福冨七郎左衛門尉疾風録

石見国浅利村・四ッ地蔵城主福冨氏5代録

筑前立花城

 永禄十一年(一五六八)七月中旬、またしても出陣命令がきた。

 筑前立花城主立花鑑載が大友義鎮(宗麟)に叛旗を翻し、毛利家に庇護を求めてきたためである。毛利元就は伊予から帰ったばかりの小早川隆景吉川元春に出陣を命じた。

 これに呼応して古処山城主秋月種実や宗像神社大宮司宗像氏貞肥前五ヵ山城主筑紫広門、佐賀城主・龍造寺隆信らも毛利方についた。

「こんどは、九州だ」

 四国から帰ったばかりというのに次は九州だ。

「戦場が遠いのー」

 明尊のため息はとどまることを知らない。武将たる者にとって合戦は家禄を上げる絶好の機会である,喜ぶべきなのだ。にもかかわらず、霧のように湧き立つ物憂いさはどうしょうもない。

 

 毛利軍が九州に出兵した。新兵器の鉄砲を巧みに使った毛利軍は破竹の勢いをみせつけたが、間に合わなかった。七月二十三日(新暦八月十六日)、立花鑑載が大友義鎮によって攻め滅ぼされたのである。

 立花城を救援できなかった毛利軍は、豊前の三岳城に猛攻を加えて陥落させた。

三岳城主長野弘勝は毛利方から大友に寝返り、毛利軍と立花城との連絡、補給を断ち切り、それがために立花城が落ちたのである。毛利軍は長野弘勝を自刃させた。 

 毛利軍は永禄十二年(一五六九)五月三日(新暦五月十八日)、筑前立花城を攻め、一ヶ月に及ぶ激戦の末攻略、奪還した。

 ところが同年八月、出雲で尼子勝久を擁立した山中鹿之助が挙兵した。織田信長の後押しを受けての蜂起だった。

 さらに、大友義鎮の女婿大内輝弘が、毛利の新領山口を衝いた。

 これでは、遠征どころではない、自国を固めなければならない。

 十月十五日(新暦十一月二十三日)の深夜、毛利軍は北九州から撤退した。

 撤退となれば敵軍は追撃してくる。殿軍(しんがりぐん)は、吉川元春が受け持った。

 

 吉川隊は、いつでも敵に向って攻撃できるよう戦闘隊形をとったままの陣形で、一糸乱れず粛々と退いて行く。

 あまりにもみごとな退却に、敵は追撃することさえできなかった。

 

 十月二十一日(新暦十一月二十九日)、吉川元春は大内輝弘を討つため山口へ出陣、二十五日に浮野峠で大内軍を破った。輝弘は自殺した。

 

 永禄十二年(一五六九)十二月九日(新暦一月十五日)、小笠原十四代当主長雄が死亡した。嫡男長旌が十五代を継いだ。

 

 元亀元年(一五七〇)、毛利輝元を大将として吉川元春小早川隆景らが出雲に出陣、挙兵した尼子勢を攻撃し壊走させた。

 この戦いに明尊は十三歳になった嫡男昌康を初陣させた。

 

 畿内では、織田信長朝倉義景を攻めていた。

 

 同年二月十四日(新暦三月二十日)、布部合戦で尼子勢を撃退。十五日輝元が富田城へ入城した。

 

 九月五日、毛利輝元小早川隆景、出雲より帰陣し病床についた父元就を見舞った。

 

 元亀二年(一五七一)、六月十四日(新暦七月六日)毛利元就が没した。

 

 東では、天正元年(一五七四)四月十二日、信州駒場において信濃の猛将武田信玄が五十三歳の生涯を閉じた。

 

 天正二年(一五七五)備前守護代浦上宗景織田信長の後援を受け、毛利氏と戦った。浦上家臣の宇喜多直家は毛利についた。織田と毛利の代理戦争といわれる。

 

 天正三年(一五七六)五月、三河国長篠の合戦があった。天下無敵といわれた武田騎馬軍団が壊滅したという。織田信長が発案した鉄砲の三段構え速射に潰されたという。

 

 

伊予・大洲城(大津城)

 永禄十一年(一五六八)三月四日(新暦四月一日)、吉川元春小早川隆景らは伊予大津の宇都宮豊綱に攻められている湯月城河野道直を救援のため伊予に出陣した。

 河野道直は十二年前の厳島の戦いに毛利のために働いた伊予水軍の一族である。水軍は強力であるが陸上での軍は苦手であった。宇都宮豊綱には、四国統一を狙う長宗我部が後押しをしている。毛利としては、なんとしても救援する必要があった。

 毛利軍は福原貞俊を名代とし、吉川元春小早川隆景宍戸隆家らが四月二十二日(新暦五月十八日)に、伊予の道後に上陸した。石見勢の小笠原、吉見隊は隆景配下に、佐波、益田、波根、出羽らは元春配下となっていた。

 毛利軍の援護を得た河野道直は父河野道宣とともに宇都宮の支城を次々と攻略し、たちまち大津城を包囲した。

 このとき、宇都宮の援軍として西園寺公広が出陣してきたが、毛利軍は、難なく撃退した。

 いよいよ大津城攻略の戦端が開かれようとしている。

 小早川勢が大手門から、吉川勢が搦め手から攻撃することとして布陣した。ところが、勝ち目のないことを悟った宇都宮豊綱が降伏・開城し、西園寺公広も和平を求めてきた。

 伊予を平定した毛利軍は、河野道直による伊予の支配体制を整えたあと安芸に凱旋した。

 

 明尊が四ッ地蔵城に帰り着いたのは五月下旬であった。

 庭の池で鳴くかえるの声がなつかしい。座敷に大の字になって寝ころぶ明尊の体から緊張がほぐれていく。

 すでに三十五歳を越えている明尊にとって、遠征につぐ長陣は体に堪える。

― 温泉津の湯に行って、しばらくのんびりとしようか。

 久しぶりにゆったりとした気持ちになっていた。

 

月山(がっさん)富田城(とだじょう)

 

 永禄五年(一五六二)七月、毛利元就は尼子氏攻略のため一万五千の兵を率いて吉田郡山城を出発、二十八日(新暦八月二十七日)には出雲の赤穴郷に着いた。ここで、三沢郷の三沢為清、三刀屋郷の三刀屋久扶、高瀬郷の米原綱寛、阿用の桜井入道、大東童山の馬田入道、牛尾の牛尾信濃守、白鹿の松田誠保ら出雲の国人衆が毛利に随いた。

 

 同年(一五六二)八月六日(新暦九月四日)、毛利輝元が備中、備後の守護に任命された。

 十一月五日、  尼子の驍将本城常光が毛利に寝返って大森銀山は毛利に渡った。 

 毛利元就は平賀山城守、高畑源四郎の二人を山吹城に置いて銀山奉行とした。

 石見全域が毛利に属した。

 これまで石見の国人衆は、それぞれが独立した領国を持ち、大内、毛利、尼子の勢力争いでは、そのときの有利な方に合力してきたが、毛利の家臣団に組み込まれてからは独立性は否定され、臣従することとなった。

 

 石見国内での戦がなくなり、四ッ地蔵城も戦略的価値がなくなった。

  

 永禄四年から五年にかけて出雲の大半が尼子を見限り毛利に随いた。

 毛利元就宍道湖北岸に洗合城を築いて攻撃の拠点とした。洗合城から月山富田城までは六里(二十四キロ)ほどである。

 

 永禄六年(一五六三)五月十八日(新暦六月八日)、毛利隆元が周防、長門の守護に任命された。

 毛利軍は月山富田城の防衛網尼子十旗のうちでも、第一といわれる白鹿城に対し永禄六年八月から攻撃にはいり七十余日かかって陥とした。白鹿城主松田誠保は晴久の姉の子である。尼子家第一の勇将といわれている。抵抗も強く毛利方も数百人の死傷者をだした。

 八月四日、豊後に出征中の毛利隆元が大友氏との講和を結んで出雲に転進の途上、備後の和智城主、和智誠春の饗応を受け、宿所の佐々部蓮華寺で急逝(享年四十一歳)した。隆元と誠春の夫人同士がともに内藤興盛の娘で姉妹であったことから、受けた饗応であった。元就は見るも無残に落胆していた。元就を取り巻く重役連中は、元就が絶望のあまり自分で相果てるのではないかと恐れていた。

白鹿城を弔い合戦と位置づけた毛利軍はすさまじい猛攻を重ね、ついに、十月十三日、要害堅固な白鹿城を陥落させた。

 輝元が十三歳で家督を継承した。

 永禄七年(一五六四)七月二十五日(新暦八月三十一日)、毛利元就大友宗麟と講和、誓約書を交換した。

 永禄八年四月、月山富田城の北西一里(四キロ)余りの星上山(四五四メートル)に本陣を進めた。

 四月十七日(新暦五月二十七日)から三万五千で月山富田城攻撃を開始した。

 城正面の御子守口には先鋒隊に横見、児玉、井上、粟屋、香川、木原隊五百人が陣を取り、その後方に庄原兵部、渡辺左衛門大夫、坂就清、粟屋元真、児玉就方、児玉就忠、口羽通好、志道元保、桂元澄、福原貞俊を前衛として粟屋元好、国司元助、内藤六郎右衛門、児玉四郎右衛門、天野元明、天野隆重、天野元定ら旗本勢一万五千に囲まれて毛利輝元毛利元就が全軍を睥睨している。

 これには、渡利元枝、飛落元吉らの指揮する鉄砲二百挺が、三段の構えで控えている。

毛利輝元はこのとき十三歳で初陣である。また、吉川元春の嫡子元長も初陣となる。

 対して御子守口を守る尼子軍は、細矢、河本隊二百人が前衛、中井駿河守、三刀屋蔵人、牛尾弾正忠、福山肥後守、吉田八郎左衛門ら一千人を第二陣とし、その後方に、熊野兵庫、吉田三郎左衛門、川副二郎左衛門、川副右京亮、黒田右京亮、馬田尾張守、津森四郎次郎、力石兵庫、平野賀兵衛、横道兵庫助、桜井入道仁斎、高尾右馬允、神西三郎左衛門、牛尾豊前守に囲まれた尼子義久が控えている。

