福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

甲山宿

 峠を下り、谷間を抜けると広い盆地にでた、甲山宿だ。鎌倉時代以来の高野山領大田荘である。盆地の中を東西に流れる芦田川を隔てた対岸の山に、大田荘経営の中心寺院として真言宗龍華寺が建立されていた。山には、龍華寺を中心として観音堂、御影堂等が設けられ福智院、安楽院等十二院があるという。さらに、これらの安全を確保するための城砦が要所に配置されていた。

 木々の間に広がる白壁の塀と甍が続いている。思わず鶴姫が歓声をあげたほど、一段とよい眺めだった。

 芦田川沿いに軒を連ねる十軒ほどの宿屋は、福山宿のような客引きの喧騒もなく静かであった。

 忠智らは、街の入り口から宿の中を窺うように歩いた。声をかけられることを期待してのことだったが、玄関は開け放してあるものの人影はみえない、どうしたものかと迷っていると、道に打ち水をしている女がいた。

「泊めてもらってもいいかの」

 客引きがいないのも拍子抜けすると思いながら遠慮がちに聞いた。

「どうぞ」

 愛想のない返事だった、打ち水をする手を止めようともしない。

 玄関を入ると上り框の前に、足の洗い桶が二つ置いてあった。勝手に洗えということだろう、と二人は、框に腰掛けて、わが足を洗い出した。さて足拭きはどこにあるのかと、周辺をみまわしたがなにもない、「さて、困ったぞ」と言おうとしたとき、

「いらっしゃいませ」

奥から女中が足拭きを持ってでてきた。きれいに洗濯された気持ちのいい布巾だった。

「どうぞ、こちらへ」

 女中は、トントントンと軽やかに階段を上っていった。

通されたのは、一番奥の部屋だった。

「相部屋になるかの」

「いえ、泊まりのお客さまは少ないです。お二人だけで遠慮なく使っていただいて結構です」

「それは、ありがたい」

忠智が心づけを女中に握らせた。

「あら、こんなに」

 女中の目が輝いた。右手に握った小銭の感触を楽しむように手のひらを、もぞもぞと動かしていた。

「宿は、がらがらに空いているということか」

「夜には、前の山からたくさんの方が下りてこられます」

 龍華寺の坊さんや僧兵が酒を飲みに来る、と女中が説明した。

「川の向こうは、戒律の厳しい聖域ですから女人禁制ですが、こちら側は下界です。何をするのも自由…」

 その言葉には、女と遊ぶ楽しみがあるということを含んでいるらしいのだが、娘同伴の忠智には、あえて何も言わなかった。『何をするのも自由』と言ったとき、ぞくっとするほど艶めいた視線で忠智を見つめた。が、それは一瞬のことだった。視線を外して、ちらっと鶴姫を見た。

 だから、いちばん奥の静かな部屋に案内したということだろう。そういえば、まだ七つ刻(午後四時)だ。尾道を明の六つ刻(午前六時)に発ったが、行程は八里しかなく、街道は整備されていた。宿では一番乗りだった。健脚な旅人は次の吉舎宿まで足をのばしたのだろう。吉舎宿までは二里ほどだ。

「僧兵といえば、荒っぽくて始末が悪いと聞いている」

「そんなことはありません、静かに話しながら飲んでいらっしゃいます。他のお客さんと諍いなど起こすような方は、居られません」

「それなら安心だ」

 なるほど、この宿場は龍華寺の坊さんや僧兵でもっている。だから、競って客引などする必要が無いのかと納得した、大げさな歓迎表現もいらないはずだ。

「父上、僧兵は、そんなに怖いのでしょうか」

 女中がいなくなるのを待って姫が聞いた。

「武力が怖いというのではない、僧兵といえども坊さんなのだ、仏に仕える身の者を斬るということができないから困るのだ」

「でも、万が一、襲ってきたら」

「そのときは、斬るしかないだろう、おのれの身は地獄に堕ちることを覚悟して…いちばん良いのは逃げる事だな」

「でも、ここの僧兵は、おとなしいと言っていました」

「そう、そう願おう」

 さきほど部屋から出て行った女中がすぐに引き返してきた。

「よろしかったらどうぞ」

 小さなカゴに焼き栗がはいっていた。さきほど渡した心づけに対する返礼のつもりだろう。

「お、栗か、今年の初物だ」

 忠智が愛想よく受け取った。

「おまたせしました、夕餉にしましょうか」

 大皿を両手に一枚ずつ持った女中が、一尺立方ほどもあろうかと思われる石の火鉢を持った男を従えて入ってきた。火鉢には、かんかんに熾きた炭が入っている。

大皿には、ヤマメや手長えびが整然と並べてある。一方の皿には野菜がっていた。

「お、松茸だ」

 忠智と姫が声をあげた。

「この辺りは松茸の産地ですから」

「もう、そんな季節になったということか」

「例年ですとまだ、松茸は出ないのですが、今年は、もう出ているんです。今晩はおもいっきり食べていただきます。焼き松茸、松茸ごはん、松茸の吸物、いろいろでますよ」

「それは楽しみだ」

「お飲み物を、お持ちします」

「酒はあまり強くないので一本でいい」

女中が、火鉢の上に置いた金網に、松茸を並べてから立ち上がった、軽快な足音が階段を下りていった。

 

 日暮れを待っていたかのように、前方の山で松明が動きはじめた。木々の葉に見え隠れしながら、湧くようにでてくる。お坊さんや僧兵が山を下りてくるのだ。鶴姫が、まるで蟻の行列のようだと言った。まったく、そのとおりだった。

「きつねのお嫁入りも、あんなのでしょうね、きっと」

「そうだの」

「お風呂をどうぞ」

 女中が、今は空いてますと言った。

「あの山から下りてくるのは、お坊さんらか」

「そうです、でも、あの方たちは、旅篭の風呂には入りません」

「それは、どうしてかの」

「川向うの山の下に温泉が湧いているのですよ。お寺の敷地内にありますから、お寺の方しか入浴できませんが」

「温泉か、それは、豪勢な」

「こちらの旅篭でも温泉を分けていただいているのですよ。ほら、あそこ、幅の狭い橋が川を渡っているでしょ」

 女中の指差す先の橋からは湯気が盛んに上がっていた。もう、薄暗くてはっきりとは見えないが、木の樋が渡してあるようだった。姫が、出窓から身を乗り出して見ている。

 暮れなずむ空を押しやるように、キラキラと輝く星が一つ浮かんでいた。

ねぐらへ帰るカラスが次々と飛んでいく、いちように同じ方向に向かっていた。

「大きな風呂ですから、いちどに入れますよ」

 女中に追いたてられるように、ふたりは風呂場に向かった。

 雲の隙間を月が走り去った。するどく尖った三日月だった。

 近くの草むらで、「リ、リ、リ」と秋虫が鳴いていた。

 さきほどまでの閑散とした旅篭にも人が増え、活気がでていた。

 

 

 翌朝、ふたりは明けの七ッ半(午前五時)に宿を出た。

 今日は、三次までの十里(四十キロ)を歩く決心をしていた。だが、姫の足具合によっては四里(十六キロ)手前の宿場で泊まることになるのだが、とにかく行けるところまで行こうと思っていた。通常、一日十里というのが、旅人の歩く距離だった。そのため、朝は七つ(四時)発ちがならいとなっている。忠智らが外に出たときには、すでに人影はなかった。

 陽が中天を過ぎたころ、吉舎宿を通過した。三次宿まではあと一息だ。

「お鶴の足も強くなったものだ、歩くのが早くなった」

「そお、父上にも負けませんよ。ほら」

 両手を腰の後ろで組んだ鶴姫が、ことさらに胸を張って忠智の前を歩いた。

 

 峠から、木々の間に見え隠れしていた大河が、急に、目の前に広がった。

 江川(ごうがわ)の支流・馬洗川である、三次まではあと残りわずかだ。

「やっと帰ってきた」

 独り言を呟く忠智の横で、鶴姫が立ち止まった。

「川……・」

 鶴姫が佇んでいる。涙が赤く日に焼けた頬を伝わっていた。

 阿波の両親を思い出したのであろう、急に湧き立った寂寥感にさいなまれている姿である。

 忠智は、かける言葉を持っていなかった。忠智の胸が絞めつけられる。

 バシャバシャと派手な音をたてて、忠智が川に入った。水は、膝ほどまでしかない。

 真夏を思いださせるような暑い太陽に熱せられ、疲れきっていた身体が冷たい水を得て生き返るようだ。

 川一面に転がっている一尺ほどの丸い石のひとつに、近づいて両手を水の中に入れた。

「ほれ」

 忠智が、岸辺に立っている姫の足元に放り投げた。一匹のあゆが跳ねていた。

「あゆ」

 鶴姫が、すっとんきょうな声をあげた。

「お鶴、ここら辺りでは、こうしてあゆを捕るのだ。普段は、夜の漁だが、昼でもとれるぞ、お鶴もやってみなさい」

 忠智の声が終るまでに、鶴姫が水のなかに入っていた。足袋と草鞋を履いたままである。足袋は、冬の防寒用であるが、生まれながらにして姫さまとして育った鶴姫は、草鞋をはいたことなど一度もない。城を脱出するとき、やえが足の保護用にと、足袋を履かせていた。川之江の京都屋では予備の新しい足袋を持たせてくれた。おかげで、足にマメをつくることもなく、長距離を歩くことができたのだった。

「気持ちいい」

 鶴姫が水の中を走っている。

 忠智のやりかたを見て、石の下に手を侵入させた。

「お、手に、ぬるっとしたものが当った」

 鶴姫が元気な声をだした。

「ほれ」

 忠智の口真似をして、あゆを岸に放り投げた。

「お、うまいうまい。その調子だ」

 鶴姫の着物は、膝から下が水に浸かっている。

 そんなことは無頓着に、はしゃいでいる鶴姫を見て、忠智も苦渋から解放される思いだった。

 河原で火をたいて、串刺しのあゆを遠火で焼く。こってりと振りかけた塩が徐々に白く浮かび上がってきた。

「父上、塩は、いつも持ち歩いているのですか」

 煙から逃れようと顔を横にそむけ、目を手でこすっている。それでも煙は容赦無く姫の顔を襲った。我慢しきれなくなった姫が、跳ねるように立ち上がって風上に逃れた。

「人間は、塩がなくては生きることができないのです、だから、戦で遠征するときは必ず塩を持って行きます。塩は、それがしの城のある浅利の浜でも造っています。海水を煮詰めて水分を飛ばしてできた塩を、さらに素焼きの壷に入れて蒸し焼きにした塩・焼き塩を造ります。こうすれば吸湿性の少ない焼き塩になります。城にも、塩倉を造って保存しています。塩があれば、木の根でも野草でも食うことができる、だから、大切なものです塩は」

「ふーん」

 納得した姫が「あちち…」と声をあげながら、焼けた鮎にかぶりついた。

 焚き火で熱せられた灰のなかに放り込んでいた栗が「プシュッ」という音をあげて跳びはねた。さきほどの峠道に落ちていたものを拾っていたのだ。表皮の裂け目から剥いて、黄色くなった実を口に入れた。なんとも甘い栗だった。

「この川は、江川(ごうのがわ)という中国地方で一番大きな川と合流します。江川のことを他国の人は「石見川」と呼んでいるようです。温湯城へは、江川を船で下るのが楽で早いのですが、途中、佐波(さわ)氏の領内を通らねばなりません、小笠原さまと佐波氏とは、これまで幾度も領境争いを繰り返しています。危険を避けるためにも、儂らは、佐波領内を避けて下口羽の湊で降ります、舟で半日ほどです。今宵は、ここ三次に宿泊しましょう」

「佐波氏とは、そんなに争っているのですか」

「執念深くやって来ます。ちょっかいをかけて来るのは、いつも佐波勢で、追い返すのが小笠原勢です」

「そんなに強いのですか小笠原の軍勢は」

「周辺では、小笠原軍団に敵う者はいますまい。佐波勢なんか余裕をもって追い返します。さあ、行きましょう」

 焚き火に両手ですくった水をかけた。ジュンと派手な音をたて灰が舞いあがった。

「父上、父上は、どうしてそんなに強いのですか、対手(あいて)が何人いても決して負けない剣術はどうして覚えたのですか」

前方を歩いていた鶴姫が、くるっと振り向いて忠智を見つめた。

「小笠原家には、逃げの剣法もあります」

「逃げる」

「そう、逃げるための剣術です。儂が御屋形さまの馬廻組にいたとき修練しました。もっとも、馬廻組だけに義務づけられたものです。戦は時の運といいます。万が一、小笠原軍が敵地で敗退・四散したとき、敵は、大将首を狙って追撃してきます。敵兵ばかりではない、野盗や民百姓まで群がってくる。やつらから、御屋形さまの御身を護り貫かねばなりません。無事、温湯城へお連れしなければなりません。そのための訓練です。訓練では、儂ひとりが逃げ、追っ手は十名以上で追いかけてくる。十日間、逃げおおせば当方の勝。追い詰められて斬られれば、それで訓練も終わりです。もちろん木刀です。山の中を逃げ廻って対手に襲われれば撃退する。食事も摂らなければならないし、睡眠も必要です。敵は、そんな隙を狙って襲ってくる。あれは、きついものです。もちろん、訓練ですから追っ手も小笠原家中から編成します。でも、手練者を集めます。今まで、逃げおおせたのは、儂一人だということです。

 蛇を焼いて食べ、まむしの生き血を吸い、木の実を食べて逃げ廻ります。岩陰でまどろみ、木こり小屋で瞬時の睡眠をとる。それが、修練です。負ければ、馬廻組からも外される。これほどの屈辱はありません。だから、追う者、追われる者、皆が必死です。儂は、逃げおおせた。その間、何回攻撃を受けたのか記憶にありません。最後は、気力の勝負です」

「追っ手は何人ですか」

「それは、知らされません。敵は次から次へと新手を投入してくる。いったい、何人いるのだ。と、叫びたくなる」

「逃げの剣法ですか。だから、父上が強いのだ」

「攻撃するほうが守りより、強いということは明らかなことです。でも、逃げの剣法も必要です」

 鶴姫は、数日前、岩陰で夜営したとき、手際よく食べ物をつくり、寝床を設えてくれた忠智を思い出していた。

「雲霧城を脱出したとき、父上は石見から来たばかりで地理に詳しくないはずなのに、迷うことなく川之江城下に行き着いた。あれは、どうしてですか」

「お鶴は、あまり遠出をすることもなかったが、男は、戦となれば、どんなに遠くても、いかなければならない。こんなとき、一番、気にするのが、今、自分がどこにいるのか、温湯城は、どの方角にあたるのかということだ。方角は、太陽の動きにより定める。夜は、柄杓の形をした星(小熊座)を見ればいい。満点の正座すべてが柄杓星の柄の先端にある星(北極星)を中心として一年に一回転する。今の時期は秋だから、柄杓は西に向いている。春は東、夏は南、冬は北を示す、だから、星を見れば方角がわかる」

「それで、迷わず目的地に着けるのですか殿方は」

 

 その夜、二人は旅人宿に泊まった。ここは『木賃宿』とは違う。すこしばかり上等だ。食事がついて女中が酌もしてくれる。

「姫は、こういうところに泊まることは、もう二度とないでしょう、最後の夜を楽しみましょう」

 鶴姫の耳元でささやいた。

 鶴姫が口を閉じたまま、「うんうん」とうなずいた、いたずらっぽい眼をしていた。えくぼが大きくなった。

 宿の裏は江川だった。出窓の下は、水が深くよどんでいる。

 部屋の出窓から釣り糸を垂らしている客があった。なにが釣れるのかと見ていると、しばらくして釣れた魚は、二寸ほどのゴリ(鯊)だった。

「あれなら、せいぜい猫の餌だ」

 鶴姫が窓際を離れた。大きな鮒でも釣れたなら、自分も釣りたいと言いかねない目つきだった。

 清らかな流れの音が静かな室内をおおっていた。

「どうなさいますか」

 食事を運んできた女中が言った。夜になると、宿の前から観光の屋形船がでるらしかった。

「それで、宿が満員だったのか」

「鮎の夜漁は、めずらしいのですよ。近郷のお客さまも、それが目当てで来られるのです。出雲や大田からもいらっしゃいます」

 その、ほとんどが商人や裕福な百姓だという。

 主持ちの武士には、戦以外で他国へ行くことなどは許されてない。羨ましいかぎりだ。

「でも、もう夏もすぎて水温も下がってきましたので、そろそろ終りでしょう」

「乗りましょ、父上」

「よし、儂らも頼むことにしょう」

 姫に、少しでも庶民の暮らしを体験させてやりたかった。

 鶴姫が、あわてて食事を済まそうとした。

「お嬢さま、そんなにあわてなくても、漁は、日が暮れてからですよ」

 女中が、笑いながら忠智にごはんのお代わりをすすめた。

 辺りが暗くなるのを待って、宿をでると夜空に満点の星が煌いていた。酒の臭いを発散させた男が数人で声高に話しながら舟着場に歩いている。

 道の端に咲く月見草が、夜目にもくっきりと黄色く映えていた。

 三艘の屋形船が待っていた。舟の舳先には、勢いよく燃えている篝火が吊られ、こぼれおちる火の粉が把になって水面に落ちている。

 滝のように流れ落ちる火の粉と煙が、船内の客にかからないよう、船頭が巧みな操船で舳先を風下に向けている。

 夜の冷気を含んだ川風が、ハタハタと耳朶を叩いて通りすぎていく。

 川岸にも、煌々と燃える篝火が並べられ、辺りを昼のように照らし出している。

「きれい」

 鶴姫の気持ちも最高潮となっていた。

 

 下帯ひとつの若者十人ばかりが、交代で水に潜っていた。しばらく水のなかに消えていた若者が水面上に顔をだしたところを、数人の男が松明をかざした。若者は、両手に鮎を一匹ずつ持って、口にも一匹の鮎をくわえていた。

 松明に照らし出された若者の顔を、鮎の尾がぴしぴしとたたいていた。

 屋形船の客から拍手と歓声があがった。したたか、酒に酔った歓声だった。

 捕った鮎は、屋形船に投げ入れられた。船頭が、それらを手際よく調理して客に配った。

 鶴姫も、受けとって食べていた。

 瞳が輝いている。

 水面に姿をうつしている篝火や松明の灯りが川面を走り、幻想的な世界をかもしだしていた。

 忠智も、はなやいだ気持ちに誘われるままに、盃をかさねた。

 夜空に星は見えなかった。

 川岸では、天をも突くばかりの焚き火に、水からあがったばかりの男が暖を取っている。

 もはや水は冷たいのだろう。

「もうすぐ、この漁も終ります」と言った女中の言葉を思い出した。

 

 宿に戻ると、すでに布団が敷いてあった。洗濯がゆきとどいて清潔だ。木賃宿では他人の汗臭さが沁み込んでいる布団に閉口した。

 開け放された窓から川風が流れ込み、蚊帳の裾を揺らしている。室内によどんでいた熱気は退散していた。今夜は気持ち良く寝れそうだ。

 夢うつつのなかで、かすかな吐息が聞こえてきた、妖しい声だ。

 ふすまひとつ隔てた隣の部屋から、もつれあう男女のあえぎ声が密かに聞こえてくる。

―困った、姫に聞こえたら困る。

 鶴姫には、まだ知られたくないことだと思うものの、なんともしようがない、ただ、じっと寝たふりをして、静かになるのを待つしかなかった。

 幸いにも、姫の寝息に乱れはなかった。

 夜半すぎであったろうか、軒を叩く雨音に、目が覚めた。

―雨か、止むまでは動けんな、姫を雨に濡らすほど急ぐこともあるまい

この宿に逗留しようと覚悟を決めた。

 

 翌朝、宿を出るとすっかり日が昇っていた。昨夜の雨は通り雨だったようだ。雨が暑気を追い払ったのか秋風が立っていた。

山や谷から湧き上がる霧が江川の霧と合体し、狭い盆地を覆いつくしていた。

 

 他の客は、暗いうちに出発していた。二人は朝のあわただしさから開放され、静かさを取り戻した街道にでた。軒を連ねる街道は、気が抜けたように閑散としていた。

 船着場には、底の浅い川舟が何艘も舫ってあった。二人の男が叺(かます)を肩に担いで積み込んでいる。

 二人は舟で江川を下った。一艘の舟に二人の船頭が乗り、みごとな操船で急流を下って行った。

 船頭のひとりが船尾で舵をとり、ひとりは舳先(へさき)に立って、長い竹ざおを巧みにあやつった。激流のなかに飛び出る岩場をすれすれの所ですり抜けて行く。

「ひゃー」

 掌を握り締めて発する鶴姫の楽しそうな悲鳴に気をよくしたのか、

「舟なら日本海まで二日で出ることができますだ、ただし、帰りは五日かかります」

 船頭が竹竿を岩に当て舟を離しながら、大きな声で説明していた。

 ガクンと舳先が下がって激流に突入した。

「ひゃー」

 ひとりはしゃぐ鶴姫に、船頭も苦笑している。激流で下手をすれば岩に激突してしまう、これまでも何人もの人が命を落としているのだ。積荷を流してしまえば莫大な損害を蒙ってしまう。船頭にとって激流は、楽しむ場所ではないのだ。とはいえ、急流を巧みに操船して乗り切る爽快感は、船頭だれしも持っていた。声をだしてはしゃぐ娘を見る船頭の心も明るくなる。

 

尾道宿

 その日は、尾道宿に泊まることとした。

 陽も陰り、往来する旅人も、それぞれが宿を物色している。

 軒を連ねる宿屋の女が、声を張り上げ客引きしていた。競争で客を引き込んでいる、まるで喧嘩だ。

「ご浪人さま、どうぞお泊まりになってください」

 女が忠智の袖を引いた。

「浪人か…」

 忠智がおのれの姿をみた。どう贔屓(ひいき)めに見ても浪人者という風体だった。京都屋が仕立ててくれた着物に栽着袴を穿いて菅笠を被っているが、やはり浪人にしか見えないのだろう。それに、供もなく娘を連れて旅することなど、主持ちの身ではありえないことなのだ。

 せめて武士としての矜持(きょうじ)だけは失うまいと思った。

「ここにするか」

 忠智が振り返った目の前で、きょとんと喧騒をみていた鶴姫が客引き女に連れ込まれた。忠智とは別の宿だった。街道に面した『きちん宿』だ。有無を言わさないあざやかさだった。

「しかたないか」

 忠智が、苦笑を残して姫に続いた。娘を引っ張り込まれたら親は否応無しについてくる、さすが手馴れた客引きだ。

 多くの客でごったがえしていたにもかかわらず、忠智らには、個室をあてがってくれた。

 天井の低い小さな室だった。個室がなく、大きな部屋で雑魚寝をするのがきちん宿だった。小さくとも個室をくれたことに忠智は感謝した。鼾や寝息の重なる大部屋では、姫も寝付くことができないだろう。

