福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

四代・福冨七郎左衛門尉藤原明尊

 天文十年(一五四一)正月十六日深夜、

「おーい帰ってきたぞ」

 ドンドンドンと大きな足音をたてて廊下を歩いてくる。

―あら、お帰りだ。あいかわらず賑やかな相安さまだこと。

 由貴は、ホッと笑みを浮かべて目を覚ました。

 急いで夜具からでて着物を手にした。もうすぐ、相安がガラッと襖を開けて入って来る。

「……、どうしたのかしら相安さま」

 いつまでたっても、姿を現わさない。

「山下忠左衛門さまがお帰りでございます」 

 城門からの伝令が走りながら主殿に入ってきた。

 由貴の顔から血の気が退いた。

 

 城内のざわめきで明尊が目を覚ました。

 母の部屋には、すでに灯火が点いている。

 寝しずまっていた四ッ地蔵城の城内が争がしくなった。廊下を軋ませ、あわただしく行き来している。

「なにごとか」

 明尊が広間に入ると、ムッとする血の濃臭が充満していた。

 戎衣のうえに毛皮の袖なしを着ただけの山下忠左衛門が、憔悴しきった体で正座している。

「殿が身罷られた」

 重苦しく沈んだ声で忠左衛門が話しはじめた。

「去る十三日、大内勢との激戦に及びましてござります。小笠原の御屋形さまが先鋒となって突入したのでございます。敵味方五万が渡り合い、殿は、勇ましく戦っておられたのでございますが、混戦のなかで至近距離から放した敵の矢を右目に受け、絶命されたのでございます。なにぶんにも、至近距離から射られたものでしたので手当てをする間も無く…膳兵衛どのが殿の御首を敵に渡してはならぬと、己の手で御首を切り離して、それがしに戦場離脱を命じたのでございます」

「膳兵衛どのは、どうした」

「おそらく、御首は敵の手に渡ったものと思われます」

「忠左衛門どの、よくぞ殿をお連れくださった。…さぞかし難儀な退却でしたでしょう」 

 母の由貴が、毅然とした態度で、忠左衛門が差し出した包みから相安の頭を抱き上げて三方の上に載せた。髪を整えて顔を拭いている。

「ごくろうさまでございました」

 ながい沈黙の後、静かに語りかける由貴の横顔が、ジジジとかすかな音を出しながら燃える灯火に揺られている。

「明尊、父上にお別れを」

 相安の右目は、抉れ、肉が飛び出していた。

―これが、討死か。

 明尊は両手を合わせながら意外に冷静な自分をみつめていた。

 留守を守って出陣しなかった家臣らがドドッと集まってきて、声を限りに泣いている。

「忠左衛門、甲冑はどうした」

 重臣山下理右衛門が、息・忠左衛門の姿を咎めた。

「それがしは、戦場を離脱いたしましてござります」

 その一言で、忠左衛門が、戦場離脱の汚名を一身に受ける覚悟であることを、理右衛門は悟った。

「………そうか、己の身ひとつをも、危うい退却であったようだな。その姿になってまでも、殿をお連れしたこと、よくやった」

「殿もほんに心やすらかにお眠りでございましょう」

 母の由貴が改めて礼を言った。

 出征中の戦死は亡骸の無いままに葬られるのが常である。棺桶に入れる白木の位牌が亡骸のすべてである。忠左衛門が相安の首級を持ち帰ったことは由貴にとっても、このうえなくありがたいことであった。

「忠左衛門殿、あなたは死んではなりませんよ。生きて、明尊をりっぱな武将に育て上げてください」

「忠左衛門、お方さまのおこころざし無駄にすまいぞ」

「……・・」

「死ぬほうがそちには楽であろうが…・・己を捨て、生きてお家をお護りすることこそ忠も義もなりたつというものよ」

 忠左衛門は、頭を畳に落して慟哭しているだけであった。

 忠左衛門が戦場を離脱したのは十三日の昼ごろであったが、その夜には尼子軍が総崩れとなって逃げ帰った。このことは、忠左衛門の退却を容易にし、さらには、敵前逃亡の汚名も受けずに済んだのだ。

「おそらく殿は、ご自分が死亡したとは思っておられないでしょう。あまりに突然でしたので」

「そうか、殿は苦しむこともなかったということか」

 それで、儂の気も安らぐというものだ。と理右衛門が大きなため息をついた。

 数日後になって分かったことだが、尼子下野守や小笠原長晴の御首さえも敵の手に渡ってしまったということが判明した。

 小笠原家中で、「主の首を持ち帰った忠の者」として山下忠左衛門の名があがった。

 

 数日後から江川下流に、おびただしい将兵の骸が漂着しだした。溺死であった。周辺の住民は、一体づつ川岸に埋葬した。この時代、戦で死亡した場合、その死した場所に埋葬していたのである。

 

 

 山里にも遅い春が来た。

 御屋形(小笠原長隆)は、帰城してから病気で臥せることが多くなった。高齢を推しての出陣が体にこたえたようである。それにも増して、次男長晴が討死したことが、御屋形の生気を失わさせていた。

 天文十年(一五四一)四月、小笠原長隆の嫡男・長徳が家督を継ぎ、小笠原家第十二代当主となった。

 同年五月、明尊のもとへ小笠原長徳からの呼び出し状が届けられた。それには、『山下忠左衛門を同道せよ』との記述があった。御屋形が陪臣を引見することは通常ではありえない、まったく異例のことだ。

 山下忠左衛門は、戦場離脱を追及されるのではないかと思わざるをえない。万が一、そのようなことになれば己の命を捨てても明尊に累が及ぶことを防がなければなければならない。悲壮な決意で御屋形(長徳)に拝謁した。

「七郎左、そちの親父どのは武辺者であったぞ、大内、尼子の取り合い(郡山城の戦い)での武功は儂がみておる。七右衛門が身を盾として戦ってくれたことは終世忘れぬ。

 山下忠左衛門、あの凄惨な逃避行のなかで、よくぞ七右衛門を連れ帰ったものだ。その快挙、そちの名に恥じぬ忠であるぞ。七郎左衛門は幼少ゆえ、そちは、育ての親となって、りっぱな武将に育て上げてくれよ」

 小笠原長徳も弟を失っている。そのことはおくびにもださず家臣の行く末に心を配ってくれるこころ優しい言葉に、忠左衛門は平伏したまま肩を大きく揺らして嗚咽した。

「七郎左、武功をあせるでないぞ、じっくりと体をつくれ」

 御屋形の言葉は、どこまでも優しかった。

 吉田郡山城攻めで福冨党は、壊滅に近い損害をだした。

 福冨七郎左衛門尉明尊にとって福冨党の再編が喫緊の課題となった。

 

 そんなある日、一刀斎流剣師山田重兵衛という人物が四ッ地蔵城を訪れてきた。

 わずか八歳で、四ッ地蔵城を継ぐこととなった明尊のため、御屋形の小笠原長徳が派遣してくれたものである。

 一刀斎流とは一刀流の始祖といわれる伊藤一刀斎にはじまる。

伊藤一刀斎は、生涯にわたって廻国修業を続け、行く先々で望む者を惜しみなく教導してきた。山田重兵衛も一刀斎の弟子として永いあいだ修業を続けてきた一人である。

 山田重兵衛のことを忠左衛門は、戦場での働きは驚愕すべきものがある。剣の遣いには他人を寄せ付けない強さがあった。まるで蝶が舞っているような軽やかさであったと口癖のように言う。山田重兵衛は、御屋形の馬廻役であった。吉田攻めで御屋形が敵の重囲に陥り、死を覚悟したとき、父・相安に助けられたということである。

 重兵衛が話す。

 あのとき、先陣として敵の大軍と渡り合っていた。後方から進んできた味方と前面の敵との真っ只中にのみ込まれてしまい、もはや組織的な戦闘はできなくなっていた。それぞれが、バラバラになって、ただ、やにくもに目の前に現れた敵と斬り結ぶという状態であった。

そんな中で御屋形が敵の重囲に陥った。なにしろ大将首が目の前にいるのだから、敵にとっては、千載一隅の好機だ。重兵衛は、御屋形に群る敵兵を蹴散らすのが手一杯となっていた。御屋形を脱出させなければならない、と気はあせるのだが、如何せん敵は次ぎから次ぎと襲ってくる。己一人の身であるならば切り抜ける力はある。だが、御屋形を護り抜かねばならない。重兵衛は、死を覚悟した。そのとき、福冨七右衛門が突入してきた。「早く、御屋形さまを」七右衛門は、己の首を楯にして御屋形を脱出させようとしていた。

 重兵衛は、御屋形の安全を確保するのが使命である。七右衛門に後を託して脱出した。

「あのとき、儂は死んだ。七右衛門どのが己の身を犠牲にして助けてくれた」

父七右衛門の位牌を前に長い間、瞑目していた重兵衛が位牌に語りかけた。

「七右衛門どの、りっぱな最後でござった。御屋形さまも貴殿を残したこと、一生の悔いだと嘆いておられる。福冨家の行く末、なんの懸念もござらん、御子息がりっぱな跡取りとなるよう御屋形さまとともに見守ろう」

 

 重兵衛が、明尊の四ッ地蔵城の客将となった。

 同じ頃、母の由貴は、御屋形の奥方美代の方から書状を受取った。その内容は、重兵衛を派遣するにいたった理由を、懇切丁寧に記されたものであった。重兵衛派遣について、表向きは、明尊の武術指南であるが、幼くして家督を相続した明尊のため、立派な武将として大成するまでの間、家中、領内の平穏を保つ使命をもっていること、重兵衛は、己の分をわきまえた人物である。けっして福冨家中を落し入れるようなことをすることはない。しっかりと明尊を補佐し、立派な武将に育て上げてくれるでしょう。というものであった。「心易く明尊の成長を見守ってほしい」とまことにもって慈愛に満ちた文面で締めくくられていた。

 

「皆伝は受けていない。だから自己流だよ」

 重兵衛は冗談まじりに茶化していたが、一刀斎流の秘伝は師を殺すことによって伝授されるといわれている。後年の話になるが、一刀斎は、高弟の小野次郎右衛門に秘伝を伝譲した。このとき、次郎右衛門は、その秘術をもって、師一刀斎を殺した。我も人も仮借ない絶対否定の立場に立つのが一刀斎流である。

 一刀斎流は、非情残酷な剣である。己に向って来る殺意を察知するや無意識に払うことを太刀名目とする。向って来る相手が誰なのかはいっさい詮索しない。殺意を払い除くのである。これを夢相剣という。斬るのではなく、払い捨てるところに極意がある。

あくまでも真剣の修羅場で勝つことをめざした兵法なのだ。

 庭に、二本の竹が用意された。

「これを袈裟斬りにするなら誰でもできるでしょう。真横から輪切りにしなさい」

 直径半寸にもなっていない矢竹である。明尊が渾身の力をこめて横に払った。

 竹は刀身を受けたところから折れ曲がった。が、切れなかった。

 直径三寸(約九センチメートル)もある孟宗竹が用意された。

「つぎは、これを切って見なさい」

 重兵衛にうながされた明尊が、「エイッ!」と気合をいれて太刀をふるった。

 カーンと渇いた音がして太刀は刎ね返された。両手にしびれが走った。

 孟宗竹には、かすり傷ほどの痕がついているだけだった。

「気合いを発するということは、剣術のすべてですが、おおげさな声をださなくてもいいのです」

 重兵衛が笑いながら孟宗竹を前にした。

「では、それがしがやりましょう」

 刀に手もかけてない、ただ、ダランと下している。

 突然、裂ぱくの気合が、大気を切り裂いた。

 切り刻まれた大気がもとの静寂を取り戻したとき、孟宗竹が真横に輪切りになってい竹肉をさらしていた。

「まるで筍を切ったようだ」

 明尊のつぶやきに、

「筍ならそれがしでも斬れます」

 忠左衛門が笑い出した。

 明尊には、刀身の動きさえ見えなかった。風が動くのを感じただけであった。

「これが、一刀斎流払捨刀の剣技です。斬るのではなく払うのです。敵の打ち込みを払って払って払いまくりながら、敵を少しずつ傷つけていく、対手を間合いの内に引き込み、先を取り、斬る。ここに極意があります。今、切ったのは一本だけですが、連続して何本でも切れるようになることが要求されます。殿が、会得するまでには何年もかかるでありましょう。人間は、十五歳にしてやっと一人前の身体になります。そのときに武芸者として完成するよう鍛えるべきです。今、侍の子として、なにより大切なことは足腰を強くすることです」

 毎朝、剣師山田重兵衛と武術の訓練が始まった。

 それは、訓練というよりしごきに近いものであった。雨の日も雪の日も休むことなく続けられている。だが、明尊は厳しさのなかにもやさしい目で見つめる重兵衛をみいだしていた。身は歯をくいしばって耐えているが、心は充実していた。

「戦は晴れの日ばかりとは限りません。大雨のなか濡れ鼠になって戦うことだってあるのです」

 重兵衛の口癖だった。

 一日は払暁の室神山不動尊詣でから始まる。

 明尊は必死に走って重兵衛の後を追った。それでも明尊には、重兵衛が歩いているようにしか見えなかった。

 頂上にたどりついたとき、明尊は、へとへとに疲れ、喉はカラカラに渇いていた。腰にぶら下げていた竹筒の栓を取るのももどかしく一気に水を飲み干した。

「まだ先のことですが」

 前置きのあと、

「二昼夜、休みなく上り下りを繰りかえす訓練も行ないます。食べるのも飲むのも歩きながら摂ります」

 重兵衛は平然としていた。

 

 城にたどり着いた明尊に課せられたものは、木刀による素振りである。木刀は、堅樫の木を削ったものであり、真剣よりはるかに重かった。腹に力を込めて、一回ごとに気を発しながら振り払う。といっても、明尊はただ声をだして素振りをしているにすぎないのだが…

「対手(あいて)を斬るのは、刀の切れだけではない、力いっぱい刀を振り回しても斬れるものではない、気で斬るのだ。気と刀が一体となったときに初めて無限の力となって対手を斬る」

「気とは、なんぞや、今は分からなくてもいい。ひと振りごとに対手(あいて)を斬るという気迫をもって素振りをしておれば、おのずと開眼するものです」

重兵衛は、理論化、体系化された刀術を、明尊に口伝により植え込んでいった。

 一方では、明尊の身体をつくることに心血をそそいだ。

「三百回振りました」

「五百回振りました」

 呼吸を弾ませながら、師・重兵衛に報告する日がつづいた。師は、笑顔を返しただけであった。

「まだ、まだ」師の目が言っていた。

 

 明尊は、父の相安が討死したため急遽跡目を継ぎ、戦場にでることとなった。それゆえに、戦乱の世で身を守るのは自らの力しかないということを知った。

 山田重兵衛の教導を、必死の覚悟で受け止める気迫は衰えることがなかった。

 

 いつもは静かな山村に、不気味な海鳴りが殷殷と轟いている。誰にも経験のない現象に村人は不安に陥っていた。

 村に何かの異変が近づきつつある危機感をもっても、それが何であるのかが判らない。

 重兵衛が、「海を見て来る」と言って海岸へ出た。

「海は真っ白だった」

 重兵衛が言った。荒れているのだ。

「嵐がくるかもしれないな」

 明尊は不安になった。

 その夜、それは、突然やって来た。

 生暖かい風がサーッと吹き抜け、たちまち暴風となった。強烈な風は山の木々を唸らせ、家をきしませ通り過ぎていく。今にも壊れるのではないかと思うほど家が揺れた。

 一晩中吹き荒れた暴風も夜明けとともに静かになり、朝日が昇ってきた。青空が広がっている。

 城は、屋根の一部が剥ぎ取られて無残な姿をさらしていたが、被害としては大したこともなかった。

「夕べはひどかったですなー」

 重兵衛が言いながら、二人は、朝一番の日課となっている室神山頂上の不動尊詣でに出発した。

 田んぼの稲は、刈り取りを前にして、ことごとくが根元から倒れている。風は、南から襲ってきたらしく、稲はすべてが北向きに倒れていた。幸いにも雨が降らなかったので水害に襲われることも無く収穫に影響はなさそうだ。

「ひとまず安心だ」

 だが、倒れてしまった稲穂が地についている。このまま放っておけば実から芽がでてしまうので、村人が総勢で、稲の刈り取りをはじめていた。

 倒れてしまった茎を起こしながら根元から刈っていかなければならない。

「大変ですなー」

 重兵衛が野良仕事の農民に気安く、声をかけながら歩いている。

 ふと、立ち止まって明尊をふりかえった。

「われわれもこの稲と変わりありませんなー・・・・」

「そうですの、数万の大軍が石見を通過したら、石見の豪族はことごとく頭を垂れて隋従する。しなければ潰される。」

「そうですなー、これら稲のように、すべてが大風の行く方向に倒れる。情けないがどうしようもない」

「昨日の敵が今日は味方、今日の味方が明日は敵、武士とは浅ましいものよ」

とはいえ、石見諸将の行動について節操がないとは思わない、黙って嵐が通り過ぎるのを待つ。これも乱世を生き延びる術なのだ。

 

 

 戦国乱世に突入した当時の石見には、力の拮抗した豪族らが小競り合いを繰り返しながらも、姻戚関係を網の目のように広げ平衡を保っていた。

それが、崩れようとしている

 

郡山城

 天文八年(一五三九)十一月一日、尼子詮久は毎年の恒例となっている「備定談合」で、来年秋を期して毛利征伐出兵を決定した。毎年、この日は、富田月山城内に一門の重臣たちを集めて、来年度中の作戦を練ることとしていた。これを「備定談合」という。

 その知らせは直ちに麾下の諸将に飛ばされた。

 同年十一月二十日、温湯城本丸において軍議が開かれた。

「尼子詮久どのが毛利征伐に御自ら出陣される」

 御屋形(小笠原長隆)が口を開いた。オーッとどよめきが起こった。そのどよめきを代弁するかのように重臣のひとりが聞いた。

「経久どのは毛利征伐を制止しておられたはずだが」

「すでに、病気が重く詮久どのを諌める力は有しておられない」

「経久どのの弟君、国久どのがおられる」

「もはや、国久どのの言うことを聞かれるような方ではない」

「どういうことでしょうか、経久どのは国久の言うことをよく聞けと詮久どのに言ったと聞いておりますが」

「経久どのの言われたことを、生涯守りとおすことのできる方ではないということだ」

「己の力が経久どのを越えたと思っておられるということだの」

「過信でなければいいがの」

 重役の話は次々と出てくる。いつも、こうだった。御屋形は口火を切るだけで、後は、重役らの話を聞くだけであった。じっと、黙って見ている。議論が白熱しても立ち入ることをせず、耳を傾けていた。最後に、御屋形が結論を出して、すべてが決定していた。

「毛利といえば、たかが二千名そこそこの兵しか擁していない小勢ではありませんか」

 詮久が出陣しなくとも麾下の武将を数名だせば十分ではないか。その場に列している皆が思うことだった。

「さよう、尼子詮久さまが出陣となれば、出雲、伯耆、石見の尼子麾下武将はこぞって隋従するでしょうな、そうなれば、軍勢は、三万を越える」

「それでは、戦になるまいて」

「さよう、戦になっても敵はひとたまりもない、まさに鎧袖一触だ」

 重役の一人が口角に泡を浮かべて息巻いた。

「まあ、物見遊山で大軍を見せびらかしにいく程度でしょうな」

「そう、示威行動だけで毛利は屈する」

 重臣の哄笑につられ、居並ぶ家臣団が声をあげて笑った。

「しかし、大内氏は黙っていないでしょうな」

大内氏が毛利救援に立てば、こちらも数万の軍勢を相手にしなければならなくなりますな」

大内氏は、しばらくは出て来ない。毛利救援の必要性を見極めたうえでのことでしょう」

「弱い毛利なら、捨てるということですかな」

「さよう、こちらとしては、大内氏がでてくるまでにかたをつける必要がある」

大内氏の総領(義隆)は、公家装束を着て文事に励み、戦ぎらいらしい」

 重臣らの会話は、大広間に端坐する家臣の哄笑を誘っているようである。

― 冬までには、きりがつくだろう。いかに馬鹿でも中国十一ヵ州の太守率いる三万の軍勢に、たかが二千ばかりの兵で刃向かってくることなどありえない。

 相安もつられて笑いながら、戦にはならないだろうと思った。

 

 会議終了後、大島和泉守に面談を申し入れようと、控え室へ向かった。この度の婚礼について御屋形への取次ぎをお願いしたお詫びとお礼を言うためだった。

控え室には、小笠原家中の重役が三々五々集まって雑談をしていた。

 相安は座敷に入ることはできない、座敷前の廊下に平伏した。

 なに用かといっせいに相安を見る重役の中から大島和泉守が相安を見つけて近寄ってきた。

「大島さま、こたびはお手をわずらわせて申し訳ございません」

「お、福冨どの、おめでたいことで。書状は、確かに御屋形さまにわたしましたぞ」

「ありがとうございます、ですが」

 と言ったところで、大島和泉守が「すまぬ、今、忙しいのだ」と言って離れていった。

 忙しいというのは、事実だった。雑談していた重役連中が皆、立ち上がって座敷をでていった。

「しかたないか」

 相安の周りを、どやどやと通りすぎる重役を平伏して見送った。

 この中に、坂根筑前守もいたはずだが、相安は顔を上げることをしなかった。

 

 天文九年(一五四〇)六月、尼子新宮党の尼子国久とその嫡男誠久、それに尼子詮久の大叔父久幸の三将が率いる三千余騎の第一次先発隊が、赤名(赤穴)から八幡山城三次市)へ出て。そこから江川を渡河しようとしたが、毛利方の祝屋城主深瀬隆兼、五龍城主宍戸元源とその孫の宍戸隆家らによって撃退された。宍戸隆家は、毛利元就の娘婿でもある。

 尼子新宮党が備後路を経由したと聞いて相安は「なぜ」とつぶやいていた。御屋形は尼子詮久に、石見路を通れば江川の南に位置する温湯城があるから、小笠原隊による渡河の支援ができると石見路経路を進言していたのを知っていたからだ。

 江川を渡ることのできなかった尼子勢はひとまず月山富田城に帰った。

「敵に追い返されるとは、なんという体たらくだ。普段の豪語はどこへ行ったのか」

 尼子詮久が憤り、自ら出陣することとなった。

 御屋形も他の石見国人衆とともに、尼子に従って出陣しなければならない。  

 相安は嫡男明尊への家督相続を御屋形に願い出た。

 当時の武家社会においては、出陣に際して家督を嫡男に譲るということが、ごく自然に行われていた。命を賭して主家に奉公するという心構えの表意と、万が一、討死しても家の存続に齟齬をきたさないようにとの考えからである。