 城の南入口にあたる塩谷口には、細迫、朝枝、森脇、須子、二宮、香川、笠間ら五百が先鋒隊、第二陣には山県、森脇、吉川、二宮、小笠原ら五千人、阿曾沼元景、熊谷高直、熊谷信直ら旗本衆を引き連れて吉川元春、吉川元長父子が采配をとっている。

 西の入口である菅谷口では毛利勢に米原綱寛、三沢為清、三刀屋久裕ら出雲国人衆が先陣をとった。彼らは、尼子十旗の一員であったが、すでに毛利方の主要戦力となっていた。尼子十旗も、三沢、三刀屋、赤穴、高瀬は、毛利の軍門に落ちたことになる。

 総大将毛利元就は総軍に、下知もなく、抜けがけした者は、かりに一番の功名があったとしても首を刎ねる、と堅く制法をだした。

 それでも、いきり立つ将には制止が効かない。あちこちから抜けがけがでた。

 御子守口では木原、香川、粟屋、児玉、横見など五百余騎が下知を待たずに突撃した。尼子方の細矢、河本が二百ばかりで迎撃に出て激しく戦った。

 寄せ手は多勢にものを言わせて強襲したから、尼子方は一気に潰れて城へ退いていく。力を得た毛利勢が追撃して行く。逃げる敵を追いかけ御子守口の坂にかかったとき、城の兵吉田、福山、牛尾、三刀屋、中井らが坂を挟む両側の山に鉄砲を揃えて一斉に撃ってきた。たちまち形勢が逆転した。横見、桜井が倒れ、香川の郎党四人、三須の若党三人が撃ち殺された。

「後陣の味方は続かず、今、ここに進んでいる兵には鉄砲の一挺もなく、ただ敵の的になって射られているばかりだ、一緒に連れてきた若い衆に手負いなどさせてしまっては、我一人の不覚だ。皆は、先に退きたまえ」

 木原が後に残って、皆の退却を援護しようとした。

「それなら木原どのが先にお退きください」

「いやいや、あなたこそ」

 香川、粟屋の二人が、自分が殿(しんがり)を受け持つから先に退いてくれと、お互いが譲りあってきかない。

 木原も再三辞したが埒(らち)があかない。

「お互いが譲り合ってばかりいても大人気ない、それなら我が先に退きましょう。しかし、おめおめと逃げるのも口惜しい」

 木原が近くの岩に走り上がって、やあやあ、我と一騎打ちをする自信のあるやつは、坂を下ってここへ来い。と呼んだが、敵からは、ただ、一本の矢が飛んできただけだった。

「臆したか、みぐるしいぞ、我とおもわんものは、ここへでてきて相手をしろと招いたが、ただ、遠くから矢を射るだけとは、我らの武威に怖れをなしたのであろう、見苦しいぞ、儂の言うことに口惜しいと思うなら、ここへきて手並のほどを見せたらどうだ」

これほどまでに侮辱しても、尼子方からは激しく矢が飛んでくるだけである。

「まだ出てこないか、尼子の臆病者どもこれでも食え」

 木原が、尼子方にむかって尻をめくり、二つ三つ叩いて見せた。

 尼子方も頭にきたのであろう、鉄砲を集中して撃ってきた。ところが、玉(弾)は当たらない。

「おまえらの鉄砲は、尻にさえ当たらないのか」

 木原は気が済んだのか、皆を連れて退き下がろうとした。

 尼子方からは、岩陰に見えなくなった木原が放尿でもしているのだろう、今のうちに近づいて討ち取れと追いかけてきた。

 木原が、岩陰から飛び出して一人を切り伏せた。ところが、敵は、どんどん集まり多勢になって追いかけてくる。

 これを見て、福原貞俊、桂元澄、桂元忠、志道広好、口羽通好、口羽春好、児玉就忠、児玉就方、坂就清、渡辺左衛門太夫、渡辺肥後守、粟屋縫殿助、粟屋内蔵允、庄原兵部ら三千余が斬りかかったので、先に退いた香川広景、三須隆経、粟屋彦右衛門、南方宮内少輔、木原兵部少輔、木原次郎兵衛、井上宗右衛門、蔵田市助、粟屋右京、児玉四郎兵衛らも引きかえし入り乱れて戦った。 

 尼子方総大将義久自らが打って出て、牛尾豊前守、神西三郎左衛門、高尾右馬允、桜井入道仁斎、横道兵庫助、平野賀兵衛、力石兵庫、津森四郎次郎、馬田尾張守、里田右京亮、川副右京亮、川副次郎左衛門、吉田三郎左衛門、熊野兵庫らを御子守口の谷口から出した。

 この戦で、毛利元就の孫輝元が初陣をはたした。元就の嫡男・隆元亡きあと、毛利家の頭領とした輝元を見つめながらも、

「隆元が生きていてくれたなら…・」

 元就の心は暗くなるばかりである。隆元の勇姿に比して輝元は、あまりにも脆弱であった。

 

 両軍は、四月十八日(新暦五月二十八日)、十九日の両日にわたって、攻防戦を展開した。これが、富田城下三箇所合戦とよばれるもので、双方千名近い死傷者をだした。

 その後は、毛利軍が強襲を避けて兵糧攻めによる持久戦法に切り替えた。

 毛利軍は、京羅木山(四七三)、石原山、滝山に向城を築いて包囲網を厳重にした。

 城の入口に、高札を立て城兵の降伏や脱走を許さなかった。兵糧攻めの効果を早めるためである。

 永禄二年から始まった富田城攻防戦はすでに六年を経過している。その間、周辺の郷民らによる妨害戦は数回あったが、いずれも小競り合い程度に終った。

 城内の兵糧もつき、餓死もでる状態になってきた。折はよしと、高札を取り除いた。

 将兵が城内から続々と退出してくる。尼子の有力武将牛尾豊前守、亀井秀綱、河本隆任、佐世清宗、湯惟宗ら重臣さえも尼子を見すてて出てきた。

 

 永禄九年(一五六六)十一月二十八日(新暦一月八日)ついに、尼子義久が降伏し、 月山富田城が開城した。

 最後まで籠城したのは、山中鹿介幸盛ら武人百十三名、僧衆二十数名、総計でも百四十人弱しかいなかった。

 

物不言城(ものいわずじょう)

 永禄四年(一五六一)七月、元春から、福屋隆兼に次男の二郎を孝鶴丸(輝元)の近習に差し出すよう督促された。人質要求であった。

隆兼は、これを拒否した。

 

 同年九月、福屋隆兼が家老の重富民部大輔兼雄一族を抹殺したという、まさに驚愕すべき事件が勃発していた。小笠原家臣亀山平四郎が知らせてきたものである。

 重富兼雄は、福屋氏のなかでも最強の兵力を誇り、福屋本城乙明城の東南の守りを固めている。重富を討てば福屋の勢力は半減する。それを、あえて断行した理由はなにだったのか。

重富が毛利氏と謀って福屋隆兼を攻めようとしていたらしゅうございます。それを察知した福屋氏が誅殺したという噂にございます。」

「誅殺か…」

吉川元春さまの命により、検使として派遣された、二宮木工助ら吉川の将兵六十人が、重富城へ到着するまでに始末したらしゅうございます」

「それにしても、重富は福屋勢のなかでも豪勇で知られた士だ」

「戦いは凄惨を極めた由にございます。ですが、重富が最後に残した言葉が気になるところでございます」

「なんと言ったのか」

「愚かなり御屋形(福屋隆兼)、根も葉もなき謀略に惑わされるとは。御屋形といえども理不尽な戦いを挑まれる以上、我も、武門の意地を守り、受けて立つだけにございます」

「そう言ったのか。…それで、検使として派遣されていた二宮勢は、いかがしたのだ」

「日和まで到着したところで事が発生しましたので、ただちに引き返しました」

 ことの起こりは九月二十三日早朝であった。福屋隆兼が三千人を引き連れて重富城を包囲した。福屋勢は火矢をもって城を焼き、場内の混乱に乗じて強襲した。

 寡勢の重富方は、たちまち一族の重富兼時、兼光、兼輝以下四十八人が討死、重富兼雄は腹を掻き切って死んだ。兼雄の妻は福屋隆兼の臣福原兼教の姉であったが、薙刀をもって勇戦し、最後には火中に入ったという。

 福屋方も福屋兼久ら七十四人が討死、江田基勝ら数百人が負傷した。

「福屋どのは、姦計に堕ちたのではなかろうか・・・・」

「福冨どのも、そう思われますか・・・実は、御屋形(小笠原長雄)さまの、お考えでは…」

 平三郎が声を落とし、周囲に目を配った。

「この戦は元就が謀略をもって福屋勢の弱体化を図るべく起したものであろう。とのことでした。その理由として、日和から重富城までは数里しかない。毛利勢が重富の救援に駆けつけようと思えば、いくらでも間に合ったはず、はじめから助ける意思なんてもっていなかった」

「そうであろうの、策謀を得意とする毛利さまならできることだ」

重富の郎従らの中には、御屋形である福屋氏の軍勢に刃向うことをせずに討ち取られた者も多かったということです」

「残酷だの」

 この時代には、調略、欺瞞、陰謀、誘降といった謀略を盛んに用いていた。孫子兵法に曰く『兵は詭道なり』味方の戦力を消耗させずに戦いに勝つ、最善の策だ。さらに、曰く『上兵は謀を伐つ』、敵の意図を見抜いてこれを未然に封じる。これが最高の戦い方だ。

「隆兼ともあろう武将が忘れたわけでもあるまいに、元就の策にまんまと嵌められるとは。それにしても隆兼は愚かな戦をしたものだ。敵より圧倒的な兵力があったとしても、いきなり城を強襲するとは多大な犠牲を強いられるものを」

