福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

山吹城

 

 永禄三年(一五六〇)七月、きびしい暑さがつづいていた。いつまでも続く暑さに人々は閉口していたが、幸いにも午後には決ったように夕立が降っていたので、渇水の心配はない。田んぼの稲には、すでに穂がつきはじめている。

 七月初旬、毛利元就は安芸、備後、石見の国衆一万四千余を率いて山吹城へ攻め寄せ、銀山の仙ノ山に本陣を置いた。

 山吹城に籠る本城常光は尼子方武将である。永禄元年の温湯城取り合いでは小笠原長雄に味方し毛利元就を攻撃した。

 仙ノ山(五三〇メートル)からは、要害山頂(四二〇メートル)の山吹城が低く見える。 

 城内に立ち並ぶ幟や旗が風に吹かれて元気よくたなびいていた。周辺の山や峰は毛利方として馳せ参じた石見勢が陣を構えている。

 攻撃隊は三方から同時に攻め登ることとなった。

 今回も小笠原長雄隊が先陣となっている。

 山吹城の正面は吉川元春隊が受け持ち、天文九年(一五四〇)九月から弘治二年(一五五六)までの十六年間にわたって銀山を領有し、城を熟知している小笠原隊は攻めるに最も困難な左翼を受け持った。

 毛利家に刃向い、降参していながら家名存続という寛大な扱いを受けた小笠原家である。御屋形自らが毛利家の魁(さきがけ)となって遮二無二に戦わなければならない。

 小笠原隊は攻城軍総大将毛利元就の突撃命令を待っていた。仙ノ山頂上から立ち昇る狼煙を合図とされている。身を焼く太陽を背に静まり返っている将兵を、あざわらうかのように蝉しぐれが辺りを覆っている。

「合図を見落とすな」

 小笠原隊将兵が本陣の仙ノ山をみつめている。

「己のつくった城を攻めるとは、気のあがらないことですなー、それに、対手(あいて)の本城勢は、ほんの一ヵ月前までは味方だった」

 忠左衛門が独り言のように呟いた。

「小笠原隊皆が思っていることだ。己が仕組んだ仕掛(防禦装置)の洗礼を受ける。…情けないことよのう。それだけに恐さも分かっている」

「絶対に、落とされない要害として自負をもっていましたよなー。それを落とそうとしている。皮肉ですなー」

 三年前までは、山吹城も小笠原氏のものだった。何回も行き来した城への路も、今では上ることも許されない。本陣の方角に目を据えている明尊の顔には、戦うという気迫が消えている。己のおかれた境遇に困惑している顔だった。

 突然、天地を揺るがす轟音が殷殷と山野にこだました。毛利軍の鉄砲隊による一斉射撃がはじまったのだ。これが、石見において歴史上に登場した最初の鉄砲隊となった。

喚声があがった。だが、山吹城のような山城を攻めるためには、あまり鉄砲の効果はない。

野戦においてこそ威力を発揮できるのだ。元就とて十分承知のうえで鉄砲隊を使ったのであろう。すぐに鉄砲の音は消えた。威嚇のための射撃であっても籠城中の将兵を脅す効果は絶大であった。それまで威勢よくあげていた喚声がぴたりと止(や)んだ。

 吉川勢山縣四郎右衛門、井上又左衛門、山縣助十郎、鉄砲足軽の小頭溝挟次郎兵衛らが先を争って突撃していた。

「吉川勢の抜け駆けだ」

 抜け駆けは、大軍の統制を乱すものとして厳しく諌められている。さらに、先陣を受けた小笠原隊への侮辱だ。戦場において、先陣は名誉とされており、先陣をめぐっての同士討ちになることもめずらしくない。 

 それを、こともあろうに毛利一族が破ってしまった。

「先陣は我らぞ。武士の意地にかけても後続部隊の後塵を被るような恥辱は受けるな」

 御屋形があわてて突撃に移った。飛来する矢を避けるために竹の束を盾とし、逆茂木をつぎつぎと抜き捨てながら一歩づつよじ登っている。

 山吹城には、小笠原が籠っていた十六年の間に銀山の穿通子(ほりこ)を使って設えた秘密の抜け道が掘ってある。城内から縦の斜坑を掘り下げ、岩陰や茂みの中に出口をつくって、よじ登った敵の背後を狙うためのものである。

 山を熟知している小笠原隊は、一つずつ抜け道の出口を塞ぎながら登って行く。

 正面の攻撃をかけた吉川隊は、城内から打って出た本城勢に対し、溝挟次郎兵衛の鉄砲隊で一斉射撃をかけ、敵兵が浮きあし立ったところを槍隊が代わって攻戦する。

 城内からは、正面の路を登ってくる吉川隊がまる見えだ。ひとりづつ狙いを定めて射ってくる。兵が矢に当たりバタバタと倒れている。

 攻撃隊は、いかにしても城内へ突入できない、被害は増えていくばかりである。

 側面からの攻撃隊は、城内から投げ落とされる大石小石や丸太に跳ね飛ばされて転がり落ちて行く。

 小笠原隊も竹束を盾にして石を避けようとするが、大石や丸太が落下してくればひとたまりもない。己が作った防禦装置に襲われ、バタバタと倒れていく。

 さらに、敵は矢穴(狭間)を開け、弓ではげしく狙い撃ちしてくる。

 攻城軍は三日間攻め立てたが落とすことができない。五千人を超す死傷者をだしているのに城はびくともしない。

「強襲では被害が多すぎる、ひとまず撤退する」

 毛利元就はついに撤退を決めた。

「あと、二、三日もすれば、この城は落とせます。このまま攻城を続けさせてください」

 毛利隆元吉川元春小早川隆景ら三人の息子が口を揃えて懇願した。

「いや、敵の籠っている山吹城をみよ、鶴が上空を舞っているではないか、敵陣の糧食が豊富にある証拠だ、一旦、引き退いて謀をもって本城を味方にする方策を考える」

 元就の決断は早い。

 撤退と決った。

 撤退すれば本城勢の追撃を受ける。殿(しんがり)は吉川元春率いる石見勢と決った。

 さらに周辺の地理にくわしい小笠原隊は殿軍の最後尾を受け持った。

 小笠原隊は谷底を通る路を挟むように両側の峰をかためて敵の追撃に備えた。

 吉川元春は一千八百余騎を連れて退却軍の後方に位置をとり、ことさらにゆっくりと退却していく。

 本城勢の兵二千が追いついてきた。足軽を先に立てて元春めがけて切りかかった。吉川勢が踵を反して反撃すれば追撃の足軽らは逃げ散り、退却に移れば、蝿のごとく集まって鉄砲を射掛けてくる。

 吉川勢が谷間の隘路で詰まり、身動きできなくなった。

吉川元春の旗本へ突きかかれ」

 本城の采配に二千騎が一手になってかかって行った。

「ウオー」

 喚声を挙げ、元春めがけて突撃していた本城勢が、突然、立ち止まった。

 前方の小高い場所に、元春が馬を止めて凛とした姿で本城勢を睥睨している。その前後を固めている一千八百余の兵は突撃態勢だ。バラバラなって逃げていると思っていた吉川勢が、いつのまにか態勢を組んでいたのだ。

 

 本城勢は、備え万全の吉川軍をみて動けなくなった。

 両軍がにらみ合い、対峙したまま鬨を挙げている。

 吉川元春の旗本森脇若狭守が本城勢のなかに切り込んだ。これを発端に敵味方数千の将兵が入り乱れた。

「今だ、本城勢を包み込め」

 峰々をかためていた小笠原隊ら石見勢が喚声を挙げて山を走り下った。

 三方から挟撃された本城勢がバラバラになって引いた。

 殿軍が合戦中であるとの注進を受けた元就の下知により、福原、桂らが駆けつけたときには、すでに戦いは終っていた。

 小笠原隊ら石見勢は、再度、峰に上がり備えをかためた。

 周辺の峰々には、小笠原、佐波、益田等の幟が立ちならび、救援にきた福原、桂らの兵とともに吉川元春が引いて行くのを見送っている。

― みごとな退却だ。あれでは本城勢も追撃できまい。

 明尊は、殿(しんがり)軍のありかたを教えられた思いで、吉川勢の姿が見えなくなった路をいつまでも見つめていた。

 この戦が、石見において鉄砲を組織的に使用した最初の戦となった。鉄砲が種子島に伝来して十年が経っていた。

 以後、鉄砲は武器として急速に広まっていった。

 鉄砲の威力をまざまざと見せ付けられた明尊らは、ただ、愕然としているだけであった。

 

 永禄三年(一五六〇)十二月二十四日(新暦一月九日)、尼子晴久が四十七歳で死去した。

 嫡男の義久が跡目を継いだ。

 

種子島銃

 永禄二年(一五五九)初冬、戦に明け暮れる明尊の四ッ地蔵城在城を待っていたかのように、八神屋與次郎兵衛がやってきた。雪が降ったのかと見間違うほどの霜が立っている寒い朝だった。