「なぜ、個室をくれたのでしょうか」

「それは、これでしょう」

 忠智が二人の着物を指差した。

「京都屋が着せてくれた二人の着物は、上等の誂え物だ。庶民が着る古着とは違う。われわれが銭をたくさん持っていると見たのであろうよ」

「そんなところまで見ているのですか」

「女中にとっては、重大なことだ。なにしろ、おのれの懐に入る心づけをたくさんくれる客をつかめば、それだけ身入りがいいということだ。だから、たっぷり握らせた。なんでも銭しだいということだ」

「いつ、渡したのですか」

「家に入った直後だ。誰にも気づかれぬよう、さりげなく渡すのがこつだ。渡す時宜を誤っては逆効果になる。宿の主人に見つかれば取り上げられて女の懐には残らない、そんな野暮なことをするなら渡さないほうがましだ」

 忠智がいたずらっぽく笑った。

 かなり年代の経った建物らしく、梁や柱が黒く煤けていた。

 わずかにそよいでいた風が、ぴたりと止んでいた。

 昼の海風から夜の陸風に代わる狭間だ。むっとする暑い空気が室内によどんでいた。

「驚いた。嫌応なしに連れ込まれた」

 鶴姫は、かなり驚いたようだ。

 鶴姫が出窓に腰掛けて下の街道を見つめている。鶴姫の白い顔が夕日を受けて紅く浮かんだ。

 次ぎ次ぎに入って来る客を案内する女の声が、宿のあちこちでこだましていた。

「さあ、ここは、自炊しなければなりませんよ」

「え、食事はついてないのですか」

「そう、泊まり賃は安いが、部屋は何組もの相部屋、賄いなし、それが『木賃宿』なのです」

 きょとんと突っ立っている鶴姫を連れて、忠智は、宿に備えつきの鍋を借りうけ、野菜と魚のすり身を少々、それに蕎麦粉を買ってきた。

 野菜を、手際良く切り、蕎麦粉のだんごを作って鍋にいれた。

 なにもすることがなく、棒のように突っ立っている鶴姫を、となりの女がいぶかしげに振り返った。鶴姫が女をまねて、竃の火を団扇(うちわ)であおいだ。パーッと灰が飛び散った。

「だめだ、だめだ、お鶴、団扇は優しく振らないと、火も消えてしまう」

忠智が団扇を取り上げて、小さく小刻みに扇(あお)いだ。

「さあ、出来あがったぞ」

 二人が鍋をかかえて部屋にむかった。

「驚いた、でも楽しい。さっきの人、私を見てポカーンと口を開けてた」

 ケラケラと思い出し笑いをした。鶴姫の驚きは消えそうにもない。

 すっかり気に入ったようである。好奇心旺盛な鶴姫にとっては、このうえなく楽しいようだ。

 外は、すっかり暗くなっていた。

 夜空をびっしり覆っている薄雲の奥から、月が輝きを失いながらも輪郭をくっきりと現わした。

 宿の灯が街道を照らし、客引きはあいかわらず続いている。

「さすがは、山陽道ですね、人の往来が多い」

 鶴姫は、あきることなく窓際にすわって外をみつめていた。

 戌の刻(午後八時)をすぎると、宿から人の声が消えた。皆が就寝したようである。

 二人も、部屋の隅に積み重ねてあった夜具を敷き伸べて、それぞれの布団に横たわった。

 二組を並べて敷くと、部屋いっぱいになった。

 姫にとっては、息苦しいほどに狭いはずなのだが、そんなことは、すこしも気にしていないようであった。

「なんや、まだ舟の上にいるみたい、身体がゆらゆらするよう」

 独り言のようにつぶやいた鶴姫のことばも、睡魔に消されたらしく寝息にかわっていた。

 忠智も、静寂のなかで深い眠りについた。

 

 翌日、二人は、尾道から三次への街道に入った。この道は、後に、石見銀山の銀を江戸へ運ぶ『銀山街道』となった道である。道は整備され、人の往来も多かった。ここからは、旅程三日で温湯城に着く。

「さあ、これからは山越えの道ばかりですぞ、石表(石見)へ出るには、幾重も続く厄介な山を越えなければなりません」

 忠智の指差す前方には、薄墨を流したように高い山なみが連なっている。山の背後にもくもくと湧き立つ入道雲が天を圧していた。はるかな山々を越えたむこうに石州がある。

「阿波の山に比べて、あまり高い山はありませんね」

「そう、阿波…・」

 忠智の足が止まった。

 前方の山を見つめている。

 山脈の前面に横たわる低い山の後方から、おびただしい煙が上がっていた。

「火事」

 鶴姫が心配そうにつぶやいた。二人が進む街道は、あの煙の方角へ回っている。

 鳶が、煙の上空で遊弋している。

「いや、山火事ならもっと黒い煙です。あれは、炊煙でしょう。軍勢が炊事をしている、しかも大軍勢だ」

「この街道は、あそこを通っているのでしょうか」

「そのようです」

「大丈夫でしょうか」

「あそこで、戦いが始まらないかぎり、街道を通過することに支障はないと思います…が…合戦に遭遇してしまったらやっかいなことになります」

「戦に巻き込まれたら大変ですね」

「戦は対手がはっきりしているから、街道 を通過する者には、目もくれないでありましょう。とにかく早く通過してしまうことです。炊事をしている今なら通ることもできるでしょう」

 二人は前へ進んだ。

 一町ほど前方で、大きな荷物を背負った商人らしい男が、思案顔で立ち止まっていた。

 街道脇の田んぼで草取りをしていた百姓も、腰をのばして山をみつめている。

「火事でしょうか」

 忠智らが近づくのを待って、商人が不安そうに煙を指差した。

「いや、軍勢が炊事をしているのでしょう」

「どうなさいますか」

 忠智にすがるような目つきで近寄ってきた。

「戦端を開く前に通過してしまえば大丈夫だろう。今なら行けそうだ」

「お武家さまは行かれますか」

 商人は、二人と一緒になって行きたいようだ。しきりに話し掛けてくる。

「一緒に来てもよいぞ、ああいうところは集って通過するに限る」

「ありがとうございます、助かります。急ぎ旅なもんですから…助かります」

 商人がぺこぺこと頭を下げながら、二人のすぐ後を歩き出した。

「戦ですか…・大変なことで…・」

 忠智らと会話をすることで不安を紛らわそうとしているのか、いろいろと話し掛けてくるが、忠智らは押しだまって歩いている。商人もだまって歩き出した。三人が一組だと思わせたいのであろう忠智にぴたりと寄り添っている。

 道をつけるために切り崩した山際を廻ると狭隘な谷間にでた。一面に芒の穂が咲き乱れている。

 数十人の歩卒が、あちらこちらに分散して焚き火をしていた。暖をとるためではない、煙をだす目的のようだ。よもぎをくべて真っ黒な煙をだしている。

「何をしているのでしょうか」

 姫が小さな声で忠智に聞いた。

「あれは、敵に、『こちらの軍勢は多勢だぞ』と見せかけているのだ。敵からは煙しか見えないのを利とした作戦だ」

「ということは、敵も近くにいると言うことでしょうか」

「そのようだ」

 炊煙の上がっている谷間に入った。

 谷の中央を流れる川に沿って、軍勢が炊事をしている。

 高台にいくつもの帷幕をめぐらせ、目算では数え切れないほどの幟が立ち並んでいる。色とりどりの旗が風になびいていた。忠智も見たことのない家紋が多い。そのなかでも一番の高地にある帷幕は、いっそう警戒がものものしくなっている、本陣のようだが見たことのない家紋だ。

 街道を通過する忠智を見ても、別に気に止めるでもなく、眼中にないような素振りでいる。

兵たちの目は鶴姫に釘付けとなっている。

緊張して強張った顔を隠すようにうつむき、忠智の手をしっかりと握っている鶴姫の手が、かすかに震えていた。

「戦は、これからのようだ」

 忠智が、小声で二人に話しかけた。

「どうして、分るのですか」

 鶴姫は、うつむいたまま両手で、しっかりと忠智の左手を握っている。姫の手は、緊張からじっとりと濡れていた。武家では、たとえ女性であっても、どのような危機に襲われようとも、心のみだれを面に表さないよう訓練されているものである。十三歳の娘では、いまだ心構えが完成されていないのであろう。

「兵らが元気で意気揚々としている。戦に向かう顔だ。それに、甲冑も装備も汚れていない」

一千名ほどの軍隊だ。これだけの兵を動員しての戦が、いったいどこで起ころうとしているのか、聞いてみたいところだ。

 十人ほどの手勢を率いた騎馬武者が忠智らを追い越した。

― 儂らの行く方角と同じでなければよいが…。

 しかし、忠智の気がかりは的中した。

「まずい、儂らの行く手に戦場がある」

「どうなさいますか」

 商人が、とまどいの目を忠智に向けた。 

「行くしかあるまい」

 もはや、引き返すつもりなど毛頭消え失せていた。

― どんな戦いをするのか。

 合戦を見とどけたい気持ちもある。

 武将としての血がたぎってきた。鶴姫がいなければそうしたであろう。

 だが、今は鶴姫の安全を守ることが先決だった。

― せめて、陣取りだけでも見たい。

 三人は前進した。

 行き来する兵士や避難する住民で街道が混みはじめた。

 道端で待機する将兵が増えてきた。

 忠智らは、兵士や住民らを避けるように歩いた。

―どこが戦場か。

 はずむ心を抑え、ゆっくりと歩む忠智の右手前方に山城が見えてきた。街道からは、五町(約五百メートル)ほど奥まっていた。山上に幟が林立している。しかし、それは攻城軍と比べてあまりにも少なかった。

 籠城しているようすだ。あの城を攻撃するらしい。

 すでに包囲は完了していた。二千名以上の軍勢で数百しかいないであろうと思われる小城を潰そうとしている。

 しかし、攻め手には、戦を前にした緊迫感がない。

 忠智の脳裏を、阿波の小笠原長重の顔がよぎった。戦国の世とはいえ残酷だ。

 心のなかを冷たい風が吹き抜けた。

「まて」

 突然、大声で止められた。いっときも早く戦場を離れようとする民百姓とは違う忠智の目つきに、不審をいだいた兵が呼びとめたのだった。ギクッと崩れる膝をあわててつくろいながら、商人が忠智の背にかくれた。

 忠智が左手につないだ姫の手を、さりげなく解きながら兵に相対した。

「その目つき尋常でない。胡乱なやつだ。敵の物見であろう」

「いや、ただの通りすがりのものだ、主命により旅をしている」

「主命に女を連れての旅などあるはずがない、いよいよもって怪しいやつだ」

 兵が刀を抜いて攻撃の態勢に入った。軍神の血祭りにあげよと言わんばかりに逸り立っている。

「またれよ、ただの通りすがりのものだ」

 困ったことになった。ばらばらと周辺にたむろしていた兵が集まってきた。

 仕方ない、ここはどうしても切りぬけなければならない。突然、横にいた兵が槍を突き出した。瞬時に、刀を抜いて槍を払った。臍を固めた忠智が、刀を青眼に構えた。

「待て!」

 騎乗の武士が走り寄って来た。

「旅の者でござる、物見と勘違いされて難渋している。」

 忠智の声が響いた。

「待て、刀を引け」

 騎乗の武士が、馬の鞭で兵を叩いて退りぞかせた。

「戦場ゆえ、馬上からの失礼を許していただきたい」

 意外と落ちついた声音であった。馬上の武士は居丈高であるが、一応丁寧に言った。

「お気遣いなく」

 忠智も柔婉であったが、寸毫のスキもみせなかった。

「何処へ行かれるのか」

 馬上の武士は、動こうとする馬を制しているが、戦を感知した馬は興奮して、意のままにならない。右に向いたり、後ろ向きになったりしながら顔だけを忠智に向けてきた。

「石州住人・福冨七郎左衛門でござる。主命により阿波の国から帰るところでござる」

「それは、遠いところをご苦労に存じます、ご主君とは、どなた様でございましょうか」

石見国の小笠原下総守源長正さまでございます」

「これは、失礼しました」

 武士が丁寧に頭を下げた。

「ばかもん、おまえらには判らぬか、この御人の刀を見よ、血のりが巻いている。

どういう事情かは判らぬが、今まで幾度もの修羅場を潜りながら旅して来られた証しだ。物見であろうはずがない」

 忠智は、あえて何も言わなかった。無言のまま静かに刀を納めた。

「失礼つかまつった。ここは、まもなく戦も始まるゆえ早々に立退かれたがよい」

「承知した。ご武運を祈念します」

「ありがとう存じます。平穏な旅を祈念します」

 馬にせかされるように武士が馬腹をけって走り去った。歩卒があわてて馬を追っていった。

 もうもうと立つ土ぼこりが、風のない谷間にゆっくりと広がった。

 戦を見たいという気は、すでに失せていた。

 三人は、足を速めた。

 いつのまにか、商人が先頭にたっていた。

「なぜ、わたしらを尋問したのでしょうか」

 緊張から解かれた鶴姫の顔に、わずかながら紅色がさしていた。

「戦ともなると、両軍とも合戦の何日も、いや何ヵ月も前から密偵を放して、対手の様子を探るものだ。さらに、攻守に関係なく勝敗を確かめる密偵も大勢出没する。それらは、いろいろな姿をしている。山伏、百姓、商人、旅の武辺者とあらゆる姿に変えているものだ、儂らも、密偵と見られたのであろう」

「商人」という言葉に、男が、ぎくりとして立ち止まった。

「戦も、この段階になれば、密偵のほとんどは足軽に紛れこんでいるであろうがの。そちも、もう少し儂らと一緒に行ったほうがよさそうだな。一人で歩いていると密偵と間違われるぞ」

「へえ、ありがとうございます」

 商人が、忠智らの後ろにまわった。

 

尾道から甲山宿への道は、山塊にそって曲がりながら北上していた。周辺の山は低く、道の高低もさほどない平坦な街道が続いている。とはいえ、道端の田んぼはびっくりするほど狭い。石で段丘を築きながら、ひな壇のように山裾を上がっていた。

わずかでも平地のとれる場所は田んぼになっている。

稲穂は黄金の輝きを生じつつあった。あぜ道を覆う彼岸花が真っ赤な帯となって横に延びている。

いまだ完熟とはいかず、青緑の残った田んぼで、すでに刈り入れを始めている百姓がいた。

 近くの畑では、除草した青草を、燻(くゆ)らす煙が一条の帯となって、狭い谷あいを流れている。長閑な秋の風景であった。わずか、一里ほどしか離れてない峠のかなたでは、数千人におよぶ軍勢が戦い、命のやり取りを行なっているというのに、こちらでは、平常どおり稲刈りをしている。したたかな、百姓の姿だ。

 

 同じ形が一つとしてない棚田は、峠に近づくほど小さくなり、やがては、蕎麦畑に変わっていた。赤い茎の先に美しく咲きそろった白い蕎麦の花が、今年の豊作を誇示しているようで、気も和んでくる。

樹齢、数百年も経っているような大木が生い茂る杉林に入ると、道は、いちだんと急坂になった。すぐ横の谷川で、チョロチョロと清らかな水音が聞こえている。

秋の日差しは樹林に遮られて、二人の体まで届くことはなかったが、風が通らないので暑かった。

道のいたるところを沢ガニが歩いていた。甲羅が赤く、いかにも旨そうな姿をしているが、これを食べると得体の知れない病気になってしまう。

 歩けば踏み潰してしまいそうだが、カニはみごとなほどにすばやく人間の足を避けていた。

「あら、いちご」

道端に野いちごの実が群生していた。粒は小さいが赤く熟れた実は、緑の少ない杉林の根元にあって、旬のものより美しかった。

二人は蔓を折り取って赤い実を口に入れた。ほのかに甘い汁が、ねばついた口中に広がった。

街道脇に露出した岩の割れ目に突き刺した竹筒から、清らかな山水が流れ落ちている。

旅人の喉を潤すために、誰かが仕掛けた配慮だった。

「冷たくて気持ちいい」

 鶴姫が、途切れなく流れ落ちる水を遮断するように、顔を突き出して大きな口を開けた。水は鶴姫の顔で跳ねていた。

鬱蒼とした木立の中を、ひたすら歩いていた三人の目前が突然に開けた。

 峠に出たようだ。「フーフー」と荒い息をしながら忠智の後を歩いていた姫が小走りになって先行した。とっとっと歩いて茶店の前に置かれた縁台に腰をすとんと下した。

「はやくはやく、父上、だんごよ」

 軒先にぶら下がる看板を指差した。

『だんご、あまざけ』と書かれた木の板が風に揺れていた。その下の竃(かまど)に載った蒸(せい)篭(ろ)からもうもうと湯気が立ち上っていた。

 忠智も茶店を背にして縁台へ座った。谷から吹き上げてくる涼風が、ふたりの汗を乾かしてくれる。

「それでは、私は急いでおりますので先行させていただきます」

 商人が慇懃になんども礼を言って茶店を通過した。

 茶店横の岩肌に突き刺した竹筒から、清らかな水が流れ落ちていた。忠智が顔を洗っているのを見つけた鶴姫も寄ってきて手を洗った。

「お疲れさまです」

 見るからに優しそうな好好爺が湯のみに淹(い)れた白湯を持ってきた。

「ダンゴと甘酒をください」

 鶴姫が注文をしてから「ね、いいですね父上。」と、忠智を覗きこんだ。

「儂もだ」

「父上も、ダンゴと甘酒ですか」

「そんな大仰な声をだすものではない、疲れを取るには甘いものが一番だ」

「ダンゴは、キビダンゴです」

「あー、それでよい」

 茶店の前には、えぐれるように落ち込んだ深い谷があり、その先は、紫に霞んだ山が遠くつづいている。木々の幹や枝を潜りぬけていく風がゴーと音を残していく。

「良い景色だ」

「へえ、ここからの眺めは、一年に二度とは同じ景色がございません。特に、夕陽は向こうの山並みが黄金の輝きとなり、次第に赤く染まっていく、それはきれいです」

「そうだの、一度見たいものだが、それでは、この山を下るまでに日が暮れてしまう」

「それにしても…美味い」

 鶴姫が、ダンゴを口の中でもぐもぐさせている。

「体を動かした者だけが味わうことのできる美味さであろうの、旅の楽しみだ」

「石見の国へ抜けるには、大きな山をいくつも越えなければならないと覚悟をしていたのに、この街道は、高い山がない、これなら楽ですね」

「確かに楽だ、せいぜい二十間(六十メートル)ほどしかない山ばかりだ、しかも、街道は高低差の少ない、谷間を縫うようにつながっている、阿波の山に比べたら雲泥の差というべきかの。特に、阿波・雲霧城の背後にそそり立つ山は懸崖だ。だがの、石見も三次から江川を越えれば一気に山も街道も険しくなる。特に、温湯城の後方は山も谷も深い」

 ふと、左手の方角に目を移すと、白く輝く芒の原を先ほどの商人が歩いていた。

身丈を超す萱に見え隠れしながら小さくなっていく。

「もう、あんな所まで行っている」

「ほんと、ずいぶん早い、よほど急いでいたのですね、父上」

「そうだの、商品には納期があるからの」

いったい、どこまで行くのだろうか。

「草鞋は大丈夫ですか、この先の下りは谷川のようになって水びたしです」

 親爺に言われて二人は足元を見た。

「大丈夫だとはおもうが、予備をもらっておくか」

 軒下にぶら下がっている草鞋二足を買って腰に括った。

「こんな峠でも、最近、山賊が出たといいます」

 茶店の親爺が声を細めた。

「山賊か」

― さきほどの商人はだいじょうぶか。

 ふと不安が脳裏をよぎった。だが、かの商人には、馴染めない気持を持っていた。

商人は、上目づかいに忠智を覗う仕草をすることがあった。視線に気づいて振りかえるとあわてて目をそらした。ただ、どことなく気安くなれないといった程度のものだったが、さきほど、先行すると言ったとき、「ホッ」とした気持が湧いていた。彼に危険が迫る虞があると知っても、直ちに出発して彼の安全を見届けようとする気が起きなかった。

―彼は旅なれた男だ。

 嫌な予感を振り払った。

「夜しか出ないと言ってますけど…・」

「人数は多いのか」

「五人ほどらしゅうございます」

「夜盗にでられては、かなわんの、お鶴、出立しようか」

「ご心配なく、お武家さまが襲われたということはございませんので」

 親爺が、そそくさと出立した二人の背から声をかけた。

京都屋(みやこや)

 昼すぎに、二人は川之江城下へ出た。

 海岸近くの小高い山に城があった。南北朝期の建武四年(一三三七)に河野道政がその武将土肥義昌に命じて築いた仏殿城だ。永延元年(九八七)に諸国行脚の僧恵心が建立した「鷲尾山恵心院仏報寺」を取り入れて建てたものである。

 川之江は古くから海陸交通の要衝であったことから仏殿城をめぐって河野氏と細川氏による侵略・支配が幾度となく繰り返されてきた。

 今は、細川氏の持城となっている。

 川之江を東西に流れる金生川に架かる木橋を渡ると、もうそこは、武家屋敷が建ち並ぶ城下町だった。人々の往来が急に増えていた。

 川の近くに寺があった。一軒の寺に入り事情を説明すると住持が丁寧なお経をあげてくれた。

 やえの供養ができた。

 その夜は、寺で宿泊した。

「お鶴、大丈夫か」

 ひとりで寝れるか。と聞いた。

「はい、大丈夫です」

 鶴姫の声に、張りがある。もう、大丈夫だ。

 二人は、布団を並べて就寝した。

 

 五日目、

 やえの供養を済ませたことにより、鶴姫の心に、忌わしい過去を払拭して、前向きに生きていこうとする気持ちが芽生えてきたようである。足取りがしっかりとし、動きに力強さがでてきた。

 忠智らは再び木橋を引き返して大店(おおだな)に入った。呉服商・京都屋という木の看板があがっていた。店員が着ているはっぴの背中には、白く太い字で「みやこや」と書き入れてある、京都屋と書いて「みやこや」と読むらしい。紺地に白く浮きあがった字は、かなり遠くからでも読みとれるほど大きな字だ。それが、なんとも、店の活気を添えていた。

 呉服は絹の着物のことである。京都屋は上流社会の人しか着ることのない高級品を扱う川之江でも一軒しかない呉服店だった。そのころ、絹物を着るのは上流社会の一部の人しかいなかった。木綿も日本では採れないので高麗から大量に輸入されていた。しかし、値段も高く庶民の手に届くものではなかった。庶民は麻の着物を着ていた。さらに、古着が主流で京から買い集めた古物が多く出回っていた。そんななかで、新物しか扱わない京都屋は他の同業者を寄せ付けない威厳があった。

「この娘に旅支度を調えていただきたい」

 忠智の注文に、奥から妻女らしい中年の女がでてきた。二人の姿を見て瞬時のことではあったが、戸惑いの翳が妻女の眉宇に現れた。険しい山道の逃避行で、姫の着物は汚れ、あちこちが木々に引掻き破られていた。風体からみれば異様な客には違いなかった。妻女が驚くのも無理のないことだ。とはいえ、姫は絹の単衣を着ている。忠智の着物は木綿である。妻女は、忠智らが一般庶民とは違うということを、当然、見抜いているはずだ。