「隆兼は最も頼りとしてきた重富が裏切ったと思い込み、頭に血が上ったのであろう」

 それにしても、元就の謀略恐るべしだ。

 

 その年の十一月(一五六一)は寒い日が続いていた。空はどんよりと曇り、みぞれが降ったり止んだり、陽が照ったりとめまぐるしく変わっている。

「江川の対岸におびただしい兵が終結しているそうです」

伝令の者が息せき切って走り込んできた。

「福屋どのか」

「そうでございます。兵は、川平から渡って松山城(福屋の支城)に入っています」

松山城と四ッ地蔵城とは一里(四キロメートル)ほどしか離れていない。

 明尊は、直ちに物見を出し、忠左衛門を呼び寄せた。領内の将兵を召集する木鐘がけたたましく叩かれている。

「やつらは、この城を潰すつもりだろうか」

 ひとりごとのようにつぶやく忠左衛門の顔に緊張が走っていた。

 突然湧きあがった戦の予感に闘争心が漲ってくる。

「わからん、やつらは温湯城取り合い(永禄元年)のあと、井田、波積の領地を受取りに行った小笠原さまと小早川さまの家臣に兵を向けて、馬物具を剥ぎ取り、追い返すという暴挙にでたばかりだ。御屋形(小笠原長雄)さまに兵を向けることもありえる」

「まずいですな、今、御屋形さまは、甘南備寺におられる」

 防禦の弱い甘南備寺を攻められたならひとたまりもない。

 温湯城取り合いで毛利に降伏した御屋形は、甘南備寺で謹慎中の身である。

「御屋形さまを攻めるとなると、その前にこの城を攻めるでしょうな」

「そうだ、やつらにすれば、ここを潰さなければ挟みうちにされる」

 松山城から押し寄せてくるなら判刻(一時間)もかからず到達する。はやく防禦を固めなければならない。

 明尊は兵を城内に入れて、要所に兵を配置、迎撃態勢を敷いた。

 明尊の将兵は八十名ほどである。三千を超す福屋の軍勢を迎え討つには籠城しかない。

「ひとまず籠城して、時間をかせぐことだ。その間に御屋形さまも戦支度ができる」

 四ッ地蔵城内に、つぎつぎと幟が立ち並び、兵が溢れてきた。物見がせわしなく城から走りでる。

 江川を渡った福屋の軍勢が、ぞくぞくと松山城終結し、すでに一部の兵は都治方面へ進んでいる。四ッ地蔵城の裏側、十町(一キロメートル)ほどしか離れていない道を通り過ぎて行く。

「どういうことだ。やつらは、我々を無視している」

「いや、無視しているのではなく、別に狙いがあるようです。……御屋形さまを狙っているのでは無さそうだが……」

「この四ッ地蔵城に兵をまわさないということは、小笠原家を狙ってのことではない……物不言城だ」

 温湯城取り合いでは、福屋隆兼が吉川元春の先鋒として攻めてきた。まさに獅子奮迅の戦いをしたにもかかわらず、毛利元就は福屋の所領を削って御屋形に与えた。さらに、追い討ちを掛けるように人質を要求した。

 福屋には、別の地をもって倍増して与えると言ったにもかかわらず、隆兼は、それを不満だとして、土地を受取りに行った小早川と小笠原の使者に暴行を加え追い返した。

 毛利に叛意を抱いた隆兼が、まっさきに狙うのが吉川元春の分家にあたる吉川和泉守経康としても不思議ではない。

 物不言城の吉川経康は無勢で、古老の兵が多く、攻めればたやすく潰せると隆兼は見たのであろう。使者を経康のもとに遣わして尼子への鞍替えをうながしたが、経康は、使者の首を刎ねて隆兼の書状とともに元春のもとに送り届けた。

「最も忠勤の至りなり」

 元春は大いに感じ入った。

 家臣の首を取られ激怒した隆兼は、

「経康を退治する」

 隆兼は尼子に加勢を要請した。ところが、尼子義久は将軍足利義輝の仲介により毛利氏との講和交渉を続けている最中であり、応援は出せない。

 結局のところ、湯惟宗、牛尾久清ら三千騎が独自の判断により、ということにして応援にでた。

 そうなると、同じ福光郷にある福冨陣屋も危ない。

「忠左衛門、『門を固く閉ざして籠れ』とだれかを福光へ走らせてくれ」

 屋敷の裏山(妙見山)には、物不言城の出城がある。福屋勢がこれを攻撃したなら福冨陣屋も無傷では済まないだろう。

 福屋が吉川を攻めれば、小笠原としても毛利に従って出兵しなければならない。明尊にも出陣命令がでるだろう。陣屋の救援に行くことは出来ない。

 

  

 明尊は、ひとまず戦闘態勢を解いて、御屋形の出陣命令がでるまで待機することとした。

 湯信濃守の居城は、湯里にある。

 物不言城まで一刻(二時間)もかからない。

 それだけに、吉川和泉守は不意を衝かれた。北から湯隊が、南からは福屋隊が怒涛のごとく押し寄せてきて初めて気がついたのである。あっというまに五千の敵勢に囲まれてしまった。  

 物不言城は、福光の市、箱坂、林地区に囲まれた百メートル弱の山頂に本丸(東西二十間、南北九間)、二の丸(東西十一間、南北八間)、三の丸(東西十間、南北六間)を構え、山麓に御屋敷(東西三十間、南北三十間)、東段屋敷(東西三十間、南北三十間)等がある。

 城の南方は本陣山から連山に続き、城山は急峻で断がいが多く、前面からの登攀は不可能だ。強襲はむずかしい。

 物不言城のいわれについて、「楞巌寺(りょうごんじ)記」によれば「暦応年中、楠判官開城峙庶民挙而称物不言城」とある。楠判官は福冨七郎のことである。

 吉川和泉守経康が物不言城へ入城したのは、毛利元就から福光郷を知行地として与えられたのを機に、本拠を福光に移した永禄二年(一五五九)のことである。

 入城と同時に城の拡張、補強を行ない、やっと終ったばかりだった。

 

 物不言城を包囲した福屋勢は、長期戦の構えを見せていたが、『吉川和泉守は、家人らを休息のため山下へ下ろしており、城にはわずかの人数しか残っていない』ということを福屋に密告する内訌者があった。

 福屋勢の足軽大将が、二百人ばかりを率いて尾根づたいに急迫した。

 城中には、わずか数十人しかいない。経康は、あわてふためき右往左往する家臣を叱咤し、城にただ一挺しかない鉄砲を持ち出して、城門の外に仁王立ちに立ちはだかった。

「しめた、敵将だ!」

 吉川和泉守経康を目前にして敵は勇躍した。

 敵将の首をとれば、一番の高名だ。

 千載一隅の好機とばかりに福屋勢が殺到してくる。

 

 二百人の敵兵が挙げる喚声にも、経康は臆する気配もなく平然として鉄砲を構えている。

 福屋勢の足軽大将が七、八間に迫ってきたときドッと撃ち放った。至近距離から心臓を撃ち抜かれた足軽大将は、もんどりうって倒れ絶命した。

「見たか!」

 肝を冷やして呆然とする敵勢のなかに、槍を引っさげた経康が、わずか十四人を前後に立てて斬り込んだ。

 敵は、ひとたまりもなく逃げて行った。

 その後、物不言城には、「鉄砲の名手がいる」と言って近づく者はいなかった。

 

 福屋勢が福冨陣屋の前を怒涛のごとく行き来している。

 陣屋では、明尊の指示により、前濠にかかる橋を落して門を閉ざした。

 突然、濠の外側から、無数の火矢が飛来して屋根に突き刺さった。陣屋は、たちまち炎に包まれた。屋敷内の家屋は、米倉となっている土蔵を残してことごとくが消滅した。

 村のあちこちで煙が上がっている。敵が周辺民家の焼き討ちをしているのだ。

 陣屋には、五名ほどの士がいるだけである。敵兵が、侵入してくれば殺戮されるしかない。五人の士は、死を覚悟した。

 だが、敵は陣屋を焼き討ちにしただけで侵入してこなかった。

 

「福屋勢、福光の城を取り囲こむ」

 注進を受けた毛利の行動は素早かった。吉川元春を先陣の大将として宍戸隆家熊谷信直ら二千騎で駆けつけ、井田城、三つ子山城、大家城を攻略、毛利元就は、嫡男隆元、小早川隆景とともに六千騎で河下郷の渡り口に出張ってきた。

 御屋形小笠原長雄は、甘南備寺から出陣した。

 明尊の率いる福冨党も直ちに出陣し、小笠原隊に合流した。

 今回の紛争を引き起こす因の一端を持つ形となった小笠原隊に与えられた使命は、毛利軍の魁となって、まっさきに敵に突っ込むことである。小笠原隊は、まなじりを決して先発した。

 福屋隆兼は、松山城に退き、湯信濃守は湯里の居城に逃げ帰った。

 

 十二月初旬、元就父子は、川本の温湯城に集合して軍議したあと中之村城(中野)を取り巻いた。

 攻撃軍に加わった小笠原隊の闘志はものすごい。温湯城取り合いでは、福屋が敵の手先となって襲ってきた。今回は、攻守逆転だ。温湯城の仇とばかりに奮い立っている。

 吹きすさぶ寒波のなか攻撃が始まった。

 横なぐりの雪や霙に将兵の身は凍え、弓を引くにも指は萎え、刀槍を握るにも力がでない。

 それでも、小笠原隊が吉川勢の魁として突進していく。

 城内から射る弓矢に将兵がバタバタと倒れる。

「かかれ!かかれ!」

 すぐ後で下知を発する元就の大音声に、気を奮い立たせて突進する。

 ついに、二重に構えた柵木を乗り越えた。

 吉川勢の綿貫時勝が、二十貫目(七十五キログラム)もある鉄の大槌を軽々と持って追手門に一番に取り付いた。

「吉川隊綿貫左馬助時勝、大門を打ち破って、城への一番乗りを果たして見せようぞ。敵も味方もとくと御覧あれ」

 鉄槌を振り上げ、二打、三打と打って門の扉を微塵に砕いた。城の兵は、これを見て「大門が破られるとは」と驚愕したものの、槍数十本の穂先を揃えて綿貫時勝に突きかかった。