 家督相続は、直ちに受理された。

「御屋形さまの御言葉を伝える」

 家老寺本土佐守が威厳を正して、小笠原長隆の話し振りをまねた。

「七左衛門の跡取は、幾歳であったかの」

「九歳にござります。と、お答えしたら御屋形さまは、なにもおっしゃらなんだ。ただ、ニッと笑われた」

「今回はその必要もなかろうて。毛利では対手が小さすぎる」

 愉快そうに一頻り笑ってから、

「他にも幾つか申し出があり、受理された」

 家老は許諾書をうやうやしく相安に渡した。

「寺本さま、お聞きしたきことがございますがよろしいでございましょうか」

「あー、なんなりと」

 寺本土佐守はくつろいだ表情をとりもどしていた。相安は、都野家重臣の息と福冨の分家との婚姻についてこれまでの経緯を説明した。

「半年にわたって尾行されたか」

 ひとしきり笑って、

「さて、御屋形さまからは、そのような話は聞いてないぞ。大島どのなら確実に御屋形さまに取り次いでくださっているだろうがの。だが、御屋形さまからだめだといってこないかぎり、了解したものと取ってもいいだろう」

「ありがたきことでございます」

「だがの、貴殿(そなた)にも、もうひとつ気配りが必要であったかもしれぬの。都野氏との話がでたとき、一番に報告して、お許しを得るべきであった御屋形さまへの配慮が足りなかったのではないかの。何も知らなかったでは、御屋形さまとて、都野どのへ礼の言いようもないからの」

「寺本さまの、おっしゃるとおりにございます。いかにも、それがしの落ち度でございました」

「心配はいらぬ。儂からも、それとなく言っておくことにしよう。今の都野氏は小笠原家の配下といってもいいほど、うまくいっていることでもあるしの」

「ありがたきことでございます。よしなに、よろしくお願いいたします」

 寺本土佐守の意見は、明尊の落ち度をみごとに突いていた。

「配慮が足りなかった」

 明尊は、冷や汗のでる思いに、うちしおれていた。

御屋形はなにを思っておられるのか、無視しているのか、失念しているのか相安には判断がつかない。相安の気分はいつまでも晴れなかった。

 家督を嫡男明尊に移譲した相安は、七左衛門の名を七右衛門と改めた。

 郎従の山下理右衛門は留守居とした。

「まだまだ若い者には負けませんぞ」

 理右衛門は出陣する気でいた。

「分かっている。今回は対手が二千名ほどの兵しか擁していない毛利だ、尼子の総大将が直接出張るような相手ではない、戦にはならん。大軍勢を見せつけるためだけの出征だから嫡男の忠左衛門に大軍勢の威容を見せておくのも経験だ」

「そうですな、儂は四ッ地蔵城の留守居ということですか」

「そう、失望するな。これから先、理右衛門、忠左衛門両名に命を賭して戦ってもらうことがあるやも知れん」

「儂は行きますぞ」

 佐々木膳兵衛は頑として行くと言い張る。これには、相安も苦笑せざるを得ない。

 僕従は助八と茂吉だ。助八は轡を取って敵に向かう肝っ玉は太く、荷駄の搬送を受け持つ茂吉は、臨時で集めた人夫を使役することがうまい。

 

 同年三月一日(新暦四月七日)、都野家重臣島田麻呂と福冨家分家山根儀右衛門の娘美雪との婚礼を行った。

 御屋形からは何も言ってこなかった。完全に無視された。御屋形の機嫌を損ねた婚礼になってしまったことを、思い知らされた。都野隆安からは重臣を代理出席させて丁重な祝儀を贈ってくれた。

 

 同年八月十日(新暦九月十日)、 尼子詮久は、出雲、伯耆、石見など三万の大軍で毛利征伐に出立した。

 赤名から石見国都賀を通って、口羽の手前で江川を渡河することとなった。

 江川の南に位置している温湯城は、渡河の必要がない。小笠原隊は、渡河地点に進出して尼子隊を援護することとした。

 八月二十七日(新暦九月二十七日)、御屋形率いる小笠原隊二千余の軍勢が口羽に進出 した。

 御屋形は、兵を二隊に分けて一隊を毛利勢の襲撃に備え、別の一隊は、渡河を直接支援することとした。

 相安は、御屋形の次男長晴が指揮する第一軍である。口羽からさらに五里地点の川根まで進出して陣を張った。尼子の第一次先発隊が毛利方五龍城主宍戸元源とその孫宍戸隆家らに、犬飼平の険、石見堂の渡しなどで妨害されて、川を渡ることができなかったあとだけに、勢いのついた毛利勢が攻撃してこないともかぎらない。

 相安らは、柵を二重に結び、それぞれに弓隊と槍隊を配置して襲撃に備えた。さらに数組の物見(斥候)を前進させた。

 御屋形は、都賀で尼子詮久を迎えるため進軍方向とは逆に江川を渡った。

 

 尼子詮久は、先遣隊が撃退された江川を渡ることが一つの山場であると考えていた。

 今回は、石見路を選んだとはいえ、先遣隊と同じように上陸地点を襲われたら難渋する。そのときのために、まず先発隊を渡河させて対岸を固める必要があると考えていた。

「前方から、小笠原どのが来られます」

 側近の武将が馬上に伸び上がって目をこらすように前方を見つめながら注進した。

「刑部少輔か」

「さようでございます。小笠原刑部少輔長隆どのです」

 まもなく、馬旗を引き連れた小笠原長隆が単騎で小走りに寄った。慇懃な態度で挨拶をする長隆に、

「おー、刑部どの御高齢にもかかわらず手数をかけてごくろうです」

 二十六歳を過ぎたばかりの若武者尼子詮久が馬上から鷹揚に挨拶した。昂然と顔をあげ、胸を張って騎乗している詮久が馬足をとめることはなかった。いつも丁寧すぎるほどの親しみで接してくれた尼子経久とは、あまりにも違う傲慢さであった。

 尼子詮久とて、よもや戦になろうとは夢にも思っていないらしく、加勢に加わった小笠原の武勇に期待するというよりは、忠誠心を認めてやろうといった態度があいまいな挨拶に現れている。詮久は、尼子経久の孫である。永正十五年(一五一五)八月、尼子に叛旗を翻した大原郡阿用城主桜井宗的討伐戦で討死した父・政久の跡を継いだのは未だ幼少のころであった。爾来、経久や叔父・国久らの扶けを受けて成長してきた。今は、りっぱな頭領である。

 詮久は、兜を従兵に持たせていた。一間ほどの棒の先端に兜を載せて、掲げながら従兵が従っている。

「御大将が心易く江川をお渡りいただきますよう、渡河地点を確保しております。」

「それは、ごくろうです。さっそく案内願いましょう」

 長隆の先導で三万の軍勢が続く。

 川岸に密生する竹林の中をくぐり抜けると、川面に反射する太陽の光りが、将兵の目に飛び込み、あわてて瞬く。

「おー」

 尼子詮久が感嘆の声をあげた。江川の両岸に小笠原隊の幟が林立し、軍勢が臨戦態勢で配置されている。小笠原軍団は、長年にわたって銀山を領していたこともあり、銀板の飾りをふんだんにつかった甲冑が小笠原軍の象徴となっている。それが朝日を受け、にぶく光り輝いて「白銀の軍団」の威圧をみせつけていた。さらに数十艘に及ぶ舟が舳先を川上に向けて櫛の歯のように並び、その上に厚板を敷いて一間巾の舟橋を作っている。

「あれに控えておりますのが嫡男の長徳でございます。対岸の五里さきにも、次男長晴の率いる兵一千を配置しておりますので、渡河中に襲撃を受けることはございません」

 小笠原長隆の説明に尼子詮久が満足そうな笑顔を返した。

「三万を超える勢が渡りきるには、時間もかかりますゆえ」

 小笠原長隆は、大軍を集めた尼子詮久に畏敬をこめたように『三万を超える軍勢』とことさらに強調した。

 先頭で川を渡った尼子詮久が、長隆の案内で川岸に新築した休憩所へ入った。

板座敷の床几に腰掛けた尼子詮久から、渡河中の軍勢がよく見える。川から吹き上げるそよ風が、居並ぶ武将らをここちよく包んでいた。後続の将兵が続々と橋を渡っている。

「刑部どのの心づくしで、心易く難所を超えることができる」

尼子詮久は、鮮やかな茜色のとんぼが群れ舞う川岸をみながら礼を言った。

「はじめから、ここを通ればよかったものを」

 ふと、吐き捨てるように言った、詮久の言葉が長隆の耳に届いた。第一次先発隊として尼子新宮党が出発するとき、「石見路を通れば、安全に江川を渡河できる」と詮久が助言を与えたが、尼子国久は「天下無双の尼子新宮党です。はじめから敵を怖れて遠回りしたとあっては物笑いになります。と、最短距離で芸州に入ろうとしたのだ。瞬時、詮久の顔に青筋が立った。長隆は気づかぬよう繕って目をそらせた。

「ところで、例の件…」

 詮久の言葉を小笠原長隆が手で制した。

「万事ぬかりなく、大久保備前、大谷遠江に兵五百を預けております」

「五百もいれば十分だろう」

 詮久が盃の酒を一気に飲み干した。

 いつまでも暑い日が続いている。季節は秋というのに非常な暑さが続いていた。道は灼けつき渇ききって、大軍の移動でひどく舞いあがった砂ぼこりが狭い谷間を覆っていた。

 相安は、兜に隠された頭髪にジットリと汗が滲んでくる気持ちのわるさに閉口していた。

 残暑の太陽に熱せられた兜を脱ぎたい衝動に苛まれていた。馬の首にも汗が吹き出ている。

 ともすれば耳鳴りと聞き違うような虫の声がピタリと止んだ。

「さあ、尼子勢が到着するぞ」

 小笠原長晴が兵を後退させ、騎馬の武将を、道端に横隊整列とした。

 山かげから舞いあがった砂埃が流れてきた。やがて、砂埃と陽炎に揺られながら大軍が姿を現した。尼子国久ら新宮党が先頭を立ってゆったりと進んでくる。六月に先発隊として進撃したものの江川で撃退された屈辱を晴らそうとする気迫が満ちている。

 騎馬の将はお互いに挨拶を交わしながら相安らの前を通りすぎて行った。

 ここで、小笠原隊は本隊と別働隊の二隊に別れた。小笠原長隆率いる本隊二千騎は吉田へ進撃し、大久保備前守、大谷遠江守らの別働隊五百騎は石見銀山奪還のため佐摩に向った。尼子詮久と示し合わせての決行だった。

 

 尼子勢は、安芸の川根、川井を通って九月四日(新暦・十月三日)、郡山城と一里(四キロ)地点の風越山に本陣を置いた。

 風越山から俯瞰する郡山城は、遠すぎて城内のようすなどは見えない。

 それでも、風越山は周辺で一番高く守りやすい。

 

 郡山城は高さ約二百メートル、周囲三町(二、三キロ)ほどの玉子型をした小山にある。

山の頂上部に本丸を築き、頂きから五つに分かれて下る尾根に、二の丸、三の丸と配して山全体を要害としていた。

 尼子詮久は、左翼に部下の湯原弥次郎ら三千を、高尾久友、黒正久澄、吉川興経らを右翼、後方にも別軍を配置して大軍勢を誇示した態勢を取った。

 尼子勢諸将は、割り当てられた場所に陣地を構築しはじめた。

 小笠原隊も土塁を築き、柵を結んで枝折戸を設けた。要所には矢倉を立てている。地をならして陣屋や小屋が続々とできあがってくる。

 生い茂る木々に覆われていた緑の風越山は、たちまちのうちに地肌の露出した要害と化した。

 山の裾野に広がる棚田には、色づきはじめた稲穂が広がり、風に揺られてさざ波のように波打っている。

―それにしても御大将(尼子詮久)は、無慈悲なことをする。

 相安は、あと半月もすれば刈り取ることができるまでになっている稲穂を見ていた。

 秋の出陣は、現地で糧米を挑発するには好都合であるが…・元来、戦というものは米の取り入れが終ってから起していたではないか。武士といえども普段は百姓をしているのだ。秋に米を収穫しなければ来年の秋まで生きていけない。

―それを分かっていながら、郡山城下の収穫前に押し寄せた。

「これだけの大軍を見て毛利も震えあがっているでしょう」

 山下忠左衛門の言葉に、

―アーッ、そうであった。稲刈りの時期までには決着がつくだろう。

 相安も納得した。

 郡山城には、わずか二千名あまりの戦闘要員と周辺の農民を合わせて五千人ほどが籠っているにすぎない。

―これだけの大軍をみせれば、毛利はたちまち戦意喪失してしまうであろう。

 相安もこのように考えていた。 

「それにしても…・まさか地下の衆(農民)までもが籠城するとは、思いもつかなかったですなー」

 膳兵衛が意外だという顔つきをしている。非戦闘員を抱え込むことは、それだけ食糧を確保しなければならない。籠城に足手まといにしかならない農民を城に入れた毛利元就の考えが理解できない。

 ところが、農民らは『御屋形さまが百姓をかばって下さる』と、自分らの蓄えていた米や麦を大量に城内へ持ち込んだのである。それらは、一年分の食糧にも匹敵していた。

―毛利は、戦う気だろうか。

 戦いの予感が相安の脳裏をよぎった。だが、たとえ応戦してきても所詮、蟷螂の斧だ。

 九月五日(新暦十月四日)、尼子勢は、郡山城下の民家に放火して挑発したが、毛利勢は城から出てこなかった。

 城内から唄が聞こえる。

―なんだ。

 相安は、風に乗って流れてくる唄を聞いていた。

「尼子どのは雲客だー、引き下ろして、ずんぎり曳こー、ずんぎり曳こー」

 百姓らが声を揃えて唄っているらしいのだ。自分たちの家を焼かれ、泣きすさぶどころか唄で尼子勢をからかっている。尼子を天の子ともじっているようなのだ。雲からひきずりおろして、のこぎりで切り殺そうと言っている。

―出雲から来た尼子どのは雲に乗った客か…おもしろいことを言う。

 相安が笑いそうになった顔をあわててひきしめた。

 九月六日(新暦十月五日)、尼子勢は、四千余騎で太郎丸ほか町屋に放火した。これに対して、毛利勢が反撃して激戦となり、尼子勢先鋒の足軽数十人が討ち取られてしまった。

 毛利が戦う気概をみせたのである。

『戦わずに毛利を屈服させる』というもくろみはみごとに外れた。

「戦わずして降伏してきたなら、毛利の所領安堵という可能性もあったが、刃向かってくれば、所領を没収して我々に分与される」

 尼子勢に、俄然と戦意が高揚してきた。

 九月十二日(新暦十月十一日)、尼子勢が大挙して城下に侵入した。この日は、数隊にわかれ指揮官の本城信濃守、高橋元綱、小笠原長晴ら主力は郡山城のすぐ下まで進み、後小路に放火して毛利勢を挑発した。

「出て来い。出て来い」

 尼子勢足軽らが声を揃えて挑発している。そのとき、城内から三十人ほどが出撃して来た。

「来たぞ」

 尼子勢にとっては、ものの数にもならない小勢である。

「やつらを討ち取れ、血まつりにあげろ」

 尼子勢がワッと喚声をあげて襲いかかった。小笠原隊も長晴を先頭に、獲物を他人に取られてなるものかと勇んで追撃した。まったく、てんでバラバラの追撃だ。

「包みこめ」

「包囲しろ」

 将官が声をからしながら統制を取ろうとしている。

―敵は意外に足が速い。変だ、なにかある。

 相安は、逃げ回る敵兵を凝視した。甲を付けていない、鎧も着てない。なぜだ、敵には戦う気がない、逃げるだけだ。

 相安の脳裏に殺気が襲ってきた。

―兵を集めよ。

 相安の声は、獲物に殺到している兵には通じない。

 小笠原長晴は、ずいぶん前を走っている。

 そのとき、江川沿いに密集している竹やぶから躍り出た敵の伏兵が、尼子勢の側面に襲いかかった。

「しまった、謀られた。兵を集めよ」

 相安が馬を止めた。兵は、その辺りにいない。十騎ほどの郎党が相安のまわりに集まってきただけである。

「敵の罠にはまった。兵を集めよ」

 尼子勢数千人が烏合の衆となってしまった。不意をつかれた兵はあわてふためき、自隊の位置もつかめず逃げまわるばかりである。

 さらに、毛利の武将渡辺通らが城門を開いてでてきた。

 これを見た尼子勢は算を乱して逃げだした。

「長晴さまを探せ」

 相安ら十騎が一塊となって前進しようとしたが退却する数千の味方に押し戻された。

 どうすることもできない。流れに乗って後退するしかなかった。

 尼子勢は、各所に潜んでいた伏兵に挟撃されて大敗、尼子方の将・本城信濃守、高橋元綱ら十人が討ち取られた。

 小笠原長晴も兵が逃げ、単騎になってしまったところに毛利勢が殺到して来た。

 長晴は、小笠原家中でも兵法名誉の達者な将である。群がる敵兵を長刀で切り崩し、たちまち数人を倒していったが、兜首を狙って群る敵兵に突きたてられ、矢を至近距離から射られた。 

 近くにいた小笠原隊・松前源五郎、藍田四郎五郎の両名が長晴を助けるべく馬を寄せようとしたときには、すでに長晴の体からほとばしる鮮血が、敵兵の甲冑を叩きつけていた。

「主の御首を取られておめおめと帰れるか」

 二人は、勝ちに乗じた敵軍に突入して、凄絶に闘い、たちまち包み込まれて露と消えた。殉死である。

 この日の戦闘を毛利軍は太田口の合戦と言った。

 広修寺縄手、祇園縄手方面でも毛利勢と激突したが尼子勢はいずれも負け戦となった。

 

 同じころ、石見銀山奪還のため佐摩へ向った小笠原別働隊は、まず、少数の先発隊を佐摩に先行させて、「この度は、銀山奉行内田正重討伐のため出兵したものである。住民への乱暴狼藉等は一切行なわない。」旨の伝達を行なった。これが功を奏して住民は逃げなかった。佐摩の村は平静を保っていた。小笠原隊は、不安そうに見守る住民の前を粛々と通過して山吹城を包囲した。

 小笠原隊は、直ちに山吹城を攻撃した。

 山吹城は、かって、小笠原氏が拠っていた城である。芸州から派遣されて籠っている将兵にも知られていない抜け道が残っていた。地から湧くように城内へ侵入した小笠原隊に城方はなす術もなく落ちた。

 銀山奉行の内田正重は自殺して銀山は小笠原氏のものとなった。

 小笠原別働隊大久保備前守、大谷遠江守らは、そのまま山吹城に入り銀山確保の任にあたった。

 

 九月二十三日(新暦十月二十二日)、周辺は、すでに稲刈りの時期に入っていた。

「戦どころではない、早く家へ帰りたい」

 将兵の苛立ちに押されるように、尼子勢は風越山から郡山城の南正面にある青山と光井山の間に連なる平坦な山丘・三塚山に本陣を移した。

 尼子勢の湯原弥二郎、湯惟宗ら三千余騎が青山に、高尾久友、吉川興経らは光井口の山下に陣を張った。

 郡山城から遠い風越山では、毛利に与える威圧感が十分とはいえなかった。ここ三塚山ならはるかに強烈な圧迫感を与えること明白である。

「ついに御大将も、決着をつける気になられたようですな」

 忠左衛門の話題が突然変わった。

「それにしても稲が稔りましたなー、そろそろ刈り取りをしなければなりませんな」 

 忠左衛門の目は、浅利を見ていると相安は思った。

 秋の取り入れまでには決着がつくだろうと誰もが考えていた。それが全く覆(くつがえ)された。

 自分の所領も稲刈りをしなければならない。

「戦どころではない、早く帰って稲刈りをしなければならない」

 善兵衛も浮かない顔をしている。

「なぜ、城を攻めないのだ、尼子勢の全軍三万をもって突入すれば一気にかたがつくではないか」

 足軽らがあせりイライラしているのとはうらはらに、長期戦の様相を呈してきている。

 その夜、守備の手薄となった風越山が毛利勢に襲われて、兵糧のほとんどが焼き払われてしまった。風越山で使用していた柵や小屋とともに三塚山に移そうとしていた尼子勢にはおおきな痛手となった。

 翌日、尼子勢は、大軍を配したうえで吉田城下の稲をことごとく刈り取って持ち帰った。

 籠城している百姓の目前での暴挙である。このことは、郡山城に籠城している農民の敵愾心をあおることとなり、やがてそれは、毛利勢全体に広がって行った。

 相安らは、刈り取った稲から米を採り、寝床になり馬の飼料にもなる藁は納屋を作って積み上げた。陣屋は、二間に区切って奥の間を閨とするため、板敷きの床を張り床下には籾がらを詰めた。床には藁をさばいて一尺ほどの厚さに敷き詰めた。さらに、麻布の袋に蒲の穂を詰めた掛け布団をつくった。これで真冬の防寒対策も万全である。長期戦に備えての準備であった。

 

 九月二十六日(新暦十月二十五日)、冷たい雨が降り続いていた。

尼子勢湯原弥二郎ら千五百騎が、坂、豊島方面に到着したばかりの大内の先発隊長杉二郎左衛門と小早川の両陣屋を襲撃したが、駆けつけた毛利軍により挟撃され大敗した。尼子勢は追撃してきた毛利勢によって侍大将・湯原弥二郎ら数十人が討ち取られた。

 尼子勢は、これまでの戦いに、ことごとく負けていたので、士気を高める必要があった。

 十月十一日(新暦十一月九日)、ついに降り始めた霙(みぞれ)の中を、精鋭・新宮党を先頭に大挙して城下に侵入、民家に放火してまわった。尼子軍本隊がいよいよ動き出したのだ。

 足軽らが、

「掛かって来い」

 籠城衆を誘きだそうとした。

 郡山城に籠城中の地下住民の目前で、民家を放火していった。

 ついに、元就が動き出した。

 元就と嫡子隆元が、口羽通良、赤川元秀、同左京亮、同又五郎児玉就忠、同與八、同内蔵允、佐藤彦三郎、長尾縫殿允、桂善右衛門、三戸五郎右衛門、同小三郎、長沼宮内少輔、井上、同玄蕃、同源五郎、同源次郎、同與三右衛門、同右衛門尉、同七郎次郎、平佐源七郎、岡又十郎、内藤九郎兵衛、椿槌房ら一千余騎を率いて城の正門からでてきた。威風堂々と大将旗を挙げての出陣である。元就に追従する幟がことさらに武門を誇示している。

