福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

参考文献

 石見家系録       大島幾太郎 島根県大田市立図書館

 陰徳太平記……・・   和歌山県立図書館、大阪府立中央図書館

 吉川家古文書……・   和歌山市立図書館

 石見吉川家古文書…   大阪府立中央図書館

 大丸山伝記……・・   川本町立図書館

 孫子………………・   浅野裕一  講談社学術文庫

 吉川元春………・・   浜野卓也  PHP文庫

 尼子経久…………・   中村整朗  PHP文庫

 立花親成(統虎)…………・   八尋舜右  PHP文庫

 長宗我部元親…・・   荒川法勝  PHP文庫

 戦国合戦事典…・・   小和田哲男 PHP文庫

 宇喜多秀家……・・   野村敏雄  PHP文庫

 小早川隆景……・・   竜門冬ニ  人物文庫

 小早川隆景のすべて   新人物往来社

 島津義弘………・・   徳永真一郎 光文社

 島津義弘の賭け・・   山本博文  中公文庫

 朝鮮の役………・・   旧参謀本部 徳間文庫

 秀吉の野望と誤算・   笠谷和比古・黒田慶一 文英堂

 川本町誌        島根県立図書館

 温泉津町誌       島根県立図書館

 二十五人の剣豪……・・ 戸部新十郎 PHP文庫

 石見の城郭       島根県大田市立図書館

 完訳フロイス日本史5  中公文庫

 日本合戦史100話    鈴木 亨  中公文庫

 出雲の鷹……………・・ 南條範夫  文春文庫

 歴史群像・戦国九州軍記 学習研究社

 歴史群像・戦国合戦大全 学習研究社

 歴史群像毛利元就   学習研究社

 別冊歴史読本毛利元就の生涯 新人物往来社

 別冊歴史読本・戦国の籠城戦  新人物往来社

 石州古図……………・・ 島根県立図書館(インターネット)

 分県地図・島根……・・ 昭文社  

 THA MAP・南河内 ワラヂヤ出版

 旧暦・新暦日付変更計算・インターネット「暦のページ」

君谷合戦

 永正三年(一五〇六)十一月二十三日(新暦十二月七日)病気療養中の小笠原長正(十代)が温湯城において死去した。直ちに嫡男長定が家督を継いだ。

 翌年、喪も明けぬなか佐波勢が小笠原領君谷湊に侵入してきた。

 小笠原長正は、南北朝以来繰り返してきた佐波氏との争いに終止符を打つべく、孫長隆に佐波秀連の娘を娶った。和平への努力も行われていたのである。

 こともあろうに、その長正の死さえも攻撃の機としてしまったのである。それだけ君谷湊は佐波氏にとっても魅力ある湊だったのだ。

 十一代当主小笠原長定としての初めての戦である。

 両軍は、いつものとおり、江川の支流を挟んで対峙した。

 小笠原方井原左京亮信成が両軍の面前に馬を進めた。

 それに応じて、佐波勢の中から一騎の武者が進み出た。

 両軍から一斉に喚声があがった。

 凄絶な一騎討ちが始まった。二合、三合と槍を合わせ、馬腹を擦るが決着がつかない、技量が互角なのだ。

 両軍の兵数千が一気一憂し喚声を挙げている。

 数度の衝突を繰り返し、ついに井原信成が敵を突き落とした。

 小笠原勢が踊りあがって喜んでいる。

 そのとき、井原信成が佐波軍に包み込まれてしまった。

「行け、左京亮を助けろ」

 小笠原勢が突撃した。

 佐波軍が逃げだした。

 しかし、先鋒一番槍をとった井原信成は討死していた。

 いつものことながら小笠原軍は追撃しない。

 目の前の敵は佐波軍なのだが、忠智らは意気が上がらない。小笠原長隆(十二代)の妻は、佐波秀連の娘である。実の親子であっても互いに命のやりとりをするのが戦国乱世の常だが、なんとしても力がでない、太刀先が鈍る。

 佐波勢が押し寄せてくる。

 小笠原勢が迎え討つ。

 両軍が対峙するなか、定法どおり矢戦を展開したあと、一騎討ち、ときには小規模な小競り合いをもって、佐波勢が退いて行く。

 小笠原勢は追撃しない。

 なんとも優雅な戦をくりかえしていた。

 

 

九州出征

 明応五年(一四九六)一月、周防、長門豊前筑前の守護大内政弘が死去した虚を突くように、九州肥前少弐政資大内氏の支配する筑前に侵入して大宰府を占拠した。大内氏は、その子義興が後を嗣いだばかりであった。

 同年十二月、父政弘の一周忌を済ませた義興は、少弐政資討伐のため筑前に出陣した。   

 翌明応六年(一四九七)一月、忠智ら石見勢も大内軍に従軍した。

 大内軍は門司、小倉、八幡と破竹の勢いで進軍、直方で待ち構える少弐軍前衛を蹴散らして飯塚にでた。ここから大内軍主力は西寄りに南進、石見勢は遊軍となって西進、博多を経て、やがて本隊と合流、基山、鳥栖を征服しながら進んで行った。

 二日後、大内軍は肥前の小城城を包囲、少弐政資、高経父子を滅亡させた。

 この戦では、御屋形(小笠原長正)が少弐少輔を討ち取って高名をあげた。

 

 