 與次郎兵衛は、家督を受け継いで十年になる。すでに齢四十を越え、玉鋼の商いも戦乱続きの世とあいまってますます繁盛している。

 久しぶりに訪れた與次郎兵衛の後ろには、二人の男がついている。

「この方が、お夕の義父上内田屋さんで…」

「内田屋孫兵衛でございます。八神屋さんにはひとかどならぬご交誼をいただいております」

「お夕は、元気でいますか」

「ええ、よく気のつく器量よしでございます。夫婦仲もよく安心しております」

「それはいい、夫婦仲のいいのが一番ですからな」

「ええ、それはもう…跡取もできまして、私も一安心です」

「それは、めでたい」

「その節(結婚のとき)には、大層な御祝いをいただきましてありがとうございます。

ところで…」

 連れの若者が持っている包みを取り寄せて、慎重に開きながら、

「これは、薩摩国島津領の種子島というところに漂着した南蛮船から伝わった鉄砲というものでございます」

「うわさには聞いています。九州では戦に使われ始めたらしい」

「そうでございます、天文年間の終り頃には、すでに島津軍が使ったといいます」

「それほどに威力があるものなのですか」

「ご説明申し上げる前にいちど見ていただきましょう」

 孫兵衛らは城内の畑地にでた。

 山下忠左衛門、山田重兵衛、佐々木喜兵衛、越堂清左衛門らが集まってきた。

「弓矢をできるだけ遠くへ飛ばしていただけませんでしょうか」

「それなら、儂がやりましょう、的がなければ儂でも射ることができます」

 笑いながら忠左衛門が弓を取った。

 忠左衛門の射ち放った矢が、地に落ちた場所のさらに五間先に藁(わら)人形を立てた。

「これから、あの的を撃ち抜いてご覧にいれましょう」

 若者が、片ひざだてになって鉄砲を構え、静かに筒先を的に向けたと同時に、凄まじい轟音が明尊らを襲った。

 轟音は、山にこだまし、百雷が足元に落ちたような衝撃を受けた。明尊と忠左衛門が、みごとに尻もちをついていた。なんとも香しい煙が漂ってきた。

 その瞬間、明尊は筒先から噴出す閃光を見た。

 忠左衛門の口が、パクパクと動いていた。

―なにを言ってるのだ。

 聞こうとした明尊の耳に、忠左衛門の声が聞えた。

 鼓膜が痺れていたのだ。

「すさまじい音だ」

 耳の奥でガンガンと響く余韻に驚愕し唖然としている明尊らを、孫兵衛が先に立って的のところへ案内した。

 藁人形は倒れていた。なぜ倒れたのか明尊には理解できない。

「音にびっくりして倒れたのではありませぬ」

 鉄砲の弾が食い込んでいる藁人形を示しながら孫兵衛が笑っている。

「これは、この筒内に火薬という紛を入れまして、その次に鉛の弾を詰めてから火縄の火を火薬に点火しますと、瞬時に爆発して弾を飛ばしているのでございます」

 孫兵衛が説明を始めた。

「火薬は硫黄と炭の粉末に煙硝(硝石)というものを混ぜ合わせたものでございます。これに点火すると爆発して、弾を飛ばすのでございます。その威力は見てのとおりで、弓よりもはるかに強く、織田信長、毛利さまをはじめ各地の領主さまが競って買い集めておられます。さらに、ご自分で鉄砲を作る技術を取り入れ、鉄砲鍛冶を増やしておられます」

「戦の仕様が変わるということですな」

「これから、日ごとに変わるでございましょう」

「ただひとつ、気をつけなければならないのが、馬を驚かせないことです。なんの前ぶれもなく耳元で、突然、このような轟音を出しては、肝を潰して、使いものにならなくなります」

「馬でなくともわれわれが肝を潰したぞ」

「鉄砲の訓練をするときに、初めは遠く、慣れるにしたがって近くで音を聞かせる必要があります。馬は元来、気の小さい動物です」

「硫黄と炭は分かるが、煙硝とは、いつでも手に入るものなのか」

「煙硝は、それぞれがご自分で製造しておられます」

「……」

「古くからある家の床下には、必ず煙硝がある。と、言われています」

「叔父御」

 突然、明尊が、説明を遮った。

「この鉄砲は、買うことができますか欲しいですな」

「はいはい、すでに購入したものです。今は各地で引っ張りだこで買いあさっていますから、なかなか手に入らないものですが、内田屋さんのご尽力により買うことができました」

 孫兵衛が、わざとらしく胸をたたいて見せた。

「儂のために作ってくれたものですか、おー、なんと…・銃身のなかほどに家紋がある、しかも角立四つ目だ、まさしく」

「お気にいりましたか」

「ありがたい。それで、値段はいくらになります」

「これは、六匁銃といわれるもので銭一貫(一千文)ほどです。もうひとまわり大きい三十七匁銃では銭五貫といわれます。今は、製造される数より買う方が多いから高い値段がついてます」

「それは高い、おいそれと買えるものではありませぬの」

「ご心配なく、この銃は支払いも済んでいますよ」

「いつものことながら、叔父御には迷惑ばかりかけて…・ところで、その煙硝というのは、だれでも造れますのか」

「簡単に説明しますと、古い民家の床下、特に、肥溜の近くが良いようですが…、床下の土を掘って、それに草木灰を混ぜて水を加え、濾液を煮詰めて水を蒸発させると、塩のような物質ができます、これが煙硝です。…・しばらくは、この者に手伝わせます」

「肥溜というのは、おもしろいですな」

「そうなんです。糞尿が水に溶けて煙硝を創り出すらしいのです。…次ぎに問題になるのが硫黄、炭、煙硝の配合割合です。これは晴れた日と雨の日とでも違います。いかに配合すれば最大限の力を発揮できるかは、手元にある硫黄、炭、煙硝の品質、濃度によっても違います」

「硫黄は、どうするのでしょうか」

「日本は火山の多い国ですから、大量に採れます。わたくしに言っていただけば、いくらでもお持ちいたします」

「いちど撃ってみられますか」

 孫兵衛がさしだした鉄砲を片手で受け取った明尊が、その重さに驚き、あわてて両手で持ち直した。

 孫兵衛の手取り足取りで射撃体勢をとって、言われるままに静かに引き金を引いた。

 轟音とともにものすごい衝撃を受けた。耳朶が塞がり、またもや尻もちをついていた。

発砲の反動によるものだった。

「熟(な)れれば、二町(二百メートル)先の人間を狙撃することなど朝飯前です」

 孫兵衛は、さらりと言ってのけたが、明尊の撃った弾は、的を外れ、どこへ飛んでいったのか分からなかった。

 次に、男は、一町(百メートル)先に置いた古い甲冑を撃ち抜いた。

 一寸ほどの穴があいていた。まさに驚愕する威力である。

 明尊らは呆然としているだけであった。

「弾は二町(二百メートル)ぐらいはらくらく飛びますが、甲冑を着た人間を倒すには、ほぼ一町ほどでしょう」

「それでも、すごい威力ですの。弓では、どのような大弓を使っても不可能だ」

 各地の武将が競って調達しているということは重大な事実である。このような武器を数百挺単位で筒先を揃えて撃たれたら甚大な損害を受けるであろう。

― 早急に、御屋形へお知らせしなければならない。

 翌日早朝、明尊らは、甘南備館へ遣いを走らせた。

 

 ドーンと凄まじい爆音に、御屋形(小笠原長雄)をはじめ重役が肝を潰し、声を失っている。沈黙が続いた。しばらくして、耳を手で軽くたたきながら重役の一人が呟いた。

「こんなもんが出まわったのでは、今までのような城ではたちまち潰されてしまいますなー」

ため息まじりの声が上ずっている。

「城を、思いきり高い山の上にもっていくか、周囲の水堀を思いきり広くとって弾のとどかない場所に築くしかないでしょうな」

「今、築城中のお城(甘南備城)は、大丈夫でしょうか」

「残念ながらこんな武器を想定しての縄張りではない」

「いずれにしても、すでに工事にとりかかっていることですし、鉄砲に対する備えを強化する必要があるでしょう」

「まず、塀を頑強なものにして二重、三重とし、石垣を高くする」

「そういう点では、温湯城は良かった。…・いまさらせんないことだが…吉川氏の物不言城などは良い城ですなー、わずか四十間(七十二メートル)ほどの山ながら懸崖で、道以外の山肌は登ることが不可能、鉄砲の玉はとどかない」

「それにしても鉄砲を早急に、できるだけ大量に調達する必要があります」

「莫大な資金がいる。銀山を領有していたころならまだしも、今は痛い」

「これなる内田屋孫兵衛に頼ることになるが、毛利さまにも承諾を得る必要がありますな」

 重役らの意見は、鉄砲配備に傾いた。

 

 永禄三年(一五六〇)五月、東国では四万五千の兵を率いて駿府を発ち、京へ向かっていた今川義元が、尾張の田楽狭間で織田信長の急襲を受けて討死した。織田信長はわずか二千の兵で奇襲をかけ、毛利新介と服部小平太が義元の首を取ったという。(桶狭間の合戦)

 

 

温湯城開城

 四月二十八日(新暦五月十六日)、吉川元春が益田藤包、佐波秀連、杉原盛重、福屋隆兼ら三千五百余騎で温湯城へ迫ってきた。

 御屋形(小笠原長雄)は、二千余騎を二手に分けて夜襲をすべしと評定したが、異議が多くその夜は徒労に終った。

 このころの軍団は、土着豪族の集まりであり、戦の指揮命令はすべて評定、合議によって進められていた。 主君の命令には絶対服従という軍団を造ったのは織田信長で、それを完成させたのが羽柴秀吉である。小笠原軍団はいまだ土着豪族の集まりにすぎず、御屋形の意のままに進まない戦もめずらしいことではなかった。傘下将兵をいかにして戦いに引き込むのかが将の器量であったのだ。

 四月三十一日(新暦五月十九日)、小笠原長雄は、すべての軍兵を館のなかに集めた。敵を引き付けて館の近辺にて合戦するか、または、日暮れになって敵が引くところを追撃しようと企てたのだ。将兵は幟や旗を一切立てず私語も禁じられていた。

 朝からの生暖かい強風が山の木々を振るわせ、ゴーッと音をたてて通りすぎている。

 明尊は風の音が意外と耳障りだと思った。

 将兵のまわりを砂埃が渦巻いて通りすぎていった。そのとき風とは異なる喧騒を耳にした。

 明尊の顔から血の気がひいた。温湯の在家に火の手があがっている。福屋隆兼、佐波秀連を先に立てて進入してきた吉川元春に放火されてしまったのだ。しかも、風上だ。折り悪く東南のつむじ風が吹き、あちこちに飛び火している。