「金銭は十分に持っている」

「さあさ、お上がりください」

 忠智の説明は、耳に入らなかったかのように無視して姫を店の座敷に導いた。女中が漱ぎの水をいれた桶を用意した。実に手際のいい動きだった。

 妻女は、色白でふっくらとした見るからに優しそうであった。いわゆる、たまご形をした顔だちで美貌の持ち主だった。

 店の女が反物のはいった衣装箱を奥の部屋から持ってきた。当時は呉服商といっても、店頭に商品を展示して売るのではなく、番頭が小僧に荷物を持たせて、地侍などの家に売り歩く、いわゆる訪問販売であった。

 姫と妻女が着物地の品選びにはいった。

 楽しそうに、あれやこれやと選んでいる。妻女の巧みな話術が姫の心をほぐしてくれている。

 姫の表情がいきいきとしてきた。

 忠智は、店員がだしてくれたお茶をひと口飲んだ。なんとも香ばしくさわやかな味が広がった。当時は、茶葉というものもなく白湯が主体である。初めて口にするお茶の味であった。

なにすることもなく二人を見つめていた。

 熱い茶は喉の渇きを一気に癒してくれる。

 長い時間を経て、着物の柄が決った。旅衣装であるから派手さはおさえてあるものの上品さが際立っていた。

 仕立てあがるのは明日の朝だ。二人が地元民でないことを見てとった亭主は、離れの部屋が空いているからと宿を勧めてくれた。

「ありがたいが、迷惑をかけることになるから…」

「これだけ、使用人の多い店です、あなたがた二人が増えたところで、どおってことありませんよ、お泊まりなさいまし」

 妻女が、忠智の言葉を遮った。

 実に、はきはきとした気持ちのいい口調だった。筍をスパッと切るような妻女の歯切れよさに好感を持った。

「それもそうだ」

 思わず忠智も応えていた。妻女の言うとおり、店には十人ほどの奉公人がいるようだった。

 店では、もう一組の客が品選びをしていた。店頭に買いに来る客もいるらしい。客のうきうきとした気持ちが周囲を明るくし、声を弾ませていた。ときたま、快活な笑い声がとびだした。

 二人は、ありがたく好意を受けることとした。

 

「ごゆっくりなさいませ」

 店の裏へ案内される二人に、亭主が接客中にもかかわらず振り向いて送り出してくれた。

 亭主は、小柄な男だった。この夫婦が並んで立てば、背丈は妻女の方が高いだろう。もう老翁になろうとする年代のようだが、顔はつややかで精力に満ちていた。

 忠智は、弟の室神屋(やかみや)與次郎兵衛正秋(よじろうべえまさとき)を思い出していた。武門に生まれた正秋は、忠智による福冨家の家督の存続に側面の柱となるべく、武人の道を歩むはずであった。だが、正秋は負けず嫌いなところがあるものの、性格が柔らかいため、武士より商人に資質があると、父・治堅が選ばせた道だった。海商のため、顔は黒く無骨な男にみえる。京都屋とは全く異質の商人に見えた。

 離れの部屋は庭の奥にあった。母家から離れまでは、きれいに打ち水された敷石の通路となっていた。

 庭には、梅や椿、躑躅などの花を主とした植え込みがほどよく配置されていた。椿の花は、首から脱落することから、武家は庭木にすることを嫌っていた。それを、京都屋は庭の中央に配している。

―さすが商人だ。と感心した。

 忠智も、椿の花が好きだった。さすがに庭木にはしていないが、道端で椿の花を見つけると思わず立ち止まって見つめることも多かった。

 

 塀際に幹の太さがひとかかえもありそうな、赤松の大木が一本立っていた。威勢良く横に広がった枝は屋根の上にあり、庭からは、もはや幹しか覗めない大木になっていた。天に聳え立つ古木の勇姿は、この店が古くから続いている老舗であることを物語っている。

 

 八畳と六畳からなる二間の部屋には床の間までついていた。良質な材木を使い、簡素な中にも落ちついた美しさをかもしだしていた。妻女は亭主との隠居部屋として建てたものだと言った。

「ですが、若夫婦が頼りなくて、楽隠居が出来るのはまだ先でしょう」

 快活に笑った。ほがらかできさくな性格が好ましかった。

 つと立ちあがった妻女が、床の間に垂れ下がっている紐を二度ほど引いた。

 やがて母屋から小走りに急ぐ下駄の音が近づいてきた。

「失礼します」

 襖の外から声がした。

 小間使いの娘が、入口に膝を落として顔を覗かせた。色の白い、ぽっちゃりとした娘だった。十七歳だという。どちらかといえば鶴姫に似た愛嬌のある娘だ。

 

「びっくりなさったでしょ」

 妻女がいたずらっぽく笑いかけながら「これも、主人の道楽なんです。この紐は母屋につながっているんですよ。その先端には、お遍路さんが持つお鈴がついているのです。用事があるとき、こちらから引っ張りますと、向こうで「チリンチリン」と鳴りますのよ」

「ほー」

 なかなかうまく考えたものだ。忠智が、しきりに紐を見つめている。紐は床の間の天井裏に消えていた。

「今日いち日、川之江の町でも見物されたらいかがでしょうか、由緒あるお寺もありますよ」

「かってを言って申し訳ないが、この娘は旅に慣れてないもので…・できれば、今日は、ゆっくりとしたい」

「それは、よろしゅうございます。忙しくてお相手はできませんが、ご用のときは、この紐を引いて、この娘を呼んでくださいませ。はるといいます」

 懐中物を取り出そうとした忠智の仕種を見た女房がきっぱりと言った。

「お気遣いは無用にしてくださいませ、着物代はちゃんといただきますから」

「申し訳ない。お言葉に甘えることとする」

「では、ごゆっくりなさいませ」

 軽快な下駄の音を響かせて店へ出て行った。妻女の接遇態度には、少ない言葉のなかにも親切な心が滲みでていた。

 離れの裏には、小川が通っており、そこから、屋敷の庭にも水を導いているらしかった。さわさわと清らかな音が庭から聞えていた。格子窓ごしに見ると、水中に長さ一尺もある水草が茂っていて、流れの速い水に流されているように見えたが、根は、しっかりと川底に根付いていた。おそらく、あの急流の中で根づき、成長したのだろう、なんという生命の逞(たくま)しさであろうか。

 遠くに、薄紫色に霞んだ山なみが見えていた。五百丈(一五〇〇メートル)を超える大きな山が左右からぶつかり、切れ込んだ峠が見えている。数日前必死の思いで越えてきた鞍部だ。

 姫も見つめている。両親のことを思い出しているのであろう、姫の横顔に愁いの翳りが奔(はし)っていた。忠智は、慰めることばもなく黙然とたたずんでいるだけであった。

 カランカランと乾いた下駄の音が近づいてきた。妻女とは違った歩調だ。

 やがて小間使の娘・はるが、湯のみと急須をお盆に載せてきた。椿の葉に載せた丸い蒸し饅頭がついている。庭の椿を思いだし、手作りの饅頭だろうと思った。

何回も往復して、火鉢に火をいれ、鉄の茶瓶をかけた。すでに、熱湯が入れてあったらしく、たちまち沸騰の音が静かな室内に行きわたった。

 離れに行き来するときは、いつも軽快な下駄の音がした。

 表の店から、活発な動きが音になって聞えている。

「活気のある店ですね」

「店も繁盛しているようだ」

 ふと、芳しい風が漂ってきた。いつの間にか、金木犀の咲く時期になっていた。

 二人は、縁側に座って店のざわめきを聞いていた。

 座敷の前庭で、二羽のすずめが一心不乱に虫を啄ばんでいる。庭と離れだけが静かなたたずまいを保っていた。

 庭を囲む低い土塀の先に金生川があった。

 縁側に座って川の流れが見える。そのさきには、仏殿城と武家屋敷が甍を重ねていた。川と城下町を借景とするため土塀を低くする。心憎いほどの演出だった。一日中でも見飽きぬ景観だ。

 

 店が閉まってまもなく、亭主と妻女が現れた。

 一緒についてきた使用人たちが、手際よく膳を並べて食事の仕度を始めた。

「お構いもせず申しわけございません。なにもございませんが」

 亭主が徳利を手にとって忠智に酒をすすめた。

「恐縮です。それがし、酒は強くないので、一盃だけいただきます」

 忠智は、亭主と妻女に礼をして、ゆっくりと盃を口にもっていった。妻女が、鶴姫に食事をすすめている。

「それにしても、繁盛のようで、ようございますな。それがしの弟も石州で海商を営んでおりますが、弟は、海の上ばかりにおりますので全身が真っ黒に日焼けしております。」

「なんと、商いをしておられるのでございますか」

「玉鋼を博多で売っています。高麗へも足を伸ばしているとか言っています」

 もっとも、商人というよりは船頭と言った方が適切かもわかりませんが、と付け加えた。

「私にはよく分かりませんが、石州の砂鉄から採った玉鋼は品質がいいと評判のようです。それにしても高麗とは・・・・私は、乗り合いの船で京都へ往復するだけです」

「一歩海へ乗り出したならば海賊もいる、天候の急変もある。毎日が命を賭しての商いだと申しておりました」

 武力を持たない商人がいるとは忠智に理解できない。古来、おのれの財産はおのれで守る、そのためには商人といえども武力を持つことが本来の姿である。

 商人とはいえ、室神屋(やかみや)は海商であり、おのれの命と財を守るための武力を持っている。京から商品を仕入れて近在へ売る京都屋(みやこや)とは根本的な違いがあった。

「そうですね、特に高麗や明国へ行くとなると危険も多いことでしょう」

「明国は日本と同じ武力を尊ぶ国です。国と国の交易であれば心配ないが裏では、日々殺戮を繰り返している。そんな国へ行くのだからいつ襲われるかもわからない。表面は良民であっても裏にまわればなにをしているのか分かりません」

 それに比べ、瀬戸内は波も穏やかで、海賊などの心配も無いと亭主が言った。

「瀬戸内へ回られるようでしたら、是非、私の店へも寄っていただきとうございます」

 そうそう、申し遅れましたが、と、自の紹介にはいった。

 亭主は儀兵衛と呼び、妻女はおようと言った。

 形ばかりの挨拶が終わると、給仕のためにはるを残して夫婦は引き上げていった。

 

 深更、熟睡していた忠智の耳がかすかな軋みを捉え、全身が総毛立った。誰かが戸をこじ開けようとしている。

 夜半は過ぎているようだが、夜明けは、まだ先だ。

 忠智は、起きあがって袴をつけ、刀を腰に帯びた。姫が部屋の空気を揺るがせないよう、静かに身支度を始めた。

 何者かが侵入している。だが、忠智らを狙ってのことではなさそうだ。

 それなら、離れの部屋にじっと隠れていれば、見つからずに済む可能性はある。

 忠智の使命は姫を石見まで無事に連れ帰ることだ。ここで、侵入者と戦って万が一、落命するようなことになれば、姫をひとりで放り出すことになる、御屋形に申し開きもできない、忠智は躊躇した。

 しかし、すでに敵は屋敷のなかに侵入しているのだ。忠智が、外に出なかったら、おそらく、侵入者の仲間と見られるだろう。

―闘うしか方法はない。

 忠智は決心した。

「それがしが出たら、内からしっかりと戸締りをしてください」

 忠智が、姫の耳元でささやいた。

「追手でしょうか」

 姫の声は緊張していた。

「いや、しかとはわかりませんが、追手とは違うでしょう。追手なら正々堂々とやってくる。なにも忍び込む必要がありません。たぶん物盗でしょう。盗人など、なにほどもない、心配に及びません」

 刀の柄をぽんと叩いた。姫の顔に微笑がよみがえった。

 刀の目釘を確かめた忠智が、気配を消して敵に気ずかれないよう縁側から外に出た。

 庭には、べっとりと肌に纏わりつく湿気を含んだ霧が漂っていた。わずかな月明かりを頼りに前方を見透かすと、母屋の軒下に五人の賊がいた。一人が雨戸を開けようとしており、残りの四人は、うしろに立って開くのを待っていた。上から下まで黒ずくめの服装をして、黒い布でほお被りをしているが顔は出したままだ。

 忠智が用心深く周辺を窺った。他に仲間は見えない。闇の中にいる息づかいをさぐった。五人だけだ。

刀の鯉口を切った。

「何をしている」

戦場で鍛えた大喝に、弾けたように飛びあがって驚愕した賊が、次ぎの瞬間には、すばしこくひるがえった。

 忠智をふり返ったときには、三方から挟み込む態勢を組んでいた。隙のない構えだった。五人の射放す殺気が一塊となって忠智を包み込もうとしている。

 賊の持つ匕首(あいくち)が、ぶきみに光った。非常さと残酷さが漂っていた。

 忠智が、抜刀するのと同時だった。右手前の敵が大きく動いた。瞬時の間合いを置いて、左手後方の敵が動くのを忠智の肌が察知した。すさまじい一撃が疾(はし)った。敵は左右両方向から忠智の体を挟み込む態勢で襲ってきた。迅(はや)い、電光の動きだった。目線も遅れをとるほど鋭く迅(はや)い。匕首さばきは実戦で身につけたものであろう。

 忠智は、裂帛の気合を込めて踏み出し、前面の敵を薙(なぎ)払うのと同時に、体を預けて背中に奔る殺気を寸毫(すんごう)の差で躱(かわ)した。その刹那(せつな)、地面を蹴って一間ほども虚空に跳躍した敵から放った鋭い匕首が、忠智の頬をかすめて地に突き刺さった。不気味な音が残った。敵は、ひと言の気合も発しない、無言のまま攻撃してくる。風を切る匕首の音が忠智の耳朶を振るわせた。多勢で一人を討つ場合は巧妙な連携をとらねば数はかえって邪魔になる。賊の連携に寸分の狂いもない。実に巧妙な連携をとっている。

 二撃目に移ろうとしている賊の挟撃態勢に、寸分の狂いも生じていない。おそろしい遣い手だ。

 賊の顔には不敵な笑いが宿っていた。闇のなかで眼が異様なほどに冷たく光っている。

 忠智の背中に冷たい感触が流れた。切られたようだ。しかし、痛みはない。浅手だったのだろう。合戦なれしている忠智にとっても、縦横立体的に躰ごとぶつかってくるとは、全く予測のつかない攻撃方法だった。匕首は、肉迫しなければ斬れない刀法であることを予測できなかった。完全に守勢にまわったことを認めざるをえなかった。大刀を抜いたことを悔いた。狭い庭で、しかも闇のなかだ。小太刀のほうが有利だということに気づいた。

 内懐に敵を飛び込ませないよう間合いをとった。

 しかし、敵の一撃目のとき、忠智の刀は敵の一人をとらえていた。戸を開けようとしていた賊が血泡をふきながら倒れ伏した。ひとことの悲鳴も発せず、まったくの無言であった。体が激しく痙攣して静止した。

右手に確かな手ごたえが余韻として残っていた。

 雨戸の内側で人の動く気配がした。

 店の者が物音に驚いて起きだしたのだ。

「押し込みだ、戸を開けてはならん」

 忠智がどなった。近隣の家にも届く大声を出した。敵の神経を撹乱する策だ。

 室内が静まりかえった。

 賊の気がわずかに揺らいだ、焦りが生じたのだ。

 二人がいっきに突進してきた。しかし、すでに敵の集中力は失せていた。賊にとっては、すみやかに決着をつけなければならない、『長引けば長引くほど不利になる』このことが焦りを招き、攻撃に隙を生じさせた。

 忠智には敵の太刀筋がよく見えた。余裕をもって敵の動きを見ることができた。

 賊の一人を豪快に斬り上げて弾ね返した。確かな手応えを掴んだが致命傷ではないだろう。つづいて腰を入れて振り向きざま、渾身の力を込めて一人を袈裟懸にした。忠智の刀と賊の匕首が、賊の眼前で絡んだように見えた。だが、匕首を弾ね飛ばした忠智の剛刀は、賊の顔面を二つに断ち割っていた。甲冑をも切り崩す忠智の力が勝ったのだ。噴出する血しぶきが霧のなかに拡散した。残りの二人も見事な斬撃で斃していった。

 賊は一言も声を漏らさなかった。骨を断つ音が静寂な庭に響いた。

 忠智は、必要以上に大声で気合を発して、賊のあせりを増長させていった。

 忠智の左手には血塗られた小太刀が握られていた。咄嗟のことだった。無意識に身体が動き、小太刀を抜いていた。長年、集積してきた剣技修練の結果が忠智の本能を引き出していたのだ。

「ググッ」と、押し殺したわずかな声が忠智の背で洩れた。傷を負って倒れていた賊が自らを始末した姿であった。

 血振りをした両刀を鞘に納めた。全身から汗が噴出し、肩が大きく上下していた。息を吐き出して、気息が整うのを待った。

「もう出てもよい、終った」

 忠智の声を合図に、雨戸の一枚がわずかに開けられた。

「押し込み……。」

 凝然と立ちすくむ儀兵衛が、陰鬱な表情でつぶやいた。やや小太りで恰幅のいい、つややかな顔から血の気が引いていた。鞘に収めたままの刀を持っている左手がわずかに震えていた。

「福冨さまには、なんとお礼を申し上げたらよいか…」

 言葉につまりながら礼を言う声も震えている。それでも、毅然とした態度を繕い、役人を呼びに店の者を走らせた。

 おようが、茶碗に注いだ冷酒を無言のまま忠智に差し出した。

「おー、喉がからからだ」

 礼をいうのも、もどかしく一気に飲み干した。「クックック」と音をたて喉を通った冷たい液体が五臓六腑に浸み渡っていく。冷酒が乾いた喉を潤し、昂ぶった気を鎮めた。闘争で疲弊した心身を癒すのに最高の気くばりだった。

「美味かった。」

 茶碗を受け取るおようの瞼がうるんでいた。血飛沫の飛散した死体を目の当たりにしたのは、おそらく初めての経験であったのだろう。それでも、自分で持ってきた手桶の水を、柄杓で汲んで忠智の両手にかけてくれた。

「さすがは、商家の女房どのだ、機転が利いている」

「お怪我は、ありませんか」

 おようの声は、小さいながらも、しっかりとしていた。

「たかが、夜盗を相手に、これほど苦戦するとは思わなかった。儂も、まだ鍛錬がたりない。庭を汚してしまった」

 謝る忠智に、おようが頭(かぶり)を大きく振った。

 闘争の対手が虚空を跳ぶことなど想定になかった。戦では、腰を低くして足をしっかりと地につけてこそ、安定した体勢を保てるのである。跳躍するとしても甲冑が重みとなり、せいぜい三尺ほどが精一杯である。おのれの頭上で、二人の敵が交差した驚愕に、気が削がれ隙となった。その刹那を見逃さず放った匕首が雷光となって襲ってきた。忠智の目はなにも捉えていなかった。ゾクリとする戦慄に脳の意思をまたず、体が反応して避けていた。まさに、獣の本性が忠智を救ったのだった。おのれの鍛錬不足に臍をかむ思いがした。背筋を走る悪寒に思わず身震いをしていた。賊を退治したという満足感がなく、遅れをとったという気持ちのほうが強かった。

 家の戸口に呆然と立っている使用人らは、言葉を失い、恐怖に怯えた表情で忠智を見つめていた。

 急遽、庭に焚かれた篝火が、倒れている賊を照らし出した。すでに五人とも絶命している。生臭い血の臭いが庭に漂い始めていた。使用人が、納屋から持ち出した莚を屍骸に掛けた。

 おようが、風呂を沸かすよう指図した。儀兵衛より落ちついた声だった。度胸は亭主よりも強そうだ。

「風呂は後でいい、役人が来たら、それがしの説明も必要であろう」

「ありがとうございます」

 儀兵衛も落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

 離れの前で立ち竦んでいる鶴姫の肩を、歩み寄った忠智が抱き寄せた。体が小刻みに震えていた。三日前の山中につづいて二度も斬り合いを目撃させられた衝撃から立ち直れない姿であった。二人は、しばらくじっとしていた。鶴姫の心が鎮まるのを、ゆっくりと待った。

おようが姫の手をとって母屋へ導いた。

 

 ほどなく、十人ほどの手下を連れた役人が来て、庭に倒れている賊を検めた。

「篝火をもっと増やせ」

 役人が居丈高の声で店の者に命じた。篝火から、火のついた割木を取りだして賊の顔を覗きこんでいる。

「最近、商家に押し入る夜盗が出没していた。つい先日も、大野屋という材木問屋が襲われたばかりだ。家の者、奉公人ら九人すべてが殺された。奪われたのは三百貫(約七百五十両)を超えていたと推測されるが、なにしろ全員が殺されたので詳細はわからずじまいだ。もっとも、京都屋は千貫を超えるであろうがの」

「なにを、おっしゃいます。とんでもございません」

 儀兵衛が大仰なしぐさで手を横に振った。

「いや、冗談だ…・ところで、誰がこいつらを遣っつけたのか」

「それがしにござる、石州住人・福冨七郎左衛門にございます。娘を連れて金毘羅参りの帰りにござります」

 忠智の説明に、

「さようか」

 一瞥をくれただけで賊の斬り口を、しきりに見ている。

「この男は、自殺したな」

「はい、それがしの放った刀傷は致命傷まではいかなかったのですが、仲間全てが倒れた後に自ら命を断ちました」

「一人でも生きていたら、調べようがあるのだが・・・」

「申し訳ないことです。それがしにも手に余る遣い手で、防御に精一杯でござった」

「そうであろう、大野屋で殺された者の切り口を見ると見事な仕留め方であった、そうとうの手練と思われる。一人でも生かして捕まえようとすれば、自分の身が危うくなったやも知れぬ。仕留めたということは賢明な判断だ」

「ありがとうございます。それがしも初めて経験する敏捷な相手でござった、苦戦しました」

 役人は、全身に返り血を浴びて生くさい臭いを放つ忠智を、まじまじと見つめた。

「貴殿(そなた)は、怪我をしてないのか・・・・かなりの遣い手だのう」

 役人は、髭の濃い自分の顔をなでながら、何かを思案している。

「京都屋、この御仁とは、どういう関係だ」

「客人にございます」

「客人・・それだけか…それだけのことで泊めたのか、軽率ではないのか、この御仁は、良い人だったから、いいものの、賊の一味だったらなんとする。どんなに戸締りをしていても内側から手引きされたら、防ぎようもあるまい」

 役人は、すたすたと歩いて、土塀から身をのりだして川岸を見ている。

「これだけ、高石垣になっておれば、川からの侵入はできないの」

 金生川から土塀までの高さは二間ほどもあり、はしごでも使わない限り侵入は不可能だ。

 目を屋敷へ戻した役人の、細い目が一段と細くなった。凝視する視線の先には、屋敷の外に通じる木戸があった。だが、そこの閂は閉まったままで、開けた形跡は認められなかった。

