福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

八神屋(やかみや)襲撃

  天文二十二年(一五五三)明尊も二十歳になった。

  周辺の田んぼも田植えが終わり、青々とした早苗が日増しに丈を伸ばしている。

  風に紛れてかすかな木鐘の音が聞こえてくる。

 本丸西側の塀ぎわに立って、風の音と木鐘の音を聞き分けようとしている明尊の背後から、

「なにごとでしょうな…」

 息せききって上って来た忠左衛門が、肩で大きく息をしながら不審そうな声をだした。

 木鐘なら緊急事態発生だ。

「わからん、西からだ…八神屋(やかみや)の方角だ」

「なにかの警鐘でしょうが…聞き取れませんな」

「八神屋が野盗に襲われたのか…」

「野盗ぐらいなら、八神屋も引けをとることはないでしょうが…・・何人ぐらいいるのか敵は…」

「海の上では、海賊と渡り合う八神屋だ、襲ってくるやからはいないだろうが…」

 耳がなれて、木鐘の音をはっきりと聞き取れるようになった。

 緊急事態だ。

「陣ぶれをだしましょうか」

 八神屋は、親戚である,襲われたとあれば救援にいかなければならない。

「とにかく行ってみよう、兵の召集は、ことがはっきりしてからだ」

 明尊が本丸から城門にむかって駆けおりた。

「殿のおでましぞ、馬をひけい」

 忠左衛門が明尊のあとを追いながら、大声で大門横の厩に指図した。

「甲冑はいらんぞ、ついて来い」

 十二、三人の家人があちこちの建物から飛び出して、馬にまたがっている。

 城門が、きしみ音をだしながら徐々に開くのも、もどかしく馬腹をけった。

 八神屋までは一里(四キロメートル)ほどだ。

 城門をでたところで前方から疾駆してきたひとりの男が、馬から飛び降りて平伏した。

 荷役作業の最中だったのであろう下帯ひとつの裸である、馬に鞍もつけていない。

「八神屋の者でございます、江川の対岸、川平(かわひら)と千金(ちがね)の境目に、おびただしい兵が集結し、渡河の用意をしています」

「何処の兵か」

「旦那さまは、敵の幟をみて福屋の勢だとおっしゃいました」

「福屋さま…・・なぜだ」

 明尊が忠左衛門を振りかえった。御屋形(小笠原長雄)の母は福屋氏の息女である。

 両家の間に諍いなど一度もない。その福屋氏が襲ってくるというのか。

「福屋勢が渡河してくるとなれば、事前に連絡があるはず、これが無いとなれば小笠原領への侵入だ。兵を集めよ、警鐘を叩け」

「承知」

 ひとりが、馬首を返した。

「千金には、月出城の都野三左衛門どのがおられますな」

「三左衛門どのは、わが福冨に好意を寄せてくださっている、都野一族は静観の立場をとってくれるだろう」

「救援は」

「無い。かって、南北朝争乱のおりには、終盤まで南朝方に与したため、足利幕府からは冷遇されてきた。幕府が衰退した今、新たな支配者はだれなのか、慎重に見極めようとなさっているはずだ」

「忠左衛門、兵が集まりしだい来てくれ。御屋形(小笠原長雄)に通報をだせ。儂は、このまま八神屋に飛びこむ」

「承知」

 忠左衛門が馬首を返した。

 福屋勢が上陸するまでに八神屋に着かなければならない。

「がんばれ」

 明尊が馬の首を撫でながら馬腹をけった。

 

 明尊が八神屋に到着したとき、福屋勢はまだ対岸にいた。

 旗指物がせわしなく動いている、舟を集めているようだ。

 八神屋の船着場では、人夫が走りまわって戦闘の準備をしている。

 軒を連ねる土蔵の鍵を閉め、水で練った赤土を出入り口の戸に投げぶつけ覆いかぶせている、焼き打ちを防ぐためだ。

「おじ御、福屋から何か言ってきましたか」

「何も言ってきません。いったい何をしようとするのですかの」

「こちらを襲ってくるかどうかはわかりませんが、兵を上陸させるということは、小笠原領への侵入になります」

 一里ほど上流には、福屋領の渡し口がある。そこを渡らず、八神屋の前面に押し出すということは明白な挑戦だ。

「渡河を始めました」

 土蔵のほうから青い顔をした住人が逃げてくる。

「住人全てを、ここに集めよ」

 八神屋與次郎兵衛が凛とした声を張り上げた。いつもにこにことした笑顔をふりまいている 與次郎兵衛が始めて見せる顔だった。

「集まったら、門を閉めよ、決してこちらからは攻撃するな、侵入してきたやつだけ倒せ」

 與次郎兵衛の下知を受けて人夫が、きびきびと走りまわっている。

 屋敷内の建物に梯子が立てられた。その下に水を張ったが次々と集められている。

 火矢を打ちこまれたときに、すぐ消せるようにしているのだ。

 門がギーッと鈍い音を発てながら閉められた。

 閂(かんぬき)をかけ、内側に米俵を積み重ねて防禦壁を築いている。

 敵の先発隊が八神屋の船着場に上陸をはじめた。

 甲冑を着けている。

 殺気が溢れている。

 福屋の正規兵だ。

「おじ御、これは戦です。福屋が小笠原領に侵入してきたのです。儂が采配を執るべきですが、しばらくはおじ御に執っていただきます」

「承知です」

 毅然たる態度で腕組みをしていた與次郎兵衛が腕をほどきながら、ふっと顔をほころばせた。

大軍を前にして、これから戦を始めるというのに、明尊はすこしの動揺もしていない、平常心でいる。

「おじ御、この前お願いした幟はできていますか」

「二十枚なら」

「それはいい、それに竹竿をつけてください。いつでも立てられるようにして、儂の下知を待ってください」

「承知です」

與次郎兵衛は、それを何に使うのかは聞かなかった。テキパキと指図している。

「二百か…」

 塀際の築山に上がって敵を見ていた明尊は、敵の数を二百人とみた。

 二百人が一気に攻めこんできたら、こんな屋敷などひとたまりもない。

ーなぜだ。

 なぜ、福屋が攻めてきたのか、…なぜ、四ッ地蔵城でなく八神屋を狙うのか明尊には理解できない。城は潰しても非戦闘員である住民は襲わないのが武士の戦なのだ。住民は、殺すより生かして年貢をとるのが武士なのだ。

「わからん」

 明尊が、はきすてるように言った。

 敵兵が次々と屋敷の前に展開している。

敵は海賊と思え、屋敷を船と思え、敵を一歩も寄せ付けるな」

 與次郎兵衛の指揮を受けて、人夫がすばやく臨戦体制をとった。

 人夫が手にしている刀は柳葉刀である。武士の持つ大刀より長さは短いが、太く刀身の先端にいくほど幅広くなっている。狭い船内での戦闘にいかんなく振りまわすことができるように造った船乗り独特の武器だ、この刀でもってすれば日本刀など簡単に折れてしまう。

 たちまち、與次郎兵衛を中心とした戦闘隊ができあがった。

 刀の下げ緒をとって襷がけにした明尊のすぐうしろで、十人の家人が集まっている。

「門の外には出るな。邸内で戦う限り、敵は弓も槍も遣えない。」

「女こどもは、裏山へ避難せよ、万が一、屋敷に火がついたら裏山に延焼することも考えられる、尾根を超えて裏側へ逃げよ、危険のないところまで行け、戦いが長引くようであれば四ッ地蔵城へ行け、あわてるでない、落ち着いて行け」

 與次郎兵衛がやさしい声で言い、庭の築山に上がって外の福屋勢に姿をみせた。

「ここは商家でございます、なにゆえの武力でございますか」

「門を開けよ」

「それほどに兵を向けられては開けるわけにいきません。なにゆえのご無体でございますか」

海で鍛えている與次郎兵衛の声は朗々としてよくとおる。

「福屋さまのご下知により接収する。ただちに開けよ」

「ご無体でございましょう、ここは、小笠原さま御領内です」

「そんなことは百も承知だ」

 空気を張り裂く殺気が與次郎兵衛めがけて飛んできた。

 外からは見えないように塀の陰に隠れていた明尊が太刀で叩き落とした。一本の矢が折れて與次郎兵衛の足元に落ちた。

 與次郎兵衛は、たじろぎもしない、素手のまま悠然として敵に姿を露わにしている。

 それまで、與次郎兵衛の前で屈み込んでいた二人の人夫が立ち上がった。手には白刃を持っている。武力でもって応戦するという意思を露わにしたのだ。

まさに海戦の船頭だ。

 敵の攻撃が始まった。塀を乗り越えて侵入しようとする。

 人夫らが敏捷に動き回りながら敵兵を斃していく。

 みごとだ、下帯ひとつの男が塀を乗り越えようとする甲冑の武士と対等にわたりあっている。

 絶叫を挙げて倒れるのは敵兵ばかりだ。

 敵の後方で鉦が鳴った。

 敵兵が退いた。

「さあ、次ぎは火矢が来るぞ、落ちついて消せよ」

 與次郎兵衛は、築山の上で泰然として指揮を執っている。

 ピシッピシッと風を切って飛んできた火矢が屋根に突き刺さる。

 人夫らが次々と矢を取り払い、水をかけていく。

 実に身のこなしがすばやい。屋根の上を猿のように走りまわっている。

 敵が総攻撃をかけてきた。

 敵の先陣がいっきに塀へとりついた。

 塀にとりつき飛び降りる、その瞬間に生じる隙を人夫らは的確に捉えて斬りつけ突き落とした。

 数にものをいわせて塀を乗り越え、庭に侵入した敵兵に、明尊と十人の家人が斬りかかった。

 明尊の前に面頬を付けた武士が立ちはだかった。

 充血した目がギラギラと光り、殺気をガンガンと放射している。

 敵は甲冑を着けているため動きが鈍い、明尊は小袖姿で動きやすい。

 すさまじい敵の一撃を明尊がするりと躱した。二撃、三撃と打ち込むのを、ことごとく外していく。

「おのれ」

 いらだった敵が、八双の構えをとった瞬間、明尊の体が跳び、太刀が躍った。

 甲冑武士がドッと斃れた。守勢の構えをとりながら一瞬の隙をついて攻撃に転じる一刀斎流の極意・払捨刀である。

 明尊の一閃は、敵の脇の下を横一文字に薙ぎ払い心臓を斬り裂いた。鮮血が幅広の帯びとなって噴出した。

 次ぎから次ぎと襲ってくる敵兵の刃を微妙にし、少しずつを傷つけ、軽やかにしていく。

 まさに一刀斎流の奥義を極めた剣士明尊の姿であった。

 狭い船内での戦闘になれている與次郎兵衛の人夫らも動きが実にすばやい。

 敵兵が完全に守勢にまわっている。

 ついに、侵入した敵兵すべてを斃した。

 敵の攻撃が止まった。

 庭に累々と横たわるのは敵兵ばかりだ。

 福冨党の家人が負傷した敵兵のとどめを刺していった。

 與次郎兵衛の人夫らは、ひとかたまりとなって無表情で見ている。

 皆が無言だ。

 第二陣突撃の太鼓がなっている。

「次ぎは二陣が来るぞ、酒を飲め。元気をつけろ」

 酒樽が庭にだされた。

 與次郎兵衛の声が響き渡る。次ぎは敵の本隊が攻めて来る。

 人夫らが弾かれたように動き出した。酒を飲み、桶の水で、血のりで濡れた手と刀剣を洗い、二度、三度と振り切って水気を払っている。

 次ぎは、敵の総攻撃がはじまる。與次郎兵衛らは熾烈な戦闘を覚悟した。

 そのとき、左手遠くから法螺貝が聞こえてきた。

 屋敷の左手かなたに砂けむりが上がっている。

 明尊の兵が馳けつけてきたのだ。

「ウワー」

 人夫らが歓声をあげ、踊りあがって喜んでいる。

「儂の軍勢が来た、幟を立てよ」

 與次郎兵衛と交代して築山に立った明尊が、血のりの巻いた太刀を振り上げて下知した。

 屋敷の塀際に次々と幟が立ち上がっていく。

「オーッ」

 敵味方双方からどよめきが挙がった。翩翻と立ち並ぶ幟には、紺地に白抜きの隅立て四つ目紋が遠めにも鮮やかに浮き立っていた。

「なるほど、こういうことですか。みごとですな。」

 與次郎兵衛が、立ち並ぶ隅立て四つ目の幟を見上げて感嘆している。

「喚声を挙げよ,エイエイ」

 明尊が白刃を高々と上げた。

「オー」

「エイ、エイ」

「オー」

 人夫らを混じえての喚声が邸内から響き渡った。

 福冨党の軍勢が屋敷の中にいることを敵に知らしめた瞬間である。

 応援の軍勢が、ぐっと近づいている。

 浮き足立った敵の兵が船着場に逃げ出した。

 忠左衛門と佐々木喜兵衛、越堂清左衛門らの率いる、福冨党の応援部隊が殺到して敵兵に襲いかかった。

 すでに戦意を失った敵兵は逃げ回るだけである、次ぎから次ぎへと福冨党の将兵に討ち取られていく。

「おー、みごとな戦ぶりですな,福冨党が強いはずだ。」

 與次郎兵衛を中心にして人夫らが歓声を挙げて応援している。

 敵兵は、おびただしい死者を残して逃走した。

「門を開けよ」

 與次郎兵衛による最後の采配であった。

 

