼子勢は、安芸の川根、川井を通って九月四日(新暦・十月三日)、郡山城と一里(四キロ)地点の風越山に本陣を置いた。

 風越山から俯瞰する郡山城は、遠すぎて城内のようすなどは見えない。

 それでも、風越山は周辺で一番高く守りやすい。

 

 郡山城は高さ約二百メートル、周囲三町(二、三キロ)ほどの玉子型をした小山にある。

山の頂上部に本丸を築き、頂きから五つに分かれて下る尾根に、二の丸、三の丸と配して山全体を要害としていた。

 尼子詮久は、左翼に部下の湯原弥次郎ら三千を、高尾久友、黒正久澄、吉川興経らを右翼、後方にも別軍を配置して大軍勢を誇示した態勢を取った。

 尼子勢諸将は、割り当てられた場所に陣地を構築しはじめた。

 小笠原隊も土塁を築き、柵を結んで枝折戸を設けた。要所には矢倉を立てている。地をならして陣屋や小屋が続々とできあがってくる。

 生い茂る木々に覆われていた緑の風越山は、たちまちのうちに地肌の露出した要害と化した。

 山の裾野に広がる棚田には、色づきはじめた稲穂が広がり、風に揺られてさざ波のように波打っている。

―それにしても御大将(尼子詮久)は、無慈悲なことをする。

 相安は、あと半月もすれば刈り取ることができるまでになっている稲穂を見ていた。

 秋の出陣は、現地で糧米を挑発するには好都合であるが…・元来、戦というものは米の取り入れが終ってから起していたではないか。武士といえども普段は百姓をしているのだ。秋に米を収穫しなければ来年の秋まで生きていけない。

―それを分かっていながら、郡山城下の収穫前に押し寄せた。

「これだけの大軍を見て毛利も震えあがっているでしょう」

 山下忠左衛門の言葉に、

―アーッ、そうであった。稲刈りの時期までには決着がつくだろう。

 相安も納得した。

 郡山城には、わずか二千名あまりの戦闘要員と周辺の農民を合わせて五千人ほどが籠っているにすぎない。

―これだけの大軍をみせれば、毛利はたちまち戦意喪失してしまうであろう。

 相安もこのように考えていた。 

「それにしても…・まさか地下の衆(農民)までもが籠城するとは、思いもつかなかったですなー」

 膳兵衛が意外だという顔つきをしている。非戦闘員を抱え込むことは、それだけ食糧を確保しなければならない。籠城に足手まといにしかならない農民を城に入れた毛利元就の考えが理解できない。

 ところが、農民らは『御屋形さまが百姓をかばって下さる』と、自分らの蓄えていた米や麦を大量に城内へ持ち込んだのである。それらは、一年分の食糧にも匹敵していた。

―毛利は、戦う気だろうか。

 戦いの予感が相安の脳裏をよぎった。だが、たとえ応戦してきても所詮、蟷螂の斧だ。

 九月五日(新暦十月四日)、尼子勢は、郡山城下の民家に放火して挑発したが、毛利勢は城から出てこなかった。

 城内から唄が聞こえる。

―なんだ。

 相安は、風に乗って流れてくる唄を聞いていた。

「尼子どのは雲客だー、引き下ろして、ずんぎり曳こー、ずんぎり曳こー」

 百姓らが声を揃えて唄っているらしいのだ。自分たちの家を焼かれ、泣きすさぶどころか唄で尼子勢をからかっている。尼子を天の子ともじっているようなのだ。雲からひきずりおろして、のこぎりで切り殺そうと言っている。

―出雲から来た尼子どのは雲に乗った客か…おもしろいことを言う。

 相安が笑いそうになった顔をあわててひきしめた。

 九月六日(新暦十月五日)、尼子勢は、四千余騎で太郎丸ほか町屋に放火した。これに対して、毛利勢が反撃して激戦となり、尼子勢先鋒の足軽数十人が討ち取られてしまった。

 毛利が戦う気概をみせたのである。

『戦わずに毛利を屈服させる』というもくろみはみごとに外れた。

「戦わずして降伏してきたなら、毛利の所領安堵という可能性もあったが、刃向かってくれば、所領を没収して我々に分与される」

 尼子勢に、俄然と戦意が高揚してきた。

 九月十二日(新暦十月十一日)、尼子勢が大挙して城下に侵入した。この日は、数隊にわかれ指揮官の本城信濃守、高橋元綱、小笠原長晴ら主力は郡山城のすぐ下まで進み、後小路に放火して毛利勢を挑発した。

「出て来い。出て来い」

 尼子勢足軽らが声を揃えて挑発している。そのとき、城内から三十人ほどが出撃して来た。

「来たぞ」

 尼子勢にとっては、ものの数にもならない小勢である。

「やつらを討ち取れ、血まつりにあげろ」

 尼子勢がワッと喚声をあげて襲いかかった。小笠原隊も長晴を先頭に、獲物を他人に取られてなるものかと勇んで追撃した。まったく、てんでバラバラの追撃だ。

「包みこめ」

「包囲しろ」

 将官が声をからしながら統制を取ろうとしている。

―敵は意外に足が速い。変だ、なにかある。

 相安は、逃げ回る敵兵を凝視した。甲を付けていない、鎧も着てない。なぜだ、敵には戦う気がない、逃げるだけだ。

 相安の脳裏に殺気が襲ってきた。

―兵を集めよ。

 相安の声は、獲物に殺到している兵には通じない。

 小笠原長晴は、ずいぶん前を走っている。

 そのとき、江川沿いに密集している竹やぶから躍り出た敵の伏兵が、尼子勢の側面に襲いかかった。

「しまった、謀られた。兵を集めよ」

 相安が馬を止めた。兵は、その辺りにいない。十騎ほどの郎党が相安のまわりに集まってきただけである。

「敵の罠にはまった。兵を集めよ」

 尼子勢数千人が烏合の衆となってしまった。不意をつかれた兵はあわてふためき、自隊の位置もつかめず逃げまわるばかりである。

 さらに、毛利の武将渡辺通らが城門を開いてでてきた。

 これを見た尼子勢は算を乱して逃げだした。

「長晴さまを探せ」

 相安ら十騎が一塊となって前進しようとしたが退却する数千の味方に押し戻された。

 どうすることもできない。流れに乗って後退するしかなかった。

 尼子勢は、各所に潜んでいた伏兵に挟撃されて大敗、尼子方の将・本城信濃守、高橋元綱ら十人が討ち取られた。

 小笠原長晴も兵が逃げ、単騎になってしまったところに毛利勢が殺到して来た。

 長晴は、小笠原家中でも兵法名誉の達者な将である。群がる敵兵を長刀で切り崩し、たちまち数人を倒していったが、兜首を狙って群る敵兵に突きたてられ、矢を至近距離から射られた。 

 近くにいた小笠原隊・松前源五郎、藍田四郎五郎の両名が長晴を助けるべく馬を寄せようとしたときには、すでに長晴の体からほとばしる鮮血が、敵兵の甲冑を叩きつけていた。

「主の御首を取られておめおめと帰れるか」

 二人は、勝ちに乗じた敵軍に突入して、凄絶に闘い、たちまち包み込まれて露と消えた。殉死である。

 この日の戦闘を毛利軍は太田口の合戦と言った。

 広修寺縄手、祇園縄手方面でも毛利勢と激突したが尼子勢はいずれも負け戦となった。

 

 同じころ、石見銀山奪還のため佐摩へ向った小笠原別働隊は、まず、少数の先発隊を佐摩に先行させて、「この度は、銀山奉行内田正重討伐のため出兵したものである。住民への乱暴狼藉等は一切行なわない。」旨の伝達を行なった。これが功を奏して住民は逃げなかった。佐摩の村は平静を保っていた。小笠原隊は、不安そうに見守る住民の前を粛々と通過して山吹城を包囲した。

 小笠原隊は、直ちに山吹城を攻撃した。

 山吹城は、かって、小笠原氏が拠っていた城である。芸州から派遣されて籠っている将兵にも知られていない抜け道が残っていた。地から湧くように城内へ侵入した小笠原隊に城方はなす術もなく落ちた。

 銀山奉行の内田正重は自殺して銀山は小笠原氏のものとなった。

 小笠原別働隊大久保備前守、大谷遠江守らは、そのまま山吹城に入り銀山確保の任にあたった。

 

 九月二十三日(新暦十月二十二日)、周辺は、すでに稲刈りの時期に入っていた。

「戦どころではない、早く家へ帰りたい」

 将兵の苛立ちに押されるように、尼子勢は風越山から郡山城の南正面にある青山と光井山の間に連なる平坦な山丘・三塚山に本陣を移した。

 尼子勢の湯原弥二郎、湯惟宗ら三千余騎が青山に、高尾久友、吉川興経らは光井口の山下に陣を張った。

 郡山城から遠い風越山では、毛利に与える威圧感が十分とはいえなかった。ここ三塚山ならはるかに強烈な圧迫感を与えること明白である。

「ついに御大将も、決着をつける気になられたようですな」

 忠左衛門の話題が突然変わった。

「それにしても稲が稔りましたなー、そろそろ刈り取りをしなければなりませんな」 

 忠左衛門の目は、浅利を見ていると相安は思った。

 秋の取り入れまでには決着がつくだろうと誰もが考えていた。それが全く覆(くつがえ)された。

 自分の所領も稲刈りをしなければならない。

「戦どころではない、早く帰って稲刈りをしなければならない」

 善兵衛も浮かない顔をしている。

「なぜ、城を攻めないのだ、尼子勢の全軍三万をもって突入すれば一気にかたがつくではないか」

 足軽らがあせりイライラしているのとはうらはらに、長期戦の様相を呈してきている。

 その夜、守備の手薄となった風越山が毛利勢に襲われて、兵糧のほとんどが焼き払われてしまった。風越山で使用していた柵や小屋とともに三塚山に移そうとしていた尼子勢にはおおきな痛手となった。

 翌日、尼子勢は、大軍を配したうえで吉田城下の稲をことごとく刈り取って持ち帰った。

 籠城している百姓の目前での暴挙である。このことは、郡山城に籠城している農民の敵愾心をあおることとなり、やがてそれは、毛利勢全体に広がって行った。

 相安らは、刈り取った稲から米を採り、寝床になり馬の飼料にもなる藁は納屋を作って積み上げた。陣屋は、二間に区切って奥の間を閨とするため、板敷きの床を張り床下には籾がらを詰めた。床には藁をさばいて一尺ほどの厚さに敷き詰めた。さらに、麻布の袋に蒲の穂を詰めた掛け布団をつくった。これで真冬の防寒対策も万全である。長期戦に備えての準備であった。