 将兵らの家が危ない。顔はひきつり、恐怖のまなざしとなっているが、動くことを許されていない。ジッと猛炎の行く手をみつめているだけであった。

 突然、後方で火の手があがった。小笠原館に飛び火してしまったのだ。

 敵が機に乗じて攻めてきた。

 女子供は火がついたように逃げまどい、猛風は、ますます激しく吹いて四方八方が一度に燃えあがってしまった。

 小笠原長雄は、館から出て一合戦する決心をしたが、将兵も浮き立っていたため、統制がとれない。せんかたなく呆然と立っているところへ、

「敵の館に火がついたことこそ天が組したことぞ、今だ、討て」
 吉川元春がまっ先になって攻めてきた。

 我先にと押し寄せてくる敵の総軍に、

「ここで戦っては不利だ」

 小笠原軍は一戦もせずに山上の城内へ逃げ入った。

 攻撃軍はなんの抵抗も受けず、温湯の在所を一軒残らず焼き払って、悠々と引き上げていった。城内の小笠原軍将兵は、声もなくただ呆然とたたずんでいるだけであった。

 

 五月二十四日(新暦六月十日)、毛利元就と嫡男の隆元、二男吉川元春、三男小早川隆景らは、総勢一万二千余騎をもって温湯城に再び迫ってきた。

 五月二十九日(新暦六月十五日)、毛利家嫡男の隆元は、城の喉もとに当たる笠取山へ陣を取った。

 小早川隆景は、西側の小栖山に備後勢を率いて屯営した。その他、宍戸、益田、熊谷、天野、福屋、出羽、佐波らも陣を固め、温湯城の周り四面立錐の地も残さず取り巻いた。

 相対して温湯城の向かいにある青岩城には、尼子晴久より派遣された温湯城の援軍八百余が籠った。

 温湯城から見渡す周辺の山々には、幟や旗がこれ見よがしに並んでいる。

「よくもまー、雲霞の如く集まったものだ」

 明尊は、あきれていた。しかし、緊迫感はない。

 温湯城は、標高三百九十メートルの懸崖な山城である。北側には江川が流れ、東、西、南の三方は深い谷となっている。特に、城への入口にある大門は、いずれも深く狭い谷の奥にあり、その左右の山は堅固な陣地となっているから、大門に来攻する敵を邀撃するのに死角がない。たちまち矢が四方から飛び交い、一点に集中して敵を一歩も寄せ付けない陣地配置となっている。さらに正面の会下谷は急坂であり、

「攻められても絶対に落ちる城ではない」

 という余裕があった。さらに小笠原には尼子氏がついている。

「籠城して尼子殿の応援を待てばいい」

 誰もが思っていた。

 温湯城の北一里のところに構えた赤城を芸州勢が攻めはじめた。ここには、小笠原軍が五百人ばかりで立て籠もっている。

「赤城を取られるな」

 明尊は福冨党を引き連れ、打って出ることとした。籠城戦は城に閉じこもるだけであってはならない。城の防禦性を利用しながら打って出て敵をかく乱しながら戦うものであると考えていた。

「この突撃は敵をかく乱することにあるぞ。首級は取る必要なし、討ち捨てろ。城内の味方衆にぶざまな振舞いを見せるな」

 大身の十文字槍を高だかとかかげた。

 青木五郎丞率いる青木党も集まり、たちまち、三百余人となって、手ごとに槍、長刀を引っさげて旗谷へ打って出た。

 これに対して吉川勢では粟屋源蔵、森脇市郎右衛門ら四百人ばかりが切り掛かってきた。 

「絶対に止まるな、止まれば死ぞ。死ぬまで走れ」

 明尊が敵軍団のなかを走りまわって撹乱しながら、手当たりしだいに槍を奮い、敵兵を地獄に蹴落していく。しかし、敵軍の動きもすばやかった。あっというまに、明尊らを重囲のなかに押し包んできた。

「儂に続け」

 明尊が備えのもっとも厚い敵軍にむかって突っ込んだ。福冨党らの将兵が一塊となって続いている。

 明尊らは、そのまま会下谷へ走り込んだ。備えの厚い方を崩された敵軍は、追撃をあきらめざるを得なかった。河邊八郎左衛門が毛利方の森脇市郎右衛門に討ち取られてしまったが、斃した敵の兵も多く、温湯城に籠る味方の士気を大いに奮い立たせた。

 この戦いにより、明尊は戦国の武将としての福冨七郎左衛門の名声を高めることとなった。

 しかし、六月一日夜半、赤城守備隊は城を捨てて温湯城へ逃げてきたので、吉川元春に陣を取られた。

 これにより青岩城の尼子勢も退いて大田まで退いた。

 温湯城だけが孤立してしまった。

 小早川隆景が、温湯城近くに馬を寄せた。大将の言葉戦がはじまろうとしているのだ。両軍の将兵が静まりかえった。

「この度、毛利元就公は、石見国に討ち入り、福屋、益田ともに降参した、しかるに小笠原は真っ先に馳せ参ずべきところを退けて籠城している。すみやかに城を明渡せよ」

 隆景の大音声が響いた。弁舌では吉川元春といえども隆景には一目置いている。毛利三家が合体しての戦にはいつも隆景が大将の言葉戦を受け持っていた。

「福屋、益田は降参しても当家は、尼子の重臣である。小笠原弾正少弼(長雄)は元就殿の孫婿である。この元枝は吉川殿の孫である。隆元殿は契約親となる。しかるに、この度の振舞いは他人よりもなお恥じる行いである。元枝の弓を受けてみろ。」

 長雄の三男元枝が矢倉から応答し、五人張り大弓で矢を射った。寺谷らも四人張りで鋭く射った。引き下がる隆景を追うように、温湯城の中から喚声があがった。

「この城の寄せ口は五ヵ所にある。合図をもって一度に押し寄せ攻め落せよ」

 隆景の下知に、数万の将兵が鉦や太鼓、旗竿を叩き、喚声を挙げながら総攻撃してきた。

 城内は静まりかえっている。

 攻城軍が城壁に取り付いた。そのとき、けたたましく叩く木鐘が攻城軍の頭上に轟きわたった。それを合図に、城内に仕掛けてあった数万個の大石が、轟音と土煙をあげて落下した。

 攻城勢は、一瞬のうちに数千人が斃れ、もがき苦しみ阿鼻叫喚のちまたと化している。あまりの凄絶さに、両軍の喚声が途絶えていた。

 毛利軍の攻撃が止まった。

 その後は、膠着状態がつづいた。

 

「攻城をはじめてから、いまだに、敵を一人も討ち取っていない。にもかかわらず、味方は数多くが斃れてしまった。五ヵ所の大門入口は、いずれも深い谷に掛け渡し、左右の峰は、出城で固め、堀や塀、矢倉は幾重とも知れず、数万騎で攻めても容易くは落とすことのできない城である。このうえは、強襲を止めて敵の兵糧が途絶えるのを待つべきである。」

 毛利軍は、小早川隆景の意見をとって、温湯城を二重、三重に囲み、長期戦に切り替えてきた。

 六月(新暦の七月中旬)になった。いまだ梅雨が明けない。毎日、雨の降り続くうっとうしい日が続いている。

「浅利のお城や福光の知行地は大丈夫でしょうか」

 僕従の久作が聞いた。

 明尊は、戦が始まると四ッ地蔵城へは、山田重兵衛ら十人ほどを残しただけで温湯城へ入った。

 村の若者は足軽にとられた。

 明尊の率いる足軽も全員が百姓だ。百姓が本業なのだ。

 五月になると田植えをしなければならない。籠城中の足軽らは、戦どころではない。

 今、稲を植えなければ来年まで生きていけない。だから、だれもがいらいらとした日を送っていたのである。

 温湯城に詰めている明尊には浅利村に四ッ地蔵城があり、福光郷には知行地がある。四ッ地蔵城は福屋隆兼領に、福光の知行地は吉川経康領に隣接しているがいずれも敵方として攻城軍に加わっている。

「四ッ地蔵城も知行地も危ない」

 久作が言った。

「大事ない。吉川経康も福屋隆兼も己の全兵力をもって駆けつけているはずであり、自領でいざこざを起す兵力は残っていないはずだ。己の領で戦を起すということは全面的に毛利家へ協力していることにはならない」

 平然としている明尊の顔をみて久作は安心したようであったが、

「一度、見て来ましょうか」

 久作の言葉に明尊が驚いた。

「この城を抜けでることがでるのか」

「南門から笠取山の間道は、敵方に見つかっていないようです。皆が利用しています」

 南門は、城から後方の山に向って二股に分かれる尾根の内側にある谷に通じている。

 したがって、攻城軍からは、たとえこのいずれかの尾根に上ったとしても谷を覆う木々に隠されて見えないのである。  

 築城のときに抜け道として造ったものが、みごとに機能していたのだ。

笠取山は、敵の毛利隆元陣ではないか。」

「敵勢兵卒の話声まで聞えるほど近くを通ります。でも間道は、みごとな死角になっていますから、敵からは見えません。」

「見つかるな。雨の夜にせよ。」

 明尊の許しを得た久作が、ふたたび明尊の前に現れたのは、その八日後だった。

「お城も、福光も平穏でした。お屋敷に異常もなく、村もそのままです。すべての田んぼに稲が威勢よく育っています。若者を戦にとられた家の田んぼは、村が総出で田植えをしたそうです。」

 久作の顔にも安堵が広がっていた。

「そうか、それはよかった。皆に知らせてやれ」

 明尊もホッと気が緩むのを感じていた。

 

一年が過ぎた。城内では、なにごともなくたいくつな日々を送っている。

 風のない穏やかな日だった。雨水を貯める為にあちこちに置いてある甕(かめ)の中の水が揺れていることに、兵が気付いた。ところが、たくさん置いてある壷や甕のなかでもさざ波だっているのは数個の甕だけだった。

「不気味な現象だ」

「なにか異変が起きるにちがいない」

 怖れる兵は、その甕に近寄らなくなった。そのうち、

「空の瓶から音がする」

 兵が騒ぎだしたので明尊も、その甕に頭を突っ込んでみた。かすかな音が甕のなかで反響している。不思議だと思ったが原因はわからなかった。日ごとに、それらの現象が大きくなってくる。なにか得体の知れないものが襲ってくる不安に、将兵はおののき、いら立ち始めていた。