 毛利軍は、先陣先手備えに数百人の長槍隊を配している。先手左右備えには、百人ほどの弓隊を並べ、長槍隊の後ろから先陣先手備えの武将が五名の歩卒に囲まれている。先陣先手備えの指揮官のようだ。先手二陣には、弓隊、槍隊が横隊に並び、その後方に密集隊形の騎馬隊が控えている。

 ずいぶん後方にいる本陣のまわりは、甲冑の武将や騎馬隊が二重、三重にかためている。

「なんと…・・堅固な備えだ」

 はじめてみる毛利軍の陣だてに尼子軍将兵から、感嘆の声がこぼれた。

 対する尼子軍の陣だては、一人の騎馬武者と二、三人の歩卒を単位とした集団が、寄り集まって大軍を編成している。鎌倉時代から続いている戦闘態勢なのだ。尼子軍の陣立てを現在でいえば、小学校の運動会で行なう騎馬戦と同じようなものだ、一騎ずつが個々の戦闘を行なっている。

 両軍が、正面から激突したならば、数百の剣尖を透き間なく揃えて向って来る毛利軍の長槍隊に、バラバラで戦う尼子軍は苦戦すること明白だ。毛利軍は、力がひとつになり、尼子軍は分散する。  

「おー、一文字に三星の旗がでてきたぞ、あれこそ元就だ。これまで小勢で戦利を得たことに奢って、今日もまた、小勢で出てきおったか。この式部大輔は、今までの敵とは雲泥の差があるぞ」

 新宮党・尼子国久が自ら采配を振って真っ先に進んだ。

 毛利勢は、元就を中心にして一丸となった隊形を、がっしりと固めて進撃している。

 ところが、尼子軍は総勢が先を争って突撃したため、戦闘態勢は崩れ、混雑して旌旗が乱れている。

 勝機と見た毛利軍が兵鼓を打って進撃してきた。

 この様子を陰徳太平記は、「両陣の魁(さきがけ)の兵、無手(むんず)と渡り合い、南風(おいつ)北風(まくりつ)攻め戦う、鬨の声矢叫の音、天地に満ち、山野を動かす」と記す。

 尼子勢の先鋒三沢三郎左衛門為幸は、毛利軍先鋒赤川元助ら四百余を迎え撃ち激戦となった。尼子勢の先鋒は、西国で無双の大剛将と名をとどろかせている新宮党だ。さらに軍奉行は、一騎当千の名を得ている立原久光、それに、三刀屋、古志、山中、神西、池田らが続いている。いずれも尼子家中屈指の剛将たちだ。

 毛利勢は、たちまち突きたてられて先陣が一気に後退した。

「なんのために命を惜しんで敵に後ろを見せるのか、無二に懸かって押し崩せ」

 元就が、大音声を挙げ、兵を叱咤しながらまっしぐらに突き進む。

 毛利勢には、敵愾心がある。尼子勢は、味方の大軍に惑わされて戦闘意欲も劣る。

 この違いが両者の勝敗を分けた。

 尼子の先鋒隊が押されて引いて行く、尼子勢・立原久光が押し返す。

「あの小勢など瞬時に追い崩してみせる」

 尼子勢も、兵鼓を打ち、法螺貝を吹いて総攻撃をかけたが、道が狭く大勢が一度にかかることができない。左右の田んぼへ馬を打ち入れて突撃した。ところが土地感のない悲しさ、人馬とも深田に足を取られて動きも自由にならない。それでも尼子勢は十倍にも及ぶ多勢だから、たとえ先鋒が幾たび突き崩されようとも、少しもひるまずかかっていく。

 口羽、赤川、児玉ら元就の旗本勢が槍を揃えて力戦している。

 このとき左右の毛利勢伏兵が突進して来た。

 たちまち尼子勢が浮足だち、後退してくる。ついには尼子本陣の麓にある土取り場まで追い詰められた。

 尼子勢先鋒の大将三沢為幸は、手勢五百騎で円陣を作り敵と渡り合う。尼子勢総軍が崩れかけてきても少しもひるまず、長さ三間半もある長柄の槍を軽々と振り回し、向って来る敵を数十人突き伏せ、勇ましく闘っていたが、やがて疲れ果てて危うくなってきた。

 郎党の三沢蔵人、布廣左近、野尻玄蕃允ら七十騎が中に入って三沢為幸を助けようとするが毛利勢に遮られる。

「味方の勝ちぞ、一気に押し崩せ」

 勝ちに乗じた毛利勢が我さきにと進み、三沢為幸一人に的を絞って矢を射かけた。さすがの三沢為幸といえども矢疵、槍疵を全身に受けて血に染まったところを、毛利勢の井上信重が組み付き、格闘のうえ首を掻き切って高々と差し上げた。

「三沢三郎左衛門の首、井上七郎次郎信重が討ち取ったり」

 井上信重の大音声に三沢の郎党、三沢蔵人、野尻玄蕃允ら三十余人が、力の限り闘い尽くして殉死した。三沢為幸の嫡男・為清も父と一緒に斬り死にしようと敵の中に駆け入ろうとするところを、

「これはなにごとでござりましょうや、命を全うして父の敵・元就を討ち取ってこそ、孝も義も立つというものでござりましょう。せんなき討死をして、敵に利を付けることこそ不忠・不孝の至りでしょう」

 布廣左近、米沢入道が為清を無理に引き戻して退いた。

 毛利勢の三面攻撃に尼子の大軍がたちまち壊走に移った。

「それ、敵は引くぞ」

 毛利勢が増々勇んで力を盛り返してきたので尼子軍は堪えられず崩れさった。

「あれしきの小勢に突き立てられて逃げるとはなにごとか。踵を返して闘え」

 尼子方諸将も必死になって叱咤しているが壊走する兵を押し止めることはできない。

「今日の合戦は、味方の勝利、当然のことと思っていたのに…口惜しい限りだ。日頃から武辺を誇っている者は何処へ行ったのか、引き返して一合戦せよ」

立原久光が馬首を返して闘う。これを見て、本田豊後守、横道石見守、秋上三郎左衛門、目黒新右衛門らもひき返して闘った。だが、後退する味方の兵に包まれて槍・長刀を振りまわすこともできない。熊野兵庫助、松田兵部少輔もひき返し一手になって防ごうとするが、たちまち破られてしまった。

「今日、新宮党が合戦に敗れたこと。尼子家が世の嘲りを受けること必定だ。味方に、身命を捨てて戦うものがいないから、毎度、敵の小勢に負けるのだ。ここは、大将自らが一戦すべきところだ」

 尼子勢総大将尼子詮久が、立ちあがって進撃しようとした。

「これは如何に、数万騎の大将ともあろうかたが、このような小事に、軽々しいふるまいをなさるものではありませんぞ、このようなことがないよう、それがしが常にお側に居て制しせよと祖父経久どのに仰せつかっている。ただいまのおふるまいは、五百騎、千騎を領する程の武将などと同じですぞ。中国の大将を心に懸けられる御身にあっては情けない。祖父(経久)には遥かに劣る軍将ですぞ」

 大叔父尼子下野守久幸が駆けよって制した。

 立原久光、本田豊後守、熊野兵庫助、松田兵部少輔らも引き返そうとするが逃げる味方に押し流されている。

 毛利勢が激しく追撃してくる。味方は小魚の群れに小石を投げたごとくドッと逃げていく。

道は狭く、左右の深田に落ちたところを敵に討たれる。深手を負って逃げることのできない者は次々と首を取られていく。命からがら逃げて行く者も、ほとんどが傷を負っている。もはや一方的な虐殺でしかない。

 しつこく追撃していた毛利勢も尼子方の兜首三つと、五百余りの雑兵首を取って意気揚揚と引き揚げていった。やがて毛利勢陣地からドッと挙がる勝鬨の声を、尼子勢は、蹌踉とした気分で聞いていた。

 逃げる尼子勢は本陣まで追撃されるという大敗を喫した。毛利軍の戦死者は福原の家人・中原小七郎ただひとりであったという。これを青山土取場の合戦という。

 

 ゴーッと凍てつく西風が篝火を蹴散らして通り過ぎて行く。山峡の吉田の里は、ついに冬になった。

 十一月、尼子応援のため吉田へ進撃してきた佐東銀山城主・武田信実隊を、毛利勢国司元相隊が般若谷で撃退した。

 尼子方の武将吉川興経、高尾久友が評定して言う。

「諜ごとを先にして戦いを後にすることは兵家古今の通義である。このたびの数回にわたる合戦をみると、毛利の勇気・智計年を追うて増上しているうえに、諸卒もまた三千が一心となって戦うゆえ、まことに一騎が千騎に当たり、分外の勇となっている。味方は、多勢を頼んで、この城、何ほどのことがあろうか、わずかの三千人前後なのでたとえ臥龍、鉄虎が籠っていようとも、最後には落城するか、降伏するかであろうと気安く思うゆえに陣法・軍容を自ら怠り、将兵もまた戦うことに、それぞれ一身の大事とは思わず、敵が強ければ引き退き、他に任せて見物する。多勢がかえって仇となっていちども勝ったことがない。だから、城の兵も自然と寄せ手の兵を、たいしたこともないと侮る心が生じているであろう。いまこそ、謀りを先にして戦えば勝てる。さあ、三人ともあの宮崎へ陣を進めよう。そうすれば城中の兵は、これまでの勝ち戦のように常法で押し出してくるだろう。いままでは、平場に隠れていたから勝利を失っていたのだ。柵を作って中から弓を射させよ。毛利勢は、柵を破らんと無二に懸かってきて、手負い死人多くでて退くのに乗じて突撃に移り、ただ遮二無二戦うべし。宮崎へ陣を移し、ひと合戦して強いところをみせようぞ」

 数十日にわたり詮議してやっと結論がでたので本田豊前守が尼子詮久に上申した。

「あいわかった、各々の望む旨に任す。ただし、先鋒は尼子旗本衆から一陣に高尾、二陣には、その次はとする」

 尼子詮久の返答があった。

「宮崎の陣へ敵が今までどおりに攻撃してきたところを、本陣から軍兵を出し、敵を真中に挟んで撃ったら勝つこと必定だ。出雲勢に一勝を得させて、これまでの数回にわたる負け戦による嘲りの衆口をふさぐべし」

 吉川興経、高尾久友ら三人は、宮崎へ陣を移した。

 

十一月二十六日(新暦十二月二十四日)、陶隆房、杉重政、内藤興盛を大将として防長豊築四州の軍兵二万余騎が山口を出発したという知らせが入った。尼子勢が郡山城を包囲してからすでに三月を迎えようとしていた。

 十一月二十七日夜半、陣屋で横になっていた相安は、吹き荒ぶ木枯らしにまぎれて、かすかなどよめきと喚声を聞いた。

― なにごとだ。

 相安が小屋をでた。冬空に寒月がこうこうとさえわたっていた。雲ひとつない夜である。肌に突き刺す寒さに身を縮めながら不寝番の兵に近づいた。篝火で暖をとりながら、兵らも郡山城を見ている。

「夜襲してくる気か」

 相安も耳をすました。それにしては、喚声は一、二度だけであとは静まり返っている。

「夜襲ではなさそうだな」

 相安は、冷え切った体を摩りながら閨に入って蒲の穂を詰めた夜具にもぐり込んだ。

「おー寒」

 冷え切った体は容易には温まりそうにない、身ぶるいしながら床の敷わらをかき集めて身体に密着させた。

壁際に、善兵衛が寝ている。すでに高齢の域に達した善兵衛の体に、この寒さは応えるのであろう。すっぽりと藁に潜り込んでいた。

― そろそろ、何か理由をつけて、浅利へ帰らせてやろうか。

 相安は、震える体をもてあましながら考えていた。

 このとき、毛利方では、大内氏が二万の大軍で救援に出発したという知らせを聞いて、一斉にわき返ったのであった。

 翌日、相安は、留守を守っている妻の由貴と山下理右衛門に手紙を書いて善兵衛に託そうとしたが、善兵衛は頑として受け付けなかった。

「そのようなことで、儂を使われるのか。小者を走らせば事足りることです」

 善兵衛は、自分で名指しした小者を浅利へ走らせた。

 相安は、ただ、苦笑するしかなかった。

 十二月三日(新暦・十二月三十日)、陶隆房に率いられた大内軍二万が一尺(約三十センチ)ほどに積もった雪を踏み散らして吉田に到着した。

 大内軍は、郡山城の東南に当たる上小原の山田中山に軍旗を立て、陣太鼓を打ち鳴らして、毛利勢の士気を鼓舞した。

 対する尼子勢は、

「ついに毛利の救援がきてしまったのか」

 深い失望感とともに、じ後の戦いにおける困難さを思って意気を消沈させた。

 その年は、厳寒が続いた。毎日、空はどんよりと曇り、雪やみぞれが降り、木枯らしが吹き荒れた。士卒の手足は凍傷にかかり、弓を引き、槍を遣うにも意のままにならず、大雪で道も埋もれ、あるいは凍って、馬も動き難い。

 戦どころではなく、両軍の間に膠着状態が続いた。

 相安らは、ただひたすら寒さに耐える日を送った。

 

 天文十年(一五四一)になった。寒波も和らぎ春の近づきを感じさせる風が盆地を流れ、雪も緩んできた。

 弓を絞り、矢を放つ手に力が戻ってきた。

 正月三日、毛利勢が小早川隊とともに尼子勢の相合口を襲ったが大きな戦にはならなかった。

 正月六日、尼子勢将兵のために設けていた遊廓青ノ町を毛利勢に放火された。

―毛利勢が反撃にでた、いったいどうなるのだ。

 勇躍している毛利勢をみて尼子軍の将兵は、あせりいらだっている。

 正月十一日(新暦二月六日)、雪が熄(や)んだ。空はどんよりと曇っている。あいかわらず寒い日が続いているが、風のない分、暖かく感じた。

 陶隆房は、元就の希望を受け入れて、山田中山から天神山に陣を移した。

天神山は、郡山城と尾根つづきで、尼子軍に対して左正面に位置する。両翼で尼子勢を包み込む形を取ったのだ。尼子軍にとって、ここを占拠されたら、郡山城攻撃が困難になる。一方を攻めれば一方に側面から攻撃を受ける。

 尼子勢は、これを阻止しようとしたが亀井、牛尾には戦意がなく、他の者も動かない。それでも尼子国久は、手勢三千騎を連れて一合戦しようとした。ところが叔父尼子下野守に制せられ、顔面を真っ赤にしてくやしがりながらも思いとどまった。

 

 毛利軍は、宮崎長尾で伯耆の南条、小鴨、出雲の高橋、安芸の吉川ら連合軍と戦った。

 正月十三日(新暦二月八日)になった。昨夜来降り続いた雪が辺り一面を銀世界としていた。一ヵ月ぶりに姿を現した太陽の光りがまぶしく反射している。

 元就が精鋭のほとんど二千騎余を引き連れて城門をでてきた。

 空堀の際に陣取った元就は、甲冑を着ていない。樺色の小袖のまま床几に腰かけて、悠然と尼子方を睥睨している。

―ばかにしゃがって。

 尼子勢をあまく見た行動に、尼子勢将兵がいきり立った。

 宮崎長尾口に屯営している尼子勢の陣地では、高尾久友が二千余で今日の先鋒一番手を受け持っていた。ここに毛利勢が向かってくる。

「来るぞ、敵はわずかの人数だ、近くまで引き寄せて討ち取れ」 

 高尾久友が松永宗十郎、菅谷九郎、亀井三太夫らを先に立て、柵際で待ち受けている。しかし、兵らの間では、

―攻撃軍が守勢にまわったらもうお終いだ。

 隊は、憂色に包まれている。

 厭戦気分が蔓延した。

 毛利勢がわずかの人数で尼子の大軍に突っ込んでくる。

 尼子勢は、そんな毛利勢を無謀なやつらだとみる一方では、敵愾心を露にしてひしひしと迫る殺意に不気味な脅威を感じていた。極度の緊張で顔が強張っている。

 郡山城には周辺の百姓も一緒に籠城している。

「尼子勢は、大軍でやってきて百姓の眼前で稔った稲を刈り取ってしまった」

 秋に米が収穫できなければ、来年の秋まで生きのびることができない。

「尼子のやつらのやることは、むごい」

百姓らの憎悪が毛利勢の敵愾心を引き出している。整然とした隊形でヒシヒシと迫ってくる。

「射て」

 高尾久友の下知に、尼子勢が一斉に矢を放つ。ドドッと毛利勢が倒れる。

 それでもまず押してくる。ついに柵が破られ、高尾隊陣地に切り込んできた。

 尼子勢は、槍を捨て刀で応戦したが、毛利勢は殺意のかたまりとなっているのに対しては命を賭して戦うという気迫がない、防戦で精一杯だった。たちまち高尾隊は、左右の谷へ逃げた。

 そもそも尼子と同盟を組んで毛利攻めに加わったのは、従属しなければ潰されるという武威に屈っしてのことであり、また、尼子が毛利に勝つとみたからである。だから、尼子の旗本衆以外の将兵は、尼子のために命を投げ出す気など毛頭ない。敵が強いとみればたちまち退いて逃げる。

 味方の一陣を切り崩した毛利勢を、尼子勢二陣黒正甚兵衛一千五百が弓矢で応戦し、黒正源八、大野八郎、隅田十兵衛らが馬から下りて槍の穂先を揃え、突撃しようとした。

 そのころ、陶隆房、杉重政、内藤興盛ら毛利救援隊の大内勢二万騎は、尼子軍本隊が毛利軍の後方に周り込むのを阻止するため待機していたが、尼子軍本隊が動かないのをみて、尼子軍本陣青三猪山へ突撃して来た。尼子軍は、天神山と青三井山の間を流れる多治比川の岸辺に伏兵を隠していたが、このとき大内軍は尼子勢の裏をかいて迂回し、与二の渡しから多治比川の本流可愛川を再び渡った。

 そこから、川沿いに南下して尼子勢本陣の背後を襲ってきたのだ。

 各方面に兵を出して手薄になっていた尼子勢本陣は、完全に虚を衝かれ大恐慌をきたした。

「味方は、山上に陣を取ってしかも大勢だ。敵は、山の下から攻め上って、しかも小勢だ味方の必勝なんの疑いやある。各々の好きなように迎え討て」

 尼子詮久の下知が下りた。ところが、尼子一族や十三人の家老衆らも、宮崎の陣は、はやくも敗亡と見え、そのうえ大内勢二万騎を三段に分け、太鼓を打ってひたひたと進んでくる勢いにのまれたのか、だれもが黙して動こうともしない。

 そのとき、

「面々は、いかに思っておられるのか、敵は、味方・高尾の陣を切り崩し、はや黒正の陣へ攻めかかっている、あれを見たまえ、敵方に勝利の色歴然だ、あの陣もたちまちのうちに押し破られるであろう、しからば吉川の陣も絶えられないであろう、宮崎の陣が破れて後は、元就、当陣の後ろへ回り込み、大内勢と牒じ合わせて追手搦手から攻め立てられたならば、当陣の危機は必然だ。今日こそ、ひごろ武道に励んでおられる各々も一合戦して勇気を現されるときですぞ。敵のいないときの広言は、畳の上の水練、虚像の精兵に似ているであろう」

尼子下野守が立ち上がって言う。

 この下野守は、日ごろ思慮深く危うい合戦を慎み必勝の成算がなければ、合戦を控えるところから、臆病者と嘲られて尼子比丘尼と言われている。昨年十一月一日の備定談合でも無策な郡山城攻めに慎重論をだして、詮久や新宮党の国久から臆病野州と罵られた。下野守は、これを聞いても怒ることはなかったが、憤りが深かったのであろう、居丈高になって言った。

 尼子下野守のことばにも皆は、一言の返答もせず、伏目になっているだけである。このようなときは、積極的に戦いを望むのが武将の意地であるはずなのだが…

 そのとき、

「今日は、この尼子比丘尼が討死しなければ、御大将(詮久)も安穏に退陣することも難しいと思われる。尼子の臆病比丘尼まかり通るぞ、ご免あれ」

 すくっと立って緋縅の鎧に赤の手拭で鉢巻をしたが、兜をとって捨て、手勢五百ばかりを引き連れて青三猪ヶ坂へ討ってでた。

「下野守さまは、死ぬ気だ」

 河副美作守、本田豊前守らも二、三百の兵を率い、尼子下野守につづいた。

 そのほか、その場に居合わせた諸侍も遅れてなるものかと突撃している。

すでに、高尾、黒正の両陣が破られたので尼子方吉川の陣も、たちまち潰れてしまうだろうと思われたが、大力の勇将といわれる吉川興経の率いる陣は、先備えが潰されてしまったことにも臆さず静まりかえって毛利勢を待ちうけている。。

 毛利勢も、一陣二陣を破ったものの激戦で喉が渇き、腕は弱り、腹も減って心身ともに疲れ果て前へ進まなくなった。

「はやく吉川の陣を切り敗れ」

 元就が、栗毛の馬に跨り、馬上から大音声で下知したので、毛利勢は、勇む心を力に吉川の陣へ押し寄せて敵陣の構えをみると、高さ四、五尺(一メートル半)の土塁を築きその上に柵を結んで、二ヵ所に枝折戸を構えている。さらに、その脇に矢倉二ヵ所を設け、右の矢倉には選りすぐりの兵を置いている。左には、吉川興経自らが上り六、七人をもってしても使い難いほどの大弓で大矢をすさまじく射る。毛利勢は、つぎつぎと倒れていく。

 毛利勢も、弓矢で応酬し、矢戦がつづく。毛利勢の赤川左京亮、赤川又五郎、桂右衛門尉、山縣彌三郎らが槍を入れ、たちまち敵を押し込んで枝折戸を切り落し、乱入しようとする。吉川興経らが弓矢で狙い撃ちし、毛利勢の手負、死人が累々と重なりひるんだところを、尼子勢の森脇和泉守、境采女正、門田、朝枝らが槍薙刀の切先を揃え、鬨の声をあげながら切って出た。

 毛利勢がたちまち崩されて柵の外へ逃れる。こんどは、桂元澄らが弓を取り直しはげしく射たてて尼子勢を柵のなかに追い入れる。

「かかれ、かかれ」

 吉川興経が、矢を射たて自ら采配を振って下知する。宮庄、伊志、小坂、筏、山縣、二宮、森脇ら一千余騎が先頭に立ってまっしぐらに突きかかる。その勢いに毛利勢が柵の外へ追い出される。