「遅くなり申した」

 息を弾ませた忠左衛門が意気揚揚と屋敷へ上がってきた。

「なんのなんの、すばらしいぶりだ」

 明尊が襷がけしていた刀のさげ緒を解きながら慰労した。

「それにしても、みごとな幟ですな、敵は殿の軍勢が突然湧き出したとでも思ったでしょうな」

「してやったりだ」

 忠左衛門の哄笑につられて明尊も笑いだした。

 人夫らが邸内の後片付けを始めている。

 山から下りてきた女らが、庭に横たわる屍骸を見て呆然としている。

 味方に死者はいない。女らが負傷した者の手当てを始めた。

 お夕が明尊に飛びついた。すがりついている夕の体が小刻みに震えている。

「夕、もう大丈夫だ、悪いやつらは逃げた」

 明尊が、夕の背中をポンとたたいた。

「おー、殿の嫁御も、これで決りですな。」

 忠左衛門がわざとらしく感激の声をあげた。

「はっ」として、夕が明尊から離れ、真っ赤に染まった顔を両手で隠しながら屋内へ走り去った。夕の意外な行動に、明尊が唖然としていた。

―ああ、夕も年頃になったのか、そういえば、もう十三歳だ。

 明尊が納得した。

「おじ御、お夕は、いい娘だ。儂も、あのような娘と結婚したい。でも、儂も、夕も父親を戦で失っている。儂もいつ死ぬやもしれない。夕には、二度とあの悲しみをさせたくない。夕を、武家へやりたくない。おじ御、夕にいい婿をみつけてやっていただきたい」

「おっと、殿、これは失礼を言ってしまいました。軽い気持ちで、夕をからかったのです」

 忠左衛門が左手で己の兜を叩いた。

「よくわかりました、殿の御心が、夕に伝わるかどうか…しかし、この役は、彩の方が適任だ」

 與次郎兵衛が、妻のを振り返った。

「はいはい。いつも損な役はわたくしに廻ってきますものね」

 彩の顔にも笑顔が戻っている。

「夕には、私がいい婿をさがしましょう」

 與次郎兵衛の目に優しさがよみがえり、普段の好好爺に戻っている。

「それにしても、殿の剣術も、凄いですな、まるで蝶が舞っているように軽やかで、思わず殪した敵兵を数えてしまいました。十六人までは記憶にあるのですが…それで呼吸も乱れていない」

 與次郎兵衛の感嘆はとどまることを知らない。

 その時、御屋形の伝令が疾駆して来た。

「御屋形さまの出陣でございます、福屋勢が日和と川越に侵入してきた由。御屋形さまは、甘南備寺に本陣を定められてござります」

「なに…福屋勢が侵入したのは、ここだけではないのか、これは容易なことではない。忠左衛門、儂は甘南備寺へ行くぞ、貴殿は、ここへ残って後始末を頼む。明日、甘南備寺へ来てくれ」

「承知」

「討ち取った敵兵の首注文を頼む」

「おじ御、後を頼みます」

「承知です。後は、わたしどもで始末をつけておきます」

 明尊は、忠左衛門以下二十数名の兵を残し、六十余人の将兵を率いて甘南備寺に向った。

「エイ、エイ、オー」

「エイ、エイ、オー」

 人夫らが鬨の声で見送っている、あかるく喜び勇んだ歓声だ。

 八神(やかみ)地区へ侵入しようとした福屋勢は明尊が撃退した。

 しかし、これは、これから始まろうとする紛争の前哨戦でしかなかった。

 尼子氏を後ろ盾として反毛利の動きを鮮明にした御屋形小笠原長雄に対しての攻勢だ。

 小笠原氏と福屋の諍いが始まった、それが毛利の差しがねであることは明白である。

 これまで数代にわたって交誼を保ってきた両家の絆が切れたのだ。

 累代にわたって佐波(さわ)氏と戦っている小笠原氏は、福屋氏との諍いを起こさないよう配慮してきた。それが崩れたのである。佐波氏と福屋氏に両面から圧迫されはじめた小笠原氏は、いよいよ隣国に気を許せない状況となった。

 四ッ地蔵城も福屋氏との最前線になった。

「一兵たりとも我が領内へ踏みこませないぞ」

 明尊の気迫は、ますます大きくなってくる。

 

 天文二十二年(一五五三)十二月二十一日(新暦一月二十四日)、小笠原支城琴平山城に対して福屋勢が攻撃をかけてきた。戦線は日和から川越へと領境周辺に拡大していった。

 天文二十三年(一五五四)二月二十日(新暦三月二十三日)、川越の大貫に福屋勢が侵入してきた。小笠原勢坂根小三郎が寡兵でもって迎え撃ち、福屋の将福屋上総介を討ち取って撃退した。

 弘治元年(一五五五)三月四日(新暦三月二十六日)、銀山の兵力増強のため派遣した小笠原軍と、これを阻止する佐波興連の兵が吾郷の竹で戦い、三月二十七日(新暦四月十八日)には川下郷畑田の飯山(仙岸寺裏山一帯)で交戦した。いずれも、小笠原勢が優勢に戦い、撃退した。

 十一月十七日(新暦十二月二十九日)、福屋勢と平田彦兵衛尉が交戦し、彦兵衛は首ひとつをとりあげた。

 小笠原氏は、まったくもって四面楚歌となった。東から佐波興連、西から福屋隆兼、北からは、物不言城の吉川経康、南からは吉川元春と、周辺すべてが敵となってしまった。

 

秘剣・稲妻

 天文二十一年(一五五二)夏、

 太陽が山の陰に没して、西の空を茜色に染めていた最後の光も、わずかばかり残すだけとなっている。

 音もとどかぬ遠いかなた薄暮の空に、くっきりと立ち上る入道雲のなかで、しきりに稲妻が奔っていた。

 雷神が雲中で暴れまわっているらしい。雲のなかだけが煮えくりかえっている。めずらしい現象だ。

 雷神の正体を掴みたいと瞬きもしないで入道雲を見つめているが、雷光は、明尊の視点をみごとに外し、とんでもない場所で奔る。はっとして視線を移した明尊が掴みえるのは光りの残影だけであった。

「あれだな」

 師重兵衛がなにかを決心したようにぽつりと言った。

 剣師山田重兵衛による剣技伝授は続いていた。

 最近では、二人が木刀で打ち合うということは少なくなり、もっぱら口伝が増えていた。

 一刀斎流は、対手(あいて)が打ち込んでくるのを、払って払って払い捨てるところに本意がある。払捨刀(ふっしゃとう)だ。没我無心となり身を捨てることが根本となるが、奥義を極めた者には、秘剣というものを持つ者がいる。誰がどのような技を持っているのかは不明だ。払捨刀が『静』であるかぎり、『動』すなわち攻撃が必要となるのだ。あの稲妻のように対手には残影だけしか見ることのできない鋭い剣技を会得する必要がある、これを秘剣とする者は多い。

 重兵衛が重大な決心をした。己の秘剣を明尊に伝授するときがきたようだ。

 翌日、重兵衛と明尊は二人の小者を連れて城を出た。ひとりは寝具を担ぎ、もうひとりは米や味噌、塩などの食糧を持っている。

 一行は、城を出て掘割を渡った。そのまま尾根を登って一本杉と呼ばれる大杉のところに出た。この道をさらに直進すると浅利寺(せんりじ)の山門に至る。文徳天皇のころ、海女の娘から都へ召され、宮仕えした浅利姫の菩提寺として知られる寺である。

 一行は、道を逸れて雑木をかき分けながら絶壁を回り込むように下った。

 昼でも薄暗い竹林のなかに小屋があった。

 もう何年も前のことになるが、明尊が剣技研鑚の場所として建てたものである。

 絶壁を背にした間口一間半、奥行き一間ほどの板葺小屋である。前に立つと裏の絶壁が聳え立ち、小屋はいかにも小さく見えた。

 絶壁は、下部が深くえぐれ、上にいくほどひさしの様にせり出していた、波が削った痕跡である。太古の時代には海岸であったことを現していた。小屋は岩に食い込むように入り込んでいる、これなら、たとえ、上から落石があっても小屋にあたることもない。

 前方には孟宗竹の林がひろがって、その中を谷川が流れている。毎年、籠城用の筍をとっているので孟宗竹の間隔はほどよく空き、剣術の修業にもってこいだ。

 小者のひとりが板戸を開けようとしたが、湿気で膨張した戸は重く、容易に動かなかった。

 ふたりの小者が、声をかけ力をあわせて一気に開けた。

 にぶいみとともに戸が開いた。

「なんだ」

 室内をみた四人が唖然として言葉を失った。

 小屋の全面が白くなっているのだ。

 それが、一寸ほどにも延びたカビだと気がつくまでに、かなりの時間を要した。

「カビかー。」

皆が笑い出した。

 かびは、板の間と土間の区別なく室内全体に生えていた。暗い屋内にカビくさい空気が重くよどんでいる。

 手際よく小屋の掃除をした小者が荷物を置いて城に帰った。

 あとは、重兵衛と明尊の二人だけである。

 いつの間にか降りだした雨が竹笹を叩いている。しずまりかえっている山中で雨音だけが小屋を覆っていた。

 いろりに火を熾した。小屋の中に残しておいた雑木は、虫に食われボロボロになっていたが、乾燥していて良く燃えた。  

「さあ、やりましょうか」

 二人は孟宗の竹林に立った。

 重兵衛が師の顔になった。体内のあらゆる力が膨張していった。躰から放出する気が後光のように重兵衛を包んでいった。

「見ていてくだされ」

 重兵衛が、ついと動き出した。

 すさまじい気と風が竹林を通り抜けた。重兵衛は、林立する孟宗竹の間を全速で走った。ほぼ半町(約五十メートル)もあろうかと思われる竹林を、あっというまに通り抜けた。太い竹が障壁となって、真っ直ぐ奔ることなど不可能な竹林を、一直線に奔ったようにしか映らなかった。明尊には、ただ閃光のようにしか見えなかった。

 重兵衛の奔り抜けた痕には、胴体を貫かれた太い孟宗竹が列をなしていた。

 重兵衛は、真っ直ぐには奔っていなかった。稲妻のように、瞬時に方角を変えながら孟宗竹の胴を貫いていた。

 

 重兵衛は、城へ帰って行った。

 翌日、払暁から明尊の修業が始まった。

 濃い霧が流れている。かすかに風の音がだけが耳朶をくすぐる静寂と冷気のなか、低く気迫のある気合が竹林を震わせた。

 明尊は、竹林を走りまわっていた。谷川の水で喉の渇きを癒すとき以外は、ただひたすら走っている。

 毎日、太い孟宗竹にぶつかり転倒して傷だらけになりながら、一瞬でも早く走り抜けることができるよう一心不乱に走った。 

 夜、いろり端で瞑目する明尊の脳裏を稲妻が奔っていた。どうしても師のようにはいかないのである。

「眼で視認して障害を避けるのではありません、研ぎ澄ました五感全体で障害を感知して避けるのです」

 別れ際に残した師の言葉をなんども反芻(はんすう)した。

 

 秘剣を体得した明尊が城に帰ってきたのは半月後であった。

 重兵衛が『秘剣・稲妻』と名づけた。

 

 

斬撃

 福冨明尊は十五歳となっていた。重兵衛とのきびしい訓練はつづいている。

 無心に木刀を振っていた。素振りをしていれば無心になれた。もはや、回数を数えることもなく、ただ、ひたすら体を動かしつづけた。体から力が失せ、へとへとに疲れても、気力のある限り振りつづけた。それが、二刻に及ぶこともあった。日増しに、体に力と持続力が付く手応えを感じていた。

 明尊が、ひとりで孟宗竹を前にしていた。これまで暇を見つけては孟宗竹と対峙し、数え切れないほどの竹を切り倒した。しかし、いまだ一撃で倒したことがない。

 ジッと佇み、気が満ちるのを待った。

「……・・」

 気合とともに明尊の大刀が閃いた。

 ガキッと音がした。手にしびれが走った。

 大刀は、孟宗竹にわずかばかり食い込んだだけだった。

「まだ、まだ」

 師・山田重兵衛の声が聞こえるようであった。

 

 うららかな気持ちのいい春びよりだ。満開の花を咲かせ、その存在感を誇示していた山桜も花が散り、周辺の緑に同化しておとなしくなっている。

 明尊と重兵衛は、春の陽射しを背に受けながら、のんびりと馬を歩ませている。

 四ッ地蔵城の濠となっている太田川に沿って西へ上り、丘と見間違うほどの低い峠を通り抜けた。 

 そこはもうである。四ッ地蔵城から一里(四キロメートル)ほどしかない。

 川のすぐ横に八神屋(やかみや)の土蔵が立ち並んでいた。

 土蔵の横を抜けると、幅十間(三十六メートル)の運河が左手に延び、一町(百メートル)先の江川に通じている。八神屋の運河だ。

 運河の両岸は、荷揚げ場を挟んで十棟の倉が軒を連ねている。

 船が着いたばかりのようだ。人夫が船に渡した板の上をせわしなく動いている。玉鋼や銅を扱っている八神屋の荷物は重いのだろう、担い棒を使ってふたりがかりで、一つのかますを運んでいる。