 ある朝、いつものように音のする甕に顔を突っ込んでいた兵が、冗談まじりに呟いた。

「芸州勢が地下に穴を掘って、城内へ侵入しようとしているのではないだろうか」

「そうだ。そうだったのか」

 城内がてんやわんやの大騒ぎとなった。

 銀山から呼び寄せた堀子に、城内侵入用の穴を掘らせていたのだ。

 不気味な現象に慄(おのの)いていた将兵の気持ちが一気に晴れた。

 小笠原軍は、甕の響音により穴の位置を確認しながら、城内からも穴を掘り進んでいった。少しずつ近づいてくる敵の音を確かめながら掘っていた穴の土が、突如崩れた、双方の間の土が崩れて穴がつながったのだ。鉢合わせとなった両軍の壮烈な地下戦となった。だが、小笠原軍は下向きに戦わなければならず、不利であったため、穴のうえから大石を投げ込んで防いでいた。

「おい、肥溜めをどんどん持って来い」

 一人の武士が近くにいた兵を走らせた。

「ぜんぶ持って来い、いい捨て場が出来た」

 それまで溜まっていた数十個の肥溜めの糞尿を穴に放り込んだ。これには敵も敵わないと逃げて行った。

 直ちに穴を埋めた。

 同じころ、温湯城南大門の下にある廣汲寺門前に遊女町が出現していた。

 廣汲寺は小笠原家菩提寺である。にもかかわらず元就は、この寺を潰さなかった。

 温湯城攻防戦により小笠原軍が籠城したため、毛利の勢力圏内に入るとき、『元就は、寺社を尊重し、たとえ敵方の菩提寺であっても潰すということをしない』ということを知っていた住持は、毎月大般若経法会を催し、敵味方の区別なく参詣を促した。元就は、これを許した。さらに、遊女町ができていた。このころ、長期にわたる攻城には遊女が集まってきた。天文九年の尼子による毛利攻めのときも遊女町が出現していた。このときは、毛利勢によって焼き払われてしまっていたが…。

 なにか悪い魂胆があるのだろう。と警戒して近寄らなかった籠城兵も、いつしか誘惑に負けて遊女町に立ち入るようになってきた。ろう城兵の懸念をよそに何も起こらなかった。攻城軍も出入りしている。

 定められた日には、敵味方の若武者が多勢で城や陣地をでて廣汲寺に参詣し、遊女町で思い思いに過ごすという珍妙な光景が出現した。その日は、さすがに敵方の将兵は陣をでてこなかったが、お互いに相手の存在を無視して参詣し、遊女町で遊んでいた。ここには、戦というものが存在しない、いわゆる中立地帯となっていた。

 

「一年を超す籠城にもかかわらず諸兵に困窮の状はない。これは皆が一致協力してきた力である」

 御屋形は豪語していたが、尼子に属する周辺の武将は、

「温湯城危うし、このままでは、開城におよぶこともありえる」

 との羽書(急使)を尼子晴久に届けていた。

「今これを助けなければ石州はすべて敵に降参する」

 尼子晴久は、傘下武将の兵を集め雲州富田月山城を出発した。

 随従する兵には、まず、

 出雲の国から三澤三郎左衛門、三刀屋彈正左衛門、広田入道、馬場尾張守、

 伯耆の国に小鴨掃部助、小引彈正少弼、福頼治部太輔、同彌四郎、

 美作に兩齊籐、葦田民部太輔、市五郎兵衛、玉串監物、

 石見の本城越中守常光、同太郎兵衛、

 尼子譜代の亀井能登守、佐世伊豆守、河本彌兵衛、牛尾遠江守、同太郎左衛門、同三河守、同豊前守、同彈正忠、屋葦右兵衛、河副美作守、黒正甚兵衛、卯山飛騨守、森脇長門守、横道石見守、同兵庫助、同源介、高尾縫殿允、同右馬允、立原備前守、同源太兵衛、秋山三郎左衛門、同伊織助、熊野備前守、同兵庫助、多胡左衛門尉、同兵庫助、湯信濃守、同佐渡守、平野又右衛門、眞木宗右衛門、中井駿河守、同平蔵兵衛、三刀屋蔵人、大西十兵衛、本田豊前守、飽浦伊豆守、赤穴右京亮、その総計一万八千余騎となった。

 尼子晴久を大将とする温湯城救援隊は、六月二十三日(新暦七月八日)に先陣が出発し、後陣は順次追及していった。

 七月五日(新暦八月十八日)、救援隊は、江川を隔てて陣を張った。

 尼子家四ッ目結の旗三十流が本陣に翩翻としている。違鷹羽、流車、片輪車、一頭ノ右巴、三頭左巴、竹に雪、小篠の雹、輸違、杏葉、酢漿、二本杉、中黒、中白、菊水、三本笠等諸家家紋の旗が次々と到着し、周辺の山を埋めて行く。

 温湯城に籠る将兵と周辺の援軍が掛け合う鬨の声が

「エイエイ」

「オーッ」

「エイエイ」

「オーッ」

 鯨波となって地を揺るがす。

 尼子勢は、琵琶頸山に陣を置くと定めた。しかし、この山は「四方嶮難にして地の利がはなはだよい、敵が陣を置けば容易に切り崩し難くなる」と考えた元就が、すでに城郭を構えていた。

「それなら、河上(かわのぼり)の松山城を切り崩し、彼の地を本陣と定め、その後、舟を並べて筏を組んで江の川を渡り一戦する」と決定した。

 

 七月十四日(新暦八月二十七日)、中国山地の山なみを縫うように白龍が臥している。江川特有の雲海である。

 その霧の中を無数の幟が動き出した。目標を変更した総軍一万八千人が鬨(とき)を作って松山城へ切りかかった。この城には福屋隆兼の選兵六百余がいて、尼子勢を真近く引きつけ、はげしく射立てた。さらに、寄せ手が怯むところを得たりと突いてでたため、尼子勢数人が討ち取られた。尼子勢も福屋方の森脇右馬ノ允、多喜九十郎、志和大和守をはじめ数多く討ちとった。

 攻めればこの城たやすく落とせると見えていたが案に相違して堅固であり、びくともしない。

 尼子勢は攻略をあきらめて鷹取山へ引き上げた。櫓をあちこちに構え、かがり火を隙間なく焼かせて陣を固めてから、いかにして小笠原を助けるかを議論したがなかなか結論がでない。ともかく、江川を渡って一戦すべきと一決したときには、いたずらに五日がすぎていた。

この日、江川は降り続く集中豪雨のため水かさが増し濁流となっていた。

 尼子勢は渡河できず、無為に日数を過ごさざるをえない。

 これを見た芸州勢の若武者が対岸で、扇を上げて招き、

「小笠原後詰のため遠くから御出張していながら戦を一戦もせず見物しておられる。ここを渡りたまえ」

「止々と日数を送っておられる」

 などと、大声でからかう。

「日本第四の河だ。舟がなくてはいかにして渡ることができよう、浪の浮沓も持っていないので、寄せることができないではないか」

 雲州勢が答える浪の浮沓とは、馬で川を渡るときに、馬の横腹に取り付けた浮き輪のことである。

南北朝争乱で足利直冬の下知に従って佐波善四郎の籠っている三高城を攻めたとき、毛利小太郎、高橋九郎左衛門らが渡った話を知らないか」

太平記の件まで引き合いにだしている。

「渡れるものなら渡ってみろ。ただ、手綱さばきのうまい人々を渡してくれ」

芸州勢がからかって手招きをする。

 雲州勢は、言葉戦に負けて口惜しがっていたので、

「敵の言うとおり毛利、高橋も渡れるものならば渡ろう」

 本城太郎兵衛、牛尾太郎左衛門が、川に入ろうとしているところを、卯山飛騨守、河副美作守の二人が、

「あの濁流とど巻く大河を舟で渡ろうとしても危ないのに、馬にて渡ろうとすること、まことに石を抱えて淵に入るようなものです」

 しきりに制し止めたので、二人の者も怒りを押さえてとどまった。

 

 七月十九日(新暦九月一日)、尼子晴久はいたずらに河を隔てて対陣していても手立てがないと、鷹取山を引き払い、大田まで引き下がった。

「江川の濁流は、四、五日もすれば普通の流れに戻る。それを待つこともなく退いてしまった。もはや、小笠原を見限ったのだ」

 御屋形は、もってのほか弱り、はげしく落胆した。

 頼みにしていた尼子が(救援)に来てくれたけれども何もせずにいてしまって、それ以後は、救援に来てくれない。

―なぜ。

 明尊には理解できない。尼子が手を引けば小笠原は、毛利に屈すること明白だ。そうなれば、他の国も次々と毛利に侵食される。

 最早、尼子は、小笠原を捨てたのだ。

 さすがに剛勇の御屋形も抵抗する力を失っていた。

 戦局は窮迫している。前途は暗い。

「大変なことになった。小笠原勢は抹殺される」

 城内が恟々とした有様となり、足軽らの脱走が増えている。

 元就は血の粛清で毛利を統率してきた。大永四年(一五二四)に尼子氏重臣の口車にのって元就を排除しようとした異母弟相合元綱を誅殺したことや、三十年にわたって忠を尽くしてきた重臣の井上元有一族三十名を血祭りにあげたことなどからも分かるように、元就のやりかたは冷酷無情だ。将兵の顔から生気が消え、暗く不安な様子となっている。

 もはや、武力でもって敵を退けることは不可能だ。

 雑兵らは、他人の面前でも沈痛な面持ちを隠そうとしない。

―今は、死にたくない。

 明尊は、生まれたばかりの嫡男とさよのためにも生きたいと思っている。

―このうえは、降人となって小笠原家の存続を図るべき。

 小笠原長雄は、考えた。

「当城を明渡し、石州攻略の魁を勤めますので所領は安堵していただきたい」

 旨を小早川隆景に伝えた。

「これほどに取り詰め、そのうえに小笠原の援軍尼子勢は、既に退いている。あと三、四十日攻めれば落城する。石見退治の見せしめにすべきである」

 吉川元春は、降伏の申し入れを拒否するよう主張した。これは、温湯城に籠城している小笠原軍団の殲滅すなわち、皆殺しにすべきであると言っているのである。当時、一族郎党すべてを殲滅するということはめずらしいことではなかった。大永元年九月(一五二一)に尼子経久が今井城で都治氏を滅ぼしたのも殲滅戦であった。今井城に籠城していた将兵百九十八名が死んでいる。五十六年前の明応三年(一四九四)に福冨治堅死去の虚をついて、今井に寝返った福冨の旧臣雀部重郎左衛門ら六人の一族もこのとき絶えた。以後、尼子経久に敵対する者はいなくなった。