「不甲斐なきふるまいぞ、あの敵を追い入れよ」

 元就の命令により毛利勢が、また奮い立って尼子軍を柵際まで押し詰めた。

 毛利勢は、早朝から凄絶な闘いを展開したが、吉川の陣は、簡単には押し敗れそうにない。

 数刻におよぶ戦いに兵は疲労困憊している。

「少し下がって、息を継げ」

 元就の下知に、毛利勢が引いた。

 日暮が近づいてきた。

 毛利勢が、鬨をドッと挙げて引いて行く。

 吉川勢も陣を破られなかったことを勝として追撃することもしなかった。

 毛利勢の挙げる勝鬨の声が郷中にとどろいた。

 一方、大内勢は、毛利元就の指揮する宮崎の合戦も味方が勝っているように見えたので、いよいよ力を得て、先陣・陶、二陣・内藤、三番・杉と三段備えで、青三猪が坂の尼子軍本陣に押しし寄せてくる。この大内勢は、今日が初めての戦場突入だったので、敵・味方に勇をみせつけようとする気概が士卒にいたるまで溢れている。

 なかでも、末富志摩守は銀の四手を竹につけて腰に差し、真っ先に進んで尼子の本陣・青光猪山の八分方まで一気に攻め上った。

「まだ、まだ寄せつけろ」

 はやる兵を制止しながら、突撃の機を計っていた尼子下野守が、

「行け」

 大音声を飛ばした。尼子勢三千余騎が、喚声を挙げながらドッと敵軍に向けて山を下っていった。

 この日、小笠原隊が尼子勢の先鋒を受けていた。

 小笠原隊は、九月の戦闘で御屋形の次男・長晴の首を取られてしまっている。

「武士が戦場で死ぬのは名誉である」

 気丈に振舞っている御屋形長隆の心情を思って、小笠原隊の将兵は自責の念に苛まれていた。相安ら武将の目つきが変わってきている。

 小笠原隊勇将が先を争ってなだれ打つ。誰もが死に場所を求めての突撃であった。

 相安の率いる福冨党は、小笠原隊のなかでも特に、屈強の力を持っているという自負がある。

「儂に続け、遅れをとるな。敵を追い落とせ」

 相安は、兵を叱咤しながら陶隊の先陣宮川、深野、末富、野上ら二千余騎と凄絶な戦闘に突入した。

 尼子の先陣一万五千が一手になって戦闘に加わってきた。

討っても射ても大内勢・陶隊七千余騎には怯む気配がない。敵味方の死傷者を踏み越えて上ってくる。

「押せ、押せ!」

 相安の槍が、敵を突き刺す、敵がもんどりうって転げ落ちていく。

 地の利を活かして上から突き下ろす尼子勢の猛攻に、旗色が悪くなった陶隊が山から崩れ落ちるように引き下がり、麓の小川を越して三日市まで後退した。

陶隊は、すかさず、末富志摩守が取って返し、山の中腹まで押し返してきた。つづいて杉、内藤も攻め上ってくる。

 尼子勢は、尼子下野守、本田豊前守、河副美作守、立原備前守らも一手となって押し返す。

 尼子の新宮党は、闘いに加わろうとしたが坂の道が狭くて進むことが出来ない。谷も深く横合いからの挟撃もできない。しかたなく、尼子勢の後塵を被っている。

 ここに、尼子勢三万七千騎、大内勢二万余騎が凄絶な戦いを展開している。

小笠原隊は、敵味方入り混じった大軍のなかに呑み込まれて個々がバラバラの戦闘を行なっている。

 相安の率いる福冨党も、前方の敵、後方の大軍に吸収され、もはや組織的な戦いはできない。個々に目前の敵と渡り合っている。

 積もっていた白雪も大軍に踏みにじられて泥と化し、将兵の足をうばう。滑って倒れた兵に敵の兵が群がって首を取る。

 相安も、敵を突き倒し、蹴倒し戦っている。下から体勢を低くして槍を突き上げてくる敵に、二度、三度と槍を撥ねかえして、わき腹に突き刺した。

 凄絶な渡り合いのなかで相安は、敵方の歩卒に囲まれて立ち往生し、必死になって長槍をふるう御屋形を見つけた。すでに敵の重囲に陥って、小笠原隊旗本衆までが態勢を崩している。

―御屋形が危ない。

 相安が、走り寄った。

「御屋形さま―、ここは、それがしが食い止めます。ひとまずお退きを」

「オー。七右衛門…死ぬでないぞ」

「さらばでござります」

 御屋形が、旗本衆に囲まれて退いていく。

 追撃しようとする敵兵を、福冨党が円陣を組んで阻止する。

 圧倒的多数の敵兵から、次から次に繰り出される槍を防ぎきれず、福冨党の猛者も力尽き倒れていく。相安も数ヵ所に槍を受けて力が消滅してくる。

―なにくそ。

 相安が、低い態勢から立ちあがった瞬間、己の顔面に飛び込む寸前の矢を見た。

 ガーンと衝撃が全身を襲い、真っ赤に染まった空が反転するのをみながら、意識が薄れていった。

 仰向けに倒れた相安の右目には、至近から放った敵の矢が突き刺さっていた。

 福冨七右衛門尉藤原相安の壮絶な最後だった。

「御首を取られるな」

 福冨党の将兵が相安の屍をまんなかに円陣を組んで力の限り闘っている。

「忠左衛門、殿の御首を敵に渡すな。皆も逃げよ、死ぬことは許さん。逃げて、福冨党を立て直すのだ」

佐々木善兵衛が大手を広げて敵前に立ちはだかった。重囲の中で、必死に忠左衛門を守ろうとする善兵衛が最後の言葉をあげた。このとき円陣から抜けだし、後方へ走っていく武将があった。山下忠左衛門である。

 その小脇には相安の首級を抱きかかえていた。

 

 尼子勢の猛攻に大内勢が劣勢になった。

「何時のために命を惜しむのか」

 深野平左衛門興房、宮川善左衛門興廣が真っ先に進み、数多の尼子勢を突き伏せていたが、深野は、右肩に深々と矢を受けた。

「宮川どの、もはやこれまでぞ、さらばでござる」

 敵に組ついて刺し違えた。これを見た宮川も命を限りに闘っていたが、味方の加勢もなくついに、そこで討たれた。

 末富志摩守も槍が折れ、太刀を抜いて闘っていたが、身体に数十箇所の傷を負い、すでに危うくなった。これを若党らが肩に担いで山から下ろし、戸板に乗せて本陣へ帰り、手当てをしたので命を取り留めた。

 大内勢・陶隊は、多くが討たれ、負傷して浮き足だってきた。

「味方の勝利ぞ!進めや、者ども」

 尼子下野守がすさまじい闘鬼となってかかっていった。

 だが、毛利隊・中原善左衛門の放った弓矢が下野守の額に命中した。

 瞬間、体が馬上で棒立ちになり、のけぞって地に落ちた。うつ伏せに倒れた下野守の首を取ろうと走り寄った中原善左衛門に、下野守の若党が、主の首を取られてなるものかと反撃してきた。

「己を捨て、主を助けようとするとは、やさしき者のふるまい」

 中原善左衛門が敵に誉を与え、一太刀に切って捨てた。その隙に下野守の若党らが主を肩に担いで味方の陣へ逃げ込んだ。中原は、思う首をとることができず、心ならずも若党の首を持ち帰った。

 尼子下野守が討たれたので、尼子勢が大崩になりかかった。新宮党の尼子紀伊守、尼子式部大輔、尼子左衛門大夫が手勢三千ばかり入れ替えて大内勢を山下に追い落とした。

「二度までも追い落とされるとはなにごとか、このうえは、自らがかからなければなるまい」

 陶隆房が、大いに憤り、馬腹をけって突撃してきた。

 尼子勢も、陣内に入り備えを堅くして待ち受けた。

 陶隆房の臣、野上道友が、隆房の馬に駆け寄って制止した。伊賀民部少輔も鎧の袖にとりついて引き止めたので、この日の合戦は終わった。

 いっぽう、尼子軍総大将尼子詮久は、下野守が討死したのでひどく落胆していた。

「この度の出征を制止した下野守の意見を退けて、はるばるとここまで発向したため、

われが危急のときに、己の命を投げ捨てた無慙さよ」

 

 この日、尼子勢で討死した者は四百六十人を超え、負傷者は数えることのできないほど多くの損害をだすという凄まじい消耗戦となった。

 そのなかでも、突撃隊先鋒となった小笠原隊は、損害が特に多く、福冨党も、党首・相安を討たれたため、多くの士が力尽くまで戦って殉死した。

 一方、大内勢では、五百四十余騎が討たれたという。

 

 同日午後、犬伏山の麓に点在する百姓家に一人の武将が入った。山下忠左衛門である。

「負籠を貸してくれ」

 土間に平伏していた農夫が、急いで納屋から負籠を持ってくるのを待って、

「儂は、石州住人山下忠左衛門だ。主の御首を持ち帰るところだ」

 脇に抱えた包みを敷台に置くと、農夫があわてて仏壇から線香を取りだした。

「すまぬが蓑を貸してくれぬか」

 甲冑を脱ぎながら土間の壁にかけてある蓑と菅笠を指さした。

「使い古したものですが」

 恐縮しながら忠左衛門に蓑と菅笠を渡し、

「ちょっとお待ちくださいまし」

 小走りに納戸へ消えた、やがて毛皮の袖なしを持ってきた。

「これを、蓑の中に着てください。温かいですから」

「これは、かたじけない。かならず返却にくる」

「これから峠を越えなさるのでございますか。今日は雪が深く難儀なことでござりましょう」

「一刻を争う、ここは何処か」

「後ろの山が犬伏山でございます。ここは、上郷地区でこれから越えられる峠が犬伏山です。家の前の道が登り道です。しばらくは、荷車でも通れる道が続きます。やがて、道が二股に分かれます、そこには、お地蔵さんがありますので迷うことはありません。分れ道を左に入ってください、右は犬伏峠への道です。右は雪が深く、とても越すことはできません。お武家さまは、左の道をたどり、道なりに峠を越えてから、しばらく下ると、谷川沿いの道になります、これが智教寺川の支流ですので、そのまま進みますと里にでます。こちらの道は、木が多く茂り、積雪もあまりありません。山を下りきったところにあります智教寺の前を西に向いますと出羽まではもう少しでございます。くれぐれも、決して犬伏峠へは踏み込まないでください、あの峠は特に雪が深いですから歩くことも難儀になります」

「分った、お地蔵さんが見えたら左の道へ行く。出羽まで帰ればもう分かる」

 農夫が、暗い屋内をバタバタと走って、奥からおひつを横脇に抱えて出てきた。

「貧しい身でありますので何もありませんが」

 独り言のようにいいながら、筍の皮に飯を包み、庭から採ってきた柏の葉に囲炉裏端に突き立てていたアユの干物を包んでいる。

「ありがたい、なによりのごちそうだ」

 農夫から差し出された食べ物を押し頂いた。

 負籠にいれた相安の御首に両手を合わせて見送る農夫に、

「此度の戦は大敗だった。万を超える敗残兵がこの村を通って逃げるやも知れぬ事態となっている。そのときは、村の衆に迷惑が及ぶことになるゆえ、皆を集めて山に隠れなさい」

「ありがたき、お心づかいで」

「儂の甲冑は、どこぞへ隠してくれ、さもないとおぬしが盗賊と間違えられる」

「この山には、狼や山犬がおります。仏さまの血の臭いを嗅いで襲ってくるやも知れません、この犬をお連れ下さい。狼や山犬にもめったなことで負けるやつではありません」

 百姓が、二匹の犬を連れてきた。焦げ茶色をした精悍な大型犬である。一匹に縄をつないで忠左衛門に渡した。

「かたじけない、拝借する」

「峠を抜けてから、放してくだされば、自分で勝手に帰ってきます」

「落ち着いたら、必ず礼に参る。儂の甲冑は必ず隠してくれ」

「へえ、そうさしていただきます。…・お気をつけなさって」

 百姓姿になって山下忠左衛門は雪の犬伏峠に向った。

 道は、杉の木が密集する山道となった。一尺ほどに積もった雪を踏んで上り坂にかかった。

 甲冑を脱いで雪靴を履いた体は、軽やかに坂を登っていく。道は、いよいよ細く両側を覆う熊笹がわずかに道を教えていた。幸に積雪は膝の下までしかない。手に繋いだ犬は、おとなしく忠左衛門の前を歩いている。雪山に慣れているのであろう、身丈ほどもある積雪の中を飛びこえ、潜りこんで苦もなく登っている。放した犬は、前になり後ろになってついてくる。

―これは、いい仲間ができた。

 道に沿う谷川の清冽な流れが、さわやかな音をたてている。農夫は、この谷川を出店川の上流だと言った。

 日暮れまでには峠を越えることができるだろう。忠左衛門の気持が安らいできた。

 村の半鐘が鳴りだした。

―村の衆も避難を始めたようだ。

「殿、もう少しで帰れますよ」

 山下忠左衛門は、ずしりと重たい負籠に語りかけた。

 

 この戦では、元就の次男少輔次郎元春(十二歳)が初陣を果たし、吉川興経と激戦を展開したが、この吉川家こそ七年後の天文十七年(一五四八)に元春を養子に迎えた吉川である。吉川興経は、元就の妻お玖(妙玖)にとって実家の甥であるが、尼子詮久に合力し元就を攻めた。

 元就は、宮崎の合戦が散会してからも、小川のほとりに備えを立て、青三猪が坂の合戦をしばらく見物していたが、大内勢が本陣へ帰ったのでさっそく使いを遣わして、

「今日の合戦お互いに味方の勝利を得られたことは、ひとえに貴方がた三将の智勇によるものでございます。そこで、元就は、今晩、宮崎に残っている吉川の陣を夜襲して切り崩す所存でございます。そして、明日には、両口から尼子詮久の陣へ切りかかり一気に攻め破ろうと思っております」

 と言い送った。

 大内の三将は、

「仰せのごとくもっともでございます。しかし、味方は、今日の戦で負傷者も多く、四、五日の間、養生をさせてそのうえで、尼子詮久の本陣をそれがしの軍勢をもって切り崩しましょう。今日、敵陣を敗ることができなかったことは、ひとえにそれがしらの勇と謀の拙いゆえであり、口惜しく思っております。この無念は次ぎの合戦のときには、必ず晴らす所存でござります」

三将が言った。

 一方、尼子詮久は一族郎党を集めて言う。

「宮崎の高尾、黒正が敗れてしまったので、吉川隊だけが宮崎の陣所で耐えている。もし、今宵にでも、敵が押し寄せたら興経が討死してしまうだろう。至急、援兵を遣わせよ。誰かその任に当たる者はいないか」

「宮崎は、敵の陣に近く、尋常の者を遣わしても、高尾、黒正の二の舞になってしまう、それがしが行こう。しからば元就は、この前のように郷中へでてくるだろう。そこで敵が宮崎へ攻めてきたなら、ここからも軍勢をだして援護されたい、もし、順禮堂辺りへ出てきたなら、当陣と宮崎の中に挟んで追い立てようぞ」

 新宮党が言えば、亀井、牛尾ら家老らが言うには、

「今日の合戦を見て考えるに、元就の勇は尋常のものではありませぬ。大内勢もまた隆房の勇烈なことは父・道麒入道に劣らず。今の敵でさえ勝つことが困難なところに、このほど防州にもぐらせている山伏らが、先刻帰って言うには、大内義隆が数万の軍勢を率いて防府に着陣し、青景、弘中、右田、問田の者らが、近いうちに当地へ出張ると聞こえている。このうえにまた、敵勢が増えたならいよいよもって味方の由々しき事態となりましょう。まず、当陣を引き払って大殿(尼子経久)のご意見のように、改めて石州又は備後から攻めたならば、元就も終いには降伏するでありましょう。明日になっては退くのも困難でしょうから、明朝の寅の刻(午前四時ごろ)に、密かに引き払われてはいかがでありましょうか。殿(しんがり)は、高尾豊前守がかねてから望んでおりますので彼に任せられたならば、敵がいかに厳しく追撃してきても味方に難儀が及ぶことはないでありましょう」

 諸将も、下野守が討死されたことに落胆し、気おくれしていたところなので、皆が同意した。

 尼子詮久も、今までの合戦に利がなかったことは、伯州大山大権現の天狗山伏をもって、当地出張の義、再度におよんで制止された神勅に背いた冥罰であろうと思われるので、これから先、とても味方の利運はなかろうと、犯した過ちを悔いた。

 やがて家老らの意見に任せて退陣を決定した。

 同夜半になって諸陣にかがり火を煌煌と焼かせ、密かに陣を払って、北池田、阿沙、津賀まで引き退いた。

 毛利元就も、しばらくは気づかなかったが、敵陣近くに潜入させていた忍の者が走り帰り、敵陣が騒がしいので、もしや夜襲でも仕掛けてくるのではと近くに寄って窺ったところ、宮崎の吉川は新庄口へ引き払い、尼子詮久の本陣は北池田に向って退いております、と告げた。

 毛利の陣ではこの夜、宮崎の陣へ夜襲を掛けるため、宵の口から支度をして待っていたところだった。我先にと追撃したが、大雪のため行動が自由にならない。

 そのうえ、高尾久友の五百騎が殿(しんがり)として道を遮り備えているので、うかつには追えない。

高尾は、夜中のうちであれば安全に退くこともできたが、昨日、宮崎の陣があえなく切り崩されたことを無念に思っていたので、あえて敵を待ち受けていた。

 夜が明けようとするころ、毛利勢が切り掛かって来た。

 毛利勢の猛攻に高尾隊は一歩も退かず三度までも押し返し、終いには三百余騎が円陣を組んで全員が凄絶な討死をとげた。

 その隙に、尼子勢はけが人を助けながら津賀まで退くことができた。

 尼子詮久はここで、陣を張って敗軍を収容していたが、三日後には迫ってきた毛利勢にあわてて出雲へ帰った。尼子勢の逃げた陣には深野、宮川の首が縁の上に置かれ、尼子下野守首桶が床の上に放置してあった。尼子勢は、いかにもぶざまな姿をさらけ出してしまった。

 壊乱退却した尼子軍は、雪の犬伏山や江川の渡しで四百人余りという甚大な犠牲をだし惨憺たる退却行となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾行者

 残暑の厳しい天文八年の夏も、かすかに秋の気配を感じるようになってきた。ガンガンと耳に響いていた蝉しぐれも力を失い、法師蝉が「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴いていた。

「いったい、何者だ」

 理右衛門は後方を振り返った。

「ハアー」っと、自分でもびっくりするようなため息をついてしまった。

 今朝、浅利の居宅を出て村境近くの大歳大明神に頭を下げたときだった。誰かに見張られている気がした。殺気はないので、気づくのが遅れたが、どうも見張られているような気がする。

 身構えて周囲を見回したが誰もいなかった。気を取り直して、隣の渡津村への峠道にかかると、また、その気配が湧き立った。木々を透かして後方に眼を向けるが、何者もいない。だが、肌は緊張している。あきらかに視線を感じ取っていた。姿を見せない尾行者に怯んでいるのではない、身が竦んでいるわけでもない、いつも見られているという圧迫感が気に入らないだけだ。

「ドキッ」

 理右衛門の繰り出す右足の着地点に横たわる異物を見つけたとき、右足はすでに着地寸前であった。瞬間的に数寸、足を伸ばして異物を避けた。転倒しかけた上体をかろうじて立て直した。

「おっとっと」

 大仰な声をあげて苦笑した。後方にばかり気を取られて前方をおろそかにしたから、こんなことになるのだ。

五尺(一六五センチ)はあろうかとおもえる蛇の青大将が道を横切っていた。寸前のところで踏みつけるところであった。毒蛇ではないので噛まれても害はないが、いい気はしない。

青大将は悠然と、ことさらゆっくりした速度で熊笹のなかに潜り込んだ。

熊笹の先は崖になっており、木々の間から見える日本海はすぐ下まで迫っていた。

 

一里ほどしかない峠を越えるのに、なんの苦労もいらない、あっというまに渡津村の塩田浦に出た。体の緊張はあいかわらず続いている。姿は見えないが誰かに尾(つ)けられていることは確かだ。

 街道脇に建つ寺の山門に身をひそませた。尾行者がおれば目前を通るはずだ。

 首筋をなでる風は清涼で心地よかった。つがいの蝶がもつれあうように交差しながら山門をくぐり抜けた。

 眼の前に広がる江川(ごうのがわ)を一艘の渡し舟がひどくゆっくりと進んでいた。渡津村の渡しから河口付近を横切って対岸の江田(ごうだ)村へ向かう舟だ。江川の真っただ中に静止しているように見える舟は、夏の日を照り返す川面にゆらゆらとかすんでいた。

 江川は安芸国阿佐山(標高一二一八メートル)に発し、中国山地貫流して日本海に注ぐ大河だ。当時の人々は石見川と呼んでいた。河口付近の川幅は百六十丈(四八〇メートル)を超えている。

 江田村は、はるか遠くに見えていた。川岸から一気に立ち上がる小高い山の上から、都野氏の居城亀山城が江川を睥睨している。日本海から江川を遡上する舟が最初に眼にする城であった。城から眺める景色の見事さはいかほどのものであろうか。

 四半刻(三十分)の間、様子を伺ったが山門の前を通り過ぎる者はいなかった。理右衛門はお堂に一礼して山門をでた。

 長良の渡しに程近い山際に島田利左衛門屋敷があった。理右衛門は誘(おとな)いを求めるでもなく潜(くぐ)り戸から入って行った。

 嫡男となるべき男子がいなかった福冨家の分家山根儀右衛門に、都野氏の重臣島田利左衛門の第二子麻呂を養子とする話が整った。

 相安と都野家当主隆安の口利きによるものであった。

 相安から仲人をまかされた理右衛門は、相安への相談と報告を緊密に行いながら幾度となく山根、島田両家を行き来して縁談をまとめてきた。

あれは、何回目のときであったろうか。ふと、誰かに尾行されていることに気づいた。殺気がないので恐怖心も湧いてこない。気になるといった程度のものであった。だが、正体をつかむことができぬまま、半年が過ぎようとしている。

ふしぎなことに、理右衛門にまとわりつく他人の視線は往路だけであった。帰路については、何の気配も感じなかった。

 このことは、いちどだけ相安に話したことがあった。

「ふしぎだの」

 野盗なら隙を見つけて襲ってくるであろうし、狐狸の類(たぐい)なら半年も続かない、それに、里にまで尾(つ)けてくることなどありえない。

「用心をすることだの」

 相安も、それしか言いようがなかった。

 