 役人は、内側から誰かが鍵を開けて手引きをしたと思っているようだ。一間半を越す高さに設えた高塀を越すことなど出来るものではないと思い込んでいるようであった。ひとかたまりになって震えている使用人に目を移した。

 忠智が気づいたとき、すでに賊は庭に侵入していた。外から鍵を開けて侵入したのか、中から手引きしたのかはわからない、だが、戸を開けた気配はなかったと説明した。

「外の異変に気づいたときには、すでに福冨さまが闘っておられました。御助勢に出なければと気はあせるのですが、足がすくんで・・」

「出ても、邪魔になるだけだ、それにしても、他人を泊めるなど軽率だの」

 役人の脳裏からは、忠智も夜盗の一味かもしれないという疑いを、払拭してはいなかったようだ。

「おそれながら、長年つちかった商売人の目と感がございます。この客人は悪い方ではございませぬ」

「あたりまえだ、だから、今、お前らの命があるのだ」

 役人が声をだして笑った。

 そのとき役人の手下が、庭の塀際に立つ老松から垂れ下がっている荒縄を見つけた。

「なるほど、賊は、この木の枝をつたって屋敷に侵入したのか」

 役人が納得した顔で見上げていた。松の大木は、すばらしく枝振りのいい庭木だった。横に伸びる一の枝は塀を乗り越え、前の道に圧し掛かっていた。その枝から太い棕櫚縄(シュロナワ)がぶら下がっている。縄は、一尺間隔に結び目が作られていた。上り下りするときの滑り止めだ。これなら、縄梯子と変わらない、周到な準備をして侵入してきたようだ。

 賊の侵入経路がはっきりしたことで、皆の顔に一様の安堵感がでていた。これで、内部から手引きした者はいないということだ。最も疑われやすい内通という問題も、その疑いがなくなった。

「京都屋、あの枝は切り払ったほうがよさそうだな、今後のことを思えばの」

「はい、なにか手だてを考えます」

「五人か・・・」

 役人が意外だという顔をした。それでも、「あと十名応援を連れて来い」と一人を走らせた。

「少ないの・・・大野屋も、金生川沿いの店だったな…」

 老練な役人は何事かを整理するように沈思していたが、

「おい、裏の川を見て来い」

と、手下に顎をしゃくった。

二名の役人が裏手に流れている金生川へ走った。

「ありました、二艘の小舟が舫ってあります。今、周辺の住人を起こして確認しておりますが、持ち主が不明のようです」

四半刻後、ひとりが息せき切って帰ってきた。

「それだ、こやつらは舟で運ぶつもりだったのだ。そうでなければ、五人やそこらでの全財産を運べるものではない。だがの、舟があればいくらでも運べるぞ。・・・・ということは、こやつらは京都屋の全員を殺してから、ゆっくりと、舟まで何回も往復して運ぶつもりだったのだ。それに、こいつら、顔を曝(さら)け出したまま押し入っている。京都屋の者に顔を見られてもいいということは、一人残らず殺すつもりだったのだ」

 後方で悲鳴ともつかないため息がもれた、手代が洩らした声だった。

「大野屋もこの手を使いやがったのか・・だがの、舟があるということは逃げたやつらもいないということだ。五人組で五人みな死んだということだ、川之江城下も安全を取り戻したの」

 上役役人は、おのれの感が当たったことに満足したかのように饒舌だった。忠智は、役人の鋭どい感に瞠目、言葉を失って、ただ、唖然としていた。

 

「福冨どの…・貴殿は、戦の経験が有るようだ…この剛胆な切り口、骨をも断ち割っている。このような盗賊相手の斬り方ではない、甲冑を着けた相手を斬る太刀筋だ」

 役人は、宙を睨んでいた。

 馬上における騎馬武者の戦闘は、すぐれた膂力をもって長い得物を振り回す力と力の戦いだ。おのれの力が対手の力を凌駕したとき勝を得る。役人は、瞬時にして忠智の力を見抜いていた。

 忠智は、無言のまま首肯した。

「そうであろう…・甲冑を着けていない者は動きも軽やかだ、甘くみると、命を落すことにもなりかねない」

「まったくもって…」

「戦の経験があるということは、主持ちということかな」

「今は、致仕しております。わずかばかりの田地一所を懸命に守っている身でございます」

 忠智は嘘を言った。もし、三好之長から手配が回っていたならば、石見の小笠原家中だと言うことは自首することと同じだと判断してのことだった。

「どなたの家中だといわれるか」

 探るような目を向けて訊いた。

「今は、百姓の身でございます」

「なに」

 役人が、きっとなって忠智を見た。細く開いた目の奥から瞳が冷たく光った。

「言えぬということか。…ま、いいか、聞かぬが花ということもある、儂ら下っ端の役人とは格が違うかも知れぬ、・・・・・京都屋に夜盗が入り、たまたま宿泊していた貴殿が退治したということは、まぎれもない事実だからの」

 役人は、自分に納得させるようにうなずいた。皮膚からふき出した髭がこそばいのであろう、右手で盛んに顎をなでている。

「ありがたき、ご配慮いたみいります」

儀兵衛がおようから受け取った紙包みを役人の袖に入れた。

「お浄めでございます」

役人は、亭主の小さな声が聞こえない風をよそおいながらも鷹揚にうなずいた。 

「それにしても、京都屋。助かったの、この五人は、並の夜盗ではないぞ、たぶん大野屋を襲ったやつらだ。大野屋では女子供まで全員惨殺した。危ないところを助かったの。ま、この御仁にしっかり礼をすることだな」

 役人は賊を戸板に乗せて引き上げて行った。

「急ぎの旅でございますが出立してもよろしゅうございますか」

 忠智が役人の背に問うた。

「よいぞ、気をつけて行きなされ」

 役人は振り向きもせず、それでも畏敬をもって許可をだした。

「賊の亡骸は、役人が処理してくれるのか」

 忠智が、意外だという顔をして京都屋の儀兵衛を振り返った。

「罪人は、海へ捨てられます。寺に葬ることはしません。こもに包んで、石をいっぱい抱かせて沈められます。だから、二度と浮かんではこないでしょう」

「石見では、たとえ罪人であろうとも、死後は寺に葬られる。もちろん、無縁仏としてだが」

「仏の教えからいえば、寺に葬ってやるのが正しいかも知れませんが、ここら辺りでは、昔からの風習です」

「ま、いずれにしても、こちらが処理しなくていいのは、ありがたい。事後処理のために、何日間も足止めされるのは困る」

「その必要はございません。私ひとりで十分でございます」

 

 いつのまにか、夜は白み始めていた。霧は相変らず地を這っている。

―やれやれ。

 忠智が、安堵の溜息をついた。三好之長からの手配は廻っていないことを確信した吐息だった。

 その当時、戦で敵を攻め滅ぼしたとき、男については、老若をとわずすべてを殺すことはあっても、女は、特別な理由がない限り殺さないのが一般的であった。忠智も、鶴姫が脱出したことを三好之長が知っても、追手までかけて殺そうとするとは思えなかったが、万が一ということもありえると警戒していたのであった。それも、杞憂にすぎなかったことを確信した。

「お湯が沸いております。福冨さま、お身体を洗ってくださいませ」

 おようの、きりりとした言葉づかいと立ち振る舞いが戻っていた。

 湯屋に入ると、板敷きの脱衣場に湯帷子と着替えの衣類が衣装箱に重ねてあった。

 忠智は裸のまま腰をかがめて浴室にもぐり込んだ。もうもうと立ち込める湯気の奥に湯釜があった。やや熱めの湯を汲んで、全身を執拗なほどに洗った。体にまとわりついた血糊と生臭さが消え、体中に張り詰めていた緊張が一気に氷解していった。

 袋に詰めた乾燥蓬が湯に浸かっていた。いい匂いだ、体に沁み付いた血臭を取り除き、切り傷にも効果があることを知っていて浸けてくれたのだろう。

 風呂から上がった忠智が母家の客間に招じいれられた。そこには、すでに離れから呼ばれた姫が待っていた。

 忠智が姫に無言の笑みをおくった。姫もさきほどの衝撃から立ち直り、平常心をとりもどしていた。頬に血の気がもどっている。 

 おようが用意してくれた真新しい絹の肌着と着物がなんとも気持ちいい。

 血糊のついた忠智の着物をたたんでいたおようが「ハッ」と声をあげ忠智の元へ走り寄った。

 さきほど着たばかりの着物を、はぎ取るように脱がせた。

 背中に一筋の血が流れていた。

「心配いらぬ」

 忠智の声はおように通じない。すでに固まり始めた血をなどるように、蛤の貝殻に入った塗り薬を擦り込んでいった。

「お役人が言っておられましたように、福冨さまのご助勢がなければ、この京都屋は全員殺されるところでございました」

 儀兵衛が、銀粒の入っている袋三つを忠智の前に差し出した。お礼のつもりであろう。一見しただけでかなりの高額であろうことがわかった。

「お心づかいは、無用に願います。見も知らぬ他人の、それがしらを泊めていただいた、ご亭主とご妻女のやさしい心に神仏が応えてくれたのでしょう、礼などいりません」

 忠智は困惑して辞退した。結局、押し問答の末、受け取らなかった。

 膳が運ばれてきた。おようが忠智に盃を持たせて酌をしようとした。

「すまぬ。あまり酒には強くない」

 忠智は盃を裏がえして膳の上に置いた。

「お浄めの酒にございます」

「ならば、一杯だけいただこう」

 盃をとってゆっくりと飲み干した。

「すまぬが、刀の手入れをしたい」

 食事のあと、忠智が皆に背を向けて正座し、刀を鞘から抜いた。刀身は二度の闘争で疲れきっていた。できるだけ早く磨ぎにださなければ錆びてしまう。だが、石見に帰り着くまでは手放すわけにいかない。鹿革で刃にこびりついた血糊と脂をていねいに拭い取っていった。

 

 翌朝、おように連れられて奥座敷からでてきた姫は新しい着物を着て、見違えるほど、すっきりとしていた。昨日までの百姓姿から武家の娘に戻っていた。忠智の目にまぶしいほどに大人びて映った。

生まれながらにして姫として育った気品と美しさが甦っている。ぱっと座敷が華やいだ。

「おー」との嘆声をあげたのは儀兵衛だった。

「なんと、お美しゅうございます。凛とした、なんとも言いようもない、お美しさ、着物も貴女様に着ていただいてうれしいことでございましょう」

 呉服屋の亭主としては使い古した言葉かもしれない、だが、儀兵衛はしみじみと見惚れている顔になっていた。

儀兵衛とおようは、忠智と鶴姫の身の上についていっさい詮索をすることはしなかった。だが、忠智が武家姿でありながら鶴姫は百姓娘という、ちぐはぐな姿を妻女は見抜いていたのだ。

あれだけの事件が生じたにもかかわらず、着物は縫いあがっていた。京都屋の誠意を見る思いを抱いた。

「どお、父上」

 姫がおどけてみせた。

「色の白いきれいなお嬢さまですから、よく似合ってます」

 おようの言葉は、口先だけの御世辞ではなさそうだ。

 着物は、旅装を意識して地味な柄だったが、あずき色の生地に、ほどよく散りばめた黄色と白の小さな梅の花が浮かび、しっとりとした美しさを表現していた。

胸の懐剣袋があまりにも派手すぎて服装と合わなくなった。

 思案しながら見比べていたおようが、ふと思いついたように小走りに奥へ行ってきた。

「これになさいまし」

 歯切れよい口調で地味な色の懐剣袋をさしだした。タンスの奥にしまっていたおようのものだという。

「かたじけない。なにからなにまで世話をおかけする」

 忠智が礼を言った。

 姫が、懐剣を取り出し、おようのくれた袋に入れ替えた。朱漆蒔絵拵の懐剣は、いかにも姫さまの持ち物にふさわしい華やかさだった。鞘を見ただけですばらしい作りであることが判る。おようは、空になった古代錦の袋を丁寧に折りたたんで姫の持ち物に入れていた。二人の視線には、我が娘に接するような柔らかさが溢れていた。

 おようは着物だけでなく、菅笠から手甲、脚半、草鞋まで旅装一式を揃えてくれていた。昨日のうちに手配していたらしい。当時の女性は、平安時代のころから貴族がかぶっている市女笠をよく使っていた。特に、上流の女性は笠の縁に枲(むし)の垂(たれ)絹(きぬ)をつけ、日よけを兼ねたものを用いていた。おようは、鶴姫がかぶっていた百姓用の小さな菅笠ではかわいそうだと思ったのであろう、商家の妻女や娘が旅をするときに用いるやや小さい市女笠を用意してくれていた。垂(たれ)絹(きぬ)は付いていなかった。京都屋の如才ない気配りが嬉しかった。忠智は温湯城を出立したときから、竹の塗り笠を被っている。薄く剥いだ竹の外皮で笠を編み、漆で塗り固めたものである。菅笠より頑丈で耐抗性にすぐれていた。これで、忠智と鶴姫の服装にちぐはぐなところがなくなった。

 そればかりではない、忠智の衣服も上から下まで新しくなっていた。京都屋が、強引に着せたのである。

 さらに、忠智は袋に入れた一振りの大小刀を襷がけに背負っていた。

「せめて三日間でも逗留してください、三日あればお武家さまの刀を砥ぐことができます。今のままでは、すぐ錆びがでてしまいます。私の知り合いに腕のいい砥師がおります」

 しきりにひき止める儀兵衛の誘いを忠智は断った。深い仔細があってのことと見抜いていたらしい儀兵衛はあまり無理強いはしなかった。瞬時に相手の心を読み取り、相手の気持ちを大切にする。商人として長年培ってきた生き方なのであろう。

「それならば」ということであろうか、儀兵衛は、大小拵の太刀一振りを取り出してきた。

「これを御覧いただけませんでしょうか」

 なぜ、いまごろ出してきたのか儀兵衛の意をくみ取ることもできないまま、忠智は大刀を手に持った。黒漆塗りのすばらしい鞘だった。柄には鮫の皮が巻いてある。

「拝見する」

 懐紙を口に銜(くわ)えて静かに刀身を抜いた。

二尺三寸六分緩やかな反りの優美な業物だ。

武器は、人殺しの道具であって、どんなに美しくとも美術品にはなりえないと、忠智の父・治堅が言っていたのを思い出した。だが、今、忠智が手にしている刀は、あまりにも優美で気品に満ちていた。

「これは見事だ」

 思わずため息を漏らしていた。

「銘を拝見したい」

 儀兵衛が大きくうなずいた。

 静かに目釘を抜き取って、柄を持った左手のこぶしを右手で軽く叩くと刀身が出てきた。備前国長船の刀匠・国宗が鍛造した豪刀だった。

「すばらしいものを見せていただいた。備前国宗の銘刀など、めったに見れるものではない。手入れもよく行き届いている」

 この当時、戦闘用の太刀一振り一貫文というのが相場であったが、その数十倍はする。

そればかりではない、買いたくても買えない、たとえ、注文までこぎつけても、受け取るまでに何年も待って、ようやく手に入れることができるものなのだ。

「それは、ようございました、ぜひ福冨さまに、お持ちいただきとうございます」

「とんでもない、それがしが持つようなものではない、もったいなき逸品だ」

「いえ、福冨さまなら、どのようなものを、お持ちになっても身分不相応ということはありません。これは私どものお礼です。福冨さまが、賊を退治してくださったから、今の京都屋があるのです。どのようなお礼をしても、しすぎるということはございません」

「礼などいらぬこと、そのような心遣いは無用にしてくだされ」

「それでは、私どもの気が済みませぬ、ぜひ、お受け取りください。これは、万が一、今宵のような危害を蒙ったときの用心にと、拵えたものでございます。が、たとえこの刀を持って抵抗したところで、私など一刀のもとに突き殺されていたことは明白。なまじっかこういう物を持っていても何の役にもたちません。それに、この刀は、重くて私には到底つかいこなせませぬ」

「ぜひ、お持ちください」「いや、それは困る」向かい合って座る二人の間を、刀は押したり押されたりと行き来したすえ、ついに、忠智が根負けした。さすがの忠智も、商人の強引さには歯が立たなかった。

 忠智が恐縮して受け取った。

 

「店を開けても、ようございますか」

 番頭が伺いにきた。

「開けなさい」

 きっぱりと言った儀兵衛が忠智の正面にきて、ふかぶかと腰を折った。

「ほんに、福冨さまのお蔭で、今日も通常通り店を開けることができます。ありがとうございます」

 店のもの全員が平伏した。

 

「店の前に大勢の人が集まっています」

 小間使いの娘が、あわてふためいて知らせにきた。

「どういうことです」

 おようが聞いた。

「店の戸を開けたら、たくさんの人が立っておられたのです」

 はるも、要領をつかめないようすだ。

「店の異変を聞いて集まってきた人たちだろう。お見舞いに来てくれた人もいるやも知れない、疎かにするでないぞ」

 儀兵衛は、落ちつきを取り戻していた。京都屋に賊が入ったことを聞きつけて、物見高い町民が集まってきたのだ。

「おはようございます。このたびは皆さまには大変なご心配をおかけ致しました。お蔭さまをもちまして賊はことごとく退治していただき、京都屋はこのとおり無事でございます。ありがとうございます」

 儀兵衛が玄関先に立って町民に挨拶をした。

「どうしょう」

 暖簾の下から外を覗き見た姫が忠智を振り返った。

川之江城下を恐怖に落としいれていた賊をやっつけたのです、なにも恐れることはありません、どうどうと出立なさいませ」

 おようが、姫の背を押して外に出た。あわてて、市女笠を被る姫の顔がわずかに紅くなっていた。

 店の前は、群集で埋まっていた。黒山の人だかりだ。皆が無言だ。無数の視線を受けた忠智もいそいで菅笠を目深に被った。

 おようから杖を渡された姫が、眼を白黒させた。

「長い道程を歩くには欠かせないものですよ」

 道を埋め尽くしていた群集が、ふたりの通りを開けてくれた。

 ふたりは、幾度も腰を折って礼を言う夫婦から、逃れるように店を後にした。

 突然、後方にいる群集のなかから一人が拍手をした。堰を切ったように拍手が湧きあがった。

「ありがとうございます」

「ありがとうございます」

「お気を付けて」

 あちこちから飛びかう群集の見送りがどよめきに変わった。ふたりは、とまどい、顔を赤らめて足を速めた。

「びっくりしたな、もう」

 やっと衆人の眼から逃れた姫が、大仰なため息をついた。  

 はればれとした気持であった。

 出立が遅れてしまった。もう朝の五ッ(午前八時)を過ぎている。東の空に上りきった陽光は暁の黄金色を失い、代わって力強さが加わってまぶしかった。

 

 このころ、阿波から温湯城へは、川之江、新間(新居浜)を通って、今治から舟で島づたいに大島、伯方島生口島因島をたどって尾道に上陸し、三次から阿須那に入っていく道がよく利用されていた。

 伊予国今治は、河野氏の領域である。忠智にとっても祖母の里である。今治を通ることは安全を保障されたと同じことだ。だが、今治までの陸行は、あまりにも遠い。

 忠智は、川之江から、海岸沿いを北上し、讃岐国に入って、多度津から舟に乗ることとした。

 讃岐国は、三好氏の勢力圏内である。手配が廻っているおそれはある。しかし、このころは、戦において男子は殺しても女子は殺さない不文律のようなものがあった。鶴姫一人が逃げたところで三好氏にとって何の影響もない。おそらく、手配までして捕まえようとはしないだろうと確信を持ったばかりである。

 

 川之江から多度津までは、およそ十里(四十キロ)ほどの行程だ、出発が遅れてしまったから今日中に着くのは、ややきつい。忠智は、遠出をしたことのない姫の足を案じたが、姫の足はしっかりしていた。幸い、今日も秋晴れだ。忠智らは、出立の遅れを取り戻そうと歩くことに専念した。

「やっと、追いつきました」

 後方の声に振りかえると、京都屋の番頭と小僧が息せき切って追いついてきた。

「さきほどから、お二人の姿が見えるものですから、すぐ追いつくことができると思っていたんですが、なかなか追いつけないものですね」

 番頭は、顔に噴き出た汗を拭おうともせず喋(しゃべ)っている。

「お二人さまが、多度津にお着きになるのは今夕になりますが、明日の朝まで舟はでません。お二人さまが出発されてから、主(ぬし)が、このことに気づきまして、あわてて、私が出てきたしだいです。今宵は多度津泊まりになりますので、お二人さまを京都屋の多度津店にご案内させていただきます」

多度津にも店をお持ちか」

「大坂への廻船はほとんどが、多度津を発着としています。多度津に拠点が必要ですので、主の息が店を開いております」

「それで、わざわざ番頭どのが追いかけてくれたのですか」

「『ぜひ、今宵は多度津店に、お泊まりください』と、主のでございます」

「それは、ありがたい、舟は朝しか出ないということも知らなんだ」

「主が、ご案内すべきところですが、なにぶんにも昨夜の後始末もあり、家を空けるわけにいきませんので、くれぐれも、お詫びを申し上げます、とのことです」

「恐縮です。ご好意に甘えます」

「それでは、わたくしは」

 歯切れのいい声を残して小僧ひとりが先行した。

「頼みましたよ」

 すでに小僧は走り出していた、番頭の声が追いかけるかたちになった。ことの次第を多度津店に知らせるため、先行したものらしい。

 

 しきりに、太陽を気にしていた番頭が、四国八十八ヶ所札所・本山寺の寺前町で辻駕籠を止めた。

「お嬢様、申し訳ございませんが、今日中に多度津まで到達しとうございます。ぜひ、この駕籠にお乗りになってください」

 男だけの足になって先を急ごうとしているのだ。意を解した鶴姫は、言われるままに乗ったものの、初めての辻駕籠だった。左右の戸がない、屋根から垂らした簾だけだ。振り落とされないかと心もとない、どうしたものかと困惑していた。

「お嬢さま、足を横にくずして、背中を後にもたれて、そうそう、身体の力を抜いてください。目の前にぶら下がっている紐を手で持って、そうそう、楽になったでしょう」

「ほんに、楽になりました」

「それでは、行きましょうか」

 番頭が駕籠屋に合図した。

「ほいよ」

 二人の駕籠屋が声を合わせて立ち上がった。一台の駕籠に四人の人足がついていた。二人が担ぎ、四半刻(三十分)ごとに交代していた。こうすることによって休憩をとらずに長距離の歩行を可能にしているのだった。

 一行の歩行が加速した。

 薄暮のなか、店が見えてきた。「京都屋」という文字が扁額のなかに浮かびあがっていた。

間口は五間ほどしかないが、奥行はその倍ほどもあろうかと思われるほど縦長の家屋だ。本店のような塀はなく、回廊式に建てた家屋が屋敷全体を覆っている。屋号に京都を称しているだけあって、家屋の造作も京屋を模してあった。