四つ地蔵城

 四つ地蔵城では忠智の留守中、重臣・佐々木善右衛門は、紫部新左衛門に逢って、都治方へ寝返った本意を聞きだしてくれていた。
 善右衛門は、平時においては、穏やかな好好爺であるが、戦場においては鬼神の働きをする。
 幾多の戦場において、先頭をきって突き進み武功を重ねてきた。その剛胆さは他の家臣の及ぶところではない。
 新左衛門の無二の友である善右衛門に、残した言葉は厳しいものだった。
「先代(治堅)さまは、部下をわが子のように慈しむ心をお持ちでした。だから合戦のとき、先代さまの下知に従い死ぬ覚悟で突撃していったのです。生まれながらにして城主を約束された殿には、おそれながら先代さまには及ばないことでござりましょう。それに、今の殿は、温湯城ばかり見ておられる、儂らのような地下人には見向きもしてくれなかった」
 新左衛門は、淀みなく言い切ったという。新左衛門の言うことにも理はあった。忠智は十五年にわたり御屋形の家士として温湯城に務めた。その間、四ッ地蔵城へは、ほとんど帰っていなかったのである。
「先代(治堅)さまも、応仁元年に今井城を攻めたとき攻略に失敗したためではありますが、従軍した士への褒賞をされませんでした。たとえ、失敗したといえども、合力した者には褒賞をするということ、古今の通義でありましよう」
「武士がより強い主人を求めるのは裏切りではありません」
 とまで言った。
 この時代(戦国時代初期)の武家社会は、各地に割拠する豪族、地侍らが、それぞれ独立した土地を持っていた。一所懸命ということばが残っているように、彼らは、自分の土地を守り、拡張することに命を賭して戦っていた。主人の命令に絶対服従といった主従関係をつくったのは、織田信長であり、豊臣秀吉徳川家康によって完成されたといわれている。この時代より、六、七十年後のことになる。
 石見の豪族も小笠原、佐波、吉川、高橋、福屋ら諸氏が、それぞれ独立して、時に応じ、そのときどきの連合を組んで戦っていた。
 彼らの意識としては、主従関係ではなく、連合、合力である。
 福冨党においても、主従関係にある家臣は少なく、忠智には郎従の佐々木善兵衛・善右衛門父子と山下理右衛門、僕従の嘉平と佐吉だけが家臣であった。そのころの武将は支配地域の地侍を束ねて軍団を編成していたのである。したがって、地侍らの独立意識も強かった。
 新左衛門の発言には、このような背景があった。
「そこまで、言ったか、儂も、恥を曝したものよの」
「ところが、本音は別にあるようです。応仁元年に京で起きた大乱のとき、出征途上で遭難した都治宗行は百名ほどの将兵を率いていたということですが、都治に帰り着いたのは兵卒が一名だけで他は全員死んだそうにございます。そのため、都治郷には断絶した家も多く、跡目を継いだ兼行は、早急に軍勢を造りあげなければならないのに、肝心の人物がいないという状況らしゅうございます。ですから、雀部らのように、戦場で鬼神の働きをする武士が欲しかったようです。雀部らは、すでに持っていた領地に加え、都治郷の中で同じ広さの土地を合わせて与えるといった破格の条件で迎えられたということにございます。ですから、雀部らの領地は倍になったということです。なにしろ、都治郷には家が途絶えて、空いた土地が多いということですから」
「なるほど、もっともらしい御託をならべたが、所詮は食い扶持の多いほうに鞍替えしたということか」
「もうひとつ、都治兼行が兵を興して、この四ッ地蔵城を攻めると言ったのは、どうも、雀部らの旗幟をはっきりさせるための計略だったらしいという噂があります。都治に付くと言いながらも煮え切らない雀部らを引き込むために兵を興したということのようです。はじめから出陣する意思はなかった。たとへ四ッ地蔵城へ攻め寄せても勝ち目はないとみていたようです」
「だが、松村どのは都治からの破格な好条件による勧誘を一切断ち切って、福冨家に残った。実に、義理堅い武人です」
「大切にしなければならない、御仁だ」
だが、六人もの家臣に陵辱された忠智は、終世拭い去ることのできない懊悩を負うこととなったのである。


 一ヵ月後、福冨党の再編を完了した忠智は、理右衛門を連れて温湯城へ報告とお礼に行った。
 御屋形から給わった所領と家臣を三割も失ったにもかかわらず、なんの叱責も受けなかった。そればかりか慰めと激励の言葉をいただいた。
 さらに、阿波から来た三人の家臣をつけてくれた。
 忠智と理右衛門は、心の底から湧きあがる安堵感をかみ締めながら下城した。

 

 娘が一人、大門の柱に寄りかかるように立っていた。背を向けている。地侍の娘らしく地味な服装で旅の身じたくをしている。
―遠方から来たのかな。
 と思ったが、別に不審なようすはない、黙って通りすぎた。
「父上」
 はっとして、振りかえった忠智が絶句した。
「なんと…・・姫さま」
 理右衛門と嘉平が、あわてて膝を地につけて叩頭した。
 驚愕する忠智と理右衛門を尻目に、
「どお、この姿、似合うでしょ」
 にこにこと破顔する鶴姫の瞳がいたずらっぽい。
「どうなさったのですか、そのいでたちは」
「浅利へ行くのです。おいしい魚を食べに」
「それはもう、いくらでも…・ですが、御屋形さまに、お許しをいただかないと…」
「それには、およびませぬ、わたしから、お許しをいただきました」
 もう、軽やかに飛びはねながら歩き出している。
「父上とお呼びになるのは、ご容赦ください。御屋形さまに叱られます」
「伯父さまは、ご存知ですよ。『七郎左衛門には感謝している』とおっしゃいました。それに、『いつでも、行くがいい』と」
 鶴姫が、言葉の最後の『と』を、ことさら強調した。
「それなら、お乗り物を」
「だめ、のんびりと歩いて旅をする楽しみを教えたのは、父上でしょ。それに、輿は窮屈で身体の節々がいたくなる」
 腰の後ろで両手を組み、胸を張って忠智を見つめている、瞳がきらきらと輝いていた。十三歳とはいえ、まだ、少女の面影を残した小娘だ。
「参りました。それでは、短い旅ですが、楽しく行きましょうか。そうですの、まず、甘南備寺へ行って、姫さまご両親さまの供養と石見・小笠原家先祖さまへの挨拶をして、今宵は、甘南備寺に泊めていただきましょう」
忠智が、馬を轡取りの嘉平に渡して浅利へ先行させた。
「お寺に泊まるのですか」
 鶴姫が、眼を輝かせている。
「阿波からの帰りには、泊まったですな」
「どことなく心が満ちてくる、それが、お寺ですよね。朝、暗いうちから勤行にたたき起こされるのがなければ、なお、いいところです」
 鶴姫が、肩をすぼめた。
「甘南備寺は戒律の厳格な寺で女人禁制でございます。泊めていただくのは、寺の麓にあるそれがしの弟の家になります」
「弟さまですか」
「はい、それがしの弟が海商を営んでおりますので、江川の主要な湊には店や屋敷を持っております。今宵は、そこに泊まり、明日には船で下りましょう」
「うれしい。早く船に乗りたい」
「ひとまず浅利へ、お連れして…・そうですの、温泉津(ゆのつ)温泉へ行きましょう。それには、妻のしのも一緒に行かせていただきます」
「ゆのつ温泉ですか」
「温泉の湧く湊の意味で温泉津と書きます。今から一千年も前に、たぬきが入浴していることから発見したということです」
「狸ですか」
「そう、たぬきです。怪我をした狸が湯治していたということです」
「面白そうですね、ぜひ行ってみたい」
「そうそう、うまく風が合えば船で温泉津まで送ってもらいましょう」
「船」
「瀬戸内を渡ったときのような、あんな小さな船ではありません、あの数倍も大きい船です。明国や朝鮮までも行っている船です」
「楽しみ。父上、はやく行きましょう」
「じゃー、それがしが先行して、お寺にお願いしておきましょう」
 理右衛門と嘉平が、気を利かしたつもりであろう、逃げるように、二人を残して行った。
 紺碧の空にそびえたつ柿の木は、すっかり落葉し、あかく熟した実が大門の横で鈴なりになっていた。