 

 九月二十六日(新暦十月二十五日)、冷たい雨が降り続いていた。

尼子勢湯原弥二郎ら千五百騎が、坂、豊島方面に到着したばかりの大内の先発隊長杉二郎左衛門と小早川の両陣屋を襲撃したが、駆けつけた毛利軍により挟撃され大敗した。尼子勢は追撃してきた毛利勢によって侍大将・湯原弥二郎ら数十人が討ち取られた。

 尼子勢は、これまでの戦いに、ことごとく負けていたので、士気を高める必要があった。

 十月十一日(新暦十一月九日)、ついに降り始めた霙(みぞれ)の中を、精鋭・新宮党を先頭に大挙して城下に侵入、民家に放火してまわった。尼子軍本隊がいよいよ動き出したのだ。

 足軽らが、

「掛かって来い」

 籠城衆を誘きだそうとした。

 郡山城に籠城中の地下住民の目前で、民家を放火していった。

 ついに、元就が動き出した。

 元就と嫡子隆元が、口羽通良、赤川元秀、同左京亮、同又五郎児玉就忠、同與八、同内蔵允、佐藤彦三郎、長尾縫殿允、桂善右衛門、三戸五郎右衛門、同小三郎、長沼宮内少輔、井上、同玄蕃、同源五郎、同源次郎、同與三右衛門、同右衛門尉、同七郎次郎、平佐源七郎、岡又十郎、内藤九郎兵衛、椿槌房ら一千余騎を率いて城の正門からでてきた。威風堂々と大将旗を挙げての出陣である。元就に追従する幟がことさらに武門を誇示している。

 毛利軍は、先陣先手備えに数百人の長槍隊を配している。先手左右備えには、百人ほどの弓隊を並べ、長槍隊の後ろから先陣先手備えの武将が五名の歩卒に囲まれている。先陣先手備えの指揮官のようだ。先手二陣には、弓隊、槍隊が横隊に並び、その後方に密集隊形の騎馬隊が控えている。

 ずいぶん後方にいる本陣のまわりは、甲冑の武将や騎馬隊が二重、三重にかためている。

「なんと…・・堅固な備えだ」

 はじめてみる毛利軍の陣だてに尼子軍将兵から、感嘆の声がこぼれた。

 対する尼子軍の陣だては、一人の騎馬武者と二、三人の歩卒を単位とした集団が、寄り集まって大軍を編成している。鎌倉時代から続いている戦闘態勢なのだ。尼子軍の陣立てを現在でいえば、小学校の運動会で行なう騎馬戦と同じようなものだ、一騎ずつが個々の戦闘を行なっている。

 両軍が、正面から激突したならば、数百の剣尖を透き間なく揃えて向って来る毛利軍の長槍隊に、バラバラで戦う尼子軍は苦戦すること明白だ。毛利軍は、力がひとつになり、尼子軍は分散する。  

「おー、一文字に三星の旗がでてきたぞ、あれこそ元就だ。これまで小勢で戦利を得たことに奢って、今日もまた、小勢で出てきおったか。この式部大輔は、今までの敵とは雲泥の差があるぞ」

 新宮党・尼子国久が自ら采配を振って真っ先に進んだ。

 毛利勢は、元就を中心にして一丸となった隊形を、がっしりと固めて進撃している。

 ところが、尼子軍は総勢が先を争って突撃したため、戦闘態勢は崩れ、混雑して旌旗が乱れている。

 勝機と見た毛利軍が兵鼓を打って進撃してきた。

 この様子を陰徳太平記は、「両陣の魁(さきがけ)の兵、無手(むんず)と渡り合い、南風(おいつ)北風(まくりつ)攻め戦う、鬨の声矢叫の音、天地に満ち、山野を動かす」と記す。

 尼子勢の先鋒三沢三郎左衛門為幸は、毛利軍先鋒赤川元助ら四百余を迎え撃ち激戦となった。尼子勢の先鋒は、西国で無双の大剛将と名をとどろかせている新宮党だ。さらに軍奉行は、一騎当千の名を得ている立原久光、それに、三刀屋、古志、山中、神西、池田らが続いている。いずれも尼子家中屈指の剛将たちだ。

 毛利勢は、たちまち突きたてられて先陣が一気に後退した。

「なんのために命を惜しんで敵に後ろを見せるのか、無二に懸かって押し崩せ」

 元就が、大音声を挙げ、兵を叱咤しながらまっしぐらに突き進む。

 毛利勢には、敵愾心がある。尼子勢は、味方の大軍に惑わされて戦闘意欲も劣る。

 この違いが両者の勝敗を分けた。

 尼子の先鋒隊が押されて引いて行く、尼子勢・立原久光が押し返す。

「あの小勢など瞬時に追い崩してみせる」

 尼子勢も、兵鼓を打ち、法螺貝を吹いて総攻撃をかけたが、道が狭く大勢が一度にかかることができない。左右の田んぼへ馬を打ち入れて突撃した。ところが土地感のない悲しさ、人馬とも深田に足を取られて動きも自由にならない。それでも尼子勢は十倍にも及ぶ多勢だから、たとえ先鋒が幾たび突き崩されようとも、少しもひるまずかかっていく。

 口羽、赤川、児玉ら元就の旗本勢が槍を揃えて力戦している。

 このとき左右の毛利勢伏兵が突進して来た。

 たちまち尼子勢が浮足だち、後退してくる。ついには尼子本陣の麓にある土取り場まで追い詰められた。

 尼子勢先鋒の大将三沢為幸は、手勢五百騎で円陣を作り敵と渡り合う。尼子勢総軍が崩れかけてきても少しもひるまず、長さ三間半もある長柄の槍を軽々と振り回し、向って来る敵を数十人突き伏せ、勇ましく闘っていたが、やがて疲れ果てて危うくなってきた。

 郎党の三沢蔵人、布廣左近、野尻玄蕃允ら七十騎が中に入って三沢為幸を助けようとするが毛利勢に遮られる。

「味方の勝ちぞ、一気に押し崩せ」

 勝ちに乗じた毛利勢が我さきにと進み、三沢為幸一人に的を絞って矢を射かけた。さすがの三沢為幸といえども矢疵、槍疵を全身に受けて血に染まったところを、毛利勢の井上信重が組み付き、格闘のうえ首を掻き切って高々と差し上げた。

「三沢三郎左衛門の首、井上七郎次郎信重が討ち取ったり」

 井上信重の大音声に三沢の郎党、三沢蔵人、野尻玄蕃允ら三十余人が、力の限り闘い尽くして殉死した。三沢為幸の嫡男・為清も父と一緒に斬り死にしようと敵の中に駆け入ろうとするところを、

「これはなにごとでござりましょうや、命を全うして父の敵・元就を討ち取ってこそ、孝も義も立つというものでござりましょう。せんなき討死をして、敵に利を付けることこそ不忠・不孝の至りでしょう」

 布廣左近、米沢入道が為清を無理に引き戻して退いた。

 毛利勢の三面攻撃に尼子の大軍がたちまち壊走に移った。

「それ、敵は引くぞ」

 毛利勢が増々勇んで力を盛り返してきたので尼子軍は堪えられず崩れさった。

「あれしきの小勢に突き立てられて逃げるとはなにごとか。踵を返して闘え」

 尼子方諸将も必死になって叱咤しているが壊走する兵を押し止めることはできない。

「今日の合戦は、味方の勝利、当然のことと思っていたのに…口惜しい限りだ。日頃から武辺を誇っている者は何処へ行ったのか、引き返して一合戦せよ」

立原久光が馬首を返して闘う。これを見て、本田豊後守、横道石見守、秋上三郎左衛門、目黒新右衛門らもひき返して闘った。だが、後退する味方の兵に包まれて槍・長刀を振りまわすこともできない。熊野兵庫助、松田兵部少輔もひき返し一手になって防ごうとするが、たちまち破られてしまった。

「今日、新宮党が合戦に敗れたこと。尼子家が世の嘲りを受けること必定だ。味方に、身命を捨てて戦うものがいないから、毎度、敵の小勢に負けるのだ。ここは、大将自らが一戦すべきところだ」

 尼子勢総大将尼子詮久が、立ちあがって進撃しようとした。

「これは如何に、数万騎の大将ともあろうかたが、このような小事に、軽々しいふるまいをなさるものではありませんぞ、このようなことがないよう、それがしが常にお側に居て制しせよと祖父経久どのに仰せつかっている。ただいまのおふるまいは、五百騎、千騎を領する程の武将などと同じですぞ。中国の大将を心に懸けられる御身にあっては情けない。祖父(経久)には遥かに劣る軍将ですぞ」

 大叔父尼子下野守久幸が駆けよって制した。

 立原久光、本田豊後守、熊野兵庫助、松田兵部少輔らも引き返そうとするが逃げる味方に押し流されている。

 毛利勢が激しく追撃してくる。味方は小魚の群れに小石を投げたごとくドッと逃げていく。

道は狭く、左右の深田に落ちたところを敵に討たれる。深手を負って逃げることのできない者は次々と首を取られていく。命からがら逃げて行く者も、ほとんどが傷を負っている。もはや一方的な虐殺でしかない。

 しつこく追撃していた毛利勢も尼子方の兜首三つと、五百余りの雑兵首を取って意気揚揚と引き揚げていった。やがて毛利勢陣地からドッと挙がる勝鬨の声を、尼子勢は、蹌踉とした気分で聞いていた。

 逃げる尼子勢は本陣まで追撃されるという大敗を喫した。毛利軍の戦死者は福原の家人・中原小七郎ただひとりであったという。これを青山土取場の合戦という。

 

 ゴーッと凍てつく西風が篝火を蹴散らして通り過ぎて行く。山峡の吉田の里は、ついに冬になった。

 十一月、尼子応援のため吉田へ進撃してきた佐東銀山城主・武田信実隊を、毛利勢国司元相隊が般若谷で撃退した。

 尼子方の武将吉川興経、高尾久友が評定して言う。

「諜ごとを先にして戦いを後にすることは兵家古今の通義である。このたびの数回にわたる合戦をみると、毛利の勇気・智計年を追うて増上しているうえに、諸卒もまた三千が一心となって戦うゆえ、まことに一騎が千騎に当たり、分外の勇となっている。味方は、多勢を頼んで、この城、何ほどのことがあろうか、わずかの三千人前後なのでたとえ臥龍、鉄虎が籠っていようとも、最後には落城するか、降伏するかであろうと気安く思うゆえに陣法・軍容を自ら怠り、将兵もまた戦うことに、それぞれ一身の大事とは思わず、敵が強ければ引き退き、他に任せて見物する。多勢がかえって仇となっていちども勝ったことがない。だから、城の兵も自然と寄せ手の兵を、たいしたこともないと侮る心が生じているであろう。いまこそ、謀りを先にして戦えば勝てる。さあ、三人ともあの宮崎へ陣を進めよう。そうすれば城中の兵は、これまでの勝ち戦のように常法で押し出してくるだろう。いままでは、平場に隠れていたから勝利を失っていたのだ。柵を作って中から弓を射させよ。毛利勢は、柵を破らんと無二に懸かってきて、手負い死人多くでて退くのに乗じて突撃に移り、ただ遮二無二戦うべし。宮崎へ陣を移し、ひと合戦して強いところをみせようぞ」