 山根儀右衛門のひとり娘美雪と島田麻呂の婚礼は来春の三月一日(新暦四月七日)とした。昼は満開の桜花が祝い、夜は満月が婚礼道中を浮かびあがらせる。理右衛門の、腕の冴えを見せる演出であった。

 麻呂は美雪の婿養子ではなく、儀右衛門との養子縁組を行った後、美雪と結婚させるという。儀右衛門なりに考えた麻呂への思いやりがあった。

「儀右衛門どのは麻呂どのに家督を譲って、おのれは隠居するのだと、婚礼を心待ちにしているようでございます」

 理右衛門の言い方からみれば、儀右衛門は指折り数えているようであった。

 

 婚礼の日取りも確定したところで、相安が都野隆安への報告とお礼に行くこととした。

「理右衛門の言う、他人の視線とやらは出るかの」

「殿は、信じてないようですの、儂がうそを言っているとでも思っておられる」

 憮然とした理右衛門が口を尖らせてみせる。

「いや、信じている。だが、半年も身を曝さないというやつは、考えによれば、相当の腕を持った忍びかもしれない」

「忍び・・・」

「忍びなら、それぐらいやってのけるの」

「忍びだとして誰が放ったのでしょうか、なぜ、なんのために」

「わからん、理右衛門を尾(つ)けて何の益があるのか」

「いちど捕まえて白状させてみたいものですの」

「半年も理右衛門を煙に巻いたやつだ、簡単にはつかまらないだろう。それより、尾行者の顔を見ることだ。見れば誰が何のために尾(つ)けるのか判断がつくこともある」

 それから一刻にわたって相安らは、ひたいをつきあわせていた。

 

 村境を越えると峠は霧に煙っていた。中国山地を深く抉(えぐ)って日本海に注ぐ江川には霧が多い。霧は山峡に溜まって濃霧となる。街道わきに立ち並ぶ杉木立も数本先は霧に姿を没している。

「いい具合に霧ですな」

 理右衛門が相安を振り返った、聞き取れないほどの小さな声だった。

 無言で目配せした相安にうなずいた理右衛門の嫡男忠左衛門が、すいと街道脇の霧の中に潜んだ。

 相安は、この日、理右衛門を連れて江川を渡り、都野隆安に面会することとなっていた。

「いい機会だ、理右衛門をなやます影とやらを見つけようか」

 相安は一計を案じていた。相安ら一行はなにごともなかったかのように坂を下っていった。

 相安らの足音が消えぬ間に、ひとりの男が忠左衛門の前を通り過ぎた。百姓姿をしているが、動きは軽やかで、足音も消している。ふと立ち止まって右耳を前方に向けて聞き耳を立てた。霧で見えない相安ら一行を追尾している。

―父上の感も、間違ってはいなかった。

 忠左衛門は、その男が消えてから街道に出た。

「敵が見覚えのある人物なら、何もせずにやりすごせ。知らない人物なら捕まえろ。手に余るようであれば斬れ」

 理右衛門の指示だった。

 相安らを尾行していたのは、忠左衛門もよく知っている人物だった。浅利村大歳大明神の筋向いに屋敷を持つ郷士河波崎(かわさき)長兵衛の僕従松造だった。

「なぜ」

 福冨党の一員である長兵衛が、主である相安を見張る。これは、あきらかに主家に対する裏切りだ。忠左衛門には理解できない。

 忠左衛門は、もと来た道を引き返しながら反芻した。

 長兵衛は、三十歳を超えたばかりの剛直な士だった。屋敷の裏が浜であることもあって馬術の巧みさは福冨党軍団のなかでも際立っている。福冨党の騎馬による集団戦闘訓練では常に創意工夫した戦術を相安に提言していた。そのなかでも、機に応じて騎馬のみで一隊を組んで敵中に突撃する戦法があった。轡(くつわ)取りも、徒歩(かち)武者も連れずに騎馬だけで密集隊形を組むことにより、すばやい攻撃が可能となった。徒歩武者はいなくとも密集することにより、力がひとつに結集して敵を跳ね除ける。相安も彼の提言に瞠目し、採用した。今では、福冨党の大きな力となっている。屋敷は、浅利村を東西に貫く街道の西端にあり、西から東上する人物に睨みを効かせている。

 

「河波崎長兵衛どのにございました」

 忠左衛門は相安の心内をさぐるように小さな声で報告した。

「なに、長兵衛」

 立ち上がった相安が太刀をとって玄関へ向かった。

「殿、短慮は、お控えください」

 理右衛門と佐々木善兵衛があわてて立ちはだかった。

「長兵衛とて、仔細があってのこと。詳しくはそれがしが聞き取ります」

 両手を広げて相安を止めようとする善兵衛。

「心配するな、儂はそれほど馬鹿ではない、儂が直に聞いてやるのが長兵衛のためだ。理右衛門や善兵衛が、のこのこと出向いてみろ、長兵衛は死ぬぞ。あれほど剛直な人物だ、苦渋の末にあのようなふるまいにでたのであろう」

「よくわかりました。ここは殿にお任せしましょう」

 理右衛門と善兵衛の肩から力が抜けてきた。

 

「長兵衛はいるか」

 ずかずかと門を通り過ぎ、玄関に立ったところで、長兵衛が飛び出してきた。

「これは、これは」

 蒼白な顔をつくろい、かまちに膝を落として挨拶しようとする長兵衛を手で制して、

「話がある、上がってもよいか」

 草履を脱いだ相安を、長兵衛があわてて座敷に案内した。

「お一人ですか」

 長兵衛が怪訝な表情で門の外を振り返った。兵を連れていないかと、さぐるような目つきをした。

「この半年間、貴殿(そなた)のところの松造が儂や理右衛門をつけまわしていた。その理由(わけ)が聞きたい」

相安は単刀直入に話を切り出した。口調は平常であった。わが子を諭すような響きがあった。

この一言で、言い逃れはできないことを長兵衛は悟った。

「ご存知でありましたか」

「最初に気づいたのは理右衛門だった。だがの、誰なのかは、つい最近まで分からなかった。松造の技量が優れていたということだ。儂も、理右衛門も忍びの者につけられていると思った」

「身を隠す技量ですか」

 長兵衛が自嘲ぎみに言った。

「それで、それがしをどうされます。」

 長兵衛は成敗されるとでも思っているようだ。

「何もしない、面白いものを見せよう」

 相安は、僕従の助八に短弓を持ってこさせた。通常の弓より極端に短い弓ではあるが、室内や山中での戦闘では威力を発揮する。

「昨日、峠の上で、この矢が松造を狙っていた。至近距離だったと忠左衛門は言っていた」

「松造は気づかなかったと思います。それで、なぜ、殺さなかったのですか。」

「それは、忠左衛門が松造を知っていたからだ。顔見知りでない人物なら殺せと命じていた」

 長兵衛が言葉を失って沈黙した。

 満開となっている庭のさるすべりで小鳥が鳴いた。

「貴殿の一存ではあるまい、誰に頼まれたのか」

 平常心を保ったままのおだやかな声は長兵衛の心をほぐしていた。

「殿を前にして嘘はつけません。・・・・坂根さまにございます」

「なに、坂根筑前守さま。小笠原家重役の坂根さまか」

「殿、恐れ多いことながら、都野氏とのご厚誼は、ほどほどに・・・・。」

「そういうことか・・・・・長兵衛、心配かけたの。このたび、都野氏の家臣島田どののご次男を福冨の分家山根の養子として迎えることとなった。このことが、坂根さま、いや、御屋形さまの意にそわないのかもしれない。だが、都野家と福冨の交誼はいま始まったものではない、先々代、いや南北調争乱のときから続いているものなのだ。都野家と今の福冨家では家格に大きな隔たりがある。にもかかわらず、都野どのは同格として遇してくださっている。百年以上にわたってのことだ。儂も都野どのとの付き合いを大切にしていきたい。だからといって、小笠原さまをないがしろにすることなど絶対にない。坂根さまは儂が都野氏へ走るとでも思っておられるのかもしれないが、絶対そのようなことはない。御屋形さまは福冨相安の主人であられる。御屋形さまへのご報告は、儂がしかと行う」

「そうでございますか、よく分かりました。いままでのご無礼、ひらにご容赦を」

「分かっている。御屋形さまの命で、貴殿も動いたのだ、なんで、儂が文句を言えようか」

「坂根さまへは」

「すまぬが貴殿からしていただきたい。お願いする。正直なところ、疑があれば坂根さまから儂に直接聞いてほしかった。それを、長兵衛に嫌な振る舞いを命じた、坂根さまのやりようは気に入らない」

「・・・・」

「儂は、貴殿を責めているのではない。貴殿の心に宿る苦汁は儂の心をも苦しめる」

「恐れ多いことでございます」

「でも、すっきりしたぞ。長い間、貴殿を苦しめた役目もこれで終わりだ」

「さようにございます」

 言葉とは裏腹に、生気の甦った長兵衛の顔にじっとりと汗が浮かんでいた。おのれの仕える主人を裏切っていたという自責の念が消え去るには時間がかかりそうだ。

 松の風音に混じって潮騒が聞こえてきた。松林の先は浜だった。弧を描いて続く浜は東西に一里ほどもある。福冨党の馬術訓練場として使用している。

「久しぶりに、浜で汗を流したくなった、長兵衛、付き合わぬか」

「よろしゅうございます」

「早駆けを競うぞ」

「負けませぬ」

 馬術では相安に負けることはない。

「馬を用意せよ」

長兵衛が大声で家人に命じた。弾みのある声だった。

 

 福冨の分家山根儀右衛門に都野氏重臣島田利左衛門の次男麻呂を養子とすることに、御屋形(小笠原長隆)は不満をもっているらしいということが分かった。

「御屋形さまは此度の婚姻に反対なのでしょうか」

 理右衛門が浮かぬ表情で相安に問いかけてきた。

「いい気持ちをお持ちでないことは確かだの」

「どうしてでしょうか、『小笠原家中ではなく都野氏の重臣だから』ということでしょうか」

「たぶんそうであろうの」

「今、都野氏と小笠原氏の仲はうまくいっているのに、だめだということですか」

「仲良くというよりは、今の小笠原氏は力で都野氏を押さえているといったほうが正しいかもしれない」

「ですが、都野氏は小笠原氏との親密な交際を望んでおられる。その延長として小笠原家中の山根氏との婚姻を進めたのではありませんか」

「御屋形さまが怒っておられるのは、儂が都野氏のもとへ鞍替えするかも分からないと、お考えがあってのことだろう。それも、誰か、たぶん坂根さまあたりであろうが・・・告げ口をした者がいるということかな」

「告げ口となると怖いですの、どんなことになっているかもわからない。すでに、都野氏の家臣になりたがっているとでも言われているかもしれませんな」

「早急に、御屋形さまへ書面でもださねばの。忠左衛門に行ってもらうか」

「承知です。どなたさまへお渡しすればよろしいのでしょうか」

「御屋形さまに直接、お渡しすることはできない。当日、登城している重役連中であればだれでもよい」

 翌日早朝に出立した忠左衛門が、用件を済ませて四ッ地蔵城に帰城したのは二日後であった。

「たまたま、大島和泉守さまの御家臣がおられましたので、お願いしておきました」

「その家臣とかいう人物は知っているのか」

「はい。それがしと同様に、温湯城へ出向いております。いろいろと情報の交換をしております」

「若い者には若い者同士の人脈があるということだの、いいことだ」

「おそれいります」

「大島さまとは、いちばん良い方に会えたものだ」

 

 だが、御屋形からの回答がこない。

 

佐摩銀山(石見銀山)

 享禄三年(一五三〇)も暮れようとするころ、相安の叔父八神屋與次郎兵衛が四ッ地蔵城を訪れてきた。

「どうですか商いは」

 相安は子どものころから、父忠智と部屋に籠って話し込んでいた叔父の與次郎兵衛に対しては礼節をわきまえた態度を崩さなかった。

武家を捨てた変な叔父御。

 としか見ていなかったが、父が他界してからも時々、顔をだしては、貴重な他国のようすなどを知らせてくれた。最近になって、それが、いかに重要であるのかが相安にも分かってきた。

―ひょっとして……與次郎兵衛が商人になったのは、祖父治堅の意思によるものだったのかも知れない。と思うこともあったが、相安は口にだして聞くことはしなかった。

「まさに飛ぶように売れている。最近は江川だけでは間に合わず斐伊川の物まで集めているよ。他国へ持ち出して初めて分かったことだが、石・雲州の玉鋼から作った刀剣は切れ味、粘り、見栄えとも、他に累が無いと言われている」

 砂鉄から作った刀剣は、地肌の冴に神秘的な青味をたたえている。相安もこの美しさに吸い込まれるようなとまどいを感じることがあった。叔父は、これを見栄えと表現したのだった。

「そんなに売れますのか」

「ところで、面白い話を仕入れたよ」

 朴訥な口調だった。相安が当主となってからも與次郎兵衛の言葉づかいは変わらなかった。叔父が甥に話すそれであった。ただ、話し方には、自愛に満ちた柔らかさがある。それも、二人きりのときだけであり、相安が、武家の頭領として行動しているときには、決して相安の面前には姿を現さなかった。

 

仕入れですか…・・商人の言葉ですなー」

 相安がフッと笑った。與次郎兵衛の顔からは笑顔が消え、真面目な話をするときの顔になっていた。

「出雲で玉鋼を仕入れて、いつもは江津まで一気に舟を走らすのだが、その日は風が悪くての、温泉津へ泊まることにした。折角の機会だからと温泉に入湯していたら、大変な繁盛で…・なんでも…・・佐摩銀山の銀が大量に採れだしたとかで…・博多の豪商神谷寿貞とかいう仁が、出雲佐義銅山へ銅の買いつけのため、船で馬路(まじ)海岸沖を航行中、佐摩の仙ノ山にかかる霧が、光り輝くのを見たことから、そこに、銀の鉱床があるのをみつけたらしい…・儂も、馬路沖は、いつも通っているのだが…気づかなかった・・博多の神谷寿貞が乗っていた舟でも、船頭らはときどきその現象をみていたようでのー、『御来光だ。』といって拝んでいたらしい…・それを、神谷寿貞は、佐義銅山主の三島清左衛門と、大永六年(一五二六)ごろから銅山の穿通子(ほりこ)を使って銀の採掘に着手したらしい。それが、図に当たったらしいのだな、銀が思いの外大量に採れ出した。銀山の経営にあたったのは神谷寿貞と三島清左衛門で、採掘を請け負ったのが吉田与左衛門、籐左衛門、於紅孫右衛門ら三人の穿通子大工だということじゃった。ところが、一昨年の大永八年(一五二八)夏、吉田与左衛門、籐左衛門は、意趣があってということらしいが、於紅孫右衛門を討ち果し、それで、吉田与左衛門、籐左衛門の両名が頭となって掘っているということだ。それから、銀の産出量がずいぶんと増えているそうだ。佐摩の町は人が集まって、どんどん賑やかになっているらしい」

「世間の噂というものも面白いですな、実は、あれは、御屋形さま(小笠原長隆)の知略が効を奏しているということですよ。御屋形さまが吉田与左衛門、籐左衛門を手なずけて於紅孫右衛門を討ったのです。なにしろ於紅は、御屋形さまのいうことを聞かなかったですから」

「じゃ、すでに小笠原さまのものになっているということかの、銀山は」

「まだです、仕上げには、もう少し刻が必要でしょう」

 佐摩銀山の起源は、一説には鎌倉時代といわれているが、当初は、地上に噴き出した露頭銀を採掘していた程度のものであり、今も、あまり変わっていないと相安は思っていた。

「銀か…・・欲しいですなー」

「そうよの、小笠原の御屋形さまが銀を手にしたら、『銅ガ丸鉱山の銅と銀、佐摩銀山の銀、江川流域の砂鉄』、鬼に金棒ですのー…・銀があれば武器がいくらでも買える。遠隔地へ進攻のときも、苦労して兵糧を持っていかなくても現地で買うことができる。儂も、銀を商いたいが、今は、大内氏の管理下に置かれていて、手がだせん」

「そうですな、横取りするにしても、名目がなければ…・」

「ところが」

 與次郎兵衛が身を乗り出して声を細めた。

「銀山を守っている矢瀧城から城将をはじめ侍雑兵らまでが郷にでて住民に数々の災いを起しているということだ。そのため民が困窮しているらしい」

矢瀧城は、銀山から湯里を通って温泉津に向う路が初めて越える峠・降露坂の南にある高い山(六八四メートル)に築かれて、今は、大内義隆の武将が山吹城とともに銀山の押さえに任じている。

「面白いですなー」

 與次郎兵衛が火鉢に手をかざしながら暖をとっていた手を止めて、エッと顔を上げた。

「あ、いや違います。儂が面白いと言ったのは、地下(じげ)の衆が困っているからではなく、住民を苦しめる族は退治しなければいけんと思ったからです」

 

 昌康は、享禄四年(一五三一)正月、温湯城大広間にて毎年行われる年賀式の連座で、銀山のことを披露した。

「地下の衆を困らせる悪党は退治しなければいけんのー」

 御屋形(小笠原長隆)が満足そうに笑いながら言ったものだ。

―そして、銀が手に入る。

 これが本音だ。

 このころ、大内氏は北九州の平定に精一杯となっており、石見から眼が離れている。

 尼子家では、経久の三男塩治(えんや)興久が謀反を起こしたため、出雲領内での合戦が続いている。

 興久は、父経久から三千貫を与えられ、上塩冶(かみえんや)の要害山城主となっていた。尼子の本月山富田城の防衛上特に重要な城である。

興久は三千貫では少ないと加増を要求し、一千貫加増のお墨付きを得たが、それでは少なすぎるとして叛旗を翻したものである。

「やるなら今だ」

 御屋形(小笠原長隆)の決断は即(はや)かった。

 同年二月、小笠原長隆の命を受けた志谷修理太夫、平田加賀守、三完氏六郎左衛門、安田兵六、原釜左近、青木、兼田ら総勢三千五百余騎が、大内方の武将が守る矢瀧城を攻めてことごとく討ち果たした。

 つづいて、四月には大田の高城を攻略した。この戦で小笠原隊井原十郎左衛門は高城々将の長田若狭守を討ち取って高名を得た。

 小笠原長隆は、大永七年(一五二七)に離反した福光氏の領地を取り上げ、享禄五年(一五三二)九月、都野長弼に石見江城、城番の功として福光彦八郎の福光郷六十貫文足と福光右京進の福光郷二十五貫文、飯田内蔵丞の跡、大家庄内三十貫文の地を給した。

この時期、小笠原家の隆盛は天を衝くばかりであり、邑智郡、那賀郡、邇摩郡と支配地を伸ばしていた。

 矢瀧の村人は、おおいに喜び、御屋形(小笠原長隆)を歓迎した。

 これにより、石見佐摩銀山は小笠原氏のものとなり、じ後三年にわたって領した。

 このころ、銀山では採掘が軌道に乗りおびただしく銀を出していた。

 御屋形は、銅ガ丸鉱山の銅と銀、佐摩銀山の銀、そして江川流域でおびただしく採れる鉄を手中にしたのである。これらを上手く使えば小笠原軍団に敵なしとなること明白、小笠原家は前途洋々の未来を抱えようとしていた。

 しかし、このことは、大内、毛利、尼子による熾烈な銀山争奪戦に翻弄されることとなったのである

 同年春、山下忠左衛門が驚愕すべき事実を掴んだ。

「都治氏がお家再興を果たした。ということでございます」

「都治家か」

「そうです」

「都治氏は、大永元年(一五二一)に絶滅したではないか」

「ええ、あのときは、尼子経久により都治の城に籠っていた者は、すべてが惨殺されました。その数、名のある者だけで二百名を超している。特に、都治姓の者は一人も残さず殺されました」

「どこかから養子にでも入ったのか」

「それが、都治興行の妻は、川上(かわのぼり)元祐氏の娘で、都治落城のとき妊娠五ヵ月であったそうにございます。夜陰に紛れて家臣天波らと川上へ落ち延び、翌大永二年(一五二二)二月、男児を出産し鶴丸と名づけた。これが成人して隆行と名乗り、このたび、お家再興を果たしたということです」

「あのときは、尼子氏が聞きつけ、男女いずれかを確かめるため、検使を寄こした。と聞いている」

「そのとき、元祐の子国祐が一女をもうけていたので「興行の子はこの娘なり」と示して助かったそうにございます。以後、鶴丸は川上城で養育され、成人したのを機に、都治の家臣水口信濃守という者が出雲に赴いて、尼子国久にこれまでの都治事情を明かして旧領回復を願いでたということです。川上氏からも願い出て、ついに許され都治家七代を継いだのです。都治氏にとって幸いだったのは、尼子氏も経久が高齢のため病弱となり、その嫡男は戦死し、跡を継いだ現在の頭領・晴久は幼少のため、叔父の国久が後見している時期であったことでしょう。国久も「主家を乗っ取ろうと謀っている」という噂もでているような人物です。味方となる者は増やしておきたいでしょうから」

「なんとのー、潰しても潰しても生き返る。それが、都治か。これで三度、生き返ったの」

 一度目は、都治家三代弘行のとき、娘婿の土屋宗信がその宗家都治弘行の領である都治郷と羽積郷を乗っ取ろうとして弘行と重臣八人を殺した。そのときの将軍足利義満が不審に思い、たびたび召文したが惨落しなかったことから、石見の守護山名氏豊に都治退治を命じられ、小笠原、福屋、益田、三隅ら周辺の国人衆により攻め落とされた。その後、川上(かわのぼり)越中守の次男又太郎が入部し、佐波郷の赤都賀の娘を娶らせて都治家再興が許され四代宗行となった。ところが、京で応仁の大乱が起こり、西軍に組した宗行は、川上、周布、吉見らと温泉津から乗船出陣したが、但馬国蛇島付近で暴風のため遭難して生涯を閉じた。このとき、ただ一人、都治まで帰りついた者の報告によれば宗行は命からがら海岸に上陸したらしいが、地元人の襲撃を受けて殺されたという。