綿貫時勝は眉間に槍を受けて絶命した。

 吉川勢の今田経忠らが、大門から一番に乱入した。吉田の毛利勢並びに、宍戸、熊谷以下もぞくぞくと押し入った。

 城主の中村康之は少しもあわてず防戦し、宍戸の家臣末兼彌次郎を討ち取り、庄原豊後守に傷を負わせた。

 ここで、城の諸手が一度に破られたのを見た中村康之は、三百余人が円陣を組んで搦手から斬り抜け、矢上の城へ入って矢上勝平と合流した。

 攻城軍は中村康之を討ち洩らしたものの、残る兵らを追い詰めて討ち取り、首級八百五十余を挙げた。

 攻城軍は、つづいて矢上城を落すべく陣を進めた。

 ところが、矢上城の矢上勝平、中村康之らは城を明けて逃げ去った。

 

 中国山地にとどろく雷鳴とともに、せわしなく通りすぎていた雲の動きがとまった。

地上に重くのしかかった黒雲から、大粒の雪がしずかに降り出した。大雪の気配である。

 一晩のうちに積雪が一・五尺(五十センチメートル)を超えた。この地方としては大雪である。

 藁の雪靴も、湿気が多い山陰の雪には用をなさない。容赦なく沁み込んだ水気が将兵の足に凍みる。

 攻城軍も動きが困難になってきた。

 毛利元就が矢上城で、吉川元春は日和城にて越年、雪解けを待つこととした。

 福屋の郎党井下新兵衛、井下三郎兵衛、井下加賀守、河邊美作守、門田民部少輔らがあいついで元春に降伏して来た。彼らの武勇をかねてより知っている元春は、家人として召抱えた。

 永禄五年(一五六二)二月、雪どけとともに攻城軍は、福屋隆兼の子隆任らが拠る河上松山城を包囲した。

 四ッ地蔵城からは一里ほどしか離れていない。

 御屋形が四ッ地蔵城を前線基地とした。城内に幟が林立し、将兵が溢れた。

 ぴんと張りつめた空気が漂っている。

 いつもは閑散としている城内が賑やかだ。

 四日(新暦三月八日)、総攻撃がはじまった。

 六日、先鋒・小笠原隊が積年の恨みを晴らすべく、死傷者を乗り越え遮二無二突撃していった。そして、左近大夫が一番乗りの高名を挙げ、敵将・福屋隆任の首級を取った。

 諸隊に勝る高名をとった小笠原隊は、面目を施した。

 

 元就は、隆任の首を福屋隆兼に送り、翌日(七日)元春率いる先鋒隊が、隆兼の本城(乙明城)攻略のため進発した

 その夜、隆兼は、ひそかに城を脱出、浜田から小舟に乗って出雲に遁れ、尼子を頼ったが、昨年の十二月に将軍足利義輝の斡旋により毛利と講和したばかりの尼子義久は、福屋を受け入れなかった。

 隆兼は、大和に移ったというが、その後の消息については定かでない。

 

 永禄五年(一五六二)三月二十六日(新暦四月二十九日)、吉川経安は毛利元就毛利隆元吉川元春連署により邇摩郡福光郷のうち本領二十貫、湊二十五貫、同郡西郷のうち井尻村十五貫文の地と邑智郡日和のうち十五貫文の地を与えられた。福光の役による軍功を認められたものである。これにより、吉川経安の所領は千三百石余りとなった。

 福光郷では、吉川経安が五百四十石、福冨明尊が六十石を領していた。

「儂の所領は、吉川殿に保護されているようなもんだ」

 明尊が、哄笑している。明尊の所領・福光下村をとりまく田地のほとんどが吉川経安の領地なのだ。

 現在、国立歴史民族博物館に残されている『石見国福光下村福富家文書』の永禄五年(一五六二)三月二十五日付福光郷森村検地帳では、福冨七郎左衛門の所領を次のように記している。

屋敷

 二ヶ所四百文前

田地

 谷合七百前

 せと五百前

 南かわほり百五十前

 道下なかれ田五百前

 八幡御神田五百前

 権のかみ田五百前

 大境六百前

 落合三百前

 すけとこ三百前

 みつほ田五百前

 みつほ田上の切れ百五十前

以上十一か所計四貫七百文前

 天神迫五十文前

合わせて五貫百十五文前(約六十石)となる。

 前とは、この地方独特の地積表示方法で、耕地面積を示さず田地及び屋敷を分銭高で示したものである。例えば、四百前とは、四百文の収入に相当する土地ということである。

 このなかには、濠や土塁もあり、防禦性を兼ね備えた灌漑用の溜池も含んでいる。

 ここで注目することがある。

「前」という小笠原家独特の方法である。一般的に、百石の加増というのは百石採れる田畑を知行地として与えるということである。したがって、この中から武家の収入となるのは、五公五民とすれば五十石になる。後年、江戸時代になると知行地ではなく禄米としてお米蔵から受け取る武家ができたが、これは、「このたびの功績により、百石の加増を下しおかれる。ただし、玄米として五十石を支給するものとする」といった方法である。

これに対して、「百前」といえば百石の租税が取れる田畑を与えられたのである。 

 

 御屋形小笠原長雄は、福屋攻略戦の戦功により、住郷、川上、日和その他を加増された。さらに、甘南備寺閉居を許され、湯谷弥山城に移った。

 

山吹城

 

 永禄三年(一五六〇)七月、きびしい暑さがつづいていた。いつまでも続く暑さに人々は閉口していたが、幸いにも午後には決ったように夕立が降っていたので、渇水の心配はない。田んぼの稲には、すでに穂がつきはじめている。

 七月初旬、毛利元就は安芸、備後、石見の国衆一万四千余を率いて山吹城へ攻め寄せ、銀山の仙ノ山に本陣を置いた。

 山吹城に籠る本城常光は尼子方武将である。永禄元年の温湯城取り合いでは小笠原長雄に味方し毛利元就を攻撃した。

 仙ノ山(五三〇メートル)からは、要害山頂(四二〇メートル)の山吹城が低く見える。 

 城内に立ち並ぶ幟や旗が風に吹かれて元気よくたなびいていた。周辺の山や峰は毛利方として馳せ参じた石見勢が陣を構えている。

 攻撃隊は三方から同時に攻め登ることとなった。

 今回も小笠原長雄隊が先陣となっている。

 山吹城の正面は吉川元春隊が受け持ち、天文九年(一五四〇)九月から弘治二年(一五五六)までの十六年間にわたって銀山を領有し、城を熟知している小笠原隊は攻めるに最も困難な左翼を受け持った。

 毛利家に刃向い、降参していながら家名存続という寛大な扱いを受けた小笠原家である。御屋形自らが毛利家の魁(さきがけ)となって遮二無二に戦わなければならない。

 小笠原隊は攻城軍総大将毛利元就の突撃命令を待っていた。仙ノ山頂上から立ち昇る狼煙を合図とされている。身を焼く太陽を背に静まり返っている将兵を、あざわらうかのように蝉しぐれが辺りを覆っている。

「合図を見落とすな」

 小笠原隊将兵が本陣の仙ノ山をみつめている。

「己のつくった城を攻めるとは、気のあがらないことですなー、それに、対手(あいて)の本城勢は、ほんの一ヵ月前までは味方だった」

 忠左衛門が独り言のように呟いた。

「小笠原隊皆が思っていることだ。己が仕組んだ仕掛(防禦装置)の洗礼を受ける。…情けないことよのう。それだけに恐さも分かっている」

「絶対に、落とされない要害として自負をもっていましたよなー。それを落とそうとしている。皮肉ですなー」

 三年前までは、山吹城も小笠原氏のものだった。何回も行き来した城への路も、今では上ることも許されない。本陣の方角に目を据えている明尊の顔には、戦うという気迫が消えている。己のおかれた境遇に困惑している顔だった。

 突然、天地を揺るがす轟音が殷殷と山野にこだました。毛利軍の鉄砲隊による一斉射撃がはじまったのだ。これが、石見において歴史上に登場した最初の鉄砲隊となった。

喚声があがった。だが、山吹城のような山城を攻めるためには、あまり鉄砲の効果はない。

野戦においてこそ威力を発揮できるのだ。元就とて十分承知のうえで鉄砲隊を使ったのであろう。すぐに鉄砲の音は消えた。威嚇のための射撃であっても籠城中の将兵を脅す効果は絶大であった。それまで威勢よくあげていた喚声がぴたりと止(や)んだ。

 吉川勢山縣四郎右衛門、井上又左衛門、山縣助十郎、鉄砲足軽の小頭溝挟次郎兵衛らが先を争って突撃していた。

「吉川勢の抜け駆けだ」

 抜け駆けは、大軍の統制を乱すものとして厳しく諌められている。さらに、先陣を受けた小笠原隊への侮辱だ。戦場において、先陣は名誉とされており、先陣をめぐっての同士討ちになることもめずらしくない。 

 それを、こともあろうに毛利一族が破ってしまった。

「先陣は我らぞ。武士の意地にかけても後続部隊の後塵を被るような恥辱は受けるな」

 御屋形があわてて突撃に移った。飛来する矢を避けるために竹の束を盾とし、逆茂木をつぎつぎと抜き捨てながら一歩づつよじ登っている。

 山吹城には、小笠原が籠っていた十六年の間に銀山の穿通子(ほりこ)を使って設えた秘密の抜け道が掘ってある。城内から縦の斜坑を掘り下げ、岩陰や茂みの中に出口をつくって、よじ登った敵の背後を狙うためのものである。