温湯城(ぬくゆじょう)

 目前の城山には秋の色あいがでていた。白壁の塀が幾重にも重なって横に広がり、所狭しと甍をかさねる建物が、頂上部へと続いている、いつ見ても美しい城だ。

「あそこが本丸です、その右下にあるのが二の丸で、城の大手門にあたる南大門は…ほら、あの木の陰に、わずかばかりの屋根が見える建物です」

 忠智が、要塞と化した山全体に広がる建物を説明していった。

「三代・長胤さま築城の名城にございます。築城以来、百有余年隆盛を誇っている要害です」

「なんと、壮大な、お城。母さまは、あそこで大きくなられたのですね」

 鶴姫が、感嘆の声をあげた。

 深い切れ込みの谷間を塞ぐように、聳立する城山を感慨をこめて眺めた。

 南大門に着いた。

 温湯城大門まで出迎えに出ていた家士の案内で、鶴姫と忠智は本丸大広間に、佐々部らは三の丸に通された。

「お鶴、こちらへおいで」

 上段の間で、御屋形の横に座っていた御屋形の母・お登瀬の方が、廊下まで出て鶴姫の手をとり、御屋形(長正)との間に座らせた。

「鶴にございます」

 やや緊張の面持ちで、丁寧に両手をついて挨拶する鶴姫を見まもりながら、うんうんとうなずいている御屋形の眼に涙が溢れてきた。

「お鶴、よう来た。おばばも喜んでいる。これからのことは、なにも心配するでないぞ」

 声がかすれ、大粒の涙が流れ落ちた。

 慈愛に満ちた御屋形の言葉を、鶴姫が神妙な態度で聞いている。

「七郎左衛門、ご苦労であった。……綾は、だめだった」

「申し訳ございません、『長重さまを一人にすることはできぬ』と……・今、すこし時間がございましたなら…・・なにぶんにも、三好さまの軍勢が早かったものですから…・・」

 忠智が、床に額を摩り付けて泣いた。

「さすがは、わが妹だ。最後まで夫を見放さなかったか。……それにしても、この母に最後の孝行をしてくれたの、お鶴を届けおった」

 御屋形の声がかすれた。お登瀬の方は、鶴姫をしっかりと抱きしめている。

「お鶴、そなたに逢いたいという客があるでの待たせているよ」

―御屋形は、ふしぎなことを言われる。

 怪訝そうな顔をしている鶴姫と忠智を無視するように御屋形が合図をした。

 家士に案内されてきた三人の侍が、廊下に平伏した。

「な、なんと蘆田どの、前山どの、盾川どの、ご無事でしたか」

 忠智が廊下に走り出て、三人の手をとった。

「姫さま、福冨さまもご無事で、うれしゅうございます」

 年長の蘆田三郎裄綱が、嬉し涙で顔をくしゃくしゃにしながら経過を報告した。

「それがしら三人で、三十人ほどの敵を迎え討ちました。といっても、敵を姫から離すため反対方向へ誘いだすことを目的として突入したのでございます。うまく敵がそれがしらを追ってきました。もはや姫さまも脱出できたであろうことを確信したところで、それがしらも、いちもくさんに逃げましてござります。なにしろ敵は甲冑を着けておりますので、面と向かっての戦いは不利でしたので」

「それこそ、いい判断だ。なにも、無駄死にすることはない。三人とも、死に躊躇することなどいささかもない剛直な武士であること、それがしが見とどけている」

 城を脱出した夜、敵に発見されて絶体絶命に陥ったとき、蘆田ら三人がおのれの身を盾として迎撃してくれた。そのお蔭で逃げのびることができた。忠智は三人に感謝するとともに、申し訳ないという呵責に耐えられない思いでいた。三人が生きていてくれたということが、心底うれしかった。

「蘆田、前山、盾川、生きていてくれてうれしい」

 ひとりひとりの名を呼んで礼をいう鶴姫も、感激のあまり言葉が続かない。

「それにしても、よう、逃げることができたの」

「それはもう、敵は重い甲冑を着けておりますが、それがしらは軽装、闘うには不利ですが、逃げるのは楽、もう、思いのままに引っ張りまわして、最後には、はいさらばでございました」

「なるほど、まったくもってそうだ。それにしても長重どのも良い家臣を持たれたものだ」

 御屋形が眼を細めてうなずいた。

「敵を、撒いたところで城から火の上がるのを見ました…主の消息を確かめるため城下に潜入し、長重さまとお方さま二人だけが、わが身を犠牲にして家中の者の命を救ってくださったということを聞きましてございます。そこまで確認いたしましたので、姫に追いつこうと急ぎましてございます。その結果、どこかで追い越してしまったものか先に着いてしまいました」