 二回目は、都治家六代興行のとき、尼子経久に刃向かったため滅亡した。それが、このたび、わずか十年で甦ったのである。

「完膚なきまでに叩き潰されても再生する都治家とは恐ろしい家だの」

 相安は武家とはこうあるべきだと思っている。だが、都治家再興は都野氏と川上氏の力によるものであった。都野、川上という強力な後ろ盾があったからこそできたことである。

 わが福冨は・・・残念ながら、頼りとする人もなく己ひとりで生きてゆかねばならない身であった。

「それにしても、都治氏は、三代、四代、五代、六代と続いて当主が殺されている。まさに呪われた家系としか思えないのに、家は存続している。ふしぎですな」

「都治という地は、元来、宮家が領してきた土地だ。ゆえに、都の治める土地、すなわち都治という名がついたのだ。都治という土地柄が良いということかの。家を残したいという気持ちが強いのであろう」

「福冨家初代治堅さまが、お亡くなりになったとき、福冨家の臣が六名も都治のもとへ逃げたということがあったですな。この度は、大丈夫でしょうか」

「福冨を裏切った輩(やから)は、尼子氏の都治攻めでことごとく滅亡した。よもや、此度は、鞍替えしょうと考える者はいないであろう」

「そうですの」

「だが、目配りは必要であろうの、父上のような屈辱は味わいたくない」

「そうですの、今回は裏切らないという確証はない。注意を怠ることはできません」

「だが、郷士の間で疑心暗鬼となるようなことは避けねばならない」

「そうですの、心して配意しなければなりません」

 

 天文二年(一五三三)大内義興に銀山を奪い返えされた。

大内はその臣吉田若狭守、飯田石見守の二人を銀山奉行とした。

 吉田与三右衛門らは大内義隆に採掘の許可を得、その被官となって、毎年、京銭百貫、積銀にして銀子百枚を大内に貢献した。

 この年、神谷寿貞は博多から二人の中国人技術者を連れてきて現地で精錬させた。灰吹法と呼ばれる銀の精錬技術で、これにより、採掘と精錬を同時に行い、純度も七十パーセントを超える良質の銀が採れるようになった。灰吹法は、銀鉱石に鉛・鉛鉱石を加えて溶かし、鉛と銀が溶ける温度の差を利用して純粋な銀を取り出す方法である。

 佐摩の町は諸国から人夫たちが大勢あつまり、大いに富み栄えた。

 当時、銀山七谷に戸数は一万三千を超え、精錬技術者として来往した明国人の屋敷も並び、唐人屋敷、唐人橋があった。

 大内氏は、福光氏に福光郷内旧領の一部を与えた。相安の所領福光下村と隣接する田地は、また福光氏のものになった。

 

 天文三年(一五三四)尼子家で内紛を引き起こしていた塩治興久が戦いに敗れて自殺した。

 

 天文六年(一五三七)正月、八十歳になった尼子経久は孫の詮久に家督を譲った。

 尼子家を立て直した詮久は安芸、石見への勢力拡大に本腰を入れてきた。

 同年八月、詮久は銀山を攻めて大内の奉行吉田と飯田の両名を殺し銀山を奪取した。

 銀山は、これより天文八年(一五三九)までの三年間、尼子氏のものとなった。

 小笠原、福屋、益田氏は尼子氏になびいたが、吉見氏は応じなかった。福光氏は小笠原氏から離れたまま尼子氏の麾下に走り所領の安堵を得た。

 天文七年九月(一五三八) 温湯城主小笠原長隆は、尼子経久の内意により大内と毛利の離間策を三通の書状にしたため、元就に送った。

 その内容は、『尼子氏に背き、大内氏に属した元就が、東方で攻勢を続けている尼子方に戻りたいと画策しているということを大内義隆が察知している』というものであった。しかし、元就は嫡子隆元を人質として大内へ送っており、毛利・大内の堅い結束をほぐすことができなかった。

 このころ尼子氏は中国地方東部の大攻勢により備中、備前、美作、播磨、因幡を征服し、すでに傘下に組み入れている伯耆、出雲、隠岐、石見、備後、安芸を合わせて中国十一ヵ州の太守と呼ばれていた。

 まさに、元就は、権勢絶頂の尼子氏を見限っていたのである。

  天文八年(一五三九)年四月、尼子勢が安芸侵入を企て、比叡尾城主三吉氏の合力により備後布野から江川に進出した。元就は戸坂で迎撃しようとしたが尼子隊はこれを蹴散らした。このとき吉川興経が尼子に呼応する動きをしたため、元就が山県郡へ出兵した。

 同年五月  大内義隆による銀山奪取軍が侵攻してきた。小笠原長隆は抵抗をせず、赤山に退いた。大内義隆は内田正董を奉行とした。

九月、小笠原氏は大内与党として働き内田正重奉行の下に吉田大蔵丞、吉田采女丞及び坂根次郎兵衛を置いて昆布山谷において銀を吹かせた。

 

 毎年、銀五百枚を大内へ貢献することで、小笠原氏の銀山経営の存続がなった。

 

 

 

三代・福冨七左衛門尉藤原相安

 

 永正十三年(一五一六)、足利義稙を奉じて京都の守備に任じていた尼子経久は、大内義興の専横を怒り出雲へ帰った。

 月山富田城に帰った経久は、つぎつぎと周辺の国人衆を制覇し、大内氏の領土を脅かしてきた。

 永正十五年(一五一八)、ついに義興も山口へ帰った。

 いよいよ大内氏と尼子氏による石見争奪戦の幕開けである。

 

 この時期の石見国は鹿足郡の三本松城に吉見頼興、益田の七尾城には益田宗兼がおり、那賀郡の三隅高城に三隅興信、周布(すふ)に周布興兼、有福の乙明城(おとあけじょう)に福屋正兼がいた。

邑智郡では川本の温湯城(ぬくゆじょう)に小笠原長隆、吾郷泉山城に佐波(さわ)誠連、出羽に出羽孫次郎、阿須那に高橋清光ら大小の国人が割拠していた。

 

 永正十六年(一五一九)九月四日(新暦九月二十七日)、小笠原氏と佐波氏が君谷およびその周辺で戦った。何度も繰り返されてきた戦いであるが、小笠原隊井原秀信は君谷松尾口において首一つを討ち取り豊前守に任ぜられた。

 

 大永元年(一五二一)三月、四ッ地蔵城へ温湯城から緊急の書状が届いた。

出羽城の高橋大九郎久光が討死したというものだった。

「大九郎どのは、三千余人を率いて加井妻城三吉(みよし)隆亮(たかすけ)の家臣が籠る青屋城を攻撃中に討死したという」

 衝撃による動揺を抑えきれない声で、福冨相安が書状を読んでいった。

「なんと、どう申し上げていいのか…・あれほどの剛勇で名高いお方が…・あっけないものですな」

 郎従の山下理右衛門と佐々木膳兵衛の口から低いうなり声が洩れている。

「大九郎さまの奥方さまは小笠原家の姫君ですから、応援にいかねばならないでしょうな。」

「直ちにいかねばならない、備後国三吉隆亮が五千余騎で出羽城を囲んでいる。主を亡くした出羽城は家臣の佐々部、岡、湯谷らが持ち堪えているらしいが…主の無い城を守るべきか否かと動揺もでているらしい早急に行くべきだ。小笠原隊には温湯城に集合がかかっている、出陣の合図をせよ。」

「承知」

 理右衛門と膳兵衛が勢いよく立ち上がった。

「佐々部どのか」

 相安の父忠智がなつかしそうに呟いた。

「父上、ご存じですか」

「よく知っている。・・・あれは儂の父上が亡くなって間もないときだった。御屋形さまの命令で阿波国まで鶴姫さまを迎えに行っての帰りだった。なにしろ、鶴姫さまのご両親の城が落城してしまったときに、脱出しての旅路だったので、姫の行列を調えることができなかった。それを、出羽本城の大九郎さまが調えてくださった。そのとき、行列を先導したのが儂と佐々部どのだ。おかげで堂々と鶴姫さまを御屋形さまに、お渡しすることができた。佐々部どのは気配りのよくつく、いい男だった。・・・だが、大九郎さま、佐々部にしても気の毒なことになったものだ。武家の宿命とはいえ寂しいの」

 

 翌日、温湯城で軍勢を編成した小笠原隊は、明日早朝に出羽城へ向けて出発することとした。出羽へは一日もあれば到着する。

 その夕方、毛利の使者として宍戸家の家臣が御屋形のもとを訪れた。

 急遽救援にかけつけた安芸の毛利軍が三吉の兵を撃破し、さらに毛利、高橋連合軍が加井妻城を攻めて三吉隆亮を討ち取った。というものだった。

さらに、使者の口から「城を攻略したが久光さまは斬られた」という驚愕すべきことが分かった。使者は次のように説明した。

「三月二十四日、高橋久光さまは三千余騎にて青屋の城を攻囲のうえ、城の一方をわざと開けおいて、三方から攻めかかったのでございます。高橋勢の猛攻に敵はたちまち戦意を失い、逃げだしたので、高橋勢は逃げる敵に急迫しながらつぎつぎと討ち取っていったのです。だが、久光さまの旗本衆までもが高名に気を取られて城内へ乗り入ってしまったということです。そのため、本陣には久光さまの周りに、わずか十騎ばかりしかいなかったのでございます。久光さまは床几に腰掛けて首実験をしておられたところに、逃げ去った敵が数百人引き返して久光さまの首を掻き斬って、切っ先に貫き、『高橋久光を、青屋入道の手に討ち取ったり』と名乗りを挙げたのでございます。この声に驚いた久光さまの旗本衆があわてて本陣に帰ってみたら敵はすでに逃げ去り、『城は、御所望であれば進呈申し上げよう、高橋どのの首は三吉の土産としていただいた。城と首は替え得にございますか、替え損にございますか』と大声でからかいながら消えて行ったということです。出羽城では、久光さまが討たれたと聞いて、どうしたものかと泣き悲しんでいるところに三吉勢五千余騎が近日中に押し寄せて来るとの報が入ったのでございます。佐々部、岡、湯谷ら久光さまの臣は、『大将も無いのにこの城に籠っていてはしまいには敵の捕虜となってしまう、まず、北の方さまと姫君を吉田へ移っていただいたのち、最後の戦をしようと詮議しているところに、元就さまが五百余騎を率いて駆けつけたのでございます。元就さまは、『三吉勢が押し寄せて来るといっても、儂が到着したからには何の怖れがあろう、久光さまの弔い合戦をしてから後、姫君に誰か適任の者を選んで婚姻の儀を調えて当家を相続させるべきでしょう。万事において心易く思ってくだされ』と力強くおっしゃったのでございます。佐々部ら久光さまの臣も、『よろしくお願い申し上げます』と自ら家人のようになったのでございます。高橋さまの所領一万六千貫は元就さまの成敗に帰してございます。

 三吉隆亮は高橋の家城を攻め取るべしと、五千騎を引率して城を出立したが、多治比の元就さまが出羽城に到着しており、弔い合戦を行うとして三吉軍を待ちうけているということが隆亮の耳にとどいたらしく、青屋で陣を張って、こちらの様子を窺っているようでございました。このことを聞いた元就さまは多治比と吉田の兵に高橋の兵を相添えて三千五百騎が四月十五日に、青屋の城へ発向されました。これを聞いた三吉勢は陣を払って、皆が自分の城に引き籠ったのでございます。青屋の城には三吉、久代、高野山から選抜した兵八百余騎を入れたので、青屋の手勢と合わせて一千余騎ほどにもなっていたようです。元就さまは、この城に昼夜の別なく攻撃を仕掛けられたが、敵は少しもひるまず防戦しておりました。されども、元就さまは、この城は水が乏しいということを聞かれまして、力攻めを止めて陣を固め、後詰の用心を手堅くして、数日を経たのでございます。城内では、水で馬の頭を冷やしてやったり、湯洗いしているように見えましたので、『城内には思いのほかに水がたくさんあるぞ』と沙汰しておりました。実は、これは籠城中の青屋入道の謀りごとでして雪のごとく白い米を水桶にいれて水のように見せかけていたのでございます。

 ですが、元就さまは『この城に水が乏しいことは元来、人の知るところだ』と一笑に付して、後三十日も攻めればたちどころに飢渇に及ぶと申されましたが、こんな城を潰すのに、そこまで待つことはないと、城楼を組み上げて、出丸の一つを攻め破ったのでございます」

 

 一ヵ月後、温湯城大広間で定例会議が行われていた。

ここでも、宍戸家家臣の話は大きな衝撃を残していた。

「すばやい、これが元就どのの戦法か」

「元就どのは二十歳をすぎたばかりの初陣で安芸佐東郡銀山城主の武田元繁を討ち取ったほどの戦巧者だ」

「その戦は七年前になるの、そのときの戦を知るものはいないのか」

 重役のひとりが聞いた。

「それならば、高橋大久郎どのの御葬儀のときに吉川国径どのと嫡男の元経どのから聞いている。」

 小笠原一門衆のなかから発言がでた。御屋形(小笠原長隆)だった。座敷に座している一同が注視した。

「これは、御屋形さま、御無礼を申しあげました」

「いや、良い、儂が話そう」

「御屋形さまにお話いただけるとは、恐縮にございます」

 一同が平伏するなか御屋形が話はじめた。

「安芸佐東郡の銀山城主武田家は安芸国の守護であったが、元繁のときは長門国守護大内氏支配下に置かれていた。大内氏足利義稙将軍を擁立しているのに対して、尼子経久は義稙と対立する足利義晴の麾下となって大内氏を圧迫しはじめた。義稙将軍はこれを阻止すべく元繁に帰国を命じられたのだが、元繁は尼子経久に呼応して安芸領内から大内氏の勢力を駆逐しようとしたことから戦がはじまったのだ」

 御屋形の話は滔々と進んだ。

 元繁は永正十三年八月に毛利家当主興元が二十四歳で病死し、後嗣幸松丸君がわずか二歳で郡山城主となると、毛利領および吉川領の切り取りを企てた。

元繁は毛利領と境を接する吉川領に侵入し、その武将小田信忠の拠る有田城を攻めた。このとき永正十四年(一五一七)には、吉川家当主国経(安芸山県郡新荘小倉山城主)は高橋大久郎久光(石見邑智郡上出羽城主)とともに大内義興に従って京都に滞在中であったため国許は留守となっていた。元繁はその虚を衝いたのだ。武田勢は途中から諸将が手勢を率いて加わっていたので五千騎にふくれ上がっていた。

武田勢は十月三日から有田城を遮二無二攻め立てた。そればかりか、毛利元就の猿掛城がある多治比村へも侵入して在家へ放火してきた。これに敢然と立ち向かったのが元就だった。武田勢六百余騎に対して元就の軍勢は猿掛城兵だけの百五十騎ほどしかいなかった。元就は手勢を百騎と五十騎に分けて、自らは百騎を率いて敵勢を田んぼの縄手の中に誘い込んだ。そして敵が湿地に足をとられ難渋しているところを、後陣の五十騎に襲撃させて追い払った。

元就は直ちに本家である郡山城の兵と合わせて七百余騎で有田城の救援にでた。有田城は吉川氏の持城であるから、上京中の国経に代わって小倉山城を護っていた嫡男元経が留守居の城兵三百余を率いて救援にきていた。ここにいたって、元就と吉川元経が力を合わせて武田勢と決戦することとなった。

 十月二日早朝、元就は武田陣には目もくれず、熊谷元直陣屋を襲撃した。元直は中井手という所に柵の木を結び渡し、芝土手を築いて城のごとく構えていた。これは、元就が武田陣へ押し寄せたときに、その背後から衝いて挟み撃ちにするためであることを、元就が敵陣へ潜り込ませていた忍の者が知らせてきた。

「それなら、まず、中井手の陣を切り崩し、その後、武田の陣を襲う」

 と、元就は一千五百騎を二隊に分け、一手五百騎を武田勢に備えて残し、残りの一千騎を一手にして熊谷陣へ撃ちかかったのである。だが、両軍は矢を射るだけでなかなか勝敗が見えない。

「このまま、矢戦ばかりやっていたのでは埒があかん、そのうち武田勢がでてきたなら由々しきことになる。早く突入して敵陣を破れないか」

 元就が郡山城重臣の志道広良に言った。

このとき、毛利家の当主は郡山城の幸松丸君であり、元就は毛利家の家臣の列に置かれ、その行動は執権志道広良の制約下に置かれていたから、元就が独断で動くことは許されなかったのだ。とはいえ、広良にとっては主家筋の元就である。

「仰せのとおりにございます。元就さまは、しばしここに留まっていてくだされ、それがしが敵陣へ突っ込んで柵を押し破ります。そのとき御旗本をもって熊谷の陣を強襲してくだされ。くれぐれも、御旗本の備えを乱されぬよう心がけくだされ」

志道広良は元就に付いている二人の轡取りに「もし、元就さまが突撃しようとしても馬の口は放さず押し止めよ」と言いおいて鬨を挙げて突撃に移った。

 志道広良が敵陣へ突入したのを見た元就は、広良が命を捨てる覚悟をしていることに気づいた。「志道だけを死なせることはできない。馬の口を離せ」と言ったが、広良から厳命を受けている轡取りは放さない。「放せというのが分からんか」元就が太刀に手をかけて轡取りの手を離し、まっしぐらに駆け出した。元就は敵陣の柵まで乗り寄せて「ここを打ち破れ」と下知したので味方の兵は「えいやえいや」と声をあげて攻め戦った。

 これを見た広良は井上河内守と渡辺次郎左衛門の二人に、

「元就さまの馬の口を押さえよ。あまりに勇み出ては敵の矢が当たる」

と命じた。両人は急いで馬から飛び下りて元就の馬の口を取って留めた。なおも戦う広良の甲冑に敵の放つ矢が三本も突き刺さっている。広良はこれをものともせずになおも向かっている。元就の鎧にも矢が二本突き刺さった。このままでは柵は破れないと判断した広良は二、三百人の兵を柵に集中させて一気に破ろうとした。敵の防戦はますます激しくなる。これを見ていた元就は井上、渡辺に向かって叫んだ。

「今、武田勢が敵の救援に駆けつけてしまえば、われらはまちがいなく敗北してしまう。元繁はこのような策を知らぬほど愚将ではない。すぐにも駆けつけて来るぞ。敵の援軍が到着するまでに柵を打ち破らねばならない。馬の綱を放せ」

「最ものことにございます」

 両人が馬の口を放して戦闘に加わった。元就が柵を打ち破ろうと先頭に立って手をかけた。

これを見た毛利勢が「元就さまを死なすな」と、敵の撃つ矢、突き出す刃をものともせず一気に柵を引き破って、どっと敵陣へ押し入った。

 毛利勢の高名争いが熾烈となった。同士討ちもしかねない様相になっている。

「わが目前だ。皆の働きはすべて見ている。敵の首を取る必要なし。討ち捨てにせよ。敵の加勢が来るまでに一刻も早く切り崩してしまえ」

 元就の下知が飛んだ。

 毛利勢三百余騎が熊谷の本陣へまっしぐらに突きかかった。

 熊谷勢がどっと崩れた。

 これを見た熊谷元直は「敵に後ろは見せぬものぞ」とばかりに槍をもって大立ち回り、たちまち毛利勢数人を突き倒した。

必死で引き止める家臣を無視して、さらに数人の毛利勢を倒した。元直は源平合戦の剛勇、熊谷次郎直実の子孫である。「次郎直実このかた敵に後ろを見せたためしなし、われ、後詰めのために一陣を固めながら、いとも容易く切り崩され、多くの郎党を討たれた。なんの面目あって元繁に顔向けできようか。幸いに元就が近くにいる。直に勝負を決してみせる」と、鑓を振り回し先頭に立って向かってきた。

「元直を討て、矢を集中して元直一人を射よ」

 戦況を冷静に見ていた元就の下知に数百の矢が元直に的中した。

 馬上から真っ逆さまに落ちた元直に、吉川隊の侍大将宮庄下野守が駆け寄って首を取った。

「当陣の大将、熊谷次郎三郎元直を、宮庄下野守経友が討ち取ったり」

 経友の名乗りに、元直の家臣は、「もはやこれまで」と、力の限り戦って死んでいった。

 ついに、毛利、吉川連合軍は中井手の陣を破った。

 

 熊谷元直の戦死を聞いた武田元繁がいきり立ち、われを忘れて力攻めに移ろうとしているのが元就にもわかった。

 元繁は伴繁清と品川信定ら七百騎を城の押さえとして残しただけで、全軍を毛利軍への突撃に向けた。四千五百騎を五隊に分け、粟屋繁宗ら七百余騎を一手として左の山に陣をとった。これは、戦がはじまってから横槍をいれるためである。先鋒として毛木隊一千騎、二陣は一条繁高ら七百騎、三番に本陣を置き元繁ら千五百騎、後陣には香川景之ら三百騎を配置した。その他にも足軽三百ばかりを一手三十人から五十人に分けて弓矢を持たせて田や畑の畦に潜ませた。

これに対する毛利方は相合四郎元綱を大将として桂元澄ら三百騎で武田勢の左軍を押さえ、福原広俊井上元兼ら四百騎が先陣となった。二陣は元就と旗本衆七百騎、井上資忠ら百騎は後陣に置いて敵味方とも戦に疲れたとき、新手を入れ替えて元繁の本陣を突く手立てとした。

さらに志道広良の二百騎は旗を巻いて右の山陰を秘かに廻り、城の尾首を強襲して敵の伴、品川らを切り崩したあと、城中の兵と一つになって元繁の背後を衝くこととした。

静かに太鼓を打って毛利軍が進撃を開始した。武田勢先陣もひしひしと迫ってきた。

両軍の矢戦が始まった。時を移さず毛利勢が槍長刀の切っ先をそろえて突きかかる。

武田勢の先陣が応戦した。

一進一退の激戦を展開していたが、毛利勢の気迫に押された武田勢先陣がさっと退いた。一陣を敗れば残りも退いていくだろうと思っていたが二陣は少しも騒がず、後ろには元繁の旗本衆が備えを万全にして悠然と構えている。毛利勢からは容易に近づけそうに見えない。それでも、まっしぐらに掛かっていく毛利勢。敵味方入り乱れての混戦が続く。

毛利勢は今朝寅の刻(午前四時)から交代する兵もなく戦っているので、喉は渇き、腕はなまっている。そこへ敵は新手を投入して襲ってきたので、ついに毛利軍が山下へ退いた。

「きたなくも、敵に背を向けて逃げるのか。元就ここにあり、返せ、返せ」

 元就は槍を振り回し、逃げる者の眉間、冑を叩いて叱咤しながら七百騎を前後に進撃した。

 これにはたまらず武田勢の二陣一条の兵が突きたてられて元繁の本陣へ逃げた。

「逃げる敵兵は追うな、武田の本陣へかかれ」

 元就の下知に毛利勢は一千余騎が一丸となって元繁へ迫っていく。

 迫り来る元就を見て、元繁は「初陣の元就にしては抜群の振る舞い、行く末はいかなる名将になるものを、あたら若者をわが穂先にかけることは不憫だが」と、真っ先に先頭に立って戦闘に入った。武田勢三千騎が一手となってかかってきた。