 山を熟知している小笠原隊は、一つずつ抜け道の出口を塞ぎながら登って行く。

 正面の攻撃をかけた吉川隊は、城内から打って出た本城勢に対し、溝挟次郎兵衛の鉄砲隊で一斉射撃をかけ、敵兵が浮きあし立ったところを槍隊が代わって攻戦する。

 城内からは、正面の路を登ってくる吉川隊がまる見えだ。ひとりづつ狙いを定めて射ってくる。兵が矢に当たりバタバタと倒れている。

 攻撃隊は、いかにしても城内へ突入できない、被害は増えていくばかりである。

 側面からの攻撃隊は、城内から投げ落とされる大石小石や丸太に跳ね飛ばされて転がり落ちて行く。

 小笠原隊も竹束を盾にして石を避けようとするが、大石や丸太が落下してくればひとたまりもない。己が作った防禦装置に襲われ、バタバタと倒れていく。

 さらに、敵は矢穴(狭間)を開け、弓ではげしく狙い撃ちしてくる。

 攻城軍は三日間攻め立てたが落とすことができない。五千人を超す死傷者をだしているのに城はびくともしない。

「強襲では被害が多すぎる、ひとまず撤退する」

 毛利元就はついに撤退を決めた。

「あと、二、三日もすれば、この城は落とせます。このまま攻城を続けさせてください」

 毛利隆元吉川元春小早川隆景ら三人の息子が口を揃えて懇願した。

「いや、敵の籠っている山吹城をみよ、鶴が上空を舞っているではないか、敵陣の糧食が豊富にある証拠だ、一旦、引き退いて謀をもって本城を味方にする方策を考える」

 元就の決断は早い。

 撤退と決った。

 撤退すれば本城勢の追撃を受ける。殿(しんがり)は吉川元春率いる石見勢と決った。

 さらに周辺の地理にくわしい小笠原隊は殿軍の最後尾を受け持った。

 小笠原隊は谷底を通る路を挟むように両側の峰をかためて敵の追撃に備えた。

 吉川元春は一千八百余騎を連れて退却軍の後方に位置をとり、ことさらにゆっくりと退却していく。

 本城勢の兵二千が追いついてきた。足軽を先に立てて元春めがけて切りかかった。吉川勢が踵を反して反撃すれば追撃の足軽らは逃げ散り、退却に移れば、蝿のごとく集まって鉄砲を射掛けてくる。

 吉川勢が谷間の隘路で詰まり、身動きできなくなった。

吉川元春の旗本へ突きかかれ」

 本城の采配に二千騎が一手になってかかって行った。

「ウオー」

 喚声を挙げ、元春めがけて突撃していた本城勢が、突然、立ち止まった。

 前方の小高い場所に、元春が馬を止めて凛とした姿で本城勢を睥睨している。その前後を固めている一千八百余の兵は突撃態勢だ。バラバラなって逃げていると思っていた吉川勢が、いつのまにか態勢を組んでいたのだ。

 

 本城勢は、備え万全の吉川軍をみて動けなくなった。

 両軍がにらみ合い、対峙したまま鬨を挙げている。

 吉川元春の旗本森脇若狭守が本城勢のなかに切り込んだ。これを発端に敵味方数千の将兵が入り乱れた。

「今だ、本城勢を包み込め」

 峰々をかためていた小笠原隊ら石見勢が喚声を挙げて山を走り下った。

 三方から挟撃された本城勢がバラバラになって引いた。

 殿軍が合戦中であるとの注進を受けた元就の下知により、福原、桂らが駆けつけたときには、すでに戦いは終っていた。

 小笠原隊ら石見勢は、再度、峰に上がり備えをかためた。

 周辺の峰々には、小笠原、佐波、益田等の幟が立ちならび、救援にきた福原、桂らの兵とともに吉川元春が引いて行くのを見送っている。

― みごとな退却だ。あれでは本城勢も追撃できまい。

 明尊は、殿(しんがり)軍のありかたを教えられた思いで、吉川勢の姿が見えなくなった路をいつまでも見つめていた。

 この戦が、石見において鉄砲を組織的に使用した最初の戦となった。鉄砲が種子島に伝来して十年が経っていた。

 以後、鉄砲は武器として急速に広まっていった。

 鉄砲の威力をまざまざと見せ付けられた明尊らは、ただ、愕然としているだけであった。

 

 永禄三年(一五六〇)十二月二十四日(新暦一月九日)、尼子晴久が四十七歳で死去した。

 嫡男の義久が跡目を継いだ。

 

種子島銃

 永禄二年(一五五九)初冬、戦に明け暮れる明尊の四ッ地蔵城在城を待っていたかのように、八神屋與次郎兵衛がやってきた。雪が降ったのかと見間違うほどの霜が立っている寒い朝だった。

 與次郎兵衛は、家督を受け継いで十年になる。すでに齢四十を越え、玉鋼の商いも戦乱続きの世とあいまってますます繁盛している。

 久しぶりに訪れた與次郎兵衛の後ろには、二人の男がついている。

「この方が、お夕の義父上内田屋さんで…」

「内田屋孫兵衛でございます。八神屋さんにはひとかどならぬご交誼をいただいております」

「お夕は、元気でいますか」

「ええ、よく気のつく器量よしでございます。夫婦仲もよく安心しております」

「それはいい、夫婦仲のいいのが一番ですからな」

「ええ、それはもう…跡取もできまして、私も一安心です」

「それは、めでたい」

「その節(結婚のとき)には、大層な御祝いをいただきましてありがとうございます。

ところで…」

 連れの若者が持っている包みを取り寄せて、慎重に開きながら、

「これは、薩摩国島津領の種子島というところに漂着した南蛮船から伝わった鉄砲というものでございます」

「うわさには聞いています。九州では戦に使われ始めたらしい」

「そうでございます、天文年間の終り頃には、すでに島津軍が使ったといいます」

「それほどに威力があるものなのですか」

「ご説明申し上げる前にいちど見ていただきましょう」

 孫兵衛らは城内の畑地にでた。

 山下忠左衛門、山田重兵衛、佐々木喜兵衛、越堂清左衛門らが集まってきた。

「弓矢をできるだけ遠くへ飛ばしていただけませんでしょうか」

「それなら、儂がやりましょう、的がなければ儂でも射ることができます」

 笑いながら忠左衛門が弓を取った。

 忠左衛門の射ち放った矢が、地に落ちた場所のさらに五間先に藁(わら)人形を立てた。

「これから、あの的を撃ち抜いてご覧にいれましょう」

 若者が、片ひざだてになって鉄砲を構え、静かに筒先を的に向けたと同時に、凄まじい轟音が明尊らを襲った。

 轟音は、山にこだまし、百雷が足元に落ちたような衝撃を受けた。明尊と忠左衛門が、みごとに尻もちをついていた。なんとも香しい煙が漂ってきた。

 その瞬間、明尊は筒先から噴出す閃光を見た。

 忠左衛門の口が、パクパクと動いていた。

―なにを言ってるのだ。

 聞こうとした明尊の耳に、忠左衛門の声が聞えた。

 鼓膜が痺れていたのだ。

「すさまじい音だ」

 耳の奥でガンガンと響く余韻に驚愕し唖然としている明尊らを、孫兵衛が先に立って的のところへ案内した。

 藁人形は倒れていた。なぜ倒れたのか明尊には理解できない。

「音にびっくりして倒れたのではありませぬ」

 鉄砲の弾が食い込んでいる藁人形を示しながら孫兵衛が笑っている。

「これは、この筒内に火薬という紛を入れまして、その次に鉛の弾を詰めてから火縄の火を火薬に点火しますと、瞬時に爆発して弾を飛ばしているのでございます」

 孫兵衛が説明を始めた。

「火薬は硫黄と炭の粉末に煙硝(硝石)というものを混ぜ合わせたものでございます。これに点火すると爆発して、弾を飛ばすのでございます。その威力は見てのとおりで、弓よりもはるかに強く、織田信長、毛利さまをはじめ各地の領主さまが競って買い集めておられます。さらに、ご自分で鉄砲を作る技術を取り入れ、鉄砲鍛冶を増やしておられます」

「戦の仕様が変わるということですな」

「これから、日ごとに変わるでございましょう」

「ただひとつ、気をつけなければならないのが、馬を驚かせないことです。なんの前ぶれもなく耳元で、突然、このような轟音を出しては、肝を潰して、使いものにならなくなります」

「馬でなくともわれわれが肝を潰したぞ」

「鉄砲の訓練をするときに、初めは遠く、慣れるにしたがって近くで音を聞かせる必要があります。馬は元来、気の小さい動物です」

「硫黄と炭は分かるが、煙硝とは、いつでも手に入るものなのか」

「煙硝は、それぞれがご自分で製造しておられます」

「……」

「古くからある家の床下には、必ず煙硝がある。と、言われています」

「叔父御」

 突然、明尊が、説明を遮った。

「この鉄砲は、買うことができますか欲しいですな」

「はいはい、すでに購入したものです。今は各地で引っ張りだこで買いあさっていますから、なかなか手に入らないものですが、内田屋さんのご尽力により買うことができました」

 孫兵衛が、わざとらしく胸をたたいて見せた。

「儂のために作ってくれたものですか、おー、なんと…・銃身のなかほどに家紋がある、しかも角立四つ目だ、まさしく」

「お気にいりましたか」

「ありがたい。それで、値段はいくらになります」

「これは、六匁銃といわれるもので銭一貫(一千文)ほどです。もうひとまわり大きい三十七匁銃では銭五貫といわれます。今は、製造される数より買う方が多いから高い値段がついてます」

「それは高い、おいそれと買えるものではありませぬの」

「ご心配なく、この銃は支払いも済んでいますよ」

「いつものことながら、叔父御には迷惑ばかりかけて…・ところで、その煙硝というのは、だれでも造れますのか」

「簡単に説明しますと、古い民家の床下、特に、肥溜の近くが良いようですが…、床下の土を掘って、それに草木灰を混ぜて水を加え、濾液を煮詰めて水を蒸発させると、塩のような物質ができます、これが煙硝です。…・しばらくは、この者に手伝わせます」