 すでに営業の終わった店の前に、立っていた小僧が忠智らを見いだして中に飛び込んだ。入れ代わりに、あわてふためくように息子夫婦がでてきた。小走りに寄って、

「お疲れ様さまにございます、京都屋の倅・源太郎にございます、妻の千加にございます」

 源太郎は、齢・四十になろうかとする壮年で、やや丸型の顔が父親に似ているものの、眉や鼻などは母親似であるようだ。父親は「若夫婦が頼りない」といっていたが、恰幅のいい体型などで見る限り、りっぱな商人だ。さすが多度津で一、二位を競う商家だけあって、嫁は選び放題であったのだろう、妻の千加はうりざね顔の見目麗しい美人だ。

「急がせてすまなかったね」

 駕籠屋に駄賃を払う番頭の横で、鶴姫が「うーん」と声をもらしながら腰を伸ばした。

「つい、うとうとと寝てしまった」

忠智に寄ってきて耳打ちした。そして、いたずらをした少女のように首をすぼめた。そのあどけなさに忠智も苦笑していた。

 若夫婦に導かれて店の敷居をまたぐのと同時に、「いらっしゃいませ。」小僧たちが声をそろえた。あまりにも大きな声に、鶴姫と忠智は顔を見合わせた。

 

 二人は二階座敷に案内された。目の前に海を眺めることができる。夜の海辺はひっそりと静まり返っていた。

 すでに夜に没しているが、わずかな月明かりをとおして、かすかに小島が見えた。

「眺めの良い所だこと、明日の朝がたのしみ」

 窓際に立つ鶴姫のほつれ髪が、さわさわと海風にゆれていた。潮の香がしている。

「なんと、こんな海近くに屋敷があるのですか。それがしの国、石州では、外敵は海から侵入して来るものとして、海辺は怖れられてきた。だから、これほど岸辺に屋敷を構えることなどありません。あるのは、漁師の舟小屋ぐらいのもんです。すでに、数百年も過去のことになる元寇の後遺症を、今も引きずっているのかもしれないが」

「瀬戸内でも、過去には海賊が横行したと聞いています。今は、河野さまをはじめ小早川さまらが、海の安全を護ってくださいますから安心です」

「そうですの、石州でも、今は、海からの侵入より、隣国からのほうが脅威だ。」

「さあさあ、長旅でお疲れでしょう、こちらへお座りください」

 千加が鶴姫の手をとり、源太郎が忠智の背を押して座敷の上座に招じいれた。

「京都屋が賊の侵入を許してしまったということ、信じ難いことでございます。あれほど、慎重な父が…、もし、福冨さまがおられなかったなら、京都屋本店の身代すべてと父や母、それに大勢が殺された。考えただけで身の毛のよだつことでございます」

 畳に額を摩り付けるように礼を言う源太郎と千加の目に涙が溢れていた。

「いや、父上どのは、まったく面識のない、それがしらを親切に泊めてくださった、実にありがたいことです。賊を退治できたことは、父上どのの優しさと神仏のおぼしめしでしょう」

「まったく、そのように思います」

 京都屋多度津店の番頭が涙をながしながら忠智に両手を合わせた。

「まいった、番頭どの、それがしはこのとおり元気だ、拝まれても困る」

 おどける忠智に、「ワッ」と笑いがうずまいた。

「失礼いたしました。今宵は、福冨さまが京都屋多度津店におられることゆえ、賊も避けてとおるでありましょう、楽しく多度津名物でも食していただきましょう」

 多度津店の番頭が、「ポンポン」と手を打った。台所に知らせたのだろう、広い屋敷内があわただしさを取り戻した。

 息子夫婦には十歳の娘と七歳の倅がいた。それに、番頭、手代、小僧二人に女中二人の総勢十人だ。本店は、主夫婦、番頭、手代、小僧、女中を合わせて十二人だった。

 多度津店の番頭は、すでに齢五十を越えている。本店の番頭より老分であるようだ、若夫婦のために経験豊富な老分番頭をつけて商売を教える、父親の配慮が覗われた。

 老分番頭が先頭に立って、歓談の座を取り仕切り、雰囲気を盛り上げる動きは実に如才がない。

鶴姫も忠智も至福なひとときを過ごした。

「お嬢さま」といって鶴姫の面倒をよく見てくれる千加のこころづかいがなにより嬉しい。よく気のつく、心やさしい性格のようだ。話をする語調は、ひかえめで、ぽんぽんと調子よく話をする本店の妻女との違いがあった。

 京都屋は忠常らの旅に番頭を同行させたいと申し出た。

「番頭は旅慣れています。石見の国へもよく行っておりますので、お二人様の旅が不自由なく楽しめますよう努めさせていただきとうございます」

「ありがたいことですが、娘と二人だけで旅を続けて行きたいと思います」

 忠智は丁重に断った。

「明日は、六つ(午前六時)に金浦(このうら)行きの便があるそうにございます。予約をとっておきました」

 手代が襖をわずかに開けて主に耳打ちした。

「それは、よかった。明日は、金浦行きの舟がありました。小さな舟ですが、瀬戸内の海です、波は穏やかでございます」

「金浦は、どの辺にございますか」

福山城下の近くです」

「それは、ありがたい。福山から尾道へでれば石州へ抜ける街道がある」

鞆の浦なら上陸してからの便利がいいのですが、四、五日に一回しかでません」

「いや、どこでもいい、本州へ上陸さえすれば、あとは何処であろうとも、陸続きだ」

 

 翌日も、すばらしい天気だった。朝から清清しい風がわずかに肌をなでる程度だ。

「ようございました。天候もよく、快適な船旅を保障されたようなものです」

 京都屋多度津店の主夫婦と二人の番頭に案内されて湊へでた。

 白壁の倉が海岸を覆い隠すように並んでいる。横の路地を抜けると一気に視界が開けた。

「湊だ」

 うすくかかった霧が遠くの景色のみを消し、昨夜、うっすらと見えていた小島が目のまえで浮かんでいた。どこまでも長閑な風景が広がっている。

 鶴姫が大きく深呼吸をした。

 湊には、海辺特有のすえた臭いが漂っていた。天日干しの小魚や、打ち上げられた海草類の臭いだった。

 荷足舟(にたりぶね)や猪牙舟(ちょきぶね)など大小さまざまな舟が浮かんでいた。金毘羅参りの客が多く、湊ははなやいだ空気に包まれていた。大きいのは大坂や泉州の堺湊へ行く船のようだ。大船の近くに数隻の猪牙舟が舫ってあった。海面は静かで波はないはずなのに大きく揺れていた。その下を無数の小魚が群れをなして泳いでいる。

 鶴姫と忠智は、京都屋のこころ暖まる見送りを受けて船出した。

 忠智らが乗った舟は、十人ほどの客で満席になってしまうほどの小さな屋形舟だった。

 どちらかといえば、川舟に近い型をしている。船尾に「太平丸」と船名が書かれていた。

 全長が四間、幅が一間弱といったところだろうか、そのほぼ中央に二間ほどの屋形が建てられていた。室内には、茣蓙が敷いてあり、両舷の障子はいっぱいに開けられていた。

 部屋の中央を、一本の帆柱が屋根を突き越えて上に伸びていた。

 室内を移動するには、腰を折って屈まなければ頭が天井につかえた。

 部屋の後方入口近くに、竹を市松に組み上げた壁で隔離された半間四方の部屋が付けられていた。それが厠らしい。

 下帯姿の船頭が、二人で竹竿を一突きして、岸から舟を離して櫓に変えた。器用に二丁の櫓を操って進めていく。ギーコギーコと櫓を軋ませながら徐々に速度を増していった。 

 太平丸は一定のリズムをもって軋み、力強く波間を切り進んで行く。年間を通して真冬以外の季節は下帯だけの半裸姿で働く船頭の躰は赤銅色に潮焼けしていた。

 全身から玉のような汗が吹きだしている。

 湊を出てすぐのところに、二、三十隻の小舟が群がって漁をしていた。その上空を無数の白い鳥が乱舞している、カモメだ。まるで引き連れて漁をしているようだ。

 漁師舟の上を群れているカモメが、時々急降下して舟の中の魚をかすめとっていた。

「あ、カモメが、せっかく獲った魚を盗んでいく」

「あー、また盗った」

 姫がくやしがっている。

「お嬢さん、カモメは、魚が群れているのを見つけて集まっているんです。漁師に『ここに魚がいるよ』と教えてくれているのです。だから、漁師はカモメを大切にしているんです。おすそ分けしてやっているんですよ。」

「なんだ、そういうこと」

 大きなため息とともに、一気に興味を失った姫が視線を他に移した。

 

 

 今出た湊が後方に小さく霞んだと思ったらもう、そこに次ぎの島が見えていた。

 客は、金毘羅参りの帰りと思われる男が四人、商人が一人、供の者を連れた中年の武士、百姓の隠居らしい夫婦、それに姫と忠智だった。中年の武士は、帆柱を背にもたれて座った。その他の客は、両舷の窓際で適当な間隔を空けながら席をとっている。皆がいちように窓を背にしていた。窓の外を見ているのは姫だけだった。船頭が櫓を置いて帆を上げた。舟は、風に押されて速度を増した。櫓の音が消え、船側に当たる波の音が静かに船内を包み込んだ。

「いい風が吹いてきた」

 船頭が、脹らんだ帆を満足そうに見ながら竹筒の水を飲んだ。

 舟の中で会話はなかった。仲間内で話をするときには小さな声で、最小限の言葉を交わしていた。静かに流れる刻のなかで、ときどき鶴姫の声が跳ねた。

 姫には始めての船旅だ、次ぎから次ぎへと見えてくる小島を指差して、あれはなんという島かと聞き、「美しい」と声をあげていた。

 舟の帆は、風をはらみ順調に進んでいる。

「海の上って、気持ちのいいものですね」

 風が、夏の日差しに熱せられた二人の躰を冷ましてくれる。姫が舷側の手すりにもたれて大きく深呼吸をした。

 満帆の風をはらんだ千石船が、すぐ横を追い越して行った、大坂へ行く廻船の一隻だ。天を圧するばかりの大きな船体に、姫は目をまん丸くしてあ然としていた。

 舟のすぐ横を、小さな魚が飛んだ。次ぎから次ぎと波間から飛び上がり、水面すれすれのところを一間ほど飛んで水中にもどっていく。まるで、蝉が飛んでいるような動きだ。よく見ると水中に群れている魚が飛びあがっているのだ。それが、てんでばらばらの方角へ蜘蛛の子を散らすように逃げ出している。

「父上、魚が飛んでいる」

 座したまま目を瞑っている忠智の膝をゆすった。

「飛んでいるのか、魚が」

 どれどれというしぐさで、姫の指差す先を見た。

「本当だ、飛んでいる」

 不思議そうに見つめる二人をみて船頭が笑った。

「お嬢さま、そんなにめずらしいですか、あれは『アゴ』と言いますだ。上方では『飛魚(とびうお)』といいます。舟にびっくりして逃げているのですよ。なかには、まぬけなやつがいてね、舟に飛び込んでくるのもいますよ」

「逃がしてやるのですか」

「なんのなんの、食べてしまいますよ、アゴの味噌汁は旨いですぞ」

 

 舟は、瀬戸内海を北上していた。

「さあ、昼餉(ひるげ)にしましょう」

 船頭が、部屋の隅に置いていた竹篭から、竹皮の包を一人ひとつずつ配ってくれた。客のほとんどが横になっていた。舟酔いで青い顔をした者もいる。横臥したままの客は竹皮の包に手をつけようともしない。

 姫は、けろっとしていた。姫だけが元気で、島のひとつたりとも見のがさないと、外の景色を見ている。

 竹皮を広げて、高菜にくるんだにぎりめしにぱくついた。醤油味が高菜と麦飯に馴染んで美味しい。

「お嬢さんは、なかなかの健啖ですの、食欲が旺盛だ、見ている儂らも気持ちがいい」

 船頭が両膝を床について中腰のまま客の間を動き回り、水の入った竹筒を一本づつ配ってくれた。今朝になって作ったものらしく、竹の表皮は青く新鮮な竹の香りが食欲をそそった。「あれ、島が遠くなるよ、あの島へ向かっているのでしょ」

 おにぎりをほおばったまま、姫が突拍子もない声を上げた。

 今まで、前方に見えていた島・高見島が、いつのまにか横手後方に移っていた。

「潮流ですよ、瀬戸内特有の潮流です。あれを乗り切らなければ島に着けません」

 二人の船頭が帆を下すと、「エイホ、エイホ」と声を揃えてそれぞれの櫓を漕ぎはじめた。

 舟は、がくんと舳先に衝撃を受けて潮流に逆らった。

 

 高見島と佐柳島を経由して午後には北木島の大浦に入った。こんもりと潅木の茂った山が海岸近くまでせり出し、水際に大きく口を開けたが横一列に並んでいた。家屋の中が舟着場になっている。

 太平丸は帆柱が高いため、船屋には潜りこめない。家屋の横に作られている板の桟橋に着いた。

 今夜は、ここに泊まるようだ。金浦までは、無理をすれば一日で到達できるのだが、潮流の関係で二日かけて行くのだと船頭が説明してくれた。島と島の間は潮流が早いため、逆らって進むことは並大抵のことではないらしく、転覆する虞もあるということだった。

 桟橋に立った姫がよろめいた。

「なんや、宙に浮いているみたい」

 ふらふらと身体を揺らせながら船屋の外壁にもたれかかった。

 忠智も同じ感覚を受けていた。

「すぐ直りますよ」

 船頭が笑った。

 案内された宿は、船屋だった。

「舟を着けると、その上が宿とは、上手く出来てますね」

 姫が、珍しそうに、下の小舟を覗いた。チャッポン、チャッポンと一定のリズムを持った波の音が、係留した舟を撫でていた。

 

 客は、三組に分けられて別の宿へ移っていった。そういえば、船頭は三人いたことを思い出した。忠智らは二人だけだった。

 夕食の味噌汁に魚が丸ごと入っていた。

「これが飛魚ですよ、ここらでは、あごと言います」

 船頭に、説明せよとでも言われたのだろう、膳を運んできた女房が言った。

 舟から見た飛魚は、蝉のように小さいと思っていたが、汁椀に入っている魚は頭と尾が椀からはみ出ていた。

 生臭さなんて全く無い、あっさりとした味だった。

 思わず二人は「美味い」と声を揃えた。

 この時代、軍勢が遠征するときは、鍋や食糧、夜具すべてを持参していた。宿に泊まる場合であっても、自らの鍋で調理して食べていた。だから、その地方独特の調理法を知る機会は少ない。旅先の郷土料理も良いものだと気付いた。

「島と島の間が狭いね、こっちの島を出たときにはもう、次ぎの島が目の前、あれなら、泳ぎの達者な人なら泳いででも渡れますね」

「お嬢さん、それがですね、昔の話ですが、隣の島からやってきた嫁が、親恋しさに泳いで帰ろうとしたが、そのまま行方不明になってしまったということがあったんですよ。良人が舟で実家へ迎えに行ったが帰っていなかったということです。海の上は近くに見えても実際は遠いし、島と島の間には人に見えない潮の流れがあるんです、これに捉まると、どんなに泳ぎ達者な男でも持っていかれる。それに、人を食う魚も、うようよいます」

「人を喰うのですか、おそろしい」

「この島でも、片足を食い千切られた人もいます」

「恐ろしい、明日、舟に乗るのが怖い」

「あら、船屋の女房が、お客を脅してはいけませんよね、ご心配なく、舟上の人には決して襲ってきませんし、舟が転覆することも、絶対ありませんから」

 女房が、亭主に叱られるわ、と、大仰に首を竦めた。

 

 翌日早朝に出立した小舟は、真鍋島、北木島、白石島を辿りながら、昼過ぎには備中笠浦近くの金浦に上陸した。船着場に着いて、太い綱を岸壁に舫ったのを確認した客が、めいめいに代金を払っている。順番を待ち、忠智も払おうとした。すると、「お代は、京都屋さんから過分にいただきました」満面の笑みを湛えた顔の前で右手を横に振った。そう言えば多度津を出航のとき「京都屋さんありがとうさんで」と、ふかぶかと腰を折って礼を言っていたのを思い出した。昨夜も二人だけで一部屋をあてがわれた理由が分かった、特別待遇を受けていたのだった。通常であれば何組もが一部屋に押し込まれるのが当たり前である。

供連(ともづ)れの侍がいぶかしそうに忠智を見ていた。

「それは、申し訳ないことをしてしまった、船頭さん、こんど京都屋さんに会ったら、それがしが礼を言っていたと伝えてください」

 船頭のひとりに、心づけを渡そうとした。

「こういうものは、二重にいただいたら金毘羅さんの罰が当たります。それに、京都屋に押し入った夜盗を一人で退治なさったと聞きました」

 船頭は、笑みのまま忠智の手を押し返した。

「なに、そんなことを聞いたのか」

 忠智は困惑の表情をして、そそくさとその場を離れた。

「なにしろ、川之江城下を恐怖に陥れていた賊を、お一人で一網打尽になさったらしいぜ」

 後方で、話が大きくなっているようであった。 

阿波・雲霧城

 伊予国との国境近く、馬路川右手の小高い山に、小笠原長重の城がある。

 城山は川の両岸から急激にそそり立つ懸崖な山の頂にあった。背後には峰畑山(七四八メートル)が屏風のように連なっている。

 

 城内は戦支度でごった返していた。

 兵の顔は強張り、将士に叱咤されながら、せわしなく動いている。

 籠城を覚悟した姿であった。

 

「七郎、わたしは帰らないよ」

 忠智の顔を見るなり綾姫の第一声が飛んできた。忠智はなにも言えなくなった。

「このとおり頑固での、さすがは長弘さまの娘御よ。それでは、わざわざ石見から来た七郎左衛門の面目が立たん」

 取り付く島を失った忠智に長重が助け舟をだした。

「七郎左衛門には、すまぬと思っている。でも、わたしは小笠原長重の妻です。夫が命をかけて戦うというときに逃げ出すような女は、石見にはおりません。川本のお義姉さまだってそうでしょ」

 綾姫が、お義姉さまと言ったのは兄(長正)の妻太宝のことである。安芸高田郡五竜城主宍戸隆家の娘である。女ながらも強弓大力で勇名を馳せていた。

「わたしだって、一人や二人、射止めてみせます」

「よく分かりましてござります。ですが、…・・三好さまも、孫娘の婿であられる長重さまを、お討ちになられますでしょうか」

 忠智は、長重に『三好氏のところに出向いて身の潔白を証明なさい』と言いたかったのである。

「それは七郎左衛門が、わざわざ石見から来たことでもわかるであろう、小笠原どのは儂が三好之長に誅殺されるとみて、せめて妹だけは助けたいと思われてのことであろう。だが、儂は何もしていないぞ、儂が叛旗を翻していると言っているらしいが誰かの策謀であろうよ」

「三好さまは長重さまのお気持ちを、お聞きにはなられなかったのでしょうか」

「来いといってきたさ、根も葉もない噂に説明などいるものか。儂は行かなかった。それが悪かったようだ」

 長重が自嘲ぎみに言った。顔には、暗く寂しい影があった。

「…・」

「三好さまは厳しい人だ、自分に逆らう者は容赦なく抹殺する。たとえ、わが子であっても殺すであろう」

 長重は、すでに覚悟を決めているようであった。

「七郎左衛門、早々に立ち帰って父上に伝えてくだされ、『綾は夫とともに戦います』とな」

 時間をかけて説得するしかない。粘りづよくいくことだ。と、その日は退出した。

 

 しかし、異変は、その翌早朝にやってきた。

 三好軍が押し寄せてきたのだ。

 迅速をきわめた行動だった。

 またたく間に包囲されてしまった。

 それにしても敵がこれほどの大軍を動員するとは考えも及ばなかった。そればかりではない、城周辺の地侍までも引きいれてしまっていた。

 城の周囲では敵勢が益々脹れあがっている。昨日まで、わが麾下であった武将が平然と旗指物を翻し敵に加わっている。

「知らなかったのは、儂だけか…・」

 おのれの地盤で、これほどの下工作をされていたにもかかわらず何も気づかなかった長重は、おのれのうかつさに自嘲するしかなかった。特に、股肱の臣川辺三十郎の旗幟を寄せ手のなかに見つけたとき全身の血が滾(たぎ)った。降伏することは三十郎らわが臣に命乞いをすることである。長重には堪え得ることではなかった。

「やつらに頭など下げられるか」

 吐き捨てるように言った。

 長重の決断は早かった。

「武士らしく戦って死ぬ。逃げたい者は逃げよ」

 城内の兵に徹底抗戦を告げた。

 女子供らに混じって平然と退去する武将があった。

 これまでの恩義など、どこ吹く風、どうどうと逃げ去った。

「死んでしまっては元も子もない」

 彼らの言い分なのだろう。

―主従の絆は、これほどに脆いものなのか。

 忠智は衝撃を受けていた。忠智も六人の家臣に寝返られたばかりだ。

 衝撃は暗澹とした思いに変わった。

「信義というものはないのか」

 叫びたかった。

 もはや城を守りきるほどの手勢も残っていない。

 明日は敵の総攻撃であろう。圧倒的多数の敵が総攻撃を掛けてきたならば、この小城など、ひとたまりもない。

 客人とはいえ忠智も武士である、逃げ出すわけにいかない。長重とともに戦う決心をした。

 夜おそく、明日の討死を覚悟して三の丸館で寝ているところを長重に呼ばれた。

 本丸では甲冑に身を固めた長重と綾姫がわずかの重臣とともに座っていた。

 長重の端正な顔が蒼白となっている。眼は血走り、わずかな赤みが目元に差していた。死を決断した姿であった。

「お鶴を助けたい、石見の国へ連れて行ってほしい」

 長重と綾姫の願いだった。

 十三歳の鶴姫を彼岸へ連れていくには不憫であると言った。

 忠智は、引き受けた。

 鶴姫には、やえが付き添って行くことになった。やえは、重臣の娘で三十歳になっていた。常に、しずかでおとなしいが芯の強い女である。鶴姫は、姉のように慕っていた。

 長重は十人の護衛を隋けた。本丸に残っているのは三十名しかいなかったが、そのうちの十名を護衛としたのである。

 忠智は明け方の敵がもっとも熟睡している隙に包囲網を突破することとした。

 裏手の谷川を伝い、城山に連なる峰畑山を越えて伊予国へ向かった。

 敵は山の中腹から尾根にわたって野営している。谷川沿いは両側の斜面から急襲されたとき逃げ場がないという危険がある。だが、水の干上がった谷川など眼中にないだろうと思われた。

 忠智らは一列になって一言も喋らず歩いていた。喘ぎ喘ぎ、それでも歩みの速度は落とさない。緊迫感だけが疲れ切った躰を奮い立たせている。

 鶴姫は両親と別れた悲しみをぶつけるように黙々と歩いている。着物が夜露に濡れ、足元が重い。荒い息づかいが伝わってくる。ごろごろ転がっている石に足をとられて歩きにくい。