両軍の大将旗が三度激突し、三度分かれた。

「井上の者ども、いつもの豪語とは違うぞ。なんのために弦を弓に張っているのか。弦を切って杖にでもせよ」

 真っ赤に充血した双眼を突き出して元就が怒った。

「まことに、年をとった者の悲しさは、はやく戦い疲れてしまうもの、しばらく息を継いでいるのでございます。なんのため命を惜しんで退くものですか。われら身命を投げ打って敵陣を切り破ってごらんにいれましょう」

 井上一族が一所に集まって「打死にせよ」と呼び合い、真っ先に戦った。そして、井上元光が敵将山形備中守を討ち取った。

 後陣として控えていた武田勢の香川隊と毛利勢左軍の相合、桂隊が激突した。相合、桂隊が少数なのを見て一気に揉み破ってしまえと、香川らが向かってきたのだ。両軍は一度、二度と渡り合ったが、ついに相合、桂隊が後退した。毛利勢右軍の志道広良隊は、山陰を廻り、岩の狭間を伝って城の尾首に陣取っている伴、品川隊に切り掛かった。籠城していた小田信忠も城門を開いて三百騎ほどが撃ち出て伴、品川隊を挟み撃ちにした。形勢が悪くなった伴、品川隊には香川隊が応援に加わった。

 尾首での激闘を見た元繁は、伴、品川らが負ければ、毛利勢に背後を衝かれる。早く、元就の旗本を切り崩せ。と兵鼓を打って前進してくる。

「見よ、志道も敵陣への攻撃をかけたぞ。われらも挟み撃ちにせよ」

 元就は井上党を先に立てて武田の本陣に迫った。毛利勢の児玉、赤川、渡辺らも負けるものかと切り掛かった。だが、武田も猛勢だ。しかも、山上からの逆落としで攻撃してくる。

 毛利勢の後陣に控えていた井上資忠ら百騎が元就の周りに集まった。渾身の気力をふりしぼって元就の前後を固めているが、味方は次ぎ次ぎと討ち取られていく。

 元就も死を覚悟した。

 人数で劣勢の毛利勢が、またも撃ち負けて三町ばかり退き下がった。敵は勝ちに乗じて追撃してくる。

 毛利勢は又内川を前にして態勢を整えようとしていた。

元就めがけて武田勢が突っ込んでくる。

 浮き足立った毛利勢を制止しながら敵勢を見ると、元繁が味方の兵を後方に離して進んでいる。

「射よ。先頭に立つ元繁を射落とせ」

 元就の命じた一斉射撃により、矢が元繁に集中した。数本の矢が突き刺さっている。

 ついに、元繁が又内川の水際に、真っ逆さまに落馬した。すかさず元就の側に控えていた井上光政が飛びつき、首を掻き切って切っ先に貫いた。

「日頃、鬼神のように恐れし武田殿を、井上左衛門尉が討ち取ったり」

 声高々と名乗りをあげた。

「ウオー」

 毛利、吉川連合軍の歓声があがり、方々に四散していた兵が元就の周辺に集まってきた。

 

 側近の士が差し出した冷水で御屋形が喉を潤した。

 あちらこちらから咳がもれ、粛としていた座敷にざわめきが戻った。

「このとき元就どのは二十一歳で初陣であったという。あの強さは元就どのの力であろうか」

「毛利家臣団の強さもさることながら、元就どのの采配が際立っていたということかの」

「ところで、吉川国経どのは京に行っていて留守中のことであったが、元就どのと吉川の嫡男元経どのが力を合わせて武田を打ち破ったということ。さらに、元就どのは奪った武田の所領の一部を元経どのに譲ったのだ。国経どのは大層喜ばれての、いっぺんに元就どのにべた惚れよ」

 御屋形の声に、座敷に静寂が戻った。

「国経どのは、早速にも元就どのをわが城まで招待したそうだ」

「元就どのは、まねきに応じたのでございますか」

 軽率だと言わんばかりに重役の一人が口をはさんだ。

「それがの、元就どのは大変な収穫をしおった」

 御屋形がさもゆかいそうにひとしきり哄笑した。

「なんでございますか」

「娘をみやげに持って帰ったそうだ」

 御屋形の笑いはとまらない。

「国経どのに『お玖』という娘御がおっての、これが聡明で絶世の美女なのだ。お互いに一目惚れしおっての、嫁にもらったということだ」

「元就どのは、毛利家でも脇柱でございますな」

「そうだ、毛利本家の郡山城ではなく、分家の猿掛城へ嫁がきたことになる。そのうえ、元就どのの妹を元経どのに嫁した」

「本家をさしおいて、国経どのも、思い切ったことをなされますな」

「それだけ、国経どのが元就どのに惚れたということだ」

「鬼吉川を味方につけて元就どのも強くなりますな」

「毛利家の祖は学問の家柄で、源氏の頭領源義家に大江流兵法を伝授した大江匡房(まさふさ)がおり、南北朝期の楠木正成に大江流の軍学を伝授したのが大江時親、後の毛利時親だと言われている。元就どのも二十一歳の若将でありながら、すでに大江流軍学を会得していたので、初陣であった有田合戦では、わずか千数百騎に満たない毛利勢が、四千八百余騎の武田勢を撃破して大将武田元繋の首を掻き切ったそうだ」

「われわれ石見の武将たちは、中国から伝来した孫子呉子の兵法を学んでいる。だから敵の配置を見れば、どのような動きをとるのかが、ある程度は予測できるものだ。元就どのが大江流軍学という家伝で攻撃してきたなら、我々は、なにもわからずに、後手を掴ませられるであろうの」

「大久郎さまの後継となるべき嫡子元光さまは、永正十二年(一五一五)の備後出陣中に討死されていますよな」

「すでに、元光さまご他界のとき、大久郎さまは次男(弘厚)の子興光どのに本家を継がせて、本拠の藤掛城に入城させ、弘厚どのを松尾城に拠らせている。

「大久郎さまの仇を報じた元就どのの力もどんどん強くなりますな」

 各地に割拠している一豪族にすぎない毛利氏に周辺国人衆が注目している。

「しばらく眼が離せませんな。元就どのの戦法について、観察を怠らず、検討を加える必要がありますな」

 この日の軍議では、元就が戦を起こすときには間諜を出して、戦法や動きを見極めることが肝要であるとの結論に達した。

 

そのころ安芸では、安佐郡銀山(かなやま)城の武田光和が佐伯郡桜尾城を攻略した。大内氏に反抗してのことであった。尼子経久はこの機に乗じて、さきに大内勢に攻略された鏡山城を奪還すべく、出雲、伯耆、美作、石見、備後の兵を率いて安芸国高田郡北池田に進出した。

 これにより、毛利氏が尼子軍の傘下にはいった。

 

 鏡山城攻撃は、毛利軍が先鋒となって六月十三日に開始された。

 城将藤田房信が頑強に抵抗したため、なかなか陥ちない。

 そこで元就は調略をもって房信の叔父藤田直信を誘降させ直信が守備する二の丸に毛利軍を侵入させた。城の一角を占領された鏡山城はたちまち陥落、房信は壮烈な討死をとげた。元就は尼子経久に了解を得た上で調略を行ったにもかかわらず、経久は、「不義の至り」として直信の首を刎ねた。元就の面目はまる潰れとなった。こればかりではなかった。経久は毛利家の当主であった幸松丸にも出陣を命じていた。わずか九歳で毛利軍総大将として出陣した幸松丸は、体調をくずして大永三年七月十五日に死去した。

 元就は経久に対して強い不信感を抱くこととなった。

 

 さる永正四年(一五〇七)に大内義興足利義稙を報じて東上したとき以来、石見国内国人衆の大部分は大内義興の傘下に入っていた。

このことから、幕府は、大内義興の石見支配力を認めて、石見守護職に任命した。

 しかし、これは石見守護であった山名氏にとっては面白くない。

 出雲へ帰っていた尼子経久に石見を取り戻すよう依頼した。

 

 大永元年(一五二一)九月二十六日(新暦十月二十六日)、石見侵攻の名分を得た尼子経久が石見に侵入してきた。 

 これまで、大内氏の傘下に入っていた石見の国人たちは、大内、尼子という二大勢力にはさまれ、その動きかたが自家の存亡に直結する立場に立たされた。どちらにつくのか判断を誤ればそれは滅亡を意味した。

 歩武堂々と進軍してくる軍容のさかんなさまを見て、石見の国人衆は戦う意欲を失い、ぞくぞくと経久の前に平伏していった。

「これは、これは恐縮でございます」

 経久は、意外なほど優しく遇した。

「尼子の総大将は、やさしく寛大である」

 この噂は、たちまち石見国人衆に広がっていた。

 佐波誠連、出羽孫次郎、高橋清光らも尼子勢に加わった。

「今は、大内氏の傘下にいるとはいえ、我が命を盾にしてまで大内氏に義理だてをすることもない」

 御屋形(小笠原長隆)の言は端的だ、躊躇なく尼子勢として西進に隋従した。

 しかし、乙明城の福屋氏は頑として尼子勢に加わろうとしない。さらに福屋氏の中核戦力となっている都治興行も今井城に籠って門を閉ざしたままだ。明らかに叛旗を翻している。

 尼子勢は一気に今井城とその支城を囲んだ。

「都治興行も豪気なものだ、数万の軍勢に囲まれても平然としている」

 こう言うのは口先だけだとだれもが思っている。

「尼子の総大将(経久)殿は、頭(こうべ)をたれて跪(ひざまず)く敵には優しいが、反抗する者は容赦なく潰す方だ。あんな小城では、ひとたまりもあるまいものを」

 このことは、国人衆すべてが知っている。だからこそ経久に伺候して傘下に入っているのである。

小笠原隊は、今井城の支城として、都治川を挟んだ対面に構えている佐賀理松城を包囲していた。ここには、興行の父兼行が百名ほどの兵とともに籠っている。兼行は、父宗行が京に出征途上の海難事故で遭難したため、十九歳で跡目を継いだものの、軍兵は壊滅的な状態であった。それを、わずかの年数で立てなおした武将だ。籠城とはいえ、城兵の戦意も高く、幾度も城門を開いて討ってでた。そのたびに小さな衝突が繰り返された。

福冨七左衛門尉相安は佐賀理松城南門に通じる細谷を固めていた。かがり火に浮かび上がった南門は閉まったままでひっそりとしている。

突如、城の大手にあたる大門から喚声があがった。南門からは死角となって姿は見えないが、なにか動きがあったようだ。

「数十名の兵が大門を開けてでてきました」

 伝令が大声で伝達しながら走り去って行った。

「行きますか応援に」

 理右衛門が、しきりに大門の方角を気にしている。

「いや、動くな。持ち場を離れるな」

 理右衛門を振りかえったとき、相安の視野をかすめる残像が残った。

視点を集中して土塀の上を見つめた。

「出てくる」

 相安が、身を翻して闇の中に没した。理右衛門も相安の背後にぴたりと身を寄せてきた。

 相安の視線は、閉じた南門の、さらに先の闇の中を見つめている。

「二人ですな。甲冑を着けていません」

 土塀の上から顔をだした二人の男が、外の様子を伺っている。土塀を乗り越えて降りようとしているらしい。やがて、すとんと外に飛び降りて態勢を立て直したところに、相安が無言のまま立ちはだかった。二人の男が、ぎょっとして身構えた。

「闇に紛れて脱出するとは、あやしいやつだ」

「角立四つ目紋」

 相安の旗指物を見てひとりの男が驚愕した声をあげた。

「福冨さま、福冨さまではありませぬか」

 押し殺した小さな声ではあったがはっきりと聞きとれた。

「いかにも、福冨だ」

「若でござるか。それがしは、雀部にございます」

「裏切り者か」

「主を代えるのは武士の裁量です。それにしても、大きくなられたものだ」

「裏切り者にとやかく言われるすじあいはない、信頼していた家臣に裏切られた父の無念。今こそ晴らしてやろうぞ」

 相安が刀を抜いて間合いを取った。

「待ってくだされ、決別したとはいえ、若に刃を向けることなど、それがしにはできませぬ」

「言うな、武士らしく掛かってこい」

「ごめんこうむります」

 身を翻して雀部らが闇に消えた。

「放っておけ」

 あわてて追跡しようとする兵を相安が制止した。なぜなのか相安にも分からない、裏切られたとはいえ元家臣だったと聞いて闘争心が萎えていた。

「身軽な服装の相手に追いつくことなど不可能だ」

 憮然と相安が言い放った。

「雀部でしたな、年はとっていますが、顔はしっかりと覚えております」

 理右衛門が驚きの声をもってつぶやいた。

「儂は覚えていないが、裏切ったやつらの名は知っている」

「逃げましたな」

 ほっとしたような理右衛門の声であった。雀部が刃を向けてこなかった気持ちがうれしかった。

「南門は小笠原隊が固めていることを知っていて出て来たのであろう」

「ところが、殿に見つかってしまった。やつらにしてみれば不運か」

 大門の喧騒も聞こえなくなった。けりがついたようだ。

 

その翌日午後のことであった。

 小笠原隊の松島助四郎が黒松村で都治方武将ら二名を討ち取ったという報が入った。今井城の北一里ほどの所だ。昨夜の深更だったという。小笠原隊の重臣に面会を求めて来たところを問答無用と討ち果たしたようであった。つづいて、同じ都治方武将大隈玄蕃が使命を帯びて小笠原隊へ接触しようとしたが尼子方に捕殺された。

「黒松の二人は雀部らでしょうな。昨夜、殿と遭遇してしまったため、あきらめて城内へ帰ったものと思っていたが、そうではなく、黒松に屯営している小笠原別働隊を探し出したようですな」

「雀部も死んだようだの」

 理右衛門は無言のまま肯頭した。

「昨夜、大門で起きた喧騒は、密使を放つための陽動作戦だったということか」

「小笠原の御屋形さまにしても、いまさら都治氏から泣きつかれてもどうしょうもないでしょうに」

「松島助四郎は、それを思って、独断で処理したようだの」

「それにしても、都治氏の本家筋にあたる川上(かわのぼり)氏や福屋氏に、なぜ応援を求めないのでしょうな」

「当然、応援は求めているさ。両家にしても、いまさらどうしようもない。静観するしかない」

「都治興行が馬鹿だということですか」

「ま、そういうことだろう。我々は腰抜けだがの。尼子が来れば尼子に隋き、大内が来れば大内に隋く。これでは、武士の意地なんてまったくない。ただ、家の存続だけを求めている。それに比べれば都治興行の方がよほどしっかりしている。己の意思を貫いている分だけ、武士らしい生き様ではある。

ただ、籠城をしておれば、福屋氏や大内氏が助けに来てくれるだろうという判断が甘かったというだけのことだ。こんな小さな城を潰すには十日もかからないということを忘れている。父親の兼行が付いていながら阻止できなかったほどの愚鈍な将だったのだ」

「せっかく再興した家をまた潰してしまいますな」

「兼行は、すでに齢七十を越している。兼行ともあろう人が、浅はかだの」

 

「わずか数百しか軍勢をもたない都治氏だ。尼子の精鋭をもって強襲すれば、あっというまに陥とすことができるのに、尼子の総大将は攻撃を命じない」

 いぶかしむ将兵の前を、一人の武将が今井城に入っていった。

 降伏勧告の使者だ。

 四半刻後、開かれた門から、下帯ひとつの裸にされた男が放り出された。門の外でうつ伏せに倒れたまま動かない、瀕死の状態だ。

 なんということだ使者ではないか。走り寄った郎従が自分の戎衣を被せて退いてくる。郎従は主人の被った屈辱に大声で泣いていた。

 城内から嘲笑が使者の後を追う。

「この姿が、都治の返事でございます」

 使者は、経久に報告したあと自刃した。

「家中一とわれた誇りにも傷がついた。武士の矜持さえも奪われた無念は、おのれの命を絶っても消えるものではない」

 最後のことばであった。

「おのれ、卑怯者、興行め。武士たる者のなすことではないわ」

 経久は、地団太踏んで激怒した。

「犬、猫一匹たりとも逃すな、すべてを抹殺せよ」

 二十九日、尼子軍の総攻撃がはじまった。

 尼子軍の猛攻を受け、たちまち、佐賀理松城が降伏した。この城には興行の父兼行以下九十三人が籠っていた。経久は全員を城から下ろして救精庵に押し込めたうえ、家屋の周りに柴木を積み重ねて火を放った。武器を取り上げられ、丸腰の将兵は自殺することもかなわず、焼き殺された。生きたまま焼かれる将兵の阿鼻叫喚は、今井城に籠る将兵のみならず、攻守すべての将兵を震えあがらせた。地べたに座り込み両手で耳をふさぐ兵が続出した。兼行主従を焼き殺す黒い煙が流れゆく下では、攻城方将兵が黒い悪魔から逃れようと走り回っている。

兼行は七十三年の生涯であった。

 もはや、本丸を残すのみである、攻略は時間の問題だ。

 このとき今井城内に福屋から派遣されている奥田寺、野田という二人の武将がいることを掴んだ経久は、攻撃を中断して奥田寺、野田の両名を指名して講和交渉に入るともちかけた。

 奥田寺、野田を福屋氏のもとに行かせて「都治一族に腹を切らせよ。応じなければ直ちに福屋の城攻めにかかる」と伝えさせた。これにより、今井城は、主だった者だけでも百六人が自害して陥落した。

「興行が城兵を残して逃げた」

 衝撃が奔った。二百名もの家臣や一族の命を犠牲にしておきながら、夜陰に紛れて脱出したらしい。

「逃すな、家臣を捨て、己の命だけが助かりたいとする見下げた根性だ」

「徹底して探せ」

「許せない」

 佐賀理松城兵の断末魔が耳にこびりつき、城内のいたるところで、折り重なって息絶えている凄絶な姿が、目に焼きついている攻城勢に、憤慨という新たな感情が渦巻いた。

興行は丸原雲井城の福屋慶兼のもとへ落ちたが、尼子勢の急迫すさまじく、ついに、十月二日夜、生涯を閉じた。

 

 福冨を裏切って都治の家臣となった田多ら六人と、その一族郎党ことごとくが滅亡した。

 

 翌年夏尼子経久は尼子一門衆の宍道氏に、直臣の亀井氏、国人衆の三沢氏を先鋒として福屋氏の討伐にでた。対する福屋氏は、支城の雲井城と市山城を捨て本城である乙明城に籠城して徹底抗戦の構えをとった。尼子軍は、浜田、長浜、まで進出したが、大内軍が東上してきたため、和議して帰陣した。

 

「八月十五日に、元就どのが郡山城に入城したという知らせにございます」

 温湯城から帰城した山下忠左衛門が報告に来た。相安は山下理右衛門を定期的に温湯城へ派遣して挨拶と情報の収集に努めてきた。忠左衛門は山下理右衛門の嫡男である。十五歳になってから、理右衛門がこれまで行ってきた役目を少しずつ引き継いでいる。

「元就どのが跡目を継いだのか」

「そのようです」

「元就どのは何歳だったかの」

「二十七歳だと聞きました」

「尼子どの(経久)は毛利家当主の幸松丸が九歳で卒去したのを機に、尼子家から経久どのの子息を毛利家当主の座に据えようとしていたはずだが」

「毛利家一門衆の福原広良がひそかに粟屋縫殿允を京都へ派遣して、将軍家の御内諾書を拝受させていたため、さすがの尼子どのも横槍の入れようがなかったということのようです」

「元就どののやることに抜かりないの。なにもかも早い、なかなかの人物だ」

「末、おそろしい人物ですな」

 これまで二人のやり取りを黙って聞いていた理右衛門が話に割り込んできた。

「いや、毛利といっても、安芸国に居る三十余の国人領主の一にすぎない。中国地方七ヵ国を勢力圏とする尼子氏や周防国等六ヵ国を持つ大内氏の勢威に翻弄される宿命よ」

「だが、眼は離せない元就どのであることには事実ですな」

 理右衛門が危惧することは尼子氏や石見の国人衆とて同じ思いである。

 元就が毛利家を継いだころの所領は五千貫だといわれている。石高に換算すれば、およそ六万石になる。小笠原家の所領約一万七千石と比べても、かなりの有力領主であったことがわかる。

 元就は、郡山城に入ると、直ちに城の拡充に入った。郡山の東南に突出した尾根にあった郡山城本丸を標高二百メートルの山頂に移し、その下に二の丸、三の丸、厩の壇、馬場、釜屋の壇、羽子の丸、姫の丸、釣井の壇、御蔵屋敷の壇などを配置して堅固で壮大な要塞を造った。

それは、あたかも手足を広げた巨大な土蜘蛛が、山の上に覆いかぶさっているようであった。

 

 大永四年(一五二四)三月三日、小笠原十一代長定が死去した。

 

 四月八日、元就は郡山城西南麓の船山城を夜討ちして謀反を起こした舎弟元綱と城兵を誅戮した。陰謀に加担していた毛利家譜代の宿老坂広秀と渡辺勝も殺された。

 坂広秀は日下津城(広島県向原町)の城主であり、渡辺勝は長見山城(広島県甲田町)の城主であった。二人は、元就の家督相続に反対し、元綱の擁立工作をしていた中心人物であった。

 元就は、弟までを殺したのである。

 

 五月二十日(新暦六月二十一日)、大内義興は嫡男義隆とともに防、長、豊、築、石、芸、二万五千の兵をもって安芸(あき)銀山城(かなやまじょう)と桜尾城を攻囲した。これは、さきに尼子経久に屈伏した両城と安芸国内の諸地域を回復しようとした作戦であった。銀山城には武田光和が拠っている。

 武田氏は永正十四年(一五一七)の有田合戦で当主元繁が元就と戦って敗死したが、それでもなお、元繁の後を相続した光和は、尼子の傘下となって頽勢挽回をはかっている。

 このとき、尼子軍は伯耆国を平定中であった。経久率いる大軍勢に伯耆の国人衆は、なす術もなくひれ伏していった。尾高泉山城の行松入道、東伯郡の小鴨岩倉城小鴨掃部介、北条堤城山田高直、泊川口城山名久氏、羽衣石城南条宗勝らが経久に恭順した。伯耆守護山名澄之は一戦もせず、但馬国守護山名誠豊を頼って逃げ去った。