「肥溜というのは、おもしろいですな」

「そうなんです。糞尿が水に溶けて煙硝を創り出すらしいのです。…次ぎに問題になるのが硫黄、炭、煙硝の配合割合です。これは晴れた日と雨の日とでも違います。いかに配合すれば最大限の力を発揮できるかは、手元にある硫黄、炭、煙硝の品質、濃度によっても違います」

「硫黄は、どうするのでしょうか」

「日本は火山の多い国ですから、大量に採れます。わたくしに言っていただけば、いくらでもお持ちいたします」

「いちど撃ってみられますか」

 孫兵衛がさしだした鉄砲を片手で受け取った明尊が、その重さに驚き、あわてて両手で持ち直した。

 孫兵衛の手取り足取りで射撃体勢をとって、言われるままに静かに引き金を引いた。

 轟音とともにものすごい衝撃を受けた。耳朶が塞がり、またもや尻もちをついていた。

発砲の反動によるものだった。

「熟(な)れれば、二町(二百メートル)先の人間を狙撃することなど朝飯前です」

 孫兵衛は、さらりと言ってのけたが、明尊の撃った弾は、的を外れ、どこへ飛んでいったのか分からなかった。

 次に、男は、一町(百メートル)先に置いた古い甲冑を撃ち抜いた。

 一寸ほどの穴があいていた。まさに驚愕する威力である。

 明尊らは呆然としているだけであった。

「弾は二町(二百メートル)ぐらいはらくらく飛びますが、甲冑を着た人間を倒すには、ほぼ一町ほどでしょう」

「それでも、すごい威力ですの。弓では、どのような大弓を使っても不可能だ」

 各地の武将が競って調達しているということは重大な事実である。このような武器を数百挺単位で筒先を揃えて撃たれたら甚大な損害を受けるであろう。

― 早急に、御屋形へお知らせしなければならない。

 翌日早朝、明尊らは、甘南備館へ遣いを走らせた。

 

 ドーンと凄まじい爆音に、御屋形(小笠原長雄)をはじめ重役が肝を潰し、声を失っている。沈黙が続いた。しばらくして、耳を手で軽くたたきながら重役の一人が呟いた。

「こんなもんが出まわったのでは、今までのような城ではたちまち潰されてしまいますなー」

ため息まじりの声が上ずっている。

「城を、思いきり高い山の上にもっていくか、周囲の水堀を思いきり広くとって弾のとどかない場所に築くしかないでしょうな」

「今、築城中のお城(甘南備城)は、大丈夫でしょうか」

「残念ながらこんな武器を想定しての縄張りではない」

「いずれにしても、すでに工事にとりかかっていることですし、鉄砲に対する備えを強化する必要があるでしょう」

「まず、塀を頑強なものにして二重、三重とし、石垣を高くする」

「そういう点では、温湯城は良かった。…・いまさらせんないことだが…吉川氏の物不言城などは良い城ですなー、わずか四十間(七十二メートル)ほどの山ながら懸崖で、道以外の山肌は登ることが不可能、鉄砲の玉はとどかない」

「それにしても鉄砲を早急に、できるだけ大量に調達する必要があります」

「莫大な資金がいる。銀山を領有していたころならまだしも、今は痛い」

「これなる内田屋孫兵衛に頼ることになるが、毛利さまにも承諾を得る必要がありますな」

 重役らの意見は、鉄砲配備に傾いた。

 

 永禄三年(一五六〇)五月、東国では四万五千の兵を率いて駿府を発ち、京へ向かっていた今川義元が、尾張の田楽狭間で織田信長の急襲を受けて討死した。織田信長はわずか二千の兵で奇襲をかけ、毛利新介と服部小平太が義元の首を取ったという。(桶狭間の合戦)

 

 

温湯城開城

 四月二十八日(新暦五月十六日)、吉川元春が益田藤包、佐波秀連、杉原盛重、福屋隆兼ら三千五百余騎で温湯城へ迫ってきた。

 御屋形(小笠原長雄)は、二千余騎を二手に分けて夜襲をすべしと評定したが、異議が多くその夜は徒労に終った。

 このころの軍団は、土着豪族の集まりであり、戦の指揮命令はすべて評定、合議によって進められていた。 主君の命令には絶対服従という軍団を造ったのは織田信長で、それを完成させたのが羽柴秀吉である。小笠原軍団はいまだ土着豪族の集まりにすぎず、御屋形の意のままに進まない戦もめずらしいことではなかった。傘下将兵をいかにして戦いに引き込むのかが将の器量であったのだ。

 四月三十一日(新暦五月十九日)、小笠原長雄は、すべての軍兵を館のなかに集めた。敵を引き付けて館の近辺にて合戦するか、または、日暮れになって敵が引くところを追撃しようと企てたのだ。将兵は幟や旗を一切立てず私語も禁じられていた。

 朝からの生暖かい強風が山の木々を振るわせ、ゴーッと音をたてて通りすぎている。

 明尊は風の音が意外と耳障りだと思った。

 将兵のまわりを砂埃が渦巻いて通りすぎていった。そのとき風とは異なる喧騒を耳にした。

 明尊の顔から血の気がひいた。温湯の在家に火の手があがっている。福屋隆兼、佐波秀連を先に立てて進入してきた吉川元春に放火されてしまったのだ。しかも、風上だ。折り悪く東南のつむじ風が吹き、あちこちに飛び火している。

 将兵らの家が危ない。顔はひきつり、恐怖のまなざしとなっているが、動くことを許されていない。ジッと猛炎の行く手をみつめているだけであった。

 突然、後方で火の手があがった。小笠原館に飛び火してしまったのだ。

 敵が機に乗じて攻めてきた。

 女子供は火がついたように逃げまどい、猛風は、ますます激しく吹いて四方八方が一度に燃えあがってしまった。

 小笠原長雄は、館から出て一合戦する決心をしたが、将兵も浮き立っていたため、統制がとれない。せんかたなく呆然と立っているところへ、

「敵の館に火がついたことこそ天が組したことぞ、今だ、討て」
 吉川元春がまっ先になって攻めてきた。

 我先にと押し寄せてくる敵の総軍に、

「ここで戦っては不利だ」

 小笠原軍は一戦もせずに山上の城内へ逃げ入った。

 攻撃軍はなんの抵抗も受けず、温湯の在所を一軒残らず焼き払って、悠々と引き上げていった。城内の小笠原軍将兵は、声もなくただ呆然とたたずんでいるだけであった。

 

 五月二十四日(新暦六月十日)、毛利元就と嫡男の隆元、二男吉川元春、三男小早川隆景らは、総勢一万二千余騎をもって温湯城に再び迫ってきた。

 五月二十九日(新暦六月十五日)、毛利家嫡男の隆元は、城の喉もとに当たる笠取山へ陣を取った。

 小早川隆景は、西側の小栖山に備後勢を率いて屯営した。その他、宍戸、益田、熊谷、天野、福屋、出羽、佐波らも陣を固め、温湯城の周り四面立錐の地も残さず取り巻いた。

 相対して温湯城の向かいにある青岩城には、尼子晴久より派遣された温湯城の援軍八百余が籠った。

 温湯城から見渡す周辺の山々には、幟や旗がこれ見よがしに並んでいる。

「よくもまー、雲霞の如く集まったものだ」

 明尊は、あきれていた。しかし、緊迫感はない。

 温湯城は、標高三百九十メートルの懸崖な山城である。北側には江川が流れ、東、西、南の三方は深い谷となっている。特に、城への入口にある大門は、いずれも深く狭い谷の奥にあり、その左右の山は堅固な陣地となっているから、大門に来攻する敵を邀撃するのに死角がない。たちまち矢が四方から飛び交い、一点に集中して敵を一歩も寄せ付けない陣地配置となっている。さらに正面の会下谷は急坂であり、

「攻められても絶対に落ちる城ではない」

 という余裕があった。さらに小笠原には尼子氏がついている。

「籠城して尼子殿の応援を待てばいい」

 誰もが思っていた。

 温湯城の北一里のところに構えた赤城を芸州勢が攻めはじめた。ここには、小笠原軍が五百人ばかりで立て籠もっている。

「赤城を取られるな」

 明尊は福冨党を引き連れ、打って出ることとした。籠城戦は城に閉じこもるだけであってはならない。城の防禦性を利用しながら打って出て敵をかく乱しながら戦うものであると考えていた。

「この突撃は敵をかく乱することにあるぞ。首級は取る必要なし、討ち捨てろ。城内の味方衆にぶざまな振舞いを見せるな」

 大身の十文字槍を高だかとかかげた。

 青木五郎丞率いる青木党も集まり、たちまち、三百余人となって、手ごとに槍、長刀を引っさげて旗谷へ打って出た。

 これに対して吉川勢では粟屋源蔵、森脇市郎右衛門ら四百人ばかりが切り掛かってきた。 

「絶対に止まるな、止まれば死ぞ。死ぬまで走れ」

 明尊が敵軍団のなかを走りまわって撹乱しながら、手当たりしだいに槍を奮い、敵兵を地獄に蹴落していく。しかし、敵軍の動きもすばやかった。あっというまに、明尊らを重囲のなかに押し包んできた。

「儂に続け」

 明尊が備えのもっとも厚い敵軍にむかって突っ込んだ。福冨党らの将兵が一塊となって続いている。

 明尊らは、そのまま会下谷へ走り込んだ。備えの厚い方を崩された敵軍は、追撃をあきらめざるを得なかった。河邊八郎左衛門が毛利方の森脇市郎右衛門に討ち取られてしまったが、斃した敵の兵も多く、温湯城に籠る味方の士気を大いに奮い立たせた。