「先年、尼子を富田月山城に攻めて大敗し、吉田へ引くとき、小笠原長雄の助力があったからこそ無事に帰りつくことができた。弾正(小笠原長雄)の武勇にかなう者はいない。味方にすべし」

 元就は、御屋形の一命を助けた。

 永禄二年(一五五九)八月、ついに、温湯城を開城した。

 所領については、

「江川以南を没収し、その代わり福屋隆兼の領のうち井田、波積の領地を割いて小笠原長雄に与える」

 旨の返答があった。

 御屋形は非常に喜び、八月九日に城を退去、甘南備寺に入って謹慎した。

福屋隆兼には、「邇摩郡のなかから倍に加増して与える」としたが、福屋隆兼はこれを不服とし、毛利に叛旗を翻すこととなる。

 

 同じ頃、尼子方須佐高屋倉城の本城越中守が五千余騎を率いて芸石の通路を塞いだ。 このため銀山は孤立し、糧食も乏絶した。元春の命により麾下の武将二宮杢助俊実に率いられた十八名が、城内への糧食搬入を成功させたが『焼け石に水』程度のものでしかなかった。

 小笠原救援に失敗した尼子晴久が大田に転戦して、先遣隊を川合に送り銀山の兵糧攻めを強化した。このため、山吹城はますます飢餓に陥った。

 毛利元就は、事態を重視して自ら北池田まで出陣し宍戸隆家、山内隆通、佐波隆秀ら一万の兵力で尼子勢の撃退と城内への糧食搬入を図った。

 両軍は九月に忍原で激突したが毛利軍中堅を務めた備後勢が尼子方の側面攻撃を受けて退散したため、毛利方の先鋒石見勢が死傷者数百人を出して退却した。これを毛利の忍原崩れといわれる大敗であった。

 救援軍失敗により山吹城将刺賀長信と高畠遠言は尼子方温泉津城主湯惟宗を介し自分たちの自刃を条件に和議を申し入れた。

 二人は、温泉津海蔵寺において壮烈な自決を遂げた。

 当時の切腹には介錯人がつかない。刺賀長信らは割腹して手で取り出した内臓を天井に叩きつけて絶命した。

 毛利方の大敗により、尼子晴久が銀山を領し、本城越中守に山吹城を守らせた。

 尼子晴久は小笠原は失ったが、待望の銀山を手に入れたのである。一応の成果はあったとして、引き上げて行った。

 

 九月、明尊は一年半ぶりに四ッ地蔵城に帰ってきた。

 城も知行地も無事だった。

 すでに秋になろうとしている。田んぼの稲は黄金の輝きを増しつつある。

 すべてが、なにごともなく平穏であった。

「吉川さまには、挨拶にいかねばなるまい」

 吉川和泉守経康は殿村から福光村へ城を移したばかりである。

 明尊は、さっそくに物不言城(ものいわずじょう)に出向いて、お礼を言上することとした。

「福屋隆兼は、井田、波積の領地を受け取りに来た小笠原と小早川の家臣に兵を向けて馬物具を剥ぎ取り追い返すという暴挙にでた」

 ということを聞いて、福屋氏への挨拶は止めた。

― 福屋氏も短慮なことよ。

 明尊がつぶやいた。

 

 

日和城

 三月二十四日(新暦四月十二日)、日和城へ芸州の杉原盛重が五百人ばかりで押し寄せてきた。

 城下の村に放火して日和城に拠っている寺本伊賀守らを挑発している。

 城中よりこれを見た寺本玄蕃允が二百人ばかりで追いまくり日暮まで戦った。

 この争いのなか、杉原盛重の家臣で一番の槍巧者といわれる福田監物は、寺本玄蕃允が槍の名手と聞いていずれが強いか決着をつけようと相対したが、

「すでにお味方は引き上げてしまって証人がいないではないか、明日また立ち会え」

 寺本玄蕃允は笑っているだけで相手にしない。 

 翌日、福田監物は大将の言葉戦に続いて、

「いかに寺本玄蕃允殿、昨日一戦のとき福田監物と名乗って槍を合わせようとしたが、貴殿は笑っているだけだったではないか。乱戦の中だったので敵味方をさえ見分けがつかないと覚えた。いうまでもなくこのままではどちらが一番なのか見分けがつかない。尋常に勝負しろ、それとも気後れでもしたのか、恥であろう」

 と言って一騎討ちにもちこもうとしたが、

「寺本玄蕃允ほどの武士が敵の一、二番を知らないことがあろうか。惜むべく士を第二に落とすことが無念であると思ってこそ相手にしなかったのであろう、まことにもって情深い武士だ」 

 杉原盛重は一騎討を制して寺本玄蕃允を深く稱えた。

 それから数日後、吉川元春が日和城を「近日中に攻略する」と軍議したとき杉原盛重は、

「寺本父子は、みどころのある兵であります、味方に引き込めば、きっと役立つこととおもいます」

 と願い、許しを乞うた。そして寺本伊賀守と河邊讃岐守には、

「頭を下げて降参してくるならば、本領をそのまま安堵する」

元就の意向を言い送った。寺本、河邊は、従来から望んでいたことなので、すぐにその意に従った。

「憎き寺本、河邊の振るまいなり、急ぎ討ち取れや」

 四月一日の朝、御屋形(小笠原長雄)の命を受けた従弟小笠原長智と大島和泉守、市川三郎丞等一千余人が日和城に押し寄せた。

 当然のことながら、大島和泉守麾下となっている明尊もこの攻め手のなかにいた。

が、しかし、

―なんとも意気のあがらない。

 戦なのだ。

― ほんのひと月前、二月十七日の出羽合戦までは、味方だったではないか。

 明尊は、同士討ちの慙愧(ざんき)をどうしても捨てきれないでいた。一方、智略をもって義をいとも簡単に崩してくる毛利の戦略に畏怖を覚えざるをえなかった。

 攻め手は喚声をあげて城に迫っていった。寺本伊賀守は城中からこれを見て、

「小笠原長智の武勇は兼ねてからよく知っている、うかうかと打ち出て戦うな、できるだけ間近く引きつけてから一気に追いたてよ」

 と静まりかえっている。

 寄せ手が、ひたひたと城壁に近づいたとき、突然、弩窓を開けて激しく射たてた。

 大力の小笠原は、馬上からを散り散りに射っていたが、逆に深手を負ってしまった。そこに河邊讃岐守が真っ先に押し出して、小笠原隊の数人を討ち取ったので、小笠原勢は温湯に向けて退いた。

 

風雲温湯城(ふううんぬくゆじょう)

 石州出羽(いずは)合戦 

 

 永禄元年(一五五八)春、山椿が冬の終りを告げるかのように群生している。木々の若芽がふくらみ桜もつぼみが大きくなってきた。そろそろ本格的な春を迎えようとしている。

 このころ、福屋、周布(すふ)、吉見、三隅、益田は毛利の軍門に降り、小笠原長雄(ながかつ)が尼子方として毛利と対陣していた。

 二月の初め、小笠原家臣団に緊急の出陣命令がでた。芸州日山城(ほのやまじょう)の吉川元春が一千余騎の軍勢を率いて石見国へ侵入し出羽へ屯営しているという。まもなく温湯城に攻め寄せてくるらしいのだ。

「小笠原長雄は、その父長徳の代から長年にわたって吉川家に親昵を尽くされていたのに、いつしかその義を忘れ、尼子晴久に一味しているのでこれを退治するため」

 という名分を掲げ、芸州郡山城の父元就にさきだって出発したものだという。

 元就は、石見国征服にあたり、毛利家と姻戚になる小笠原長雄は、まっさきに講和に応じるものと確信していた。ところが益田、福屋とも毛利の軍門に下ってきたにもかかわらず、依然として刃向かってくる。ついに小笠原攻略を決めた。

 

「出羽元實が三百余騎で一番に駆けつけ、福屋隆兼も一千五百余騎を引き連れて合流した」

 温湯城へ物見の報告が次々とはいってくる。

 時を同じくして、雲州須佐高矢倉城の本城常光からの軍使が温湯城に来た。

「元就数万騎にて近日当国へ出兵し、まず、温湯城を攻め、その次は、わが城を攻めようとしているよし聞こえている。そのために、元春は、わずかの軍勢で上出羽に屯営している。今、貴方と私が一手になって合戦すればたやすく切り崩すことができるであろう。といえども互角の勢では、勝利危いこともあろうかと思われるので、『多勢をもってやすやすと追い崩そうと思う』と、早打ちをもって尼子修理太夫(晴久)殿へ注進したところ、牛尾遠江守、湯信濃守に五千余人を相添えて当地へ差し出すとの返事があった。小笠原殿もその節には上出羽へ御出兵されたい、両方より挟んで元春を討ち取ろう」

 軍使から渡された手紙を読んで、

「その約が成るのを待っていた」

 小笠原長雄は、おおいに喜んだ。

 二月十七日(新暦三月七日)、小笠原・本城隊と牛尾、湯隊は、合わせて八千余騎の勢を二隊に分けて、本城、小笠原隊が三千余騎で一番に、二陣は牛尾、卯山、湯隊の雲州勢五千余騎という陣立で、上出羽に向け進発した。

 吉川元春率いる芸州勢も福屋隊が一千五百で先陣を取り、二陣は、吉川元春が一千余騎、出羽元實は三百人ばかりで、一陣もしくは二陣の劣勢となった部隊を救うため遊撃隊となって控えた。