 男の忠智でさえ難渋しているのに、鶴姫とやえには踏破不可能に近い。二人は歯を食いしばって耐えている。

 一行は、ときどき止まって息をひそめ、耳をすました。厳しい眼を周辺に向け、深い闇のなかに何かを見つけようと凝視するが何もない、ほっとしてまた歩き出す。

 喉はからからだ。恨めしそうに渇いた川床をみた。足元では水が地中を通っているらしく清らかな音が聞こえている。だが、川底を掘り返して水を得ることは、忠智らが通過したという痕跡を残すことになる。

 

 重い足を引きずって歩いた。

 険しい山稜の頂きは厚い雲に覆われていた。

 突然、清冽な流れが現れた。

 忠智が山蕗の葉で水をすくって姫に渡した。鶴姫が一気に飲み干した。わずかに、苔の味が残る冷たい水だ。

 色白で、ふっくらとしていた姫の顔から血の気が引き、やつれた頬に一本の髪の毛がこびりついていた。

 

 忠智は城を脱出して直ぐ闇に紛れて消え去る護衛の士を、悲痛な面持ちで感じ取っていた。次ぎから次ぎへと消えていく。

「去る者は去れ」

 叫びたい気持ちを必死で黙殺した。おのれの臣ではない彼らに逃げるなと言える立場ではない。逃げた士にも親や子もある、家族を残してまで他国へ行くことなどできないのであろう。

 七人が逃走した。残った護衛は、三人の士だけとなった。

 

 あと、すこしで敵の包囲網を突破できるというとき、後方でざわめきが起きた。

 敵に見つかった。

 三人の士が迎撃の覚悟を決めた。

「ご尊名を」

 忠智が聞いた。

「蘆田三郎裄綱にござります。これまで長重さまからいただいた御高恩に報いたいと思います」

「前山源三光盛にござります」

「盾川五郎貞芳。姫を、よろしくお願いいたします」

「受けたまわった」

 忠智の力強い激励を受けた三人が多勢の敵に対し、生還に一縷の望みも掴みえない絶望的な突入を果たした。

 忠智は闇のなかに消えた三人に頭を下げた。

 部下は大切に労わり、その心を掴まねばならぬということが身に沁みてわかった。

 いざというとき、主人を裏切って自分の保身を考える家臣に対する憤怒も、いささかながら緩くなっていった。

 父治堅の死去に乗じて都治家へ鞍替えした田多神次郎らに対して、一度も話しかけることなどなかった。主という立場に胡坐をかいていた自分に気付いた。

 

 男は忠智だけとなった。忠智が姫とやえを連れて逃げなければならない。

 

 対面の尾根から火の手があがった。すさまじい炎が朝霧を赤く染めている。

 あの火炎は鶴姫の両親が生涯を閉じたことを知らしめている。

 そのとき、城では長重と綾姫が最後の決断をしていた。

「一族で命の取り合いをすること、わが本意にあらず」

 二人は家臣すべてを城から退去させたのち、本丸に火を放って自刃した。敵の総攻撃直前だった。

 鶴姫とやえは息をつめ無言で見つめている。もはや帰る家とてない。

 鶴姫の顔には表情が無い。突然、噴出した過酷な運命に気持ちがついていかないのであろう、虚ろに、赤く染め上がった空を見ていた。

 忠智も綾姫を石見へ連れ帰ることができなかった。御屋形の心を思って、暗澹とした思いに胸が押し潰されそうになる。さらに、死ぬことが分かっていながら長重と綾姫を残して脱出したことに、忸怩とした感慨にとらわれずにはいられない。

このうえは命のつづく限り姫を護りとおすことだ。

 それが長重に対して、せめてもの手向けになる。

 懊悩とした動揺が緊張した姫の顔に現れている。

 忠智の死は即ち姫の死に繋がる。おのれがしっかりしなければ皆の不安を取り除くこともできない。

「さあ」

 押し殺した声で皆をうながした。いつまでもここにいてはだめだ。敵の追跡をかわさなければならない。

 重い足どりで歩み始めた姫が一度だけ城の方角を振り返った。

 

 一行はながい時間を費やして、やっとのことで尾根を越えた。

 山の向こうには幾重にも連なる山塊がとめどもなく広がっている。

 伊予の国までは、人里を離れ山中に身を隠して逃げなければならない。

 気の遠くなるような距離だ。

 小鳥の啼き声が森の中を飛び交っている。

 陽が中天を過ぎた。ひとまずは追跡を振り切ったようである。

 山道を避け、獣道を辿って山を下りると、また傾斜のきつい上りとなっている。昨夜から幾度も上り下りの繰り返しだ。

 三人は重い足を引きずりながら、深い木々の間にもぐりこんで行った。

 忠智らは西へ向かって歩いていた。昼は太陽を、夜は星を見て方角を見極めた。

 できるだけ早く危険から脱したいと、ひたすら歩きつづけた。

 落ち葉を踏み、シダをかき分け、潅木を越えながら歩くうち、方位を見失っていることに気づいた。

―ここは何処だ。今、歩いているのは讃岐を東西に横たわる山脈のはずだ、西へ行けばいいはずだ。

 忠智は不安に襲われていた。しかし、心の動揺を面に出すわけにはいかない。冷静を装って黙々と歩いた。

―とにかく、人家か街道に行き当れば…。

 心のなかで念じていた。

「キー」

 唐突に鋭い鳴声が響いた。ぎくっと立ち竦(すく)んだ一行は、すぐ近くの崖上にいる鹿を見つけた。仲間に知らせる警戒音だった。

「びっくりしたなもう」

 鶴姫が照れ隠しに小石を拾って山のなかに投げ入れた。

 その夜は岩陰で野営した。

 そこは砂地だった。上部が屋根のひさしのように突き出た岩は雨の侵入を防ぎ、幸いにも砂が乾いていた。獣の足跡が無数に残っていたが、それはいずれも通過した跡だった。

 忠智が砂を盛り上げて枕をつくり、やわらかな雑草を敷きのべて寝床とした。一番奥に鶴姫を寝かせ、その横にやえを寝かせた。

 戦陣では土の上に莚を敷いて、甲冑のまま夜掛一枚を羽織るだけで過ごすことの多い忠智は、夜露にも耐えることのできる身体を持っている。外で寝ることのない姫ややえには堪えるだろう。薮椿の小枝を大量に切り取って二人を覆い隠した。幾重にも重ねた木葉が、わずかなりとも冷気を和らげてくれるはずだ。

 忠智も仰向けになって思いきり手足をのばした。砂が身体の曲線に馴染んで、なんとも気持いい。

 山峡の夜は静まり返っている。山の生き物すべてが寝ているような静寂が過ぎていく。

 わずかな風の音に混じってかすかに狼の遠吠えが聞こえてきた。ずいぶん遠くのようだ。

 目の前につきだした自分の手さえ見えない漆黒の闇中に、数匹のホタルが優雅な曲線を描いて飛び交っている。蛍の時期は梅雨時だ。季節はずれの蛍だった。それでも青白いほのかな光りは忠智の心を癒してくれた。梅雨の一時期、四ッ地蔵城の前濠を無数の蛍がやわらかな光りを発しながら乱舞する。忠智は幼い頃、虫篭と竹箒を持って蛍狩をしたものである。

僕従の佐平が作ってくれた竹の虫篭は、薄い和紙を張って蛍専用としたものだった。竹箒で払い落した蛍を集めていれると、虫篭がほんのりと明るくなってくる。実に幻想的だった。

 こおろぎが鳴いている。手を伸ばせばとどきそうな近くだった。

 秋口の山中は寒い、鶴姫とやえは寄り添って寒さを凌いでいる。横たわっているが寝ていないのだろう、眼を閉じ長い夜を堪えているようである。姫の気持を思うと締め付けられるような痛みを胸に感じる。心の奥にこみ上げる索漠感に押し潰されそうだ。

 忠智もうとうととしていた。

 忠智の背を、ぞっとする戦慄が奔った。背筋がぞくぞくと震え全身総毛立った。

―殺気だ。

 夜目にもみえるほど身の毛がよだった。

「起きなされ」

 すばやく身を起した二人が真っ暗闇で身構えた。

「立つのだ」

 忠智が二人を背にして立ちあがった。

「狼だ、狼の群れが我々を狙っている」

 二十間ほどしか離れていない林のなかに異様に光る眼があった。、燐光を放つ無数の眼が微動だにせず、こちらを見ている。獲物を襲う目だ。

「ずいぶんいますね。大丈夫でしょうか」

「狼は立った人間には、めったなことで襲ってくるものではない。だが、狼は縄張りをもつ動物だ、それを荒らせばただではすまない。襲ってくるときは群れをなしていっきにくる。一匹や二匹殺したところでなににもならない、よってたかって食い殺される。決して姿勢を低くするな。やつらは人間の急所が喉もとであることを知っている。喉もとを食い千切られたら終りだ。どんなことになっても、ここから動くな、やつらは頭がいい、我々をばらばらに離して一人ずつ殺していこうとする」

岸壁を背にして三人が一塊となった。

「ここに居る限り、狼は左右と前方からしか攻撃できない、人間の一番弱い背後と頭上は岩が遮っている、護るには絶好の場所だ、絶対に動くな」

 群れから、猛々しい眼をした一匹が、ゆっくりと間合をつめてきた。頭を低くし唸りを発している。攻撃態勢だ。じりじりと輪がせばまってくる。

忠智らは、狼の縄張りを侵したようだ。

 忠智が抜刀した。小太刀を抜いてやえに渡した。

「やえ、火を焚いてくれ」

 忠智が、やえを背後に隠した。

 夕方、忠智が枯れ木を集めていたのを、やえが思い出した。手探りで集めて、火打ち石を叩いた。

 ぼっと辺りが明るくなった。枯れ木に点いた火が、勢いよく燃え上がった。

「どんどん燃やせ、そこの青竹も燃やせ」

 言われるままにやえが火を大きくした。

「パーン」

「パーン」

 凄まじい音をだして青竹が破裂した。音は山峡にこだまして大きさを増し、谷間を行き交った。

 三人を包みこんでいた殺気が消えた。闇のなかの不気味な眼も消えていた。

「危なかったの、火を焚けば、追っ手に見つかるかもしれないと、焚かなかったのが災いした。焚かなければ、狼や山犬に襲われる。今のはおそらく山犬だったのだろう。狼ならあんなことで逃げはしない。一晩中、火は絶やしてはいけない。獣は、火を怖がるから、火が燃えている間は襲ってこない。火は、それがしが見ます。二人は安心して寝てくだされ、明日も一日中歩かなければなりません、体力を保つには睡眠が一番です」

「それでは、福冨さまが…」

 やえが、わたしも火の番をしますと言った。

「いや、やえもゆっくり寝てくれ、それがしは、何日も山に籠って剣術の修業をしている、一日や二日寝なくて、へこたれるような軟ではない」

 忠智が、立ちあがって焚き火の回りを飛び跳ねた。仕草が可笑しかったのか、やえと姫が声をころして笑った。再び、二人を小枝の中に潜り込ませた。火の番と言っても、ただ、火が消えないように見守るだけではない、さきほどの狼が再び襲ってくる虞がある。気配を消して一気に寝込みを襲われたら忠智といえども遅れをとるだろう。やえに任すわけにはいかない。

焚き火が岩陰を暖め、身体の緊張を溶かしていく。

「やっぱり、火はいい、炎を見ていると心が落ち着いてくる」

 しみじみと思った。

 

 朝になった。冷たい霧が足元を流れゆく清冽な朝だった。

 寒い。

 両腕に立つ鳥肌を手のひらで摩りながら、忠智が立ちあがった。

 近くを流れている川へ行って篭をあげた。昨夜、道端に延びている蔓を切り取って、細長い篭を編み上げ、みみずを入れて水中に仕掛けていたのだ。

 篭には、三匹のうなぎと無数の手長えびが入っていた。背開きにしたうなぎを一寸ほどに切り、手長えびとともに、竹串に刺して焼いた。焚火の煙は濃霧に消されている。これなら敵に見つかることもないだろう。

 良い香りが漂ってきた。

「できましたぞ」

 忠智が、焼きあがったうなぎに塩を振りかけて、姫とやえに渡した。

「おいしい」

 ふと、やえが立ち上がり、山肌に自生している山椒の葉を採って、手のひらで、ぱちんと派手な音をたてた。香ばしい湯気の漂ううなぎに山椒の葉を載せた。すばらしく良い匂いが鼻腔をくすぐった。

「さすがだ、良い香りだ」

 忠智が、鼻をならした。

 鶴姫の顔に微笑が浮かんだ。わずかではあるが、脅えのかげりが薄れている。

「ひとまず、窮地は脱出したでありましょう。今日は、人里にでます。しっかりと食べて元気をつけてください」

 忠智もかぶりついた。意外と旨かった。

 安堵の気持ちを持ったことが、食欲をそそったのか、鶴姫とやえも乾飯を食べ、うなぎをほおばっている。

「おいしい。手長えびも、なんとも香ばしくてうまいですね」

 幾度となく、口からもれてくる。

 

 一つの尾根を乗り越えて下りきったところに沢が流れていた。ほとんど水のない谷川だったが、道は、そこで忽然と消えていた。対岸はびっしりと羊歯が生い茂り尾根への上り口が分からない。

「道は、あるはずだ」

 忠智は岸辺を這うようにして羊歯の下を掻き分け、行き来して道を探した。

「やっぱり道はあった」

 探し当てた道は、あるようなないようなところだった。

 忠智は羊歯のなかに踏みこんで行った。そこは未踏の地ではなく、けもの道でもない、明らかに人が通った形跡があった。猟師が何回も通ってできただろうと思えた。地表はやわらかな土が露出して気持ちのいい道だったが、羊歯でさえぎられて土は見えなかった。足元が見えないと、なんとも心もとない。足で探るように歩いていた。

 

 突然、切り立った崖の縁に出た。

 木々の隙間を通して、はるか彼方に海が見える。海面は白く輝いていた。海は荒れているようだ。海岸のすぐ近くに、ぽつんと単独で座している小高い丘の上に、城らしい建物があった。その周辺にはかなりの数の家が見える。それが、何処なのかは分らなかった。

伊予国だ」

 忠智が指差した。

 良く見ると崖の下に道があった。

―やれやれ、助かった。

 崖の縁をたどって道に下りた忠智が安堵のため息をついた。

 急峻な斜面につけた道は、大きく蛇行しながら下っていた。谷は深く、見下ろすのも躊躇するほどの絶壁だ。

 もはや、敵線をくぐり抜けたであろう。

「もう、すぐそこに人里がある」

 構える心に緩みが生じていた。

 道に突き出た巨岩を迂回するように、大きく曲がったとき、不意に前方を塞がれた。数人の野武士が行く手を遮っている。

 まったくの突然であった。

 総勢六人、いずれも日焼けした精悍な男たちだ。

 殺気がこもっている。

 野武士は、ずいぶん以前から忠智らを追跡していたに違いない。

 崖道の右手は、岩はだが露出した急斜面であり、左手は、深い谷になっている。

 地形をうまく利用した、みごとな包囲であった。まったくの不意打ちだ。

 万事休す。忠智は、命を賭して戦うしか逃げ道のないことを悟った。戦場で数々の修羅場をくぐり抜けているだけに、なにがあっても動じない肝太さは身についている。瞬時に戦いの気迫が漲(みなぎ)った。

 敵は、無言であった。口元にうすいを浮かべていた。三人を標的にしているということは、としたが全てをものがたっている。頭領らしい男のひげ面は、頬が大きくれていた。刀傷だ。

 忠智が、大刀を静かに抜いた。

「やえ、死にどきを誤るでないぞ」

 忠智が、正眼の構えをとりながら、やえに言った。

『忠智が遣られたら、姫の始末をし、自らの命を断て』と言ったのだ。

 先頭の野武士が突進してきた。荒っぽく力強いだけの太刀さばきだった。隙だらけだ。

―大したことない。

 忠智が余裕をもって躱(かわ)した。

「やえ、はやまるでないぞ」

 忠智が言い直した。

「こんなやつらに負ける儂ではない」

 何人いようとも、所詮は野武士の剣法にすぎない。

「はい」

 毅然とした声が後ろから聞こえた、姫の声だった。

 

 とてつもなく背の高い、髭面の男が無鉄砲に突進してきた。剣術の心得などまったく無い、体当たりと同じだ。余裕をもってを躱(かわ)すと、そのまま前のめりに走って谷に落ちた。

 横から袈裟斬りがきた。力任せに叩いてきたと言ったほうが良さそうだ。これを、まともに受けてしまえば忠智の剛刀といえども、ひとたまりもなく折れてしまう。

 忠智が、うしろに跳びすさった。空を切った野武士が態勢を立て直そうとした瞬間、地を蹴って間合いに飛び込んだ忠智の太刀は、ふかぶかと野武士のわき腹を裂いていた。野武士が大仰な声を残しながら谷へ消えていった。

 すでに、次ぎの攻撃が忠智の身に迫っていた。上段から打ち下ろされる刃を太刀で受け止め、そのまま撥ねあげた。間髪入れず敵の首筋を払った。ヒューと凄まじい喘鳴が洩れた。

 敵は、崩れるように倒れながら、頭から谷へ落ちた。首根から噴出する血しぶきが、霧を赤く染めた。

 野武士は次々と打ち込んでくる。間断なく繰り出される白刃を、ひたすら耐えつづけ、隙をついて斃(たお)していった。

 そのとき、忠智の背筋をすさまじい殺気が襲ってきた。

 一行のなかでは、一番年嵩(としかさ)らしい男が、後方から忠智めがけて手槍を投げつけたのだ。

 太刀で叩き落とす余裕がなかった。咄嗟に躰(たい)を開いて躱(かわ)した。

 槍は、忠智をすり抜けた。

「う」

 後方で、うめき声がした。

 やえの声だった。

 手槍が、やえの胸を貫き、剣先は背に突きでていた。熊や鹿など大型の獣を仕留める鑓だった。

 やえは、姫の前に立ちはだかり盾となっていた。

「しまった、やえ、大丈夫か…・」

「やえ、死んではだめ」

 姫の絶叫が山峡にむなしくこだました。

「やえ、しっかりしろ」

 忠智が、狂鬼と化して野武士にぶつかった。凄まじい斬撃が野武士を襲う。

 忠智の白刃を受けた野武士が、次々と谷へ落ち、絶叫が深谷に消えていく。

「やえ」

 鶴姫の絶叫に、我に返ったとき、野武士の姿が消えていた。

 すべて忠智の剣尖を受けて、谷へ転落していったのだ。

「やえ、しっかりしろ」

 やえの顔には、すでに死相が表れていた。

「姫さまを…」

 最後の声だった。

 激しく泣きながら肩をゆする鶴姫に、やえの応えはなかった。忠智は、血刀をさげたまま悄然としていた。

 

 遺髪をとり、亡骸は山裾に立つ一本杉の根元に埋めた。野菊を供えて両手を合わせた。

「やえ、すまないことをした。姫は、それがしが護る。安心してくれ」

 忠智も泣いた。やえを護りきれなかった悔恨に、しばらく茫然と跪いているだけであった。

 

 つづら折れに、だらだらと下る道の先に集落が見えた。深く切れこんだ谷の底に川が流れている。川幅は狭いが水量は多いようだ。山々の隙間にわずかばかりの萱葺屋根がへばりついている。今夜は、野宿をしなくても済みそうだ。

 集落に圧しかかるように、真っ黒い雲が低く垂れ下がっていた。くっきりと見える黒雲の底が集落のすぐ近くまで迫っている。あの黒雲の下に潜りこまなければ村に入れない。思わず躊躇してしまうほどの威圧感だ。

 山を下りきると、水量の多い小川につき当たった。手足や身体についた返り血を洗い流した。そして、血に濡れた刀を水流に浸して丁寧に洗った。 

 水車がゆったりと回っている。久しぶりに見る人里の気配だ。死の絶望から脱出したという確かな手応えを感じた。

小屋の引き戸を空けたが、中に人の気配はなかった。水車の回転によって上下する杵は止まったままで、軸だけが空回りしていた。

小屋の横に群生している白い野菊が薄暮のなかに浮かび上がっていた。

 すさまじい稲妻が奔った。耳をつんざく雷鳴が山に反響して二人の腹を震わせた。

雨が降りだした。正面から横なぐりに顔を叩いて、目を開けておれない状態となった。口を大きく開けて呼吸をしなければならないほどだ。

 忠智が姫をふり返った。全身濡れねずみになっていた。

「頑張って下され」

 忠智の声が豪雨に消された。

 差し伸べた左手を、姫が、しっかりと握った。雨に濡れている手がわずかに震えていた。

 小屋の前を小川沿いに下って村に入った。静まりかえっている。

 峠から俯瞰した村には平地がなく、山の斜面に一、二軒の家屋がへばりついている集落に見えたのだが、村に入ってみると山奥にはめずらしく萱葺の高屋根をもつ家が点在していた。

 それでも、往来する者も無く侘しく深閑とした村だ。

 すでに、村は視界を失いかけていた。天をつく萱葺き屋根の頂きは闇に没している。

 二人は、村はずれに建つ一軒家の戸を叩いた。屋内に、人の気配はあるのに、なかなか出てこない。二人は、ずぶ濡れであった。鶴姫の唇は寒さのため紫色に変わっていた。忠智ひとりなら、先ほど通りすぎた水車小屋でもいい。だが、もはや豪雨のなかに鶴姫の身をさらすことはできない、執拗に戸を叩いた。「どうしてもでて来ないようであれば、戸を蹴破ってでも押し入る。」最後の決断をしようとしたとき戸が開いた。

 やっと、出てきた男の眼には、脅えのかげりが走っている。

「主命により旅をしている者だ。道に迷い、難渋している。今宵の宿を頼みたい」

 男は、「それは、大変でございましょう」といいながらも、「貧しい百姓でございます」

くどくどと言い訳をしている。旅の者など、泊めたくもないと言いたいのであろう。

 男の眼は、しきりに忠智の背にいる姫を盗み窺っている。けげんな顔が困惑に変わった。

「このようにずぶ濡れだ。どのようなところでも良い」

 忠智らは、強引に家に入った。

 

 土間では、藁束に囲まれて女房が縄を編んでいた。土間の左側に、いろりのある板の間があり、土間の右奥にも一坪ほどの板の間があった。屋内は、それがすべてだった。いろり端で赤子が寝ている。