 数十日にわたり詮議してやっと結論がでたので本田豊前守が尼子詮久に上申した。

「あいわかった、各々の望む旨に任す。ただし、先鋒は尼子旗本衆から一陣に高尾、二陣には、その次はとする」

 尼子詮久の返答があった。

「宮崎の陣へ敵が今までどおりに攻撃してきたところを、本陣から軍兵を出し、敵を真中に挟んで撃ったら勝つこと必定だ。出雲勢に一勝を得させて、これまでの数回にわたる負け戦による嘲りの衆口をふさぐべし」

 吉川興経、高尾久友ら三人は、宮崎へ陣を移した。

 

十一月二十六日(新暦十二月二十四日)、陶隆房、杉重政、内藤興盛を大将として防長豊築四州の軍兵二万余騎が山口を出発したという知らせが入った。尼子勢が郡山城を包囲してからすでに三月を迎えようとしていた。

 十一月二十七日夜半、陣屋で横になっていた相安は、吹き荒ぶ木枯らしにまぎれて、かすかなどよめきと喚声を聞いた。

― なにごとだ。

 相安が小屋をでた。冬空に寒月がこうこうとさえわたっていた。雲ひとつない夜である。肌に突き刺す寒さに身を縮めながら不寝番の兵に近づいた。篝火で暖をとりながら、兵らも郡山城を見ている。

「夜襲してくる気か」

 相安も耳をすました。それにしては、喚声は一、二度だけであとは静まり返っている。

「夜襲ではなさそうだな」

 相安は、冷え切った体を摩りながら閨に入って蒲の穂を詰めた夜具にもぐり込んだ。

「おー寒」

 冷え切った体は容易には温まりそうにない、身ぶるいしながら床の敷わらをかき集めて身体に密着させた。

壁際に、善兵衛が寝ている。すでに高齢の域に達した善兵衛の体に、この寒さは応えるのであろう。すっぽりと藁に潜り込んでいた。

― そろそろ、何か理由をつけて、浅利へ帰らせてやろうか。

 相安は、震える体をもてあましながら考えていた。

 このとき、毛利方では、大内氏が二万の大軍で救援に出発したという知らせを聞いて、一斉にわき返ったのであった。

 翌日、相安は、留守を守っている妻の由貴と山下理右衛門に手紙を書いて善兵衛に託そうとしたが、善兵衛は頑として受け付けなかった。

「そのようなことで、儂を使われるのか。小者を走らせば事足りることです」

 善兵衛は、自分で名指しした小者を浅利へ走らせた。

 相安は、ただ、苦笑するしかなかった。

 十二月三日(新暦・十二月三十日)、陶隆房に率いられた大内軍二万が一尺(約三十センチ)ほどに積もった雪を踏み散らして吉田に到着した。

 大内軍は、郡山城の東南に当たる上小原の山田中山に軍旗を立て、陣太鼓を打ち鳴らして、毛利勢の士気を鼓舞した。

 対する尼子勢は、

「ついに毛利の救援がきてしまったのか」

 深い失望感とともに、じ後の戦いにおける困難さを思って意気を消沈させた。

 その年は、厳寒が続いた。毎日、空はどんよりと曇り、雪やみぞれが降り、木枯らしが吹き荒れた。士卒の手足は凍傷にかかり、弓を引き、槍を遣うにも意のままにならず、大雪で道も埋もれ、あるいは凍って、馬も動き難い。

 戦どころではなく、両軍の間に膠着状態が続いた。

 相安らは、ただひたすら寒さに耐える日を送った。

 

 天文十年(一五四一)になった。寒波も和らぎ春の近づきを感じさせる風が盆地を流れ、雪も緩んできた。

 弓を絞り、矢を放つ手に力が戻ってきた。

 正月三日、毛利勢が小早川隊とともに尼子勢の相合口を襲ったが大きな戦にはならなかった。

 正月六日、尼子勢将兵のために設けていた遊廓青ノ町を毛利勢に放火された。

―毛利勢が反撃にでた、いったいどうなるのだ。

 勇躍している毛利勢をみて尼子軍の将兵は、あせりいらだっている。

 正月十一日(新暦二月六日)、雪が熄(や)んだ。空はどんよりと曇っている。あいかわらず寒い日が続いているが、風のない分、暖かく感じた。

 陶隆房は、元就の希望を受け入れて、山田中山から天神山に陣を移した。

天神山は、郡山城と尾根つづきで、尼子軍に対して左正面に位置する。両翼で尼子勢を包み込む形を取ったのだ。尼子軍にとって、ここを占拠されたら、郡山城攻撃が困難になる。一方を攻めれば一方に側面から攻撃を受ける。

 尼子勢は、これを阻止しようとしたが亀井、牛尾には戦意がなく、他の者も動かない。それでも尼子国久は、手勢三千騎を連れて一合戦しようとした。ところが叔父尼子下野守に制せられ、顔面を真っ赤にしてくやしがりながらも思いとどまった。

 

 毛利軍は、宮崎長尾で伯耆の南条、小鴨、出雲の高橋、安芸の吉川ら連合軍と戦った。

 正月十三日(新暦二月八日)になった。昨夜来降り続いた雪が辺り一面を銀世界としていた。一ヵ月ぶりに姿を現した太陽の光りがまぶしく反射している。

 元就が精鋭のほとんど二千騎余を引き連れて城門をでてきた。

 空堀の際に陣取った元就は、甲冑を着ていない。樺色の小袖のまま床几に腰かけて、悠然と尼子方を睥睨している。

―ばかにしゃがって。

 尼子勢をあまく見た行動に、尼子勢将兵がいきり立った。

 宮崎長尾口に屯営している尼子勢の陣地では、高尾久友が二千余で今日の先鋒一番手を受け持っていた。ここに毛利勢が向かってくる。

「来るぞ、敵はわずかの人数だ、近くまで引き寄せて討ち取れ」 

 高尾久友が松永宗十郎、菅谷九郎、亀井三太夫らを先に立て、柵際で待ち受けている。しかし、兵らの間では、

―攻撃軍が守勢にまわったらもうお終いだ。

 隊は、憂色に包まれている。

 厭戦気分が蔓延した。

 毛利勢がわずかの人数で尼子の大軍に突っ込んでくる。

 尼子勢は、そんな毛利勢を無謀なやつらだとみる一方では、敵愾心を露にしてひしひしと迫る殺意に不気味な脅威を感じていた。極度の緊張で顔が強張っている。

 郡山城には周辺の百姓も一緒に籠城している。

「尼子勢は、大軍でやってきて百姓の眼前で稔った稲を刈り取ってしまった」

 秋に米が収穫できなければ、来年の秋まで生きのびることができない。

「尼子のやつらのやることは、むごい」

百姓らの憎悪が毛利勢の敵愾心を引き出している。整然とした隊形でヒシヒシと迫ってくる。

「射て」

 高尾久友の下知に、尼子勢が一斉に矢を放つ。ドドッと毛利勢が倒れる。

 それでもまず押してくる。ついに柵が破られ、高尾隊陣地に切り込んできた。

 尼子勢は、槍を捨て刀で応戦したが、毛利勢は殺意のかたまりとなっているのに対しては命を賭して戦うという気迫がない、防戦で精一杯だった。たちまち高尾隊は、左右の谷へ逃げた。

 そもそも尼子と同盟を組んで毛利攻めに加わったのは、従属しなければ潰されるという武威に屈っしてのことであり、また、尼子が毛利に勝つとみたからである。だから、尼子の旗本衆以外の将兵は、尼子のために命を投げ出す気など毛頭ない。敵が強いとみればたちまち退いて逃げる。

 味方の一陣を切り崩した毛利勢を、尼子勢二陣黒正甚兵衛一千五百が弓矢で応戦し、黒正源八、大野八郎、隅田十兵衛らが馬から下りて槍の穂先を揃え、突撃しようとした。

 そのころ、陶隆房、杉重政、内藤興盛ら毛利救援隊の大内勢二万騎は、尼子軍本隊が毛利軍の後方に周り込むのを阻止するため待機していたが、尼子軍本隊が動かないのをみて、尼子軍本陣青三猪山へ突撃して来た。尼子軍は、天神山と青三井山の間を流れる多治比川の岸辺に伏兵を隠していたが、このとき大内軍は尼子勢の裏をかいて迂回し、与二の渡しから多治比川の本流可愛川を再び渡った。

 そこから、川沿いに南下して尼子勢本陣の背後を襲ってきたのだ。

 各方面に兵を出して手薄になっていた尼子勢本陣は、完全に虚を衝かれ大恐慌をきたした。

「味方は、山上に陣を取ってしかも大勢だ。敵は、山の下から攻め上って、しかも小勢だ味方の必勝なんの疑いやある。各々の好きなように迎え討て」

 尼子詮久の下知が下りた。ところが、尼子一族や十三人の家老衆らも、宮崎の陣は、はやくも敗亡と見え、そのうえ大内勢二万騎を三段に分け、太鼓を打ってひたひたと進んでくる勢いにのまれたのか、だれもが黙して動こうともしない。

 そのとき、

「面々は、いかに思っておられるのか、敵は、味方・高尾の陣を切り崩し、はや黒正の陣へ攻めかかっている、あれを見たまえ、敵方に勝利の色歴然だ、あの陣もたちまちのうちに押し破られるであろう、しからば吉川の陣も絶えられないであろう、宮崎の陣が破れて後は、元就、当陣の後ろへ回り込み、大内勢と牒じ合わせて追手搦手から攻め立てられたならば、当陣の危機は必然だ。今日こそ、ひごろ武道に励んでおられる各々も一合戦して勇気を現されるときですぞ。敵のいないときの広言は、畳の上の水練、虚像の精兵に似ているであろう」

尼子下野守が立ち上がって言う。

 この下野守は、日ごろ思慮深く危うい合戦を慎み必勝の成算がなければ、合戦を控えるところから、臆病者と嘲られて尼子比丘尼と言われている。昨年十一月一日の備定談合でも無策な郡山城攻めに慎重論をだして、詮久や新宮党の国久から臆病野州と罵られた。下野守は、これを聞いても怒ることはなかったが、憤りが深かったのであろう、居丈高になって言った。