 人夫が通るたびに、渡し板がゆっさゆっさとたわむ。人夫は、渡し板のたわみを巧みに利用して上り下りをしていた。

 運河から八神屋(やかみや)の屋敷へは、まっすぐな道が、わずかに坂を上りながら続いている。

 正面の山際に、一間ほどの高石垣と白い土塀が横に広がり、その中央やや左手の石段を上ったところの、どっしりとした門が入口である。

 五百坪を超える壮大な屋敷だ。

 士農工商という階級制度が成ったのは江戸時代のことであり、この当時には、武家、農家、商家の明確な区別はなかった。

 商家といえども、武力を持ち、必要があればこれを行使する郷士である。

 当然のことながら、八神屋も武力を保有し、屋敷もそれなりの防禦性を備えていた。

普段は下帯ひとつで荷役作業をしている人足らも、いざというときには武器を取る戦闘要員なのだ。

 屋敷に通じる道の両側に整然とならぶ使用人の家で、幼い子らが遊んでいた。

 屋敷へ出入りする他人も多いのだろう、明尊らに関心を寄せる者もいない。

 屋敷前の観音堂から走り出た女の子が、馬止に手綱を繋いでいる二人のところに寄ってきて明尊の手をとった。小さな柔らかい手だ。

「おー、夕か」

 重兵衛が夕の頭を大きな手のひらで抱えこんだ。

 あいかわらずおとなしく言葉少ない娘だ。活発に走りまわっているようだ。

 赤い鼻緒の草履を履いた小さな足は、泥まみれになっている。

「夕、友達はできたか」

 夕が、こっくりとうなずいた。くりくりっとした瞳が輝き、満身の笑みをたたえている。 

 なんといっても顔色がよくなっている。

 ふたりは手をつないで玄関に近づいた。

「これは、これはご当主さま」

 奥から、與次郎兵衛が飛び出してきた。にこにこと親しい笑みを浮かべ、さあさあ、おあがりください、と明尊の腕をとった。

 與次郎兵衛に明尊をとられた夕が、門の外へ小走りに出ていった。足取りが軽い。夕の後姿がはつらつとしている。

「あまりにも、いい日和で、つい、足がこっちを向いてしまいました」

「それはそれは、ありがたいことで。さあさあお上がり下さい。山田さまもご遠慮なくどう。」

「夕も大きくなったものだ」

「いい娘です。それに、母親のさちですが、びっくりするほど機転の利く働き者で、最近では、店の手伝いをさせています」

「店ですか」

「そうなんです。読み書きができ、座敷での作法を身につけている。こういっては失礼でしょうが、私どももびっくりしております。きっと、どこかのお武家でしつけられたのでしよう」

「そうですか、それは良かった」

 話しながら、與次郎兵衛が二人を座敷へ案内した。

 開け放された座敷からは、キラキラと陽光に反射する江川が見えている。

「大河を眼下に見る生活もいいものですの」

 明尊が立ちあがって縁側にでた。江川がゆったりと流れている。

 ふと、花の香りが濃く漂ってきた。金木犀の花かと思って、辺りを見まわしたが、目についたのは、塀際に立つみかんの花だった。小さな白い花が満開だった。

 

 

 西を山で塞がれている山里の日暮れは早い。日は、山に没し、気温が急速に下がってきた。

「今夜は、泊まってください」

 しきりに引きとめる與次郎兵衛を振り切って、門前へでた明尊のところに、走りよってきた夕が明尊の手をとった。

「お、待っていたのか」

 ふところから茶菓子をだして夕に握らせた。

「夕、乗せてやろう」

 重兵衛が、ひょいと抱えあげ、馬上の明尊に渡した。

「どうだ、高いだろう」

「高い」

 夕が、はじめて口をきいた。

「怖くないか」

 ううんと横に振った夕の頭が、明尊の顎に触れた。

「大きくなったの」

 明尊が、自分の顎で夕の頭をなでまわした。

「痛い」

 夕が、笑いながら首をすぼめた。

 夕を乗せた明尊が馬をゆっくりと歩ませる。子供らがゾロゾロと後をついてくる。

 明尊は、土蔵の端で夕を下して帰路についた。

 夕が、いつまでも明尊らを見送っている。

「さーならー」

 子供らが、声をそろえた。馬上の明尊が、後向きのまま、右手をあげて応えた。

 

 挨拶程度のつもりで立ち寄ったが、ご馳走攻めに逢い、遅くなってしまった。

 もう日が暮れてきた。

「それにしても…與次郎兵衛どのは…・おもいきったことをされる」

 夕を我が娘として育てるという與次郎兵衛の言葉を思い出したのだろう、重兵衛がしきりに頷いている。

 すでに、母子とも母屋に住わせているという。使用人を母屋に住わせるということなど、かっては無かったことだ。

「與次郎兵衛どのの、話は、面白いですの」

 重兵衛は、かなりの酒を飲み機嫌がいい。

 八神屋の商は、博多を基盤としている。

 日本各地から商人の集まる博多には、明尊にとっても貴重な情報が飛び交っている。

「天文十年に実父を追い出して家督を継いだ甲斐の武田信玄が、天文十六年には隣接する信濃まで侵攻しております。今(天文十七年・一五四八)では、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が互角の勢いでしのぎを削っているというもっぱらの噂です。一方、東海では、北条氏康今川義元が同盟を結んだらしい。織田信長は、弟を殺し、武田信玄は父を追放したということです。今、まさに世のなかは骨肉の争いをしているようです」

 與次郎兵衛の話は尽きることがなかった。

 小笠原氏と佐波氏が銅ガ丸鉱山と竹地区を取り合って、幾度となく合戦している。同じようなことが、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の間で行われている、川中島合戦だ。川中島では、数万に及ぶ軍勢が激突しているという。

―いちど見てみたい。

 明尊も旅に出たい衝動を持て余している。主持ちの身では、その思いも詮無いことである。

 

 すばらしい満月がでている。

 風ひとつない静寂に包まれた山里は、寝るのがもったいないほどの明るさに包まれていた。

 遠く山裾に点在する農家がくっきりと見える。

 乾ききった道は白く浮かび上がり、歩行に灯りを必要としない。

 愛馬は、黙々と歩き、城へ向っている。

 

 山道を抜けて里に入ったとき、皮膚に鳥肌の立つような緊張が走った。

 大気を揺るがす『気』が膨張し、明尊の体に容赦なく飛びこんでくる。

 愛馬の歩行に乱れはない。馬は、己に向かって来る殺気を察知する能力を持っている。

 それは、人間よりはるかに勝れている。その馬が平然としている。ということは、二人を襲ってくる殺意ではない。

―なんだろう。

 さきほどから考えていた。

 明尊が、師をみた。

「うむ」

 重兵衛も、二人を包みこむ『気』が、なになのかを掴もうとしている。

「あそこだ」

 重兵衛が馬から下りて手綱を道端の木にくくりながら、一町ほど先の家を見つめた。

  

 田んぼの奥に連なる山すそを背に建つ一軒屋だ。

 鬱蒼とした樹木の陰から藁葺の屋根がわずかに見えている。

 土居と杉の大木に囲まれたその家は郷士・坂本長左衛門の屋敷だ。

 重兵衛と明尊が走り出した。

 道の両側に広がる田んぼでしきりに鳴いていたかえるの声がピタリと止んだ。

 わずかに、風の音が遠くで松の葉をならす静謐さを見せていた。

「まずい、これでは、敵に察知されてしまう」

 重兵衛が気配を消した。明尊も気配を消して師を見た。重兵衛がうなずいた。

 かえるの合唱がはじまった。

「行くぞ」

 重兵衛と明尊が、風になって走った。

 ふたりは家の裏にまわり、屋内のようすを窺った。

 屋敷は、わずかの灯がもれているだけで静まりかえっていた。

 抜き身の刀を持った男が立っている。

 十人は居るようだ。

 野盗だ。

 長左衛門の郎従が倒れ、座敷に流れ出た血が除々に広がっている。

 当主長左衛門の姿が見えない。

 すでに闘争の決着は、ついているようだ。

 家族を一ヵ所に集めて刀をつきつけている。金品を要求しているらしい。

 老婆が若い嫁と五、六歳の男子を背に隠すようにかばっていた。白刃を突きつけられながらも、毅然とした態度で正座している。すでに己の命を捨て家族を護ろうとする気迫がでていた。

 重兵衛の目配せにより、雨戸を蹴破って明尊が飛びこんだ。

「ご助成仕る」

 明尊の大音声に、野盗がいっせいに振り向いて驚いた。

「なんだ子供ではないか」

 明尊が、大刀石州兼貞を抜いた。明尊の体格ができあがったのを機に、師山田重兵衛が手にいれてきたものである。銘を石州兼貞という。江川流域から採れる良質の砂鉄を鍛えて作った剛刀だ。石見地方は良鋼の産地であり、特に出羽周辺から多く産出したことから、出羽を中心とした刀工により鍛えられた石州刀の名声は天下にあまねく知られていた。

 明尊は、石州兼貞を右手に、入り身となって構えた。重兵衛は、明尊の後方で刀の柄に手をかけるでもなく平然としている。

 野盗のひとりが、軽くあしらうつもりで明尊に相対した。

「斬り捨てよ」

 師の声が響いた。

 明尊の体から放射する殺気が対手を金縛りにした。

 ふと気づくと、重兵衛が老婆を背にして野盗の前に立っていた。気配を消して移動した重兵衛に、野盗は、「あれ、なんでここに居るのだ。」という顔をしている。

「待て、こやつはできるぞ、儂にまかせろ」

 人質を重兵衛にとり返された黒ひげの男が、横から明尊の前にまわって八双の構えをとった。

 かなりの遣い手だ。大刀に血のりが巻いている。長左衛門の郎従を斬ったのはこの男だ。

 殺気が明尊を襲ってきた。

 明尊が己の気で刎ね返す。すでに無念無想の境地に没入していた。

 緊迫した刻がながれていった。

 明尊の気が膨張し、ぐんぐんと力がみなぎっていく、峻厳な面貌になってきた。

 闇を引き裂く気合とともに、黒ひげの刃が袈裟がけに振り下ろされた。

 すさまじくぶつかり合う気と気が空気を裂き、白刃が舞った。

 相対するふたりから放射する気が消えたとき、黒ひげの男が腹から飛び出した腸を、両手で抱え込むようにして座り込んでいた。

「なんだこれは」

 ズルズルとはみ出てくる腸をみつめている。神経が麻痺して痛みは感じていないらしい。

 敵の斬撃を皮一枚の間合いで躱した明尊が、するどく踏み込みざま横に払った大刀で、腹を裂いたのだ。

 明尊の二撃目が閃いた。呵責なき一撃だった。黒ひげ男の首から鮮血が四方に噴出した。

 呆然としてみまもる野盗の前で、体内からあふれる血に押しだされるように、首がボテッとにぶい音をたてて畳の上に転がった、一刀斎流払捨刀の剣技だ。

 残りの野盗は、派手な悲鳴を残して逃げ去った。

「長左衛門どのは無事か」

 重兵衛が、もう大丈夫だという優しさで、五、六歳と思われる男の子の頭をさすりながら老婆を見た。男児は、目の前で起きたことが理解できないのであろう、きょとんと立ち尽くしている。

「村の寄り合いで留守でございます」

「留守か…・留守を狙ったのか」

「この者、清一郎が、命をかけて立ちはだかってくれました」

「きのどくをした、儂らがもう少し早く通りかかればよかった…それにしても、さすがは長左衛門どのの御母上、りっぱな態度でござった」

「お恥ずかしいことでございます。お礼が遅れました、危ういところをお助けくださって、ありがとうございます」

「いやいや、戦場では、儂らも長左衛門どのにずいぶんと助けていただいている」

 急を知って集まって来た村人が。座敷の惨劇を目にして言葉を失った。

「おー、殿でござったか、危ないところを助けていただいて…」

 そのとき、長左衛門が息せき切って帰宅した。

「なんの、たまたま通りかかっただけ…・もう少し儂らが早ければ、御家臣もこんなことにはならなかったろうに…残念です」

 数人の村人が縁側から座敷にあがり、清一郎の亡骸を隣の部屋に移し、野盗の死骸を庭に下ろした。血の流れた畳をはがして庭にだしている。

すべて老婆の指図によるものだ。

 

 長左衛門の屋敷を後にした明尊は、体の緊張を持てあましていた。

 はじめて人を斬ったのだ。師は、儂に人を斬るという経験をさせたかったのだ。と思った。

 たしかに度胸がついた、という確かな感触が残った。

 野盗の体から押し出される腸をみても、長いものだ、と思ったが、特に動揺することもなかった。

―今なら、孟宗竹も斬れる。

 道端の竹林に入って孟宗竹と対峙した。さきほどの決闘を思いえがき、気を集中させた。

「エイ」

 裂ぱくの気合とともに大刀を振り下ろした。

 ガキッと音をたて、竹は大刀を刎ね返していた。

 師重兵衛の哄笑が竹林にこだました。

 瞬間、師の大刀がうなりをあげて閃いた。

 立ったままの孟宗竹が、地から三尺ほどのところで真横に斬られて、ストンと落ちた。

 

 天文十八年(一五四九)、十一月、尼子勢が銀山奪回のため石見へ出兵してきた。小笠原軍は、平田彦兵衛が大田の造山で迎え討って撃退した。彦兵衛は、塀足という谷間で敵を迎撃、数次にわたって戦ったのち撃退した。彦兵衛も傷を被り、大島八郎左衛門は僕従二人も矢傷を受けるという激戦だった。