 福屋隆兼の子、彦太郎は寡勢なので木の柵を結ばせ、これを盾として待ち構えた。

― 福屋隊が先鋒か。

 この年、二十五歳になった福冨七郎左衛門尉明尊は、前方のススキ原に対峙する隊列を見ていた。

―少ない、こちらの半分ほどでしかない。

 明尊の四ッ地蔵城は、福屋領との国境にあって四代にわたり侵攻を阻止してきた自負がある。

―福屋の戦法を知り尽くしている。

「福屋は、それがしが討ち取る」

 明尊の血がたぎる。

 悍馬にまたがった明尊の両眼が炯々と光ってきた。

 小笠原、本城隊が喚声を挙げて突撃した。

 福冨党を率いた明尊が福屋彦太郎隊めがけて真っ先に突き進んだ。

 福屋彦太郎隊が木柵の内側から矢先を揃えて応戦する。木柵は意外に堅固だった。馬で飛び越えることができない。木柵を挟んでの突き合いとなっている。

「柵を倒せ」

 明尊が馬上から下知する。足軽が縄を木柵に掛けようとしているが、福屋隊の反撃にあってうまくいかない。

 そのとき、福屋隊の福屋越後守、小林大和守らが本城隊の横から矢先を揃えて激しく突き入れ、本城隊が浮足だつのを見て、まっしぐらに掛かってきた。

 本城隊はたまらず後退しはじめた。小笠原隊も後退せざるをえない。

「退け」

 明尊が福冨党をひとまず退かせた。すかさず雲州勢の牛尾遠江守一千余騎が本城、小笠原隊と入れ替わったので福屋隊が劣勢となった。ここで、芸州勢は出羽元實三百余騎が助けに入って両軍入り乱れて激しい戦いとなった。

 混戦となれば多勢が寡勢を圧する。徐々に雲州勢が優勢となってきた。

 その勢いに乗り、卯山、湯隊四千余騎が吉川元春の本陣へ切りかかった。

「突っ込むぞ」

 ひと息いれた明尊ら福冨党も激闘のなかに突入した。

 辰の刻(午前八時)ごろから午の刻(十二時)ごろまで熾烈な戦いを展開したが敵は崩れない。

「味方は敵の三倍ぞ、一気に押し込め」

 明尊の声もかすれてきている。敵も味方も疲れ果てている。

 そのとき、吉川隊の後方から喚声が挙がり、新たな軍勢が突入してくるのが見えた。

「敵か、味方か」

 両軍が注目した。

 明尊は、押し寄せて来る軍勢の旗をみた。三巴の紋だった。

―味方ではない・・・敵だ。

 小笠原、本城隊の失望に反して、芸州勢は、三巴の紋なら小早川隆景か杉原盛重だということを確信しておおいに喜び勇んだ。

「ウオーッ」

 芸州勢の喚声が力を盛り返している。

 杉原盛重隊だった。盛重は去る正月に毛利家の後押しにより家督相続したばかりで、吉川元春の魁となるべく備後国から八百余騎を引き連れて出発していた。その道中で多くの出雲勢が本城の館へ着いたことを聞いて、合戦がはじまる前に馳けつけようと、終夜急いで馳け、出羽表に着いて見ればすでに合戦がはじまっていたのだ。

「吉川の陣へは吉田から加勢が来た」

 雲州勢が逃げ腰になってきた。すかさず、元春が采配を打ち振って先頭に立って攻めてきた。

 雲州勢は耐えられず引き下がったが、小笠原、本城隊はなおも踏みとどまっているところに杉原隊が横合いに殺到してきたので、たまらず押し崩されて引いていく。

 追撃する吉川、杉原隊に小笠原、本城、雲州勢は百五十人余が討ち取られた。

 吉川、杉原隊は、四、五町(四、五百メートル)まで追いたてたが雲州勢が多勢なので深追いを避けて引き返し反撃に備えた。

―敵は、味方の半分もいないではないか。それに負けるとは、あまりにも不甲斐ない。

 明尊の慙愧は、そのまま小笠原隊全体のものだ。

「反撃するぞ」

 小笠原隊が態勢を整えたが、数十町(数キロ)も退いた雲州勢は、敵には吉田から続々と応援が駆けつけていると聞いて、その後は、戦おうともしなかった。

 吉田へも雲州勢が石州へ打ち出したと注進がきたので毛利元就は熊谷伊豆守、熊谷兵庫助、三須筑前守、天野民部太輔、山縣筑後守ら三千余騎を加勢として急遽出発させた。益田越中守、佐波常陸介等も二千余騎で馳けつけた。

 牛尾、卯山、湯隊は大田まで退いて、本城は自城に入って地の利を活かして敵を防ぐこととした。こうなれば、小笠原隊独自ではいかんともしがたい。温湯城に籠らざるを得なかった。

 その後は、両軍とも攻勢にでなかったので戦にはならなかった。

 まもなく吉川元春ら芸州勢は引き上げていった。

 毛利の小笠原攻略は失敗に終った。しかし、小笠原家にとっても、大敗を蒙った戦であり、毛利一族の力をまざまざとみせつけられた戦だった。

 

 三月七日、小笠原方の寺本伊賀守、寺本玄蕃允、河邊讃岐守ら四百余人が籠っている日和城に、『敵方の山縣小七郎が三百余騎で山吹城を出て、周辺の民家に放火している』との注進がはいった。大森銀山の山吹城には、毛利元就の家臣束賀山城守高畠源四郎の両人と検使役として吉川元春から遣わされた山縣小七郎が籠っていたのである。

「こしゃくな、山縣め」

 寺本伊賀守は、山縣小七郎を討ち取るべく軍勢を繰りだした。山縣小七郎の帰路を塞ぐように山陰、薮原に兵を隠し、二百人ばかりを率いて、山縣小七郎の後を追った。

 日暮れになって引き返そうとした山縣小七郎が、追跡してくる寺本隊に気づいて防戦しようとするところに、山陰、薮原の伏兵が五十騎、三十騎と喚声を挙げて挟撃した。

 四方八方から攻撃を受け、思いもかけぬ奇襲に狼狽した山縣小七郎の兵は、いたずらに騒ぎ立てるばかりで堪えられず逃げていった。山縣小七郎も四、五町(四、五百メートル強)まで逃げたが寺本隊の追撃が激しく、味方の兵が多人数討たれているので、ただひとりひき返して数百人の寺本隊を相手に激しく戦った。けれども、援護する味方は無く、多勢のなかに取り囲まれ傷つき力を失ってきた。

「あっぱれなる武者よ。それがしが相手になろう」

 寺本伊賀守は、山縣小七郎を雑兵に首を取られるという武士の恥辱から救ったのである。

「ありがたき、武士のなさけ、いざ尋常に…」

 山縣小七郎は、最後の力を振り絞って槍を繰りだしたが、たちまち寺本伊賀守に突き伏され首を取られた。

 山縣小七郎の兵も四つの首を討ちとっていたが、大将が討たれたので我先にと逃げていった。

 

お夕の結婚

  弘治三年(一五五七)春、室神山に霞みがかかっていた。

 小笠原氏と佐波、福屋勢との熾烈な戦いは続いている。

 緊迫した毎日が続いていた。

 刀の手入れをしている本丸館の庭木に小鳥が集って、せわしなく動き回っている。

 春日和が戦いに明け暮れる明尊の心を癒してくれる。

 久しぶりにゆったりとした気持を持っていた。

 母の由貴から来客の知らせをうけた明尊は三の丸館に下りた。

 八神屋與次郎兵衛だった。

「やー、叔父御」

 気安く挨拶をしながら部屋に入った明尊が與次郎兵衛の背でうつむいている夕をみて、おもわず大声をだした。

「お夕か、きれいになったのー」

 あざやかな濃紫の着物に野菊柄の帯を締めた夕の姿は、ややふっくらとした顔の白い肌をきわだたせ、ぬけるような美しさだ。

 長い髪を背で結び、一輪のつつじの花が無造作にそえられている。夕は、まぶしいほどに艶やかに輝いていた。夕をみつめる明尊の眼が戸惑っていた。

「いまが一番いいときですから」

與次郎兵衛がにこにことしている。

「というと結婚の話でもあるのですか」

 母の由貴が夕の顔をのぞきこむようなしぐさをした。

 夕の紅く染まった顔がうつむいた。

「そうです。いい話がまとまりましたので、ご報告にあがりました」

「それは、めでたい。それで、婿どのは誰ですか」

「博多で巾広く商いをしている内田屋孫兵衛殿の息で千太郎と申します。内田屋は商い仲間でして、八神へもしょっちゅう来ます。なかなかいい男です」

「博多ですか、遠い…。母のさちが寂しがるの」

 ふと、明尊の胸に寂寥感がよぎった。

「さちも一緒に来てくれと先方も言ってくださるのですが、さちは八神屋に残りたいと申しております」

「一緒にいけば夕も心強いのにの」

「さちのことですから、自分まで迷惑をかけられないと遠慮しているのでしょう」

「さちらしいのー…それにしてもお夕、よかったのう。母と別れるのはつらいであろうが、女は結婚するのが一番じゃ…母も喜んでおろう。」

 夕がふかぶかと頭を下げた。うなじから背にいたる白い肌が艶やかに輝いていた。ふと、一瞬、明尊はたじろぐ思いがしていた。

―このまま別れていいものだろうか。

 己の哀しみが、そこに見えたような気がしていた。

「ありがとうございます」

 夕が言ったようだが、あまりにも声が小さすぎて明尊の耳には届かない。

 夕が四ッ地蔵城へ来たのは初めてだった。明尊も叔父と会うときは城の主殿をさけて私的な館で会うことを常としていたが、夕にとってはその区別がつかない。城内へ入ったということで平常心を失っているようにも見えた。與次郎兵衛の背に隠れるように縮こまっている。