 悪いやつではなさそうだ。しかし、表面上は、善良な民を装った匪賊村だということもありえる。

 忠智がすばやく、屋内を見てまわった。

「家族は、これだけか」

「へえ、三人だけです」

 男が、あきらめた声で、女房を促(うなが)した。

 女房が、いろりの火を熾した。煙がどっとたちあがり萱葺きの屋根に吸い込まれていく。

 忠智が銀粒を渡した。見たこともない大金だといった態度で、ものめずらしそうに見つめていたが、明朝には出て行くと言ったことが効いたのか、たいそう機嫌よくなった。

「申し訳ございませんが・・洗い桶がないものですから・・外の小川で足を洗ってください、すぐに、風呂を沸かしますが時間がかかりますので…」

 男が指さしたあたりに、小川が流れているらしかった。

 すでに、暗くなって、こちらからは何も見えない。さきほど、山を下りて小川に沿って歩いてきたのを思い出した。

踏み石も上がりかまちも必要のないほど低く設えた座敷に、直接腰を落として二人は草鞋を解いた。

囲炉裏の端に寄って手をかざした。手の平から伝わる温かさが全身の緊張をほぐしていった。

 沸いたからと案内された風呂は、家の裏にあった。

 星が輝いていた。

「あの豪雨は、いったい何だったのだ」

 忠智と姫が顔を見合わせた。

 風呂場は、粗末な荒土の壁に囲まれた杉皮屋根の小屋だった。入口の右側に焚口があり、ちょろちょろと赤い炎が外にこぼれていた。

 戸を空けると、土間にスノコ板が敷いてあり、奥のかまどに釜が載っていた。その上に桶が取り付けられて八分目ほどの湯が溜まっていた。忠智も初めて見る風呂だった。

 石見地方で、風呂といえば釜で沸かした湯を桶に汲み取って身体を洗っていた。それも冬場だけのことである。夏は、井戸や川で済ますことが多い。今で言う行水であった。

それにしては、釜の上に桶が固定されている。身体を洗うときには座して、湯を汲むときには立たなければ手はとどかない。不思議な風呂だった。

「すまぬが、この娘に入浴方法を教えてやってはくれまいか」

 女房に頼み、忠智は焚口の腰掛石に座った。

「え」

 女房が意外そうな顔つきで振り返った。

「すまぬ、この娘は旅になれてない、早く濡れた着物を脱がせたい」

 姫を自分の娘だという言い方をした。忠智三十四歳、お鶴十三歳、ごく普通の父娘になった。

 忠智の説明に納得した女房が鶴姫とともに風呂場に残った。

「この敷き蓋に足を乗せて、沈ませながら身体を浸けるのですよ」

「え。この釜の中に浸かるのですか」

 鶴姫が驚いている。

「えー、そうです。そこに足を掛けて、ほら、片足ずつ入れて、この板の上に両足を載せてから、体を沈ませるのです」

「温泉に入る要領でいいのですね。温泉へは入浴したことあります」

 鶴姫が驚いたのも無理ない。この時代、温泉場以外で湯の中に体を浸ける習慣がなかったのだ。ほんの数年前(室町時代初期)から、風呂というものが出回ったが、釜で沸かした湯を汲み取って体を洗うものであった。

 女房が、いそいそと動き、鶴姫の面倒をみてくれている。突然、快活な笑いが浴室から立ち上がった。

「あわてなくてもいいのですよ、そうそう、ゆっくり、ゆっくりと足で押さえていくのです」

 鶴姫が失敗して浮き蓋に逃げられたらしかった。鶴姫も笑っている。

「釜に入るなんて私が料理されるみたい。あー、いい気持ち」

 鶴姫が吐息を洩らした。緊張から安堵に代わった安らかな声だった。

「私の家では、別の場所で沸かしたお湯を、風呂桶に入れるのですよ」

 鶴姫が、ゆっくりとかみしめるように、言葉を選びながら女房と話し出した。

「ここら辺りでは、もうずいぶん前から、このような風呂があるのです。そこの窓に樋を通すと谷川の水が桶に流れ込むようになっているのですよ。これだと、谷川から桶を担いで水を入れる必要もありませんしね、楽です」

「すばらしいですね。あーいい気持ち。これなら温泉の入湯と同じです」

「いちど、ここへ上がってください、お身体を流しましょう」

「女房殿、すまぬことですの」

 焚口から礼をいう忠智に、「いいえ」とこたえる女房の声が揺れていた、せっせと姫の身体を洗っているようだ。

 女房が自分の帷子(かたびら)を持ってきて着替えさせた。

 忠智には、男の着物をだしてくれた。洗濯糊が利いて気持ちよかった。

 女房が濡れた着物を裏の軒下に干してくれている。

いろり端に熊毛の敷物を広げて二人を座らせた。雨と寒さから開放された二人の体から、緊張が吐息となって消えた。

 一匹ずつ串刺しにした魚が数十本いろり端に立てられていた。やまめだった。香ばしい匂いが食欲をそそった。

「手前製ですが…」

 土間の壁際に置いてある黒い甕(かめ)から掬ったどぶろくを、お椀に淹(い)れて忠智の前にさしだした。

 甕は、土間に埋もれ、口先だけが出た縁に布を被せて、荒縄で括ってある。その上に木の蓋がしてあった。

 酒にあまり強くはないが、今までの緊張と疲れから、少しだけ飲むこととした。

 口に含むと麹の香りが鼻腔に広がった。ほどよく酸味の利いた旨い酒になっていた。適度に冷えていて、すっと喉を通過した。気分がゆったりとしてきた。

やまめを肴に飲んでいると、酒に弱い忠智でも、いくらでも飲めるような気がした。

 女房が、鍋に肉片と野菜を入れていろりに吊った。

 土間に下りた男が、鉈(なた)と鑿(のみ)に似た道具を持ち出し、丸木を器用に削って杓子と箸を作った。

「なにしろ、客用のおわんがありませんので…」

 土間の奥から持ち出した荒削りのお椀二個を丁寧に洗った。木を削っただけのものだ。

 男が、いとも簡単に作った杓子は、みごとなできばえだった。杉の香りが食欲をそそる。

「かたじけない、造作をかける。それにしてもこの杓子は、すばらしい作りだ」

 忠智が、杓子を持っていろいろな角度から見つめている。

「これが本職ですから」

 男が、指差した土間の奥には、小さな板の間があった、作業場らしかった。そこには、粗削りのおわんが山積みとなっていた。男が本職だと言ったのは木地師だった。川之江城下の漆器屋に納めていると言った。

「なるほど上手なわけだ」

「この辺りの家は、ほとんどが木地師です」

 山奥であるにもかかわらず、あちこちに点在する家屋は大きくりっぱな造りだった。当時、百姓の家屋で床張りの座敷をもっているものは少なく、土間の一部を仕切って藁をならべ、その上に莚を敷いたものがほとんどであった。この家は、普通の百姓家とは違って、小さいながらも座敷があり、風呂もある。木地師だということを聞いて忠智が納得した。木地師なら収入もあるのだろう。

「儂らを取り仕切っておられる頭領さまは、とても優しい方です。たくさんの木地を作るには強制ではだめだ、皆が自ら競い合ってつくることが必要だと言って、出来高に応じて手当てをくれます。お陰さまで、このような家も持つことができます」

「なんとのう、そのような考えもあるのか」

「儂らは、仕事を楽しんで精一杯、働いています」

百姓からは年貢を取り、木地師のような物造りの者には、製作数量を課すことしか頭にない社会通念上からいえば、ふしぎな考えだ。だが、出来高だけを見れば、競争をさせるほうがいいということか。忠智にも、考えの及ばない社会であった。ふと、弟の正秋を思い出していた。商家の養子となった正秋には理解できるだろうか。

 鍋には、うさぎの肉が入っていた。たっぷり入ったキノコと野菜に肉の旨みがしみこみ、とろけるような旨さをだしている。皮をむいた小芋が丸ごと入っていた。杓子ですくって箸を立てた。ほどよく煮あがっている。フーフーと息をふきかけて冷まし、姫に渡した。忠智が口にほおばるのを待って、姫も口にいれた。甘く粘りがある。

「美味い」

 二人は思わず顔を見合わせ、ほころばせた。久ぶりに食べる温かい食事だ。

「先ほど、この先の山中で野武士に出遭った」

 忠智がさりげなく言った。

「六人ほどのやつらでございますか」

「そうだ」

「やつらには、この村もほとほと困っております。村の野菜や食べ物を、わがもの顔で盗って行く悪たれです」

「村人に、危害は加えないのか」

「そこまでは、しません。やつらは、われわれを殺せば食糧も強奪できなくなることを知っています」

「……」

「お武家さまには、なにもしなかったですか」

「あー…」

 忠智が言葉を濁している。『始末したよ.』と言えば喜ぶであろうが、万が一、この村にかかわりのある者がいたら面倒なことになる。

 肉と野菜が少なくなった頃合をみて、鍋に蕎麦を入れてくれた。蕎麦の雑炊で満腹になった二人は、満ち足りた気持ちで箸を置いた。

 囲炉裏の炭が勢いよく弾いている。夫婦が、灰をかけて火勢を抑えた。そして蚊よけのため、湿らした蒲の穂を熨(の)せると、たちまち煙が屋内に充満した。

 いろり端に、うさぎの毛皮を接ぎ合わせた敷物を広げてくれた。

 二人は、その上に横になった。うさぎの毛が、やわらかくて気もち良い。

「朝がたは寒いでしょうから」

 女房が姫の身体に夜具代わりの着物をかけてくれた。普段は、木箱にしまっているのだろう、楠の香りがかすかについていた。

 夫婦は、作業場にござを敷いて寝るつもりらしい。縄を編んで作った篭に赤子をいれて土間に下りた。

 脱出したその日は、一睡もせず、二日目は山峡の岩陰でまどろんだだけだった。

 三日目になって、やっと安らかな眠りにつける。

 忠智の体力も、もはや限界だ。睡魔にひきこまれ、薄れゆく意識のなかで、姫のすすり泣きを聞いた。あまりにも過酷な運命に堪えきれなくなったのであろう。

 忠智が、横になっている姫の肩を、そっと抱いた

 瞬間、姫の身体がぎくっと強張った。

 忠智は、やさしく姫を抱きながらじっとしていた。忠智の手には、わが娘をいたわる優しさがあった。

 姫が、忠智のふところに顔をうずめた。体が小刻みにふるえていた。

 姫の体から、すーっと力が抜けてきた。

 二人は、たちまち深い眠りに入った。

 

 四日目となった。

風呂場の横に、山水を引いた流し台がありますから、そこで、顔を洗ってください。と勧められて家の裏にでた忠智は、ふと立ち止まった。

「どうしたのですか」

 後ろから鶴姫が訝(いぶか)しみの声で訊(き)いた。忠智が、黙したまま指差す先には大きな池があり、黒く丸々に太った鯉が群れをなして泳いでいた。

「ここら辺りでは、ほとんどの家が鯉を飼っています。もともとは、飢饉や災害の時に食べるつもりで飼っていたのですが、下の大川では、山女や鮎などがいくらでも捕れますから、鯉を食べる者はいないようです」

「これだけ大きくなれば、愛情も湧きますよね」

 鶴姫が、池の端に屈んで「ぽんぽん」と手を打った。音を立てて集まってきた鯉が、水面から口をだして姫の指先を吸った、人に慣れた鯉だった。

 風呂場の横に、直径二尺(約六十六センチ)ほどの丸太を二つ割りにした流し台が据えられていた。その横には、大きな自然石をくりぬいた水瓶があり、懸樋(かけひ)を伝って流れくる山水が清らかな音をたてて落ち込んでいた。

昨日は気付かなかったが、家のまわりには蕎麦や粟などの雑穀を植えた小さな畑が広がっていた。山の斜面を切り開いて作った畑は、かなりの傾斜がついている。田んぼになるような平地はなかった。

川を越えた向かい側の山すそにも、川原の丸石を巧に積み上げた高石垣の屋敷が斜面に点在していた。

 朝餉は、蕎麦粥にヤマゴボウの味噌漬けだった。箸でつまみ上げた蕎麦に息を吹きかけて熱さを飛ばしながら口に入れた。ヤマゴボウの漬物は適度な塩が利いて、なんとも美味だった。

「よろしければヤマメを食べてください。亭主に勧められて、囲炉裏端に並んでいる串刺しの魚を一本ずつ取った。水分は、すでに蒸発して茶色に変色した身には味がついていなかった。

「すみません、こちらが塩焼きです」

あわてて囲炉裏端に寄って座った女房が、真っ白になった魚をふたりに渡してくれた。

忠智がとった魚は、出汁(だし)をとるためのヤマメであった。

「これは、美味い」

 忠智が納得した顔で鶴姫を見た。

 塩がよく利いて、香ばしい魚だった」

 

ここは、平石山(八二六メートル)の北側だということが分った。昨日、だらだらと下ったのが掘切峠だった。

「もう、ここからは川之江城下まで大した山はありません」

 男の言葉が二人の気持ちにゆとりを与えてくれた。

久々に心の軽い朝を迎えていた。

 きれいに晴れわたっていた。雨の心配はなさそうだ.

 気分が晴れ晴れとしてきた。

 女房が作ってくれた蕎麦の団子を道中袋に入れて腰に巻き付けた。

 脱出のとき、いばらのからまる雑木林の中を、幾度もつまずき、転び、手足や顔に傷をおい、血だらけになりながら懸命に逃げたことが、すべて夢のなかであったような気になった。

 忠智が、ひとにぎりの一文銭と若干の銀粒を女房に差し出した。

「とんでもございません、もう、十分にいただいております」

 女房が、手のひらを忠智の方に向けて遠慮している。

「儂らのことは、心配しなくてもいい。遠慮なく受取ってくれ。お子も大きくなったら着物もいる、銭もいる。銭はいくらあってもいいものだ」

 忠智が強引に、男に握らせた。

「こんなにいただいたら、着物は、何百枚も買えますだ」

 男が、うなるように言っておしいただいた。

 忠智は、大量の銀粒と銭を持っていた。城を脱出するとき、「もはや、この城もされるであろうから。」と、小笠原長重が持たせてくれたのだ。銭は紐に通し腰に巻き付けて旅をしている。

「昨日の野盗だが…儂が、退治した」

 男が作ってくれた新しい草鞋を履いて、外に立った忠智が夫婦を振り返った。

「え、退治でございますか」

「そうだ、もう村に来ることはない」

「……」

「昨日、儂らを襲ってきた。六人とも殺した」

 ぶっきらぼうに言い放つ忠智の言葉を理解した夫婦の顔が急に輝いてきた。飛びあがらんばかりに喜んでいる。

 さっそく村長に連絡して、お礼をするから、出発を少しだけ延ばして欲しい。と、しきりに、ひき止めた。

「旅を、急いでいる。それより、こちらも一人犠牲になって、近くへ埋葬したので、今後の供養を頼みたい」

 地面に埋葬場所を書いた。

「それは、お気のどくなことでございます。お連れさまは、わたしらが、お世話をさせていただきます」

 夫婦が、真顔になって約束した。

 夏の陽が、山から顔をだした。蒼空には一片の雲も浮かんでいない。

 一気に気温が上がってきた、日中の暑さのほどが思いやられる。

 二人は、ふかぶかと腰を折って低頭する夫婦に礼を言って出発した。

 

 今日は、いい旅ができそうだ。

 もはや、敵の追跡などありえない。

 二人は、街道を歩いている。

 各地に群雄割拠する豪族らは、山に城を構え、砦を築いているから、うかつに山岳に入りこむことのほうが危険なのだ。

 姫の悲しみも、徐々に薄らいでいるようだ。

「長重さまには、なんの役にも立たなくて、申し訳なく思っております」

 忠智が、しんみりと話しはじめた。

「姫さまのことは、これから先、なんの心配もいりません。石見の伯父さまも優しい方です。姫にお逢いになったら、さぞお喜びになるでしょう」

「よしなに、お願いいたします」

 姫が、ていねいに頭をさげた。

「ところで、石見国は、まだ遠い。二人で旅をすることになりますが、もはや、それほどの危険は無いでしょう。…・・この姿で、姫という呼び方はいかがなものでございましょう。泊まるところといえば、良くてお寺、下手をすると昨夜のように百姓の家に泊まらなければなりません。親子としたほうが、良さそうです。それがしの娘として、お鶴とお呼びしたいが、お許しいただけますか」

 姫の瞳が輝いた。『はい』と返事が出る前に、うんうんと二度もうなずいていた。

「よし、そうと決まれば、『父上』と『お鶴』だ。お鶴、のんびりと行こうか」

 たちまち忠智の言葉づかいが変わった。このほうが、姫にとっても楽しい旅ができると思ったのである。

「はい、父上」

「うん、よし、その調子だ」

 ふと、鶴姫が笑った。

「この姿、どうみても百姓の娘ですね」

「姫さまには、申し訳ありませんが、この方が歩きやすい。旅には一番いい姿です。こんな旅は、姫さまには、二度とはないでしょう」

「そうですね、狭い輿のなかで、じっとしているより、はるかに気持ちいい。輿の中って暑い。そうですね、娘を連れた兵法者の旅といきますか」

 別人のように元気を取り戻し、表情があかるくなった。

 何事にも、あまりくよくよしない、大らかな性格であることがわかった。生来の行動的で闊達な性格が姫の心を救っている。

 忠智も、救われた気持ちになった。

「父上、石見国とは、どのような国でしょうか」

「そうよの、石見国は、阿波国と同じく風光明媚な所だ。それに、海が近い。だから、魚が旨い。儂の城がある浅利の海岸は、貝が、よく捕れる。大昔からアサリ貝が獲れることから浅利という地名がついたほどだ。それにハマグリ、サザエ、アワビ、いろいろな貝がとれる。魚は、いろいろなのがいる。うまいですぞ。だが、お鶴のお祖父さまの城は海岸から離れた山奥ゆえ、儂の城のようにはいきませんが…」

「お祖父さまの城は、魚がまずいということですね」

「とんでも、ございません。そのようなことは言っていません」

「いえ、わたしには、そのように聞こえました」

 鶴姫が、いたずらっぽい眼をしている。頬のえくぼがぺこっとへこんだ。

「いや、まいった。…・ま、のんびり行こうか」

「はい」

 鶴姫が、元気よく応えた。

 隣村への峠道へ差しかかったとき、村の方から、数人が走ってくる。

 昨日、殺した野武士のなかに、村の者はいないと、昨夜の夫婦は言ったが、もし、嘘を言っていたなら、村の者を集めて報復に来ることもありえる。

 忠智が緊張した。

 村長と村の衆だった。昨夜の夫婦もいた。

「野盗を退治していただきながら、なんのお礼もせずに帰したとあっては、わたしどもの気がすみませぬ」

 皆が、にこにこしている。走ってきたため、呼吸は乱れ、ぜーぜーと苦しそうに息をしながら、村長が説明した。

「やつらは、毎年、秋の取り入れが終ったころ、やってきて食糧を強奪していくのです。ほとほと困っていたのです。ぜひ、村にお帰りいただき、お礼をさせてください」

「いや、申し訳ないが、急いでいる旅での、それより、儂らの身内が犠牲になった。残して行くことが心残りだ」

「そりゃーもう、決してお粗末に扱うようなこといたしませぬ。三年も経てば、お骨だけになりますので、動かすことができるでしょうから、お寺へお移しします。差し支えなければ、お亡くなりになったお方のお名前をお教えいただけませんでしょうか」

 遠慮がちに言う村長に「上坂やえ、三十歳、亡くなったのは昨日です」と鶴姫が答えた。

「ありがたい。心置きなく旅ができる」

 村人がいつまでも、見送っている。二人が振り返ると、何回も礼をしながら手を振っている。

「やれやれ、これで、やえのことも一安心だ」

 鶴姫も、うれしそうだ。

四ッ地蔵城

 その日午後、四ッ地蔵城城門に浜崎四郎兵衛尉率いる百名の軍勢が到着した。

 御屋形に呼び出された城主忠智が帰らず、軍勢が押し寄せてきた。

 四ッ地蔵城は大混乱に陥った。

 城の門すべてが固く閉じられた。

「なにごとです父上、殿はご無事でしょうか」

 大門の望楼に立つ女武者が澄んだ声で誰何してきた。大弓を左小脇にかかえ、右手には抜き身の矢を持っている。動作もきびきびとして軍勢を前に少しも臆したところがなかった。

「おう…しの、息災で何より。七郎左衛門どのは無事であるぞ」

「ならば、なぜ、そこにおられませぬ」

「仔細あって、ここにはおらぬ、門を開けてくれ」

「たとえ、父上であっても、ここは、福冨七郎左衛門の城です。主の許可が無くては開けることなりません」

「おー、さすがは、わが娘だ。その姿を七郎左衛門どのに見せたいのー。…・これを見よ、御屋形様からの命令書だ」

 大門が開いて甲冑姿のしのが小走りに出てきた。

「七郎左衛門どのは無事だぞ。この城も安泰じゃ。御屋形さまの御配慮により儂が応援にきたのだ」

「そうですか、なぜ、忠智さまは帰ってこられないのですか」

「七郎左衛門どのは御屋形の密命を受けて旅にでたのじゃ」

「本当でございますか、そのようなこと信じられません」

「ま、あとで、ゆっくりと話す」

 四郎兵衛尉の軍勢が、ぞくぞくと大門を潜って三の丸広場に入ってきた。

 一ヵ所に集まった福冨党の将士が無言で浜崎党の軍勢を迎えている。

 両軍の頭上に重苦しい沈黙が被さっていた。

「お、山下理右衛門どのと佐々木善右衛門どの、よろしく頼みますぞ」

 困惑の表情を隠そうともせず、福冨党の先頭に立っている二人の前で馬を下りた。

 四郎兵衛尉がしのと理右衛門、善右衛門らを促して、三の丸座敷に上がっていった。

 御屋形からの書状を読み終わったしのが理右衛門に渡した。緊張から解放された顔に安堵の表情がでている。

「このたびは苦労であったな」

 四郎兵衛尉が理右衛門と善右衛門に慰労の声をかけながら向かい合って座った。

二人が読み終った書状を丁寧にたたみ、うやうやしくしのに返した後、四郎兵衛に平伏した。

「これまでの失礼の段、ひらにご容赦くださいませ」

「なんの、なんの、貴殿(そなた)らの心意気、みごとであった。四ッ地蔵城を護るためには対手(あいて)が誰であろうとも容赦しない、まことの武士(もののふ)。儂も感じいった。七郎左衛門どのも良い臣をもったものだ、これなら四ッ地蔵城も心配ない」

「身にあまる、お言葉にございます」 

「都治どのには、御屋形さまの遣いが到着しているころだろう。強硬な抗議と、これ以上の懐柔は許さない。以後、こんなことを続ける気なら、武士らしく力で取れ、いくらでも相手になる。という内容だ」

「善右衛門どの、すまぬが領内の将士を招集して仔細を説明してやってはくれまいか。今のままでは、七郎左衛門どのが詰腹を切らされて儂が四ッ地蔵城を受取りにきたと思われても仕方のないことになっているだろうよ」

「まったくもって、そのように思います」

 善右衛門が、下の座敷に控えている家臣に眼で合図した。

「ところで、七郎左衛門どののことだが…・」

 四郎兵衛尉の説明に、しのと善右衛門らは、ただ唖然としているだけであった。

 