「そなたらは、今治から船出したのであろうの、姫とそれがしは、多度津から舟に乗ったので遅くなったと思う」

「ああ、そうでございましたか、多度津経由とは思いもつきませなんだ」

「あの…、やえは、いかがしましたでございましょうか」

「はっ」と鶴姫が絶句した。

「前山とやえは、兄弟…」

「はい、それがしの姉でございます」

「申し訳ござらぬ、六人の野武士に襲われ、やえを護ることができなかった…・」

 忠智は伊予の山中でのことを詳しく説明した。やえの遺髪を取り出し両手をついて頭を深く垂れた。

「やえは、わたしの盾となってくれました」

「そうでございましたか…・・」

 姫が、悄然と肩を落とす前山源三の手をとって幾度も侘びた。

「それは、気のどくなことをした。…・ところで、これからどうするつもりか」

しばし瞑目のあと、御屋形が三人に問うた。

「長重どのに最後まで随いたということは、阿波へ帰っても、そなたらは所領を失っているであろうの」

「でありましょうが、姫が、ご無事で到着なされたうえは、われらの役目も終わりましてござります。明日にも、阿波へ立ち帰りたいと存じます」

「心配するでない、儂に仕える気はないか」

「それは、身にあまる光栄に存じます」

「三人とも、阿波と同じだけの所領は与えよう。七郎左衛門、そなたの配下とするがいい。」

「なんと、ありがたき幸せにございます」

「三人とも、七郎左衛門を助けてやってくれ、そなたらは、阿波に身内も残っていることであろうから、一度、阿波に帰って皆を連れてくるもよし、このまま石見に残るもよし」

 御屋形の差し伸べた慈愛に一同が感泣した。

 三人とも、ひとまず阿波へ帰り、家族郎党を連れてくることとなった。前山源三は、姉・やえの墓参りに行く許しを得た。

「帰ってくるまでには、所領も決めておくでの、安心して帰ってくるがよい」

「身にあまる光栄にございます」

「長重どのと綾も、よろこんでくれるであろうよ」

「ありがたき、ご配慮恐悦にございます」

 三人が、感泣にむせびながら退室した。

 

「七郎左衛門、今宵は泊まってくれ、綾のことなどを聞きたい」

「承知いたしました」

 忠智も、それ以上は何も言えなかった。

 その夜、御屋形とお登瀬の方の夕餉に忠智も同席した。鶴姫への挨拶のため、親戚衆と重臣らが顔をそろえ、にぎやかな晩餐となった。

 お登瀬の方の横に、鶴姫が座っている。

「孫とは、かわいいものよの」

 鶴姫に、なにかと世話をするお登瀬の方は幸せそうである。

「母上、あまりしつこくすると、お鶴に嫌われますぞ」

 そう言う御屋形も満面の笑みを浮かべている。

 突然、忠智の視界がおのれの涙で閉ざされた。声を漏らさないよう必死に歯をくいしばって下を向いていた。鶴姫を無事に御屋形のもとに連れ帰ることができた安堵感と、鶴姫を優しく迎えてくれた御屋形と御方への感謝が、忠智の平常心を失わせていた。

「お、鬼の七郎左衛門が泣いているぞ」

 親戚衆の長老が立ち上がって忠智の前に胡坐をかいた。

「七郎左衛門、自分の城が危ういときに、よくも、自分を犠牲にして、御屋形さまのために働いてくれた。ここに居る皆が感謝しているぞ、よくやってくれた。親父どのの四十九日法要も済んでいない貴殿に殺生をさせてしもうた、儂らはいくら謝っても謝りきれるものではない」

長老は涙にくしゃくしゃになりながら忠智の肩に手を当てた。

「それにしても、鶴姫さまは綾さまにそっくりだ。まるで、生き写しだ」

「綾は心根の優しい娘だった。この度も、夫に殉じると決めたとき、この母の気持ちを思って、お鶴を届けおった。お鶴を大切に思うぞ」

 お登瀬の方は、涙ながらに鶴姫を抱き寄せている。

「七郎左衛門、お鶴のことは心配するでないぞ、儂の大切な身内だ」

 御屋形の声が、長老の後ろから聞こえてきた。

阿波の小笠原長重と綾姫の顔が瞼に浮かび、忠智は不覚にも畳に両手をついて嗚咽した。

 

 翌日朝、忠智は、浅利へ向かった。

 御屋形とお登瀬の方が鶴姫とともに、見送ってくれている。昨夜は、お方が鶴姫を放さず、枕を並べて寝たということであった。

 しきりに恐縮する忠智に、「いや、良い」といいながら大門まで出た。

「恐縮にござります、これにて失礼させていただきます」

 平身低頭して、三人と別れた。

 大門を出て、三十間ほどのまっすぐな道を、走るように下ったところで、立ち止まって振りかえった。

 三人は、立ったままである。忠智は、丁寧に礼をした。

 道が、曲がって三人の視界から消えようとするとき、

「父上、おいしい魚と貝を食べに行きますよ」

 鶴姫の大きな声が、忠智の背後から圧(の)し掛かってきた。

 御屋形の面前である。どっと冷や汗が背筋を濡らした。

「そのことは言わないでくだされ」

 うろたえて手で制する忠智に鶴姫が大きく手を振っている。

姫のいたずらであった。

 姫から事情を聞いたのであろう、御屋形の哄笑がとどろいた。

「お待ちしております」

 忠智は、大きく腰を折って頭を下げると、早々に立ち退いた。

―やれやれ、姫のいたずらには参った。

 背に噴出した冷や汗が背筋を伝い落ちていく。阿波からの帰りに姫をわが娘として旅したこと、重役連中が知ったならどんな顔をするだろうか。

「姫を、なんと心得る、罰当たりめ」

 苦りきった重役連中の顔を、思い浮かべて苦笑した。

 夜明けの空に、輝きを失った月が大門の真上で白く浮かんでいた。

 さあ、わが城・四ッ地蔵城だ。

 しのが、さぞ心配しているだろう。

 御屋形は、忠智の舅・浜崎四郎兵衛を援軍にだして沈静をはかっているといわれた。いったい、どうなっているのか不安は消えない。

 足は速まり、走るように浅利へいそいだ。

 

出羽本城(いずはほんじょう)

 昼過ぎには、川根の湊に着いた。ここから温湯城へは、一日行程でしかないが、忠智は、ひとまず小笠原家の姻戚・高橋大九郎の城に入ることとした。江川の支流・川草川を辿れば、城まで二里ほどでしかない。大九郎久光の妻は、小笠原長弘の姉である。

 また、この高橋家は第十代毛利家当主興元の妻の実家でもある。後年、中国11か国の大守となる元就にとっては兄嫁の里となる。

 その領地は石見国の出羽と安芸国高田郡の北半分を領し、さらに山懸郡の東部にまで領有しているほどの勢力をもっていた。

 