 声もいっそう小さくなっていた。

「お夕そんなに固くなるな、小さいときは兄のように慕ってくれたではないか。儂が行くとすぐ手をとりにきたぞ」

 うなじを真っ赤に染めてうつむいている夕を、かばうように與次郎兵衛が話し出した。

「夕は、わたしどもの娘として嫁がせます。八神屋の舟を豪壮に仕立てて送り届けますよ」

 與次郎兵衛の眼が細くなった。

「それは、ありがたい。儂からも礼を言います」

「わたしも久しぶりに舟に乗ることになります」

「そうですな、ご嫡男に跡目をゆずられてからは、あまり海へ出てないでしょうから」

「お夕、これを譲りましょう、お夕は商家へ嫁ぐのだから、このようなものは必要ないでしょうが、タンスの底にでもしまっておくがいい」

 明尊の母由喜が帯びに差してあった懐剣をさしだした。紫の袋に入れられた懐剣をみて、驚いたのは明尊である。

「母上、それは」

 明尊のことばを手で制した由喜は、

「これは、わたしが嫁に来るとき、母が持たせてくれたものです。幸いに今まで使うこともなく来れました。ですが、これを持っていると気が落ち着きますよ」

 恐縮して手が出せない夕に強引に持たせた。

「お夕の父茂吉は郡山城攻めの合戦で、わたしの夫相安を助けようと、己の身を楯として一緒に死んでくれました。今も天国で二人して、お夕を見守ってくれているでしょう、わたしがこの懐剣を、お夕に持たせようと思いついたのは、相安の意思だと思います」

「母上、ありがとうございます。急のこととて儂には思いつかなかったことです。夕、遠慮せず頂け、いいお守りになるぞ」

 両ので受け取ったものの、どうしたものかと迷っている夕に代り、由喜が夕の帯に懐剣を差し入れた。夕のほおを大粒の涙がながれた。

 與次郎兵衛がふたりのやりとりを笑顔でみつめている。

 明尊は夕と初めて出会ったときのことを思い出していた。山奥の一軒屋で三歳の女児が一日中ひとりで母親の帰りを待っていた。狼や山犬の多い山中のことであり戸外に出ることもできない、一日中、薄暗い家の中にいた。そういう毎日を過ごしていたという。

 さちと夕を預けたとき與次郎兵衛は、『ものずきな』と思ったらしいが、明尊には見過ごすことができなかった。

―よかった。

 明尊がつぶやいた。夕には、幸せになってほしいと思った。

 それにしても…明尊は心の底に漂う名状しがたい寂寞をもてあましていた。

 

この年弘治三年、明尊も結婚した。妻の名を、さよという。越堂清左衛門の娘である。 

 城のすぐ近く五町ほどのところ、室神山登山道入口近くに清左衛門の屋敷がある。

 毎朝、屋敷の前を通って室神山に登っているのだが、さよを見たこともなかった。

 結婚式の夜、城門を潜る花嫁の横顔を、三の丸の塀に身を隠して覗ったのがはじめてであった。

 翌永禄元年(一五五八)、明尊の嫡男昌康が生まれた。

 

 

四ッ地蔵城の戦い

 弘治元年(一五五五)四月十六日(新暦五月六日)払暁、河上(かわのぼり)村の渡しを軍勢がぞくぞくと渡っているという知らせが入った、三千人余いるという。

「そのなかには福屋氏の幟があります」

「福屋どのじきじきのお出ましか」

「間違いありません」

 福屋氏の当主隆兼が陣頭に立って小笠原領に侵入したとなると、これは容易なことではない、これまでのような国境の小競り合いとは違う。一国一城の生死を問われるほどの戦いを覚悟していることとなる。福屋氏も、本腰をいれて戦うつもりのようだ。 

 明尊の指示を受けた伝令の士が御屋形のもとへと走った。

 さらに明尊は三人を一組とした物見(斥候)を二組出した。一組は敵の本隊追尾用であり、一組は四ッ地蔵城に向かって来つつある別働隊に密着して情報を集める為である。三人のうちの一人が敵に密着しながら張り込みを行って、敵の行動パターンを探り、あとの二人が伝令として走る役目をもっていた。

 同じ頃、緊急の招集を受けて四ッ地蔵城にも軍勢が飛びこんでいる。

城内が慌しくごった返してきた。

 本丸では甲冑すがたの明尊が、おもだった郷士らと軍議を開いていた。

 長良村に上陸した敵は、その勢を二手に分けて三百ほどが四ッ地蔵城に向かっている。

 すでに市村辺りまで来ているという…一里ほどの近距離だ。四ッ地蔵城が標的にされたことは未曾有の危機である。

「三百か…三百では、この城はとれまい。抑えとして残したのだ。儂を城に閉じこめて他の小笠原方武将が拠る城に本隊を進めたにちがいない。ならば、この城を潰すという気迫はないだろう、橋は落すな」

 圧倒的優勢な敵に攻められて濠にかかる橋を落すことは「籠城して徹底交戦をする」という意志表示を内外の将兵に知らしめる手段でもある。

「三百ぐらい、なにほどもあろう。殿、ただちに出陣して蹴散らしましょうぞ」

 重臣の山田重兵衛が口角泡を飛ばして息巻いている。日焼けした赤ら顔が黒ずんで見えた。今は年をとってしまったが若い頃の彼は、戦で常に先頭に立って働いていた。

その姿は実にみごとだった。泰然と死地に飛び込める男である。

「いや、わが領内での戦は極力、局地戦でいくべきだ、この城に引きつけて城の攻防に導く、領内の田畑を戦で蹂躙してはならない」

 だが三千人の福屋勢が一気に攻めて来たならば、わずか百名余りしかいない四ッ地蔵城は苦戦を強いられる。そのときは三の丸をすて、本丸と二の丸で戦うことになる。 

三の丸に敵を誘い込む。

本丸、二の丸へは急峻な崖となっているから、敵は、右往左往する。

そこへ、本丸、二の丸、見張台、大門等から逆落としの反撃を食わせて撃滅する。初代治堅が精魂を込めて築いた堅城である。敵が三百しかいないのなら、その必要もない。

 城内は生気がみなぎり、闘志が湧きあがってきた。

「いや、本隊が何処へいくのか見極めてからだ」

 明尊は悠然とかまえて動こうとしない。

 物見からの伝令が次々と入ってくる。

「敵の本隊は江川北岸を遡上し、田窪村の寺本伊賀守さまと対峙して川岸に陣を張っています」

 伊賀守も小笠原家臣である。

「敵は、この城と日和城を一気に潰すつもりでしょうな」

「いや、儂を封じ込めておいて日和城を潰すつもりだろう。それから御屋形さまを攻めるつもりだろう」

 道順からいえば、まず、四ッ地蔵城を潰してから日和城にいくのが筋なのだろうが、日和城を攻めたとなると福冨七郎左衛門の力をみくびったということだ。

 忠左衛門が小癪なといわんばかりに肩を怒らしている。

「三郎左衛門どのはどうしている」

 明尊が日和城へ馳せ参じるとなると、都治村の佐々木三河守と田中三郎左衛門が気になる。二人とも福屋方の有力武将である。明尊がうかつに動くとたちまち背後を突かれる。

小笠原氏と福屋氏とは姻戚関係にあり、これまでは諍いが起きることなど一度も無かった。あくまで親和と共生にある。とはいえ、今度のように小笠原、福屋両家が相争うことになると、三河守と三郎左衛門も過去の友好に蓋をして戦わなければならないだろう。

「いまのところ静観していますが、やがては福屋氏に味方するでしょう」

「日和城の会戦は明日の朝になるものと思われます」

「こちらへ向かってくる敵は、物見も出さず、ただ、ぞろぞろと歩いているだけです」

 敵は、われわれを牽制するだけの示威行動だけで済ますつもりらしい。

「よし、兵たちの腹ごしらえを済ませておこう」

 物見の報告を分析していた明尊が立ちあがった。

 

 三の丸を開放して兵らの飲み食いがはじまった。戦いを前にして気も高ぶっているのであろう、ワイワイガヤガヤとなかなか賑やかだ。

 明尊には、ひとつだけ気になることがあった。都野駿河守の動向である。四ッ地蔵城の南方一里のところにある仙本崎城の城主である。都野氏は鎌倉時代末の嘉元二年頃、石見に入部したといわれている。南北朝の争乱では福冨七郎判官とともに南朝方として働き、後に都野氏は北朝方に付いたが、福冨七郎判官は南朝方として壮絶な最後を遂げた。

都野氏が北朝方に付いたときには、すでに石見諸士のほとんどは北朝方に付いたあとであり、その時期を失していたたため、室町時代には小笠原氏や福屋氏のような大名にはなれなかった。だが、戦国時代になって盛り返し、川上、田野、多田、大島、小林、月森、横田、山藤と都濃郷に所領をもっている。

 一時期、小笠原氏の傘下に組み込まれていたこともあったが、今では小笠原氏や福屋氏とも一線を隔して、その地位を保っている。

都野氏は福冨に対して、常に親昵の間柄を崩さなかった。そんな都野氏のことを明尊は、畏敬をもって接してきた。

 都野氏が、こたびの戦でどちらに加勢するか気になるところだが、

―ここは、どちらにも付かず、静観してほしい。

 明尊の願いであった。

 濠の外側に敵勢が粛々と集まっている、いやに静かだ。

 わずか三百余とはいえ、城前面の狭い谷は敵の将兵で立錐の余地もない。

 敵ながら林立している旗指物が壮観だ。

 

 その夜、重兵衛と喜兵衛の指揮する二十人が城の西側掘割に出る間道を抜け出て、敵の側面にまわった。四ッ地蔵城へ来てからは、明尊の剣術指南に専念し、戦場へ出なくなった重兵衛にとっては久しぶりの出陣である。重兵衛は、いちど被った兜を脱いで白髪の目立ち始めた頭に赤い布の鉢巻をした、凄まじい気迫がみなぎっている。

「では、殿、御武運を。」

 出陣の儀礼として交わす言葉に、少しの乱れもない。

「お頼み申す」

 明尊が慇懃に送りだした。

 重兵衛らは狭い谷間の其処彼処で燃えさかっている福屋軍の篝火を巧みにかわしながら闇に消えていった。

 さらに忠左衛門率いる二十人が東側の山を越えて敵の背後にまわった。

 二隊は闇にまぎれて敵に気づかれることなく、それぞれの配置についた。

 朝、暗いうちに朝餉を済ました明尊は、いまだ夜の明けきらぬ薄やみのなか、本丸の一角に奉じてある四ッ地蔵尊にお参りして戦勝を祈願した。

 手燭の灯りが、暗い御堂の中で正座している明尊と妻のさよを照らし、長く延びた影が壁で揺れている。外は意外に静かだ。

「ご武運を」

 さよが静かに明尊の前に両手をついた。

 自分の城が攻められている。今まで経験したことのない危機に直面している。まさに危急存亡の秋(とき)なのだが、さよの心に乱れはない。たんたんと運命に身をまかせている。