 四ッ地蔵城に幟がはためいている。福冨党と四郎兵衛尉の浜崎党あわせて二百の軍勢が城内を埋め尽くしていた。

 領内の将士を集めて善右衛門がいまの状況を説明した。ただ、城主七郎左衛門が緊急の密命を受けて温湯城から旅立ったことについては、それ以上の説明をしなかった。

 いならぶ家臣の間から、なんとも言いようのないどよめきがあがった。いちように安堵の声であった。

 両軍の隔たりが消滅し騒々しくなった。

 しのの横に座っていた幼児を四郎兵衛尉が手招きした。

「相安どのか。大きくなったの、何歳かな」

「五歳にございます」

「おー五歳になったか、大きくなったものだ、お父上は旅に出られたゆえ、この爺が、そなたと一緒に留守番をしようぞ。父上が帰って来られるまで賢く待っていようぞ」

 相安を膝の上に座らせた。

「あ、そうだ。善右衛門どの、御屋形さまは、『善右衛門どのでは、四ッ地蔵城の留守役は、務まらん』と、お考えになったのではないぞ。『万が一、これ以上、変なことを考えるやからが出たときは直ちに誅殺を加えなければならない。善右衛門どのにその責を負わすのは酷だ』と儂を派遣されたのだ。気を悪くするでないぞ。それに万が一、戦となったなら対手(あいて)は都治(つち)どのとなる。儂と福冨党が一丸となって当らねばならんのだ。そのときは、御屋形さまが出てこられるまでにやっつけようぞ。七郎左衛門が帰られたなら儂は早々に立退くでの、それまでの辛抱じゃ」

「ありがたき、ご配慮、肝に命じましてござります」

「儂なら、この城を乗っ取るという大それたことをする危険がないからの、御屋形さまも、そう、お考えがあってのことだろう。なにしろ、この娘には儂も刃が立たん。もう少しで射落とされるところであったわい」

 四郎兵衛がカッカと笑った。

「さてと、姑どののところへ案内してもらえないか、心配しておられることだろう」

 甲冑を脱いで平服となった四郎兵衛尉が、しのをうながして二の丸へ移って行った。

 四ッ地蔵城は落ちついてきた。ただ、浜崎党の軍勢がいることを除けば…。

 あとは、城主七郎左衛門の帰りを待つだけである。

 

 四ッ地蔵城の臨戦態勢は忠智が帰城するまで続けられた。

 その間に、疑心暗鬼となっていた領内も平静を取り戻しつつあった。

 

 忠智は阿波への道を急いでいた。

―なぜ、御屋形さまは儂を阿波へ行かせるのか。

 くりかえし疑問が湧きあがる。四ッ地蔵城にとって、まさに存亡の秋(とき)である。こんなときに何故、儂を…御屋形さまは、儂を浅利へ帰しては戦を起すと見られたのであろうか。ましてや一人で行けとは無茶な命令だ。

 忠智は反芻し、苦しんだ。いつまでも疑問は解けなかった。

 ただひとつ考えられることといえば、忠智は十二歳から二十七歳まで小笠原家の本城温湯城に出仕していた。その間、いちども浅利には帰っていない。そのため、父の家臣団との面識は薄かった。これが付け入る隙を与えたのか。

―それにしても雀部のやつら…・

 父治堅の死を待って、福冨を裏切った雀部ら六人のことを想いだし、どうしょうもなく憤怒の念に苛まれた。

 心の苦しみを身体の疲れでらわすように阿波へと急いだ。

 

主従の絆

 雲が高くなった。秋茜がせわしなく飛びまわっている。秋の気配は蒼空に現れているが地上は夏のままだった。

 本丸館の前庭で幼子の甲高い声が響いている。

 五歳になる嫡男相安が周辺の子供たちを集めて遊んでいるらしい。

―そろそろ勉学を教えなければならないな。

 父治堅の初七日法要も無事に終り気分的にも落ち付いてきた。

 忠智も六歳から勉学を始め、八歳から剣術を習った。そして十三歳で初陣を果した。

 相安も忠智と同じ方法をとるつもりでいる。

 初秋というのに、いつまでも暑い。中天で輪をかく鳶がうらやましい、あそこなら涼しいだろうと思うのみである。

 そのとき、ただならない大声を聞いた。重臣佐々木善右衛門の声だ。大門の方角からだ。

息せききって、真っ青な顔をした善右衛門が走り込んできた。

 三の丸から本丸への坂道を駆け上ってきたのだ。

「一大事にございます。都治兼行どのが兵を起こしたらしゅうございます」

「攻めてくる」

 忠智の平静な声音に善右衛門が驚いた。

「どうして、それが分かりますか」

「大門前の道は街道とはいえ余所者の往来は少ない、それが、ここ数日、急に増えていた。何者かがこの城を狙っていると感じていた。それが都治だったということだ」

「なるほど、城の強弱を覗っていたということですか」

「そのようだ。それにしても今の都治には兵を出すだけの力はないだろう」

「都治殿は四ッ地蔵城を攻略すると息巻いているとのことでございます」

「父死去の虚を衝くつもりだろう、攻めて来るなら今日、明日のうちに来る。三日もあれば、この四ツ地蔵城にも御屋形さまの援軍が到着する。だからそれまでに決着をつけようとするだろう。警鐘を鳴らせ」

 忠智が怒鳴った。

 すさまじい警鐘が連打され、忠智の命を受けた物見(斥候)が散らばって行った。

「先代(治堅)さまの御他界を待っていたようにございます」

「儂も侮られたものよの、父の死を待って攻めて来るとは」

「都治の今井城には、ぞくぞくと兵が入城しています」

 そのとき物見に出ていた山根作左衛門があわただしく登城してきた。

「田多神次郎ら殿の家臣数名が今井城に入城しました」

「なんと…・」

 忠智が絶句した。

「田多が寝返ったというのか」

「紫部新左衛門も今井城へ…・」

「入ったのか」

「この眼で、しかと確認しております」 

 作左衛門が上目づかいに忠智をみた。

 家臣の田多神次郎と紫部新左衛門が都治氏に寝返ったのが確実となった。

 戦国の乱世だ、好条件の方に傾くのが武士の常とはいえ、いまどき、寝返ることなど忠智には理解できない。城が堕ちる瀬戸際に逃げていくというのであれば分る、今の四ッ地蔵城は一片のゆるぎもないではないか、忠智の胸に憤怒が渦巻いた。

 いつもは勇ましく聞こえる出陣の連打がもの悲しくわびしい。

―儂は愚鈍ではない、勇猛さの点では父の治堅に劣るとは思わない。いったい、何が足りないというのか。

田多も紫部も父治堅の下では功臣であった。その者が去るということは儂に不徳の致すところがあってのことであろう。

「都治は応仁元年(一四六六)京で起きた大乱に出兵すべく船で東上途上、難破したため、宗行率いる軍勢全員が海の藻屑と消えました。都治の跡目を継いだ兼行は急遽、軍勢を集めなければなりませんでした。あれから二十七年を経ていますが百名を越す軍勢を編成することは容易ではありません。田多、紫部らのように戦場で鬼神の働きをする武士が欲しかったのでしょう」

 父治堅が健在のとき、すでにこの問題は出ていた。だが、父は武力の行使を見合わせた。裏切ったという確証が得られなかったからだ。裏切りは萌芽のうちに摘んでしまうべきであった。悔いが湧きあがってくる。

 忠智は、やりきれない思いを振り切るように三の丸へ下りて行った。

 絶望にかられ蹌踉たる足どりだった。

 次ぎ次ぎと地侍らが集まっていた。

「永井が来ません」

父治堅が浅利村に入部したとき、福冨の支配下になることを拒み、治堅に成敗された永井助左衛門の息である。治堅は助左衛門を成敗したが、嫡男の助三郎に家督を継がせていたのである。助左衛門の怨念は消えないということか。

「紫部、雀部も来ません」

 悲壮な報告が入ってくる。

「いったい、何人が敵に回ったのだ、情けない、武士の面目まるつぶれだ」

 人の心を読めなかったこと事態、軽率のそしりを免れない。

 夜になって都治兼行の下へ奔ったのは永井助三郎、紫部新左衛門、雀部重郎左衛門、田多新次郎など六人であることが判明した。

いずれも都治領と境を接する地侍だ。騎馬武者一騎には騎乗の家士一名、足軽二名、小者二名が従うので三十六名の兵を失ったことになる。福冨党軍勢の三割にもなる。もはや軍隊としては壊滅的な打撃だ。いまさらながらに自分の迂闊さに臍を噛む思いを強くした。

 騒然とする城内に白けた憂鬱な気分が蔓延している。戦を前にして一人ひとりの表情に燃え立つような熱気が感じられない。あちこちでたむろし、ぼそぼそと小声で会話をしている兵の表情が暗い。これから、おのれの領内で戦をしょうとしているのだ。意気のあがらないのもあたりまえだ。 

 忠智だけが鬱屈した心のはけ口から戦闘意欲をかきたてている。

 いかに難攻不落の堅城といえども、これを守る者の心がひとつにまとまっていなければ、たちまち崩壊する。今は残った味方の心をやすらかにすることが先決だ。

「松村権兵衛さま御着陣」

 はずみのある声で伝令が本丸へ駆け込んできた。

「なんと松村どのか」

 信じられないといった顔で忠智が三の丸からの上り口を見た。

 権兵衛が坂道を足早に上って来るところであった。権兵衛は都治家においては阿波守の武位を得て、重臣の一人として数えられていた。都治家断絶後は権兵衛として治堅に客将待遇で迎えられていた。都治家再興の折には、一番に馳せ参じるべきであるところを、都治家に帰らず、福冨の客将の地位に甘んじていた。治堅が仁をもって遇したことにたいして義をもって応じたことが明白であった。

「松村どの、それがしにとっては何よりも心強い味方でございます」

 忠智は権兵衛の両手をとって押し頂くように礼を言った。

「先代さまの御高恩は終生忘れるものではございません」

 権兵衛が毅然と言った。たとえ、戦う相手が都治氏であっても容赦はしないという気迫が顔にでていた。

 敵ははたしていつ頃攻めて来るのか、

 三日あれば御屋形(小笠原長正)の軍勢が到着する。敵はそれまでに決着をつけたいであろうから、おそらく今日、明日中に来るだろう。

 だが都治勢は城を出なかった。

「よし、都治が動かないのならこちらから攻めてやる。永井らを血祭りにあげる」

「お待ち下さい、永井らだけなら討ち果たすこともできましょうが、都治どのは、れっきとした足利幕府の御家人でございます、今、下手に動いて幕府のお叱りを受けるのは御屋形さまにございます。御屋形さまに累が及んでは申し開きもできません」

「御屋形さまには腹を掻き切ってお詫び申し上げる」

「なんということを言うのですか、そなたは、おのれの面子のために命を捨てようとしている、御屋形さまのために捨てるべき命ではないのですか」

母ぬいが敢然と忠智の前に立ちはだかった。

「母上、よく分っています。それでも、今、立たなければ武士としての意地をすてることになる」

「そこまで言われますか」

 善右衛門の顔に気迫がでた。戦を決断した顔であった。

 そのとき、四ッ地蔵城の城門に騎馬の士が飛び込んで来た。

 御屋形(小笠原長正)からの出頭命令だ。

「『都治を攻めること、まかりならん、直ちに出頭せよ』との仰せにございます」

 使者が口頭で付け加えた。

 

 翌日暁闇、忠智は温湯城へ向かった。

 善右衛門が温湯城への供を申し出たが、四ッ地蔵城にとっても存亡の危機から脱したとは思えない。城を山下理右衛門と佐々木善右衛門に託して、ひとりで大門をでた。随従者無用との御屋形の命によるものだった。

 

「七郎左衛門、はやまるでないぞ」

 御屋形の口から意外な言葉が出た。死を覚悟して緊張していた忠智の体から張り詰めていた気が音をたてて崩れていった。

「は、…・・」

「七郎左衛門のことだ、腹を斬るつもりであろう。死んではならん、都治を攻めることも許さん、都治のことは放っておけ」

「都治との喧嘩なら儂が立つ。だが、やつ(都治)は、儂に旧臣だった六人を返してくれと懇願してきた。代わりの所領は差し出すとまで言っている。都治の暴挙を止めたのは都野どのだということも分かった」

都治宗行の実家である川上(かわのぼり)氏の支流都野氏が動いたということだった。

「……・」

「万が一、そなたが都治を攻めたとしてみろ、東から都治、西から都野氏に福屋氏、南から川上と三方から攻められるぞ、しかも、いずれもが四ッ地蔵城に隣接する敵だ。一日にして五千名の兵を繰り出すだろう。川上の倅宗行が都治の養子に入ったときから、四ッ地蔵城は完全に孤立してしまったのだ。そなたの父七郎左衛門は隣国の包囲網による圧迫をみごとに撥ね返していた。だから、七郎左衛門が身罷った虚を突かなければならなかったのだ。今は我慢しろ、そなたの力を見せつけるのは今ではない。儂も佐波と諍いが絶えない今、福屋氏や都野氏までも敵に回したくない。都治は都野氏と福屋氏が抑えている」

「……」

「わかったか、有為の家臣を死に追いやるほど馬鹿ではないぞ儂は」

「あまりにもおそれ多きお言葉にございます」

 主君の心のぬくもりを感じたとき、忠智の頬を涙がこぼれ落ちていった。

「うむ、それでは、七郎左衛門に頼みがある」

「なんなりと」

 あまりにも唐突な話しの展開に、真意が判らぬまま答えていた。

「阿波へ行ってくれ。それも、ひとりで」

「ひとりで…・」

 主持ちの武士が、従者を連れずに独り旅をすることなどありえない。

「そうだ、ひとりだ」

「この前、阿波の舅(三好之長)どのと逢ったとき、小笠原長重が叛意を持っているらしい、という話がでた」

 小笠原長重は、阿波国池田に領をもつ三好小笠原家の一族である。

 南北朝時代、阿波守護細川氏の被官であった小笠原義長が阿波三好に住し、姓を三好と名乗ったと伝えている。

 伊予との国境ちかく、馬路川沿いの山手に長重の城があった。峰畑山(七四八)に連なる尾根のひとつだった。雨上がりには、周辺の峰や谷から無数の霧が立ち、城をすっぽりと覆い隠して雲となる。人々は雲霧城と呼んでいた。

 延徳二年(一四九〇)七月五日、足利義稙が将軍に就任したとき、管領細川政元は、これに反対し、義稙の従兄弟義澄を擁立しようとした。

 当然のなりゆきとして、義稙は畠山政長管領として政元を疎外した。

 明応二年(一四九三)二月十五日、政元は、クーデターを実行して義澄を迎えた。足利義稙は捕らえられ、畠山政長は自殺した。明応の政変である。これにより将軍の権力を細川氏が奪い取った。このとき、三好之長は細川氏に付き従って武功を重ねた。

 阿波の小笠原長重は、将軍を倒すという細川氏のクーデターに批判的であった。それゆえに、動きが鈍かった。三好之長は、それを叛意とみたのである。

 以後、細川氏とともに京に上がった三好之長は、細川澄元の有力内衆として近侍し、中央政権で頭角を現した。それから数代を経た三好長慶のときには細川氏から権力を奪い取るまでになった三好である。

「三好どのは、長重どのを誅伐する気らしい」

 御屋形(小笠原長正)の母は、三好之長の娘である。之長にとっては孫娘の婿を誅殺しようとしているのだ。

「そなたの祖母も、河野氏の出であったな」

「はい」

 父・治堅の母は阿波国河野九郎の娘である。

「阿波へ行ってくれ、そして小笠原長重に嫁いでいる儂の妹(綾姫)を連れ戻してくれ。父(てて)御(ご)七郎左衛門を失ったばかりのときに申し訳ないが、これは、そちにしかできない。他人の言うことなど聞くことのない綾も、そちの言うことなら聞いてくれるだろう・・・父御の四十九日までには帰ってこい」

「分かりましてござります」

「行く気になったか…・、よいか、このことは三好殿に見つかってはならん。七郎左衛門ひとりで行け、そして急いでくれ」

「御意。直ちに出立いたします」

「都治のことは放っておけよ、都治には儂が話しをする。逃げたやつらは戻って来ないであろうが、これ以上勝手な動きはさせん。福屋どのも都治の説得に行ったはずだ」

 都治氏は福屋氏と同盟を結び、福屋氏の中核となっていた。福屋氏が制止にまわったということであれば都治も動けない。

「ご迷惑をおかけして、もうしわけございません」

忠智が平伏した。

「七郎左衛門、出発はできるだけ早いほうがいい。浅利へは、儂から連絡してやるでの、ただちに出よ」

「承知しました」

「浅利へは、そなたの舅殿四郎兵衛を応援に出すでの、城のことは心配いらぬ」

「ありがたいことにございます」

 御屋形が四郎兵衛と呼んだのは、浜崎四郎兵衛尉のことである。忠智の妻しのの実父である。

「それにしても、小笠原家は甲斐の小笠原、阿波の三好と小笠原、それに十河、石見の小笠原と分散して勢を張っている、もし、これがひとつになったなら、全国制覇も夢ではなかろうに、身内で争っている、情けないことよの」

 御屋形が大きく嘆息した。

 甲斐の国を発祥の地とする小笠原氏は、源頼朝御家人として阿波国池田を領していたが、細川氏が阿波国全域を支配することとなったため、小笠原阿波宗家である三好氏および他の小笠原一族もその麾下となった。ところが、長親だけは細川氏の麾下となることをよしとせず、石見国へ移ったのであった。 長親を開祖とする石見小笠原氏は、すでに十代長正に継がれている。

 その間、阿波の三好氏及び小笠原氏と石見小笠原氏とは、本家、分家として親密な交際を続けてきた。

 御屋形小笠原長弘の妻は三好之長の娘である。小笠原長正の母でもある。さきの応仁の乱では御屋形は心ならずも三好之長に敵対した。綾姫の婚儀は両家交誼修復の意味あいもあったのだ。家臣の間でも四国の諸氏と婚姻をはじめとする交流があり、福冨家中興の開祖七郎左衛門治堅の母も伊予河野氏の一族河野七郎の娘である。忠智が四国へ渡ったところで、なんの不審も抱かれないであろう。

 翌日、暁闇をついて忠智が出発した。

 御屋形が手配してくれた長重への手土産と手紙だけを持っていた。

 

二代・福冨七郎左衛門尉藤原忠智

 疑惑

 

 闇に姿が没する刻である。百姓姿の男が四ッ地蔵城に登ってきた。家臣山根作左衛門である。地侍の彼は百姓姿が身についている。

「緊急ごとか」

 作左衛門の尋常でない顔つきに、忠智が押さえた声で問うた。

 作左衛門が首を横に振った。口は堅く閉ざしていた。

 父の治堅を含めた三人は忠智の居室に閉じこもった。

 忠智の家臣が都(つ)治(ち)氏に誼(よしみ)を通じている様子だ。福冨党の結束が崩れようとしている。旧都治家に庇護を受けていた雀部重郎左衛門が都治兼行としきりに連絡をとっているという。作左衛門が雀部のほかに田多神次郎ら数名の名をだしたが、いずれも「叛いているという確証はありませんが」という断りつきだ。

 将軍足利義満に取り潰された都治家であったが、川上(かわのぼり)氏から養子に入った宗行は幕府にいろいろと手を尽して都治家再興を認められた。そのうえ福屋氏と手を組みだした。

 そうなると、四ッ地蔵城は福屋氏の松山城と都野氏の本家である川上(かわのぼり)城、それに都治の今井城により包囲されることとなる。

 今、福屋氏と小笠原氏は諍いもなく良好な交誼を重ねている。しかし、領境では平静であったわけではなく常に緊張関係が続いていた。

力と力で領土を取り合う時代に変わりつつある現在、隣国の絆がいつまでも保てるとは忠智も考えていない。そうなれば四ッ地蔵城は孤立する。

 四ッ地蔵城と御屋形の居城温湯城との間には江川がある。

 ひとたび大雨が降れば江川はたちまち渡河できなくなる。飛び地のようなものだ。

そんなときに攻められたら苦戦を強いられる。さらに、宗行の子兼行は我が福冨家の臣雀部重郎左衛門らを懐柔しているらしいのだ。

「元々やつらは都治家の家臣だったが、いわゆる都治家騒動による断絶のあおりを受けて百姓となっていたものを儂が引き揚げてやったのだ。だから儂の目が黒いうちはなにもできないであろうが…・雀部らにすれば、わが福冨家の家臣より都治兼行の臣であることの方が魅力なのだ。なぜなら、都治は室町幕府御家人だから直臣の家臣であるのに対して、わが福冨は室町幕府御家人である小笠原氏の家臣なのだ」

 そこには大きな隔たりがある。そのひとつが、『御屋形』の称号だった。御屋形とは将軍から大名屋形の称号を受けた御家人のことをいう。称号を受けないことには家臣に烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)、素袍(すおう)を着せることができない。

 治堅と忠智本人は着用できても家臣には着せることは許されないのだ。

 都治家の臣となれば雀部らも烏帽子などの正装ができる。

「ならば、雀部らを討てばよろしいではありませんか」

 忠智がいきりたって言うのを治堅が手で制した。

「残念ながら…・裏切っているという確証がない。それに都治に通じているやつが雀部ひとりなのか他に何人いるのかも分からないのだ。やつらの姿が見えないうちは動けん」

 いかにして炙りだすかだ。

「それならば雀部らに都治を攻めさせればよいではありませんか。今なら福冨党だけで都治を討つことが難しいとは思いません」

 さる、応仁二年(一四六八)京都大乱への出兵途上において、但馬国での海難により壊滅した都治の軍勢を、兼行は必死に立て直していたが人数の少ない都治郷だけでは、勇者を集めることに限界があったのである。

 忠智が父治堅の言葉を遮って言った。

 治堅は、にやっと笑ったが、「都治を討つという名分がない。ただ遮二無二、力でもって潰せばいいというものではない。だれもが『なるほど』と納得するだけの名分のもとに戦わなければならない。そうでなければ我々もいっかいの野武士になり下がってしまうのだ」

 ぶっきらぼうに言ったが、自分の考えていたことが忠智の口からでたことに満足していた。いずれは、福冨党を揺るがすことになるかも知れない、膿を早く取り除かねばなるまい。 

 と思ったが、今は名分がない。

 再びつぶやいた。治堅は都治を攻めて失敗したときのことを思い浮かべていた。戦気がなければ戦はできない。それに好機を逃せば敵は警戒するゆえ二度と訪れないことも。

 

 明応三年(一四九四)七月三十日(新暦・八月三十日)、治堅が六十四年の生涯を閉じた。朝、寝床から立ちあがろうとして前のめりに倒れたのは六日前のことだった。それから高いびきをかきながら眠りつづけ、意識がかえることもなく息をひきとった。あっけない最後であった。ひと言の遺言も残すことができなかった。

だが、ぬいと忠智に看取られての穏やかな死であった。

「もはや思い残すことはない」

 口癖のように言っていた治堅の言葉が救いだった。

   初代福冨七郎左衛門尉藤原治堅

   明応三年(一四九四)七月三十日卒

   戒名・麒山昌麒居士

 

 忠智が三十四歳で七郎左衛門を襲名した。

 同年九月、福冨家の所領福光下村と境を接している福光上村(かみむら)の地頭福光氏は小笠原長正の娘婿となった。

小笠原氏は南北朝から支配していた福光村の一部を福光氏に与えた。