 出羽本城が見えてきた。

「あの山上にある城が、高橋大九郎さまの出羽本城です。大九郎さまのお方さまは、鶴姫さまの母上・綾姫さまの伯母さまになります。先代御屋形(長弘)さまの姉さまです」

「堅固そうですね。それにずいぶんと山のなか」

「阿波の小笠原一族も峻険な山を利とした城を造っているではありませんか、四国では、阿波の『山岳武士』と恐れられています。石見の山などなにほどもありましょう」

「鶴姫さま、これで二人の旅は終わります、道中のご無礼、お許しください、『お鶴』と呼び捨てにしたこと、『父上』と呼んでいただいたこと、親のような言葉使いをしたこと全てに、お許しをいただきとうございます」

「もう、終りなのですか…・楽しい旅ができました。この思い出は、終生、大切にしていきたいと思っています」

「ありがとうございます、今日は、ひとまず出羽本城に入りまして、泊めてもらいましょう」

「でも、このまま、ずっと父上でいてほしい…・」

 鶴姫にとって両親との離別は、あまりにも突然であった。鶴姫持ち前の明るさで、離別の苦しみを覆い隠していたが決して忘れたのではなかった。必死に耐えている鶴姫をみる忠智の心も苦しくなった。

「いいよ、ただし、二人だけのときにかぎるよ」

 父の言葉遣いにもどった忠智の手を鶴姫が握ってきた。

「うん、うん。それでいい」

 大仰にうなずいた。目がくりくりとし、輝きがもどった。

 望楼を持つ大門に二人が近づいた。

「小笠原さま家臣、福冨七郎左衛門でございます。綾姫さま御息女・鶴姫さまをお連れしておりますゆえ、高橋さまに取次ぎ願いたい」

 居館から、あわてふためいて飛び出してきた大九郎夫婦が、ふたりの服装をみて一瞬とまどった。

「阿波の小笠原長重さまに嫁がれておられます綾姫さまの御息女・鶴姫さまにございます。仔細あって、それがしが阿波まで、お迎えに行きました」

 忠智が、膝を地につけてあいさつした。

「それは、ご苦労さまでした。さ、さ、遠慮のう、お入りください」

 高橋大九郎のお方が、鶴姫を導いている。

「綾は、いかがしたのでしょうか」

 鶴姫の服装から、何かを感じたお方の目には、すでに涙が充満していた。

 苦渋に満ちた忠智の顔からは、声がでなかった。

「仔細を聞くのは、後にせよ」

 大九郎がたしなめた。

 

 翌日、出羽本城を行列が出発した。

 輿を中心に、大九郎の重臣・佐々部多左衛門と忠智が騎乗で先導し、輿のすぐ後ろを女中二人がついている。後方は、武装した二十人の将兵が警護についた。

 鶴姫は、お方心づくしの衣装をつけ、つつましやかな立ち振る舞いにも凛とした気品が戻っている。すべて、大九郎が手配してくれた、きめ細かな気配りであった。

 昨夜は、お方がつききりで姫の世話をしてくれたらしい。男である忠智には気のつかない細やかな情を受け、鶴姫も、見違えるような柔らかさが戻っていた。優雅で美しかった。あらためて、やえを喪った重大さに心を痛める忠智であった。

―これで、鶴姫様を堂々と御屋形さまに、お渡しできる。

 忠智は、大九郎に感謝した。

出羽の盆地を抜けると、一気に山が高くなり谷も深くなった。山道はさらに狭く険阻になった。温湯城の後背を固める自然の要塞である。この道は、温湯城にとって山陽と城とを結ぶ重要な道となっており、「小笠原道」と呼ばれていた。

 行列は、一歩一歩ゆっくりと足元を確かめるように進んでいった。

 行列が止まった

「姫さま、温湯城でございます」

 下馬した忠智が、輿の横に片ひざをついた。

 戸が開けられ、重い着物をもてあますように、ゆっくりと鶴姫が出てきた。

 女中の揃えた草履を履いて立ちあがった。

 

甲山宿

 峠を下り、谷間を抜けると広い盆地にでた、甲山宿だ。鎌倉時代以来の高野山領大田荘である。盆地の中を東西に流れる芦田川を隔てた対岸の山に、大田荘経営の中心寺院として真言宗龍華寺が建立されていた。山には、龍華寺を中心として観音堂、御影堂等が設けられ福智院、安楽院等十二院があるという。さらに、これらの安全を確保するための城砦が要所に配置されていた。

 木々の間に広がる白壁の塀と甍が続いている。思わず鶴姫が歓声をあげたほど、一段とよい眺めだった。

 芦田川沿いに軒を連ねる十軒ほどの宿屋は、福山宿のような客引きの喧騒もなく静かであった。

 忠智らは、街の入り口から宿の中を窺うように歩いた。声をかけられることを期待してのことだったが、玄関は開け放してあるものの人影はみえない、どうしたものかと迷っていると、道に打ち水をしている女がいた。

「泊めてもらってもいいかの」

 客引きがいないのも拍子抜けすると思いながら遠慮がちに聞いた。

「どうぞ」

 愛想のない返事だった、打ち水をする手を止めようともしない。

 玄関を入ると上り框の前に、足の洗い桶が二つ置いてあった。勝手に洗えということだろう、と二人は、框に腰掛けて、わが足を洗い出した。さて足拭きはどこにあるのかと、周辺をみまわしたがなにもない、「さて、困ったぞ」と言おうとしたとき、

「いらっしゃいませ」

奥から女中が足拭きを持ってでてきた。きれいに洗濯された気持ちのいい布巾だった。

「どうぞ、こちらへ」

 女中は、トントントンと軽やかに階段を上っていった。

通されたのは、一番奥の部屋だった。

「相部屋になるかの」

「いえ、泊まりのお客さまは少ないです。お二人だけで遠慮なく使っていただいて結構です」

「それは、ありがたい」

忠智が心づけを女中に握らせた。

「あら、こんなに」

 女中の目が輝いた。右手に握った小銭の感触を楽しむように手のひらを、もぞもぞと動かしていた。

「宿は、がらがらに空いているということか」

「夜には、前の山からたくさんの方が下りてこられます」

 龍華寺の坊さんや僧兵が酒を飲みに来る、と女中が説明した。

「川の向こうは、戒律の厳しい聖域ですから女人禁制ですが、こちら側は下界です。何をするのも自由…」

 その言葉には、女と遊ぶ楽しみがあるということを含んでいるらしいのだが、娘同伴の忠智には、あえて何も言わなかった。『何をするのも自由』と言ったとき、ぞくっとするほど艶めいた視線で忠智を見つめた。が、それは一瞬のことだった。視線を外して、ちらっと鶴姫を見た。