 

 天文十九年(一五五〇)二月、毛利元就の次男元春は、吉川家の家督を相続し、新庄に入城した。

 

 同年九月、元春に家督を譲り隠棲していた吉川家の元当主・興経が元就によって殺された。興経の妹は小笠原長雄の妻である。妻おもいの長雄にとっても衝撃が大きい。

「元就は、己に敵対する者は、血でもって粛清した。弟でさえも殺した」

 元就に対する不信感を持つことになった。

 妻の嘆きを目にして、長雄は毛利との決別を決意した。

 

三高城

 天文十二年(一五四三)七月三日(新暦八月三日)こんどは、尼子晴久が石見に出兵してきた。石見の豪族は、つぎつぎと頭を垂れている。

 晴久は、「大内勢を敗った今、勝ちに乗じて石見、備後を切り隋えたのち、再び芸州へ討ち入って一年前の鬱憤を散し、大敗の恥をすすぐ」との決心を伝えた。

 七月五日(新暦八月五日)、温湯城大広間、江川から吹き上がるさわ風が、端坐する重臣らの汗を乾かしている。ガンガンと耳に響く蝉しぐれに混じって、ときたまさえずる鳥の声が、居並ぶ諸士の心をわずかに慰めている。

 広間では御屋形小笠原長雄を前にして緊急の重役会議が続いている。

 御屋形は病臥中の父長徳に代わって小笠原軍団を統率しており、二十歳を過ぎたばかりの青年武将ながら気性激しく、すでに剛将の片鱗をうかがわせていた。

「一昨年は、尼子とともに毛利を攻めた。去年は、大内に追従して尼子を攻めた。今回は、また尼子についていかねばなるまい」

「それにしても、いつも他人に隋従では情けない、武士らしく毅然とした態度を貫きたい、真の独立をめざすべきです」

「それがしも同意見にございます。小笠原領内には銀山があり、銅山もあり、それに刀剣の材料となる良質の鉄も豊富です。これらを最大限に活用して軍備を増強すべきであると考えます。自分の力を養っていかないと、やがては尼子や大内に支配されてしまいます」

「忠誠、義理にこだわれば、河津民部左衛門のようにひとたまりもなく滅びます。これが我らの宿命です」

 河津民部左衛門久家は、大内に従って尼子を攻めた出雲国人衆のひとりである。大内勢敗退のとき宍道遠江守や多賀美作守らは山口に逃れたが河津久家は、あえて出雲に残り、尼子に攻められて討死した。

「河津民部左衛門の戦死の様は、武士らしくいさぎよいと称賛をあびているようですが…家を潰してしまってはなんにもならん」

「そう、武士の意気地を立てたところで死すれば犬死だ」

 議論は尽きそうにない。

「我らは、そのときどきの連合を組んで戦ってきた。武家がいっそう強い勢力と連合を組むのは、武家のならいである、裏切ではない」

「合戦は、お家興隆のよい機会だ」

「籠城してどちらにも附かない中立という立場はどうだ」

「この城・温湯城に籠城すればちょっとやそっとのことでは落とすことはできないでしょう。でも、後詰めがあるということが前提となりましょう。今、大内、毛利は、月山富田城攻めの失敗により離反する者が多く、自国内での戦いで手いっぱいでございます。我らが籠城しても後詰めは期待できません。救援の無い籠城は自滅を招くだけです」

重役らの発言は続いている。

 御屋形(長雄)は腕組みしたまま目を瞑っている。ひとことも発言しない。長雄の脳裏には、毛利元就とともに過ごした二月前の一夜がわすれることができない。

―あのとき、元就父子は、儂らを信じてくれた。二人の生命を儂らに預け、頼ってくれた。短い日数であったが、元就の強さ優しさを知り、これからは元就とともに歩むと誓ったではないか。

 老臣らの意見はとうとうと続いている。

「尼子氏とともに行動する」

 突然、長雄が短く言いきると、捨て切れない元就父子との交誼を振り払うかのようにサッサと座敷をでていった。『小笠原には、いままでどおり銀山支配を安堵する』という尼子晴久からの書状を手にしていた。この時代、銀山を支配するということは、銀山経営を請負うということである。尼子晴久に一定量を貢献すれば、あとは、すべて自由になった。それだけ、銀山支配には魅力があったのである。

 ちなみに、大内、毛利と尼子の間で熾烈な銀山争奪を繰り返したなかにあって、小笠原氏は、通算で二十年もの間、銀山を支配していたことになる。

 七月十四日(新暦八月十四日)、二万の尼子勢は、久利清六兵衛、左馬助父子を攻め、郷中一軒も残らず焼き払った。大内からの援軍も望めず、わずか三百人では、とうてい守り抜くことはできないと久利は防州へ逃げた。

 久利城を潰した尼子勢は、つづいて佐波隆連の三高城を攻めるため江川を隔てて頓営した。

 佐波氏は、本城青杉城を中心として、その西に丸屋城、南に皷ガ崎城を構えていた。三城の間は数町しかなく、互いが緊密な連携をとって戦うため、うかつに攻め入ることのできない要害であった。この三城は南北朝動乱のころから三高城と呼ばれていた。

翌日、江川特有の朝霧のなか、かすかに見える対岸に佐波の勢三百余りがでてきた。

「ここから渡って来い。治承の乱において足利忠綱と佐々木高綱が、宇治川を渡って功を得ている。それのみか三郎盛綱は海を渡ったという、川を渡るということは例あるといえども、馬にて海を渡ること未曾有の功であると賞せられたという。今、ここを渡らねば晴久殿の勇は落ち、先祖に顔向けもできないであろう、海を渡れといっているのではない、せめてこの河を渡ってきたらどうか」

 対岸から兆発している。

「憎い敵のいいぐさだ、ここを渡らねば、まことにもって先祖の功をも潰してしまう。行くぞ、ものども続け」 

 尼子左衛門大夫が馬腹をけった。

「なんということをなさるのか、ここは浅瀬ではありませぬぞ、敵は我々をだまして深みに入らそうとしているのです。浅瀬は、ここよりはるかに下流ですぞ」

 小笠原長雄と本城常光が走り寄って制止する。

「なにを言うか、これぐらいの川、渡れなくてなんとする。」

 左衛門大夫が制止を振り切って川に踏み込もうとする。

「浅瀬もわからぬ大河を渡り、溺死でもしたら末代までも恥辱を残してしまう。舟を集め夜を待って渡る、しばらく待て」

 晴久の命により左衛門大夫は、力なく陣へ入った。

 その後、一ヵ月ほど攻めたが城を落とすことが出来ない、

「いたずらに当城にのみ日数を費やすのは愚なことだ。石州のうち益田、吉見、福屋、佐波以外の国人衆は、尼子に靡き従った、ひとまずはこれでよい」

 ついに、晴久は、三高城攻略をあきらめて石見銀山に矛先を変え、これを押領した。

 これを区切りとして晴久は出雲へ引き揚げた。

 晴久は、銀山を小笠原長雄に与えず、直轄地として代官を置いた。長雄としては、当然、自分に与えられるものを直轄としてしまったことに納得がいかない。

「今まで、大内どのにしろ、尼子どのにしても銀山支配は我が小笠原に任せていたではないか、小笠原の銀山支配力をないがしろにしおって」

こめかみに青筋をたてて怒りを露わにした。

 天文十二年(一五四三)この年、種子島に鉄砲が伝来した。

 天文十三年(一五四四)二月中旬、尼子民部太夫改め修理太夫晴久は、三万騎を引率して伯州攻略にかかった。

 伯州へ入ったばかりの八橋城で逗留して初夏になるのを待った。この間に、大崎城の守将は尼子勢の威風に怖れをなして逃げ去った。

 尼子勢は海岸を東進し、鹿野城を一気に陥落させた。

「この勢いで、鳥取城下に放火して、鳥取城もしくは私市城のいずれかを落とせば、因幡の者どもは尻尾を巻いて退散するであろう」

 意気衝天の勢いで軍評定を行なっていたところに、尼子晴久の母公が重態に陥ったとの知らせが届いた。

 五月上旬、尼子勢は因幡を引き払った。

 

 同年(一五四四)十一月、毛利元就の三男隆景が小早川家を相続した。

 

 天文十六年(一五四七)八月二十一日(新暦十月四日)、小笠原長徳が死去した。治世わずか六年の短い在位であった。

 嫡男長雄が十四代を継いだ。

 天文十七年(一五四八)、三月、小笠原長雄は銀山を攻略し、弟小笠原大膳太夫長秀をはじめとして大島和泉守、平田加賀守、寺本土佐守、福原山城守、横道帯刀、青木、市川、小田、樋口ら三五〇人を連れて銀山の視察をした。

 

お夕

 天文十二年(一五四三)初夏、明尊と忠左衛門は四ッ地蔵城を出た。

 今日も晴天が続き、雨の心配は無さそうだと思っていたが、太陽が中天を過ぎた頃になって突然の雷雨となった。あいにく人里離れた山中だった。

 黝(あおぐろ)い雲が地を圧し、雷電が頻りに襲ってくる。

「これはかなわん、避難しようぞ」

 明尊が走り出しながら前方をみると、山道を覆い隠すように広がる竹林のなかに一軒屋があった。

「それ!」

 掛け声とともに入口に駆けこみ、ホッと大きく呼吸した。

「誰か居るか」

 山下忠左衛門が軋む音をたて、重たい板戸を引き開けて暗い土間に入った。

「誰もいないようですが、子供がひとりで寝ています」

 忠左衛門に誘なわれて明尊も敷居をくぐった。暗い土間にポタッポタッと音をたてて雨漏りが始まっている。

 土間に面した囲炉裏の端に三歳ぐらいの女児が寝ている。遊んでいる最中に、とつぜん寝てしまったという形をしている。その手に、木を削って作った小さな人形をしっかりと握っている。木の枝で細工しただけの素朴な人形だ。

 囲炉裏の火は灰で覆いかくされ、鍋は冷えきっている。

 土間の窓際にある流しには、女児が昼に使ったらしい小さなお椀とはしが置いてある。

 高窓から差し込む一条の光りの中で、空気中に浮遊する無数の塵が光っている。すべてが静寂のなかにあって、意外なほど多くの屑が飛んでいた。

「どうしたの、どこか悪いの」

忠左衛門が女児の額に手をあてて、

「熱はないなー」

 目が覚めて、きょとんとしている女児に話しかけている。

「おかあちゃんは?」

「下へ行ってるの」

 下の村へいってるらしい。

「おとうちゃんは?」

「いない」

「そう、ひとりで留守番してるの」

「そう」

「おかあちゃんは、いつ帰ってくるの?」

「夜になったら」

「夜まで、ひとり?」

 女児はこっくりとうなずいた。

「それで、どうして寝てたの、おなかが痛いの?」

かあちゃんが早く帰ってくるから」

 女児のひとことが明尊の胸を押し潰した。

「そうだね、寝ていたら早く夜になるな」

 忠左衛門が大粒のなみだをだしている。

 忠左衛門がふところから紙に包んだ菓子をとりだして女児に食べさせた。

 女児は目をまんまるくして食べている。

「こんな甘い物は、はじめて口にするのでしょう」

 忠左衛門が泣き笑いしている。

 近ごろ、長崎で出まわり始めた南蛮あめの金平糖だ。博多の内田屋が八神屋へ贈ってくれたものだった。女児が驚愕するのも無理はない。

 結局、二人は夕方まで出立できなかった。明尊が可哀相だといって動こうとしなかったからだ。明尊は、囲炉裏の横に置いてある薪の中から、椿の枝を切り取った。そして、無心に小柄(こづか)を使って、なにやら彫刻を始めた.明尊に寄り添うように座っていた女児が目を輝かせた。

「ほれ」

と、女児の手に握らせたのは一刀彫りの人形だった。

「ほー、うまく出来てますな」

 忠左衛門は、夕が大切そうに抱える人形を見つめていた。

「これで、二人になっただろ、人形さんの友達ができた」

 女児がこくんとうなづいた。       

「そうだ、お人形さんの夜具も必要だ」

明尊が、襦袢の片袖を切り取って、女児に渡した。

「そりゃーいくらなんでも・・・」

 忠左衛門が苦笑いしながら移す視線の先で、女児が二つの人形を大切そうに布で包んでいた。

 夕方暗くなって帰ってきた母親に、忠左衛門が事情を説明してから家をでた。とにかく、下の村まで後戻りして昼餉をとるために立ち寄った郷士中村宇左衛門の家に泊まることとした。

 さきほどの、にわか雨で川になった山道を、二人は下りて行った。

 引き返してきた明尊らをみて驚いている宇左衛門に事情を説明すると、

「あー、そういうことで…・・」

 安堵の声を発し、なんと物好きなといわんばかりの顔をあわてて取り繕うように、

「あの家の亭主は、吉田攻めに足軽として出征したまま帰って来なかったのでございます。あの戦では、多くの者が亡くなりました……あっ、これは失礼しました、お殿さまの御先代さまも、お亡くなりに……それから、あの女児…夕ともうしますが…・女児の母親は、…さちともうしますが、村の野良仕事を手伝って、ほそぼそと生きてるので御座います」