 尼子下野守のことばにも皆は、一言の返答もせず、伏目になっているだけである。このようなときは、積極的に戦いを望むのが武将の意地であるはずなのだが…

 そのとき、

「今日は、この尼子比丘尼が討死しなければ、御大将(詮久)も安穏に退陣することも難しいと思われる。尼子の臆病比丘尼まかり通るぞ、ご免あれ」

 すくっと立って緋縅の鎧に赤の手拭で鉢巻をしたが、兜をとって捨て、手勢五百ばかりを引き連れて青三猪ヶ坂へ討ってでた。

「下野守さまは、死ぬ気だ」

 河副美作守、本田豊前守らも二、三百の兵を率い、尼子下野守につづいた。

 そのほか、その場に居合わせた諸侍も遅れてなるものかと突撃している。

すでに、高尾、黒正の両陣が破られたので尼子方吉川の陣も、たちまち潰れてしまうだろうと思われたが、大力の勇将といわれる吉川興経の率いる陣は、先備えが潰されてしまったことにも臆さず静まりかえって毛利勢を待ちうけている。。

 毛利勢も、一陣二陣を破ったものの激戦で喉が渇き、腕は弱り、腹も減って心身ともに疲れ果て前へ進まなくなった。

「はやく吉川の陣を切り敗れ」

 元就が、栗毛の馬に跨り、馬上から大音声で下知したので、毛利勢は、勇む心を力に吉川の陣へ押し寄せて敵陣の構えをみると、高さ四、五尺(一メートル半)の土塁を築きその上に柵を結んで、二ヵ所に枝折戸を構えている。さらに、その脇に矢倉二ヵ所を設け、右の矢倉には選りすぐりの兵を置いている。左には、吉川興経自らが上り六、七人をもってしても使い難いほどの大弓で大矢をすさまじく射る。毛利勢は、つぎつぎと倒れていく。

 毛利勢も、弓矢で応酬し、矢戦がつづく。毛利勢の赤川左京亮、赤川又五郎、桂右衛門尉、山縣彌三郎らが槍を入れ、たちまち敵を押し込んで枝折戸を切り落し、乱入しようとする。吉川興経らが弓矢で狙い撃ちし、毛利勢の手負、死人が累々と重なりひるんだところを、尼子勢の森脇和泉守、境采女正、門田、朝枝らが槍薙刀の切先を揃え、鬨の声をあげながら切って出た。

 毛利勢がたちまち崩されて柵の外へ逃れる。こんどは、桂元澄らが弓を取り直しはげしく射たてて尼子勢を柵のなかに追い入れる。

「かかれ、かかれ」

 吉川興経が、矢を射たて自ら采配を振って下知する。宮庄、伊志、小坂、筏、山縣、二宮、森脇ら一千余騎が先頭に立ってまっしぐらに突きかかる。その勢いに毛利勢が柵の外へ追い出される。

「不甲斐なきふるまいぞ、あの敵を追い入れよ」

 元就の命令により毛利勢が、また奮い立って尼子軍を柵際まで押し詰めた。

 毛利勢は、早朝から凄絶な闘いを展開したが、吉川の陣は、簡単には押し敗れそうにない。

 数刻におよぶ戦いに兵は疲労困憊している。

「少し下がって、息を継げ」

 元就の下知に、毛利勢が引いた。

 日暮が近づいてきた。

 毛利勢が、鬨をドッと挙げて引いて行く。

 吉川勢も陣を破られなかったことを勝として追撃することもしなかった。

 毛利勢の挙げる勝鬨の声が郷中にとどろいた。

 一方、大内勢は、毛利元就の指揮する宮崎の合戦も味方が勝っているように見えたので、いよいよ力を得て、先陣・陶、二陣・内藤、三番・杉と三段備えで、青三猪が坂の尼子軍本陣に押しし寄せてくる。この大内勢は、今日が初めての戦場突入だったので、敵・味方に勇をみせつけようとする気概が士卒にいたるまで溢れている。

 なかでも、末富志摩守は銀の四手を竹につけて腰に差し、真っ先に進んで尼子の本陣・青光猪山の八分方まで一気に攻め上った。

「まだ、まだ寄せつけろ」

 はやる兵を制止しながら、突撃の機を計っていた尼子下野守が、

「行け」

 大音声を飛ばした。尼子勢三千余騎が、喚声を挙げながらドッと敵軍に向けて山を下っていった。

 この日、小笠原隊が尼子勢の先鋒を受けていた。

 小笠原隊は、九月の戦闘で御屋形の次男・長晴の首を取られてしまっている。

「武士が戦場で死ぬのは名誉である」

 気丈に振舞っている御屋形長隆の心情を思って、小笠原隊の将兵は自責の念に苛まれていた。相安ら武将の目つきが変わってきている。

 小笠原隊勇将が先を争ってなだれ打つ。誰もが死に場所を求めての突撃であった。

 相安の率いる福冨党は、小笠原隊のなかでも特に、屈強の力を持っているという自負がある。

「儂に続け、遅れをとるな。敵を追い落とせ」

 相安は、兵を叱咤しながら陶隊の先陣宮川、深野、末富、野上ら二千余騎と凄絶な戦闘に突入した。

 尼子の先陣一万五千が一手になって戦闘に加わってきた。

討っても射ても大内勢・陶隊七千余騎には怯む気配がない。敵味方の死傷者を踏み越えて上ってくる。

「押せ、押せ!」

 相安の槍が、敵を突き刺す、敵がもんどりうって転げ落ちていく。

 地の利を活かして上から突き下ろす尼子勢の猛攻に、旗色が悪くなった陶隊が山から崩れ落ちるように引き下がり、麓の小川を越して三日市まで後退した。

陶隊は、すかさず、末富志摩守が取って返し、山の中腹まで押し返してきた。つづいて杉、内藤も攻め上ってくる。

 尼子勢は、尼子下野守、本田豊前守、河副美作守、立原備前守らも一手となって押し返す。

 尼子の新宮党は、闘いに加わろうとしたが坂の道が狭くて進むことが出来ない。谷も深く横合いからの挟撃もできない。しかたなく、尼子勢の後塵を被っている。

 ここに、尼子勢三万七千騎、大内勢二万余騎が凄絶な戦いを展開している。

小笠原隊は、敵味方入り混じった大軍のなかに呑み込まれて個々がバラバラの戦闘を行なっている。

 相安の率いる福冨党も、前方の敵、後方の大軍に吸収され、もはや組織的な戦いはできない。個々に目前の敵と渡り合っている。

 積もっていた白雪も大軍に踏みにじられて泥と化し、将兵の足をうばう。滑って倒れた兵に敵の兵が群がって首を取る。

 相安も、敵を突き倒し、蹴倒し戦っている。下から体勢を低くして槍を突き上げてくる敵に、二度、三度と槍を撥ねかえして、わき腹に突き刺した。

 凄絶な渡り合いのなかで相安は、敵方の歩卒に囲まれて立ち往生し、必死になって長槍をふるう御屋形を見つけた。すでに敵の重囲に陥って、小笠原隊旗本衆までが態勢を崩している。

―御屋形が危ない。

 相安が、走り寄った。

「御屋形さま―、ここは、それがしが食い止めます。ひとまずお退きを」

「オー。七右衛門…死ぬでないぞ」

「さらばでござります」

 御屋形が、旗本衆に囲まれて退いていく。

 追撃しようとする敵兵を、福冨党が円陣を組んで阻止する。

 圧倒的多数の敵兵から、次から次に繰り出される槍を防ぎきれず、福冨党の猛者も力尽き倒れていく。相安も数ヵ所に槍を受けて力が消滅してくる。

―なにくそ。

 相安が、低い態勢から立ちあがった瞬間、己の顔面に飛び込む寸前の矢を見た。

 ガーンと衝撃が全身を襲い、真っ赤に染まった空が反転するのをみながら、意識が薄れていった。

 仰向けに倒れた相安の右目には、至近から放った敵の矢が突き刺さっていた。

 福冨七右衛門尉藤原相安の壮絶な最後だった。

「御首を取られるな」

 福冨党の将兵が相安の屍をまんなかに円陣を組んで力の限り闘っている。

「忠左衛門、殿の御首を敵に渡すな。皆も逃げよ、死ぬことは許さん。逃げて、福冨党を立て直すのだ」

佐々木善兵衛が大手を広げて敵前に立ちはだかった。重囲の中で、必死に忠左衛門を守ろうとする善兵衛が最後の言葉をあげた。このとき円陣から抜けだし、後方へ走っていく武将があった。山下忠左衛門である。

 その小脇には相安の首級を抱きかかえていた。

 

 尼子勢の猛攻に大内勢が劣勢になった。

「何時のために命を惜しむのか」

 深野平左衛門興房、宮川善左衛門興廣が真っ先に進み、数多の尼子勢を突き伏せていたが、深野は、右肩に深々と矢を受けた。

「宮川どの、もはやこれまでぞ、さらばでござる」

 敵に組ついて刺し違えた。これを見た宮川も命を限りに闘っていたが、味方の加勢もなくついに、そこで討たれた。

 末富志摩守も槍が折れ、太刀を抜いて闘っていたが、身体に数十箇所の傷を負い、すでに危うくなった。これを若党らが肩に担いで山から下ろし、戸板に乗せて本陣へ帰り、手当てをしたので命を取り留めた。

 大内勢・陶隊は、多くが討たれ、負傷して浮き足だってきた。

「味方の勝利ぞ!進めや、者ども」

 尼子下野守がすさまじい闘鬼となってかかっていった。

 だが、毛利隊・中原善左衛門の放った弓矢が下野守の額に命中した。

 瞬間、体が馬上で棒立ちになり、のけぞって地に落ちた。うつ伏せに倒れた下野守の首を取ろうと走り寄った中原善左衛門に、下野守の若党が、主の首を取られてなるものかと反撃してきた。

「己を捨て、主を助けようとするとは、やさしき者のふるまい」

 中原善左衛門が敵に誉を与え、一太刀に切って捨てた。その隙に下野守の若党らが主を肩に担いで味方の陣へ逃げ込んだ。中原は、思う首をとることができず、心ならずも若党の首を持ち帰った。