 だから、いちばん奥の静かな部屋に案内したということだろう。そういえば、まだ七つ刻(午後四時)だ。尾道を明の六つ刻(午前六時)に発ったが、行程は八里しかなく、街道は整備されていた。宿では一番乗りだった。健脚な旅人は次の吉舎宿まで足をのばしたのだろう。吉舎宿までは二里ほどだ。

「僧兵といえば、荒っぽくて始末が悪いと聞いている」

「そんなことはありません、静かに話しながら飲んでいらっしゃいます。他のお客さんと諍いなど起こすような方は、居られません」

「それなら安心だ」

 なるほど、この宿場は龍華寺の坊さんや僧兵でもっている。だから、競って客引などする必要が無いのかと納得した、大げさな歓迎表現もいらないはずだ。

「父上、僧兵は、そんなに怖いのでしょうか」

 女中がいなくなるのを待って姫が聞いた。

「武力が怖いというのではない、僧兵といえども坊さんなのだ、仏に仕える身の者を斬るということができないから困るのだ」

「でも、万が一、襲ってきたら」

「そのときは、斬るしかないだろう、おのれの身は地獄に堕ちることを覚悟して…いちばん良いのは逃げる事だな」

「でも、ここの僧兵は、おとなしいと言っていました」

「そう、そう願おう」

 さきほど部屋から出て行った女中がすぐに引き返してきた。

「よろしかったらどうぞ」

 小さなカゴに焼き栗がはいっていた。さきほど渡した心づけに対する返礼のつもりだろう。

「お、栗か、今年の初物だ」

 忠智が愛想よく受け取った。

「おまたせしました、夕餉にしましょうか」

 大皿を両手に一枚ずつ持った女中が、一尺立方ほどもあろうかと思われる石の火鉢を持った男を従えて入ってきた。火鉢には、かんかんに熾きた炭が入っている。

大皿には、ヤマメや手長えびが整然と並べてある。一方の皿には野菜がっていた。

「お、松茸だ」

 忠智と姫が声をあげた。

「この辺りは松茸の産地ですから」

「もう、そんな季節になったということか」

「例年ですとまだ、松茸は出ないのですが、今年は、もう出ているんです。今晩はおもいっきり食べていただきます。焼き松茸、松茸ごはん、松茸の吸物、いろいろでますよ」

「それは楽しみだ」

「お飲み物を、お持ちします」

「酒はあまり強くないので一本でいい」

女中が、火鉢の上に置いた金網に、松茸を並べてから立ち上がった、軽快な足音が階段を下りていった。

 

 日暮れを待っていたかのように、前方の山で松明が動きはじめた。木々の葉に見え隠れしながら、湧くようにでてくる。お坊さんや僧兵が山を下りてくるのだ。鶴姫が、まるで蟻の行列のようだと言った。まったく、そのとおりだった。

「きつねのお嫁入りも、あんなのでしょうね、きっと」

「そうだの」

「お風呂をどうぞ」

 女中が、今は空いてますと言った。

「あの山から下りてくるのは、お坊さんらか」

「そうです、でも、あの方たちは、旅篭の風呂には入りません」

「それは、どうしてかの」

「川向うの山の下に温泉が湧いているのですよ。お寺の敷地内にありますから、お寺の方しか入浴できませんが」

「温泉か、それは、豪勢な」

「こちらの旅篭でも温泉を分けていただいているのですよ。ほら、あそこ、幅の狭い橋が川を渡っているでしょ」

 女中の指差す先の橋からは湯気が盛んに上がっていた。もう、薄暗くてはっきりとは見えないが、木の樋が渡してあるようだった。姫が、出窓から身を乗り出して見ている。

 暮れなずむ空を押しやるように、キラキラと輝く星が一つ浮かんでいた。

ねぐらへ帰るカラスが次々と飛んでいく、いちように同じ方向に向かっていた。

「大きな風呂ですから、いちどに入れますよ」

 女中に追いたてられるように、ふたりは風呂場に向かった。

 雲の隙間を月が走り去った。するどく尖った三日月だった。

 近くの草むらで、「リ、リ、リ」と秋虫が鳴いていた。

 さきほどまでの閑散とした旅篭にも人が増え、活気がでていた。

 

 

 翌朝、ふたりは明けの七ッ半(午前五時)に宿を出た。

 今日は、三次までの十里(四十キロ)を歩く決心をしていた。だが、姫の足具合によっては四里(十六キロ)手前の宿場で泊まることになるのだが、とにかく行けるところまで行こうと思っていた。通常、一日十里というのが、旅人の歩く距離だった。そのため、朝は七つ(四時)発ちがならいとなっている。忠智らが外に出たときには、すでに人影はなかった。

 陽が中天を過ぎたころ、吉舎宿を通過した。三次宿まではあと一息だ。

「お鶴の足も強くなったものだ、歩くのが早くなった」

「そお、父上にも負けませんよ。ほら」

 両手を腰の後ろで組んだ鶴姫が、ことさらに胸を張って忠智の前を歩いた。

 

 峠から、木々の間に見え隠れしていた大河が、急に、目の前に広がった。

 江川(ごうがわ)の支流・馬洗川である、三次まではあと残りわずかだ。

「やっと帰ってきた」

 独り言を呟く忠智の横で、鶴姫が立ち止まった。

「川……・」

 鶴姫が佇んでいる。涙が赤く日に焼けた頬を伝わっていた。

 阿波の両親を思い出したのであろう、急に湧き立った寂寥感にさいなまれている姿である。

 忠智は、かける言葉を持っていなかった。忠智の胸が絞めつけられる。

 バシャバシャと派手な音をたてて、忠智が川に入った。水は、膝ほどまでしかない。

 真夏を思いださせるような暑い太陽に熱せられ、疲れきっていた身体が冷たい水を得て生き返るようだ。

 川一面に転がっている一尺ほどの丸い石のひとつに、近づいて両手を水の中に入れた。

「ほれ」

 忠智が、岸辺に立っている姫の足元に放り投げた。一匹のあゆが跳ねていた。

「あゆ」

 鶴姫が、すっとんきょうな声をあげた。

「お鶴、ここら辺りでは、こうしてあゆを捕るのだ。普段は、夜の漁だが、昼でもとれるぞ、お鶴もやってみなさい」

 忠智の声が終るまでに、鶴姫が水のなかに入っていた。足袋と草鞋を履いたままである。足袋は、冬の防寒用であるが、生まれながらにして姫さまとして育った鶴姫は、草鞋をはいたことなど一度もない。城を脱出するとき、やえが足の保護用にと、足袋を履かせていた。川之江の京都屋では予備の新しい足袋を持たせてくれた。おかげで、足にマメをつくることもなく、長距離を歩くことができたのだった。