「父親の名は、なんと申しますか……」

「茂吉と申します」

「なんと、茂吉か…・・」

「ごぞんじで」

 宇左衛門が「へー」という顔をしながら上目づかいで忠左衛門を見つめた。

「殿、茂吉は大殿の轡を取った男です。大殿の轡取りであった助八が病に倒れましたので、急遽、茂吉にさせたのです。それが、なかなかの者でして、あの日(天文十年正月十三日)敵味方数万がダンゴになって激突したとき、己は血だるまになりながらも決して大殿の側を離れなかった、あっぱれ者でした。最後は、御最期をげた大殿の前で仁王立ちになって敵の矢を一身に受け止めてくれました。イガグリのごとく矢が突き刺さっても逃げなかった」

「そうだったのか」

「ここで、茂吉の身内に逢うとは…・」

「さちは、うちでもときどき使っていますが……そりゃーもう…よく働きます。まだ三十にも程遠い若さですから、身惜しみをしない女です」

「吉田攻めでは、大敗を蒙った。……あの山のなかの一軒屋では、…・狼や山犬もいるだろうに。」

「だから、一日中、外にでないらしいんですよ」

「……・」

「あの夫婦は、あそこで炭焼きを生業としていたんです…・・亭主が亡くなってから、一人では無理ですから」

「…・・連れて帰るわけには行きませんか」

 明尊の唐突な申し出に、エッと絶句したままことばがでない宇左衛門に、

「いままで、あのような者がいることさえ気がつかなかった。…・迂闊だった…・わが父のために命をささげてくれたのに…・・非道のもとに一刻も苦しめておくべきでない。…宇左衛門どの、それがしの気まぐれを許してもらえないでしょうか」

「反対する理由はございません、私としても気にかかっていたことでございます。それにしても、そのような働きをしていたのでございますか、茂吉は…」

「それでは、さっそくにも行って、話してみよう」

明尊が立ち上がった。

「おまちください。突然行ったのでは…・うちの者を走らせますので、すこし刻をおいてからお出発ください」

 宇左衛門があわてて、若者を走らせた。

 

「おじちゃん」

 忠左衛門の顔をみて夕が走りよってきた。

「おー、おー、かあちゃんが帰ってきて元気がでたな」

 夕の頭を優しくなでながら、土間に平伏している母親を促して座敷へあがった。

 明尊と忠左衛門は、仏壇として設えた台上の位牌に両手を合わしている。

「話のあらましは、聞いたとおもうが、亭主には、きのどくなことをした。儂のところへ来ないか、なにも心配をすることはない、…・・娘御と一緒に暮らせるようにしたい」

「……」

 明尊に寄りそうように夕が座っている。明尊は兄ちゃんでしかない。

 土間に平伏したままの母親のさちは、嗚咽して声がでない。

「存じているとおもうが、殿のお父上も吉田攻めで討死なさった。そのとき、そなたの亭主茂吉は、殿の馬の口取りをしていたのだ。最後の最後まで大殿のもとを離れず、りっぱに死んでくれた。剛の者だ。天国でも大殿は、茂吉の口取りで馬に乗っておられるであろう。今、そなたに逢えたということは、大殿のおぼしめしだ。だから、心配するでない、…・それに、こんな可愛い子を、こんな山奥にひとりで留守番させるには、危険が多すぎる。…・・娘御には、遊びあいても必要だ」

「宇左衛門どの、恐縮だが、この者の用意ができたら、それがしのもとまで送ってくれないでしょうか」

「よろしうございます。亭主も草葉の陰で安心しているでしょう」

 宇左衛門が感きわまったという口吻で、さかんにうなずいた。 

「亭主の位牌も忘れるでないぞ、一緒に連れてくるのだぞ」

 忠左衛門がやさしくいいながら、懐から銭をとりだして夕にわたした。

「もう、明日からかあちゃんは、いつも夕と一緒だよ」

 事情の理解できない夕は、きょとんとしながらも忠左衛門からもらった銭を母親の手に渡した。

 

 数日後、さちと夕は明尊のくちききで、八神屋(やかみや)與次郎兵衛に引き取られた。

 八神屋は今、正寛が三代與次郎兵衛を襲名している。

 正寛は祖父忠智の又従兄弟になる。

「二人は特別待遇をうけているようでございます。他の奉公人とは別に門長屋の一室を貰いうけて二人で住んでいます。『大殿の盾となって討死した』という殿の一言がきいたようでございます」

 二人を送り届けた忠左衛門が、破顔で報告している。

「小間使いをやっているようですが、それが、なかなかの働き者で、機転が利くらしく、與次郎兵衛さまや奥方に気に入られているようです。夕は、孫のようにみんなから可愛がられています」

 明尊は二人を自分の屋敷で働かせるつもりでいた。しかし、その考えは直(すぐ)に変わった。

 亭主を死なせたさちを、武家に住ませることに躊躇したのだ。商家のほうが二人にとって安穏に暮らせると思ったからだ。

― さちが武家を望むなら、夕が大きくなってから武士の亭主でも探してやればいい。

「ところで、與次郎兵衛さまは、『さちと同じような境遇の者は、他にもいるでしょうに』と言っておられました。その件につきましても、殿はなにか善処を考えるお気持ちのようですと言いますと」

 いたずらっぽく笑いながら忠左衛門は、

「與次郎兵衛さまは、『同じような境遇の者が十人おるとして、残された家族のうち、そのうち男は四人、女は六人じゃろうか、…一日あたり、男に米五合、女に米二合が飢えずにすむ最低量であろうから、一年では一千八百合、女七百二十合…・一俵四百合として、男に約五俵、女に二俵、十人では三十二俵を扶持しなければならんでしょうな、一石は二俵半ゆえ、〆て十三石分となる。…十人でこれですからなー』とおっしゃられました」

 たちどころに計算したという與次郎兵衛に、明尊は口をあんぐりとしているだけだった。

「でも、あの二人はほっておけなかった」

 忠左衛門が明尊に同意をもとめた。

 「それにしても、お夕の顔がずいぶん明るくなりました。與次郎兵衛さまはお夕の遊び相手も付けて下さっています」

「よかった」

明尊がつぶやいた。

 

月山冨田城

 天分十年(1541)秋、それまで尼子方であった備後、安芸、石見、出雲の国人衆十三人が連署して大内氏へ尼子征伐を慫慂した。

 備後の三吉広隆、山内隆通、多賀山久意、杉原盛重、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、川津久家、宍道正隆、古志吉信、石見の本城常光、福屋隆兼、出羽助盛、吉川興経の十三氏である。

 小笠原長隆は十三人衆の連署には参加しなかった。これまでの尼子氏との交誼を考えると、どうしてもふんぎりがつかなかったのである。

 

 十三人衆の意見に心を動かされた大内義隆は尼子征伐の兵を起した。

 天文十一年(一五四二)正月十一日(新暦一月二十六日)、一万五千の将兵を率いて山口を進発した。

 義隆と駒を並べて進む若武者は、公家の一条家から義隆の養嗣子となった義房である。 公家装束に甲冑をつけている姿は、いかにも弱々しく勇猛な武将とは、ほど遠い。武将としての知識も持ちあわせていないだろう。きらびやかで奢侈な姿は、随従する武将の目には受け入れられるものでなかった。

 同月十九日(新暦二月三日)、義隆は安芸の国府で安芸、備後国人衆の参陣を待った。

 ここで、毛利、宍戸、平賀、吉川、小早川、天野、熊谷、香川、山県ら安芸の国人衆、宮、三吉、山名、多賀山、山内ら備後の諸将が集まり、三月初旬に石見路に入って出羽の二ッ山城に着陣すると、益田、福屋、出羽、佐波、小笠原、本城ら石見の諸将が加わった。 

 遠征軍は、都賀の渡しに舟橋を架けて江川を渡り出雲路に入った。これまで尼子麾下となっていた石見の国人衆は大風が通り過ぎた稲穂のごとくこぞって腰が折れ、大内方となって尼子攻めに参陣したのである。

 

 御屋形(小笠原長徳)の顔が暗い。

― 己の力がないため、大きな勢力に反抗することができない。ただ、大風の吹く方向に腰をり頭(こうべ)をたれて追従しなければならない。まるで、鼬(いたち)ごっこだ、なさけない。

「それにしても、大内義隆の公家装束には、どうもいかん。化粧した顔をみると虫唾が走る」

 御屋形(長徳)が近侍にもらした。

 大内義隆は、武士の本分を捨て、公家になりたがっている。山口では、公家のような生活を送っているという。今回の出征も、公家装束に甲冑を着けている。武辺一辺倒の長徳には、どうしてもなじめない姿であった。

 福冨党に出陣命令はでなかった。十歳になったばかりの明尊に戦はまだ早いと御屋形は見たのであろう。

 四月四日(新暦五月八日)、病に伏していた小笠原長隆(十二代)がついに死亡した。

 

 六月七日(新暦七月十九日)、大内勢は、尼子方の赤名・瀬戸山城を攻撃した。

 

 七月十九日(新暦八月二十九日)、毛利元就が先陣となって、陶、杉、内藤ら大内の重臣らとともに攻めたが、らちがあかない、わずか二千余の籠る小城を陥すのに一ヵ月半もかかっている。城の攻略がいかに難しいかということを、さらけ出してしまったのだ。

「こんなところで兵力を損なっていたのでは、肝心の本拠地である月山富田城攻めに支障がでる」

「そうかといって、この城をこのまま放って、進撃するわけにもいかない」

 戦評定は容易にはまとまりそうにない。

 尼子氏は月山富田城を守る前線基地として、赤名、牛尾、白鹿、三沢、三刀屋、高瀬、神西、熊野、馬木、大西の十城を配している。「尼子十旗」である。さらに、十神山、三笠山などの尼子十砦といわれる城砦が二重三重に月山富田城を固めている。

 城を攻めるには、まず、これらの城を落さなければならない。石見の小豪族を潰すのとは違う。ただ、今回は三沢、三刀屋らが尼子を裏切って大内氏へついている。

「まず、赤名・瀬戸山城将赤穴右京亮に、城を明渡し味方となるならば所領数カ所を与える、と言い送って相手の出方をみてはどうでしょうか」

 相良遠江守武任が言う。

「いや、遠江守の言うこともっともなれど、赤穴はその手にのらないだろう、なぜかと言えば、三沢、三刀屋をはじめとして多くの国人衆が、大内家へなびき従うなか赤穴ただひとりが尼子一味の約束を頑(かたく)なに守っている。いかなる謀をもっても、いまさら降伏はしないだろう。それよりも月山富田城が最も頼みにしているこの城を、一気に力攻めで落とせば、敵方は恐れ臆すことでしょう。赤穴の城を潰さずして月山富田城を攻囲しても、赤穴のために石州の通路を塞がれ、糧道を断たれて、味方が苦戦するでしょうし、万が一、味方が敗れて退くときにもこの城が害となるでしょう。とにかく、この城を放っておくことは智謀にうとい者のすることだ。味方の損害をかえりみず、強襲し、たとえ、赤穴に血気の勇士がそろっていようとも乗っ取るべきだ。当城を攻め取れば、出雲国中で未だ大内家に従わない諸士も、ことごとく降伏するでありましょう。属城を片っ端から切り従え、後方をかためながら月山富田城を攻めるべきでありましょう」

 陶隆房の主張に皆が同意した。

 七月二十七日(新暦九月六日)、卯の上刻(午前六時)、総軍四万余騎が三度の鬨をあげて、赤穴の要害を四方から攻め立てた。

 陶隆房、平賀太郎左衛門隆宗、吉川興経ら五千余騎が一手になって大手門を強襲した。

 これに対して、赤穴右京亮が一千余騎を率いて激しく射立て、攻手が怯んだところに城門を開いて出てきた。両軍が押しつ押されつ入り乱れて、夕方まで戦ったが勝敗は決まらず、お互いに退いた。攻手は、手負い死人が一千人を超える損害をだしたが、ついに城を破ることができず、津賀まで退いた。

 だが、その夜突然、城方は降伏・開城した。

「どういうことだ、あれほど息盛んに反撃していたものを」

 攻城軍は、きつねにつままれたようである。

 ところが後になって分かったことだが、その日の戦闘で喉に矢を受けた城主赤穴右京亮が落命したため、大将が討たれたうえは、城を持ちこたえることができないと、富田城から加勢にきていた将の助言をいれて、赤穴の妻子を助けることを条件に城を明渡したというものであった。

 

 七月二十九日(新暦九月八日)、大内勢の本陣を由木に移した。地図上に月山富田城を基点とする円を描くと、南西六十キロ地点が赤名であり、南三十キロ地点が油木である。まだまだ、月山富田城までは遠い。

 それにしても、いかにも遅い進撃であった。

 

 この年八月、石見地方は猛烈な台風に襲われた。二十一日(新暦九月三十日)夜半、滝のような大雨が一刻にわたって続き、たちまち江川は氾濫、周辺の村落に甚大な災害を引き起こした。

 刈りとって稲棚に干していた稲も水に浸かった。

 高石垣の上にある八神屋も軒下まで水を被り、川近くの倉や家屋はことごとくが水面下となった。この辺りは、洪水に流されるのではなく、土手を溢れた水により、村全体が沈んでしまうのだ。住民は、徐々に増えていく水に追われるように山に避難していく。江川の水位が下がると、村を覆い隠していた水も引いてゆき、その後には、ほとんど被害の無い村が出現した。といっても、倉の中に置いていた商品・玉鋼等も水に浸かったため、後の手入れが大変だ。刈り取って稲棚に干していた稲も水に浸かった。田んぼにそのまま残していた稲は、引いて行く水に持っていかれてしまった。