 尼子下野守が討たれたので、尼子勢が大崩になりかかった。新宮党の尼子紀伊守、尼子式部大輔、尼子左衛門大夫が手勢三千ばかり入れ替えて大内勢を山下に追い落とした。

「二度までも追い落とされるとはなにごとか、このうえは、自らがかからなければなるまい」

 陶隆房が、大いに憤り、馬腹をけって突撃してきた。

 尼子勢も、陣内に入り備えを堅くして待ち受けた。

 陶隆房の臣、野上道友が、隆房の馬に駆け寄って制止した。伊賀民部少輔も鎧の袖にとりついて引き止めたので、この日の合戦は終わった。

 いっぽう、尼子軍総大将尼子詮久は、下野守が討死したのでひどく落胆していた。

「この度の出征を制止した下野守の意見を退けて、はるばるとここまで発向したため、

われが危急のときに、己の命を投げ捨てた無慙さよ」

 

 この日、尼子勢で討死した者は四百六十人を超え、負傷者は数えることのできないほど多くの損害をだすという凄まじい消耗戦となった。

 そのなかでも、突撃隊先鋒となった小笠原隊は、損害が特に多く、福冨党も、党首・相安を討たれたため、多くの士が力尽くまで戦って殉死した。

 一方、大内勢では、五百四十余騎が討たれたという。

 

 同日午後、犬伏山の麓に点在する百姓家に一人の武将が入った。山下忠左衛門である。

「負籠を貸してくれ」

 土間に平伏していた農夫が、急いで納屋から負籠を持ってくるのを待って、

「儂は、石州住人山下忠左衛門だ。主の御首を持ち帰るところだ」

 脇に抱えた包みを敷台に置くと、農夫があわてて仏壇から線香を取りだした。

「すまぬが蓑を貸してくれぬか」

 甲冑を脱ぎながら土間の壁にかけてある蓑と菅笠を指さした。

「使い古したものですが」

 恐縮しながら忠左衛門に蓑と菅笠を渡し、

「ちょっとお待ちくださいまし」

 小走りに納戸へ消えた、やがて毛皮の袖なしを持ってきた。

「これを、蓑の中に着てください。温かいですから」

「これは、かたじけない。かならず返却にくる」

「これから峠を越えなさるのでございますか。今日は雪が深く難儀なことでござりましょう」

「一刻を争う、ここは何処か」

「後ろの山が犬伏山でございます。ここは、上郷地区でこれから越えられる峠が犬伏山です。家の前の道が登り道です。しばらくは、荷車でも通れる道が続きます。やがて、道が二股に分かれます、そこには、お地蔵さんがありますので迷うことはありません。分れ道を左に入ってください、右は犬伏峠への道です。右は雪が深く、とても越すことはできません。お武家さまは、左の道をたどり、道なりに峠を越えてから、しばらく下ると、谷川沿いの道になります、これが智教寺川の支流ですので、そのまま進みますと里にでます。こちらの道は、木が多く茂り、積雪もあまりありません。山を下りきったところにあります智教寺の前を西に向いますと出羽まではもう少しでございます。くれぐれも、決して犬伏峠へは踏み込まないでください、あの峠は特に雪が深いですから歩くことも難儀になります」

「分った、お地蔵さんが見えたら左の道へ行く。出羽まで帰ればもう分かる」

 農夫が、暗い屋内をバタバタと走って、奥からおひつを横脇に抱えて出てきた。

「貧しい身でありますので何もありませんが」

 独り言のようにいいながら、筍の皮に飯を包み、庭から採ってきた柏の葉に囲炉裏端に突き立てていたアユの干物を包んでいる。

「ありがたい、なによりのごちそうだ」

 農夫から差し出された食べ物を押し頂いた。

 負籠にいれた相安の御首に両手を合わせて見送る農夫に、

「此度の戦は大敗だった。万を超える敗残兵がこの村を通って逃げるやも知れぬ事態となっている。そのときは、村の衆に迷惑が及ぶことになるゆえ、皆を集めて山に隠れなさい」

「ありがたき、お心づかいで」

「儂の甲冑は、どこぞへ隠してくれ、さもないとおぬしが盗賊と間違えられる」

「この山には、狼や山犬がおります。仏さまの血の臭いを嗅いで襲ってくるやも知れません、この犬をお連れ下さい。狼や山犬にもめったなことで負けるやつではありません」

 百姓が、二匹の犬を連れてきた。焦げ茶色をした精悍な大型犬である。一匹に縄をつないで忠左衛門に渡した。

「かたじけない、拝借する」

「峠を抜けてから、放してくだされば、自分で勝手に帰ってきます」

「落ち着いたら、必ず礼に参る。儂の甲冑は必ず隠してくれ」

「へえ、そうさしていただきます。…・お気をつけなさって」

 百姓姿になって山下忠左衛門は雪の犬伏峠に向った。

 道は、杉の木が密集する山道となった。一尺ほどに積もった雪を踏んで上り坂にかかった。

 甲冑を脱いで雪靴を履いた体は、軽やかに坂を登っていく。道は、いよいよ細く両側を覆う熊笹がわずかに道を教えていた。幸に積雪は膝の下までしかない。手に繋いだ犬は、おとなしく忠左衛門の前を歩いている。雪山に慣れているのであろう、身丈ほどもある積雪の中を飛びこえ、潜りこんで苦もなく登っている。放した犬は、前になり後ろになってついてくる。

―これは、いい仲間ができた。

 道に沿う谷川の清冽な流れが、さわやかな音をたてている。農夫は、この谷川を出店川の上流だと言った。

 日暮れまでには峠を越えることができるだろう。忠左衛門の気持が安らいできた。

 村の半鐘が鳴りだした。

―村の衆も避難を始めたようだ。

「殿、もう少しで帰れますよ」

 山下忠左衛門は、ずしりと重たい負籠に語りかけた。

 

 この戦では、元就の次男少輔次郎元春(十二歳)が初陣を果たし、吉川興経と激戦を展開したが、この吉川家こそ七年後の天文十七年(一五四八)に元春を養子に迎えた吉川である。吉川興経は、元就の妻お玖(妙玖)にとって実家の甥であるが、尼子詮久に合力し元就を攻めた。

 元就は、宮崎の合戦が散会してからも、小川のほとりに備えを立て、青三猪が坂の合戦をしばらく見物していたが、大内勢が本陣へ帰ったのでさっそく使いを遣わして、

「今日の合戦お互いに味方の勝利を得られたことは、ひとえに貴方がた三将の智勇によるものでございます。そこで、元就は、今晩、宮崎に残っている吉川の陣を夜襲して切り崩す所存でございます。そして、明日には、両口から尼子詮久の陣へ切りかかり一気に攻め破ろうと思っております」

 と言い送った。

 大内の三将は、

「仰せのごとくもっともでございます。しかし、味方は、今日の戦で負傷者も多く、四、五日の間、養生をさせてそのうえで、尼子詮久の本陣をそれがしの軍勢をもって切り崩しましょう。今日、敵陣を敗ることができなかったことは、ひとえにそれがしらの勇と謀の拙いゆえであり、口惜しく思っております。この無念は次ぎの合戦のときには、必ず晴らす所存でござります」

三将が言った。

 一方、尼子詮久は一族郎党を集めて言う。

「宮崎の高尾、黒正が敗れてしまったので、吉川隊だけが宮崎の陣所で耐えている。もし、今宵にでも、敵が押し寄せたら興経が討死してしまうだろう。至急、援兵を遣わせよ。誰かその任に当たる者はいないか」

「宮崎は、敵の陣に近く、尋常の者を遣わしても、高尾、黒正の二の舞になってしまう、それがしが行こう。しからば元就は、この前のように郷中へでてくるだろう。そこで敵が宮崎へ攻めてきたなら、ここからも軍勢をだして援護されたい、もし、順禮堂辺りへ出てきたなら、当陣と宮崎の中に挟んで追い立てようぞ」

 新宮党が言えば、亀井、牛尾ら家老らが言うには、

「今日の合戦を見て考えるに、元就の勇は尋常のものではありませぬ。大内勢もまた隆房の勇烈なことは父・道麒入道に劣らず。今の敵でさえ勝つことが困難なところに、このほど防州にもぐらせている山伏らが、先刻帰って言うには、大内義隆が数万の軍勢を率いて防府に着陣し、青景、弘中、右田、問田の者らが、近いうちに当地へ出張ると聞こえている。このうえにまた、敵勢が増えたならいよいよもって味方の由々しき事態となりましょう。まず、当陣を引き払って大殿(尼子経久)のご意見のように、改めて石州又は備後から攻めたならば、元就も終いには降伏するでありましょう。明日になっては退くのも困難でしょうから、明朝の寅の刻(午前四時ごろ)に、密かに引き払われてはいかがでありましょうか。殿(しんがり)は、高尾豊前守がかねてから望んでおりますので彼に任せられたならば、敵がいかに厳しく追撃してきても味方に難儀が及ぶことはないでありましょう」

 諸将も、下野守が討死されたことに落胆し、気おくれしていたところなので、皆が同意した。

 尼子詮久も、今までの合戦に利がなかったことは、伯州大山大権現の天狗山伏をもって、当地出張の義、再度におよんで制止された神勅に背いた冥罰であろうと思われるので、これから先、とても味方の利運はなかろうと、犯した過ちを悔いた。

 やがて家老らの意見に任せて退陣を決定した。

 同夜半になって諸陣にかがり火を煌煌と焼かせ、密かに陣を払って、北池田、阿沙、津賀まで引き退いた。

 毛利元就も、しばらくは気づかなかったが、敵陣近くに潜入させていた忍の者が走り帰り、敵陣が騒がしいので、もしや夜襲でも仕掛けてくるのではと近くに寄って窺ったところ、宮崎の吉川は新庄口へ引き払い、尼子詮久の本陣は北池田に向って退いております、と告げた。

 毛利の陣ではこの夜、宮崎の陣へ夜襲を掛けるため、宵の口から支度をして待っていたところだった。我先にと追撃したが、大雪のため行動が自由にならない。

 そのうえ、高尾久友の五百騎が殿(しんがり)として道を遮り備えているので、うかつには追えない。

高尾は、夜中のうちであれば安全に退くこともできたが、昨日、宮崎の陣があえなく切り崩されたことを無念に思っていたので、あえて敵を待ち受けていた。

 夜が明けようとするころ、毛利勢が切り掛かって来た。

 毛利勢の猛攻に高尾隊は一歩も退かず三度までも押し返し、終いには三百余騎が円陣を組んで全員が凄絶な討死をとげた。

 その隙に、尼子勢はけが人を助けながら津賀まで退くことができた。

 尼子詮久はここで、陣を張って敗軍を収容していたが、三日後には迫ってきた毛利勢にあわてて出雲へ帰った。尼子勢の逃げた陣には深野、宮川の首が縁の上に置かれ、尼子下野守首桶が床の上に放置してあった。尼子勢は、いかにもぶざまな姿をさらけ出してしまった。