 尼子軍は、ただ、行軍だけで、どんどん軍勢が膨らんでいた。

「大永の五月崩れ」と称されるほどの、伯耆崩壊であった。

 安芸の危急を聞いた経久は直ちに転戦する決心をしたが、伯耆国から安芸国までは遠い。ひとまず麾下の安芸、備後の国人衆に武田氏の救援を命じた。元就も後詰めに出陣した。

「さきの有田合戦では、父親を殺し、今はその子を助けている」

 戦国の世の習いとはいえ、元就にとっても、複雑な気持ちであっただろう。

 七月十日、亀井、牛尾両将の率いる尼子軍は大内軍に攻撃を加え激闘となった。しかし、尼子軍一万に対して大内軍は二万を超える兵を有していたため、尼子軍は惨敗して後退した。

元就はこの戦いを傍観していたが、八月五日夜、元就の指揮する一隊が折からの激しい風雨をついて大内軍本陣に夜討ちをかけた。寝込みを襲われた大内軍は周章狼狽するだけで戦うこともできず敗退した。大内軍は五百二十余の首級を取られ、義隆とその父義興もほうほうの体で逃げた。毛利軍の損害は三十九名だけという大勝であった。

八月十六日、大内軍は銀山城の包囲を解いて撤兵した。

 

大永五年(一五二五)三月、大内義興による元就の抱込み工作が成功し、元就が大内軍に帰属した。義興は元就に吉田郡山城一帯の所領を安堵するとともに新たに安芸佐東郡の可部(かべ)七百貫、深川(ふかわ)三百貫、温科(ぬくしな)三百貫、玖(く)村(むら)七十貫等を知行地として与えた。

 毛利元就の尼子服属は、わずかの一年半であった。

 

大内氏へ鞍替えした元就は安芸、備後の国人衆への調略を行って大内方に引き入れているという。

北隣を接している五龍城宍戸隆家に自分の娘を嫁がせ、隆家の母の実家である甲山城主山内直道と誼を通じ、八木城主香川光景を味方につけた。

 一方、調略に応じない備後の宮氏(亀寿山城)と多賀山氏(蔀(しとみ)山(やま)城)を攻めて征服した。

 

 大永六年(一五二六)三月大内義興が石見に侵入してきた。七月、高城の三隅国兼を攻め、十二月、国兼が降伏した。

 義興は、ただちに浜田へ進出した。

 大内勢は、坂井山に本陣を置き、見張りを神並山に置いて、西に大陣平、妙が迫、笠松山、東には三重山、竹迫山に展開した。

 

 小笠原隊は、尼子に合力している。

 尼子経久を総大将とする尼子勢は牛尾遠江守幸清、湯信濃守惟宗らが三千騎で先陣をきり、二陣に若林伯耆守が千五百騎にて続いた。

対する大内義興は、陶入道、陶安房守らが五千騎で討ってでた。

 尼子側の攻撃により浜田の天満畷で戦端を開いて激戦となった。この戦で尼子勢は大内勢の将兵百二十余人を討ち取ったが、尼子勢も三百七十人を超す死者をだした。

その後、両軍は目だった戦もなく五十余日間にわたって対陣していたが勝敗は決まらなかった。(天満畷の合戦)

 

 大永七年(一五二七)正月、山名誠豊が因幡伯耆から出雲に進軍した。このため尼子経久は出雲へ引き上げた。

 これにより石見の諸将は大内の傘下にはいった。

 小笠原氏は尼子方として残った。

 小笠原氏の配下となっていた福光氏は小笠原氏を離れ大内氏の麾下に入った。

 

 享禄元年(一五二八)十二月、大内義興が死去し、義隆が跡目を継いだ。

 そしてこの年、毛利家では元就の次男元春が生まれた。それから五年後には三男隆景が生まれている。

 大内氏は安芸、備後から撤退した。これにより芸備での対決は「尼子対大内」から「尼子対毛利」へと移行していった。

 大内氏が撤退したことにより、尼子氏へ鞍替えする国人衆が相次いだ。

 元就は迅速に行動し、尼子方に寝返った国人衆を潰していった。

 

 享禄二年(一五二九)五月、元就は外戚になる安芸松尾城の高橋弘厚を攻め自刃させた。

 さらに、弘厚の子興光を石見国阿須那藤掛城に攻めて興光を殺した。大内氏の麾下となっていた高橋氏が尼子氏に寝返ったため大内義隆の命を受けて討伐したという名目であった。しかし、さる大永四年に勃発した元綱の謀反のとき元綱に加担していた高橋氏の抹殺を狙ったものであることは明白だ。元綱謀反を起こしたことは、尼子経久の意を受けた亀井秀綱の唆(そそのか)しによるものであったが、毛利家の外戚高橋氏も加担していたことをつかんだ元就は高橋氏撲滅を決心していたのであった。

 

 

 

船岡山合戦

 近江岡山城に逃げた足利義澄らは、政権を取り戻そうと再三にわたって攻め上ってきたが、その都度撃退して三年がたった。

 小笠原隊もあいかわらず平安城(御所)警護が続いている。

 永正八年(一五一一)七月七日(新暦七月三十一日)細川政賢らが泉州堺に上陸し、天王寺の城を攻めてきた。

 これにより細川澄元は、なんとしても義澄将軍に再び天下を取り戻そうとしていることが確実となった。

 これに呼応して堺の南の庄に蟄居している遊佐入道印叟が深井に陣を張った。

 京都からは遊佐順盛ら一万余騎が迎撃に出陣し、堺万代(まんだい)の庄に陣を置いて七月十三日(新暦八月六日)に深井の陣へ押し寄せたが失敗して遊佐順盛隊は三百人が討死し、残りは散々になって逃げた。遊佐順盛は、おのれの持ち城である譽田、高屋の城に入ることもできず京都に逃げ帰った。

 譽田の城へは遊佐印叟が入れ代わり、高屋の城へは畠山義英が入城した。

 細川政賢は摂州中嶋に陣を移し、細川元常は同国脇の浜に渡海して芦屋庄上鷹屋城に籠っている河原林対馬守を攻めるため灘の吹飯に頓営して攻め続けた。

 七月二十六日(新暦八月十九日)京都から細川尹賢、大内義興を大将として細川高国の旗本勢柳本、波多野ら摂津、丹波二州の軍兵が灘郷、雀の松原、御影宿に駆けつけて芦屋川原で会戦した。

 これをみて芦屋城中からも打って出て、しまいには細川元常の陣を突き崩し、首級百有余を取って京都へ凱旋した。

 そうとは知らず赤松義村は細川澄元に頼まれて細川元常に加勢しようと八月上旬、播州御着の館を出発し加古川に勢ぞろいした。そこから大倉谷まで上ったところで細川元常の敗走を聞いたが引き返すことをせず、同月五日(新暦九月九日)兵庫浦の鷹屋へ押し寄せて攻めたてた。

 河原林は耐えられず、その日の夜半に退城して伊丹城へ入ったが、たちまち追撃軍に囲まれ攻められた。

 京都からは細川尹賢に大内義興勢が加わって山崎まで馳せ下ったところで入江の一族らが近郷の一揆を先導して多勢で押し寄せてくることを知り、山崎の陣を引き払った。

これをみて、細川政賢、細川常有、遊佐印叟、赤松義松らは、この機を逃すなと京都へ上がるべく摂丹両州の勢を集めた。

 江州へも緊急の書状を発して両方から一気に攻め上る日どりを定めているところに、近江岡山にいる前将軍足利義澄が、十四日に死去した知らせが届いた。細川らは力を落とし、愁涙にむせび落胆したが、

「義澄卿の御弔い合戦により敵を畿外に追い散らし、御曹司義晴朝臣を将軍に仰ぎ奉ることこそ千層の塔婆を建て、万部の法華を読むよりも供養はなおも勝」

と、十八日(新暦九月十日)をもって江州勢と一気に京都へ打ち入ることを決定した。

 この報は京都にも次々と注進がくる。

 将軍の大命を受けた大内義興は、諸将を集め軍(いくさ)評定により去年と同じように東寺、神祇館へ軍兵をだし、竹の内、日之岡に伏兵を置いて敵を一気に退けようと決めたが、おりしも、諸将の多くは帰国していて軍勢が少なく作戦はむずかしい。だからといって、洛中において多勢を迎え撃っては危険が多すぎると議論がまとまらない。

「味方の軍勢は、たしかに敵より少ない。ここは来鋭を避けて、その虚を衝くことこそ最高の作戦でありましょう。まず、いったん丹波の国へ退き、凶徒を洛中に入れて、掠奪、窃盗に心を奪われ油断しているときこそ、たやすく勝利を得る手だてでありましょう」

 大内義興の説明に皆が賛同した。

 足利義稙細川高国、畠山義元、大内義興らが供をして同月十六日に丹波長坂(亀岡)へ退いた。

 足利義晴を奉じた細川政賢、赤松義村らは翌十七日に京都へ入ったが一人として防戦するものもなかった。

 しかし敵が一戦にも及ばず洛中を開いたということを考えると、味方を楽に入洛させ、油断したところを襲ってくるという謀りにちがいない。それなら攻めてくる敵は多勢であるにちがいない。

 急遽、船岡山に城を構え細川政賢、細川元常、細川常有、遊佐印叟らが守りを固めた。

 秋の気配を肌で感じる季節になった。

 長坂に滞在している足利義稙は敵の城が完成するまでに攻め落すべく、本陣を高雄山に移した。これに従い細川高国大内義興、畠山義元、河野道直、山名氏明、尼子経久、武田元信、武田元繋、毛利興元、吉川国経、小早川弘平、宍戸元源益田宗兼、熊谷元直、小笠原長隆ら八万余騎が梅之畑、鳴滝等に陣を固めた。

周辺の山々には諸将の旗馬印が山風に翩翻としている。

 まる一日の休みをとって二十四日卯の刻(午前六時)、先陣の大内義興ら二万余騎は陶興房、杉興重、杉重矩、問田紀伊守、問田丹後守、問田興之、問田弘胤らを先頭に立てて船岡山の一の城門に向って兵鼓を打ち法螺貝を吹いて攻め寄せた。

 先鋒を承るということは武門の名誉である。この度も大内義興尼子経久との間で熾烈な争奪戦があった。結果は大内義興が先鋒を取ることになった。大内と尼子では力の差が歴然としている。しかも、尼子経久は八月下旬になって、やっと出雲から到着したばかりである。

 尼子経久、武田元繋らが二陣に進み、畠山、毛利、吉川、宍戸、香川、熊谷らは搦め手を攻撃した。

 先陣の一番隊となった小笠原隊は、山岳戦に備えて甲冑の佩楯(膝鎧)を外した。これで動きやすい。

 忠智は、さらに兜を取って鉢巻を締めたが、城内から射ってくる弓矢を防ぐため兜を被った。

 小笠原隊は、御屋形(小笠原長隆)を中心に一丸となって攻め上っていく。

 細川政賢の指揮する城方は静まりかえっている。矢の一本も飛んでこない。

あっというまに、城門近くまでたどり着いた。このとき、いっせいに矢窓が開いて至近距離から突風のごとく音をたてて万箭が襲ってきた。

 忠智らは、竹束を楯として矢を避けながら肉迫する。

 城門を開いて城方が打ってでた。

「行くぞ」

 忠智が竹束を捨て戦闘に入った。攻城軍の大内勢、陶、杉らが一気に攻めかかった。

 両軍の刀槍から火花が飛び散る。喚声、矢叫びがこだまして山谷を揺るがす。 

 怒涛のごとく押し寄せる攻城軍に城方が後退して城門に入るのと同時に、矢窓を開いて射出す数万の矢に攻城軍が次々と倒れて行く。大内勢の多数が負傷した。数刻にわたって激戦がつづき攻城軍も喉が渇き、腕がなえて動きが鈍った。

「もたもたしていると、日が暮れてしまうぞ、早く一の城門を落としてしまえ、先陣が疲れれば二陣と代われよ」

 続けざまに下知する大内義興に陶、問田、杉、内藤ら大内の旗本勢が分散しがちな軍勢をまとめてじりじりと攻め上がった。

 城中からも名乗りをあげながら打ってでて、凄絶な戦闘をくりひろげる。

「臆するな、引くな」

 大内義興が采配を振って攻めたてた。

「ここが死に場ぞ、命を捨てて戦え」

 小笠原隊は長隆が先頭に躍り出て突撃した。御屋形自らが捨て身で先頭に立つ行為は、将兵の血を滾らせる。御屋形に遅れては、申し開きができないとばかりに、忠智らが先を競う。 

 大内勢が続く。

 城方がひるんだところを、攻城軍が次々と塀を乗り越えて城内に攻め入った。

「われこそは、九里(くのり)右衛門兵衛なり。尋常に勝負せよ」

 忠智の眼前で戦っていた御屋形小笠原長隆に、敵の侍大将が組み付いた。

 御屋形の御首を敵に取らせてはならない。あわてて助けに入ろうとした。

「手だしをするな!」

 長隆の叱咤に忠智らは、他の敵と戦いながら二人の格闘を見守るばかりである。

―御屋形の方が優勢だ、おくれをとることもあるまい。

 小笠原隊は、忠智らを残して、闘争の渦に飛び込んだ。 

 組んず解れつの大激闘のすえついに、御屋形が敵の首をとった。

「われこそは小笠原刑部少輔なり、佐々木の家人・九里右衛門兵衛を討ち取ったりー」

 血の滴る首を高々と挙げて名乗りをあげた。

「おー」

 小笠原隊将兵が閧の声で祝福する。

「みごとなり」

 大内義興の大音声がとどろいた。そのとき御屋形がガクリと膝を落した。敵の刃を受けていたのだ。あわてて忠智ら小笠原隊将兵が円陣を組んで長隆を引き下がらせた。

 陶道騎は、細川の郎党香西次郎を討ち取り、益田越中守も敵の兵を討ち取った。

 搦手からも尼子、武田、毛利、吉川の諸勢がわれ先にと攻め入った。

 城方は散々になって逃げだした。丹波国住人竹内太夫は、手勢五百騎を率いて一方を防いでいたが、もはやこれまでと落ちるところを、搦手の寄せ手が取り巻き一人残らず首を取った。

 細川政賢は一方を打ち破って洛中へと落ち行くところを、大将首を狙う攻城軍に執拗な追撃を受け、ついに、誓願寺の門前にある羅漢橋の上で壮絶な最後をとげた。その他、遊佐入道をはじめ一千余人が討死した。

 追撃隊は徹底的に敵を追い詰めて多数を討ち取った。大内義興ら攻城軍は三千八百余りを討ち取るという大勝を得た。

 この戦闘を船岡山合戦という。

 大内義興は直ちに洛中に凱旋した。黄昏のなか細川高国も入洛し治安を回復した。

 足利義稙は、数日間入洛を控えて高雄山の陣に滞在していた。これは、京都から平家を追い落とした木曾義仲が直ちに入洛せず、しばらくの間、天台山に控えていたという例を習ったものである。

 九月一日、足利義稙は二条西洞院の妙本寺に御所を構えた。

 諸将が我も我もと馳せ参じて厳重な警衛をつくった。

 将軍は論功行賞による剣や弓、馬物具などを諸将に授与した。

 特に大内義興の戦功は他に傑出していると剣の外に鎧一具を賜り、翌年三月二十六日には従三位の公卿に列せられた。

 石見衆では小笠原長隆、益田、周布らが将軍から感状を受けた。

 御屋形(小笠原長隆)は、三百貫の地を賜った。

だが、尼子経久には、なんの恩賞も与えられなかった。大内義興との確執が大きく影響したことは明白であった。

 

 船岡山合戦が終って、石見の諸勢も次々と帰国していった。

 永正九年(一五一二)、小笠原隊も、あしかけ五年にわたる平安城守備を終えて帰国した。

 この戦で、御屋形(小笠原長隆)は本家筋にあたる阿波三好家に弓を引いた。

 その結果、三好之長は死んだ。戦国の世の習いとはいえ、小笠原勢将兵は言い知れぬ寂しさに襲われていた。

 

 永正十年(一五一三)、京都から帰国した忠智は五十三歳になったのを機に、二十三歳の相安に家督を譲った。

同年秋、福冨七左衛門尉相安の小笠原家仕官が承諾された。

 

 

 

 

 

 

 

平安城

 永正四年(一五〇七)、足利義澄を奉じて将軍足利義稙を放逐した管領細川政元は、実権を握って大いにその権勢をしめしたが、自分の後継ぎに関白九条政基の子澄之、阿波讃岐細川義春の子澄元、そして細川支流細川政春の子高国の三人を立てた。三人が力を合わせて磐石な細川家を後世に残そうと考えてのことであったが、これは当然のごとく細川一族で内訌を招くことになった。

 細川政元は、その有力家臣薬師寺、香西らに殺され、細川澄之が足利義澄の執事となった。

 これに対して阿波細川の三好之長が、細川澄元を擁して細川澄之を殺し、実権を握った。

「京都が紛乱している今こそ、征伐どきぞ」

 将軍の座を追われ大内氏を頼っていた足利義稙の下知を受けて大内義興が山陰、四国、九州の諸将に至急の書状を送った、好機到来である。

 同年十一月二十六日(新暦十二月二十九日)、足利義稙が防州を出発した。

 大内義興を筆頭に九州から島津、大友、龍造寺、高橋統種、菊池ら有力武将がこぞって集まった。

 安芸の国から探題職の武田元繁をはじめ毛利、吉川、宍戸、小早川、熊谷らが供奉に加わり、石見から、小笠原長隆、三隅興信、吉見成頼、佐波誠連、益田宗兼、高橋清光、福屋国兼、周布和兼、祖式、久利ら、出雲の尼子経久、三澤為幸、三刀屋為虎、牛尾、浅山、宍道、廣田、桜井ら、伯耆に山名清忠、南條守親、大山の教悟院、行松入道、因幡から山名豊重、但馬の山名政豊、美作の斉藤ら、播磨の別所熙治、黒田高政、伊予の河野通直、讃岐から香河元光が随従し、

 総勢十五万余騎が八千五百余艘の船に分乗して威風堂々と船出した。

 海上は、能島掃部助、久留島出雲守らが海上を警衛している。大内義興は、防、長、豊、築四州の守護である。にもかかわらず今回の東上には、石見、出雲、因幡伯耆、備中、伊予の武将も随従している。大内義興の勢威をみせつけた軍勢であり、衰えたりといえども将軍の威光、まさに天を突くばかりであった。

―心がおどる。

 忠智にとっては初めての上京であり、『将軍を擁しての進撃だ』ということが心をおどらせている。

 とはいえ、小笠原長隆は、小笠原宗家と仰いでいる阿波、三好之長を敵にまわして戦わなければならないという戸惑いは如何ともし難い。

 瀬戸内の海を大小の船があふれている。帆を立てたもの、櫓や櫂で漕ぐものあらゆる舟が舳先を競って東上している。

―まさに壮観だ。

 各船が将軍の眼に留まるよう、御座船近くを航行しようと陣取り合戦をしている。

 忠智は舳先や船べりに幟や旗を立てた船が、これ見よがしにせわしなく動きまわっているのを厭くことなく眺めていた。

 鶴姫を連れて多度津から瀬戸内を渡ったのが、ほんのこの前のことのように思っていたが、すでに十二年前のことになる。忠智は、阿波の小笠原長重と綾姫、そしてやえのことを思い、北の方角に合掌した。

 二日後に鞆ノ浦に着いた。ここで越年し、永正五年(一五〇八)正月三日(新暦二月三日)に出航したが、寒波の襲来に遭遇してしまった。西風に押されて狂ったように走っていた船が、荒れ狂う波にはばまれて危うくなってきた。忠智らは、慣れない船酔いに苦しめられ、立ちあがることもできない。横臥したまま嘔吐している兵から発する異臭が船内に充満して息苦しい。忠智は、せめてもの抗いから口を大きく開けて呼吸し、鼻からの進入を防ごうとした。これなら陸路を進撃するほうが早いと思うが勝手をすることはできない。

 ついに、船団は播州室ノ津に避難したまま動くことができず、いたずらに日数を費やすばかりであった。

 二月一日(新暦三月二日)になって、やっと海上が凪いできた。船団は纜(ともづな)を解いて次々と湊を出ていく。

 今度は快適に走っている。左手には本土の山並みが朝日を受けて輝き、右手には淡路の島がすぐ近くに見える。

「あれが泉州堺だ。あそこに上陸するらしいですな」

 善兵衛は、寒さに身を震わせながらも、甲板に腰を下ろして、はるか前方に霞む山並みを指差している。

「お前、震えているのか」

「武者ぶるいですよ」

 忠智の横に座っている理右衛門が、寒さで満足に動かせない顎をがくがくと震わせながら笑った。

 翌二日泉州堺に着いた。やっと上陸したと安堵したものの足が萎えている。忠智はその場で足踏みをして力を取り戻そうとした。

堺は海上から畿内への玄関口である。九州、中国、四国を結ぶ交通の要衝となっていた。 

 京都では執事細川澄元が上意をもって諸国の軍士を召集していた。これに応じて、斯波義兼、畠山義豊細川勝久、細川成春、朝倉貞景、赤松義村富樫政親、一色義春、伊勢貞熈ら十三万余騎が京都に馳けつけて三条の御所を警護した。

 足利義澄は、堺に上陸した大内ら西国勢が京に攻め上るまでに蹴落としてしまえと八万余騎の軍勢を摂州中島に進め、陣を取って待ち構えていた。ところが、寄せてくる大軍勢に肝をつぶしほとんど戦うこともせず敗走した。

三好之長は大内勢の鋭鋒を受けて敗死した。

細川澄元は四国へ落ち延びて斯波、赤松は京都へ逃げた。

 足利義澄は近江岡山城滋賀県蒲生郡)へ退いた。

 忠智らは淀川沿いの橋本で一泊し、翌日、東寺の五重の塔を目印に都へ向かった。

 六月八日(新暦七月五日)、足利義稙が入洛を果した。

 忠智にとっては、はじめての都である。

 貴族、武将の館や寺社が壮大な敷地を占領し、住民は狭くひしめき合っている。館や寺社のあまりにも荘厳な建物に忠智の心は奪われていた。

 小笠原隊も平安城(御所)の警備についた。

 七月一日(新暦七月二十八日)、足利義稙は、従三位に叙任し、権大納言征夷大将軍に復任した。

 八月一日(新暦八月二十七日)には、随伴した諸将の論功行賞を行い細川高国管領に、最大の功労者大内義興には従四位下に叙して管領代に任命した。

 さらに、九月十四日には、従四位上として管領職に任じた。その他、随伴した諸将も褒美を受けた。