 このとき、大森銀山では、大轟音とともに発生した山崩が谷を塞ぎ、せき止められた水が洪水となって間歩(坑道)に逆流したため、溺死者千三百名を数える大惨事となった。

 

 九月に入っても、大内勢は由木に屯営して傷ついた将兵の養生をしていた。

 九月中旬、出雲の三沢為清、三刀屋久祐、多賀美作守、宍道遠江守、川津民部左衛門、広田、桜井、その外伯州住人・南条宗勝、行松入道らが大内軍に馳せ参じてきた。いずれも、富田城防禦網の基趾を担っている将であった。

 これより、三刀屋久祐を案内者として富田城の西三十キロ地点の三刀屋に陣を移し、さらに十一月上旬には、南二十キロ地点の高津馬場に移動した。

 

 十一月十三日(新暦十二月十九日)、中国十一ヵ国の太守尼子経久は失意のうちに八十四歳の生涯を閉じた。

 

 高津馬場は千メートル級の山が連なる中国山地の尾根を背にしているため、厳寒の風雪が毎日のように大内勢本陣を襲ってくる。四尺(一メートル強)を越す積雪に兵は凍え、糧米の搬送もままならない。

 大内義隆は、ついに馬潟(松江市)の正久寺に本陣を移して冬営に入った。

 

 天文十二年(一五四三)馬潟にもようやく、春が訪れようとしてきた。

 いつまでも、徴兵、拘束されていらだつ将兵の不満に押されるように、月山富田城目前の京羅木山(四七三メートル)に本陣を移した。昨年正月十一日に山口を進発してから、実に一年以上もかかったのである。

 麾下の諸将は山を下りて富田城と飯梨川を隔てた山々に陣地を構築した。

 富田城は高さ百八十メートルの月山にある。頂上に本丸を置き、二つの峰を利用して幾重にも連なった壮大な城を築いている。城下からは、東に聳え立つ城の背景に煌煌と輝く月がみえ、その美しさから月山富田城と呼ぶようになったという。

 二月十三日(新暦三月十八日)、大内勢と尼子軍との攻防戦がはじまった。が、しかし、足軽どうしの小競合い程度で、大きな戦には進展しなかった。

 翌十四日、毛利元就は塩谷口から城内への突破を試みた。城方からは牛尾幸清ら一千騎が迎撃し両軍が激闘した。このとき、内藤下野守の家人馬田孫七郎が城方の首を取った。

 これは、この日における『一ッ首』として高名を得、攻城勢将兵の羨望を受けた。

 二月下旬、富田城北麓の新宮谷に近い金谷の尼子家菩提所洞光寺境内へ、平賀隆宗、益田籐包らが侵入した。菩提所を焼き払われてはならぬと、尼子式部太輔、尼子左衛門太夫が二千ほどの兵を率いてでてきた。尼子勢は、弓隊を前面にだして激しく矢を射って来た。これにより益田隊の二人が射落とされため兵が浮き足立った。これをみた平賀隆宗が五百余騎で尼子軍の大軍勢に突っ込んで激戦になった。隆宗が闘っているのは、尼子でも武勇の名高い新宮党である。たちまち包みこまれて劣勢になっていく。

「平賀を討たせるな」

 益田籐包がまっしぐらに切りかかる。それでも、少数の益田隊が新宮党と直接渡り合っては苦戦必定である。そこへ、吉川興経八百余騎が槍を揃えて新宮党の横合いに割って入り突きまくった。これで新宮党の隊伍が四散した。

 洞光寺は、大内軍の手に落ちた。

 

 富田城攻撃をはじめてから二ヶ月を経過したが小競り合いばかりで大した成果がない。

 攻城軍は、毎日をいらいらした気持ちで過ごしている。

 四月三十一日(新暦六月三日)月山富田城に低く垂れ下がった雨雲が重くのしかかり、梅雨特有の小ぬか雨が降り続いている。

 城中より牛尾遠江守、卯山飛騨守らが千騎ばかりで城門をでてきた。

 富田川を隔てて備えると、かかって来いと招いている。

「あの敵を追いはらって大内殿にお見せしよう。」

 三沢為清が一千五百余騎を率いて突撃態勢を取った。

 続いて大内氏へ富田城攻撃を慫慂した十三人衆が動いた。

 十三人衆の一万をこえる軍勢が山から下りて、富田城正面の御子守口を前に整然と隊を組んでいる。城方は静かだ。

 攻撃隊全軍が一丸となって突撃した。飯梨川に架かる橋を目指して疾駆している。橋を渡れば城門だ。

 これからはじまろうとしている激戦に大内勢将兵が固唾を飲んで静まり返っていた。 

「始まるぞ。正面からの強襲だ」

「強襲だ」

 強襲は、味方の被害も多くなる。それをあえて実行しようとしている攻撃隊に、見守る大内勢将兵の血がたぎる。

 城内は静かだ。攻撃隊の先鋒が橋を走り抜けて行く。そのとき、城門が開いた。

「さあ、城内からも押し出してくるぞ。」

 他人の戦を観戦する将兵は、己の生命に危険がないことをいいことに、凄絶な戦いを期待する。

 ところが城内からは出てこない。

 富田川沿いに展開している牛尾遠江守、卯山飛騨守隊を無視して一万余りの攻撃隊が富田城内へ駆けこんだ。

 続いて城方の牛尾、卯山隊が城内へ入った。

「あれでは、味方が挟み撃ちにされる」

 城内で凄絶な戦いが展開されている……はずであった。

 城門が閉められた。

「……」

 城内が静かだ。

「…………」

 両軍の間に起こるべき剣戟の音が発生しない。

 大内勢将兵には、ことの成り行きが理解できない。ポカーンと口を開けているだけである。

 そのとき、城内の塀際に、突撃隊十三将の旗幟が次々と立てられていった。

「エイ、エイ」

「オー」

 城内の勝鬨に大内勢のどよめきが地を揺るがす。

「……」

「……」

「裏切だ」

 城内から笑い声がとどろいた。嘲笑だ。

「裏切だ。」

 我にかえった大内勢将兵に衝撃が走った。こともあろうに、出雲遠征を慫慂した芸、備、石十三将が示し合わせて尼子方に寝返ったのだ。

 どうしてこのようなことになったのか、……話は一ヵ月前にさかのぼる。富田の八幡山に陣をならべている三沢、三刀屋、宮、杉原、出羽、本城ら十三将は、戦の暇があるとき、各々が一所に集まって、酒を飲み、茶をたて、和歌を詠ったりしていたが、あるとき、敵味方将士の強弱評論に話題がうつった。

「大内、尼子両将の知計、強勇の優劣はどうだろうか、それがしが思うには、両家軍法の善悪しを見ると尼子家に利があると思う。大内家は、先代義興さまとは違って今は心浅く思う、なぜかというと、尼子家の大将晴久さまは、勇一道においては近国無双の将であろうと思う。智謀は、勇に比して少しは劣るといえども、この人は、わが勇力を頼りに謀より戦を優先してしまうこともあるが、今、知をもって謀の賢い将といわれる仁に比べても決して劣るものではない。吉田発向のことは大叔父下野守さまに再三、止められたが、尼子比丘尼の臆病意見と侮って出兵し、終いには敗れて尼子氏の柱礎ともいうべき下野守さまを討たれてしまった。下野守さまは、かって刑部太輔と称しているころより、舎兄経久さまと、ともに智謀をもって十一ヵ州を切り従え、その比、経久日本に二人となき大名といわれるまでになったが、これも下野守さまの知謀によるところが大きい。もし、晴久さまが下野守さまの諌言を守って危うき戦を避けていたら最強の尼子になったであろうに、下野守さまは討死してしまった。尼子には、紀伊守(国久)という勇将もいるが、この人は、奢りすぎる欠点がある、『奢る者、久しからず』という習いがあるように、尼子家も終いには大敗を喫することになるやもしれない。もともと、吉田の大敗は、因但備作においてしばしば戦い、勝ってきたことによる奢りから下野守さまの諌めを受け入れなかったことによる。もし、智をもち、勇をもつ将で諌言を受け入れる度量があれば、これこそ誠の将であろう。大内義隆さまは柔弱で大将の器ではない。大将たるものがこのような状態では、その国は、必ずや削り取られるであろう。また、尼子の新宮党、大内の陶は剛強だ。将がこれならばその国は必ず亡びる。

尼子の国久さまと大内の陶どのは将として互角の器であろう。大内義隆さまと尼子晴久さまでは、将の器量に雲泥の差がある。しからば、大内、尼子の国争いは大内滅亡必定であろう」

 杉原忠興の意見に皆が、最もだとうなずいている。

 吉川興経、三沢為清、三刀屋、広田、桜井、本城常光、小笠原長徳、富永、出羽、杉原、久代、江田、池上らが頭をつき合わせて、行く末とても頼り無い弱将の大内を頼ることは考えの足りない者のすることだ。尼子に立ち帰ろうと、一同が結束して富田城内と連絡を取っていたものであった。

 小笠原長徳は、家督を継いだばかりであり、十三将とは、いまだ馴染みが薄かった。結局のところ大内軍に居残ったのである。

 攻城勢と尼子勢の形勢が逆転した。

「大変なことになった。このまま大内勢として残るか、退却するか」

 各陣営がお互いに他陣の様子を覗い浮き足だっている。

「いま、裏切った雲石備の武士どもがその領に残してきた一族家臣らに命じて、防州の通路を塞ぐことになれば味方兵糧の運送も絶えてしまう、ここは、ひとまず陣を引き払い、あらためて九ヵ国の勢を集めて今回の鬱憤を晴らす」

 五月七日を期して攻城勢の総退却が決った。

 大内義隆は、殿(しんがり)を毛利元就と沼田の小早川正平に申しつけた。

 五月七日(新暦六月九日)、未の刻(午後二時)降りしきる大雨のなか大内義隆の本陣が動き出した。

 大内義隆父子は中の海に面した揖屋に出た。ここで義隆は義房と別れ、陸路宍道から石見路により山口へ向かい、義房は海路で帰ることとして船に乗った。ところが、追撃を怖れた多数の将兵が、われ先にと船に乗りこんでくる。このままでは沈んでしまうと舟子らが櫓櫂を振り回し乗船を拒みながら舟を動かした。パニックになった将兵が水のなかまで追って、船の両縁にとりつき乗りこもうとしたからたまらない、船が危うくなってきた。

「エーイ邪魔だ、御屋形さまの御座船に乗ろうとは、失礼千犯!」

 大内家重臣冷泉隆豊が、長刀で舟縁に取りついている将兵の手を切り払った。ところが片舷だけを切り払ったため重心を失い、たちまち横転転覆した。投げ出された義房は甲冑が錘となって、泳ぐこともできず水中深く沈んでいった。公家の一条家から大内義隆の養子となったものの、元来、武略に縁のない育ちであった。舅にうながされて初陣した戦で生涯を終えた、二十歳であった。

 月山富田城正面の八幡山宮ノ尾に布陣していた元就は、大内義隆の本陣が京羅木山から撤退したのを見とどけて、同じ日に陣を撤去し、星上山の峠を越えた。

 元就の陣近くに踏みとどまっていた安芸の小早川、平賀、天野、備後の三吉、石見の福屋、益田の軍が次々と退いていく。

「さあ、退くぞ」

 小笠原長徳は、大内勢本隊が進んだ方向に背を向けて、山佐川沿いに三刀屋に抜け、赤名にでた。尼子軍追撃隊が大内本隊を追うであろうことを推測しての選定だった。

 追撃隊の目は、明らかに大内本隊を狙っているようであった。

 なんといっても地形を知り尽くしている小笠原隊は、たくみに追撃をかわしながら無事に温湯城へ帰還した。

 毛利隊は、追撃隊の執拗な攻撃を受け、将兵が次々と討ち取られていくなか、松江方面へと岩坂道を下った。大雨に全身がぬれねずみとなり急激に体温が失われていく、間隙のない追跡を受けて食べるものも摂れない。雨水で喉をうるおしながら逃げる。討ち取られた仲間には、背をむけ心でわびるしかない。まさに地獄の逃避行となった。

 

 大内義隆は、殿(しんがり)部隊の犠牲的敢闘に助けられて、五月九日(新暦・六月十一日)には宍道にでた。そして二十五日(新暦・六月二十七日)には山口へ無事に帰還した。

 追撃隊の執拗な攻撃を受けながら撤退している毛利元就は、次々と将兵を失い、殿(しんがり)部隊の宿命ともいう凄絶な退却を続けていた。すでに、内藤九郎左衛門、波多野源兵衛、三戸与五郎、井上源左衛門らが討死してしまった。

 五月八日(新暦六月十日)には出雲の古志と神西で続けざまに襲われて多数の戦死者を出した。古志、神西とも尼子十旗の本拠地である。敵国内を敗走するのだから犠牲は膨らむ一方である。