「気持ちいい」

 鶴姫が水の中を走っている。

 忠智のやりかたを見て、石の下に手を侵入させた。

「お、手に、ぬるっとしたものが当った」

 鶴姫が元気な声をだした。

「ほれ」

 忠智の口真似をして、あゆを岸に放り投げた。

「お、うまいうまい。その調子だ」

 鶴姫の着物は、膝から下が水に浸かっている。

 そんなことは無頓着に、はしゃいでいる鶴姫を見て、忠智も苦渋から解放される思いだった。

 河原で火をたいて、串刺しのあゆを遠火で焼く。こってりと振りかけた塩が徐々に白く浮かび上がってきた。

「父上、塩は、いつも持ち歩いているのですか」

 煙から逃れようと顔を横にそむけ、目を手でこすっている。それでも煙は容赦無く姫の顔を襲った。我慢しきれなくなった姫が、跳ねるように立ち上がって風上に逃れた。

「人間は、塩がなくては生きることができないのです、だから、戦で遠征するときは必ず塩を持って行きます。塩は、それがしの城のある浅利の浜でも造っています。海水を煮詰めて水分を飛ばしてできた塩を、さらに素焼きの壷に入れて蒸し焼きにした塩・焼き塩を造ります。こうすれば吸湿性の少ない焼き塩になります。城にも、塩倉を造って保存しています。塩があれば、木の根でも野草でも食うことができる、だから、大切なものです塩は」

「ふーん」

 納得した姫が「あちち…」と声をあげながら、焼けた鮎にかぶりついた。

 焚き火で熱せられた灰のなかに放り込んでいた栗が「プシュッ」という音をあげて跳びはねた。さきほどの峠道に落ちていたものを拾っていたのだ。表皮の裂け目から剥いて、黄色くなった実を口に入れた。なんとも甘い栗だった。

「この川は、江川(ごうのがわ)という中国地方で一番大きな川と合流します。江川のことを他国の人は「石見川」と呼んでいるようです。温湯城へは、江川を船で下るのが楽で早いのですが、途中、佐波(さわ)氏の領内を通らねばなりません、小笠原さまと佐波氏とは、これまで幾度も領境争いを繰り返しています。危険を避けるためにも、儂らは、佐波領内を避けて下口羽の湊で降ります、舟で半日ほどです。今宵は、ここ三次に宿泊しましょう」

「佐波氏とは、そんなに争っているのですか」

「執念深くやって来ます。ちょっかいをかけて来るのは、いつも佐波勢で、追い返すのが小笠原勢です」

「そんなに強いのですか小笠原の軍勢は」

「周辺では、小笠原軍団に敵う者はいますまい。佐波勢なんか余裕をもって追い返します。さあ、行きましょう」

 焚き火に両手ですくった水をかけた。ジュンと派手な音をたて灰が舞いあがった。

「父上、父上は、どうしてそんなに強いのですか、対手(あいて)が何人いても決して負けない剣術はどうして覚えたのですか」

前方を歩いていた鶴姫が、くるっと振り向いて忠智を見つめた。

「小笠原家には、逃げの剣法もあります」

「逃げる」

「そう、逃げるための剣術です。儂が御屋形さまの馬廻組にいたとき修練しました。もっとも、馬廻組だけに義務づけられたものです。戦は時の運といいます。万が一、小笠原軍が敵地で敗退・四散したとき、敵は、大将首を狙って追撃してきます。敵兵ばかりではない、野盗や民百姓まで群がってくる。やつらから、御屋形さまの御身を護り貫かねばなりません。無事、温湯城へお連れしなければなりません。そのための訓練です。訓練では、儂ひとりが逃げ、追っ手は十名以上で追いかけてくる。十日間、逃げおおせば当方の勝。追い詰められて斬られれば、それで訓練も終わりです。もちろん木刀です。山の中を逃げ廻って対手に襲われれば撃退する。食事も摂らなければならないし、睡眠も必要です。敵は、そんな隙を狙って襲ってくる。あれは、きついものです。もちろん、訓練ですから追っ手も小笠原家中から編成します。でも、手練者を集めます。今まで、逃げおおせたのは、儂一人だということです。

 蛇を焼いて食べ、まむしの生き血を吸い、木の実を食べて逃げ廻ります。岩陰でまどろみ、木こり小屋で瞬時の睡眠をとる。それが、修練です。負ければ、馬廻組からも外される。これほどの屈辱はありません。だから、追う者、追われる者、皆が必死です。儂は、逃げおおせた。その間、何回攻撃を受けたのか記憶にありません。最後は、気力の勝負です」

「追っ手は何人ですか」

「それは、知らされません。敵は次から次へと新手を投入してくる。いったい、何人いるのだ。と、叫びたくなる」

「逃げの剣法ですか。だから、父上が強いのだ」

「攻撃するほうが守りより、強いということは明らかなことです。でも、逃げの剣法も必要です」

 鶴姫は、数日前、岩陰で夜営したとき、手際よく食べ物をつくり、寝床を設えてくれた忠智を思い出していた。

「雲霧城を脱出したとき、父上は石見から来たばかりで地理に詳しくないはずなのに、迷うことなく川之江城下に行き着いた。あれは、どうしてですか」

「お鶴は、あまり遠出をすることもなかったが、男は、戦となれば、どんなに遠くても、いかなければならない。こんなとき、一番、気にするのが、今、自分がどこにいるのか、温湯城は、どの方角にあたるのかということだ。方角は、太陽の動きにより定める。夜は、柄杓の形をした星を見ればいい。満点の正座すべてが柄杓星の柄の先端にある星(北極星)を中心として一年に一回転する。今の時期は秋だから、柄杓は西に向いている。春は東、夏は南、冬は北を示す、だから、星を見れば方角がわかる」

「それで、迷わず目的地に着けるのですか殿方は」

 