 この戦いにより、明尊は戦国の武将としての福冨七郎左衛門の名声を高めることとなった。

 しかし、六月一日夜半、赤城守備隊は城を捨てて温湯城へ逃げてきたので、吉川元春に陣を取られた。

 これにより青岩城の尼子勢も退いて大田まで退いた。

 温湯城だけが孤立してしまった。

 小早川隆景が、温湯城近くに馬を寄せた。大将の言葉戦がはじまろうとしているのだ。両軍の将兵が静まりかえった。

「この度、毛利元就公は、石見国に討ち入り、福屋、益田ともに降参した、しかるに小笠原は真っ先に馳せ参ずべきところを退けて籠城している。すみやかに城を明渡せよ」

 隆景の大音声が響いた。弁舌では吉川元春といえども隆景には一目置いている。毛利三家が合体しての戦にはいつも隆景が大将の言葉戦を受け持っていた。

「福屋、益田は降参しても当家は、尼子の重臣である。小笠原弾正少弼(長雄)は元就殿の孫婿である。この元枝は吉川殿の孫である。隆元殿は契約親となる。しかるに、この度の振舞いは他人よりもなお恥じる行いである。元枝の弓を受けてみろ。」

 長雄の三男元枝が矢倉から応答し、五人張り大弓で矢を射った。寺谷らも四人張りで鋭く射った。引き下がる隆景を追うように、温湯城の中から喚声があがった。

「この城の寄せ口は五ヵ所にある。合図をもって一度に押し寄せ攻め落せよ」

 隆景の下知に、数万の将兵が鉦や太鼓、旗竿を叩き、喚声を挙げながら総攻撃してきた。

 城内は静まりかえっている。

 攻城軍が城壁に取り付いた。そのとき、けたたましく叩く木鐘が攻城軍の頭上に轟きわたった。それを合図に、城内に仕掛けてあった数万個の大石が、轟音と土煙をあげて落下した。

 攻城勢は、一瞬のうちに数千人が斃れ、もがき苦しみ阿鼻叫喚のちまたと化している。あまりの凄絶さに、両軍の喚声が途絶えていた。

 毛利軍の攻撃が止まった。

 その後は、膠着状態がつづいた。

 

「攻城をはじめてから、いまだに、敵を一人も討ち取っていない。にもかかわらず、味方は数多くが斃れてしまった。五ヵ所の大門入口は、いずれも深い谷に掛け渡し、左右の峰は、出城で固め、堀や塀、矢倉は幾重とも知れず、数万騎で攻めても容易くは落とすことのできない城である。このうえは、強襲を止めて敵の兵糧が途絶えるのを待つべきである。」

 毛利軍は、小早川隆景の意見をとって、温湯城を二重、三重に囲み、長期戦に切り替えてきた。

 六月(新暦の七月中旬)になった。いまだ梅雨が明けない。毎日、雨の降り続くうっとうしい日が続いている。

「浅利のお城や福光の知行地は大丈夫でしょうか」

 僕従の久作が聞いた。

 明尊は、戦が始まると四ッ地蔵城へは、山田重兵衛ら十人ほどを残しただけで温湯城へ入った。

 村の若者は足軽にとられた。

 明尊の率いる足軽も全員が百姓だ。百姓が本業なのだ。

 五月になると田植えをしなければならない。籠城中の足軽らは、戦どころではない。

 今、稲を植えなければ来年まで生きていけない。だから、だれもがいらいらとした日を送っていたのである。

 温湯城に詰めている明尊には浅利村に四ッ地蔵城があり、福光郷には知行地がある。四ッ地蔵城は福屋隆兼領に、福光の知行地は吉川経康領に隣接しているがいずれも敵方として攻城軍に加わっている。

「四ッ地蔵城も知行地も危ない」

 久作が言った。

「大事ない。吉川経康も福屋隆兼も己の全兵力をもって駆けつけているはずであり、自領でいざこざを起す兵力は残っていないはずだ。己の領で戦を起すということは全面的に毛利家へ協力していることにはならない」

 平然としている明尊の顔をみて久作は安心したようであったが、

「一度、見て来ましょうか」

 久作の言葉に明尊が驚いた。

「この城を抜けでることがでるのか」

「南門から笠取山の間道は、敵方に見つかっていないようです。皆が利用しています」

 南門は、城から後方の山に向って二股に分かれる尾根の内側にある谷に通じている。

 したがって、攻城軍からは、たとえこのいずれかの尾根に上ったとしても谷を覆う木々に隠されて見えないのである。  

 築城のときに抜け道として造ったものが、みごとに機能していたのだ。

笠取山は、敵の毛利隆元陣ではないか。」

「敵勢兵卒の話声まで聞えるほど近くを通ります。でも間道は、みごとな死角になっていますから、敵からは見えません。」

「見つかるな。雨の夜にせよ。」

 明尊の許しを得た久作が、ふたたび明尊の前に現れたのは、その八日後だった。

「お城も、福光も平穏でした。お屋敷に異常もなく、村もそのままです。すべての田んぼに稲が威勢よく育っています。若者を戦にとられた家の田んぼは、村が総出で田植えをしたそうです。」

 久作の顔にも安堵が広がっていた。

「そうか、それはよかった。皆に知らせてやれ」

 明尊もホッと気が緩むのを感じていた。

 

一年が過ぎた。城内では、なにごともなくたいくつな日々を送っている。

 風のない穏やかな日だった。雨水を貯める為にあちこちに置いてある甕(かめ)の中の水が揺れていることに、兵が気付いた。ところが、たくさん置いてある壷や甕のなかでもさざ波だっているのは数個の甕だけだった。

「不気味な現象だ」

「なにか異変が起きるにちがいない」

 怖れる兵は、その甕に近寄らなくなった。そのうち、

「空の瓶から音がする」

 兵が騒ぎだしたので明尊も、その甕に頭を突っ込んでみた。かすかな音が甕のなかで反響している。不思議だと思ったが原因はわからなかった。日ごとに、それらの現象が大きくなってくる。なにか得体の知れないものが襲ってくる不安に、将兵はおののき、いら立ち始めていた。

 ある朝、いつものように音のする甕に顔を突っ込んでいた兵が、冗談まじりに呟いた。

「芸州勢が地下に穴を掘って、城内へ侵入しようとしているのではないだろうか」

「そうだ。そうだったのか」

 城内がてんやわんやの大騒ぎとなった。

 銀山から呼び寄せた堀子に、城内侵入用の穴を掘らせていたのだ。

 不気味な現象に慄(おのの)いていた将兵の気持ちが一気に晴れた。

 小笠原軍は、甕の響音により穴の位置を確認しながら、城内からも穴を掘り進んでいった。少しずつ近づいてくる敵の音を確かめながら掘っていた穴の土が、突如崩れた、双方の間の土が崩れて穴がつながったのだ。鉢合わせとなった両軍の壮烈な地下戦となった。だが、小笠原軍は下向きに戦わなければならず、不利であったため、穴のうえから大石を投げ込んで防いでいた。

「おい、肥溜めをどんどん持って来い」

 一人の武士が近くにいた兵を走らせた。

「ぜんぶ持って来い、いい捨て場が出来た」

 それまで溜まっていた数十個の肥溜めの糞尿を穴に放り込んだ。これには敵も敵わないと逃げて行った。

 直ちに穴を埋めた。

 同じころ、温湯城南大門の下にある廣汲寺門前に遊女町が出現していた。

 廣汲寺は小笠原家菩提寺である。にもかかわらず元就は、この寺を潰さなかった。

 温湯城攻防戦により小笠原軍が籠城したため、毛利の勢力圏内に入るとき、『元就は、寺社を尊重し、たとえ敵方の菩提寺であっても潰すということをしない』ということを知っていた住持は、毎月大般若経法会を催し、敵味方の区別なく参詣を促した。元就は、これを許した。さらに、遊女町ができていた。このころ、長期にわたる攻城には遊女が集まってきた。天文九年の尼子による毛利攻めのときも遊女町が出現していた。このときは、毛利勢によって焼き払われてしまっていたが…。

 なにか悪い魂胆があるのだろう。と警戒して近寄らなかった籠城兵も、いつしか誘惑に負けて遊女町に立ち入るようになってきた。ろう城兵の懸念をよそに何も起こらなかった。攻城軍も出入りしている。

 定められた日には、敵味方の若武者が多勢で城や陣地をでて廣汲寺に参詣し、遊女町で思い思いに過ごすという珍妙な光景が出現した。その日は、さすがに敵方の将兵は陣をでてこなかったが、お互いに相手の存在を無視して参詣し、遊女町で遊んでいた。ここには、戦というものが存在しない、いわゆる中立地帯となっていた。

 

「一年を超す籠城にもかかわらず諸兵に困窮の状はない。これは皆が一致協力してきた力である」

 御屋形は豪語していたが、尼子に属する周辺の武将は、

「温湯城危うし、このままでは、開城におよぶこともありえる」

 との羽書(急使)を尼子晴久に届けていた。

「今これを助けなければ石州はすべて敵に降参する」

 尼子晴久は、傘下武将の兵を集め雲州富田月山城を出発した。

 随従する兵には、まず、

 出雲の国から三澤三郎左衛門、三刀屋彈正左衛門、広田入道、馬場尾張守、

 伯耆の国に小鴨掃部助、小引彈正少弼、福頼治部太輔、同彌四郎、

 美作に兩齊籐、葦田民部太輔、市五郎兵衛、玉串監物、

 石見の本城越中守常光、同太郎兵衛、

 尼子譜代の亀井能登守、佐世伊豆守、河本彌兵衛、牛尾遠江守、同太郎左衛門、同三河守、同豊前守、同彈正忠、屋葦右兵衛、河副美作守、黒正甚兵衛、卯山飛騨守、森脇長門守、横道石見守、同兵庫助、同源介、高尾縫殿允、同右馬允、立原備前守、同源太兵衛、秋山三郎左衛門、同伊織助、熊野備前守、同兵庫助、多胡左衛門尉、同兵庫助、湯信濃守、同佐渡守、平野又右衛門、眞木宗右衛門、中井駿河守、同平蔵兵衛、三刀屋蔵人、大西十兵衛、本田豊前守、飽浦伊豆守、赤穴右京亮、その総計一万八千余騎となった。