 それでも波根村まで逃げると、豪族の波根弾正忠泰連の保護を受けて禅院満蓮社(長福寺)で休息をとることができた。

 三日の後、敗兵をまとめた元就父子は波根から大森銀山に向い、そこから降露坂を越えようとしたとき、突然、伏兵に襲われた。

 毛利隊は次々に討ち取られていった。

 ついに、元就父子は死を覚悟した。このとき、渡辺太郎左衛門通が、強引に元就の甲冑を貰いうけて身代わりとなった。

 渡辺通は、部下六騎とともに元就父子とは逆方向の湯里・西田郷へ敵を誘いだした。

 これにより、元就父子は九死に一生を得て、大江高山の東をまわり祖式村に逃れることができた。

 元就とともに、殿(しんがり)をつとめた小早川正平は、松江から宍道湖北岸を西に逃れようとしたが、平田・美談で土民の襲撃を受けて全滅した。

 

 五月十四日(新暦六月十六日)、シトシトと音もなく降る雨が温湯城を包み込んでいる。

 小笠原長徳は、室内にこもって長陣の疲れを癒していた。

毛利元就どの主従が、三原村に向っておられるようです」

 あたふたと走りよってきた家士が長徳の顔をのぞきこむような目で窺っている。

― 今なら討ち取れますよ。

 家士の目は訴えている。

「なに、毛利どのか」

「七名ほどです」

「七名だけ…・そうか…・・毛利どのは今回の撤退に殿(しんがり)を務められた」

―二千名の毛利軍団がバラバラになったのか。

 長徳らは、地の利を得て無事に帰ってきた。土地感がない毛利や大内本隊は街道を通らなければならず、あちこちで敵兵の待ち伏せを受けた。

「毛利どのを粗略に扱ってはならない。すぐ、迎えに行く」

 長徳があわてて城門を出て行った。温湯城から三原までは二里(八キロ)弱の道程である。長徳が先頭にたって馬を走らせた。十騎ほどの家臣が慌ててついてくる。

 江川沿いに下って、因原から支流の木谷川縁を北西に上り、狭隘な谷を抜けた。そこが、丸山(四八〇メートル)の裾野に広がる三原である。

 そのとき二町(二百メートル強)ほど前方で、刃を激しく切り結ぶ集団が眼に飛び込んだ。

「毛利右馬頭どのが伏兵に襲われている、すぐ応援に行け!」

 長徳の下知を受けて、八騎の士が馬腹を蹴った。

「小笠原刑部少輔さまです。毛利右馬頭(元就)さまをお迎えに参上!」

 長徳の家臣が疾駆しなが張り上げた声に、闘争中の集団から数十騎の将兵が逃げ去った。

 敵の重囲から開放された元就の側近数騎が走り寄ってきた。長徳一行と対峙する位置に停止して戦闘態勢に入っている。

「小笠原刑部少輔さまでございます、毛利右馬頭(元就)さまをお迎えに参上しました。」

「ありがとうござります。しばらくお待ちください。」

 元就の家臣ひとりが後方へ馬を走らせた。残りの武士は戦闘態勢を崩さない。

 やがて現れた元就一行を見て、長徳は呆然としていた。元就を含めて七騎しかいないのだ。 

長徳が下馬した。家士らも馬から飛び下りて後方で叩頭した。

 

 甲冑を着けていない平服姿の長徳が下馬して出迎えた。長徳に敵意がないことを理解した元就が破顔した。

「毛利どの、難儀なことでござりましたでしょう」

「あちこちで伏兵に襲われこのざまです。…・助かりました小笠原どの」

「退却となると、土民までもが襲撃してくる。情けないことです」

「…・たしか…・本城の兵だと言っておりました。さきまわりして隠れていたのでしょう」

「私どもは、毛利どのが殿(しんがり)を固めてくださったおかげで、心安く引き退くことができました。・・さあ、今宵は我のもとで、ごゆるりとご休息してください。ご家来衆もおって集まってこられるでしょうほどに」

 長徳は、元就一行が持っていた旗を借り受けて篝火の横に立てた。

「ありがたいことでござります」

 小笠原長徳の案内で元就主従が温湯城に入った。

 その夜、長徳の気づかいは、徹底したものであった。武器を携行したままの元就一行を客殿に案内して、ひとまず湯漬をだし、その間に、食事を調えた。

「今宵は、心おきなくお休みください。吉田へは、毛利どのがご無事であることの、お知らせを走らせました。」

「ありがとうございます。」

「お疲れでしょうが、今宵は、いろいろと話したきこともありますゆえ、同室させていただきます、よろしゅうございますか。」

 長徳父子が元就一行のなかに入った。

 長徳には元就への敵愾心がないということの証として、長徳自らが人質となったのだ。長徳父子が元就一行の手の内にある間は、誰も手だしできない。

 四人は、枕を並べて寝床に入った。

「その方らも今宵は、寝てもいいぞ。」

 元就が、長徳の心遣いに答えるように、隣の部屋で控えている家来衆に言った。『不寝番の必要がない』ということを伝えたのだ。

「それにしても、吉川らには参りました」

 あお向けに寝て暗い天井に視点を置きながら、元就が独り言のように呟いた。大内を裏切った十三人衆のひとり吉川興経は、元就の妻の甥である。天文九年の郡山城合戦では、尼子麾下として元就を攻めていながら元就のとりなしで大内方についたばかりである。それを、またしても裏切って尼子についた。そのために大内遠征軍は富田城攻めから撤退しなければならなくなった。大内義隆は退却に最も困難な殿(しんがり)を元就に命じた。そして、元就は、命からがら逃げ延びてきたのである。

 元就の口からは、大きなため息がでるばかりである。長徳も、慰めることばもなくただ黙っているだけであった。

 翌日、元就らは客殿からでてこなかった。一日中、室内で休養し体力の回復に努めた。

「申し上げます」

 廊下に長徳の側近が平伏している。戸を開け放した座敷に飛び込んだ日の光りには、たそがれの赤みがでていた。

「帰ったか」

 長徳が小さな声で聞いた。

「はい、毛利さまご家来衆の加勢に福冨七郎左衛門が福光下村の釜野地区を通って海岸寄りの路を温泉津めざして急ぎました。…が…今一歩のところで間に合わず…ご家来衆七名、温泉津小浜から福光への峠にかかったばかりの坂で、壮絶なご最後を遂げられているのを、見つけましてござります。すでに御首は敵に渡ったようでございます。…・残念でござります。亡くなられた方々は、温泉津の海蔵寺にお連れいたしました。」

 兜と鎧の鳩尾板が一枚、二人の前に差し出された。

 鎌倉から室町時代の大鎧とよばれる甲冑には肩から脇にかけての防禦を目的とした細長い板がついていた。これは、鳩の尾に似ていることから鳩尾板とよばれていた。

戦国時代末期になると、大鎧は重く、動きにくいことから、軽量化した当世具足が主流となり、これには鳩尾板はついていなかった。ただ、威厳を重んじる大将クラスの武将は依然として大鎧を着用していた。

「このものが、渡辺太郎左衛門です。それがしの甲冑を着て身代りとなり…・死んでくれました。数多(あまた)の勇士を失いました」

 兜を取って、声を押し殺すように忍び泣く元就に、長徳は慰めのことばもなくただ頭をたれている。

 降露坂で、敵の伏兵に襲われた元就主従が大江坂七曲まで追いつめられたとき、元就の甲冑と乗馬を貰いうけて身代わりとなった渡辺太郎左衛門通と郎党六人が、元就らが逃げて行く矢滝路とは反対の湯里方面へ敵をおびき寄せた。彼らは、温泉津まで逃げたが、ついに追いつかれて全員が壮絶な討死を遂げた。

 現在、この坂には、七人の武者を供養する地蔵菩薩が祀られており、七騎坂という地名が残っている。

 

 翌日から、毛利隊将兵が疲れ果てた姿で少しずつ集まってきた。

 長徳、長雄父子は、館を開放して毛利軍将兵を優遇し体力回復に務めた。

 三日後、元就ら一行は吉田へ向かった。長徳は三百人の小笠原隊将兵を護衛として元就に付けた。

 小笠原隊は白帷子、肩衣、化粧袴、籠手、喉輪に鉢巻を着けた小具足という軍装である。合戦の重装備では元就一行にはばかりがあると長徳が指示したものである。  

 元就のすぐ横には小袖姿の長徳、長雄父子が付き添っている。

 長徳、長雄父子と元就一行は、石、芸の国境で別れた。

「此度のお気づかい、終世忘れるものではございません」

 元就は、長徳の手をとって押し抱かんばかりに礼を言った。

 長徳は肩を落として悄然と遠ざかっていく馬上の元就を、いつまでも立ちつくして見送っていた。吉田まで随従する小笠原将兵と、長徳が贈った兵糧米を背に振り分けた馬列が一行の最後部をついて行く。

 元就は、しばらく進むと馬から下りて、長徳父子を振り返った。そして、深々と腰を曲げ頭をさげた。長徳も最敬礼している。

 やがて元就一行は山陰に曲がっていった。

「良い御仁だ、生涯にわたって交誼を続けたい方だ。」

 長徳が呟いた。

 

 小笠原長徳は、大内義隆から出雲攻めの戦功により大家、三方、下都治、湯里、佐摩、白坏、井原等の加俸を受けたが、そのうち井原は数代にわたって小笠原家に反抗をしていた。

 長徳はこれを攻め、井原長門守、井原丹後守、井原孫三郎らは降参した。

 他方、尼子へ帰服した吉川、三沢、三刀屋、宮、杉原、本城らも尼子晴久から馬太刀等 種々の引出物を贈られ慇懃に礼謝をうけた。

 

四代・福冨七郎左衛門尉藤原明尊

 天文十年(一五四一)正月十六日深夜、

「おーい帰ってきたぞ」

 ドンドンドンと大きな足音をたてて廊下を歩いてくる。

―あら、お帰りだ。あいかわらず賑やかな相安さまだこと。

 由貴は、ホッと笑みを浮かべて目を覚ました。

 急いで夜具からでて着物を手にした。もうすぐ、相安がガラッと襖を開けて入って来る。

「……、どうしたのかしら相安さま」

 いつまでたっても、姿を現わさない。

「山下忠左衛門さまがお帰りでございます」 

 城門からの伝令が走りながら主殿に入ってきた。

 由貴の顔から血の気が退いた。

 

 城内のざわめきで明尊が目を覚ました。

 母の部屋には、すでに灯火が点いている。

 寝しずまっていた四ッ地蔵城の城内が争がしくなった。廊下を軋ませ、あわただしく行き来している。

「なにごとか」

 明尊が広間に入ると、ムッとする血の濃臭が充満していた。

 戎衣のうえに毛皮の袖なしを着ただけの山下忠左衛門が、憔悴しきった体で正座している。

「殿が身罷られた」

 重苦しく沈んだ声で忠左衛門が話しはじめた。

「去る十三日、大内勢との激戦に及びましてござります。小笠原の御屋形さまが先鋒となって突入したのでございます。敵味方五万が渡り合い、殿は、勇ましく戦っておられたのでございますが、混戦のなかで至近距離から放した敵の矢を右目に受け、絶命されたのでございます。なにぶんにも、至近距離から射られたものでしたので手当てをする間も無く…膳兵衛どのが殿の御首を敵に渡してはならぬと、己の手で御首を切り離して、それがしに戦場離脱を命じたのでございます」

「膳兵衛どのは、どうした」

「おそらく、御首は敵の手に渡ったものと思われます」

「忠左衛門どの、よくぞ殿をお連れくださった。…さぞかし難儀な退却でしたでしょう」 

 母の由貴が、毅然とした態度で、忠左衛門が差し出した包みから相安の頭を抱き上げて三方の上に載せた。髪を整えて顔を拭いている。

「ごくろうさまでございました」

 ながい沈黙の後、静かに語りかける由貴の横顔が、ジジジとかすかな音を出しながら燃える灯火に揺られている。

「明尊、父上にお別れを」

 相安の右目は、抉れ、肉が飛び出していた。

―これが、討死か。

 明尊は両手を合わせながら意外に冷静な自分をみつめていた。

 留守を守って出陣しなかった家臣らがドドッと集まってきて、声を限りに泣いている。

「忠左衛門、甲冑はどうした」

 重臣山下理右衛門が、息・忠左衛門の姿を咎めた。

「それがしは、戦場を離脱いたしましてござります」

 その一言で、忠左衛門が、戦場離脱の汚名を一身に受ける覚悟であることを、理右衛門は悟った。

「………そうか、己の身ひとつをも、危うい退却であったようだな。その姿になってまでも、殿をお連れしたこと、よくやった」

「殿もほんに心やすらかにお眠りでございましょう」

 母の由貴が改めて礼を言った。

 出征中の戦死は亡骸の無いままに葬られるのが常である。棺桶に入れる白木の位牌が亡骸のすべてである。忠左衛門が相安の首級を持ち帰ったことは由貴にとっても、このうえなくありがたいことであった。

「忠左衛門殿、あなたは死んではなりませんよ。生きて、明尊をりっぱな武将に育て上げてください」

「忠左衛門、お方さまのおこころざし無駄にすまいぞ」

「……・・」

「死ぬほうがそちには楽であろうが…・・己を捨て、生きてお家をお護りすることこそ忠も義もなりたつというものよ」

 忠左衛門は、頭を畳に落して慟哭しているだけであった。

 忠左衛門が戦場を離脱したのは十三日の昼ごろであったが、その夜には尼子軍が総崩れとなって逃げ帰った。このことは、忠左衛門の退却を容易にし、さらには、敵前逃亡の汚名も受けずに済んだのだ。