 壊乱退却した尼子軍は、雪の犬伏山や江川の渡しで四百人余りという甚大な犠牲をだし惨憺たる退却行となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾行者

 残暑の厳しい天文八年の夏も、かすかに秋の気配を感じるようになってきた。ガンガンと耳に響いていた蝉しぐれも力を失い、法師蝉が「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴いていた。

「いったい、何者だ」

 理右衛門は後方を振り返った。

「ハアー」っと、自分でもびっくりするようなため息をついてしまった。

 今朝、浅利の居宅を出て村境近くの大歳大明神に頭を下げたときだった。誰かに見張られている気がした。殺気はないので、気づくのが遅れたが、どうも見張られているような気がする。

 身構えて周囲を見回したが誰もいなかった。気を取り直して、隣の渡津村への峠道にかかると、また、その気配が湧き立った。木々を透かして後方に眼を向けるが、何者もいない。だが、肌は緊張している。あきらかに視線を感じ取っていた。姿を見せない尾行者に怯んでいるのではない、身が竦んでいるわけでもない、いつも見られているという圧迫感が気に入らないだけだ。

「ドキッ」

 理右衛門の繰り出す右足の着地点に横たわる異物を見つけたとき、右足はすでに着地寸前であった。瞬間的に数寸、足を伸ばして異物を避けた。転倒しかけた上体をかろうじて立て直した。

「おっとっと」

 大仰な声をあげて苦笑した。後方にばかり気を取られて前方をおろそかにしたから、こんなことになるのだ。

五尺(一六五センチ)はあろうかとおもえる蛇の青大将が道を横切っていた。寸前のところで踏みつけるところであった。毒蛇ではないので噛まれても害はないが、いい気はしない。

青大将は悠然と、ことさらゆっくりした速度で熊笹のなかに潜り込んだ。

熊笹の先は崖になっており、木々の間から見える日本海はすぐ下まで迫っていた。

 

一里ほどしかない峠を越えるのに、なんの苦労もいらない、あっというまに渡津村の塩田浦に出た。体の緊張はあいかわらず続いている。姿は見えないが誰かに尾(つ)けられていることは確かだ。

 街道脇に建つ寺の山門に身をひそませた。尾行者がおれば目前を通るはずだ。

 首筋をなでる風は清涼で心地よかった。つがいの蝶がもつれあうように交差しながら山門をくぐり抜けた。

 眼の前に広がる江川(ごうのがわ)を一艘の渡し舟がひどくゆっくりと進んでいた。渡津村の渡しから河口付近を横切って対岸の江田(ごうだ)村へ向かう舟だ。江川の真っただ中に静止しているように見える舟は、夏の日を照り返す川面にゆらゆらとかすんでいた。

 江川は安芸国阿佐山(標高一二一八メートル)に発し、中国山地貫流して日本海に注ぐ大河だ。当時の人々は石見川と呼んでいた。河口付近の川幅は百六十丈(四八〇メートル)を超えている。

 江田村は、はるか遠くに見えていた。川岸から一気に立ち上がる小高い山の上から、都野氏の居城亀山城が江川を睥睨している。日本海から江川を遡上する舟が最初に眼にする城であった。城から眺める景色の見事さはいかほどのものであろうか。

 四半刻(三十分)の間、様子を伺ったが山門の前を通り過ぎる者はいなかった。理右衛門はお堂に一礼して山門をでた。

 長良の渡しに程近い山際に島田利左衛門屋敷があった。理右衛門は誘(おとな)いを求めるでもなく潜(くぐ)り戸から入って行った。

 嫡男となるべき男子がいなかった福冨家の分家山根儀右衛門に、都野氏の重臣島田利左衛門の第二子麻呂を養子とする話が整った。

 相安と都野家当主隆安の口利きによるものであった。

 相安から仲人をまかされた理右衛門は、相安への相談と報告を緊密に行いながら幾度となく山根、島田両家を行き来して縁談をまとめてきた。

あれは、何回目のときであったろうか。ふと、誰かに尾行されていることに気づいた。殺気がないので恐怖心も湧いてこない。気になるといった程度のものであった。だが、正体をつかむことができぬまま、半年が過ぎようとしている。

ふしぎなことに、理右衛門にまとわりつく他人の視線は往路だけであった。帰路については、何の気配も感じなかった。

 このことは、いちどだけ相安に話したことがあった。

「ふしぎだの」

 野盗なら隙を見つけて襲ってくるであろうし、狐狸の類(たぐい)なら半年も続かない、それに、里にまで尾(つ)けてくることなどありえない。

「用心をすることだの」

 相安も、それしか言いようがなかった。

 

 山根儀右衛門のひとり娘美雪と島田麻呂の婚礼は来春の三月一日(新暦四月七日)とした。昼は満開の桜花が祝い、夜は満月が婚礼道中を浮かびあがらせる。理右衛門の、腕の冴えを見せる演出であった。

 麻呂は美雪の婿養子ではなく、儀右衛門との養子縁組を行った後、美雪と結婚させるという。儀右衛門なりに考えた麻呂への思いやりがあった。

「儀右衛門どのは麻呂どのに家督を譲って、おのれは隠居するのだと、婚礼を心待ちにしているようでございます」

 理右衛門の言い方からみれば、儀右衛門は指折り数えているようであった。

 

 婚礼の日取りも確定したところで、相安が都野隆安への報告とお礼に行くこととした。

「理右衛門の言う、他人の視線とやらは出るかの」

「殿は、信じてないようですの、儂がうそを言っているとでも思っておられる」

 憮然とした理右衛門が口を尖らせてみせる。

「いや、信じている。だが、半年も身を曝さないというやつは、考えによれば、相当の腕を持った忍びかもしれない」

「忍び・・・」

「忍びなら、それぐらいやってのけるの」

「忍びだとして誰が放ったのでしょうか、なぜ、なんのために」

「わからん、理右衛門を尾(つ)けて何の益があるのか」

「いちど捕まえて白状させてみたいものですの」

「半年も理右衛門を煙に巻いたやつだ、簡単にはつかまらないだろう。それより、尾行者の顔を見ることだ。見れば誰が何のために尾(つ)けるのか判断がつくこともある」

 それから一刻にわたって相安らは、ひたいをつきあわせていた。

 

 村境を越えると峠は霧に煙っていた。中国山地を深く抉(えぐ)って日本海に注ぐ江川には霧が多い。霧は山峡に溜まって濃霧となる。街道わきに立ち並ぶ杉木立も数本先は霧に姿を没している。

「いい具合に霧ですな」

 理右衛門が相安を振り返った、聞き取れないほどの小さな声だった。

 無言で目配せした相安にうなずいた理右衛門の嫡男忠左衛門が、すいと街道脇の霧の中に潜んだ。

 相安は、この日、理右衛門を連れて江川を渡り、都野隆安に面会することとなっていた。

「いい機会だ、理右衛門をなやます影とやらを見つけようか」

 相安は一計を案じていた。相安ら一行はなにごともなかったかのように坂を下っていった。

 相安らの足音が消えぬ間に、ひとりの男が忠左衛門の前を通り過ぎた。百姓姿をしているが、動きは軽やかで、足音も消している。ふと立ち止まって右耳を前方に向けて聞き耳を立てた。霧で見えない相安ら一行を追尾している。

―父上の感も、間違ってはいなかった。

 忠左衛門は、その男が消えてから街道に出た。

「敵が見覚えのある人物なら、何もせずにやりすごせ。知らない人物なら捕まえろ。手に余るようであれば斬れ」

 理右衛門の指示だった。

 相安らを尾行していたのは、忠左衛門もよく知っている人物だった。浅利村大歳大明神の筋向いに屋敷を持つ郷士河波崎(かわさき)長兵衛の僕従松造だった。

「なぜ」

 福冨党の一員である長兵衛が、主である相安を見張る。これは、あきらかに主家に対する裏切りだ。忠左衛門には理解できない。

 忠左衛門は、もと来た道を引き返しながら反芻した。

 長兵衛は、三十歳を超えたばかりの剛直な士だった。屋敷の裏が浜であることもあって馬術の巧みさは福冨党軍団のなかでも際立っている。福冨党の騎馬による集団戦闘訓練では常に創意工夫した戦術を相安に提言していた。そのなかでも、機に応じて騎馬のみで一隊を組んで敵中に突撃する戦法があった。轡(くつわ)取りも、徒歩(かち)武者も連れずに騎馬だけで密集隊形を組むことにより、すばやい攻撃が可能となった。徒歩武者はいなくとも密集することにより、力がひとつに結集して敵を跳ね除ける。相安も彼の提言に瞠目し、採用した。今では、福冨党の大きな力となっている。屋敷は、浅利村を東西に貫く街道の西端にあり、西から東上する人物に睨みを効かせている。

 

「河波崎長兵衛どのにございました」

 忠左衛門は相安の心内をさぐるように小さな声で報告した。

「なに、長兵衛」

 立ち上がった相安が太刀をとって玄関へ向かった。

「殿、短慮は、お控えください」

 理右衛門と佐々木善兵衛があわてて立ちはだかった。

「長兵衛とて、仔細があってのこと。詳しくはそれがしが聞き取ります」

 両手を広げて相安を止めようとする善兵衛。

「心配するな、儂はそれほど馬鹿ではない、儂が直に聞いてやるのが長兵衛のためだ。理右衛門や善兵衛が、のこのこと出向いてみろ、長兵衛は死ぬぞ。あれほど剛直な人物だ、苦渋の末にあのようなふるまいにでたのであろう」

「よくわかりました。ここは殿にお任せしましょう」

 理右衛門と善兵衛の肩から力が抜けてきた。

 

「長兵衛はいるか」

 ずかずかと門を通り過ぎ、玄関に立ったところで、長兵衛が飛び出してきた。

「これは、これは」

 蒼白な顔をつくろい、かまちに膝を落として挨拶しようとする長兵衛を手で制して、

「話がある、上がってもよいか」

 草履を脱いだ相安を、長兵衛があわてて座敷に案内した。

「お一人ですか」

 長兵衛が怪訝な表情で門の外を振り返った。兵を連れていないかと、さぐるような目つきをした。

「この半年間、貴殿(そなた)のところの松造が儂や理右衛門をつけまわしていた。その理由(わけ)が聞きたい」

相安は単刀直入に話を切り出した。口調は平常であった。わが子を諭すような響きがあった。

この一言で、言い逃れはできないことを長兵衛は悟った。

「ご存知でありましたか」

「最初に気づいたのは理右衛門だった。だがの、誰なのかは、つい最近まで分からなかった。松造の技量が優れていたということだ。儂も、理右衛門も忍びの者につけられていると思った」