 その夜、二人は旅人宿に泊まった。ここは『木賃宿』とは違う。すこしばかり上等だ。食事がついて女中が酌もしてくれる。

「姫は、こういうところに泊まることは、もう二度とないでしょう、最後の夜を楽しみましょう」

 鶴姫の耳元でささやいた。

 鶴姫が口を閉じたまま、「うんうん」とうなずいた、いたずらっぽい眼をしていた。えくぼが大きくなった。

 宿の裏は江川だった。出窓の下は、水が深くよどんでいる。

 部屋の出窓から釣り糸を垂らしている客があった。なにが釣れるのかと見ていると、しばらくして釣れた魚は、二寸ほどのゴリ(鯊)だった。

「あれなら、せいぜい猫の餌だ」

 鶴姫が窓際を離れた。大きな鮒でも釣れたなら、自分も釣りたいと言いかねない目つきだった。

 清らかな流れの音が静かな室内をおおっていた。

「どうなさいますか」

 食事を運んできた女中が言った。夜になると、宿の前から観光の屋形船がでるらしかった。

「それで、宿が満員だったのか」

「鮎の夜漁は、めずらしいのですよ。近郷のお客さまも、それが目当てで来られるのです。出雲や大田からもいらっしゃいます」

 その、ほとんどが商人や裕福な百姓だという。

 主持ちの武士には、戦以外で他国へ行くことなどは許されてない。羨ましいかぎりだ。

「でも、もう夏もすぎて水温も下がってきましたので、そろそろ終りでしょう」

「乗りましょ、父上」

「よし、儂らも頼むことにしょう」

 姫に、少しでも庶民の暮らしを体験させてやりたかった。

 鶴姫が、あわてて食事を済まそうとした。

「お嬢さま、そんなにあわてなくても、漁は、日が暮れてからですよ」

 女中が、笑いながら忠智にごはんのお代わりをすすめた。

 辺りが暗くなるのを待って、宿をでると夜空に満点の星が煌いていた。酒の臭いを発散させた男が数人で声高に話しながら舟着場に歩いている。

 道の端に咲く月見草が、夜目にもくっきりと黄色く映えていた。

 三艘の屋形船が待っていた。舟の舳先には、勢いよく燃えている篝火が吊られ、こぼれおちる火の粉が把になって水面に落ちている。

 滝のように流れ落ちる火の粉と煙が、船内の客にかからないよう、船頭が巧みな操船で舳先を風下に向けている。

 夜の冷気を含んだ川風が、ハタハタと耳朶を叩いて通りすぎていく。

 川岸にも、煌々と燃える篝火が並べられ、辺りを昼のように照らし出している。

「きれい」

 鶴姫の気持ちも最高潮となっていた。

 

 下帯ひとつの若者十人ばかりが、交代で水に潜っていた。しばらく水のなかに消えていた若者が水面上に顔をだしたところを、数人の男が松明をかざした。若者は、両手に鮎を一匹ずつ持って、口にも一匹の鮎をくわえていた。

 松明に照らし出された若者の顔を、鮎の尾がぴしぴしとたたいていた。

 屋形船の客から拍手と歓声があがった。したたか、酒に酔った歓声だった。

 捕った鮎は、屋形船に投げ入れられた。船頭が、それらを手際よく調理して客に配った。

 鶴姫も、受けとって食べていた。

 瞳が輝いている。

 水面に姿をうつしている篝火や松明の灯りが川面を走り、幻想的な世界をかもしだしていた。

 忠智も、はなやいだ気持ちに誘われるままに、盃をかさねた。

 夜空に星は見えなかった。

 川岸では、天をも突くばかりの焚き火に、水からあがったばかりの男が暖を取っている。

 もはや水は冷たいのだろう。

「もうすぐ、この漁も終ります」と言った女中の言葉を思い出した。

 

 宿に戻ると、すでに布団が敷いてあった。洗濯がゆきとどいて清潔だ。木賃宿では他人の汗臭さが沁み込んでいる布団に閉口した。

 開け放された窓から川風が流れ込み、蚊帳の裾を揺らしている。室内によどんでいた熱気は退散していた。今夜は気持ち良く寝れそうだ。

 夢うつつのなかで、かすかな吐息が聞こえてきた、妖しい声だ。

 ふすまひとつ隔てた隣の部屋から、もつれあう男女のあえぎ声が密かに聞こえてくる。

―困った、姫に聞こえたら困る。

 鶴姫には、まだ知られたくないことだと思うものの、なんともしようがない、ただ、じっと寝たふりをして、静かになるのを待つしかなかった。

 幸いにも、姫の寝息に乱れはなかった。

 夜半すぎであったろうか、軒を叩く雨音に、目が覚めた。

―雨か、止むまでは動けんな、姫を雨に濡らすほど急ぐこともあるまい

この宿に逗留しようと覚悟を決めた。

 

 翌朝、宿を出るとすっかり日が昇っていた。昨夜の雨は通り雨だったようだ。雨が暑気を追い払ったのか秋風が立っていた。

山や谷から湧き上がる霧が江川の霧と合体し、狭い盆地を覆いつくしていた。

 

 他の客は、暗いうちに出発していた。二人は朝のあわただしさから開放され、静かさを取り戻した街道にでた。軒を連ねる街道は、気が抜けたように閑散としていた。

 船着場には、底の浅い川舟が何艘も舫ってあった。二人の男が叺(かます)を肩に担いで積み込んでいる。

 二人は舟で江川を下った。一艘の舟に二人の船頭が乗り、みごとな操船で急流を下って行った。

 船頭のひとりが船尾で舵をとり、ひとりは舳先(へさき)に立って、長い竹ざおを巧みにあやつった。激流のなかに飛び出る岩場をすれすれの所ですり抜けて行く。

「ひゃー」

 掌を握り締めて発する鶴姫の楽しそうな悲鳴に気をよくしたのか、

「舟なら日本海まで二日で出ることができますだ、ただし、帰りは五日かかります」

 船頭が竹竿を岩に当て舟を離しながら、大きな声で説明していた。

 ガクンと舳先が下がって激流に突入した。

「ひゃー」

 ひとりはしゃぐ鶴姫に、船頭も苦笑している。激流で下手をすれば岩に激突してしまう、これまでも何人もの人が命を落としているのだ。積荷を流してしまえば莫大な損害を蒙ってしまう。船頭にとって激流は、楽しむ場所ではないのだ。とはいえ、急流を巧みに操船して乗り切る爽快感は、船頭だれしも持っていた。声をだしてはしゃぐ娘を見る船頭の心も明るくなる。