 だが、白い顔にわずかではあるが緊張の気配が現れていた。

 万が一、四ッ地蔵城落城ということになれば、明尊とさよは城に火をかけて、この御堂で自決することになる。逃げまわって命ごいをするような明尊ではないということを、さよは知っている。

 そのときは明尊にすべてを委ねる決意を持っている。それが、さよの顔に緊張として現れているのであろう。

「心配するでない、心配はいらん」

 明尊がうなずいた。

 御堂を出た明尊は縁側で大きく息を吸った。

 将兵を三の丸広場に集めた。

「これから、面白い戦術をみせようぞ」

 明尊が大音声で将兵を鼓舞すると力強く采配を振った。

 三の丸に林立していた百本の幟を、あらかじめ決められていた城の出入口三ヵ所と南北の塀際に二十本づつ移動させた。陽動作戦を展開したのである。敵の目を、この一帯に集めるためだ。

「見ろ、敵も我々の動きに合わせて移動しているぞ。我々が、どの出口から出撃してくるのか分らない敵は、すべての可能性に備えようとして兵力を分散させているのだ」

「一泡吹かせて見せるぞ」

 明尊の顔に気概が横溢していた。槍の穂先が星に煌いた。

 敵は三百人の兵を五ヵ所に分散させたため大門の備えは八十人しかいない。

 それぞれの部署に幟を移動させた兵が幟だけを残して帰ってきた。

「敵に、さとられなかったか」

「首尾よくいきました、敵は向こうで我々の出撃を待ち構えております」

 全兵力が明尊の前に集まった。

「皆も見るがいい、大門前の敵は八十名ほどしかいない」

「では次ぎの戦術に移れ」

 明尊の回りに精兵を十名だけ残して、越堂清左衛門に率いられた二十名が大門道の両崖上にある塀に隠れて配置に付いた。

「法螺貝を吹け」

 明尊の大音声が轟いた。

 明尊が槍をとった。

 ガチャガチャガチャと明尊の動きにのって甲冑が鳴っている。

 城主出撃の法螺貝が鳴り渡った。

「門を開けよ」

 馬上の明尊が命じた。

 明尊の声音に少しの変化もない、平常心である。その姿は、なんともいえない威風があった。

 四ッ地蔵城の大門がきしみ音を立てながら開いた。

 城内の動きを察知した敵が、あわただしく動き出した。敵勢の法螺貝が鳴りわたり、甲冑や武具の擦れる音や馬蹄が谷間に盤踞している。

 まさか明尊らが城を出てくるとは思ってもいなかったのであろう、滑稽なほどあわてふためいている。

 明尊が先頭に立って群る敵勢の中に突進した。

「敵の大将が一番に突入してくる。」

 福屋勢にとっては願ってもない好機だ、明尊めざして我先に群った。

 槍ぶすまをつくって押し包み、明尊を打ち取ろうとした敵勢の中から、数本の槍が宙を飛び絶叫が走った。あっという間に数人の首が体を失っていた。

 明尊を頂点とした福冨党の将士が大岩に楔を打ち込むように、一塊となって槍を振るう。

 福冨党は、縦横無尽に動きまわる明尊にピタリと隋いて闘っている。

 敵の大軍が割れて力を削がれた。

 血飛沫が悲鳴とともに飛び交う。

「よし、これでよい。退くぞ。鉦をならせ」

 明尊が馬首を返し大門の中に走りこんだ。

 福冨党の将兵が算を乱して城内に逃げ込んだ、と敵兵には見えた。

 それっとばかりに敵兵が群って大門を襲ってきた。

 明尊の合図を受けて弓弦がキリキリと大門に反響した。

 このとき福屋勢は大門の望楼に、ひときわ煌(きら)めく女武者を眼にして立ち止まった。さよの勇姿であった。赤紫の小袖に朱糸威(あかいとおどし)の鎧を着け、額(ひたい)には白銀の天冠が鈍く光っている。いまだ明けきらぬうす闇のなかで神々しく輝いていた。あまりの美しさに見惚れて立ち止まった福屋勢めがけて、さよの強弓がうなりをあげた。侍大将がもんどりうって倒れた。さよの放った矢は過(あやま)たず、侍大将の眉間を貫いていた。

「おー」

 望楼から歓声があがった。

「放て」

 清左衛門の号令に弓矢が風を切って飛び出した。大門前に群っている敵兵を両崖の上から狙い射ちでしとめていく射撃は的確だ。

 一方的な殺戮となっている。

 濠の橋を渡って大門へ殺到しようとしていた敵勢が至近距離からの矢を受けて、次々と斃れていく。

 敵兵を襲う矢は大門の望楼と大門道の両側崖の上からと間隙なく続いた。

 敵は狼狽し、うろうろするだけで反撃もできず地に伏した。

「今こそ総力を挙げて戦うときぞ。福冨党の力を見せようぞ」

「おー」

 喚声を挙げ弓を槍に持ち替えた福冨党の将士が明尊を頂点とした突撃態勢を組んだ。

 明尊率いる本隊四十人が大門から打ち出た。

 将兵の血をたぎらせる法螺貝が鳴りひびき、角立て四ッ目結いの大将旗が高だかと掲げられた。陣太鼓が打ち叩かれている。

「見ろ、敵は何の策もとらず、団子になってむかってくるではないか。敵に作戦なし、勝ちはわれにあり」

 明尊の哄笑が谷間に轟いた。

 まさにそのとき、後方から敵を包み込むように法螺貝が鳴り渡った。

「なにごとだ。」

 敵勢が耳を澄ませるまでもなく、暁闇のなかから湧きあがるように、重兵衛と忠左衛門の隊が敵の側面と背後から猛然と襲いかかった。

 敵勢のなかを、叫喚がうずまいた。

 両軍の鬨の声、雄叫びが狭い谷間を圧した。

 三方から攻撃を受けた福屋勢は、たちまち戦うことを放棄して逃げだした。

「追え、敵に膚接して追え、間隙を与えるな」

 福冨党の軍勢が逃げる敵に追い打ちをかけて討ち取っていく。

 逃げ送れて濠に落ちた敵兵が泥沼に足をとられて立ち往生したところを、城内の兵が狙い打ちで矢を放って仕留る。初代治堅が築城の際に勝負留めとして構えた底無し沼の濠だ。

 ひとたび入ったなら、たちまち自由を奪われる。弓での狙い撃ちは静止した的を射るのと少しも変わらず容易い。

 濠のなかを血が走り、泥水が赤く染まっていった。

 

 やがて、敵の首級を取った将兵らが意気揚々と集まってきた。

 それらの首級を記録するのももどかしく、明尊は重兵衛隊を城に残して馬首を日和城に向けた。

「さあ、これからが本番ぞ。戦いが終わるまでに行かねばならん」

「田窪村では、まだにらみあったままです」

 物見が連絡してきた。

「こちらのことは、まだ気づいていないだろうな」

「だいじょうぶのようです。敵の目は前面の日和城に集中しています」

「そうか、こういうとき、われわれのような小勢は便利だの、相手に気づかれにくい」

 明尊らは住郷村の天満宮境内で小休止とした。ここなら戦端を開いてから動けば丁度いいころあいに突入できる。

「火は使うな、ただちに出発できるよう心して休憩しろ」

 明尊の下知が、全員に伝えられた。

「殿の采配、みごとですな」

「孫氏の兵法を実践してみただけだ」

「孫氏ですか、すばらしい兵法ですな」

「孫氏の兵法は、戦う気のない百姓らをいかにして戦わすか、ということに尽きるさ。儂らも見習うことは多い。儂らも郷士連中の戦う気を如何にして起すかということに頭を悩ませているからの。今回は、たまたま、うまくいったということだけだ」

「それがしも、郷士の端くれですが」

 佐々木喜兵衛がニタリと笑った。戦を前にした緊張というものが全く顔にでていない。

平常心そのままの喜兵衛であった。

「この分なら一戦も交えずに勝利ということもありえる」

「戦わなければだめだ。戦って高名を得てこそ、武士の本分というものだ」

「殿は、戦となればあいかわらず剛毅だ」

 忠左衛門が満足そうにうなずいた。

 

「始まりました」

 物見が大声で叫びながら疾駆してきた。

 日和城の方角から凄まじい戦闘の響が聞こえる。

「よし、行くぞ。儂に続け、敵の背後を衝く」

 愛馬に飛び乗った明尊が先頭に立って突撃していった。

 日和城下の田窪村では小笠原勢と福屋勢が激烈な戦いを展開していた。まさに、そのとき、福屋勢の後方から福冨党が突入して挟撃したのだ。

 現在においても『横槍をいれる』ということばが残っているように、戦国時代の戦において、軍隊は前面の敵には強いが、側面や後方から攻撃されると脆(もろ)く、たちまち崩れてしまうことが多かった。

 福屋勢は、ほうほうの体で逃げ去った。

 

 

 しかし、福屋勢の侵入は執拗になるばかりである。

 

 四月下旬、温湯城を攻めようと侵入して来た福屋勢を小笠原勢が川越の田津で迎撃撃退した。

 福屋勢の小笠原領侵入は毛利の命によるものだ。毛利は、福屋、出羽、佐波らに命じて小笠原包囲網をかためつつあったのだ。

毛利元就は、なんの名分もなく、小笠原領への侵入を画策している。これを討たねば武家の面目が立たん」

 小笠原勢は、尼子の後援を受けて、毛利領内の侵食を始めた。

 

 弘治二年(一五五六)三月十八日(新暦四月二十七日)、元就の次男吉川元春が石見へ侵入してきた。

 小笠原勢は、からくも撃退したが、大森銀山を取られてしまった。