「身を隠す技量ですか」

 長兵衛が自嘲ぎみに言った。

「それで、それがしをどうされます。」

 長兵衛は成敗されるとでも思っているようだ。

「何もしない、面白いものを見せよう」

 相安は、僕従の助八に短弓を持ってこさせた。通常の弓より極端に短い弓ではあるが、室内や山中での戦闘では威力を発揮する。

「昨日、峠の上で、この矢が松造を狙っていた。至近距離だったと忠左衛門は言っていた」

「松造は気づかなかったと思います。それで、なぜ、殺さなかったのですか。」

「それは、忠左衛門が松造を知っていたからだ。顔見知りでない人物なら殺せと命じていた」

 長兵衛が言葉を失って沈黙した。

 満開となっている庭のさるすべりで小鳥が鳴いた。

「貴殿の一存ではあるまい、誰に頼まれたのか」

 平常心を保ったままのおだやかな声は長兵衛の心をほぐしていた。

「殿を前にして嘘はつけません。・・・・坂根さまにございます」

「なに、坂根筑前守さま。小笠原家重役の坂根さまか」

「殿、恐れ多いことながら、都野氏とのご厚誼は、ほどほどに・・・・。」

「そういうことか・・・・・長兵衛、心配かけたの。このたび、都野氏の家臣島田どののご次男を福冨の分家山根の養子として迎えることとなった。このことが、坂根さま、いや、御屋形さまの意にそわないのかもしれない。だが、都野家と福冨の交誼はいま始まったものではない、先々代、いや南北調争乱のときから続いているものなのだ。都野家と今の福冨家では家格に大きな隔たりがある。にもかかわらず、都野どのは同格として遇してくださっている。百年以上にわたってのことだ。儂も都野どのとの付き合いを大切にしていきたい。だからといって、小笠原さまをないがしろにすることなど絶対にない。坂根さまは儂が都野氏へ走るとでも思っておられるのかもしれないが、絶対そのようなことはない。御屋形さまは福冨相安の主人であられる。御屋形さまへのご報告は、儂がしかと行う」

「そうでございますか、よく分かりました。いままでのご無礼、ひらにご容赦を」

「分かっている。御屋形さまの命で、貴殿も動いたのだ、なんで、儂が文句を言えようか」

「坂根さまへは」

「すまぬが貴殿からしていただきたい。お願いする。正直なところ、疑があれば坂根さまから儂に直接聞いてほしかった。それを、長兵衛に嫌な振る舞いを命じた、坂根さまのやりようは気に入らない」

「・・・・」

「儂は、貴殿を責めているのではない。貴殿の心に宿る苦汁は儂の心をも苦しめる」

「恐れ多いことでございます」

「でも、すっきりしたぞ。長い間、貴殿を苦しめた役目もこれで終わりだ」

「さようにございます」

 言葉とは裏腹に、生気の甦った長兵衛の顔にじっとりと汗が浮かんでいた。おのれの仕える主人を裏切っていたという自責の念が消え去るには時間がかかりそうだ。

 松の風音に混じって潮騒が聞こえてきた。松林の先は浜だった。弧を描いて続く浜は東西に一里ほどもある。福冨党の馬術訓練場として使用している。

「久しぶりに、浜で汗を流したくなった、長兵衛、付き合わぬか」

「よろしゅうございます」

「早駆けを競うぞ」

「負けませぬ」

 馬術では相安に負けることはない。

「馬を用意せよ」

長兵衛が大声で家人に命じた。弾みのある声だった。

 

 福冨の分家山根儀右衛門に都野氏重臣島田利左衛門の次男麻呂を養子とすることに、御屋形(小笠原長隆)は不満をもっているらしいということが分かった。

「御屋形さまは此度の婚姻に反対なのでしょうか」

 理右衛門が浮かぬ表情で相安に問いかけてきた。

「いい気持ちをお持ちでないことは確かだの」

「どうしてでしょうか、『小笠原家中ではなく都野氏の重臣だから』ということでしょうか」

「たぶんそうであろうの」

「今、都野氏と小笠原氏の仲はうまくいっているのに、だめだということですか」

「仲良くというよりは、今の小笠原氏は力で都野氏を押さえているといったほうが正しいかもしれない」

「ですが、都野氏は小笠原氏との親密な交際を望んでおられる。その延長として小笠原家中の山根氏との婚姻を進めたのではありませんか」

「御屋形さまが怒っておられるのは、儂が都野氏のもとへ鞍替えするかも分からないと、お考えがあってのことだろう。それも、誰か、たぶん坂根さまあたりであろうが・・・告げ口をした者がいるということかな」

「告げ口となると怖いですの、どんなことになっているかもわからない。すでに、都野氏の家臣になりたがっているとでも言われているかもしれませんな」

「早急に、御屋形さまへ書面でもださねばの。忠左衛門に行ってもらうか」

「承知です。どなたさまへお渡しすればよろしいのでしょうか」

「御屋形さまに直接、お渡しすることはできない。当日、登城している重役連中であればだれでもよい」

 翌日早朝に出立した忠左衛門が、用件を済ませて四ッ地蔵城に帰城したのは二日後であった。

「たまたま、大島和泉守さまの御家臣がおられましたので、お願いしておきました」

「その家臣とかいう人物は知っているのか」

「はい。それがしと同様に、温湯城へ出向いております。いろいろと情報の交換をしております」

「若い者には若い者同士の人脈があるということだの、いいことだ」

「おそれいります」

「大島さまとは、いちばん良い方に会えたものだ」

 

 だが、御屋形からの回答がこない。

 

佐摩銀山(石見銀山)

 享禄三年(一五三〇)も暮れようとするころ、相安の叔父八神屋與次郎兵衛が四ッ地蔵城を訪れてきた。

「どうですか商いは」

 相安は子どものころから、父忠智と部屋に籠って話し込んでいた叔父の與次郎兵衛に対しては礼節をわきまえた態度を崩さなかった。

武家を捨てた変な叔父御。

 としか見ていなかったが、父が他界してからも時々、顔をだしては、貴重な他国のようすなどを知らせてくれた。最近になって、それが、いかに重要であるのかが相安にも分かってきた。

―ひょっとして……與次郎兵衛が商人になったのは、祖父治堅の意思によるものだったのかも知れない。と思うこともあったが、相安は口にだして聞くことはしなかった。

「まさに飛ぶように売れている。最近は江川だけでは間に合わず斐伊川の物まで集めているよ。他国へ持ち出して初めて分かったことだが、石・雲州の玉鋼から作った刀剣は切れ味、粘り、見栄えとも、他に累が無いと言われている」

 砂鉄から作った刀剣は、地肌の冴に神秘的な青味をたたえている。相安もこの美しさに吸い込まれるようなとまどいを感じることがあった。叔父は、これを見栄えと表現したのだった。

「そんなに売れますのか」

「ところで、面白い話を仕入れたよ」

 朴訥な口調だった。相安が当主となってからも與次郎兵衛の言葉づかいは変わらなかった。叔父が甥に話すそれであった。ただ、話し方には、自愛に満ちた柔らかさがある。それも、二人きりのときだけであり、相安が、武家の頭領として行動しているときには、決して相安の面前には姿を現さなかった。

 

仕入れですか…・・商人の言葉ですなー」

 相安がフッと笑った。與次郎兵衛の顔からは笑顔が消え、真面目な話をするときの顔になっていた。

「出雲で玉鋼を仕入れて、いつもは江津まで一気に舟を走らすのだが、その日は風が悪くての、温泉津へ泊まることにした。折角の機会だからと温泉に入湯していたら、大変な繁盛で…・なんでも…・・佐摩銀山の銀が大量に採れだしたとかで…・博多の豪商神谷寿貞とかいう仁が、出雲佐義銅山へ銅の買いつけのため、船で馬路(まじ)海岸沖を航行中、佐摩の仙ノ山にかかる霧が、光り輝くのを見たことから、そこに、銀の鉱床があるのをみつけたらしい…・儂も、馬路沖は、いつも通っているのだが…気づかなかった・・博多の神谷寿貞が乗っていた舟でも、船頭らはときどきその現象をみていたようでのー、『御来光だ。』といって拝んでいたらしい…・それを、神谷寿貞は、佐義銅山主の三島清左衛門と、大永六年(一五二六)ごろから銅山の穿通子(ほりこ)を使って銀の採掘に着手したらしい。それが、図に当たったらしいのだな、銀が思いの外大量に採れ出した。銀山の経営にあたったのは神谷寿貞と三島清左衛門で、採掘を請け負ったのが吉田与左衛門、籐左衛門、於紅孫右衛門ら三人の穿通子大工だということじゃった。ところが、一昨年の大永八年(一五二八)夏、吉田与左衛門、籐左衛門は、意趣があってということらしいが、於紅孫右衛門を討ち果し、それで、吉田与左衛門、籐左衛門の両名が頭となって掘っているということだ。それから、銀の産出量がずいぶんと増えているそうだ。佐摩の町は人が集まって、どんどん賑やかになっているらしい」

「世間の噂というものも面白いですな、実は、あれは、御屋形さま(小笠原長隆)の知略が効を奏しているということですよ。御屋形さまが吉田与左衛門、籐左衛門を手なずけて於紅孫右衛門を討ったのです。なにしろ於紅は、御屋形さまのいうことを聞かなかったですから」

「じゃ、すでに小笠原さまのものになっているということかの、銀山は」

「まだです、仕上げには、もう少し刻が必要でしょう」

 佐摩銀山の起源は、一説には鎌倉時代といわれているが、当初は、地上に噴き出した露頭銀を採掘していた程度のものであり、今も、あまり変わっていないと相安は思っていた。

「銀か…・・欲しいですなー」

「そうよの、小笠原の御屋形さまが銀を手にしたら、『銅ガ丸鉱山の銅と銀、佐摩銀山の銀、江川流域の砂鉄』、鬼に金棒ですのー…・銀があれば武器がいくらでも買える。遠隔地へ進攻のときも、苦労して兵糧を持っていかなくても現地で買うことができる。儂も、銀を商いたいが、今は、大内氏の管理下に置かれていて、手がだせん」

「そうですな、横取りするにしても、名目がなければ…・」

「ところが」

 與次郎兵衛が身を乗り出して声を細めた。

「銀山を守っている矢瀧城から城将をはじめ侍雑兵らまでが郷にでて住民に数々の災いを起しているということだ。そのため民が困窮しているらしい」

矢瀧城は、銀山から湯里を通って温泉津に向う路が初めて越える峠・降露坂の南にある高い山(六八四メートル)に築かれて、今は、大内義隆の武将が山吹城とともに銀山の押さえに任じている。