 尼子晴久を大将とする温湯城救援隊は、六月二十三日(新暦七月八日)に先陣が出発し、後陣は順次追及していった。

 七月五日(新暦八月十八日)、救援隊は、江川を隔てて陣を張った。

 尼子家四ッ目結の旗三十流が本陣に翩翻としている。違鷹羽、流車、片輪車、一頭ノ右巴、三頭左巴、竹に雪、小篠の雹、輸違、杏葉、酢漿、二本杉、中黒、中白、菊水、三本笠等諸家家紋の旗が次々と到着し、周辺の山を埋めて行く。

 温湯城に籠る将兵と周辺の援軍が掛け合う鬨の声が

「エイエイ」

「オーッ」

「エイエイ」

「オーッ」

 鯨波となって地を揺るがす。

 尼子勢は、琵琶頸山に陣を置くと定めた。しかし、この山は「四方嶮難にして地の利がはなはだよい、敵が陣を置けば容易に切り崩し難くなる」と考えた元就が、すでに城郭を構えていた。

「それなら、河上(かわのぼり)の松山城を切り崩し、彼の地を本陣と定め、その後、舟を並べて筏を組んで江の川を渡り一戦する」と決定した。

 

 七月十四日(新暦八月二十七日)、中国山地の山なみを縫うように白龍が臥している。江川特有の雲海である。

 その霧の中を無数の幟が動き出した。目標を変更した総軍一万八千人が鬨(とき)を作って松山城へ切りかかった。この城には福屋隆兼の選兵六百余がいて、尼子勢を真近く引きつけ、はげしく射立てた。さらに、寄せ手が怯むところを得たりと突いてでたため、尼子勢数人が討ち取られた。尼子勢も福屋方の森脇右馬ノ允、多喜九十郎、志和大和守をはじめ数多く討ちとった。

 攻めればこの城たやすく落とせると見えていたが案に相違して堅固であり、びくともしない。

 尼子勢は攻略をあきらめて鷹取山へ引き上げた。櫓をあちこちに構え、かがり火を隙間なく焼かせて陣を固めてから、いかにして小笠原を助けるかを議論したがなかなか結論がでない。ともかく、江川を渡って一戦すべきと一決したときには、いたずらに五日がすぎていた。

この日、江川は降り続く集中豪雨のため水かさが増し濁流となっていた。

 尼子勢は渡河できず、無為に日数を過ごさざるをえない。

 これを見た芸州勢の若武者が対岸で、扇を上げて招き、

「小笠原後詰のため遠くから御出張していながら戦を一戦もせず見物しておられる。ここを渡りたまえ」

「止々と日数を送っておられる」

 などと、大声でからかう。

「日本第四の河だ。舟がなくてはいかにして渡ることができよう、浪の浮沓も持っていないので、寄せることができないではないか」

 雲州勢が答える浪の浮沓とは、馬で川を渡るときに、馬の横腹に取り付けた浮き輪のことである。

南北朝争乱で足利直冬の下知に従って佐波善四郎の籠っている三高城を攻めたとき、毛利小太郎、高橋九郎左衛門らが渡った話を知らないか」

太平記の件まで引き合いにだしている。

「渡れるものなら渡ってみろ。ただ、手綱さばきのうまい人々を渡してくれ」

芸州勢がからかって手招きをする。

 雲州勢は、言葉戦に負けて口惜しがっていたので、

「敵の言うとおり毛利、高橋も渡れるものならば渡ろう」

 本城太郎兵衛、牛尾太郎左衛門が、川に入ろうとしているところを、卯山飛騨守、河副美作守の二人が、

「あの濁流とど巻く大河を舟で渡ろうとしても危ないのに、馬にて渡ろうとすること、まことに石を抱えて淵に入るようなものです」

 しきりに制し止めたので、二人の者も怒りを押さえてとどまった。

 

 七月十九日(新暦九月一日)、尼子晴久はいたずらに河を隔てて対陣していても手立てがないと、鷹取山を引き払い、大田まで引き下がった。

「江川の濁流は、四、五日もすれば普通の流れに戻る。それを待つこともなく退いてしまった。もはや、小笠原を見限ったのだ」

 御屋形は、もってのほか弱り、はげしく落胆した。

 頼みにしていた尼子が(救援)に来てくれたけれども何もせずにいてしまって、それ以後は、救援に来てくれない。

―なぜ。

 明尊には理解できない。尼子が手を引けば小笠原は、毛利に屈すること明白だ。そうなれば、他の国も次々と毛利に侵食される。

 最早、尼子は、小笠原を捨てたのだ。

 さすがに剛勇の御屋形も抵抗する力を失っていた。

 戦局は窮迫している。前途は暗い。

「大変なことになった。小笠原勢は抹殺される」

 城内が恟々とした有様となり、足軽らの脱走が増えている。

 元就は血の粛清で毛利を統率してきた。大永四年(一五二四)に尼子氏重臣の口車にのって元就を排除しようとした異母弟相合元綱を誅殺したことや、三十年にわたって忠を尽くしてきた重臣の井上元有一族三十名を血祭りにあげたことなどからも分かるように、元就のやりかたは冷酷無情だ。将兵の顔から生気が消え、暗く不安な様子となっている。

 もはや、武力でもって敵を退けることは不可能だ。

 雑兵らは、他人の面前でも沈痛な面持ちを隠そうとしない。

―今は、死にたくない。

 明尊は、生まれたばかりの嫡男とさよのためにも生きたいと思っている。

―このうえは、降人となって小笠原家の存続を図るべき。

 小笠原長雄は、考えた。

「当城を明渡し、石州攻略の魁を勤めますので所領は安堵していただきたい」

 旨を小早川隆景に伝えた。

「これほどに取り詰め、そのうえに小笠原の援軍尼子勢は、既に退いている。あと三、四十日攻めれば落城する。石見退治の見せしめにすべきである」

 吉川元春は、降伏の申し入れを拒否するよう主張した。これは、温湯城に籠城している小笠原軍団の殲滅すなわち、皆殺しにすべきであると言っているのである。当時、一族郎党すべてを殲滅するということはめずらしいことではなかった。大永元年九月(一五二一)に尼子経久が今井城で都治氏を滅ぼしたのも殲滅戦であった。今井城に籠城していた将兵百九十八名が死んでいる。五十六年前の明応三年(一四九四)に福冨治堅死去の虚をついて、今井に寝返った福冨の旧臣雀部重郎左衛門ら六人の一族もこのとき絶えた。以後、尼子経久に敵対する者はいなくなった。

「先年、尼子を富田月山城に攻めて大敗し、吉田へ引くとき、小笠原長雄の助力があったからこそ無事に帰りつくことができた。弾正(小笠原長雄)の武勇にかなう者はいない。味方にすべし」

 元就は、御屋形の一命を助けた。

 永禄二年(一五五九)八月、ついに、温湯城を開城した。

 所領については、

「江川以南を没収し、その代わり福屋隆兼の領のうち井田、波積の領地を割いて小笠原長雄に与える」

 旨の返答があった。

 御屋形は非常に喜び、八月九日に城を退去、甘南備寺に入って謹慎した。

福屋隆兼には、「邇摩郡のなかから倍に加増して与える」としたが、福屋隆兼はこれを不服とし、毛利に叛旗を翻すこととなる。

 

 同じ頃、尼子方須佐高屋倉城の本城越中守が五千余騎を率いて芸石の通路を塞いだ。 このため銀山は孤立し、糧食も乏絶した。元春の命により麾下の武将二宮杢助俊実に率いられた十八名が、城内への糧食搬入を成功させたが『焼け石に水』程度のものでしかなかった。

 小笠原救援に失敗した尼子晴久が大田に転戦して、先遣隊を川合に送り銀山の兵糧攻めを強化した。このため、山吹城はますます飢餓に陥った。

 毛利元就は、事態を重視して自ら北池田まで出陣し宍戸隆家、山内隆通、佐波隆秀ら一万の兵力で尼子勢の撃退と城内への糧食搬入を図った。

 両軍は九月に忍原で激突したが毛利軍中堅を務めた備後勢が尼子方の側面攻撃を受けて退散したため、毛利方の先鋒石見勢が死傷者数百人を出して退却した。これを毛利の忍原崩れといわれる大敗であった。

 救援軍失敗により山吹城将刺賀長信と高畠遠言は尼子方温泉津城主湯惟宗を介し自分たちの自刃を条件に和議を申し入れた。

 二人は、温泉津海蔵寺において壮烈な自決を遂げた。

 当時の切腹には介錯人がつかない。刺賀長信らは割腹して手で取り出した内臓を天井に叩きつけて絶命した。

 毛利方の大敗により、尼子晴久が銀山を領し、本城越中守に山吹城を守らせた。

 尼子晴久は小笠原は失ったが、待望の銀山を手に入れたのである。一応の成果はあったとして、引き上げて行った。

 

 九月、明尊は一年半ぶりに四ッ地蔵城に帰ってきた。

 城も知行地も無事だった。

 すでに秋になろうとしている。田んぼの稲は黄金の輝きを増しつつある。

 すべてが、なにごともなく平穏であった。

「吉川さまには、挨拶にいかねばなるまい」

 吉川和泉守経康は殿村から福光村へ城を移したばかりである。

 明尊は、さっそくに物不言城(ものいわずじょう)に出向いて、お礼を言上することとした。

「福屋隆兼は、井田、波積の領地を受け取りに来た小笠原と小早川の家臣に兵を向けて馬物具を剥ぎ取り追い返すという暴挙にでた」

 ということを聞いて、福屋氏への挨拶は止めた。

― 福屋氏も短慮なことよ。

 明尊がつぶやいた。