「おそらく殿は、ご自分が死亡したとは思っておられないでしょう。あまりに突然でしたので」

「そうか、殿は苦しむこともなかったということか」

 それで、儂の気も安らぐというものだ。と理右衛門が大きなため息をついた。

 数日後になって分かったことだが、尼子下野守や小笠原長晴の御首さえも敵の手に渡ってしまったということが判明した。

 小笠原家中で、「主の首を持ち帰った忠の者」として山下忠左衛門の名があがった。

 

 数日後から江川下流に、おびただしい将兵の骸が漂着しだした。溺死であった。周辺の住民は、一体づつ川岸に埋葬した。この時代、戦で死亡した場合、その死した場所に埋葬していたのである。

 

 

 山里にも遅い春が来た。

 御屋形(小笠原長隆)は、帰城してから病気で臥せることが多くなった。高齢を推しての出陣が体にこたえたようである。それにも増して、次男長晴が討死したことが、御屋形の生気を失わさせていた。

 天文十年(一五四一)四月、小笠原長隆の嫡男・長徳が家督を継ぎ、小笠原家第十二代当主となった。

 同年五月、明尊のもとへ小笠原長徳からの呼び出し状が届けられた。それには、『山下忠左衛門を同道せよ』との記述があった。御屋形が陪臣を引見することは通常ではありえない、まったく異例のことだ。

 山下忠左衛門は、戦場離脱を追及されるのではないかと思わざるをえない。万が一、そのようなことになれば己の命を捨てても明尊に累が及ぶことを防がなければなければならない。悲壮な決意で御屋形(長徳)に拝謁した。

「七郎左、そちの親父どのは武辺者であったぞ、大内、尼子の取り合い(郡山城の戦い)での武功は儂がみておる。七右衛門が身を盾として戦ってくれたことは終世忘れぬ。

 山下忠左衛門、あの凄惨な逃避行のなかで、よくぞ七右衛門を連れ帰ったものだ。その快挙、そちの名に恥じぬ忠であるぞ。七郎左衛門は幼少ゆえ、そちは、育ての親となって、りっぱな武将に育て上げてくれよ」

 小笠原長徳も弟を失っている。そのことはおくびにもださず家臣の行く末に心を配ってくれるこころ優しい言葉に、忠左衛門は平伏したまま肩を大きく揺らして嗚咽した。

「七郎左、武功をあせるでないぞ、じっくりと体をつくれ」

 御屋形の言葉は、どこまでも優しかった。

 吉田郡山城攻めで福冨党は、壊滅に近い損害をだした。

 福冨七郎左衛門尉明尊にとって福冨党の再編が喫緊の課題となった。

 

 そんなある日、一刀斎流剣師山田重兵衛という人物が四ッ地蔵城を訪れてきた。

 わずか八歳で、四ッ地蔵城を継ぐこととなった明尊のため、御屋形の小笠原長徳が派遣してくれたものである。

 一刀斎流とは一刀流の始祖といわれる伊藤一刀斎にはじまる。

伊藤一刀斎は、生涯にわたって廻国修業を続け、行く先々で望む者を惜しみなく教導してきた。山田重兵衛も一刀斎の弟子として永いあいだ修業を続けてきた一人である。

 山田重兵衛のことを忠左衛門は、戦場での働きは驚愕すべきものがある。剣の遣いには他人を寄せ付けない強さがあった。まるで蝶が舞っているような軽やかさであったと口癖のように言う。山田重兵衛は、御屋形の馬廻役であった。吉田攻めで御屋形が敵の重囲に陥り、死を覚悟したとき、父・相安に助けられたということである。

 重兵衛が話す。

 あのとき、先陣として敵の大軍と渡り合っていた。後方から進んできた味方と前面の敵との真っ只中にのみ込まれてしまい、もはや組織的な戦闘はできなくなっていた。それぞれが、バラバラになって、ただ、やにくもに目の前に現れた敵と斬り結ぶという状態であった。

そんな中で御屋形が敵の重囲に陥った。なにしろ大将首が目の前にいるのだから、敵にとっては、千載一隅の好機だ。重兵衛は、御屋形に群る敵兵を蹴散らすのが手一杯となっていた。御屋形を脱出させなければならない、と気はあせるのだが、如何せん敵は次ぎから次ぎと襲ってくる。己一人の身であるならば切り抜ける力はある。だが、御屋形を護り抜かねばならない。重兵衛は、死を覚悟した。そのとき、福冨七右衛門が突入してきた。「早く、御屋形さまを」七右衛門は、己の首を楯にして御屋形を脱出させようとしていた。

 重兵衛は、御屋形の安全を確保するのが使命である。七右衛門に後を託して脱出した。

「あのとき、儂は死んだ。七右衛門どのが己の身を犠牲にして助けてくれた」

父七右衛門の位牌を前に長い間、瞑目していた重兵衛が位牌に語りかけた。

「七右衛門どの、りっぱな最後でござった。御屋形さまも貴殿を残したこと、一生の悔いだと嘆いておられる。福冨家の行く末、なんの懸念もござらん、御子息がりっぱな跡取りとなるよう御屋形さまとともに見守ろう」

 

 重兵衛が、明尊の四ッ地蔵城の客将となった。

 同じ頃、母の由貴は、御屋形の奥方美代の方から書状を受取った。その内容は、重兵衛を派遣するにいたった理由を、懇切丁寧に記されたものであった。重兵衛派遣について、表向きは、明尊の武術指南であるが、幼くして家督を相続した明尊のため、立派な武将として大成するまでの間、家中、領内の平穏を保つ使命をもっていること、重兵衛は、己の分をわきまえた人物である。けっして福冨家中を落し入れるようなことをすることはない。しっかりと明尊を補佐し、立派な武将に育て上げてくれるでしょう。というものであった。「心易く明尊の成長を見守ってほしい」とまことにもって慈愛に満ちた文面で締めくくられていた。

 

「皆伝は受けていない。だから自己流だよ」

 重兵衛は冗談まじりに茶化していたが、一刀斎流の秘伝は師を殺すことによって伝授されるといわれている。後年の話になるが、一刀斎は、高弟の小野次郎右衛門に秘伝を伝譲した。このとき、次郎右衛門は、その秘術をもって、師一刀斎を殺した。我も人も仮借ない絶対否定の立場に立つのが一刀斎流である。

 一刀斎流は、非情残酷な剣である。己に向って来る殺意を察知するや無意識に払うことを太刀名目とする。向って来る相手が誰なのかはいっさい詮索しない。殺意を払い除くのである。これを夢相剣という。斬るのではなく、払い捨てるところに極意がある。

あくまでも真剣の修羅場で勝つことをめざした兵法なのだ。

 庭に、二本の竹が用意された。

「これを袈裟斬りにするなら誰でもできるでしょう。真横から輪切りにしなさい」

 直径半寸にもなっていない矢竹である。明尊が渾身の力をこめて横に払った。

 竹は刀身を受けたところから折れ曲がった。が、切れなかった。

 直径三寸(約九センチメートル)もある孟宗竹が用意された。

「つぎは、これを切って見なさい」

 重兵衛にうながされた明尊が、「エイッ!」と気合をいれて太刀をふるった。

 カーンと渇いた音がして太刀は刎ね返された。両手にしびれが走った。

 孟宗竹には、かすり傷ほどの痕がついているだけだった。

「気合いを発するということは、剣術のすべてですが、おおげさな声をださなくてもいいのです」

 重兵衛が笑いながら孟宗竹を前にした。

「では、それがしがやりましょう」

 刀に手もかけてない、ただ、ダランと下している。

 突然、裂ぱくの気合が、大気を切り裂いた。

 切り刻まれた大気がもとの静寂を取り戻したとき、孟宗竹が真横に輪切りになってい竹肉をさらしていた。

「まるで筍を切ったようだ」

 明尊のつぶやきに、

「筍ならそれがしでも斬れます」

 忠左衛門が笑い出した。

 明尊には、刀身の動きさえ見えなかった。風が動くのを感じただけであった。

「これが、一刀斎流払捨刀の剣技です。斬るのではなく払うのです。敵の打ち込みを払って払って払いまくりながら、敵を少しずつ傷つけていく、対手を間合いの内に引き込み、先を取り、斬る。ここに極意があります。今、切ったのは一本だけですが、連続して何本でも切れるようになることが要求されます。殿が、会得するまでには何年もかかるでありましょう。人間は、十五歳にしてやっと一人前の身体になります。そのときに武芸者として完成するよう鍛えるべきです。今、侍の子として、なにより大切なことは足腰を強くすることです」

 毎朝、剣師山田重兵衛と武術の訓練が始まった。

 それは、訓練というよりしごきに近いものであった。雨の日も雪の日も休むことなく続けられている。だが、明尊は厳しさのなかにもやさしい目で見つめる重兵衛をみいだしていた。身は歯をくいしばって耐えているが、心は充実していた。

「戦は晴れの日ばかりとは限りません。大雨のなか濡れ鼠になって戦うことだってあるのです」

 重兵衛の口癖だった。

 一日は払暁の室神山不動尊詣でから始まる。

 明尊は必死に走って重兵衛の後を追った。それでも明尊には、重兵衛が歩いているようにしか見えなかった。

 頂上にたどりついたとき、明尊は、へとへとに疲れ、喉はカラカラに渇いていた。腰にぶら下げていた竹筒の栓を取るのももどかしく一気に水を飲み干した。

「まだ先のことですが」

 前置きのあと、

「二昼夜、休みなく上り下りを繰りかえす訓練も行ないます。食べるのも飲むのも歩きながら摂ります」

 重兵衛は平然としていた。

 

 城にたどり着いた明尊に課せられたものは、木刀による素振りである。木刀は、堅樫の木を削ったものであり、真剣よりはるかに重かった。腹に力を込めて、一回ごとに気を発しながら振り払う。といっても、明尊はただ声をだして素振りをしているにすぎないのだが…

「対手(あいて)を斬るのは、刀の切れだけではない、力いっぱい刀を振り回しても斬れるものではない、気で斬るのだ。気と刀が一体となったときに初めて無限の力となって対手を斬る」

「気とは、なんぞや、今は分からなくてもいい。ひと振りごとに対手(あいて)を斬るという気迫をもって素振りをしておれば、おのずと開眼するものです」

重兵衛は、理論化、体系化された刀術を、明尊に口伝により植え込んでいった。

 一方では、明尊の身体をつくることに心血をそそいだ。

「三百回振りました」

「五百回振りました」

 呼吸を弾ませながら、師・重兵衛に報告する日がつづいた。師は、笑顔を返しただけであった。

「まだ、まだ」師の目が言っていた。

 

 明尊は、父の相安が討死したため急遽跡目を継ぎ、戦場にでることとなった。それゆえに、戦乱の世で身を守るのは自らの力しかないということを知った。

 山田重兵衛の教導を、必死の覚悟で受け止める気迫は衰えることがなかった。

 

 いつもは静かな山村に、不気味な海鳴りが殷殷と轟いている。誰にも経験のない現象に村人は不安に陥っていた。

 村に何かの異変が近づきつつある危機感をもっても、それが何であるのかが判らない。

 重兵衛が、「海を見て来る」と言って海岸へ出た。

「海は真っ白だった」

 重兵衛が言った。荒れているのだ。

「嵐がくるかもしれないな」

 明尊は不安になった。

 その夜、それは、突然やって来た。

 生暖かい風がサーッと吹き抜け、たちまち暴風となった。強烈な風は山の木々を唸らせ、家をきしませ通り過ぎていく。今にも壊れるのではないかと思うほど家が揺れた。

 一晩中吹き荒れた暴風も夜明けとともに静かになり、朝日が昇ってきた。青空が広がっている。

 城は、屋根の一部が剥ぎ取られて無残な姿をさらしていたが、被害としては大したこともなかった。

「夕べはひどかったですなー」

 重兵衛が言いながら、二人は、朝一番の日課となっている室神山頂上の不動尊詣でに出発した。

 田んぼの稲は、刈り取りを前にして、ことごとくが根元から倒れている。風は、南から襲ってきたらしく、稲はすべてが北向きに倒れていた。幸いにも雨が降らなかったので水害に襲われることも無く収穫に影響はなさそうだ。

「ひとまず安心だ」

 だが、倒れてしまった稲穂が地についている。このまま放っておけば実から芽がでてしまうので、村人が総勢で、稲の刈り取りをはじめていた。

 倒れてしまった茎を起こしながら根元から刈っていかなければならない。

「大変ですなー」

 重兵衛が野良仕事の農民に気安く、声をかけながら歩いている。

 ふと、立ち止まって明尊をふりかえった。

「われわれもこの稲と変わりありませんなー・・・・」

「そうですの、数万の大軍が石見を通過したら、石見の豪族はことごとく頭を垂れて隋従する。しなければ潰される。」

「そうですなー、これら稲のように、すべてが大風の行く方向に倒れる。情けないがどうしようもない」

「昨日の敵が今日は味方、今日の味方が明日は敵、武士とは浅ましいものよ」

とはいえ、石見諸将の行動について節操がないとは思わない、黙って嵐が通り過ぎるのを待つ。これも乱世を生き延びる術なのだ。

 

 

 戦国乱世に突入した当時の石見には、力の拮抗した豪族らが小競り合いを繰り返しながらも、姻戚関係を網の目のように広げ平衡を保っていた。

それが、崩れようとしている