「面白いですなー」

 與次郎兵衛が火鉢に手をかざしながら暖をとっていた手を止めて、エッと顔を上げた。

「あ、いや違います。儂が面白いと言ったのは、地下(じげ)の衆が困っているからではなく、住民を苦しめる族は退治しなければいけんと思ったからです」

 

 昌康は、享禄四年(一五三一)正月、温湯城大広間にて毎年行われる年賀式の連座で、銀山のことを披露した。

「地下の衆を困らせる悪党は退治しなければいけんのー」

 御屋形(小笠原長隆)が満足そうに笑いながら言ったものだ。

―そして、銀が手に入る。

 これが本音だ。

 このころ、大内氏は北九州の平定に精一杯となっており、石見から眼が離れている。

 尼子家では、経久の三男塩治(えんや)興久が謀反を起こしたため、出雲領内での合戦が続いている。

 興久は、父経久から三千貫を与えられ、上塩冶(かみえんや)の要害山城主となっていた。尼子の本月山富田城の防衛上特に重要な城である。

興久は三千貫では少ないと加増を要求し、一千貫加増のお墨付きを得たが、それでは少なすぎるとして叛旗を翻したものである。

「やるなら今だ」

 御屋形(小笠原長隆)の決断は即(はや)かった。

 同年二月、小笠原長隆の命を受けた志谷修理太夫、平田加賀守、三完氏六郎左衛門、安田兵六、原釜左近、青木、兼田ら総勢三千五百余騎が、大内方の武将が守る矢瀧城を攻めてことごとく討ち果たした。

 つづいて、四月には大田の高城を攻略した。この戦で小笠原隊井原十郎左衛門は高城々将の長田若狭守を討ち取って高名を得た。

 小笠原長隆は、大永七年(一五二七)に離反した福光氏の領地を取り上げ、享禄五年(一五三二)九月、都野長弼に石見江城、城番の功として福光彦八郎の福光郷六十貫文足と福光右京進の福光郷二十五貫文、飯田内蔵丞の跡、大家庄内三十貫文の地を給した。

この時期、小笠原家の隆盛は天を衝くばかりであり、邑智郡、那賀郡、邇摩郡と支配地を伸ばしていた。

 矢瀧の村人は、おおいに喜び、御屋形(小笠原長隆)を歓迎した。

 これにより、石見佐摩銀山は小笠原氏のものとなり、じ後三年にわたって領した。

 このころ、銀山では採掘が軌道に乗りおびただしく銀を出していた。

 御屋形は、銅ガ丸鉱山の銅と銀、佐摩銀山の銀、そして江川流域でおびただしく採れる鉄を手中にしたのである。これらを上手く使えば小笠原軍団に敵なしとなること明白、小笠原家は前途洋々の未来を抱えようとしていた。

 しかし、このことは、大内、毛利、尼子による熾烈な銀山争奪戦に翻弄されることとなったのである

 同年春、山下忠左衛門が驚愕すべき事実を掴んだ。

「都治氏がお家再興を果たした。ということでございます」

「都治家か」

「そうです」

「都治氏は、大永元年(一五二一)に絶滅したではないか」

「ええ、あのときは、尼子経久により都治の城に籠っていた者は、すべてが惨殺されました。その数、名のある者だけで二百名を超している。特に、都治姓の者は一人も残さず殺されました」

「どこかから養子にでも入ったのか」

「それが、都治興行の妻は、川上(かわのぼり)元祐氏の娘で、都治落城のとき妊娠五ヵ月であったそうにございます。夜陰に紛れて家臣天波らと川上へ落ち延び、翌大永二年(一五二二)二月、男児を出産し鶴丸と名づけた。これが成人して隆行と名乗り、このたび、お家再興を果たしたということです」

「あのときは、尼子氏が聞きつけ、男女いずれかを確かめるため、検使を寄こした。と聞いている」

「そのとき、元祐の子国祐が一女をもうけていたので「興行の子はこの娘なり」と示して助かったそうにございます。以後、鶴丸は川上城で養育され、成人したのを機に、都治の家臣水口信濃守という者が出雲に赴いて、尼子国久にこれまでの都治事情を明かして旧領回復を願いでたということです。川上氏からも願い出て、ついに許され都治家七代を継いだのです。都治氏にとって幸いだったのは、尼子氏も経久が高齢のため病弱となり、その嫡男は戦死し、跡を継いだ現在の頭領・晴久は幼少のため、叔父の国久が後見している時期であったことでしょう。国久も「主家を乗っ取ろうと謀っている」という噂もでているような人物です。味方となる者は増やしておきたいでしょうから」

「なんとのー、潰しても潰しても生き返る。それが、都治か。これで三度、生き返ったの」

 一度目は、都治家三代弘行のとき、娘婿の土屋宗信がその宗家都治弘行の領である都治郷と羽積郷を乗っ取ろうとして弘行と重臣八人を殺した。そのときの将軍足利義満が不審に思い、たびたび召文したが惨落しなかったことから、石見の守護山名氏豊に都治退治を命じられ、小笠原、福屋、益田、三隅ら周辺の国人衆により攻め落とされた。その後、川上(かわのぼり)越中守の次男又太郎が入部し、佐波郷の赤都賀の娘を娶らせて都治家再興が許され四代宗行となった。ところが、京で応仁の大乱が起こり、西軍に組した宗行は、川上、周布、吉見らと温泉津から乗船出陣したが、但馬国蛇島付近で暴風のため遭難して生涯を閉じた。このとき、ただ一人、都治まで帰りついた者の報告によれば宗行は命からがら海岸に上陸したらしいが、地元人の襲撃を受けて殺されたという。

 二回目は、都治家六代興行のとき、尼子経久に刃向かったため滅亡した。それが、このたび、わずか十年で甦ったのである。

「完膚なきまでに叩き潰されても再生する都治家とは恐ろしい家だの」

 相安は武家とはこうあるべきだと思っている。だが、都治家再興は都野氏と川上氏の力によるものであった。都野、川上という強力な後ろ盾があったからこそできたことである。

 わが福冨は・・・残念ながら、頼りとする人もなく己ひとりで生きてゆかねばならない身であった。

「それにしても、都治氏は、三代、四代、五代、六代と続いて当主が殺されている。まさに呪われた家系としか思えないのに、家は存続している。ふしぎですな」

「都治という地は、元来、宮家が領してきた土地だ。ゆえに、都の治める土地、すなわち都治という名がついたのだ。都治という土地柄が良いということかの。家を残したいという気持ちが強いのであろう」

「福冨家初代治堅さまが、お亡くなりになったとき、福冨家の臣が六名も都治のもとへ逃げたということがあったですな。この度は、大丈夫でしょうか」

「福冨を裏切った輩(やから)は、尼子氏の都治攻めでことごとく滅亡した。よもや、此度は、鞍替えしょうと考える者はいないであろう」

「そうですの」

「だが、目配りは必要であろうの、父上のような屈辱は味わいたくない」

「そうですの、今回は裏切らないという確証はない。注意を怠ることはできません」

「だが、郷士の間で疑心暗鬼となるようなことは避けねばならない」

「そうですの、心して配意しなければなりません」

 

 天文二年(一五三三)大内義興に銀山を奪い返えされた。

大内はその臣吉田若狭守、飯田石見守の二人を銀山奉行とした。

 吉田与三右衛門らは大内義隆に採掘の許可を得、その被官となって、毎年、京銭百貫、積銀にして銀子百枚を大内に貢献した。

 この年、神谷寿貞は博多から二人の中国人技術者を連れてきて現地で精錬させた。灰吹法と呼ばれる銀の精錬技術で、これにより、採掘と精錬を同時に行い、純度も七十パーセントを超える良質の銀が採れるようになった。灰吹法は、銀鉱石に鉛・鉛鉱石を加えて溶かし、鉛と銀が溶ける温度の差を利用して純粋な銀を取り出す方法である。

 佐摩の町は諸国から人夫たちが大勢あつまり、大いに富み栄えた。

 当時、銀山七谷に戸数は一万三千を超え、精錬技術者として来往した明国人の屋敷も並び、唐人屋敷、唐人橋があった。

 大内氏は、福光氏に福光郷内旧領の一部を与えた。相安の所領福光下村と隣接する田地は、また福光氏のものになった。

 

 天文三年(一五三四)尼子家で内紛を引き起こしていた塩治興久が戦いに敗れて自殺した。

 

 天文六年(一五三七)正月、八十歳になった尼子経久は孫の詮久に家督を譲った。

 尼子家を立て直した詮久は安芸、石見への勢力拡大に本腰を入れてきた。

 同年八月、詮久は銀山を攻めて大内の奉行吉田と飯田の両名を殺し銀山を奪取した。

 銀山は、これより天文八年(一五三九)までの三年間、尼子氏のものとなった。

 小笠原、福屋、益田氏は尼子氏になびいたが、吉見氏は応じなかった。福光氏は小笠原氏から離れたまま尼子氏の麾下に走り所領の安堵を得た。

 天文七年九月(一五三八) 温湯城主小笠原長隆は、尼子経久の内意により大内と毛利の離間策を三通の書状にしたため、元就に送った。

 その内容は、『尼子氏に背き、大内氏に属した元就が、東方で攻勢を続けている尼子方に戻りたいと画策しているということを大内義隆が察知している』というものであった。しかし、元就は嫡子隆元を人質として大内へ送っており、毛利・大内の堅い結束をほぐすことができなかった。

 このころ尼子氏は中国地方東部の大攻勢により備中、備前、美作、播磨、因幡を征服し、すでに傘下に組み入れている伯耆、出雲、隠岐、石見、備後、安芸を合わせて中国十一ヵ州の太守と呼ばれていた。

 まさに、元就は、権勢絶頂の尼子氏を見限っていたのである。

  天文八年(一五三九)年四月、尼子勢が安芸侵入を企て、比叡尾城主三吉氏の合力により備後布野から江川に進出した。元就は戸坂で迎撃しようとしたが尼子隊はこれを蹴散らした。このとき吉川興経が尼子に呼応する動きをしたため、元就が山県郡へ出兵した。

 同年五月  大内義隆による銀山奪取軍が侵攻してきた。小笠原長隆は抵抗をせず、赤山に退いた。大内義隆は内田正董を奉行とした。

九月、小笠原氏は大内与党として働き内田正重奉行の下に吉田大蔵丞、吉田采女丞及び坂根次郎兵衛を置いて昆布山谷において銀を吹かせた。

 

 毎年、銀五百枚を大内へ貢献することで、小笠原氏の銀山経営の存続がなった。